日課








 汗を僅かに含んだ髪に指を絡ませる。
 柔らかい茶の髪がそれでもさらりと流れて、指から抜けていく。

 起こさぬようにリネンを洗い立てのものに取り替えて、ベッドのサイドテーブルにミネラルウォータとグラスも用意した。

 目を閉じた、いつもよりも幼い表情で眠る地上の神。
 手に触れられる距離にあることが、今でも信じられない。

 体を触れ合わせ、その熱を感じる事ができる喜びは言葉に還元することさえ出来無いほどだ。

 そういうと、いつも少し怒った様な表情を見せる、自分の妻。


「ん……」


 気持ちよいのか髪を撫でる手に擦り寄る月の仕種に、胸が熱くなる。

 少しずつ重くなる瞼を逆らわずにゆっくりと閉じる。目を閉じる最後の瞬間まで、愛しい人を見つめながら。












 朝。

 目を開けると、背を向けている月の姿がある。
 体が僅かに上下しているのを確かめて、魅上はそっと上体を起こす。遮光カーテンの隙間からフローリングに落とされた光の影を確認して、ベッドを出た。

 きっとあと30分もしないで月は目を覚ますだろう。

 露になった項に口付けたい衝動に一瞬駆られたが、理性で打ち消し音を立てぬように魅上は寝室を後にする。

 食事の支度。身だしなみ。空気の入れ替え。
 朝の自分の大切な仕事を終えて、それから寝室に戻る。

 まだ月が目を覚ましていない事にほっとしながら、安らかに眠る人の直ぐそばに膝を折る。


「………………おは、よ」
「おはようございます。月さん」


 僅かにあげた顔に気付いて、そっと口付けを落とす。
 起きたばかりの温かい唇が、可愛い。


「また、先に起きてる。もう少し寝坊してくれても良いのに」


 体を起こすのを手伝ってやりながら、魅上は苦笑を返す。


「勝手に目が覚めてしまうので」
「知ってるけどさ」


 少し辛そうにフローリングに足をつける月に気付く。


「すいません」
「別に謝るような事じゃ……って、え?…わあ!」


 膝裏に右手を差し入れて、背を支えて抱き上げる。
 そのままリビングへと歩く。
 相変わらず細く、軽い身体が、少し心配になる。不健康さの兆候は全く見えないが、あまり体重が減り過ぎないように気をつけなければ。

 クッションを用意しておいた、普通よりも大きいサイズの肘掛のついたキッチンの椅子に、衝撃が極力無い様注意して月を降ろした。


「リビングのソファの方が良かったですか?」


 少し赤い頬に熱を危惧して触れる。月の顔を覗きこむと、平気だと睨まれてしまった。


「月さん?どうかしましたか?」
「……別に、何でもないけど、さ」

「そうですか?」


 白いマグカップを前に置くと、香りにか少し表情が和らぐのが解る。


「あ、カフェオレにしてくれたんだ」

 仕事をしている時の姿の厳しさとは全く別の可愛さがあると知ったのはまだつい最近の事だ。
 どちらかというと表情が豊かではないけれど、無意識に小さな変化として目元や口元に色が現れる。それを知っているのはきっと自分だけだろう。


 チン、と音を立ててトーストが焼きあがり、蒸らしておいたベーコンエッグを皿に取り出す。

 このタイミングで出せることが、嬉しい。のだが。


 バターの香るトーストにかぶりつきながら、月はじっと魅上を見つめている。


「もっと、甘えて良いのに」
「はい?」

「照はさ、僕に気を使いすぎだと思うんだけど。一応ほら、色々あるけど、その、結婚したわけだし。あんまり僕ばっかり優先しなくて良いんだよ?」

「はあ」


 気の無い返事になってしまったのが、気に喰わなかったのか、月は短く溜息を吐く。

 でも、言われている事が良く解らない。


「だから、嬉しいけどさ、気張ってると疲れちゃうだろ?これからずっと一緒に居るのに、そんな調子だと途中で嫌になっちゃったりとか……」
「それはありえません」
「いや、そうだろうけど、さ」
「気は張ってません。こんなに一緒に居て安らげるのは、月さんの傍だけですから」


「あー……まあ、照がそう言うならいいんだけど」


 少し視線を逸らされて、変な事を言っただろうかと心配になる。


「本当ですよ」


 嘘ではない。自分ですら不思議な位、心がこれ以上ない位平穏なのだ。


「でも、照は僕のこと構いすぎだよ」


 拗ねた様な表情。
 それすら自分をこんなに癒してくれるのに、月は解らないのかもしれない。


「お客さんじゃないんだからさ、もっと適当でいいのに」
「月さん以外とこんなことしませんよ?」
「当たり前だろ!」

「しかし、私は別に何も特別な事はしていないのですが。何か気になる事がありますか?」


 もしあるのならば、聞いておかなくてはならない。


「本当に、自覚ないわけ?」

「自覚、とは?」


 質問の意味を掴み損ねて、首を傾げる。


「そんな可愛い仕種でごまかしても駄目だよ」
「は?」

「まあいいけど。まだ新婚3日めだしね」


 何をか納得した様子の月に、どうにもついていけない。
 だが、にこりと微笑んでいる月をみて、まあで良いかと思う。

「今日は、どうするの?仕事休みなんでしょ?」

「あ、はい。月さんが良ければ少し買い物にでも出ようかと」
「うん。オッケ。じゃあ少しゆっくりしてお昼前に出ようか。どこかで食事してさ」


 楽しそうにスケジュールを立てる姿。
 恋人であったときだって、勿論幾度も目にしてきたけれど、それとはまた違う種類の感情が自分の中に湧いているのを、魅上は感じる。

 少しの高揚感と、それをくるむ安心感。

 そして、充足感。

 確かに、月は自分にとってこれ以上ない位上等な存在で。だがそれと同時に水のように自然な存在でもあるのだ。

 自分のこの幸せが、いつか月に伝わればいいと思う。





「いい?照」

「はい、月さん」




 まだ。新しい生活は始まったばかり。