「電柱・電線がない整然とした街並みはよそよそしい」(白幡洋三郎)
今晩の日経「あすへの話題」で白幡先生が先生らしからぬ「迷言」を。電線・電柱を都市景観の観点から攻撃する人が多いが、これは「西欧基準」であって、京都の祇園はやはり電柱と電線がないとつまらないと言われる。これを読んで大満足する「ニッポンイスト」の顔が目に浮かぶが、散人みたいな「ニッポン伝統文化大好き人間」から見ても、電柱と電線は、やっぱりみっともない。伝統の「美しい日本」に回帰するためにも、電柱と電線は撤去するべきである。
先生にお聞きしたい:- 電柱と電線がない街並みは「西洋の基準」であると言われるが、昔の日本に電柱と電線はあったのか。江戸時代の祇園にも電柱があったのか。それは昭和の祇園の話しじゃないのか。
- 電柱・電線がないシンガポールは「脱亜」の街で外観的には美しいが内側から生まれた美しさではないと言われるが、おっしゃるような「猥雑」とするアジアの街には昔から電柱と電線があったのか。
- 電柱と電線の撤去を日本人がやろうというのは「日本は遅れたもの、克服すべきものとする考え方から」だとおっしゃるが、電柱と電線こそが「西洋模倣」の結果生まれた都市景観ではないのか。永井荷風や夏目漱石のような明治の江戸趣味人達が「新東京」の電線と電柱を憎悪したことを覚えておられるか。
ニッポンから電柱と電線を完全に撤去するのは、途方もない大事業だ。自分が生きているうちには実現不可能だろう。でも人間には組み込まれた「自己防衛システム」があるようで、海外から帰ってきてニッポンの電線の醜悪さに驚倒し鬱病にかかる人たちも、二週間もするとそれを忘れる。それは「自己防衛本能」から来るもので、脳神経の中に視界から不愉快な電線を消去するメカニズムが組み込まれているからだとする説を聞いたこともある。だからといって、ダチョウのように砂の中に頭を突っ込んで電柱と電線を「自分的な視界」から撤去して、後は「自己満足」というのは、あまりに悲しい。嫌な臭いにも人間はすぐ慣れるものだ。でも、その悪臭こそが「ニッポン文化」だと言われても困る。白幡先生は良いこともおっしゃっているのに、残念。白幡洋三郎の関連記事:「日本食にホンモノとニセモノがあるとする議論はおかしい」(白幡洋三郎)
10/9 Today シーボルト事件 (1828)……曲者プラントハンターだった?
Posted: Tue - April 17, 2007 at 07:24 PM
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