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松井須磨子自殺(1919)……自殺事情いま昔
きょう松井須磨子自殺(1919)。松井須磨子については脚注をご参照願います。お墓は弁天町の多門院にある。小さいけれども趣味のよいお寺。この日同じ牛込に住む荷風は何をしていたのか『日乗』で見てみると「八重福との情交日を追うに従ってますます濃なり。多年孤独の身辺、俄に春の来れる心地す」といい気なもんです。
大正の人はよく分からない理由で自殺をした(いまの自殺は経済的な理由が多く分かりやすいけど、当時はなんか高尚な理由で死ぬ人が多かったみたい)。現代日本では自殺者数がすごい水準で推移している。ここに詳しい。特に高齢者の自殺が多い。経済的理由もあろうが、闘病に疲れた人が多いのではないか。高齢者の場合、病気を治すことより病気の苦しみを軽減することに治療の重点が置かれるべきだと思う。(脚注)松井須磨子 マツイスマコ(電子ブック版「日本百科全書」により引用)(1886—1919) 女優。本名小林正子。明治19年3月8日、長野県松代(マツシロ)に生まれる。17歳のときに姉を頼って上京、初婚に破れてのち、東京俳優学校の英語教師前沢誠助と再婚。1909年(明治42)に文芸協会演劇研究所第一期生となり、演劇に専心するため離婚した。11年5月、帝国劇場での文芸協会第1回公演『ハムレット』で演じたオフィーリアは予想以上の評判をとり、ついで同年9月、文芸協会試演場での本邦初演の『人形の家』(イプセン作、島村抱月(ホウゲツ)訳・演出)におけるノラは、まさに新しい女優の出現を思わせるもので、同年11月の帝劇での同劇の公演は彼女の名声を決定的なものとした。翌年の『故郷』(ズーダーマン作)のマグダの演技も好評だったが、抱月との恋愛が文芸協会の厳しい戒律に触れて退会を余儀なくされた。13年(大正2)、協会幹事を辞した抱月とともに芸術座を組織し、以後数年間、『モンナ・バンナ』『復活』『サロメ』『カルメン』『闇(ヤミ)の力』などに主演。とくに14年の帝劇公演『復活』(→→トルストイ原作)は、劇中の主題歌「カチューシャの唄(ウタ)」とともに大ヒットし、彼女の人気は大衆の間にも高まり、一方では中村吉蔵(キチゾウ)の『飯(メシ)』など創作劇における演技でもかなりの評価を得た。18年11月に抱月がスペイン風邪(カゼ)で急逝すると、須磨子は翌年(大正8)1月5日、芸術倶楽部(クラブ)の舞台裏で縊死(イシ)し、その後を追った。32歳。〈松本伸子〉
【本】河竹繁俊著『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』(1966・毎日新聞社) ▽戸板康二著『松井須磨子』(文春文庫)
(初出:2003.1.4)
Posted: Thu - January 4, 2007 at 10:47 AM
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