Le Monde
戦争と平和、レトリックの死(機能低下)
2003.3.21
ルモンドに「レトリックの死」と題する良い論文が掲載
されています。言語学者が書いたものですが、ブッシュのみならずシラクもレトリックに問題があったとするもの。レトリック不在の日本にいると、いろいろ考
えさせられる論文です。
(訂正)2003.3.19
の抄訳でブラジルの人気作家パウロ・コエリョを「パウロ・コエロ」と表記してしまいました。イベリア系の言語のエライ人から指摘があった。散人はポル語は
出来ないのです。お詫びして訂正。
POINT
DE VUE
Guerre et paix : des rhétoriques
défaillantes,
par Jean-Henry Morin et Louis de Saussure (2003.3.20)
戦争と平和、レトリックの死(機能低下)
ヨーロッパおよび世界の世論と相当好戦的なアメリカの
世論の亀裂は、事態の認識の相違によるものだけではない。それは同時に、専門家であり有能であるところの政府がいうことをそのまま受け入れるかどうかと言
う、ある種のレトリックに対する(彼我間の)受容性の相違によるものである。
20世紀の大きな全体主義国家ではこの種のメカニズム
が多用された。これは重要な点に於いて、ブッシュ政府がいま使っているやり方である。ブッシュは権力を持つものの立場に固執し、事実と理屈に基づく議論を
しようとしない。権力が自分の立場を築いているというだけの理由で、危険な外敵が本当に存在するのか幻想なのかには関係なく、国民に無条件で国家に対する
忠誠を示すように求めるのである。
全体主義国家に於いては、事実のねじ曲げを行い、それ
を個人に受け入れさせる。勝手な理由付けのもとにカリスマ的な権力者が提示する考えは、常に正しくて頭のいい考えであり、全世界に受け入れられるものでな
かったにせよ他の連中が言っているよりも遙かに良質のものであり、個人として受け入れるべきだというのだ。
このような超能力のある指導者というイメージは、時と
して神格的なものとなる(スターリンや、ヒットラー、ホーチミン、毛沢東などを思い浮かべるといい)。根本的なところで、当時から明確に明らかになってい
ることだがレトリックと言語学的に特徴的な、特別のメカニズムがある。あいまいな議論を本心を隠した形で甲高く繰り返し、傘にかかって権威を主張し、欺瞞
的で道徳的に疑問があるような提案を、ラウドスピーカーやスローガンを通じて、明かな権威があるものとして国民に提示するのだ。
この(全体主義)レトリックに対して、ヨーロッパの戦
後教育は生徒に批判精神を学習させることで対応しようと努力してきた。幸いにして今日までそれは続いており、事実「あんなことは再び繰り返してはならな
い」と我々は考えている。西ヨーロッパは、そういう風にして批判精神に基づく民主主義というものを築き上げてきたのである。これはフランスの18世紀啓蒙
時代に遡る輝かしい知的伝統である。
不幸なことに、このコンセプトを以てしてもフランス社
会は完全に過激思想と無縁でいることは出来なかった(極右のルペンのレトリックとは基本的に事実をねじ曲げて扇動するレトリックと変わらない)。しかし結
局フランスはこの古い全体主義の悪魔がやってくるのを、先の大統領選挙で80%の大差でもって阻んだのである。
アメリカに於いては事情が少し異なる。一つには伝統の
違いがある。生粋のドグマティズムによる原理主義的な宗教的主張が烈しく主張される伝統がある。もう一つはアメリカ政府のやり方である。彼等は恐ろしい敵
を操り人形のように操作して、国民の大多数が、十分な議論もせずにまた証拠も問うことなく、条件反射的に政府を信用するようにし向けるのである。
それは「政府はこう考えている」とか「政府はこういう
事実を知っている」というレトリックである。。国連とか大多数の国ではこんなレトリックは通用しない。まさに、このことが、逆説的ではあるが、アメリカは
人文学に於いてはもっとも客観的な学問を発展させたにも拘わらず、現実に対して少し疎いということにつながっている。アメリカでなされる演説というもの
は、明らかに現実と乖離したものであり、事実の裏付けとか確証書類が不十分である。アメリカの言語学者ノーム・チョムスキーがずっと前にこれを調査して明
らかにしており、全く新しいことではない。
アメリカがこの数十年にしてきた大きな紛争は、ほとん
ど例外なしに、倫理的且つ合理的に受容できうる正当付けに欠ける紛争であったという特徴がある。もちろんすべての国家は国家の理屈を多用してきたと言うこ
とでは非難は免れないが、アメリカの場合は特に特徴的である。アメリカの世論のレトリックは、神秘的なメシア的とも言える特別の感情に訴えるものであり、
人間的なものではないにも拘わらず、公式には人権のモデルであるとまで誇張されるのである。
またこれはレトリックだけの問題ではない。ある人達は
アメリカの政治経済モデル自体も全体主義的な性格を持っていると主張するが、いま我々はそこまでは言わない。それを議論するのが目的ではないからだ。
アメリカ世論で多いものは、2001年9月11日のテ
ロ攻撃はアメリカが自由の国であるが故に為されたものだとする意見である。さらにイラクが持っている原子爆弾がアメリカの東海岸に雨と降るというものがあ
る。これは漫画的であるがアメリカ政府が実際にいまマスコミで広めていることである。
この議論が現実とかけ離れたものであると信ずる根拠が
ある。アメリカが攻撃されたのは、アメリカ自身が、世界の国民全体と共有できる価値に基づいた目的を見失い、人類の利益を目的とした条約や宣言を無視し、
現実を客観的に直視せず、盲目的にその機能低下した外交政策を突き進めたおかげで中東や世界の他の地域で引き起こした深刻な対立によるものなのである。
その他にアメリカのイメージの問題もある。アメリカは
地域やグローバル世界が本当に必要とするものが明かであるのに、それとは関係なく自分の覇権だけを是が非でも追求するという紋切り型で見られているのだ。
問題は、大多数のアメリカ人はこういう分析をしない
し、多分まったくやるつもりもないということだ。アメリカの本土の大部分では(とくに「バイブル・ベルト」と呼ばれる地域に於いては)、東西海岸地帯と五
大湖地帯は別であるが、ずっと昔からインテリは悪書を読んで汚れているから彼等とは付き合わないと言うドグマ的な考え方が強い。
もちろん単純化しすぎてはいるが、こういう物事の側面
はよく目に付く。ほとんどの教会が平和を呼びかけたにも拘わらず世論のほとんどはそれに耳を貸さなかった。世論は古い「草の根共同体主義」に根ざしている
のだ。マイケル・ムーアの映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」で明らかなように暴力的な傾向も見られる。その風潮をブッシュ政権チームは頼りにして
いるのである。
こういう一派に、選挙では徐々に数が少なくなっては來
ているが、ブッシュは予防的戦争という概念を、「予防」という言葉の意味を驚くばかりにねじ曲げながら、やすやすと売りつける(自分の考えに同調して貰
う)ことが出来るのである。
アメリカ西部のシンボル的な世界で、容疑者を時として
司法裁判にかけずにリンチにしたは、このレトリックに因ってである。ブッシュが聴衆を説得しようとしてテキサスでは誰も無実の罪で死刑に処せられたことは
ないと言い切ったのもこのレトリックだ。真実とはかけ離れており、批評家は納得してしまったのか無関心だったのか何も言わなかったが、リンチはまさに予防
的な意味合いを持つものだ。
もちろんこの「オイルマン」政権は予防的戦争という言
葉のかげに戦争の経済的目的を隠しているのであるが、これこそがヨーロッパの反戦派をイライラさせる理由であり、多くの国をしてこの地域の権益を心配させ
ていることでもある。フランスとドイツの戦争反対はこの理由に基づくものでないことを期待したいところだ。
それにしてもサダム・フセインの恐怖の政治体制をを武
力介入によって終わらせることは正当な理屈であることは間違いない。
もしそういう方向で戦争を遂行するのであればその戦争
は正当性を持つ。比喩的に言うことを許して貰えるなら「治療のための」戦争と言うことが出来る。
予防的戦争というのは受け入れがたい。それは誰かを推
測に基づいて処刑するのと同じである(イラクのケースは確かめられない推測に基づく戦争と言うことになる)。
かわりにイラクの国民を、唯一の国際という名前に値す
る国際機関である国連の命令の下に解放するというなら、その戦争は倫理的な正当性を持つことになる。1944−1945年の連合国によるヨーロッパ解放と
同じである。
なぜ各国はそういう切り札を使わないのだろうか。目的
がサダムの脅威を取り除くと言うことだけの単純なものであるに拘わらずである。特にフランスがなぜイラクの武装解除に関して司法的な演説に固執したのか理
解できないところ。
フランスに於いては、最近一方的な武力介入を良しとす
る伝統が出来ている。それにも拘わらずその手段を執ろうとしなかったのは、フランスも同じようにレトリックが機能低下していると言われても仕方がないとこ
ろ。フランスは独裁体制に終止符を打つと言うことが、いかに我々の心を打つものであるかを忘れていたのである。
イラクの武装解除というのはヨーロッパや世界の人に
とってはほとんど関心のないことである。エマニュエル・トッドの「イラクは軍事的には小人である」との断定は信じる十分な根拠があることであるからだ。
我々社会が心配していることは、自由世界に住む人間が
誰もが心配していることは、「あれは二度と再び……」という感情であり、この感情はいまでもその重みを失っていない。フランスは、多分、もっと分別のある
意見表明が出来たはずなのにその機会を逸した。自国民を虐待する政権を打倒するためにやる武力介入は国際社会の義務であると主張できたのにやらなかった。
しかしこれをやることは、もちろん、政治的な賭でもあ
る。それでもこういうレトリックを使えば、人権擁護のチャンピオンであるという立場は現実のものとなり、国連は人権宣言に基づき武力介入を容認したものと
思われる。
しかしこういう姿勢は新しい世界秩序に於いてはなかな
か難しいことも事実である。しかしこの倫理に基づく主張が現在の「リアルポリティック」を少しずつでも浸食して行くかも知れないと言うことは期待できない
ことでもない。国際社会でこれを主張しなければならないのだ。細い渓流が集まってやがて大きな流れとなる。アメリカとヨーロッパの対立も未来永劫というわ
けではないし、イギリスとスペインとの溝も埋まらないと言うことではないのだ。
21世紀は確実に精神的なものが大切になる。今日、我
々の戦争拒否は決して無条件の「否」であると取られてはならない。我々は禁輸に苦しんでいるイラク国民をさらに苦しめるだけの、ペンタゴンが考えている大
規模の、外科的手術というヘンな「予防的戦争」に対して否と言っただけなのである。
しかし、もしそれが国連による独裁者の「セント・ヘレ
ナ送り」であるならば、大賛成なのである。悪に対して連帯するのだ。でもいまのやり方ではそれは出来ない。
Jean-Henry
Morin
Louis de
Saussure
・ ARTICLE PARU
DANS L'EDITION DU 20.03.03
Posted: Fri - March 21, 2003 at 10:26 AM
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