火 - 8月 1, 2006

手のひらより。


 私の携帯情報端末遍歴はソニーのPalmTop PTC-300から始まり、Newtonで最初のピークを迎えた。このあたりの話は以前書いたことがあるが、この時点までは私は、携帯情報端末というものにPCとは違う未来の可能性をみていたのだと思う。

 その後、ジョブズによるNewtonターミネートを経て、極めて実務的な理由からPalmVを使いだした。その後大変長い間、何度か機種を変えつつも、私はPalmを使い続けてきた。使用目的はとてもシンプルで、Outlookの予定表の持ち運びと英語学習だった。当時から私の勤務先ではExchangeServerによるメールと予定表の管理が行われていて、会議招集はOutlook上で行われるのが普通だった。しかし一方でNotePCも無線LANも普及していなかったから、例えば会議の終わりに次の会議の予定を決めようと思ったら、みんなおもむろに手帳を開かなければならなかった。生来ものぐさな私には予定表をいちいち書き移すのは苦痛以外のなにものでもなく、HotSyncボタン一つで予定表を持ち運べるPalmは奇跡のように便利なツールだった。
気に入った道具には愛着があるし、かわいい。それからしばらくの間、私はPalmにべったりだった。

 一方で、増田式で一晩でタッチタイプを覚えて以来キーボードというものに人一倍愛着のある私にとって、Palmのグラフィティ入力はあくまで緊急時のメモでしかなく、そのため外付けキーボードなどにも手を広げたが、モビリティが著しく下がってしまうのは本末転倒に思え、結果としてキーボードつきデバイスを捜し求めることになった。
そこで最終的に出会ったのが、PSION revoである。今から考えてもrevoはいいマシンだったと思う。デザイン、キーボードスライドのギミック、内蔵アプリの出来の良さ、両手で持って親指タイプするのにぴったりのサイズ。一時期は、なんとかしてOutlookの予定表を同期させ、こちら一本に絞れないかと思ったほどだ。しかし結局、Palmと比べたときに手間がかかりすぎることからそれは断念せざるを得なかった。それでも、テキスト入力マシンとしてはかなり長い間、持ち運んでは使っていた。
 それほど惚れ込んでいたrevoを諦めたのは、隙間時間にこつこつ入力していたデータを何度も何度もすっ飛ばされたからだった。悪名高き充電池問題である。私のrevoは何度完全放電とフル充電を繰り返しても、充電残量を残したまま飛んでしまう現象が収まらなかった。何度もバックアップとリストアを繰り返し、しかしとうとう疲れはてて、私はrevoを手放した。もし充電池問題がなかったら、きっと今でも使っていただろうと思う。そのくらい、気に入っているマシンだった。

 仕事がだんだん忙しくなって、複数のマシンをいじるのに時間が使えなくなってきたことと、キーボード付きマシンの便利さが忘れがたかったので、私はそれまで使っていたマシンを、オークションでたまたま落札できてしまったCLIE UX50に一本化した。曲がりなりにもキーボードがついているこのマシンで、私は予定表のチェックだけでなく、出張報告やプーケット旅行記を書いたりもしてきた。PalmVほどにはいじらなかったし、revoほどに愛着があったわけではない。(特にそのキーボードは、使えば使うほど何とかしてほしいと思わざるを得なかった)それでも、辞書として、ボイスレコーダーとして、カメラとして、そして写真のビューワーとして、気づけば結構長い間使ってきているのだった。


 そのUX50も、最近はほとんど使うことがなくなってしまった。理由ははっきりしている。職場のPCのセキュリティ基準が厳しくなって、Palmを接続することができなくなってしまったからだ。Outlookの予定表を持ち運べなくなったとき、UX50の用途は半減してしまった。そしてそれでも、この数年の間に無線LANとNotePCが普及したオフィスでは、なんとかなってしまうのだった。

 それはそうだ。私のような普通の事務職の会社員にとって、携帯情報端末がなければ仕事ができない、という状況はほとんどないだろう。なければ多少不便だが、仕事はできる。当たり前だ。
 むしろどちらかといえば、携帯情報端末があることで(意味もなくいじって遊んでしまったりセットアップに時間をとられたりして)浪費していた時間がなくなったぶん、仕事という面ではむしろよかったかもしれない。

 でも。仕事用の鞄の、ぽっかり空いた隙間をみる度に感じる妙な寂しさは、ではなんなのだろう。
 Newton以外の携帯情報端末なんか、所詮ちょっと便利なツールというだけだと思っていたはずなのに。

 話が急に飛ぶが、私は万年筆が好きで、許されない場合を除いて文字はロイヤルブルーのインクを使って、万年筆で書く。
 文字を書く、という行為についてだけいえば、万年筆は例えばボールペンやシャープペンシルに比べて使い勝手がいいとはいえない。消せないし、インクが乾くのに時間がかかるし、インクの補給だって換え芯を入れるようなわけにはいかない。
 でも、文字を万年筆で書くのは楽しいのだ。クレジットカードを使って、サインを渡されたボールペンで書くとき、万年筆で書きたいなあと思う。文字を書くだけならもちろん万年筆である必要はない。でも、万年筆でないと得られないものもあるのだ。ただの自己満足とは少し違う、小さな充足感。それがなぜ得られるのか、うまく説明できないのだけれど。 

 そんなわけで——いや、自分でもなにが「そんなわけで」なのかよくわからないのだが、ともかく今、私の手元にはiPAQ h4350があるのだった。ActiveSyncだったら使える職場のPCで、これなら予定表を持ち出すことができる。
 しかしそんなことより、この小さな機械とまた仕事ができるということで感じる、この満足感は何だろう。


 中古の、ハードウェアキーボード付きの、英語版のデバイスというところが、我ながらいかにも自分らしいなあと笑ってしまうのだが、またしばらくこいつと一緒に仕事をして、自分が求めているものが何なのかを確かめてみたいと思う。

Posted at 04:03 午前     |

日 - 5月 9, 2004

散歩用のポッケ。 



今でこそ休日と言えば可能な限り寝ていたいと願うようになったが、昔は暇があると無駄に出歩くのが好きで、特に週末は十キロ以上は普通に歩いていたと思う。お金はないが時間はあったので、遠出するのもとにかく歩きで、ひたすらてくてく歩いていった。(それだけ歩いていてなぜあんなに太っていたのか、今となっては謎だ)
今になってどうしても思い出せないのは、そのときにどういう鞄を使っていたかだ。はいていた靴は思い出せるのに、使っていた鞄がどうしても思い出せない。通学の時に使っていたのと同じ鞄のはずなのだが、毎日使っていたはずのそれがどんなものだったのか、どうしても思い出せないのだ。
ともかくその、どんなものだったか忘れた鞄の中に、私はたとえ真夏の晴天で降水確率が0%でも折り畳み傘を入れ、使ったことのない筆記用具セットを入れ、本を入れ、ディスクマンを入れ、とにかくどこに行くのでもこれさえあれば大丈夫というくらいのものを詰め込んでいた。それを背負っててくてく歩いていたのだから、相当な体力のような気がする。学生時代の私は全く体力に自信がなかったが、こうして考えるとなんだか大変無駄なことに体力を浪費していただけのような気がして来た。

最近は浪費するだけの体力もなく、体育の日に体力測定をしたら七十代と判断されるのは間違いないていたらくである。先日職場でみんなで立位体前屈をやってみるということがあって(改めて書くと変な職場である)、私がやってみせたところ「ポーズはいいから早くやって下さいよ」とせっつかれた。いやあの、既に全力でやっているんですがといったら周囲からは「うげえ」という反応が。どういう意味かはあまり考えたくないところである。
そんな状態では時間があれば昼寝がしたくなるのもやむなしと言えようが、しかし別段無駄に歩くのが嫌いになった訳ではない。春の電波を受信するとやはり無意味に徘徊したくなるし、電波の受信状態が人間より良好なうちのワンコは連れて回れとせっつくし、そこは我慢しても日々の生活では買物も用足しもあるので、もちろん出歩くこともある。
そんなとき、どんな鞄を持って歩くべきかというのはこの数年の私の悩みだった。仕事用の鞄はいくらでも選択肢があるのでそれはよい。しかし、いったん休日用となると難しい。学生時代のように何でも詰め込んで持って歩く体力はなく、また多少は外見に気を使うようになったので見た目も良いものがよく、「大は小を兼ねる」ようなものは避けたいところである。大体、持ち歩きたいのはカード入れに財布に携帯電話、あとはせいぜい本やiPodくらいなものなのだ。大げさな鞄はかえって使いづらいし、かといってポケットに詰め込んで膨らませてしまうのも遠慮したいところだ。
女性用にはいろいろなデザインの鞄があるが、男性用、それも三十代後半の男性の休日用バッグ、というとそもそも選択肢があまりないし、気に入ったのも見つからない。オフデーにアタッシュは持って歩きたくないし、ディバッグは大げさだし、セカンドバッグはスマートに持てる人もいるが私が持つとどうしても新聞の集金になってしまう。ウェストポーチは……あと十センチ背が高くてもっとスマートだったら使っていたかもしれないが。
ずいぶん長いこと、私は不承不承ディバッグを使っていた。それが変わったのは、去年の夏からである。


inCase MoyaPak。

そもそもは、国立商店 かわら版で紹介されていたのがきっかけだった。
それより前からMoyaPakの存在は知っていて多少気になっていたものの、身につけた際のイメージがわかずに購入には至っていなかった。しかし、国立商店かわら版の中での紹介は私の好奇心をそそるのには十分すぎるほどのものだった。なにせ、あれだけの魅力的な鞄(私の用途に合致していないから購入していないだけで、例えばJetSetBagは見るたびにいいなあと思っていた)の作り手が、海外旅行の際に自社の鞄だけではなくMoyaPakを使ったというのだ。しかもその使い方は、まさに私がしたかったのと同じだった。財布にカード入れ、少しの荷物を入れて身軽に歩く。まさに私が欲していたのは、そのための鞄だったのだ。

国立商店にて購入したMoyaPakは、予想以上に小さく、しかし予想を遥かに上回って使い勝手が良いものだった。鞄、というよりは身につけるポケットのようなそれは、私にとっては全く必要十分だった。
体にぴったり来るデザイン。その中に実にきれいにまとめられた、各収納。私が一番気に入っているのは、この携帯電話を収納する部分だ。いかにも携帯電話を入れて下さい、と言わんばかりのポケットが多い中、全体のデザインにごくごく自然に組み込まれている。どのくらい自然かといって、ここに携帯電話を収納しない場合であっても、何ら不自然ではないのだ。携帯電話が入っていようがいまいが、全体のイメージが何も変わらない。なんてすばらしいのだろう。


その小ささから比べれば実は多くの収納が可能なのだが、それでも納められるものはたかが知れている。しかしその収納部分の一つ一つが、まるで見ていたかのようにこちらの使いたいようにデザインされているのが驚きだ。散歩に出ようと家を出て、扉を閉めた後鍵をしまうキーチェーン。通帳や、ワンコの散歩の時は糞入れをしまっておくのにぴったりな隠しポケット。小さなポケットは、切符を入れるのにあつらえたようにぴったりだ。改札を通った後、どちらのポケットに切符を入れたのか迷うことはもうない。出かけるとき、ちょっと歩くときに必要なものが、とても自然に収納できる。これは何というバッグなのだろう。


メインコンパートメントはいかにも小さく、A5版の書籍を入れればそれでいっぱいになってしまう。でもちょっとしたお出かけにはそれでちょうどいい。財布とiPod、ペンギンリーダーズに定期入れ、その気になればデジカメも入って、さて、あとは何が必要だろう?

……私にとってはとても残念ながら、多くの人にとっては他に必要なものがたくさんあったらしく、今となってはこのMoyaPakは手に入らない。モデルチェンジされたそれは、ふたまわりも大きくコンパートメントにもたっぷり荷物が入るモデルだ。inCaseらしいデザインは決して悪くはないし、そういうのが必要になる時だってもちろんある。私だって、時々はMoyaPakにA4の書類が入ればなあと思うことがある(大体は休日出勤のときだ。A4の書類が持ち運べれば、MoyaPakで出勤できるから)。だが,その「時々」のためにふたまわり大きなバッグを持つのなら、その時は紙袋でも何でも持つから、ほとんどの時に充足する、必要最小限のものだけがはいるバッグのほうがいい。本当にいるものだけを選んで持ち運ぶ外出は、使うか使わないかわからないものを選ぶこともせずに詰め込んだまま、膨らんでしまった鞄をしょって出かけるときよりずっと楽しい。荷物が多くて、最初からMoyaPakで出かけられないのがわかっている時は、なんだかとてもつまらないのだ。


娘がもう少しだけ大きくなったら、娘にもおやつを入れた小さな鞄を肩からかけさせ、ワンコも連れて、もちろん私はMoyaPakを持って、家族全員で散歩にいきたいなあと思う。きっと楽しいだろう。そんな気にさせる、バッグなのである。 

Posted at 12:30 午前     |

日 - 3月 16, 2003

ベータカプセル。 



 自分の声を録音したものを初めて聞いたとき、だいたいの人はうわあどうしようなんだこりゃ、と思うのではないだろうか。少なくとも私はそうだった。どういうわけか声変りが終わった中学生時代、「君はいい声だ」と複数人からいわれたことがあって、私は自分の声をオーソン・ウェルズばりの美声だと信じていた(「宇宙戦争」のエピソードとイングリッシュ・アドベンチャーの広告によって、私の中でオーソン・ウェルズは美声の代名詞となっている)。ラジカセで録音した自分の声を生まれて初めて聞いたときの私の感想は、ぐわあなんだこの情けない声は、というものだった。その印象は今でも変わらなくて、時々会議の内容を録音したものを聞くときには自分の発言を聞くたびに(内容ではなくてその声に)怖気が立ってしまう。なんでこうはっきりしなくて情けない声なのか、気をつけているつもりなだけに余計に気になってしまうのだ。
 中学時代、何でこんな声を友人や先生たちが褒めてくれたのか謎だ。もっとも、高校生になってからこちら声のことを褒められることはとんとなくなったので、もしかすると私は高校時代に二回目の声変りをしたのかもしれないが(そんなわけはありません)。
 自分の認識と他人の認識が大きく違うのは何も声に限ったことではない。たとえば私は職場において、「なんだか小さい機械が好きな人」と認識されている模様である。いや、それはまあ表層的には誤りではないので反対するつもりはない。もちろん、いや単に小さいだけではだめなのだとか私にとってNewtonがすべてのはじまりであってそれ以外のものは云々とか言い出すときりがないほどのことがあるわけだが、いってもせん無いことであるので敢えて言ったりはしない。小さいものが好きであること自体は、なんだかんだいっても事実であることだし。
 しかしである。「ちょっとそれ見せて」と言われて渡したものを散々いじくったあと、「……なんだ、なんにも仕掛けとかないんだ。君が持ってるんだからどっか飛び出すとか光るとか形が変わるとかなんかあると思ったのに」というのはいかがなものであろうか。いったい私はどう思われているのだ。


 ロットリング・コア。
 ……改めてみると、上記のように言いたくなる気持ちもわからないではない。前知識なしにコアをみて、これが万年筆だとわかる人間がどれだけいるだろう。いや、キャップをとらない状態でだとこれが筆記用具であることすら想像できなくてもおかしくはない。
 ちなみに表題の「ベータカプセル」というのは職場の先輩がコアを差して述べた言葉である。そういいたくなる気持ちは大変よくわかる。(なお、ベータカプセル自体が何だかわからない人もいると思うが、ハヤタ隊員がウルトラマンに変身するときに使うアレのことである。この説明でわからない人は、大変申し訳ないのだが自力でちょっと調べていただきたく。)
 率直に言って、最初にコアを見たときの印象はなんだこのなんか勘違いしたみたいな筆記具は、というものだった。どういう人間が使うのか想像つかなかったし、どういう場面で使えばいいのかもわからなかった。無意味に派手なデザインは、確かに破綻はないがなんの意味があるのだろうと思った。ちょうど、Cross Century GraphiteやATXのシンプルな美しさに夢中になっていたころだったので、コアのデザインには正直かなり抵抗があった。意味がないじゃないか、と。
 全く縁遠いと思っていたコアを手に取るきっかけを作ってくれたのは、ステーショナリープログラムだった。まるで私の胸のうちを見透かしたようにコアの記事が掲載され、しかも近々信頼文具舗で扱いを開始するという。こうなってくると話は違ってくる。信頼文具舗で扱われるのだ。デザインだけの製品であろうはずがなかった。
 触ってみなければ、と思った。一瞥してデザインだけだと思い込んでしまった製品がどれほどのものなのか、とにかく触って確かめてみなければ。
 初めてコアに触ったのは、新宿南口の東急ハンズである。今の私はデパートの筆記具売り場で「試してみたいんですがいいでしょうか」と抵抗なく言えるようになったが当時は全然ダメで(自分のような人間が買うものではない、とまだどこかで考えていたというのと、万年筆はインクを充填しなければならないので(そのくらいの知識はさすがにあった)、ボールペンのように簡単に試し書きはできないに違いないと思い込んでいたのだ)、ショーケースの中のコアをみては一度触ってみたいものだと思ってばかりだった。ところが、たまたま寄った東急ハンズではコアを大プッシュしていて、ショーケースの上にずらっと並べて自由に触れるようにしてくれていたのだ。もちろん大喜びで使ってみたのは言うまでもない。使ってみて、そして、夢中になった。これは、なんという筆記具だろう。


 筆記に使うときのコアの特徴は、その派手な外見デザインではもちろんなく、削り取られて低くなったようなグリップにある。ステーショナリープログラムでも述べられていたその感覚は、何とも言えず不思議なものだ。
 通常ペン先というのは、親指・人さし指・中指の三本の指の延長線が交わった上にくる。この三本指でつまむようにするのだから当たり前だ。しかしコアの場合、まるで0メートル地帯のようにペン先よりグリップ部分が低くなっているので、三本指の延長線上に来ないのだ。ペン先はそれよりもほんのわずか高い位置に来る。この微妙な位置のずれが生み出す筆記感覚を説明するのは難しい。人さし指が1.5センチほど延びて、その先にペン先をつけて字を書いているような感覚、というのがいちばん近いだろうか。ほんのちょっとの違いなのに、それは普通の筆記具では味わえない感覚だった。
 惚れてしまえばあばたもえくぼ。派手なデザインも個性的だとなり、もう手に入れたくてたまらなくなってくる。当時Cross ATXを常用していた私は、しかし新しく筆記具を購入することに抵抗があってなかなか踏み切れなかった。
 結局コアは、妻がプレゼントしてくれた。妻がプレゼントしてあげるよ、といってくれなかったら、もしかしたら今でもまだ迷っていたかもしれない。
 それまでに万年筆を使ったことはさほどなかったにもかかわらず、コアはあっという間に私の常用筆記具の位置を占めてしまった。ミーティングをしているとき以外はほぼキーボードをたたいている私の指先にとって、コアの筆記感覚はカリカリいうその書き心地と相まってリハビリテーションのように心地よかった。
 そして、ミーティングしていないときのコアの定位置はここになった。


 当時の私の胸ポケットには、PalmVとcRossBarを装着したCentury Graphiteが収まっているのが常だった。そこに巨大なコアの入る余地などない。職場にいる間上着を着ていることもほとんどなく、バインダーのたぐいを持ち歩かなかった私にとって、コアを持ち運ぶ方法は悩みの種になりそうだった。しかし実際には、まるではじめから決まっていたかのように、あっさりとその場所は決まった。ほとんど考えることなく、自然にコアはそこに収まっていた。
 奇を衒っているとしか思えなかった大型のクリップは、こうなってくるとおそろしく合理的な仕掛けだった。スーツのパンツのポケットというのは、シャツのそれに比べてずっと厚口である。しかしコアのクリップは、それを全く苦にしない。そして、外れない。胸ポケットと違ってパンツのポケットは、歩いたり座ったりするたびに大きく伸縮するのが常だ。押されて落ちてしまうのではないかと、最初のうちは心配していた。しかし、そんな心配はすぐに霧散した。落ちないのである。もう二年間常用していて、そのほとんどをパンツのポケットに収めていたにもかかわらず、一度もその定位置から落ちたことがないのだ。

 そして、最初はあれだけ毛嫌いしていたこのデザインも、パンツのポケットに差し込まれるという乱雑な使い方には実に似合ってしまう。Century Graphiteも、ATXも、胸ポケットやペンケースにはともかくパンツのポケットには似合わない。しかしコアは逆に、胸ポケットやペンケースには似合わないのだ。乱雑に、タフに。コアは、万年筆に対する私のイメージを根本からひっくり返してしまった。


 万年筆とは思えないほどタフな使い方をされてきたコアには、小さな傷がいくつもできている。ラバー素材のキャップも、いつの間にぶつけたのかところどころへこんだりしている。しかし私にとっては、その傷も、そのへこみも、一緒にハードな仕事をこなしてきてくれた証明なのだ。
 この二年間、私にとっては本当にきつい仕事が続いてきた。その期間を越えてこれたのは自分だけの力ではもちろんない。妻にも、職場の上司にも同僚にも迷惑をかけ、叱責され、支えてもらってなんとかやってこれた。その間中ずっと、コアは私のパンツのポケットに収まって一緒だった。相棒というわけではない。ただ、どんな時にも使えるタフなツールとして、私とともにあった。そんなものを得られたということは、とても幸運なことであるように私には思える。
 ついうっかり過去形で書いてしまったが、きつい仕事は現在進行形である。どんなに短く見積もっても、あと一年は続くだろう。まず間違いのないそれは、私にとってあんまり嬉しい話ではない。しかしまた一方で、その期間中ロットリング・コアが私のパンツの定位置に居続けてくれることも、ほとんど間違いのない話なのだ。
 だからといってもちろん何が解決するわけでもない。ただしかし、このあと到底できそうもない仕事に向かっていかざるを得ない間、手になじんだタフなツールがすぐそばにあるという事実は、多少なりとも私の頭を軽くしてくれる。こんな感覚が味わえるのも、まあそれはそれで、そう悪いものではないように思うのだ。 

Posted at 01:09 午前     |

金 - 3月 14, 2003

君がいた季節。 



 そうか、もう三年も経つのか。
 仕事に費やす時間がちっとも減らない、というか増加の一途を辿っている状態なので(これ以上増えないだろうという状態からでも増えるのだから人生というのは不思議だ)、とうとう諦めてココノネと書肆紫音を一緒にした。一緒にしたからといって更新の頻度が上がるわけではないと思うのだが(ってアンタはじめから諦めてどうする)、気分的にはずいぶん楽になった。少しずつでもいいから、ぽつぽつとやっていきたいと思う。
 一つにまとめるのにあたって、サイトの名前はココノネに統一した。書肆紫音の方はコンテンツの作成に手間がかかるぶんどうしても更新頻度が上がらないので、そのことには別に抵抗はなかった。ただ、名前だけはどうしても残しておきたくて、メニューもそうだし、コンテンツの中でも「書肆紫音」というのはそのままにしている。わかりづらいとは思う。特に、書肆紫音のコンテンツを探しに来られた方には把握しづらい構造になってしまって、申し訳ない。ココノネの中に組み込むなら組み込むで、もっと明確に分けたほうがよいのだろうが、できなかった。
 まあ、こんなことは私以外の人にとってはどうでもよいことなのだろうけれど。
 「ココノネ」というサイト名に意味がないことは前に書いたことがある。書肆紫音の方はでも、意味があってつけた名前だ。書肆、は一般名詞。紫音は、小紫(こむらさき)の、音。小紫というのは、シマリスの名前だ。4歳になっても子供と間違われるほどちっちゃい、オスの、一晩中かたかたと音を立ててケージの中を走り回る、人見知りをせずに誰の肩でも平気でのぼる、そんなリスの。
 今ここにいたら、もうじき8歳になる。今ここにいたら、——どんなにいいだろう。
 小学生のころから私は、なぜかシマリスが飼いたくて飼いたくて仕方がなかった。なんでだ、といわれてもうまく説明できない。とにかくシマリス、あのしっぽがふさふさでくるくる回るやつ、が飼いたくてどうしようもなかった。飼ったらもちろん手乗りにして、いつでもどこでも連れて歩くんだと思っていた。学校に行くときはポケットの中に潜ませたり、頭のてっぺんに乗せて歩いたり。
 念願が叶ったのは、じつに二十代の後半になってからだった。会社の独身寮(という名のワンルームマンション)に入ったのを契機に(そしてペットに関する規約を何も言われなかったのをいいことに)、入寮した翌週から情報収集を開始し、飼い始めるにはもっとも適しているといわれた5月初旬、ゴールデンウィークの終わりにいそいそとペットショップへ向かった。
 私の頭の中には、どういう子リスを選ぶべきかというありとあらゆる情報が詰まっていた。なんせ二十年来の念願である。だいたい何かを選ぶときに事前の情報収集には余念が無いほうだが、あの時は最終的な目的を忘れるほど調べに調べた。念願だった、というのももちろんあるが、生き物だからというのがよりいっそう真剣さに輪をかけさせていた。これからずっと一緒に生きていくのだ。適当に選ぶことなど考えられなかった。すべての条件を吟味して選びに選ぶのだと力を入れて、私は午前中から、(これも選びに選んだ)ペットショップへ向かった。
 小紫(名前はずっと前に決めてあった。もちろん考えに考えた結果であることはいうまでもない)はしかし、ほんの五分で決まってしまった。
 まさにシーズンだったペットショップの中には、水槽に入れられた二十数匹の子リスがいた。それを見た瞬間、目やにや鼻水、耳垂れをチェックして足を引きずっていないか動作が敏捷かを確認しそして雌の方が買いやすいから雌を選ぶのだ、などという事前計画ははるかに高い棚の上に置き去られ、私はペットショップの店員さんに「あの、まず触ってみてもいいですか?」と聞いていた。
 快く許諾してくれたペットショップの店員さんの監視のもと、私はそろそろと水槽の中に手を入れた。今から考えると不思議だが、その時私は噛まれるのではないかとかひっかかれるのではなどとは全く思わなかった。ただ恐る恐る、そろそろとつくってもらったすき間から手を差し込んだ。
 当たり前の話だが、いきなり天から降りてきた巨大な物体に恐れおののいて、子リス達はそれこそ蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。……一匹をのぞいて。どういうわけか一匹だけ、他の仲間達の動きに逆らって寄ってくると、私の手の上にぴょこん、と乗った子リスがいた。すべての事前情報はそのとき、私の頭から吹っ飛んだ。動物と、運命の出会いをしてしまった人はわかってくれると思う。そうじゃない人には、その時の感覚は説明できない。ごめん、本当に説明できないんだ。
 その時てのひらに乗ってくれたのが、そしてちっとも逃げようとしなかったのが、小紫だった。
 それからあと、会社の寮に帰るまでの記憶は断片的だ。ものすごく強力に覚えているシーンもあって、たとえば紙箱の中の小紫がかさかさ震えている音をずっと聞いていたこととか、そういうことは覚えているのだが、全然ひとつにつながらないのだ。ただとにかく、実際に残っていたものから判断するに、あほうみたいに舞い上がった私はリスを飼育するために必要だと言われたものはすべて買い集め、大量の荷物をもって電車で帰った。らしい。今も昔も車を持っていないので(免許はあるが)電車で帰るしかなかったはずなのだが、どうやってあんな大量の荷物を一人でもって帰れたのかは謎だ。
 予想通りのオチとして、自室に連れ帰った小紫は私の手に乗ろうとはせず、部屋中を逃げ回って私を慌てふためかせた。彼が再び手に乗ってくれるようになるのには一週間ほどかかり、それまでの間私は、毎日片思いした中学生のように小紫のケージの前でもじもじする日々を過ごした。二十代後半の男が毎日リスのケージの前でもじもじしている姿は端から見たらかなり笑えるものだったと思うが、私はいたって真剣で、幸せだった。ほんとうに、掛け値なしにだ。
 その頃の小紫の姿を撮っておきたくて、しかしビデオカメラは高くて買えず、私はQuick CamというADBポートでMacintoshに接続するカメラを買って、それで小紫を撮りまくった。残念ながらその時の画像は、Macのハードディスクがクラッシュしたときに一緒になくなってしまった。もしタイムマシンがあったなら、あの頃に戻ってどんなに手間がかかっても金がかかっても、バックアップくらいちゃんとやっておけと自分自身の胸ぐらをつかんで説教してやりたいと心底思う。
 小紫とはずっと一緒だった。実家に帰るのに新幹線に一緒に乗ったこともあるし、結婚式にだって出てもらった。ストレスがかかるからかわいそうだとはわかっていたのだがどうしても出て欲しかった。つき合い始める前から小紫のことを知っていた妻も賛成してくれ、式場の人も協力してくれて、小紫は私たちの結婚式に出席してくれた。出席してくれただけではなく、式場の受付で招待客の出迎えまでしてくれたのだ(夜行性なのでほとんど寝ていただけだったが)。


 結局何が原因だったのかはよくわからない。下痢をして脱水症状を起こしてしまった小紫は、それでも一ヶ月頑張ってくれた。いったん快方に向かったとき、ケージの扉を開けたら頭の上によじ登ってきた。私の頭の上で遊ぶのは彼のお気に入りで、そんなことができるまでに回復したんだと思って嬉しかった。でも、普段なら五分もすれば飽きて降りてしまう私の頭の上から、その時小紫はいつまでたっても降りようとしなかった。二十分経っても三十分経っても降りようとしない。自分の頭の上ではらばいになったままじっとしている小紫を鏡に映してみて、最初喜んでいた私はどんどん切なくなって最後は泣きそうになってしまい、無理やり下ろしてケージに戻した。
 小紫が私の頭の上にのったのは、それが最後になった。
 主のいなくなったケージの扉に、私は一年間触れなかった。最初のうちは、きちんとケージを見ることができなかった。毎日夜中に聞こえていた、小紫がケージの中を走り回る音が聞こえないのがいやでも事実を思い出させた。
 小紫のことを考えると、楽しかったことをたくさん思い出す。たくさんもらった幸せを思い出す。でも最後に感じた、あの絶望的な喪失感も一緒に思い出してしまう。辛いが、しかし悪いことだとは思わない。それも、小紫がくれたものだから。そのすべてをひっくるめて、小紫は私を、今の私にしてくれた。
 あの小さいからだの小紫から、いったいどれほどのことを与えてもらったのだろうと思う。私は彼に、どれだけのことができたのだろう。
 彼のことを思い出すと、今でも泣けそうになる。たぶん、一生そうだと思う。それでもいいから、ただ、忘れないようにしようと思う。彼から教わったことを。
 書肆紫音の名前はだから、どうしても消せなかった。他の人にとってはどうでもいいことだとは重々承知している。でも私にとっては、小紫の音は、見失った自分の根っこや行く先を思いださせてくれる、静かな、でもとても大事な音なのだ。
 たとえゆっくりでも、少しずつでも更新していこうと思う。ときどき振り返って、自分の中の小紫のことを確かめながら。 

Posted at 01:08 午前     |

金 - 1月 18, 2002

存在の重み。 



 机上の惨状を知っている方には何を今更であろうが、私は整理整頓というものが大変不得手である。無論対象は机の上に限ったことではなく、身の回りの小物から頭の中の情報に至るまで、自分でいうのもなんだがことごとく整理ということができない。
 なお、断固としてここで宣言しておかなければならないのだが、私ができないのは整理であって片付けではない。片付けは出来るのである。しかし整理整頓ができないのだ。青筋立てて力説したところで、おそらく他の方から見たらほとんど違いはないと思われるのであるが、しかし少なくとも私にとっては断固として違うものなのである。たとえば、私は机の上をきれいに片付けることはできる。新しくできた百円ショップでファイルケースを買い込んで、山積みになっていた書類を格納して書き物をする空間を確保することはまるで苦にならない、というよりむしろ好きな作業である。しかしその結果はなぜか、机のどこに何があるのかわからない、という状態になってしまう。見た目は片づいてはいるのだが、どこに何があるのかがわからないのである。
 片付ければ片付けるほどあとで使いづらくなるのは、一貫した方針の元に筋道立てて整理する、ということがなされていないからである。その時その時には何らかの考えをもって片付けているのだが、方針が途中で随時変更になっているため、「その時」の考えが(五分後くらいに)消失してしまうと片付けた理由は宇宙の神秘と化している。これで使いやすい状態がキープできたらまさにこの世の奇跡と呼べよう。
 私がこのように片付けられても整理が出来ない原因は、私がいたって論理的思考のできない脳構造、有り体に言えば事前に計画を練るよりも行き当たりばったりで進んでしまうタイプ、であることが多いに関与していると思われるが(だから方向音痴の癖にどんどん進んでは毎回道に迷うのである)、幼少のみぎりに「散らかしたものは自分で片付けなさい」とばかり言われたことも影響していると考えられる。私のように、大人の言うことを疑わず、言われたことを文字通り受け取る素直な子供には、「散らかしたものは自分で再利用する際の利便性を熟考し、計画立案・検証ののち片付けなさい」と適切な指示を与える必要があったといえよう。
 そんなこんなで私の能力もしくは脳構造の欠点が実証されたわけだが、しかしそれは本題ではない。こうした整理整頓能力の欠如は、同時に複数の作業をこなす(より正確というか正直に言うとこなしているように見せかける)際には大変なマイナス要因となる。一つの作業を行っている場合、物事はリニアに進むので資料は机の上でまさに地層のように、古い順に並んでいくことになる。しかし担当作業がパラレルに進むともうそうはいかない。パラレルに発生する作業は発生時期・処理期間がてんでばらばらなので、堆積した資料の中から必要なものをサルベージするのは並大抵のことではない。
 かつて、私のこの問題に対する回答は、案件ごとに書類の山を分ける、というものであった。しかし、担当職務が三件くらいまでの間はそれでもいいのだが、四件を越えるとぼちぼち机の上のスペースがなくなってくる。五件となるとかなり苦しい。そこへPCが導入されたりすることによって物理的な作業空間は一気に減少し、私の複数の山作戦はあえなく瓦解したのであった。
 しかし、そのPCの導入(最初は自前のPowerBook100を職場に持ち込んだ)によって、整理能力がないことに起因する私の問題は大部分が解消されることとなった。そう、物理的な書類を整理するかわりに、全部ファイルにしてハードディスクの中にため込んでしまえばよいのである。なんせコンピュータ上ならば検索という作業が行える。一枚一枚紙ぺらをめくって読んでいかなくても、キーワードさえ覚えておけばあとから必要な情報を見つけだすのはずっと楽になった。ビバ技術革新。
 もちろんそうするためには、すべての資料を電子化しなければならないという問題が発生する。しかし幸いにして私はキーボードをタイプするのが好きなので作業はたいして苦にならず、しかも暇なときにキーボードをタイプしていると、いかにも熱心に仕事をしているように見えるという利点が……いや、もちろんこれは過去の話で、今そうしているという話では決してないので念の為。
 現在は、PCとメール環境の整備によって、ほとんどの資料は最初から電子化された状態で入手できるようになった。電子化されていない場合であっても、作成者に「これ紙じゃなくて元のファイルくださいよくれないと拗ねますよ」といえばおおかたは手に入る(後半部分は省略しても効果はほぼ同じ)。ちなみに、時々とてつもなくマイナーなフォーマットのファイルがきたりするというリスクは存在しているが、その場合は古の作法に則ってぱちぱちパンチすればよいことである。というか、少なくとも現在では、ほとんどのファイル形式はなんらかの手段でコンバートできるようになっているのではないだろうか。再びビバ技術革新。(昔はファイルの交換が面倒で大変だったのである)
 このように資料の電子化は整理整頓の必要性を大いに軽減させたが、その一方でうまく適用できない部分もあった。いや、一般的にどうだったかはしらないが、私の場合は一つ、電子化してもうまく運用できない分野が残った。ToDoリストである。
 「やらなきゃいけないことリスト」の管理方法は人によって様々であろう。私も、裏紙に列記して貼っておいたり(貼った瞬間にただの壁紙と化して目が認識しなくなる)、付箋紙を机に貼ったり(資料の山に埋もれてしまって忘れられてしまうという事故が多発する)と様々な方法をとったが、どれもなかなかうまくいかなかった。
 職場へのPowerBook100の導入とともに、私は早速ToDoの電子化に取り組んだ。当時使っていたのはNow Up-to-dateというスケジューラソフトだったと記憶するが、それに一生懸命ToDoリストを登録したのである。
 そしてその結果どうなったかというと、登録されきれいにリストされたToDoは、そのままきれいさっぱり忘れ去られたのであった。実にありがちな話である。理由はいくつかあって、入力した時点で満足してしまってそのあと開くということをしなかった、というきわめて汎用的なのがひとつ。参考書を買うと満足して勉強しなくなる、の類である。われながら、幼少のみぎりから全く成長というものが感じられないので情けないこと甚だしい。しかしもうひとつ、より実際的な問題もあることはあった。
 急ぎの仕事が発生したり、急に思いついたりした事柄は、いちいちキーボードから入力している余裕がないので(そもそもキーボードがないところで発生したりするので)、手元の紙に適当にメモすることになる。この時点でメインのToDoは電子化されたリストからメモされた紙にうつってしまい、いったんそうなってしまったら元に戻すのは大変強固な意志を必要とするのである。なんせ「やること」は次から次へと発生するのだが、それをいちいち入力している間に「やること」自体をやらなければならないのだ。いったレールん外れてしまった機関車は元の道筋に戻らないまま直進し、結果一生懸命入力したデータはあっという間に有名無実化してしまうのであった。
 私はこうした問題を長い間解決できずにいた。正確に言うと、最初のうちはまだ解決しようとしていたが、何度チャレンジしてもうまく行かないので諦めてしまった。付箋や適当な紙にToDoをメモってごまかしていたが、付箋自体を紛失するとか、ばらばらになっているので見るのを忘れてしまうという問題が時々起きた。困ったなあと思いながらもいい解決策を思いつかず、私は長い間そうしたやり方で仕事を回してきた。おかげで、やらなければいけないのにやりそこねたことがいくつあったか知れない。
 解決策は、ある日突然やってきた。


 RHODIA。
 我ながら不思議なのだが、なぜRHODIAを見て「これが解決策になる」と思ったのかさっぱりわからない。だが、信頼文具舗でRHODIAをみたときに直感的にそう思ったのは確かで、ほとんどあたらない私のこの手の直感は(そのためにどれだけいらない投資をしてきたことか)、この時珍しく的中したのである。
 RHODIAはフランス製のノートパッドである。ノートパッド、という言葉のイメージと、実際に手元に届いたRHODIAの質感は随分違っていた。質感、という言い方はあまり適切でないかもしれない。存在感があるのである。
 その存在感の多くは、特徴的なオレンジ色の表紙によっていると言える。日本のオフィスにおいて、あまりこういう色のノートパッドというのは存在しないと思う。少なくとも私の机の上には存在せず、書類の山に埋もれないかぎりにおいて、RHODIAを見失うことというのはまずない。


 そしてこの厚さである。見てわかる通り、表紙も比較的厚い紙なのだが、背表紙に使われている紙はかなり分厚い。実はこの厚さによって、例えば立ったまま記入するときの安定感を確保することに成功しているのだが、そんな実用面はさておいても(肝心なところをさておくなよ)見た目及び手に持ったときの質感は充分である。それは見た目においてもそうで、同じページ数のノートパッドより、RHODIAはずっと分厚い。
 最初にRHODIAを手にしたときの私の感想は、なんだか思ったよりごついノートだなあ、これがおフランス製というものなのだろうか、というものであった。が、いったんRHODIAに慣れてしまうと、その他のノートがぺらぺらで存在感皆無に見えてくるから不思議なのである。


 ノートの本分でないところばかり話すのもどうかと思うが、もう一つ私が最初思わずひいてしまい、そして今は大いに気に入っているのがこの極太ホチキスのような(というかどうもまさしく極太ホチキスみたいなのであるが)留め金である。日本のノートであれば、これを表紙にむき出しにするということはまずないであろう。しかしこの武骨さ加減、この存在感がいいのである。この金具はかなり人目をひく。実際、RHODIAを「フランス製のノートなんですよ」と紹介したときにこの金具をさして「ええっこんなごついのが?」という反応を示す人は大変多い(この多くの人の反応によって、私が持っていた「フランス製」に対するイメージが日本人の平均とそう違ってはいないらしいことが確認できた)。しかしその反応がまた心地よかったりするのだ。


 武骨なその表紙は、三つの折れ線に従ってきれいに背中に折り畳めるようになっている。こういう機構のノートというのはあまり見ないと思うのだが、そこがまたいい。さりげない仕組みなのだが、表紙の横線がインパクトになっている上、使い込んでいくとだんだん表紙に癖がついていく。その過程がまた楽しいのである。


 RHODIAの紙面は紫の方眼になっている。方眼になっているノートはいくらもあるが、罫が紫で入っているというのはあまりないだろう。
 これは信頼文具舗さんの全くの受け売りなのであるが、この方眼にいろいろな色のペンで文字を書くのは実に楽しい。私が一番気に入っているのは、ブルーの万年筆である。白無地の紙や、グレーの罫線の上にかくのとはまた違う。同じペンで同じ文字を書いているのにどうしてこう雰囲気が変わってしまうのだろう。


 ToDoリストとして利用するときに最も便利なのは、各ページの上部にマイクロカットが施されていることである。これによって、RHODIAのページは一枚一枚簡単に、きれいに切り離すことができるようになっている。
 私は、そのページに書きつけたToDoがすべて完了した時点で、そのページを切り離してしまう。ちょっともったいない気もするが、とにかく終わったページは容赦なく切っていく。そうすると、たとえRHODIAを閉じていても、その厚さを見ただけで「今自分が終わらせていない案件がどのくらいあるのか」が把握できてしまうのである(未使用の分は整然と並んでいるが、書き込み済みのページは膨らんでいるのでその差も見ればわかる)。
 これは、ToDoリストとしては極めて有利な点である。なんせ、付箋のようにあちこちに散らばったものをかき集めなくても、PC上のリストのようにいちいちファイルを開かなくても、表紙をめくることさえなしに今まで自分がどのくらいの作業をこなしてきて、残件がどのくらいあるのかというのが把握できるのである。これは、電子化されたファイルには絶対無理な芸当である。この、そうそう見失えない存在感と、存在自体が一つの指標になってしまうという技は。
 RHODIAにはいくつかのサイズがあるが、私が愛用しているのは105mm×148mmのサイズのもの(信頼文具舗だと「中のロディア」)である。最初はちょっと小さいなと思っていたのだが、この小ささが丁度いい。スーツのポケットに入るので、どんなミーティングの時にも忘れずに持っていくことができるし、すぐに取り出してメモすることもできる。それでいて、一ページにある程度の文章量を書き込むことが出来る。いろいろなサイズのRHODIAを試したが、やはりこのサイズが一番しっくり来るようだ。


 RHODIAの導入によって、私のToDoは常に一ヶ所で管理できるようになった。付箋と違って散逸もしなければ見失わないし、その存在感によって電子ファイルと違って見なくなってしまうこともない。そして充分に機能的で、何より使っていて楽しい。
 相変わらず私の机の上はひどい状態だが、ToDoリストが散逸することはなくなった。これをもって「ついに私も整理整頓ができるようになった」というほど私は能天気ではないが、しかしいくらかでも機能的に仕事ができるようになったのは確かである。


 それともうひとつ。付箋のToDoは終われば捨てられるだけだし、電子ファイルのそれは画面上から消えていくだけである。だがRHODIAは、表紙と裏表紙がそのまま残る。
 使い切ったRHODIAを捨てることができなくて、私はそれらを手元に残してたままでいる。やってもやっても増えるばかりの仕事の山に疲れたとき、その中身のないRHODIAを見るとほんの少し、つめの先ほど自信が戻ってくる気がする。少なくとも、今までにこれだけの山を越えてきたのだ。使い切ったRHODIAの存在は、そんなことを私に教えてくれるのである。 

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金 - 3月 16, 2001

情熱の引鉄。 



 ものごとにはおおよそきっかけというものがある。例えば、前回からの引きになってしまうが、一年半ほったらかしだったWebをリニューアルしようと思ったのは、「ココノネ」という名前を思いついたからである。思いついたというより、突然ふってきた、というほうが感覚的には正しい。いや、あくまで感覚の話なので、ここで「なんだ電波の人だったのか」と思われて引かれてしまうと困るのだが。そうか、「天啓のように閃いた」といえばよかったのだな。
 例によって初手から話がそれるが、「ココノネ」という名前には特に意味はない。最初に音を思いついて、なんだかその跳ねているような調子が気に入ってしまい、なんとなくWebページのタイトルによさそうだな、じゃあどんな内容がいいだろうと考えているうちにこうなってしまったのだった。世の中、何がどう転ぶかわからないものである。大体、なんで「ココノネ」がWebページのタイトルなのであろうか。なんか自己否定に走っているような気がしないでもないが、我がことながら誠に不思議だ。
 それはともかく、もし「ココノネ」が降ってこなかったら、私はWebを再開しようなどと思わなかった、という点は間違いないだろう。まさに「ココノネ」様々という感じである(罠に嵌められたという気もしないでもないが)。
 きっかけといえば、前回の[kokonone]で取り上げたNewtonを最初に手に入れたきっかけというのもいまだはっきり覚えている。
 かつて勤務していた会社で、私は甚だ相性の悪い上席者の下でストレスをためつつ仕事をしていた時期がある。ある日まともにその上司と衝突してしまい、頭に上った血をおろすために読んだMacFanの広告ページにNewton MessagePadの特売が載っていたのだ。当時はまだ日本語環境がなくて英語のまま使うしかなく、現在の壊滅的な英語力(どのくらい壊滅的かというと、現在のアメリカ人上司と英語で喋ると、確認のため向こうが内容を日本語で繰り返すくらいだ)よりもさらに破滅的だった状態で、冷静な状態だったらとても手を出したとは思えない。しかしその時の私は、(当時の)上司との激しい言い争いの後で通常の思考状態ではなく、半ば勢いで発注してしまった。今でも忘れられない、これが私の最初のNewton、MessagePad 100である。
 Newtonを手に入れて、私の生活は劇的に変わった——というとさすがに嘘だが、嗜好が変わったことは間違いない。あの時Newtonを手に入れていなかったら、私は今ごろ全く違った場所にいただろう。MessagePad 100が到着した日、私は欲しくてたまらなかったおもちゃをやっと買ってもらえた子供のように、いつまでも布団の中でNewtonを触りつづけた。日本語が使えないことなんてなにも関係なかった。それは、今でも私にとって忘れられない夜なのだ。
 その時間のきっかけになったのが、あのにっくき上席者との言い争いだったわけである。それを考えると、あの元上席者の顔は一生忘れられそうにないわけで——ううむ、なんだかえらい複雑な心境である。
 ここ数日の私の主たる関心というのは、Visor EdgeとかSony PEG-N700Cとかそろそろ発表ですかね本命m505とかである。m505が来週——いかん、長々と書いていたらもう今週になってしまった——の発表というのは本当であろうか。大変楽しみでる。できればPEG-N700Cで実現された高解像度を期待したいところであるが、おそらくそれは辛いところであろう。となると、日本では高解像度をとるか正統のPalmV系筐体をとるかで悩む人が続出すると予想するのは容易である。見比べては判断に悩んで頭をかきむしる人々の群れがに見えるようだ。いや決して私がそうだというわけではなくて。
 (毎度のごとく)話がそれたので戻すが、短期的にはともかくもうちょっと長いスパンで見た場合、最近の私の関心は文房具に集約される。文房具の中でも特に筆記具。どのくらい集約しているかというと、先日念願叶って出張の折ついに訪問できた森田商店さんで一時間も話しこんでしまい、そのくせ何も買わないで帰ってしまうという極悪非道な真似をしながらちゃっかり輸入筆記具のカタログをお土産に戴き、以来毎晩寝る前にそのカタログを眺めてから寝るのが習慣になってしまっているくらい集約しているのである。もちろん寝るときも森田商店さんに足を向けないように注意するのはいうまでもない。なんというか、我ながらまるで子供のようであるが、しかし見ている間は本当に楽しいのである。ここのところ睡眠不足気味なので、客観的に見ればカタログ見ている間に寝たほうがいいのに決まっているのだが、寝つきの悪い乳幼児がおしゃぶりを要求するように、どんなに眠くてもカタログを見ないと落ち着いて眠れないのであった。バブー。
 最初の[kokonone]でも書いたとおり、もともと私はステーショナリーは好きだった。しかし、それは例えば東急ハンズにいったら文房具売り場をうろつくのが楽しいとか、銀座伊東屋の近くに行ったらつい寄ってしまうとかそういうレベルのものであって、カタログバブー状態(こら)とは明らかに違っていた。
 現在のようなモードにシフトした直接的な要因がCross Century Graphiteにあることは、既に書いたとおり明らかである。しかし、そもそも私がCrossに関心を持ったきっかけは、また別にあるのだ。
 cRossBar。


 cRossBarをご存知ない方もいると思うので、簡単に紹介しておきたい。
 cRossBarとは、A.T.Cross社製ボールペン用のリフィルである。通例、ボールペン用のリフィルというと黒とか青とか赤とかの替え芯だったりするわけだが、cRossBarはスタイラスリフィルである。わかりよくいえば、Crossのボールペンを入力ペンとして使えるようにするためのパーツ、ということになる。
 そして最大の特徴は、これがA.T.Cross社やサプライメーカーが販売している品物ではなく、掌極道という、個人によって運営されているWebページから生み出されたものである、ということだろう。
 Newtonに代表される(というと違和感のある人は多いと思うが、そして何を言っているのかわからない人はもっといると思うが、ともかく私としてはそうなのだから仕方がない)ペン入力デバイスのユーザの中には、スタイラスペンが悩みの種である人も多かろう。私は最初のNewtonの時からペンでの入力を多用していたので、デバイス付属のスタイラスは常に悩みの種だった。使いづらいのである。


 写真の上から順に、Newton MessagePad 初代/100用、MessagePad 2000/2100用、PalmV用のそれぞれ純正付属スタイラスである。一番下に比較用に並べてみたのが、現在ボールペンとして最も使用頻度の高いCross ATXである。
 一瞥しただけでわかる通り、全て短く、細い。MessagePad 初代/100のスタイラスは細く見えないかもしれないが、これは細いのじゃなくて薄いのである。横から見るとこんな感じなのだ。


 これではペンではなく、風邪で病院に行ったときに喉の奥に差し込まれて「あーと声出して下さいねーはいあー」と言われるときに使うやつである。ものを書くのに使うものではない。Newton本体は良いのだが、このペンは最初の頃から嫌だった。デザイン的に、というより、長く使っていると指が痛くなってしまうのである。
 私はものを書くときに、熱中してくるとだんだん指先に力が入ってきてしかも筆圧が高くなってしまうという癖がある。そういうときにこれらのペンを使うのは辛い。細すぎるので、指先の妙なところに力が入ってしまうのだ。しかし何より辛いのは、熱中して使いたいときに使えないということだ。
 そんなわけで、同じ道をたどった人は多くいると思うが、私は多くのサードパーティ製スタイラスを試してきた。最初の頃は内蔵型——つまり純正と同じ形で重さやデザインが多少違うものが主だった。このあたりはまだ、「スタイラスは本体に内蔵するものだ」という思い込みに囚われていた時代だと言えよう(時代?)。しかし当たり前だが、本体内蔵型である限り、使い勝手が悪いという根本的な難点は同じように引き継いでしまうのだ。
 程なく私は非内蔵型のスタイラスペンを物色するようになったが、なかなか気に入るものは手に入らなかった。いろいろなメーカーから出ているペンを一通り調べ、いくつかは実際に購入した。しかし長く使ったものはほとんど無かった。最初はよくてもいずれは本体内蔵型の利便性にさえ勝てず、使わなくなってしまう。唯一、比較的長く使っていたのがrotringのトリオペン・インプットで、これは見た目も機能も良くて気に入っていたのだが、私の手では少し重くて、バランスが悪かった。おそらく最大の問題は私の非力さだと思う。もの自体は気に入っているのだが、長時間の使用に(私の指が)耐えられないという点で、それは内蔵スタイラスと同じなのだった。もう二回り私の手が大きかったら、多分話はここで終わっていただろう。
 とはいえ、トリオペンは今でも鞄に常備されている。ボールペン、シャープペンシル、スタイラスの3 in 1なので、突然筆記具が必要になったときに非常に都合が良いのである。突然筆記が必要になったとき、宇宙戦艦ヤマトの真田さんのように「こういうこともあろうかと」ができるというのは非常に心強いものである。ピンチに現れての「こういうこともあろうかと」は、誰が何と言おうと男の子共通の夢である(違います)。ただ残念なことに、未だ突然スタイラスペンが必要になるという状況には陥ったことがないのであるが(残りの二機能は案外出番があったりする)。
 結局のところ、市販されているスタイラスのほとんどが気に入らなかったのは、それらが筆記具としてどこかバランスが悪いことが多いのが原因だったろう。もっともこんなことを言えるのは今だからであって、スタイラスを取っ換え引っ換えしていたころの私は、どうしてぴったりするのがないのだろう、一体何がいけないのだろうといつも考え、不満だった。不満だったが解決策が見つけられず、やがてスタイラスペンというのはつまりこんなものなのだ、と思うようになり、だましだましいろいろなペンを使って、我慢していた。
 cRossBarのことを知ったのは、丁度その頃のことになる。


 cRossBarの話を聞いて最初に思ったのは、面白そうだな、ということだった。そして、すごいことを考える人がいるものだな、と。気に入るものがない、リフィルがないから自分で作ってしまう、という発想は私には出来なかった。なんでないんだろうと思いながらぶつぶつ言っていただけだ。
 しかし、掌極道 組長・はるやん氏(当時はまだ「組長」ではなかったと記憶する)はそうではなかった。当時cRossBarはまだ開発途中で、Webページでは連日のようにその過程と、サポーターと呼ばれる試作品を使っている有志からのレポートが掲載されていた。
 それは、ただの製品開発の経過報告ではなかった。熱のこもったやり取りが繰り広げられているのを見ながら、私は、cRossBarそのものよりもそこで起きていることの方に惹きつけられた。一体何がここで起きているのだろうと。
 さんざ悩んだが、結局私はcRossBarのサポーターとしては参加しなかった。当時既に睡眠時間の確保に頭を悩ますような状態だったというのもあったが、一番大きな原因は興味をもって調べてみたCROSSボールペンの値段だった。Century Graphiteの時に書いているが、当時の私にとって1,000円を超えるボールペンというのは想像を絶した代物だったのである(rotringのトリオペンは3,000円だったが、「いやほら機能三つついているし」と論理的なのか非論理的なのか判断つきかねる理由で自分を納得させつつ、それでも決断まで二ケ月ほど要してしまったのだ)。スタイラスのためにそんな高価なボールペンを購入するというのは本末転倒だと私には思え、どうしても踏み切れなかった。
 当時、CROSSにもI.D.やTrophyといった製品があることを知っていたらまた話は変わっていただろうが、生憎私が調べた範囲ではそれらの製品はヒットせず、むしろCentury 18金ムク(ちなみにカタログ価格は200,000円)なんかが見つかってしまってますます別世界の話になっていたのであった。(間抜けなことに、ずっと後になってからもらいもののCenturyが自宅にあることに気づくのだが、それはGraphiteを購入してからの話なのだ)
 しかし、これは私の手の届かない世界の話だといったんは思ったものの、その後も私は掌極道のWebページを訪問しては進捗状況をチェックしていた。そして、時間が出来るとそれまで全く縁がなかった高級文具売り場に通っては、CROSSのボールペンを眺めるようになった。既に書いた通り、その後しばらくしてから私はCentury Graphiteと運命の出会いを果たし、筆記具の楽しさに目覚めてカタログバブーになるわけだが、その話は既に書いているので割愛する。
 なぜ私はcRossBarに惹かれたのだろうか。その書き味の良さだろうか。そうではない。試作品に対するサポーターのレポートなどからその良さは想像できたものの、それはあくまで他人の感覚でしかない。自分の手で試したわけではないから、「書き味がいい」のはあくまで想像でしかなかった。しかもそもそも、私は書き味については内蔵スタイラスでもさほど難儀は感じていなかったのだ。
 では、前述した、内蔵スタイラスの形状上の問題だろうか。しかし、細身のCenturyを見て、私は実際に持ったときの感じ、つまり長時間持ったときの痛みやなにかはあまり差がないのではないかと想像していた(念のため書いておくが、実際にはいうまでもなく全然違う。見た目が多少似ていても、やはり筆記具を長く造っている会社の製品は根っこが違うのであろう)。従って、それもまた、あまり大きな理由にはならなかった。
 では、なぜなのだろうか。


 私は「こだわり」という言葉や行為があまり好きではない(いや自分がやりまくっているのは重々承知しているのだが)。どこか視野狭窄の匂いがするからだ。
 cRossBarについて、私は「こだわり」という印象を受けなかった。客観的に、特にスタイラスに興味のないほとんどの人から見れば、なにをそんなことにこだわっているのだ、と言われそうなことであるのにも関わらず。
 しばらくの間、なぜなのか自分でも理由がわからなかったが、あるとき突然気がついた。私が、進んでいくcRossBarの開発状況からどうしても目がはなせなかったのは、常に先が気になってしまったのは、それがこだわりの品でだったからではなく、こういう言い方が適切かどうかはわからないが、「情熱の成果」だったからなのだ。
 職業を持ち、日々の仕事をこなしながら、全く畑違いの分野に挑む。口で言うのは簡単だがそうそうできることではない。時間、能力、知識、資金、体力。言いわけは色々あって、いくらでも出てくるだろうし、私もこれまでに何度も口にしたことがある。しかし最大の、しかし決して口に出さないだろう理由は、情熱、熱意、やる気、どんな言い方をしてもいいが、つまり前へ進もうとする感情とエネルギーを保ち続けるのが困難だということなのだ。
 短期集中的に力を振り絞ることは出来る。だが、例えば製品を開発してそれを販売するとなると、もっと長期的に力を注ぎ続けなければならない。それが出来ないのは、そこまでテンションを維持できないからだ。自分がそれを生み出すのだという強力な信念と、それを支える情熱が必要とされてしまうからだ。
 掌極道でcRossBarが生み出される過程に私が感じたのは、まさにその感情とエネルギーが保ち続けられ、前へ前へと進んでいく過程だった。信念と、情熱。言葉にすれば陳腐かもしれず、また一方的な思い込みかもしれないが、私はcRossBarにそれを感じ、そこから目がはなせなくなってしまった。ずっと見続けて、成果が生み出される瞬間をリアルタイムで見ることが出来たのは僥倖だと思う。
 製品版発売からしばらく経ってようやく手に入れたcRossBarは、期待に違わぬものだった。書きやすさについては様々なサイトで語り尽くされているので、ここでは触れない。しかしただひとつ、少し長くスタイラスを使うときには必ずcRossBarを使うようになった、ということだけは言っておきたい。
 cRossBarの書きやすさのある程度の部分が、CROSSボールペンの優れたデザインによるものだ、という点は事実だろう。しかし、そこに着目した閃きと、それを実現するために費やされた情熱、そしてそれらを支えた意志がなければ、この書きやすさは実現しなかったのだ。
 語られるアイディアは山ほどある。しかし、それが具現化されることは稀だ。cRossBarはその稀有なる一例なのである。それが生まれる過程を見、生み出されたものがこの掌の中にあることが、私にはとても嬉しい。
 cRossBarを使うとき、私には満足感と、心地よさと、少しの憧憬と、そして説明しづらい感情がわく。最後の感情を言葉で説明することは難しい。あえて言えば、こんなふうに人から言われているような感じなのだ。「——俺はやったぜ。おまえはどうだ?」
 少しの挑発と誇りを含んだその声に、私はなんとかして応えたいと思うのだ。 

Posted at 12:52 午前     |

金 - 3月 9, 2001

再来の時を待ちながら。 



 いやまいった。
 ココノネの更新が随分空いてしまったが、これはさぼっていたわけではなく——いや調子が出なくてさぼっていたのもないではないのだが、しかしやる気が無かったわけでは断じてないのである。それが証拠に、愛機iBookSE(初代)のデスクトップには「kokonone.txt」とか「kokononeNG.txt」とかいう分かりやすい名前のファイルが散乱しているのだが、これらはいずれも、書きかけては途中で行き詰まってしまった記事の残骸なのである。


 一つの記事をこんなに書き直したのは初めてである。最初に記事を書きはじめてから実にもう三週間になるのだが、その間どれだけ試行錯誤してもどうしても突破できなかった。書いても書いても、「これは違う」という感じがしてしまうのである。
 「これは違う」というより、「ノリが悪い」というほうが適切かもしれない。ココノネの記事は、大体どんな時でも最初の書きだしさえ決まってしまえばあとは勝手に筆が滑って、違った勢いが乗っていくらでも書けるのだが、今回ばかりはどうしても駄目だった。いろいろ書き出しを試しても、どうしても調子が出ないのである。乗れないのである。
 そもそも、毎年この時期——というより先月の半ばくらいは、もともと私にとって落ち着かない時期なのである。いや、別にそろそろ春だからとかいうわけじゃなくて。
 ご存知の方も多いと思うが、毎年二月の中旬、千葉県幕張メッセにてMacworld EXPO/Tokyo(今年から名称が変わったようだが)が開催される。なんで千葉なのにEXPO/Tokyoなんだ、という突っ込みはたぶんカウント不可能なほど多くの人がしていると思われ、今更では気恥ずかしいくらいなのだがそれでもつい書いてしまうほど幕張メッセは東京から遠く、だがそれでも仕事に余裕があれば会社を休んで初日に通ったりしてしまうくらい、それは私をそわそわさせる催し物(とかいうとバーゲンみたいだ)なのである。ちなみになぜか、私が初日に幕張まではせ参じた年はなぜか新しいプロダクトが発表されないのが通例だったりするのだが、今年仕事の都合でいかなかったら予想通り新iMacが発表になった。悔しい(いや別に悔しがることではなくてそれはよくわかっているのだが)。
 そのくらい楽しみにしているイベントがあったため、つい記事を書く時間を、開催前は噂話を探求するために、開催後は新製品に関する情報を追及するために、それぞれ使ってしまったのである。これではココノネの更新が進まないのもやむを得ぬ、ものの道理といえよう。って開き直ってどうする(歯止めが利かなくなってきたのでセルフ突っ込み)。
 しかし、実を言えば記事がまとまらなかったのにはもう一つ理由がある。Macworld/EXPOの噂話を探している間、私は毎年微かな期待を抱いて噂の山を探し回っている。そして終わった後、やっぱりなあと思いながらも、毎年同じように落胆してしまうのだ。
 探している噂話はいつも同じである。微かに期待していることも同じである。毎年毎年、どんどん可能性が少なくなってきていても、どうしても諦めきれないのだ。基調講演でジョブズが聴衆の前に立ち、懐からそれを取り出して高く掲げ、帰還の時を告げるのを。
 Apple Newton MessagePad。


 はっきりいって、Newtonは重い。重くてでかくて遅い。それは歴然たる事実である。少なくとも常時携帯して、来週の予定は……と尋ねられた時に実用的な速度で予定を確認するには工夫が必要だ。私のワイシャツの胸ポケットには入らない。美的センスに熟睡してもらって特大ポケットを作ったとしても、特大ポケットは重みでカンガルーのおなかのようにぶら下がってしまうであろう。これでは美的センスはともかく、小用を足すときにも胸ポケットの携帯電話を気にする以上に気にしなければならず、なかなか実用的とは言いがたい。
 私はPalmVとNewton Message Pad2100を所有しているが、情報管理の殆どはPalmVで行っている。その方が実際的だからだ。少なくとも、ほぼ素のままで軽快に使えるというのは大きい。
 もちろん画面の大きさはNewtonの利点ではある。打ち合わせの最中にPalmの画面でメモをとるという状況を私は考えられないが、その点、Newtonの大画面にスケッチモードでメモを取るのはそれなりの現実解である。これは大きなアドバンテージといえる……はずだったのだが、Palm Portable KeyboardとATOK Pocket for PalmOSで話がまた違ってきてしまった。まあ、キーボードには空間と土台を必要とするという制限があるので決して万能ではないのだが、それでも私の用途、つまり職場で議事録をとったりするのにはそちらの方が有効なのだった。少なくとも、HotSync一発でPCへデータが取りこめるのがいい。Newtonの場合はこうはいかない。出来なくはないが手順が必要で、面倒なのである。HotSyncボタンをぽちっと押せばいいだけのPalmとは随分違う。
 こんなふうに書いていくと、まるでNewtonには他のデバイスに勝る長所が何もないようである。しかし無論そんなことはない。Newtonは、他のデバイスに勝るどころか、他のデバイスが持ってもいないものを持っているのだ。
 それは、経験である。全く新しい、ユーザエクスペリエンス。


 Newtonを使っているとわくわくする。使って何かをしていると、ではなくて、使っているだけでわくわくするのだ。それは、Newtonを使うことが全く新しい体験、他ではできない体験だからだ。
 もちろん、斬新なインターフェースのシステムというのはいくらでも考えられるだろうし、これからも出てくるだろう。しかしNewtonがほんとうにすごいのは、それが極めてユニークなユーザエクスペリエンスを提供しているにも関わらず、その全てがごく自然だということだ。典型的な例を一つ挙げよう。


 PCやPalmOS搭載機のワードプロセッサやメモ帳で、新しい文書を作成するときの一般的な操作は、「メニューから「新規」を選ぶ」だろう。だがNewtonのNotesでは違う。「ページを横線で区切る」なのだ(念の為追記しておくと、NewtonOS 2.0ではメニューから「新規」のようなこともできる)。見たことがない人は言葉で言われてもなんだかわからないと思うので、ココノネ初!の動画を見ていただこう(要QuickTime plug-in)。

新規ノート作成(155KB)

 これは、ペンベースのデバイスではおそろしく自然な動作(操作ではなく)である。実際、私は紙のノートパッドでメモをとるときも、内容を区切るとき横線を引く。たぶん多くの人がそうだろう。Newtonはその操作によって、新しいページを自動的に作成する。ユーザは「新しいページを作る」ということを意識する必要は全くなく、「ここで書く内容を変えるから区切ろう」とすればよいだけなのだ。
 Newtonが最も優れているのはこの点である。ユーザがペンを使ってメモをとるときの自然な動作を、極力そのままNewtonに対する命令にしてしまう。普段からやっている動作なのに、それがそのままNewtonを使うことにつながっている。コンピュータを使うときに「コンピュータを使う」ことを意識しなくていい——それが経験できるのは、おそらくNewtonだけだ。
 もう一つ、あの有名な例を挙げておく(いや、動画のっけるのが案外楽しいもんで調子にのって)。
 Newtonで、書かれた文字や図形を消すときの動作を”スクラブ”と呼ぶ。動画を見てもらったほうが早いが、というか言葉で説明するのが非常に難しいのだが、間違って書いてしまった文字の上をぐちゃぐちゃっとジグザグの線で消す操作のことである。Newton以外では、マウスポインタなりなんなりで対象となる文字か図形を選び、キーボードのDeleteキーを押す(か、メニューから「削除」のようなのを選ぶ)動作になるだろう。それがNewtonではこうなる。

スクラブ(113.6KB)

 NewtonユーザがNewtonをデモするとき、必ずやるのがこのスクラブであろう。このくらいわかりやすくNewtonの特徴を象徴するものはなく、見物人のリアクションが楽しいものも、Newtonユーザの見栄を満足させるものもない。スクラブを見せて観客が「おおっ」とどよめくときの快感というのは、他のデバイスでは決して味わえないものだ。
 私の見栄と悦楽はさておくとしても、おそらくスクラブは、新規ページ作成よりもはるかに自然な動作であるに違いない。あまりに自然過ぎて、いったんこの動作で文字が消せるというのを覚えてしまうと、紙を含むほかのデバイス上でもついこれをやってしまうほどだ。Palmに乗り換えたNewtonユーザが、メモ帳上で文字を消そうとしてついスクラブしてしまう例は枚挙に暇がなく、幸いNewtonがそれほど普及していなかったからよかったものの、爆発的にヒットしていたら社会問題化していたことであろう。私も、紙の上にメモをとっていて、スクラブしてなぜ文字が消えないのか不思議に思うことが——いやさすがにそれは嘘だが、スクラブして消えればいいのになあと思うことはよくある。というよりむしろ、「なんで消えないのだろう」と思ってしまったりするのだ。
 まさに、Newtonは「インテリジェントなノートパッド」だった。
 今、Newton Message Padを指すために作られた言葉である「Personal Degital Assistant」の名を冠したハンドヘルドデバイスは山ほど出ている。だがその中に、インテリジェントなノートパッドを目指したものがあるだろうか。Newtonを使うことが心地よいのは、それが他に存在しない、全く新しいものだったからだ。そして、更にその先を目指そうとしていたからだ。
 小さいPCはたくさんある。そして、現在の技術的限界を考えれば人間が機械に歩み寄る必要があるのもよくわかる。Newtonの問題は、そのことへの配慮が少なかった(実際に配慮されなかったかどうかはわからないが、少なくともプロダクトからはそう思えてしまう)ことだろう。だがその代わり、他のデバイスが配慮どころか考えてもいなかったことを、Newtonは考えていたのだ。
 Newtonが大きく、重く、遅くなってしまった理由の多くは、その技術的限界によるものだろう。もっと高速で安価で熱くならないCPUがあれば。もっと小さくて軽い、長持ちするバッテリがあれば。だが、ればれば言っていてもしょうがない。
 Newtonプロダクトが販売されなくなってから、もう三年になる。スティーヴ・ジョブズが帰ってきて、Appleは再生された。iMacが発売され、デザインラインが一新され、ユーザは迷走するAppleを見なくてすむようになり、業績は上向いた(最近ちょっと下向いたが昔から比べたらたいしたことではないし、少なくとも迷走していないだけでも見ているほうの胃にはいい)。すべてジョブズが戻ってきてからだ。これは彼の功績だろう。
 だが彼は、Newtonを殺した。世界でたった一つだけ、全く新しい地平を目指していたプロダクトを。


 私の手元にはMessagePad 2100があり、私はそれで満足している。だがやはり、新しいNewtonが生まれてこないのはさびしいし、間違っていると思う。メインストリームにならなくてもいい、デファクトスタンダードなんかどうでもいいから、存在していてほしいと願う。存在して、更に先を見せてほしい。新しい体験をさせてほしいと思う。
 だから、どうせ無駄だろうと思いながらも、私はどうしても毎回待ちつづけてしまうのだ。Macworld/EXPOが開催されるたび、Newtonの帰還が高らかに告げられる、その時を。 

Posted at 12:50 午前     |

土 - 2月 3, 2001

未来のカタチ。 



 21世紀というものについて、かつて自分がどんな想像をしていたのかというのが思い出せない。なんせ私のことなので、すごくくだらないことをしかし一生懸命考えていたであろうことは想像に難くないが、しかし考えていた内容というのがわからないのである。おそらく、このまま20世紀の謎として歴史の陰に埋もれていくこととなるであろう。
 自分自身の想像は別としても、TVアニメや漫画、当時熱心に読んでいた学習雑誌に出てくる未来世界というのを見ては、きわめて素直に「なるほど21世紀はこうなるのか」と思っていたのは覚えている。なぜだか私は本に書いてあることは真実なのだとずっと思っていた。それは「大人=万能=間違ったことはしない」という無邪気な信仰に裏付けられていたのだが、これが破壊されたのは実に15歳になってからであった。ずいぶん遅い気がするが、まあ世の中には大器晩成という便利な言葉があることなのでそれは脇においておくことにする。
 ともあれそんなわけで、15歳になるまでの私は、華々しい未来予想図を実に素直に信じていたのであった。
 いつものように話がそれるが、実際に21世紀になって「想像していた21世紀と違う」と考えているのはどのくらいの年代までなのであろうか。私の年代(ちなみに30台前半)はそうだと思うのだが、10歳以下はあまりそういうことは感じていないだろう気がする。少なくとも5歳以下はそういうことは考えないであろう。5歳の子供が「ちっ、なんだよ21世紀になったからってなにもかわんねえじゃねえか未来なんてつまんねえぜ」とか言っていたら面白いことは面白いがちょっと怖い。
 「21世紀」という言葉が「未来」とほぼ同義だった世代というのは確実に存在すると思うのだが、それが具体的にどこまでなのかというのはちょっと気になる。もちろんグレーゾーンは存在するだろうが、少なくとも意識の違う集団があるのは間違いないだろう。「21世紀≠未来」の世代はどんな言葉に未来を感じるのだろうか。
 私にとっては、現実にその時が来てもなお、「21世紀」という言葉は「未来」とほぼ同義だ。そうでない人との間には、おそらく越えがたい世代間格差を感じることであろう。たぶん、「生まれたときからTVで『ドラえもん』やってました」という世代に感じるのと同程度の差は感じるに違いない。
 それはさておき。(どうして私は話をするときに次から次へとさておくものを取り出すのであろうか。我ながら自分のどこにこんなに引出しがあるのか不思議だ)
 私が信じていた未来図の多くは、残念ながら、今のところ実現していない。まあ、当時でも鉄腕アトムができるとは思っていなかったしエアカーも無理っぽいなとは考えていたが、エアチューブとか立体テレビくらいはできるのではないかと期待をかけていたのだ。しかし純真な少年の期待も空しく、残念ながらこれらは実現していない。もっとも、ビルとビルの間をぐりぐり通る透明のチューブというのはなかなか未来っぽいことは未来っぽいが、天気のいい日にその中を歩こうもんならたちまち熱射病になることは間違いなしという気がする。
 中には、21世紀を待たずに20世紀中に完成するであろうと思われていたにも関わらず相変わらず実現していないものもある。例えばリニアモーターカー。リニアモーターカーなんて、私が小学生の頃には既に走行実験が行われていたのである。この間テレビで見たら、まだ走行実験を行っていた。いったいいつまで実験しているつもりだ。お願いだから早く実験は終わりにして、本運用を開始してほしい。私は子供の頃にその動作原理を聞いて以来、早く実用化されないものかとずっと待っていたのだ。だって宙に浮くのである。宙に浮いて滑るように走るのである。かっこいい。しかも高速で走る際の風の抵抗を減らすためのあの形。流線型。あの流れるようなライン。未来技術の粋(この辺でなんかちょっと違う)。かっこいい。
 私が小学生の頃、未来っぽいデザインはみんな流線型に見えた。流線型が未来だった。あの頃、少なくとも私にとっては、流線型は未来の、明るく楽しく信じられる、そんな未来の象徴だったのである。
 その後世界は(外側も私の内側も)どんどん変わり、未来の象徴はどんどん変わっていった。スマートな流線型は金属剥き出しのごついデザインになったり、生物と無機物が合成されたようなデザインになったりした。その時その時で、未来にたいするイメージがあって、デザインとイメージはいつでもペアだった。でも、時代が変わったせいか私の内面が変わったせいか、流線型が感じさせてくれた明るく楽しい未来はその後ずっと現れなかった。現れないまま時間が過ぎて、なんとなくそれが当たり前になってしまった20世紀末に、それは突然私の前に現れた。


 Cross ATX。
 前回書いたCentury Graphiteと同じ、A.T.Cross社の新製品である。しかし最初に見たとき、私はこれがCrossのボールペンだとは思わなかった。あまりにもイメージと違っていたからだ。
 私はGraphiteを入手する前に二本、社名の入ったCrossを貰ったことがあるが、それはいずれもCenturyシリーズだった。あの、細身で円錐のキャップ。それが私にとってのCrossのイメージになっていた。
 Graphite購入の際にカタログを貰って(私は何でもすぐにカタログをもらう。実際に購入する前、カタログを見たりWebで調べたりしている時が一番楽しい時かもしれない)、私はCrossにCenturyIIやTownsendといったシリーズがあることを知った。御存知の方も多いと思うが、これらのシリーズはCenturyに比べると軸は太くなっている。Cross=細くて重いボールペン、という私の一面的なイメージはそこで塗り変わったわけだが、それでもキャップの部分をはじめ全体的な雰囲気は統一されていると思っていた。
 しかしATXは、これらのラインとはかなり違うイメージの製品だ。まるで高速で落ちていく水滴のような、滑らかなライン。流線型。最初に見たとき、私はどこか別のメーカーの製品なのだと思った。そのくらい、私の中のCrossのイメージとは違っていたのだ。
 実際に使ってみるとわかるが、この形は見た目から(私が)想像するよりずっと使いやすい。特に、手にしたときのボリューム感は絶妙である。いったんこれを使ってしまうと、Centuryに戻ったときしばらくは物足りなくなってしまうほどだ。指でつまむところがやや細く、指の付け根にのせる部分がある程度の太さがあることで、手に持ったときの安定感と安心感、それでいて指先の軽快な操作感を生み出すことに成功している。


 毎度再現に泣かされているが、これもまた鮮やかな色彩をしている。表面はつや消し加工されているので、Graphiteの時のように使ったからといって指紋がつくわけではない。指紋定着率(勝手に新しい日本語を作らないように)が標準以上に高い私としても、安心して長時間利用できるというものである。
 リフィルはCrossの他のボールペンと同様のものを使う。私は購入時青字のMに交換してもらった。やはり中字の方が滑らかで、その分書き心地がいい。細かい字を書くのにはむかないが、学生の頃B罫のノートに細かい字でみっちりと文字を埋めるのを信条としていた過去など消し去ったかのように罫もマスも無視してでかい(そして大雑把な)字しか書かない今の私には、米粒に般若心境を書かねばらないようなピンチにでも立たされないないかぎり、その太さはなんら問題にならない。
 ひっかかりというものがほとんどない書き心地には、本体の適度な重さも手助けしている。非力な私にとっては長時間利用していても問題ないぎりぎりの重さである。ペン自体があまり重いと、少し書くぶんにはいいのだが、長く使っていると手が疲れてしまう。現在体の隅々まで体力のない私にとっては、あまり重いペンは少し使うぶんにはその重みが書きやすさを与えてくれていいのだが、長時間の使用は辛い。一撃必殺の秘密兵器という位置づけといえ、ドラえもんでいえば空気バズーカかもしもボックスというところであろう。一方ATXの重量とバランスは、常用するのにちょうどいいところに保たれている。まさにタケコプター感覚と言えよう(たとえがなんだかわかりません)。


 しかし、最大の特徴はやはりこの形であろう。この流れるようなライン。特に、クリップの根元を見て欲しい。ここのラインに私はやられた。この、極めてシンプルな、しかし魅力的なラインに。
 ATXを使っていて楽しいのは、この書き心地と、(少なくとも私にとっては)明るい未来を象徴する形状のためだろう。希望の未来。花言葉のようにボールペン言葉というものがあれば(旦那いくらなんでもそれは無茶ってもんです)、ATXにはそんな言葉がふさわしい。
 実はこのATXは、妻と揃いで購入した。それも、2000/12/31に。旧世紀の最後の一日に、明るく正しい未来を象徴するボールペンを二人で購入する。世紀の越え方としてはまあまあいいのではないかと思っているのだが、いかがなものであろうか。 

Posted at 12:41 午前     |

金 - 1月 26, 2001

指先の悦楽。 



 最近のにはあまりないようなのだが、履歴書とか自己申告書とかとにかくそういう類いのやつにはなぜか「趣味」という欄があったりする。お見合いじゃないんだから趣味を訊いてどうしようというのだと思うのだが、欄があったら埋めねばならない。このへんがマークシート世代のトラウマである(違います)。
 学生の頃私は、この「趣味」欄を埋めるのが嫌だった。書くことがなかったわけではない。あったのだが、素直に書けなかったのである。……いや、あのね、表に出せない趣味があったというわけじゃなくてね。どういうことかというと、当時の私の第一の趣味は、何よりもまず読書だったのである。
 ああいうところに書く「趣味」で面白みがないやつベスト3は、おそらく「音楽鑑賞」「スポーツ鑑賞」「読書」であろう。私の周りでも、なんと書こうかと悩んでいるような人間は大体この三つのうちどれかを書いていた。現在でもそうだが、当時は多分に今より自意識過剰で人の評価を気にしていた私は、「俺はここに読書って書いてるけどあいつらの読書とはわけが違うんだよ他に書くことがないわけじゃなくて本当に読んでるんだよだって小遣いのほとんどは本代なんだから本当だってば」という、非常にうっ屈した気持ちで趣味の欄を埋めていた。どのくらいうっ屈していたかというと、一時期私は「読書(年間××冊)」などと書いていたくらいである。我が事ながらまことに嫌なやつである。側にいても絶対に仲良くしたくありませんな。
 勿論読書というのは数を読めばいいというものではないし、大体冊数で裏打ちしようというあたりが浅はかこの上ない。だがそれでも私にとっては、本を読むことが好きで、本を読むのは生活の一部で、当たり前のことだった。何も書くことがなくてしょうがないから書いているようなやつとは違うのだ、自分にとって本というのは切り離せない存在なのだということを、どうしても主張したかったのである。
 本を読むことは、勿論今でも好きである。好きなジャンルや好きな作家というのは当然存在するが、私は基本的に文章を読むこと自体が好きだ。目の前に活字があると、人と話していてもどうしてもそっちに目がいってしまう。電車に座っていて、前に立った人が新聞など読んでいようものなら、自分も同じ新聞をとっているくせに相手が読んでいる反対側を熟読してしまう。文章を読む、という点では私の嗜好は昔から変わっていない。ただ、本を読む冊数は圧倒的に減った。時間が取れないからである。正確に言えば、本を読むより先にしなければならないと思うことが増えたから、である。仕事が増えたからというのとは違う。仕事も増えたが、それ以外にやりたいことが増えたのだ。残念だが、しょうがない(と、思わないとしょうがない)。
 最近は購入する本の冊数が減ったので変わってきたが、大量に購入していたころ、私の本の扱いには一つのルールがあった。
購入のとき、書店の紙製カバーをかけてもらう。
レシートをもらって、それを本にはさむ。
読み始めたら、レシートをしおりにする。
読み終わったら、レシートを最後のページにはさみ、紙製カバーをとる。
本棚に並べる。
 レシートをはさむのは、ちょっとした記録になるからである。一時期購入した書籍についての記録をとっていたことがあるのだが、大体面倒なんですぐやらなくなった。しかし、日記と同じでこういうのは残しておくと後が楽しいのである。多分他の誰も楽しくなくて楽しいのは本人だけなのだが、それでも楽しい事は楽しい。しかし、将来のちょっとした楽しみのために現在多大な労力を費やすのは人間誰しも嫌なものだ。だから国民年金の掛け金はなかなか支払われないし、ダイエットのための努力は日々先延ばしにされるのである。(どきどき)
 記録を残す代わりにレシートをはさむ、というのは大学時代、ゼミの教官に教わった方法である。初めて聞いたとき、私は目からうろこが落ちた気がした。まさにエウレ(一度使ったネタなので自粛)。手間がかからなくて、記録になる。その気になれば裏にメモだってかける。なかなかである。
 一方読了後カバーをはずすのは、本棚に並べたときに何の本か一目でわかるようにしたいからである。私は気に入った本は何度も何度も再読するので、カバーがかかっていると探すのが大変なのである。
 じゃあ最初からかけなきゃいいじゃないかという方もいるであろう。いや必ずいるはずである。特にエコロな方は必ずおっしゃるであろう。……すいません、仰る通りです。でも私はなぜか、最初に読むときだけはカバーがかかってないと嫌なのである。
 ちなみに、ここでおそらくは万人から突っ込みを受けそうなことは当時の私も考えた。汎用のカバーを買って、それを使うという方法である。これはなかなかいい考えだと思え、そこで私は革製文庫本ブックカバー(当時の主力購買品は文庫本であった)を購入した。長々と述べたように、本を読むということに思い入れのあった私は、ずっと使うのだからいいものでなければならぬという信念に基づき、気合を入れて(その頃の懐具合から考えると)分不相応なくらいいいカバーを買った。買って、喜んで使い始めた。……最初の三冊くらいまでは。
 使わなくなった理由ははっきりしている。革がよすぎたからだ。よくて、厚かった。厚いカバーは文庫本自体の厚さと重量を増加させ、読むときにカバーと本体を同時に持つことを面倒にした。私は割と手が小さい。というか指が短いので、表紙が厚くなるのは結構辛いのだ。机の前に座って読むのならよかったかもしれないが、私は本をどこででも読む。興にのってくると立ったままでも歩いたままでも読むので、持ちづらくなるのはなにより嫌だった。
 そんなわけで、せっかく購入したブックカバーもすぐ使わなくなり、その後何回かの引越しにまぎれてどこかに消えてしまった。多分、捨ててしまったのであろう。十数年前の話である。
 そんな私のもとに、再び革製カバーがやってきた。去年の末のことである。


 話がそれるが(というかそもそも最初っからずっとそれっぱなしだが)、妻は時折、普段のなんということもない日に私にプレゼントを贈ってくれたりお土産を買ってきてくれたりする。プレゼントというと誕生日かクリスマスの、お土産といえば旅行の、という発想しかなかった私にとって、妻のそうした贈り物はいつでも少しびっくりすると共に、なんだかとても嬉しいものだ。それに、変な言い方になるかもしれないが、「人生はもっと楽しんでいいんだよ」と教えてもらっているような気がする。このブックカバーもそうして妻から贈られて、私に色々なことを思い出させてくれた。そう、私はもうずいぶん文庫本も買わず、小説も読んでいなかったのだ。ほんの十年前、あれほどたくさんの本をむさぼるように読んでいたのに。


 また微妙な色なのでWebでうまく出るかどうか心配だが、表面の色を見てほしい。本当に微妙なグレーである。この色がなにより素晴らしい。
 私はずっと変な思いこみがあって、革製品は茶色でなくては駄目だと思っていた。だって革なんだから茶色のはずである。せいぜい妥協して黒。黒までは許す。だが緑やピンクなど邪道だ、というのが私の強固な信念だったのだが、昨年ルイ・ヴィトンブティックで緑のエピを見て宗旨替えした。いや、あんなきれいなもんだとは思ってなかったのである。ついでに言えば、ルイ・ヴィトンはずっと毛嫌いしていたのだが(いや今でも町に氾濫するヴィトンのバッグは好きではないが)、それもその時に見方を変えた。なるほどいいものはいい。
 最初に見たとき黒かと思った色は、明かりの下に照らすとグレーになった。ちょっと陰に持っていくと微妙に表情を変えるこの色がたまらない。


 このブックカバーの最大の特徴は、薄いということである。変に凝っておらずつくりがシンプルなので、全体が薄くできている。だから、かつて私が使ったブックカバーのように文庫本をむやみに厚く、重くするということがない。これは重要である。私は鞄が重いのは嫌いなのである(なぜって非力だから)。その中に入るものは少しでも軽いほうがありがたい。


 ここのべろの部分がなぜこんなに長いのか、実を言うと私は妻から教えられるまでわからなかった。そう、おり返してしおりの代わりにするのである。実を言うと、レシート挟む派の私としてはこの仕様は最初抵抗があった。レシートが不用になってしまうではないかそれは俺のポリシーに関わる問題ではないかけしからん。って冷静に考えてみれば、私がレシートを挟むのは記録と記憶のためであって、しおりとして使うのは二次的利用なので、別にポリシーには抵触しないのであった。それでもやっぱり、こんなに長くなくてもいいのになあと最初は思っていた。思っていたが、いざ使ってみるとこれが思いのほか便利である。なにが便利といって、カバーをつけている限りしおりが絶対なくならないのである。レシートをしおり代わりにしているとそれが最大の問題だったのだが(レシートというのはおおよそ小さくて軽い紙でできているので、風で簡単に飛ぶわちょっと開いた隙に落ちるわで管理が大変なのである)、このべろをしおりとして使う限りその心配は御無用である。甚だ心強い。


 しかし、結局のところ一番重要なのは、その触感であると思う。素手でもったとき指に吸い付くようなその触感は、革素材ならではのものだ。それがあるから、文庫本のような軽い本を片手で読むときでも楽に保持することができる。だが、その機能面を除いたとしても、つややかな革の感触は、触っているだけで不思議な安心感を与えてくれる。その手触りを愉しみたいがために、何冊本を買っただろう。
 勿論、本を読むことは楽しい。ずっと忘れていた、意識しないようにしていたことだったのだが、本を読むことは楽しいのだ。
 今なら、昔よりもずっと素直に、趣味の欄に「読書」と書けるに違いない。というより書きたいのだが、そういうときに限って、そんなものを書く機会には恵まれないのであった。 

Posted at 12:38 午前     |

火 - 1月 16, 2001

いるときにいらない。 



 前回の[kokonone]があまりに前振りが長くてなかなか本題に入らず、読んでいる人もそうだったと思うがなにより書いている本人が苛々してくるような有り様だったので、今回は思い切っていきなり結論から書くことにする。昨年末、国立商店 の「革製インナーケース for Palm」を購入した。現在愛用中で、なかなかに気に入っている。以上。
 ……結論から書き始めたらいきなり終わってしまった(当たり前である)。気を取り直して、少し話が前後してしまい恐縮だが、もう少し周辺の話を書かせていただくことにしよう。


 実を言うと、結構長い間PalmVのケースを探していた。Palmのケースはさすがにメジャーなだけあって数が多く、Newtonのとき気に入るケースがなかなかなくて哀しい思いをした私にとってはちょっと眩しすぎるというか変に悔しいというところがあるのだがそれはさておく。数がある中には作りもしっかりした、使い勝手の工夫されたものが多く、普通に選ぶのであれば選択に悩むことはあってもニーズにあうものがなくて悩むことはあまりありそうにない。そのくらい大量に種類があるのである。(いやもちろん数があればいいのではないことは重々承知しているのだが……選べるほど数がないのと比べるとやはり……ってさておいたんじゃなかったのか)
 しかし残念ながら、私のニーズはよっぽど特殊なのか、なかなか「これだ!」というのがなかった。当初の私のニーズは、

○軽くて薄い。PalmVの軽量薄型筐体のメリットを損ねず、Yシャツのポケットに入るもの。
○全面をカバー。仕切りのない鞄の中に入れておいても本体をガードしてくれるもの。
○すたぼQをつけたまま使用できるもの。
○開閉が容易なもの。
○私の美的嗜好に合致するもの。

というところであった。
 これらの条件を同時に満たしてくれるケースというのはなかなか存在しない。特に厄介なのが最後の条件である。なんせ非常に恣意的・主観的で時々刻々と変化するため、このハードルを越えるのは大変難しい。しかし、仮にその条件に目をつぶったとしても、最初の二つの条件がそもそも相反しているのである。薄くて、がっちりガード。なんだか生理用品の宣伝文句のようである。
 そもそも、装着してYシャツの旨ポケットに入るほど薄いケースというのが少ない。しかし私の場合、ウィークディの昼間のPalmはYシャツのポケットかクレードルの上が定位置であるため、これははずせない条件なのである。一方休日のPalmは、仕切りも何もないディバッグの中に無造作に放り込まれるシーンが多々あり、付属の液晶カバーだけでは甚だ不安である。なんせそのディバッグの中には一緒に何が入ってくるかわからないのである。本や書類のこともあれば、牛乳パックや冷凍食品のこともある。そんな空間に液晶カバーだけで放置されるというのは、Palmにとってはかなりデンジャラスであるといえよう。
 そんなわけでケースの必要性は非常に高いが気に入るものがない、気に入るものがないがなるべく早く必要というアンビバレンツな日々を送っていた私の頭に、20世紀末突如天啓が下った。そう、ケースを二種類必要に応じて使い分ければよいのである。まさにエウレカ。おそらく風呂に入って閃いたアルキメデスもこのような心境であったに違いない。
 道が示されてしまえば話は早い。緊急度が高いのは全体をカバーしてくれるケースのほうである。胸ポケットに収まっている限りにおいては、私の美的嗜好に眠ってもらえば問題はない。しかしディバッグの中は私の美的嗜好とは関係なくデンジャラスである。しかも我が家は21世紀早々に旅行に出かけることが決定していた(一泊二日だけど)。旅行鞄の中はディバッグよりモアデンジャラスであることは間違いあるまい。事態は風雲急を告げ、私は全精力をもってケースの選択に励んだ。
 ちょうどそのころ、日々の巡回コースであるPalmfan において、国立商店「革製インナーケース for Palm」の存在を知った。実は、当初検討していたケースの中には同じく国立商店のウルトラハードケースも含まれていたのであるが、こちらは私の美的嗜好ストライクゾーンを若干外れていたため、検討対象外となっていた。革製インナーケースは同じ国立商店製である。正直言って、最初はあまり期待していなかった。いなかったのだが、Webページを見に行って私の考えは180度回転する。まさにストライクゾーン。悪球打ちの男岩木でなければこれはもう買うしか。
 唯一問題だったのは、その時点で既に国立商店が年末休暇に入ってしまっていたことだけだった。営業開始は年明けで、従って年始の旅行ではこのケースは使えない。ちょっとためらったが、冷静に考えるとその時点で既にほとんどの店は年末休暇に入っており、年始の旅行で使うためには31日までやっている家電量販店などで買うしかなかった。であれば、まあ、やむを得まいよ。と夢枕獏の小説の登場人物めいた口調で自分を納得させると、私はWebページの「カートに入れる」ボタンをクリックしたのであった。
 しかし、20世紀は最後の最後に私にサプライズを用意していた。翌日、私は年末休暇に入っているはずの国立商店店主様から「先ほど出荷致しました」というメールを受け取ったのである。恐るべし国立商店。年末休暇というのはフェイクだったのである。恐らく私が購入を躊躇ってなんどもWebページにアクセスしていたのもすべてモニタされていたのに違いない。恐るべき組織、恐るべき技術力であるといえよう(違います)。
 とまれ、年末も着々と仕事をこなしていた国立商店と年始も淡々と仕事をしていたヤマト運輸のお陰でもって、21世紀最初の日に私は「革製インナーケース for Palm」を手に入れたのであった。
 ……変に工夫したもんだから、前回よりさらに前口上が長くなってしまった。しかし、(以下いいわけ)気に入ったものを手に入れる過程というのは実に楽しく、興奮する時間である。だからどうしても、そこを書きたくなってしまうのである。それに、手に入れるのに苦労したものほど、あとあと愛着が沸いてくるじゃありませんか。ねえ旦那(誰がだ)。
 さて。私がこのケースの何に惚れたかといって、それは黒と赤のコントラストである。そしてそのオールマイティな形状である。
 まずは色。外は黒一色なのに開いた途端見える鮮やかな赤。IBM ThinkPadもそうだが、黒と赤という取り合わせはどうしてこう色気を発散するのであろう。なんというか、直截に言えばぞくぞくしますな、という感じである。インナーケースの場合、その赤が普段は見えず、フタを開いた一瞬にちらりと見えるというところがまたいちだんと色気を増している。チラリズムである。素晴らしい。ケースに色気もないもんだという意見もあろうが、内部が赤でなく黒や青だったと想像してみてほしい。開いたときのイメージが全く違ってくるだろう。内部を赤にしたというだけで、このケースは開く瞬間の愉しみを有しているのである。


 次に形について。Palmのケースというのは、当たり前だがPalmを入れることを前提に作られている。従っておおよその場合、Palm以外のものは入れづらくできている。そりゃまあそうであろうし、それに文句を言う人間はそうはいまい。
 しかし、私のように週末だけこのケースを使うという人間にとって、その制約はなんだかちょっともったいないのである。何がもったいないといってあなた、せっかく気に入ったケースなのに週末しか使えないんですよ。年間の七分の五は使えない計算なわけですよ。それはあまりにももったいなさ過ぎるというもんでありましょう(気に入ったものだからこそ大事にゆっくり使うという発想が出来ないあたりが貧乏性)。
 その点このケースは、大きさに差のあるPalmシリーズを格納するため収納に融通が利くように出来ている。ホックや磁石でなく紐で止めるタイプなのでフタの長さがアナログに調整可能で、これがPalm以外のものを入れるときに極めて便利である。


 例えば私はP-inを持っているのだが(いや実は会社のものだが)、これが入るケースで良いのというのはなかなかない。普通のPCMCIAのカードと違い、出っ張っている部分があるので丁度入るケースというのがなかなかないのである。あっても、大体あんまり色気が無かったりするわけである。色気がないのはつまんないのである。しかしインナーケースであれば、P-inもきちんと収納できる。その他、Palmサイズの小物ならなんでもござれである。ちなみに前回取り上げたCross Century Graphiteも入るので、ペンケースとして使えないこともない。ただ、複数本入れるとお互いがぶつかってしまうので、憶病者の私は一度に一本しか入れられないのが難点だ。
 (余談だが、国立商店でこの黒+赤の組み合わせでペンケースを作ってくれないものだろうか。今ペンケースが欲しくて色々探しているのだが、なかなか気に入るのがないのである。インナーケースと同じデザインのペンケースがあったらなあとつくづく思う)
 本来の使い方であるPalmのケースとしては、まだ使い初めて日が浅いので多少窮屈であるがそれは入れるときだけである。いったん入ってしまえば全体をガードしてくれているというのはやはり安心で、年始旅行のデンジャラスな鞄の中でもPalmVを守って大活躍であった。
 ちなみにストラップを通す穴やベルトに止めるための金具もついているので、インナーケースといいつつ使い道は幅広かったりする。名前にだまされてはいけないという好例である。名は体を表すというのは万能なことわざではないのである。


 少し、難点もある。難点というか、希望といったほうがいいが。まず、国立商店のロゴ。同じインナーケースシリーズでも、A4サイズのやつは丸い国立商店のロゴがついている。しかしインナーケース for Palmでは赤いタグになっている。サイズの問題だと思うのだが、なんだかちょっと悔しい。


 それと内部の仕様。赤なのは非常にいいのだが、これもA4やB5サイズのものに用いられている「フカフカとした気持ちのいい感触」の生地にしてほしかった。だって、フカフカなのである。手触りがいいのである。そう言われたらあなた、これはもう触ってみたいじゃないですか。これもサイズの問題があるのかなと思うのだが、やっぱりフカフカは触ってみたいのである。フカフカ。フカフカ。うー。


 しかし、そうした難点(いや難点じゃないだろ)を差し引いても、このケースは気に入っている。ケース自体に存在感があるからだ。実際、中に何も入れずに机の上にぽん、と置いておいても、それがさまになってしまう。(中身を)使うときに使わない、昔の学習雑誌のなぞなぞみたいな話だが、その時でさえ価値がある。これを素晴らしいと言わずして何と言おう? 

Posted at 12:35 午前     |

金 - 1月 5, 2001

恋は突然やって来る。 



 それまで購入したボールペンの中で一番高かったのは、多分Dr.Gripだと思う。でも、一番気に入っていたのはZEBRAのJIM-KNOCKという100円のやつである。これはずいぶん長いこと使っていた。そもそも、ほとんど販促品をくれたことがない生保の営業さんが(いやこっちも話聞かないしちっとも契約しないんだから何もくれなくて当たり前なんだけども)、五年ぶりくらいに契約を切り替えたときに一つくれたのが使い初めだった。横に営業さんの名前と電話番号が入っていたのが甚だ気に入らなかったものの、なんでだか書き心地がずいぶんいいような気がした。そこで営業さんの名前と電話番号を爪の先でごりごりと削り落とし、半年くらい毎日使っていた。実は、生まれて初めて芯を使い切ったのはこのボールペンなのである。


 その後も、同じJIM-KNOCKを買って使っていた。私は学生の頃はシャープペンシルでしかものを書かない人間だったのだが、就職してからはなぜかボールペンでしか書かなくなった。だから、二台目のJIM-KNOCKの芯も結構減っている。減っているが、なくなってはいない。最近は使っていないからだ。なぜ使っていないかというと、今はこれを持ち歩いているからである。CROSS Century Graphite。


 まさか自分が筆記具に5,000円も使うことになるとは思っていなかった。ステーショナリーは昔から好きだったにせよ、それは安いものを細々と集めることがいいのであって、よくデパートの文房具売り場の一角にあるような、高級文具品というのは私の理解の範囲外にあるものだった。だってあなた、ボールペン一本5,000円ですよ。JIM-KNOCKなら50本買えてしまう。5,000円のボールペンでも100円のボールペンでも、その機能はなにも変わらないのである。5,000円のだと携帯電話の代わりになったり望遠鏡がついていたりいざというときに時限爆弾になったりしないのは勿論のこと(昔のスパイ漫画の読みすぎです)、100円のボールペンの50倍字がうまくなるわけでさえないのである(もしなるのだったら財力の許すかぎりの高級筆記具を買う。なんせ私は、うっかりすると三日前に自分で書いた字が読めなくなるのだ)。なぜそこに価値があるのか、私には全くわからなかった。
 だが、「そのとき」は突然やって来る。一目ぼれに理屈はいらない。それまでうるさいだけだったクラスメートが突然甘い存在になる瞬間というのは確かにあるわけで、しかしそれを今ごろ味わうことになるとは思ってもみなかった。
 CROSSのショーウィンドウを見ていたのは、クロスバーの購入を考えていたからだ。クロスバーについては別に書くこともあると思うのでここではあまり書かないが、その時の私には、クロスバーはともかくクロスはあまり魅力的な製品ではなかった。それまでも、企業名の入ったものを貰ったりしたことがあったのだが、やたら重たいだけの使いづらいボールペン、くらいの認識でしかなかった。だからその時も、なるべく安いやつ、安価なやつ……という視点で見ていた。その私の目にいきなり飛び込んできたのが、Century Graphiteだったのである。


 なんというか、こんな微妙な色合いのボールペンというのを僕は(このあたりでCROSSに恋しているので一人称が僕になる)これまでに見たことがなかった。デジタルカメラの画像ではうまく伝わらないと思うのだが、ショーウィンドウ越しにみたそれは圧倒的に美しかった。見た瞬間にもうめろめろである。グラファイトと金の色合いがまた絶妙で、いくら見ても飽きるということがない。あまりにずっと見ていたせいか、店員さんが試し書きさせてくれた。思っていたのより軽い、程よい重さ。しかしなにより驚いたのは、差し出された紙片にペンを滑らせたときだった。滑らかなのである。紙の上を、ボールペンの先がすいっと滑っていくのだ。
 これまで、数多くの種類のボールペン(そのほとんどは100円ので、高くても最初に言ったDr.Gripくらいだったわけだが)を使ってきたが、その感触は全く違った。ボールペンを使っていて、気持ちいいと思ったのは多分それが初めてだったと思う。生理的に気持ちがいいのだ。なんといったらいいのだろう。指先から、右腕を伝わって心地よさが肩のあたりまで響いてくるといえばいいだろうか。字を書くという行為が、指先に快感を生み得るということを僕はその時はじめて知った。
 二分後、そのCROSSは僕の手元にあった。
 購入後、Graphiteには難点が一つだけあることがわかった。使うと、その美しいボディに指紋がついてしまうのだ。だから、いつもぴかぴかのままにしておこうと思ったら、手袋でもして使うか、使い終わるたびに布で拭いてやらなければならない。もちろんそんな面倒なことはできないので、実際には気になるときに拭くくらいなものだ。それでも、面倒といえば面倒ではある。
 しかし、油がついて汚れたボディを布でぬぐい、隠されていた美しい素顔が現れる瞬間というのは、それはそれでまたドラマチックである。なんとなく、制服姿しかしらなかった同級生が盛装した姿を見たときのような、不思議な感覚に囚われるのだ。
 Graphiteを使っていると、書くこと自体が楽しくなる。無意味に線や文字を書いてみたりする。それは、ペンを走らせることが心地よさと直結しているからだ。
 そしてまた、Graphiteを持っていると、持っていることだけで少し幸せになれる。こちらの理由を説明するのは難しい。理由が説明できない、という理由で、やっぱりそれは恋に似ているような気がするのだ。 

Posted at 12:39 午前     |


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