2009年5月6日

「ということで」という接続語

駅や町で演説していると、自分が同じ言い回しを多用していることにふと気がつき、気になって演説に集中できなくなることがたまにあります。

こないだは、「ということで」が引っかかりました。別に使っていけない言い回しでも何でもありませんが、ある朝の駅頭宣伝中、何回も使ってないかしらと思いにあたり、癖を矯正すべく試みに禁句としてみたところ、詰まる詰まる、お話になりません、...左は誤用ですな。もとい、話が一向に続きません。

私の演説、多くの共産党の人も同様と思われますが、組み立てとしては、まず新聞など客観報道を引用し、それに対する党の見解を引用する、このひと組をもって基本としています。引用、引用、また引用、たまに私見。つぎはぎだらけの演説、本体たる布は他人のふんどしでよくとも、縫い合わせる糸、接続語は自前で調達せねばなりません。しかも咄嗟に。その点、「ということで」は便利だったのでしょう。

順接とも逆接ともつかぬ、先の展開について何らの責任をも負わぬ、前後に埋没して発せられたことすら記憶されない、ほとんど万能に近い無能な接続語。大型連休はいくつかの集会に出かけ、十数人からの演説を聞きましたが、「ということで」は相当な出現頻度だったことを確認しております。出るたびに「よっしゃーktkr」とか思っていた私はたしかに不謹慎でしたね。キタコレだしw。

演説や発言の内容もしっかり聞いていますよ? 念のため。あと、「ということで」に罪はありません。どうぞお使いください。



せきと進