NHK「ひるどき日本列島」と国語教育
週日毎日昼休みにやっている「ひるどき日本列島」は地方の田園的な生活ぶりを楽しく紹介する番組で、それなりに楽しいのであるが、前から感じていることが二つある。ひとつはその政治的(自民党的)メッセージのあくどさであり(これについては今回触れない)、もう一つはインタビューアーのアナウンサーが使う日本語の貧弱さである。これは何によるものか。
この番組はNHKの各地方局が担当しており、アナウンサーも経験不足の若い人が多く、ご愛敬といえばそれまでなのであるが、ほとんどの場合、本人だけではしゃぎ回っているとの印象で(特に女性アナウンサー)、相手に対する質問が全く練れていないのである。だからまことに意味のないやり取りだけが延々と続き、雰囲気が分かれば難しいことはいいじゃんといった調子でお茶が濁される。インタビューされる相手も紋切り型の発言しかしないのが普通で、やたらとすぐ食べる場面にばかりもっていく。まああれはあれでいいのかとも思っているが、きょうの番組で海外留学生であるインド人の少女が出てきてインタビューに答えたのであるが、驚いた。まことにピッチとした話しぶりで、理路整然としてオチまであり、番組の雰囲気からきわめて遊離していたのが印象的だったのだ。この背景には彼我の言葉に対する考え方の違いがあるように思える。
日本の学校教育では「国語」はあくまでも「国語」であり、生まれた時からみんな話せるものと考えられており、特別に「日本語を習得する」という点については力点が置かれていない。ところが諸外国では、かりに自国語であっても、学校においては自国語を「いわば外国語として」修得するという授業が行われるようだ。徹底的に文法と語彙をたたき込み、文章を暗唱させる。そのため自国語の授業は「国語」とは呼ばず、中南米では「スペインの言葉(エスパニョールまたはカステリャーノ)」と言うし、米国でも「イギリスの言葉(イングリッシュ)」という表現が使われる。暗記しなければ覚えられないものというニュアンスである。演説の名手であるクリントン元大統領のスピーチは、即興スピーチであってもまさに書き言葉そのままである。
これが一番徹底しているのがフランスだろう。フランスは多民族国家であり、国内では様々な少数言語使われている。また各地方地方で独特の方言(パトゥア)があり標準語とは相当異なるものだ。パリ近辺の首都圏ですら日常言語と家庭外で使う言葉は別のものに近い。フランス語とは一種の人工的に作られた「書き言葉」であるといってよい。その書き言葉をすらすら喋ることが出来るようにするのが学校教育なのである。トルシエ監督のもったいぶった話し方がそうだ。あれこそ学校で習ったフランス語なのだ(篠沢秀夫の表現)。この人工的な書き言葉を覚え、それを使って思考することが、とりもなおさず「文明」の修得であると考えられている。フランス人の定義とは畢竟「フランス書き言葉」をしゃべれる人間と言うことに他ならない。
ドーデの名作『最後の授業』はプロシアに占領されたアルザスの小学校での最後のフランス語授業の様を描いた短編だが、上記の背景を理解しなくてはわからない。長く我が国においてはあれは「母国語を奪われた国民の悲しみ」という風に解釈されてきたが、それは完全に間違った解釈である。現に最後の授業を受けているアルザスの少年たちはフランス語がまだ充分に話せないのである。母国語からではなく「フランス文明圏から隔離されることの悲しみ」と理解しないと状況が分からなくなる。
ともあれ、日本に於いては「日本語」は文法と語彙をひたすら暗記して習得しなければならないものであると認識は薄いように思われる。それが特に話し言葉において日本語を貧弱なものとしている。誰も橋田壽賀子ドラマのような凝った日本語を話さない。難関を突破してNHKに入局したアナウンサーも、充分訓練を積むまでは芸能タレントのような話し方しかできないのも、宜なるかなである。
Posted: Mon - August 11, 2003 at 03:01 PM
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