高い城・文学エッセイ スタニスワフ・レム
SF作家スタニスワフ・レムの自伝的小説と評論集。
知の巨人と呼ばれるに相応しく、SF論から構造主義批判、ドストエフスキー、ボルヘス、ナボコフ、ディックまで広く論評した、読み応えのある一冊です。
本書を読んで感じるのは、彼のSFに対する一貫した姿勢です。彼がSFに要求していることは、次の文章で端的に言い表されています。
大胆な言い方をすれば、私がSFというジャンルを選んだのは、それが種としての人間を扱うものだからではないかと思う(中略)
サイエンス・フィクションは様々な種を全体として扱うべきものであり、個体だけをーーそれが聖なるものであれ、怪物であれーー扱うべきではない。
(「偶然と秩序の間でーー自伝」より)
結局のところSF以外のどんなジャンル小説も純文学も、人間の個体を描くことを目的としてきたものである訳で、SFはそれらと全く別の目的を持って書かれたものでなければならない、ということになります。(彼の考えを突き詰めていくと、個体を扱うことでしか成り立たない既存の文学表現から逸脱して脱・文学の方向に行くのは自然な流れで、その結果として「完全な真空
」「虚数
」「挑発(本シリーズで刊行予定)」が生まれてきたことになります)思いっきり簡単に云うと、ミステリとか冒険小説、恋愛小説に、最新科学や未来、宇宙といった要素をふりかけたものは、如何に科学的に正確であろうともSFではなく、ミステリであり冒険小説であり、恋愛小説でしかない訳です。既存の枠組みに落ち着いてしまい、SFというジャンルの可能性を狭めてしまっているのです。(僕がハードSF嫌いになったのもこの辺に原因があるのかも)この観点から、彼の有名のアメリカSF批判が展開されます。
とはいっても、その自然淘汰の過程を麻痺させてしまうような状況もあり得る。・・(中略)・・そこではまったく同じ手本やまったく同じ創作の戦略が絶えず繰り返されるのだが、これは正に”近親婚”であり、そのため精神的な創作活動がやはり停滞してしまうのだ。・・(中略)・・ゲットーの書物は互いに似たものとなり、個性のない一つの塊を形成するが、その際、このような環境の中でよりよいものは、より悪いものの方へと突き落とされてしまう。・・(中略)・・このような状況のもとでは、出版部数の多さが価値判断の唯一の基準になり得るだけではなく、唯一の基準にならざるを得ない。・・(中略)・・まさにこのような状況がアメリカSFを支配しているのであり、アメリカSFの群衆的創作の領域となっている。
(「フィリップ・K・ディックーーにせ者たちに取り巻かれた幻視者」より)
エンターテイメントだからいいじゃん、という反論も、レムは一蹴します。ここで引き合いに出されるのが推理小説で、レムは推理小説とSFのジャンルとしての根本的な違いを指摘します。
正気の人間なら誰も、推理小説の中に犯罪についての心理学的真実を捜したりはしない。そういうことを求める者は、むしろ『罪と罰』に向かうだろう。つまり、アガサ・クリスティに対して上級審となっているのがドストエフスキーというわけだが、正気の人間ならば誰も、そのせいでこのイギリスの作家の小説を非難することはないだろう。(中略)
もしもSFが未来や文明に関する考察として満足の行かないものであったとしても、推理小説のように単純化された文学を離れて芸術として完全なものへ向かうわけにはいかない。このSFというジャンルには、上級審に相当するものがないからである。そのこと事態には何の不都合もないのだが、ただ問題は、アメリカSFが自らの独占的な地位をかさに着て、思想や芸術の頂点に立つ権限があると主張していることだ。原始的だと非難されれば、元来エンターテインメントなのだからと言ってその非難をかわし、そういった非難がおさまるやいなや、また自己主張を始めるこのSFというジャンルの思い上がりには、うんざりさせられる。
(「フィリップ・K・ディックーーにせ者たちに取り巻かれた幻視者」より)
この文脈から、レムがディックを評価するという展開は非常に納得がいくものです。(そう言う意味で近年のハリウッドによりディック原作映画化は、彼の通俗的な部分だけ取り上げられている訳で、レムとしては「より悪いものの方へ突き落とされてしまった」となるのでしょうが(笑))ここででてくる「SFには上級審がいない」という考え方が、個人的には一番ヒットしました。日本の読者からすると、ミステリの上級審がドフトエフスキーということもなさそうなので、そう言う意味ではSFもミステリも日本では似ているのかもしれません。上級審がいないが故にそれを捜し求める過程で、「黒死館」や「ドグラ・マグラ」、「虚無への供物」といった奇書、社会派や新本格といったムーブメントの発生があったのかもしれません。「高い城」はレムの少年時代の自伝的小説ですが、将来のレムの小説に結びつきそうな体験が色々出てきて、ニヤリとさせてくれます。父が医者の過程に育った彼は、医学書や解剖学の本に囲まれて育ち、中でも骨学の本に感銘を受けたとあります。「泰平ヨンの航星日記
」にあるレム自筆の奇妙な生物のイラストが思い出されます。また、SF作家としての想像力をかいま見れるのが次のエピソードです。
ここで私が当時没頭していた神話の第一原理を紹介すべきだろう。だれにもこの秘密を告白したことはなかったが、私はこう信じていた。生命のない物体は人間に劣らず不完全であり、それゆえ彼らもよくぼんやりする。十分な忍耐があれば、彼らの不意を襲って複製を強いることができる。仮に引き出しにあるべき折り畳みナイフが自分の場所を忘れると、まったく別の場所、たとえば棚の上の本の間でそれを見つけることが可能になる。とはいえ引き出しからはもう撤退できず、この出口のない状況で折り畳みナイフはたいてい複製を作って二本になる。かくて私の考えでは、物体にはある必然の論理が強制力を持っていて、物体は一定の規則に従わなければならなかった。それらに精通する人だけが、一見生命のない物質を待望の結果に導くことができた。
(「高い城」より)
レムは本当に好きな作家なので、引用しまくりになってしまいました。
Posted: 土
- 1月 29, 2005 at 01:10 AM
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