3/10 Today 東京大空襲、偏奇館炎上 (1945)……荷風はその夜をどう書いたか?


一夜にして死者10万人以上。永井荷風の偏奇館も炎上。当日の『断腸亭日乗』の記述はまさに名文。

この日の『断腸亭日乗』:
三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり、谷町辺にも火の手の上るを見る、又遠く北の空にも火光の反映するあり、火星は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ、余は四方を願望し到底禍を免るること能はざるべきを思い、早くも立迷ふ煙の中を表通りに走出で、木戸氏が三田聖坂の邸に行かむと角の交番にて我善坊より飯倉へ出る道の通行し得べきや否やを問ふに、仙石山神谷町辺焼けつつあれば行くこと難しかるべしと言ふ、道を転じて永坂に到らむとするも途中火がありて行きがたき様子なり、時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通りに出で溜池の方へと逃がしやりぬ、余は山谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙公使館側の空地に憩ふ、下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇るを見る、荷物を背負ひて逃来る人々の中に平生顔を見知りたる近隣の人も多く打ちまぢりたり、余は風の方向よと火の手とを見計り逃ぐべき路の方角をもすこし知ることを得たれば麻布の地を去るに臨み、二十六年住馴れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かさむものと、再び田中氏邸の門前に歩み戻りぬ、巡査兵卒宮宅の門を警しめ道行く者を遮り止むる故、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、隣家のフロイドルスペルゲル氏褞袍にスリッパをはき帽子もかぶらず逃来るに逢ふ、崖下より飛来りし火にあふられ其家今まさに焼けつつあり、君の家も類焼を免れまじと言ふ中、わが門前の田島氏そのとなりの植木屋もつづいて來り先生のところへ火がうつりし故もう駄目だと思ひ各その住家を捨てて逃来りし由を告ぐ、余は五六歩横町に進入りしが洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒煙風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定ること能はず、唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ、是偏奇館樓上少からぬ蔵書の一時に燃るためと知られたり、火は次第にこの勢に乗じ表通へ焼抜け、住友田中両氏の邸宅をも危く見えしが兵卒出勤し宮様門内の家屋を守り防火につとめたり、蒸気ポンプ二三台來りしは漸くこの時にて発火の時より三時間程経たり、消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず、火は表通曲角まで燃えひろがり人家なきためここにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり、

驚く程冷静で正確です。ちなみにこの日空襲が始まったのは午前0時8分。荷風は偏奇館が焼ける中で愛宕山に昇る繊月を見ているが、暦で調べると1945年3月10日の月出は午前3時8分(方位115度)で、月齢は25.4日だった。まさに下弦の繊月(細い月)で。方位115度もスペイン大使館から見て愛宕山の方角。時間も正確。阿鼻叫喚の中でこれだけ冷静で居られた永井荷風という人物はやはりただ者ではないのです。


『断腸亭日乗』は磯田光一の「摘録」版で簡単に読むことも出来る。
摘録 断腸亭日乗〈上〉
永井 荷風 磯田 光一
岩波書店 1987-07


by G-Tools
摘録 断腸亭日乗〈下〉
永井 荷風 磯田 光一
岩波書店 1987-08


by G-Tools

(再掲載エントリー)


追記:つくづく思うが、戦争を始めるのはいつもイナカのウヨ。戦争の最大の被害者はいつも都市住民。捕鯨妨害をする不埒な輩は「撃沈しろ!」と現職政治家が発言しているが、ああいうイナカ利権集団のためだけのナショナリズムに煽られていては、國が滅びる。

Posted: Mon - March 10, 2008 at 10:00 AM           |


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