6月19日








 窓のそとを眺めてはキラキラとめを輝かせる手塚の様子を時々眺めながら、ずり落ちてくる眼鏡を掛けなおして、不二はノートパソコンのキーボードを触る。


 外は雨。
 梅雨独特の重い雲が空を占め、多くの人が鬱々とした気分になるだろうこの天気だが、ここに例外的に喜んでいる者がいる。

 雨が珍しいわけではないはずだ。

 それでもずっと空から水が降り続けるのが不思議で、みていて飽きないのだと、小さい猫は笑った。


 水、なくならないのかな。


 そう純粋に問われて、思わず笑みが零れてしまったほどだ。



 あと少し。
 これが終わったら雨の中散歩に行く約束をしていた。


「ふじ、ちょっとだけ。窓あけたらだめか?」


 雨にさわりたいとねだる声に、首を振る。


「もうちょっと待って」
「少しだけだから」
「だめだって、ぬれちゃうでしょ?」


 口を引き結んで、手塚は不二を睨む。
 怒っているのではない。
 我慢しているのだ。


 そして、それを甘やかしてしまう自分。
 過保護だ、そういった反射眼鏡の言葉を思い出して、不二は嘆息した。


「解った。ちょっとだけだよ?」
「本当か!」
「うん、でもここかたづけるまで」


 待て、と言おうとして既に時が遅かったのを悟る。

 重いサッシはつい勢い良く開いてしまい。
 全開の窓からは風とともに水滴が入ってくる。

 まずいとおもい慌てて締める。


「て〜づ〜か〜!!」


 風は収まったが、紙束は見事なまでに吹き飛び部屋に舞っている。これが台風だったらさらに雨粒で滲んでいたことだろう。


「ごめんなさい……」


 書類を拾うのを手伝う手塚はしょんぼりと耳を垂れて、今にも泣きそうだ。


「泣いたら、だめ。お散歩連れて行ってあげないよ?」
「ごめん、ふじ」


 言われてぐっとつまる表情に、怒っていると思われたのだと気付く。
 優しく頭を撫でてやって、手塚の小さな手の平から紙束を受け取りそっと抱き上げる。


「怒ってない、本当。だから泣かないで?」
「うん……」


 不二の首元に顔を埋めて手塚は小さく息を付く。


「せっかく新しいコート買ったんだから、泣いたら着れないよ?」


 手塚に、と貰った黄色い小さなレインコートと長靴。
 ビニール独特のキラキラとした鮮やかな色を、手塚はいつも眺めていた。

 そっとおこした小さな顔は少し目が赤かったが、涙の後は無かった。
 ご褒美にと目元に口付けると、手塚は微笑む。


「さ、出かけようか」
「うんっ」


 書類の枚数を確認して、ファイルに仕舞ってから不二は部屋の戸締りを確認する。

 自分にはオリーブグリーンの傘。
 そして手塚には黄色いレインコートを着せてやる。


「ふふ、似合うよ」
「本当か?」


 玄関の大きな鏡の前でくるくると動き回って手塚は自分の姿をみる。
 苦しげな尻尾のところにだけ穴を開けているので、着苦しくはないようだ。その証拠にぴんと尻尾をたてている。


「あとで写真撮っておこうね」


 このプレゼントをくれたご近所さんに見せるためだ、というと手塚は嬉しそうに目元を緩める。
 お礼をきちんとしたかったのだろう。
 本当は自分のために撮っておきたいというのが、大きい理由だけれど、忘れずに写真を届けようと不二は頭の中にメモをした。

 部屋の重いドアを開けてやると、手塚はぴょんと外に飛び出る。
 不二が鍵を掛け終わるのを待って、雨の中を鮮やかな黄色が走ってゆく。

 水溜りに両足を浸けて、自分を写す水鏡を手塚はそっと眺めている。時々動いて波紋を描いては止まり、ばしゃばしゃと水面を乱してはまた止まるという繰り返しだ。
 その真剣な様子が、とても微笑ましい。


 自分も子供の頃はそうだったな、と不二は思い出した。


 そこにあるものが何でも不思議でたまらなかった。

 そして、その不思議を言葉には還元せずに、自分の満足が行くまで眺めたり触れたりして消化する。

 解らないことが、怖くなかったのだ。


「不二?」


 いつの間にか自分の足元に戻ってきていた手塚が、不二のジーンズを掴んでいる。


「なんでもないよ」


 でもこうして他人と一緒に居る喜びと偶然を理解したのは、やっぱり大人になったからなのだろう。

 手塚に微笑みを返すと、同じように可愛い笑顔が返ってくる。


「そうだ、公園寄って行こうか。あじさいが咲いてて綺麗だと思うよ」
「あじさい?」
「うん、紫の4つ花びらがついた花が沢山くっついてる花。うちの前の庭にもあったでしょ」
「あれは、赤い色だったぞ」

「あじさいの中にも色んな種類があるからね」
「魚の中に種類が沢山あるのと同じか?」
「うーん、まあ一緒かな」


 ちょっと違うような気もしたが、まあイメージの問題だからいいだろう。


 のんびりと歩きながら、そんなことを話していると。


「あ、リョーガ」 「おう、不二じゃん」

 前から歩いてきた見知った姿に不二が声をかける。


「今日は一人なの?」
「よ、国光。あーうん、うちのは雨のなか出かけたくないっていうから留守番させてる」


 屈んで手塚の頬に触れるリョーガは不二の古い知り合いだ。
 彼も猫を最近飼っているという事を話には聞いていたが、まだ見たことは無い。


「そのうち連れて行くから、そん時は遊んでやってくれよ」
「うん!」


 凶暴な猫だったらどうするのだと思うけれど、手塚は純粋に嬉しそうだ。あんまり他の猫とあうこともないからだろう。


「じゃな」
「うん、またね」
「またな!」


 ひらひらと振り返らずに手を振るリョーガを見送って、手塚は不二をじっとみている。


「遊びに来るのはいつかわからないけど、絶対来てくれるよ」


 だが手塚は小さく首をふる。そうじゃない、と言いたいのだろうか。


「ふじ、は?」
「え?」

「ふじは出かけたりしないのか」
「今出かけてるじゃない」
「そうじゃなくって、一人で。オレと一緒じゃなくて」


「どうしたの?急に。出かけることだってあるじゃない」
「でも、おしごとだろ?ふじの友達とあそんだりしてるの、あんまりみたことない……」


 思いもかけない言葉に、不二は一瞬言葉を失う。


「ちゃんと、るすばんできるぞ?」


 だから自分を放って遊びに言ってもいいのだ、ということか。

 別に気にしたことは無いのだけれど、手塚にしてみれば自分が邪魔をしているように感じたのかもしれない。
 そんなことはないのだろうけれど、そう勘が働いたのだろう。

 とりあえず、公園まであるいていって、簡単なつくりの四阿に腰を下ろす事にした。


 レインコートのフードを下ろしてやると、手塚が黒い瞳で不二を見つめる。
 悲しそうでも、縋るでもない、綺麗な瞳だ。


「別に、僕は何か我慢したりしてないよ?」


 少し湿気を含んだ前髪にふれて、不二は横に座る手塚の顔を覗きこむ。


「それとも、手塚は僕といるの嫌?」
「そんなわけない」
「じゃあ、気にしなくていいんだよ」
「でも……」

「気持ちは凄く嬉しい。ありがとうね。でも、僕は好きで手塚といるんだから。友達だっているけど、別に合わなくちゃいけないわけじゃないんだ。ちょっとやそっと顔みなくったって、友達に変わりは無いしね」


 特に、自分はそうした付き合いにドライな傾向がある。
 常に傍にいなくてはいけないような友人は、居ない。というかそういうタイプとはどうしても合わないのだ。


「そうか……」
「もう、どうしたのさ、そんなこと気にして」

「うん」
「てづか?何かあるなら言って?」
「うん……オレにも出来る事があるなら、しようと思って」


 ぽつり。
 呟かれた言葉に、不二は眩暈を覚えそうになる。


「いつも、ふじにしてもらってばっかりだから」
「だから、何かしたかったの?」
「うん……、え、わ!」


 我慢できずに、濡れるのも構わず不二は手塚を抱きしめる。
 急に感じた浮遊感に、手塚は慌てて不二にしがみつく。


「そんな僕を嬉しがらせることばっかり言って。これ以上惚れさせてどうするつもり?」
「何?ふじ?」


 まだ驚いたままの手塚の額に額を合わせる。


「手塚が傍に居てくれる時間が、何よりも大切。だから、心配なんかしないで、いつもみたいに近くに居て?」

「う、うん……」


 流石に照れたように、手塚は目を逸らす。それすらいとおしくて、不二はそのまま口付けた。


 さっきよりも吃驚した表情で、これ以上ない位手塚は目を見開く。
 それから顔を更に赤くして、不二の腕から逃れようとする。


「ちょ、手塚、あぶないって」


 ひらりと脱出を成功させると、フードを被って手塚は四阿を飛び出す。


「あ、あじさい、みてくる!」


 本の数メートル先にある紫の花まで、手塚は走って行ってしまった。
 ちょっと驚かせ過ぎただろうか。

 でも、手塚も悪い。
 あんなこと言われて平静で居ろという方が、無理というものだ。

 追いかけることはせず、不二は手塚の後姿を見つめる。
 つい上がる頬は、幸せの証拠だ。


「リョーガのお陰で、良い事聞いちゃったな」


 お礼に、今度家を訪ねて来た時は無視せ迎えいれてやろう。

 組んだ足の上に肘を付いて、顎をのせる。


 小さな大事な黒猫は、必死で落ち着こうとしているのだろう。
 だけれど、忙しなく動く尻尾が見るまでも無くその表情を伝えるようだ。


 手塚が戻ってくるまで待つことにする。

 そして帰ったら、風呂に入れて髪を梳いてやろう。


 こんな事ばかり考えている自分が、どれだけ幸せなのか手塚は気付いていないのだ。

 きっといつかは知れるだろうけれど、それまでは内緒だ。


 愛しか注げないのだと、いつか告げる日を想像しながら、不二は笑みを深くした。