ケータイ奴隷


 所用で地方のローカル線に乗った時のこと。座席がほぼ埋まっているぐらいの乗客数で、都内で言えば空いている方だ。
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夕方だったので高校生や大学生が多く比率は6割強といったところ。残りは社会人と呼べる年代の人たちだ。

最初はそれに気づかなかった。しかし、しばらくして何か違和感を覚えた。

それは何なのか?

実は携帯電話だったのだ。その車両にいる30人か、40人か分からないが、mojo以外の全員が携帯電話をいじっていたのである。本当に全員だ。

なんだかゾッとした。

それがメールなのか、ゲームをしているのか、あるいは買い物をしているのか分からない。でも、彼らの目は携帯電話の画面を見つめ、指先がボタンの間を跳ね回っていた。

携帯電話をいじっていない自分に「なぜ?」と訊かれそうな気さえした。

電車だけではないのだ

しかしこの違和感は、この電車に乗るまでもなく、すでに日常で感じていたもの。

駅までの道を歩けば、たいてい数人は片手に携帯電話を持って画面に見入っている人に会う。

男も女も、おっさんもおばちゃんも、そして子供も。みんなうつむき加減で画面を見ながら、キーを操作している。

もちろん彼らは立ち止まっているわけではない。歩きながら、ひどいのになると自転車に乗りながら携帯電話をいじっているのである。

先日は、その中に妊婦がいた。携帯電話を見ながら歩いている。

人にぶつかりそうになる。それでも見るのをやめない。アホか、と思う。自分の体もお腹の中の子供も携帯電話より価値がないというのか?

歩いている時でさえ、彼らはあの小さな機械が気になってしょうがないのである。

機械の向こうには、そんなに魅惑的な世界がっているのだろうか?

携帯電話は悪魔の発明だったのか?

エレクトロニクスは嫌いではない。むしろ好きな方だろう。インターネットも同じく。だけど、自分を含めその進化に人間がついていけてないような気がするのだ。

以前、テレビで高校生から、携帯電話を取り上げてしばらく触らせないという実験をしていたのを見たことがあるが、彼らの多くはとたんにソワソワしだした。中にはその状態に1時間もガマンできない連中もいた。

困惑し、いらだち、粗暴になっていく。

携帯電話は、彼らにとって一種の安定剤なのか。まるで携帯電話に操られた奴隷のようだ。

どんどん便利になって、いろんな機能が追加され、できることが増えてきた携帯電話。

だけど最近、携帯電話は悪魔の発明だったのかも知れないと、ときどき思ってしまうのだ。

思えば携帯電話がケータイと呼ばれるようになった頃から、だんだんおかしなことになってきたような気がする。

そしてパソコンを知り、それから携帯電話を持つようになった世代と、最初から携帯電話を持つ世代とは、同じ携帯電話でも明らかに違うものとして認識している。

同じインターネットでも、携帯電話だけで完結するものと、mojoの認識しているものとはまた違う世界が存在するのだ。

便利が人間をダメにする

今はあらゆるもののハードルが低くなっている。あるいはなくなっている。その始まりが携帯電話なのかも知れない。

携帯電話がなかった頃には、たとえば彼女をデートに誘うにも、自宅に電話をかけたら親が出たりして、けっこう気まずい思いをしながらも、なんとかその"関門"をくぐり抜けていた。

携帯電話の場合は直接相手と繋がるから、そういう関所がなくなってしまうのだ

障害が少なければ少ないほど、堕落していくのが人間である。人の意識なんてそんなに強くないから、ラクな道があればそれを選んでしまうだろう。

iPhoneが発売されたらどうしようかだの、やっぱりiPodtouchでもいいかな、などとと言っている者が語っても説得力はMacBook Airの厚さほどもないのだが、携帯電話とインターネットを包む現状には困惑している

もう我々はこの場所から、後戻りすることはできないのだろうか。

ヒマなわけでもないのに、ちょっと仕事から逃げてネットを徘徊したり、Blogをいじったりするネット奴隷が、そんなことをつぶやいているよ。

◆参考リンク

▷ITmedia +D LifeStyle:ケータイメールに翻弄される子供たち (1/3)
▷携帯電話の落とし穴

Posted at:2008年01月17日 (Thu)at 12:43 午前