【八郎 三郎左衛門 和泉守】
【直家公木像 戦災により焼失】
砥石城内で、宇喜多興家の長子として生まれる。6歳のとき尾根向こうの、高取城主島村豊後守の夜襲にあい、砥石城は落城。祖父宇喜多能家は自害し、父興家とともに、備後鞆津(福山市鞆)に逃れ、しばらくして家臣の縁者であった備前福岡(長船町福岡)の豪商阿部善定の庇護をうけ、同地にて隠れ住みます。
当時、福岡の町は福岡千軒といわれるほどに栄えており、治外法権のようなものがあったと思われます。興家は善定の娘を側室とし、後の忠家、春家に成長する異母兄弟が生まれます。
天文5年(1536)興家が病死し、善定のもとを離れ、笠加村(邑久郡下笠加)に住む、伯母の尼僧に引き取られ成長していきます。
天文12年(1543)の八月、天神山城の浦上宗景に仕えはじめ、その年のうちに播磨の赤松政祐との合戦で初陣をし、兜首をひとつ取り武功を賞され、その後もたびたび軍功を重ねたので、天文13年(1544)、乙子村(岡山市乙子)のあたりで知行300貫を賜り元服し、宇喜多三郎左衛門直家と名乗り始めました。
その頃の乙子村は吉井川の河口にあり、西の児島郡は四国の細川家に属し、北の上道郡は敵対関係にある松田氏に従い、瀬戸内海には犬島あたりの海賊もたびたび、陸に上がり民家を略奪しているありさまで三方を敵に囲まれ安定しない浦上家の最前線でした。そこで、宗景は乙子村に城を築き敵を防ごうと考えましたが、浦上家の本城天神山城から遠く守備は困難で、だれ一人城を預かると名乗り出るもはいませんでした。
その時、直家が進み出て
「私は、まだ若輩者ですが、乙子村のあたりで知行地を給っていますから何かと便宜があります。なにとぞ、この城を私に守らせてください。」
と願ったので乙子城を守ることになり足軽30人を預かり入城しました。
この頃、戸川秀安、長船貞親、岡利勝、花房正幸らが直家の騎下に加わり、力を合わせ乙子城を守っていきました。
周囲の敵は、たびたび乙子城周辺に出没しましたが、直家は勇敢果敢に防戦し、後には、乙子城から兵を出し敵地を侵略していきましたから、宗景は直家の戦功を賞して3000石の所領を与えました。
しかし、能家時代の旧臣、所領以上の兵卒を集めていましたから、いつも兵糧が乏しく、秀安、貞親、利勝らをはじめ家臣の者達はみな自ら耕作し、それを兵糧とし城内に蓄え、ときには敵地に夜盗、辻斬りのたぐいまでして兵糧を蓄えたそうです。
それでもなお兵糧が不足すれば、直家をはじめ家臣すべてが、一ヶ月に3度か、5度は失食と称して絶食し、その分を城内に蓄え出陣のときの兵糧としました。乙子城時代に艱難辛苦をともにしたことが、直家と家臣団の結束を高め、この結束力こそが直家を戦国大名に押し上げた原動力だと思われます。
浮田大和は宇喜多直家の一族でしたが、島村豊後守が砥石城を夜襲したとき、大和は内通し、砥石城落城後、その功により砥石城を与えられていました。天文14年(1545)、浮田大和が備中方に内通しているのが判明したので、宗景は直家に大和の征伐を命じ、天神山城の加勢とともに直家は砥石城を攻めますが、用意に決着がつつかず、一進一退の状態がつづきますが、天文18年(1549)の春、天神山城の宗景と協力し、両方から軍勢を出して砥石城に夜襲をかけ、不意を突かれた大和は、たちまち城を乗っ取られ、大和勢は備中をめざし落ち延びようとしましたが、宇喜多勢は追い打ちを加え大勢の首級をあげ乙子城に引き上げます。
この時、大和を討ち取ったと名乗り出た者はいませんでしたが、後で調べてみると大和も、この時討ち死にしていたそうです。
この戦功により、直家は奈良部山城(新庄山城)を与えられ、乙子城は弟の忠家に岡利勝を添えて守らせ、自身は奈良部山城に移りました。しかし、砥石城は、高取山城主島村豊後守に与えられ祖父の城に帰ることはできませんでした。
天文20年(1551)浦上宗景の薦めで上道郡沼村(岡山市沼)の沼城主(亀山城)中山備中の娘を妻に迎えることになりました。
しかし、砥石城主島村豊後守、舅である沼城主中山備中が、播磨の浦上政宗に内通しているという噂が流れはじめ、宗景も機会をみて両者を討ち取るつもりでしたが、各地の合戦に追われて遅れ果たせていませんでした。
永禄2年(1559)の春、直家は豊後守の確かな謀反の証拠を宗景に提出し豊後守を討たしてほしいと願いますが中山備中の懲罰まで命じられてしまいますが、主命に従い奇策をもって備中を討ち取り、沼城にて島村豊後守を誘殺しました。
備中の娘である直家の妻は父が直家に討たれた聞いて自害したとも尼となったともいわれ、よくわかりません。
かくして直家は、祖父能家の仇を討ち、島村豊後守、中山備中の所領の大半を加増され、砥石城は末弟の春家に守らせ、直家も奈良部山城から沼城に移りました。
邑久郡、上道郡の肥沃な土地の大半を領した直家は、浦上家でも肩を並べる者はいなくなり、次第に宗景の支配から逃れ、直家の判断で兵を各地に動かすようになっていきました。
やがて、金川城の松田氏騎下の上道郡の竜の口城主(岡山市祇園)禾+最所元常と対立するようになり、永禄3年(1560)弟の忠家を大将とし、長船貞親、延原某らを添えて竜の口城を攻略させました。元常は城を出て、竹田の河原に陣をかまえ、宇喜多勢を迎え討ち、先手の貞親らを敗走させますが、宇喜多勢も盛り返し容易に決着がつかないまま、両軍は引き上げました。その後も小競り合いは続きますが、
大きな合戦は起こりませんでした。
竜の口城は標高220メートルの山の上に築かれた典型的な山城で、峯は屏風をたてたように起立しており、用意には落とせないところから貞親は計略を思い立ち直家に進言しました。
直家は、小姓の岡清三郎(のちの剛介)に、秘命を与え、清三郎に不義密通が、あったとし家中から追放、清三郎は秘命に従い元常に仕官し寵愛をうけ、永禄4年(1561)の6月、ついに元常を殺害に成功し、沼城に無事に帰り着き元常の首級を直家に差し出したので、直家は清三郎を元服させ岡剛介と名乗らせ、手柄を賞しました。直家は、すかさず竜の口城の動揺に乗じて落城させ、上道郡の西部も手中に収めました。
西備前を支配する金川城主(御津町金川)松田氏は出雲の尼子氏の支援を受け、備中勢や東備前を支配する浦上氏と戦っていましたが、安芸の毛利氏のために、尼子氏は衰退し、直家に竜の口城をはじめ各地を浸食され、また備中方面も毛利氏の支援を受けた三村家親が、本格的に侵攻する気配を見せていましたから、松田氏の勢力は衰えていました。
この頃の松田氏の実権は元輝が握っていましたが、はやくから引退し当主は息子の元賢でした。浦上方から和睦の申し入れをうけ、元賢と直家の娘を娶せ、また元輝の娘を春家に嫁がせ,備中の家親の侵攻に備えます。
松田氏と浦上家の和睦を知った家親は備前に侵攻し岡山城(岡山市丸の内)の金光宗高、舟山城(岡山市市原)の須々木豊前を降参させ備中に引き上げました。
永禄8年(1565)家親は美作に進講し、浦上氏に属していた三星城(美作町明見)の後藤勝基を攻めましたので、宇喜多勢からは馬場職家に足軽を添えて、援軍を送りました。家親は三星城を包囲しますが、職家の活躍もあって力攻めする事もなく備中に引き上げました。
翌年、永禄9年(1566)の春、家親が再度、美作に侵攻し籾村の興禅寺(久米南町下籾)に陣をかまえました。これを聞いた直家は家中にあった遠藤又次郎、喜三郎の兄弟に家親暗殺の密命を与え、遠藤兄弟は、かつては家親の居城の近く移住していたことがあり、家親の顔も家中の者達も見知っておりましたから、陣中に忍び込み家親を鉄砲で撃ち殺すことに成功しました。当初、家親の死は巧妙に隠し三村勢は備中に引き上げていきましたから、直家も家親の死を確認できませんでしたが、やがて、家親が興禅寺で射殺されたことは世に知れましたから、直家は遠藤又次郎に1000石を与え、弟の喜三郎にも褒美を与え、その功に報いました。
家親のあとは若年の元親が継ぎ、葬儀を済ませ忌中もすぎ家親の弔い合戦をすべく、評定を開きますが、すぐさま直家と決戦すべきと力説する三村五郎兵衛と元親の成長をもう少し待ってから決戦すべきとする三村親成とに分かれ、衆議は親成の主張に決し、これを不服とした五郎兵衛は一族50余人を率い、途中、家親に厚恩を受けていた武将ら5,6人も合流し単独、直家に対して弔い合戦を挑むことになりました。五郎兵衛と彼に従う者達は討ち死にの覚悟を決め、揃って禅寺に赴き松峯和尚という禅僧から末期の一喝を受け、それぞれ法名を過去帳に記しみずから焼香を済ませ、そのまま出陣しました。
五郎兵衛勢は備中成羽から備前の国境まで進め、直家の挑戦状を送ってから、軍勢を二手に分け、一手はみずから率い釣の渡から、もう一手は矢津越えから、沼城をめざし押し寄せました。これを受けた直家は、宇喜多忠家、戸川秀安、長船貞親、小原某に3000余人の軍勢を与え五郎兵衛に立ち向かわせました。
討ち死に覚悟の五郎兵衛勢の勢いはすさまじく、数に勝る宇喜多勢も崩れるとみえましたが、忠家が側面から横から突き入ったことで、五郎兵衛は討ち取られ、宇喜多勢は盛り返し、五郎兵衛勢は全滅します。
宇喜多勢は勝利した者の小原藤内、高月十郎太郎、矢島源六、宇佐美兵蔵ら47人が討ち死にし、負傷した者は100余人と損害はすさまじいものでした。
いよいよ、備中に三村氏は備前に侵攻する兆しを見せはじめ、直家も沼城を、防備するため上道郡沢田の明禅寺山に城を築き、兵を置いて守らせました。
新しく築いた明禅寺城を、めぐって三村勢と小競り合いは繰り返されますが、馬場職家の働きもあって決着はつきませんでした。
翌、永禄10年(1567)の春、三村勢は風雨の激しい夜に明禅寺城に夜襲をかけ、落城させます。落城させた明禅寺城には根矢与七郎、薬師寺弥七郎に150余人の兵を加えて守備させ、沼城攻略に最適な城を得ます。
このあいだに直家は、三村氏に味方する備中の国境に近い金光宗高、須々木豊前、中島大炊介を内応させ、明禅寺城に降伏勧告をおこない、城攻めの気配を見せ、内応している宗高に直家が近々、明禅寺城を攻めると三村氏に報告させ、元親の備前侵攻を誘いました。
この誘いに乗った三村元親は、備中の三村勢に出陣を命じ、石川久智、植木秀長、庄元祐らを中心に二万余人を集め備前に侵攻しました。
備前に侵入した三村勢は辛川表(岡山市辛川)で軍議を開き、先陣の庄元祐率いる7000余人で、金光宗高を案内として富山城の南から明禅寺城をめざし、中軍の石川久智率いる5000余人で、岡山城の北を通り原尾島(岡山市原尾島)を抜け、明禅寺城をめざします。総大将の元親自身は中島大炊介を案内として8000余人を率いて湯泊村(岡山市湯泊)を通り、四御神村(岡山市四御神)を抜け、直家の本城沼城を狙います。
三村勢の備前侵攻のとき、直家は5000余人を率い明禅寺城を包囲していましが、斥候から報告を聞きますと、直ちに直家は兜の緒を締め馬に乗り、みずから采配をふるい、
「いま、直ちに明禅寺城を落とさなければ、我らは三村の捕虜となる。この城を、落とせば、三村勢を切り崩すことは竈の塵を払うほどたやすいことである。運命は明禅寺の落城にかかっている。者どもかかれ。直ちに城を攻め落とせ!!!」
と直家は叫び、田畑の中を一文字に駆け明禅寺城下に突き入りましたから、将兵も勇み立ち、怒涛のように攻めたてましたから、たちまち落城し、根矢与七郎、薬師寺弥七郎も討ち死にしました。
庄元祐は明禅寺城をめざし侵攻していましたが、操山(岡山市操山)付近で敗走する明禅寺の城兵と行き遭い、明禅寺城の落城を知り動揺しているところを怒涛のごとく、明石、戸川、長船、宇喜多忠家らの軍勢が、鉄砲を繰り返し、繰り返し、打ちかけ、突きかかってきましたので元祐の軍勢は崩れだし、元祐も負傷し、ついに能勢修理に討ち取られました。大将を失った庄の軍勢は総崩れとなり備中を目指し、敗走していきました。
中軍の石川久智は原尾島を越えたあたりで、明禅寺城の落城の火の手に気づき、敗走する元祐の軍勢に行き遭いましたから、進退に窮し軍議を開いているところを花房職之、河本対馬らに攻め込まれ、経山城主中島輝行をはじめ多くの将兵が、討ち死にしたので、一時は大将の久智も、危うくみえましたが、敗走する軍勢をまとめ、備中に退却していきました。
残る、総大将三村元親は四御神付近で明禅寺城落城を知り、また庄、石川の軍勢の敗走が伝わってきましたから、元親の軍勢は騒ぎ立て、全軍動揺し後軍から勝手に引き上げ始めました。さすがに元親の旗本は備えを乱しませんでしたから、直家の本陣のある小丸山を目指し明禅寺城に向かいました。
直家は元親をむかえ打つべく、軍勢を小丸山からおろし高屋村(岡山市高屋)に陣を進め、明石飛騨、岡剛介を前衛と元親に備えました。元親は父家親の弔い合戦でしたから、捨て身の覚悟で明石、岡の軍勢に切り込みましたから、明石も岡も崩れだし、直家の旗本も危うくなりましたが、庄元祐を敗った戸川、長船、忠家の軍勢が引き揚げてきて、元親の横合いから攻めたて、これに力を得た明石、岡も、盛り返し、これに直家の旗本も加わりましたから、元親の旗本も総崩れとなり備中に落ち延びました。
これが後年「明禅寺崩れ」と呼ばれ、倍以上の敵を打ち破った、直家の生涯で、一番華々しい勝ち戦でした。勝因は、直家の誘いに乗って明禅寺城を三村勢が攻め落としたために、この城を支援するため侵攻ルートが固定され、直家は数が少ない軍勢を集中することができ、内応していた、金光宗高、中島大炊介の誘導にも、助けられ、三村勢を打ち破ることができたと思います。元親は直家の手の中で、踊らせれていたと云えるでしょう。
明禅寺合戦後、備前における直家の威勢は確立し、いままで三村元親に従っていた者達が直家のもとに降参してきました。岡山城の金光宗高は、沼城に出仕し直家の騎下に属したので、直家はそのまま、岡山城を預けます。舟山城主須々木豊前も、嫡子四郎兵衛を遣わし、直家に合戦の勝利の祝いを言上させ、宇喜多家に味方となる旨を申し入れますが、直家は豊前が金川の松田勢の押さえ役を務め、敗走する三村勢を追撃をせず、いまになってから降参を願い、豊前自身が出仕しなかったのを憎み、豊前の領地を没収し、豊前は隠居、剃髪させ行連と名を改めさせ、茶領を若干与えました。嫡子四郎兵衛には、別に領地を与え宇喜多氏に仕えさせ、舟山城は破棄しました。
中島大炊介は元親の先導役を務めましたが、三村勢敗走のとき石川勢を追撃し兜首を取って、沼城の直家のもとに持参して許されましたが、明禅寺合戦で討ち死にした中島元輝の嫡子の新左衛門は大炊介が直家に降参し、敗走する三村勢を追撃したことを憎み、中島城の近くで待ち伏せ、大炊介を討ち取り備中に引き揚げました。
新左衛門に殺された大炊介の子は源三郎といい直家の家臣となりました。
永禄10年(1567)5月、備中の撫川城(岡山市撫川)を戸川秀安に命じ落城させ、同年の8月、直家は備中の攻略を命じ、宇喜多忠家を総大将とし、長船貞親、沼元房家、明石飛騨、角南隼人ら9000余騎をもって侵攻させ、三村側も佐井田城主(北房町上中津井)植木秀長、猿掛城主(矢掛町横谷)穂井田実親、三村元親らも、各地で防戦しますが、明禅寺合戦の敗北で気勢があがらず、たちまち宇喜多勢に敗られ、自分の居城に引きこもってしまいました。宇喜多勢は佐井田城を攻め、包囲しましたから佐井田城の秀長は援軍の見込みがなかったので降参し、宇喜多勢は近隣を焼き払い備前に帰りました。
明禅寺合戦の時、金川城主松田元賢は援軍を出さなかったので、直家は機会が、あれば、松田氏を攻め滅ぼそうと考えていました。
その頃、元賢は日蓮宗を信仰し、領内の寺院を片っ端から、日蓮宗に改宗させ、従わない金山寺や吉備津宮を焼き払ったので、領内の者に恨まれていました。
永禄11年(1568)7月、直家は先年、娘(妹とも)婿となっていた松田氏の重臣虎倉城主(御津町虎倉)の伊賀久隆を沼城に招き、松田討伐の相談を持ちかけ久隆も松田氏の勢力は衰退し領内は乱れ、久隆とも不和になっておりましたから、即座に承知し、松田氏の先手を務めるべく虎倉城に引き揚げました。
直家は100騎あまりを率い伊賀久隆とともに金川城を包囲し落城させ、松田元賢は城を捨て落ち延びようとしているところを直家の伏兵に襲撃され討ち死にしたようです。久隆は、この武功で多くの領地を加増され、備中方面の最前線をまかせられるようになりました。
備中、西美作に進出した直家は、毛利氏と直接、対決するようになり、永禄12年(1569)4月、穂井田(毛利)元清が、一万余騎を率い、宇喜多氏に味方する備中の諸城を攻めかかり、毛利氏の支援を受けた三村元親らは直家に従っていた佐井田城の植木秀長を攻め、救援の要請を受けた直家は一万余騎を率い沼城を発し、佐井田城の東方一里手前に陣を布き、佐井田城兵とともに毛利勢、三村勢を攻めたてますが、毛利勢の後詰めの熊谷信直、桂元隆らの軍勢が加わり宇喜多勢を挟撃しましたから、宇喜多勢は敗退し130余人も討ち取られました。直家は、いままで動きのなかった備中勢の石川、福井、工藤らを味方につけ、彼らを加え先手とし毛利勢と戦い、宇喜多勢の花房職之と毛利勢の穂井田与四郎が一番槍を合わせ、両軍入り乱れて戦いました。佐井田城で篭城していた秀長は兵糧の残りも少なく、いまこの勝機を逃しては、生き延びる道はないと城門を開いて毛利勢に決死の突撃をしましたから、毛利勢は浮足だし、直家はすかさず旗本を進め、猛攻を加えましたから毛利勢はついに敗走、三村元親も深手を負い家臣の肩にすがって退却しました。この合戦で宇喜多勢が討ち取った首級は680与級に達したそうです。
永禄12年(1569)の夏、尼子氏の遺児勝久と遺臣達は出雲、伯耆の味方を集め、美作に侵入し、高田城(勝山町勝山)を毛利氏に奪われていた三浦氏の遺臣達は、尼子勢と協力し、高田城を包囲、毛利氏は牛尾、足立、国衛らの城兵に加え、香川光景、広景、春継父子ら500騎を加え、高田城を守備させました。
独力では攻め落とすことは難しい判断し、三浦氏の遺臣達は直家に加勢を願ってきたので、長船貞親、岡剛介、沼元房家らに4000余騎を授け、加勢に向かわせました。
宇喜多勢をくえわえても、高田城は用意に落ちませんでしたが、もと尼子氏の家臣だった、熊野弥七郎、佐伯七郎次郎らの内応に成功し、熊野は兵糧倉に火をつけ、城を脱出し加わりましたが、佐伯は内応がばれ、殺されてしまいました。ともあれ、計略は成功し、城中の騒ぎに乗じて三浦氏の遺臣は1000余騎を率い高田山中へ押し寄せ火を放ち、防戦に出てきた城兵乃美修理、村間源左衛門、香川宗右衛門らを討ち取りました。その夜、伏兵をもって城兵を誘い、城内に突入しようと計画し、翌日、計画どうりに深追いした城兵を総崩れさせ、城に討ち入ろうとしますが、香川勝雄、門田継久、銭櫃佐介らが、奮戦討ち死にした隙に城兵は城に戻り、三村の遺臣勢、宇喜多勢を防ぎました。この時、寄せ手の大将三浦氏の遺臣玉串監物は、香川春継に討たれたため、落城することができず引き揚げました。
そのあと、小競り合いが続きましたが、翌年元亀元年(1570)、直家が備中に出陣することとなったので宇喜多勢は備前に帰し、花房職之に兵をつけ、祝山城を守備させ毛利勢の押さえとしました。
元亀元年(1570)、毛利方の備中勢は豊後の大友氏との戦いのため、九州に出陣しており最小限の守備兵しか残していませんでしたから、尼子の遺臣秋上綱平らは、2000余騎を率い、備中に侵攻し、尼子勝久が直家にも加勢を頼んできましたので、これを受け備中に出陣、幸山城(山手村西郡)、丸山城(?)、山王山城(上房町)を攻め落とし、降参した諸城から人質を取り、直家勢、尼子勢は引き揚げました。
元亀元年(1570)夏、岡山城主金光宗高が、毛利方に通じているとうわさが立ち、宗高の家来で後藤某という直家お気に入りの者がいましたが、罪を犯したとして宗高に殺され、これを聞いた直家は宗高を沼城に呼び、宗高の息子に所領は安堵、そのかわり岡山城は没収と約束し、宗高を切腹させました。
これは、直家が、備前、備中、美作の経営に適した岡山城を欲したための計略だととか云われてますが、浦上宗景の家臣香登城主鷹取宗政も連座し直家に殺されていますから、ほんとうに内応していたのかも知れません。直家は、戸川秀安、馬場職家に命じ、岡山城を守らせました。
このあと、毛利勢が本格的に備中に侵攻し、佐井田城などを落城させ、直家と激しく対立しますが、元亀3年(1572)、将軍義昭、織田信長の命令に応じ和睦しつかの間の平和を得ます。
翌、天正元年(1573)の頃から岡利家に岡山城の拡張修築を命じ、また城下町の一部を福岡の豪商阿部善定に与え旧恩に報いました。各地から多くの商人を招き、現在まで続く表町、奉還町の商店街の礎としたと云います。
この年の秋、直家は沼城から岡山城に移り、嫡子秀家もこの年に誕生しています。
天正2年(1574)、将軍だった足利義昭は織田信長に抗争に敗れ、毛利氏を頼り、中国探題があった備後鞆津に座し、信長討伐令を各地に放ちましたから、毛利家と織田家は対立し、二大勢力の抗争に巻き込まれた山陽の武将達はそれぞれ、毛利勢、織田勢に従う者と別れ、直家の主家浦上宗景、備中の三村元親などは織田に従い、直家は毛利氏に従うようになってしまいました。
天正2年(1574)の12月、毛利、宇喜多は協力して三村勢の諸城を攻め、毛利氏に従っていた三村の一族三村親成の案内で国吉城(川上町七地)、鶴首城(成羽町)を攻め落とし、翌、天正3年(1575)楪城、鬼身城などを落とし元親の居城松山城を包囲し、ついに天正3年(1575)五月、三村元親の居城松山城を攻め落としました。元親は城外に逃れますが、数日後自害し三村氏は滅亡します。
三村勢の最後の拠点、元親の妹の婿上野高徳が守る常山城(灘崎町)も包囲され、元親の妹鶴姫の率いる女軍の奮闘もありましたが、常山城は落城、城とともに自害しました。
余勢をかって毛利、宇喜多勢は美作高田城の三浦氏を攻め、天正4年(1576)直家の命を受けた花房職之の説得に応じ、高田城を開城し三浦氏は退去していきました。これによって直家は後顧の憂いをなくし、主家だった浦上氏と全面対決を向かえます。
天正5年(1577)、浦上政宗の孫久松丸を擁し播州勢と称し、浦上宗景の篭もる天神山城に軍勢を進め、包囲しました。しかし、天神山城は難攻不落の山城でしたので宗景の家臣明石景親を内応させ、城に火を放たせ、城内に宇喜多勢を引き入れさせました。直家の勢力は強大だったので浦上の家臣の多くは直家に従い、頼みになる者はいなかったので天神山城から逃れ播磨に落ちていったそうです。
天神山城落城後、富田松山城(備前市片上)の浦上景行のもとに宗景が隠れていると噂があったので、富田松山城を攻め落とし、景行は播磨に落ち延びていきました。
この余勢をかって播磨に侵攻し。佐用郡の上月城、福原城、赤穂郡の有年城を落とし、岡利勝に守らせ佐用、赤穂の両郡を支配しました。
天正5年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉が播磨に侵攻し、直家に属する上月城を攻めましたので、直家は長船貞親、岡剛介に3000の兵を授け、救援に向かわせ、宇喜多勢は秀吉勢と戦い宮田喜八郎、堀尾茂介らを、追い崩しますが、秀吉は旗本を進め、宇喜多勢に攻めかからせましたので敗走し、上月城も落城しました。
この敗戦を知った直家は、みずから8000余騎を率い、姫路城の支城阿閉城を攻めますが、黒田孝高の計略にかかり敗走します。
しかし、直家は敗残兵をまとめ、上月城を一挙に攻め落とし、真壁彦九郎に城を守らせ、岡山城に引き揚げました。
この頃、毛利氏に追われ、織田信長を頼っていた尼子の遺臣勝久は、秀吉の騎下に加わっていましたから、上月城の奪回を願い2000余騎を授けられ、上月城に攻め寄せました。上月城を守っていた真壁彦九郎は元来、憶病者であったため、尼子勢が城をまだ包囲しないうちに、城を捨て岡山城に逃げ帰ってしまいます。尼子勢は、城に入り上月城を守りました。
彦九郎の弟の真壁次郎四郎は岡山城にいましたが、上月城で兄が一戦もかまえず、逃げ帰ったことを無念に思い、直家に上月城を攻め落としたいと願いましたから、直家は次郎四郎に3000の軍勢を授け上月城に向かわせました。
次郎四郎は、妻子に今生の別れを告げ、決死の覚悟で天正6年(1578)の正月、岡山を発し、翌日には上月城の手前で布陣し、明日の城攻めに備え休息していたところを、尼子の家臣山中鹿之助に夜襲をかけられ討ち死にしてしまいます。
直家は、この敗戦を聞き、みずから出陣しようと軍勢を集めました。直家が大軍を率いて上月城に攻め寄せてくると知った尼子勝久らは上月城を守りきるのは難しいと判断し、直家が岡山城を出陣する前に城を捨て、摂津に帰ってしまいました。
これを知った直家は、尼子が捨てた上月城に上月十郎、八島某を入れ守らせました。
尼子氏のふがいなさを知った秀吉は、みずから二万の軍勢を率い、上月城を包囲し攻め落とし、上月十郎に切腹させ城兵は、すべて焼き殺しました。
一戦もせず退いたことを恥じた尼子勝久は、ふたたび上月城の守備につきたいと願い、秀吉に許され、上月城に入城しました。
直家は上月城を攻略するため、毛利氏に援軍を要請し、吉川元春、小早川隆景らは五万余騎を率い、備前に入国しました。しかし、直家は病と称してみずからは参加せず、弟の忠家に一万五千余騎を率いさせ、毛利勢とともに上月城に向かわせました。秀吉も四万余騎を率い上月城に向かい高倉山に布陣しました。
宇喜多、毛利勢も秀吉勢も、両軍にらみ合ったまま動かず、やがて播磨の三木城主別所長治が、織田氏から離反したため、上月城を捨て退陣し、尼子勝久は自分が自害して城兵を助けたいと願い出たので、宇喜多、毛利勢はこれを許し、上月城は開城しました
天正7年(1579)、なおも直家に従わなかった東備前、東美作の浦上の遺臣達を花房職之、延原景光らに命じ、周匝城、飯岡鷲山城、鷹巣城、三星城を攻め落とさせました。
直家は織田信長の強大さを知り、毛利氏を捨て秀吉を通じて織田氏に寝返り、天正7年(1579)の秋、信長に本領安堵の朱印状を給ったので、養子であった宇喜多基家を摂津の織田信忠のもとに使わし、播磨の秀吉のもとに、直家みずから赴き誠意を見せました。
直家が織田氏に帰順したため、毛利氏と対立し、備中、東美作での争いが、ふたたび起こりました。
毛利勢の猛攻によって、岡剛介の守る備中忍山城は落城しましたが、天正8年(1580)小早川隆景率いる一万五千の大軍を率いて岡山城を狙い、直家は病床にあったので忠家を大将として向かえ討たせ、辛川村付近で宇喜多勢は計略をもって小早川勢を誘い、深追いしたところを初陣の戸川達安が小早川勢に突き入り、敗走させました。この合戦で宇喜多勢が討ち取った首級は、あまりにも多すぎて、その数は、わかっていないそうです。
このあとも各地で毛利氏との戦いは続き、羽柴秀吉が本格的に侵攻するまで、宇喜多勢の劣勢は続きます。
天正9年(1581)2月14日、直家は、かねてからの病のため、岡山城で、波乱の多い生涯を終えます。享年は53歳。法名は涼雲院天徳星友居士。
当時は毛利氏と対決中でありましたから、直家の死を秘し、病中と称して城外には葬らず、城内に葬り、後に平福院に改葬したそうです。
【「備前軍記」を中心に「岡山県史 中世2」「戦国合戦大事典6」「岡山県人物事典」などを参考としました。】
【引用文献を記してないものは、宇喜多氏関連の書籍紹介を参考としています。】