気分がいいのは、もう報われているということ
1995年1月17日、家財道具の下敷きになった父を引きずり出しながら、もう二度とこんな恐い目には遭いたくないと思っていました。
ひとが自力で選択できることは、じつはそう多くありません。偶然もまた一定の確率で発生するし、そこにはなんの意味も理由もなく、ただ受け入れることだけを余儀なくされます。
一方でアメリカンドリームのような、努力すれば報われる的お話がドラマになるのは、実際は報われないことのほうが多いからです。それでも個人的には(ささやかな)努力をつづけたいと思うのは、報われるためにではなく、たぶん、そのほうが気分がいいからです。
しかし困難や障害、成功や失敗、幸不幸、運不運などに対する感受性には個人差があり、過敏なひともいれば図太いひともいます。どちらがよいとかマシとかダメというのではなく、生きていく限り、自分にあった方法を見つけてそれらと折合いをつけていくしかしょうがないよね、という話です。なぜなら事故や自然災害は理不尽に起こるものだから。
折合いをつけるにあたって、漠然と抱いていた「報われるためではなく、そのほうが気分がいいから」という想いは、ずっと以前にケント・M・キースの詩を読んで、背中を押された気持ちになりました。マザー・テレサも座右の銘にしていたと知ったときはちょっと面映ゆい気がしましたが・・・一部を引用します。
人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。
何か良いことをすれば、
隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。
それでもなお、弱者のために戦いなさい。
何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きあげなさい。
世界のために最善を尽くしても、
その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。
この詩(というか訓戒かな、そんな堅苦しいものとは思ってないけど)は『それでもなお、人を愛しなさい―人生の意味を見つけるための逆説の10カ条』として出版されています。ネットで検索すれば全文(原文・日本語訳とも)が読めますが、出版に至る不思議な経緯などもおもしろいので、興味のあるかたにはご一読をおすすめします(版を重ねているので、訳や本の内容がすこし変わっていたらごめんなさい)。
なにもマザー・テレサをめざそう、などと高い志があるのではなく、いつも気分よく、自分を嫌いにならないための指針といえばいいかもしれません。まだちっちゃな姪っ子たちに、「ぼらちゃんは報われると保証されなければ、努力しないような“つまらないオトナ”なんだ」と思われたくないだけなんです。
もちろん、たとえ善意でも方向の間違った努力は論外です。わたくし実子がおりませんので、なんちゃらのために子どもを守ろう的活動からは対象外のようなのですが、おもろいオトナであることで子どもたちから「なんや人生、楽勝やんけ」と思ってもらえたら本望です。
神戸の震災から17年たちました。東北の震災はもうすぐ1年。たいしたことはたいしたことができるひとにまかせて、できることをつづけたいと思っています、おもろいオトナのひとりとして。