2002.3.17
視点コラム」の再開(あわせて「猫に小判」考)
「視点コラム」を再開しました。少しだけ堅い話題を取り上げます。再開第一回はご挨拶と<「猫に小判」考>と題した小論。ケインズが「流動性の罠」から脱出する唯一の手段は人為的なインフレだと論じたことを想起すべきである。
(本文はボディーにあります。
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退職して一年になる。ちょっと昔が懐かしい感じもしないではない。一番残念なことは在職当時に毎月書いていた「視点」というコラムが書けなくなったことだろう。今般、散人のホームページの中に過去の視点コラムを収録する作業を行ったが、昔の自分の文章を読み返して無性に懐かしくなった。やはり無い知恵を絞って、考え考えして書いたものだけに、愛着がある。さらに歴史記録という面もあり、今読み直してもそれなりに興味深かった。ということで、基本的には自分のためにではあるが、考えること書くことを続けてみようと考えた。あと十年生きれば、その時にもう一度読み直して見よう。その時、昔の自分の馬鹿さ加減を嗤えるぐらいに、知的に成長を続けることが出来ればいいなと思う。
再開第一回目のタイトルに、「猫に小判」と書いた。隠居の身であるから少々ふざけても怒られることはない。散人は猫が好きで人生のほとんどを猫と生活したためか、猫にかなり影響を受けた。前生は猫ではなかったかと思うときもあるくらいだ。よって猫の考えていることは相当理解できるつもりだが、それでもよく分からないときがある。いわんや普通の人には理解できない。だから猫はなにも考えていない動物だと思われ、ハウツー本には「ネコにも出来る・・・」とかのタイトルが付く。たいへん猫に対して失礼だ。
最たるものは「猫に小判」ということわざだろう。ものの価値が分からない人には値打ちのあるものを与えても無駄との意味に使われる。ネコは馬鹿だねえ、「かつお節」をやれば喜ぶが、もっと価値がある小判は値打ちが分からないのでそっぽを向く、というのだ。でも本当にそうだろうか。
小判は確かにお金としての価値があるのだけど、使用価値がある財サービスと交換できることではじめて値打ちがあるわけで、小判も「かつお節」と交換してはじめてメリットが出てくるということが大切。でも時として人間はそれを忘れ、小判自体を保有したいと並外れた情熱を注ぐことがある。でもみんながそれをやり出すと不況になる。猫の方が頭がいい。
現在の日本の不況でも同じ現象が見られる。不況がデフレを加速させ、貨幣を保有しているだけで貨幣の実質価値が増加する時代だ。そういう状況では誰もお金を使おうとは思わない。人々は投資したり消費したりして自分の保有する貨幣を現実の価値「かつお節」に代えることに消極的になり貨幣のままで保有しようとする。それが更に不況を悪化させる。
こういう状況に対する処方箋をいち早く提起したのがケインズであった。ケインズは『一般理論』において「人々がみんな月をほしがり、月が一つしかない場合、人々は失業する。そういう場合は月の代わりにまるいチーズを大量生産して人々に(月だといって)与えるしかない。中央銀行が文句を言えば国有化するのだ」と書いた。もちろんケインズの言う「月」とはお金のこと「まるいチーズ」とは増刷された紙幣のことである。ケインズが「流動性の罠」と呼んだ状況に置いては、今も昔もインフレ政策でしか不況からの脱出は出来ないのである。数十年前から指摘されていることで、それ程難しい理屈ではない。
日銀の量的緩和の是非をめぐる議論がこの二三年続いていたが、ようやく日銀は昨年の春より金融緩和の方向に舵を切った。量的緩和をはじめているのである。一大決断であった。いまだに「インフレターゲット論の是非」について議論をする人を見かけるが、いささか過去の議論である。いまや大勢は決しているのだ。実体経済に影響を及ぼすまでには時間がかかろうが、日本はゆっくりと量的緩和による不況脱出の方向に進みつつある。これを間違えてはならない。その認識のもとに、量的緩和に伴い不可避的に起こるインフレと円安への対応を、今から準備しておく時期に来ているのである。
最後に近況報告。隠居生活の自由気ままさはとてもいいものです。ときには気の毒がられることもありますが、そういう人にはこのありがたみは「猫に小判」なのでしょうね。余丁町散人(橋本尚幸)
Posted: Sun - March 17, 2002 at 03:10 PM
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