日記-2004年6月18日-


雑事に終始した一日。忙しくなると24時間どころの騒ぎではなくなるので、こういう一日も必要なんだけど。
カメラはMacに繋がれたまま写真データの吸い出しに延々と。これじゃ撮りにいけない。ストレス。
仕方ないので、以前撮った写真を加工してひたすら待つ...待つ...待つ...。以下、瞑想モードで。

ここ数日の実験的撮影で学んだこととして、やはり写真には「情報の集約」と「驚き」の二つの側面のバランスが不可欠。「情報」とは場所、人、モノ....レンズの向こう側にある被写体を総称して言っているのだが、被写体が何であるか?というコトは当たり前のことだけれど、やっぱり非常に重要だ。例えばスポーツの試合であれば、それがどんな試合なのか?選手が誰なのか?どんな局面で撮影されたものなのか?といった付帯情報をどれだけ一枚に織り込めるか?というコトだ。「驚き」という部分については、誰もが目にする当たり前の現実との遊離であって。人の既成概念を刺激するコトを総じて言っている。これはアート的側面からのアプローチと、報道写真的側面からのアプローチとがあるのだけれど。「驚き」というと、写真週刊誌の暴露写真が思い出されるが、アートにおいても同様である。やはり、人の記憶に残る写真というのは、パッと見た瞬間の「まさか!」とか「え!」とか言う感情を引きだすものだと思う。
 
では、実践としての「情報の集約」と「驚き」を満たすにはどうしたら良いのか?広告系のプロカメラマンを例にとってみると、彼らは僕らが普通使っているようなレンズは使用していない(用途にあわせるってこと)。また、相当数シャッターを切る。スタジオも使用するし、ライティングもしている。屋外であればレフ。そしてフィルター。まして、被写体がプロのモデルだったりする。これは職業としてカメラマンを行っているのであって、「情報の集約」と「驚き」の二つを「当然」確約&保証しなければならないからだ。
 
カメラマンそれぞれの個性の話は省くとして、ここで判ることとして、思い描いたビジュアルを現実のものとするためには技術と知識が必要なことが判る。もちろん経験もあったほうがいいだろう...。
 
なんでこんなコト(しかも当たり前のコト)を色々考えるかというと。動画とは環境が全くに異なるのということなのだ。
動画は現代においては当然のように音を伴うものである。故に、誤魔化しが相当に可能である。上手下手の差が実に見えずらい。
また、コストの問題もあって、被写体側の問題など、要素が複雑に入り組みすぎている。
 
表現者の一人としての僕は何とかして自分という人間の存在意義を発見したいと日々もがいていて。本来の映像というフィールドにおいて、その機会を虎視眈々と狙っているワケなのだけれど、なかなかそれは実現しない。写真はそんな僕にとって、唯一パーソナルにしてプライベートな表現を許してくれそうなメディアなのだ。


Posted: 金 - 6月 18, 2004 at 10:12 PM