やめてよ








 ぱらり、とページを捲る音だけが室内に響く。


 そんな静けさは、今のこの部屋には無かった。もう大分前から。





「ちょっとさ……」
「なに?」
「邪魔なんだけど」


 言っても無駄だと思いながらも、つい言葉が出てしまう。


「何にもしてないじゃん」
「気が散る」

「嘘、絶対そんなことないって」
「じゃあ暑苦しい」

「俺より肌冷たいのに?」
「体感温度の問題だよ。本当どいて」


 溜息を吐きかけて、やめた。
 それほどに気にしていると思われるのも癪だからだ。


 明らかに不必要なほど密着して、肌が触れる距離で自分の隣に山本は座っている。ソファの広さを無駄にしているとしか思えない距離だ。

 委員会の資料を覗き込んでいるが、絶対に興味があっての事ではないのだろう。

 好きだとか訳の解らないことを言っていた。本当全然意味が解らない。

 滅多打ちにしてやっても、本当に全く挫けなくて。
 本当に面倒になってしまって、放っておいているのだけれど。

 やっぱりそれも間違いなのかもしれない、と思う。

 寄りかかってくる体を交わして立ち上がって、一人掛けのソファに腰を掛け、雲雀は再び資料に目を落とす。


「風紀委員って、結構仕事あんのな。もっと暇なもんかと思ってたけど」
「…………どこかの誰かみたいに他人の迷惑を知らないゴミが沢山いるからね」


 声に振り向いて、山本はこちらに近づいてくる。
 
 しまった。
 返事をするんじゃなかった……。


「そっか、大変なんだな」


 他人事の様な声にむっとして顔を上げる。
 皮肉も通じないのか。


「いてっ!」


 何を考えているのか、顔に向けて伸ばしてくる山本の手の甲を、資料の角で叩き落してやった。


「さわらないでくれる」
「まだ、さわってないのに」
「虫除けスプレーは先にしないと意味がないから」

「蚊扱いかよ」

 手の甲をさすりながらも、山本はやっぱり笑顔を崩さない。いや、今は痛みのために少し眉間に皺がよっているか。

 もっと困った顔をすれば鬱憤も少しは晴れるというのに。 自分の不快指数だけが上昇するなんて、面白くない。

 がちゃりと音を立ててドアが開いた。
 扉の向こうから顔を見せた副委員長に顎で山本を示す。


「草壁、わるいんだけど、これ捨ててきてくれないかな」


 返事は聞くまでも無い。

 何か文句を言い出す声を耳から追い出して、漸く静かになった室内で、雲雀は大きく溜息をついた。

 日常の生活を手に入れるのがこんなにも手間がかかるとは、思いもしなかった。いや、むしろそんなことを思わされること自体が間違いだ。
 あんなわけのわからない人間に、自分のリズムを邪魔されるなんて。


 好きだとか言っていたけれど。
 だからといってこんなにも纏わり付くのがあの男の常套手段なのだろうか。

 もしそうならば最低の男だ。

 余計なことは頭の中から消し去る事にして、雲雀は集中が切れたということにして、レトロな黒いファイルを机に投げた。  椅子ごと窓を振り向きそのまま窓を開けて、夕暮れの空気を吸い込んだ。

 そういえばそろそろ衣替えの季節だ。

 鬱陶しい梅雨が来る。外気にはもうその匂いが混じっていて、どこか雲雀の心を浮きだたせた。

 雨は嫌いじゃない。
 纏わり付く思い空気と、暗鬱な雲。でも、降り続く雨はいっそ清清しくて空気が洗われるようだと思う。

 髪の毛がねこっ毛なのではねるのだけが、ほんの少し気になるけれど。


 ふと。

 窓の外から聞こえる叫ぶような声に気がつく。
 部活だろうか、と思ったがここはグラウンドとは間逆だ。
 怪訝に思って、外を眺めて、眉を顰めた。

 また、あいつか。
 いつも自分の時間を邪魔する。

 目の前に居ても、そうでなくても、目障りだというのが本当に気に障る。

 こちらに大きく手を振る姿に舌打ちして、雲雀は椅子を回転させた。


 また、と思いつつも、溜息をつく。
 本当、最悪だ。




















 街中を歩くと、必ず纏わり付いてくる視線。いつもならば気にもならないのに、何故かそれが苛立って、睨みつける。
 散っていく視線さえも、気に障る。気が立っている証拠だ。
 そんな自分に眉を顰め、大きく息を吸い込んで、吐き出した。自分らしくない振る舞いは、押しとどめておく方が良い。

 それが、ベストだ。


 本屋でさっさと用事を済ませて、人の波を抜けた。
 商店街の、店の間の細い道に入っていく。人一人がやっと通れる位の幅しかない中に、もちろん人影は無い。
 この道を、時々つかっていた。

 一人になりたいときとか、雑音から抜け出したいとき。
 そんなときに来る場所の入り口なのだ。

 歩きなれた薄暗い道の先には、明るい光が細長く光っている。出口だ。

 と、そのとき、何かが動く気配に、雲雀は目を凝らせる
 人であるわけはないから、鳥か、ネズミあたりだろう。

 そう思っていると、野良猫がビールケースの上から甘えた声をだした。

 良く見えないが、まだ生まれて間もない子猫のようだ。

 雲雀の足元に降り、じゃれ付いてくる。
 お腹が空いているのかもしれない。


「ごめんね、今何も持ってないから」


 そういって体を折って、喉を撫でてやると、小さな猫は匂いを嗅いで指先を舐めてきた。余程おなかが空腹なのだろうが、自分にはどうすることも出来ない。

 少し強めに頭を撫でてやって、雲雀は泣き声をどうにか無視して近道を抜けた。

 そこは小さな公園だ。今時の子供にはつまらないだろう、砂場と、滑り台だけがある小さな公園。
 周りは芝生がどこまでも続いていて、幸い人影は見えなかった。

 静けさに満足して、雲雀は1メートル程ある段差を飛び降りた。足音も柔らかい地面に吸収されて、とても気分が良い。
 一帯は丁度陽が当たって、昼寝には最適の様だった。
 買ってきた本を放って、雲雀は芝生の上に腰を降ろす。学生服のズボンから伝わる温度も温かい。

 深呼吸をして両腕を枕に仰向けに寝転がった。
 目を閉じると、陽が強すぎるのか瞼の裏が赤く眩しくて、ごろりと横に寝返りをうって、体を丸める。
 そのまま眠ろうとした時。


「?」


 猫の声が聞こえた。  まさか、と思って首だけを動かして抜け道を見上げると、案の定大きすぎる段差の上で、さっきの猫がうろうろしているのが見える。

 降りたいのだろうか。
 陽の下に出て、汚れが余計にわかる白い猫に、ちょっと苦笑して、雲雀は立ち上がる。


「ついてきたの?」


 首の後ろを摘んで腕に載せてやると、愛くるしい目をこちらに向けてきた。
 白猫は雲雀の白いシャツに爪を立てながら、見上げるように首を上げて鳴いている。

 降ろしてやろうと、小さな体に手をかけるが、爪を引っ掛けて離れようとしない。寒いわけでもないだろうに、必死に縋る姿が可愛い。
 猫をそのままにして、雲雀は再び芝生に寝転がる。

 ころりと重力の位置が変わったせいで、子猫は芝生に落ちる。それでも、何を求めてなのか、雲雀に擦り寄ってくる。

 指先で、遊んでやると楽しそうに飛びついてくる。

 少しすると飽きて、またじゃれてきて、気まぐれな猫は疲れると丸くなって寝てしまった。
 頬をそっと撫でると、耳がぴくりと動いたが、目を覚ます気配はなさそうだ。

 幼い自分勝手さが微笑ましい。
 計算も打算もない。

 どこかの馬鹿の顔が一瞬浮かびかけたけれど、猫を見つめて頭の中から追い出した。
 比べたら猫が可愛そうだ。

 眠る汚れた白猫の姿を見つめながら、雲雀は目を閉じた。





















 どの位眠っただろうか。寒さを感じないから1時間もたっていないのだろうかと考えながら、雲雀はぼんやりと瞼だけ上げる。

 あまりクリアでない視界に、白い小さな形を見つけて、安心する。
 まだ残る眠気に、再び目を閉じようとして、違和感に気付いた。

 白い猫の先に続くはずの緑色を遮る、黒い色。

 はっとして、体を起こすと、体にいつの間にか掛けられていた腕章付きの学ランが、滑り落ちた。


「なんで……」


 黒い色の正体は学生服。
 もちろん、自分のではなくて。


「山本……」


 片腕を枕にして横たわるのは、山本だった。


 いつ来たのか。
 どうしてここがわかったのか。

 それに、何で一緒に寝ているのか。


 疑問符が頭の中に湧いてくる。


 でも、どれも消えていかない。わからない。



 僅かに身じろぎする気配。
 先に白猫が目を覚ます。

 あいさつの様な鳴き声に、山本の瞼がぴくりと動く。



 気付くと、走り出していた。

 何でなのか解らない。
 気恥ずかしさか。
 面倒だからか。


 解らないけれど、ざわざわと胸が落ち着かなかった。
 じっとりと汗がにじむ頃になって、漸く足が止まる。



 逃げた。
 この自分が。

 でも何から逃げたのか解らない。



「やめて、よ……」



 掴めない心臓の変わりに、シャツを握り締めた。