Manifesto

日常生活における亡命 : 2006/05/13

世界各地のストリートを遍歴しながら興味深い報告を届けてくれる上野俊哉さんの言葉(月刊誌『世界』に不定期連載の「ストリート群島---世界を変える言葉を探して」)は一陣の爽快な風となって湿って内向的な日本語環境を吹き抜けていく。私が日々感じていることをもっとずっと大きなスケール、グローバルな視野で実践している上野さんは「日常生活における亡命」という心身の態勢を宣揚し、その意義を「対抗的知性」を練り上げることに見ている。
もしも自分が生きている日常の環境を「異文化のフィールド」として見つめ、読み込んでいく場にできれば、そこには反知性ならぬ、一種のカウンター・インテリジェンス(対抗的情報操作/対抗的知性)へのきっかけが生まれる。長期的スパンでの教育や学びの意味は、生活世界の身ぶりを素材にそのような知性をねりあげていくことだろう。 (『世界』2006年5月号、277頁)
そしてこのような思想の系譜を、プラハからブラジルへ亡命したユダヤ人哲学者フルッサーによる過激なエッセイ「エグザイル(亡命)と創造性」に探り当て、そこで言われる「亡命者」を自分が生きている社会に深い違和感を抱く人々すべてと読み替えつつ、違和感から創造性への通路を開こうとする。
自分が生きている社会での違和感、ネットやジャーナリズムの主要動向への異議は、他者の苦難や受苦との交錯や響き合いのなかで、より創造的になりうる。他者を、またはよその土地をダシに何かを語ること、資料や解釈を積み上げることではない。むしろ自分を根こそぎにして、自分を情報の波間に放り投げてしまうことで、他者も自己もともどもに変化する、別の者になることを受け入れることと言えるだろうか。(同上、282頁)
言うまでもなく、たいていの日本人がそうであるように上野さんとて文字通りには自分を「根こそぎ」にはできていないし、他者やよその土地をダシに語ったり、資料や解釈を積み上げていないわけではない。しかし、そのような矛盾をただ揚げ足取りをするためだけにあげつらうことの不毛さがそうとは気づかれにくいのが上野さんが嫌う「日本語環境」であり、彼は自分が抱える矛盾を知悉した上で自分が根こそぎにされてもいい覚悟で敢えて語っているのである。そこからストレートにポジティブなヴィジョンを受け取ることができなくなってしまった者を彼は相手にしていない。今の日本社会で深い絶望を抱えながら生きる人にこそ届くべきメッセージを彼は地球上のあちらこちらのストリートに生きる人々の息吹とともに今後も送り続けてくれるだろう。