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 珍しく電話がかかってきたと思ったら。

 手袋をした手を更にコートのポケットに突っ込んで、不二は人の疎らな道を早歩きで進む。マフラで隠れている口元は寒さに引き結ばれている。

 曇りの続く中で珍しく晴れ間の見える週末に、恋人の家を訪れると言うのにこの雪荒ぶ心はどうだろう。

 会いたい、とか寂しい、とか可愛らしい事を言ってくれとは言わないが、せめてもう少しやわらかな物言いをしてくれれば多少寒さも薄れるというのに。

『……暇なら来い』

 まったく、合理的で涙がでてくる。

 話を聞けば、ひな人形を出す予定だったのだけれど、国晴が急に仕事が入ったため男手が欲しいらしい。が、それでも「来い」は酷くないだろうか。

「文句一つ言わずに行く、僕も僕だけどね」

 口調に他意がないのは既知のことで、でもそんな手塚に慣れて来た自分に悪く無いと評価しているあたり、もうすでに手後れだ。

 口元を緩めつつ、不二は道すがら並ぶ家々の木に目をやる。所々花をつけたものもあるが、まだ春の風を待つものがおおいらしく、枝は寒々しい。もう3月も間近だというのに。

 毎年の事なのだ、と先日手塚が顔をしかめていたのを不二は思いだす。

 普通ひなまつり、と言えば女の子の要る家だと思っていたのだが、手塚家では当たり前の様に年間行事の一つとして定着している。彼の母親、彩菜の持っている見事な7段のひな壇は、一見して良さが解る程の造りで、人形はもちろん通常はプラスチックを用いられている脇の小物も、全てに細かな細工を施されている。そして、重量も一級だ。

 幼い頃は姉の所持しているひな人形を並べていたのに、今は物置きに仕舞われたままだ。そういった家庭は珍しく無い。

 昔からある、今では時期を思い出すに留まる各行事を、手塚家ではとても大切にしている。豆まき等のカレンダに書かれているような事はもとより、冬至や節句ごとにある習わしも忘れない。湯に入れるのだと、柚を貰った時には不二は純粋に感心してしまった。

 でも、その空気はなんだか見ていて微笑ましくて、度々巻き込まれつつも決して悪い気はしない。

 ポケットから携帯を取り出して、不二は手袋のままもうすぐ着く、と短いメールを打ち足を早める。

「あーあ、僕って本当、従順で可愛い恋人だよね」

 きっと凛々しい恋人はそんなこと考えもしないに違い無いけれど。




 出迎えてくれたのはやっぱり手塚だった。

「はやかったな」

 中へと促してくれた手塚はVネックのセータを羽織っただけの格好で、寒く無いのかと思ったがもう物置きから出すの作業は終わっているということらしい。

 だから平気なのだ、という言葉を聞きつつ、通された居間でコートを預ける。

「寒かっただろ」

 ソファに腰を掛けて、不二はにっこりと微笑む顔をつくる。

「他でも無い君からの要請だからね。でもお姫さまを助けに来たんだから、何かご褒美があるんだよね。まさか最高気温5度の中駆け付けた僕に、なにも無しってこともないよねえ?指先だって冷えたままだっていうのに」

 まさかね、と優しい声をだす不二に、手塚は僅かに目を見開く。解り辛いがこれは彼にしてみれば割と驚いているのだ。

 一瞬間を置いて、眉間に皺を寄せつつ手塚は左手のひら胸の前にをこちらにむける。降参というジェスチャだ。

「熱いお茶を煎れてくる」

「ミルクのたっぷり入ったコーヒーがいいな」

 わかった、といってキッチンへ向かう長身を、不二は満足げに見送る。

 ヒータの前で手を摩ると、じんわりとした感覚が徐々に広がる。温かさに肩の力が抜けて行く。寒さ故に有り難さも一入だ。

 風が窓を叩く音に振り向くと、ガラス越しに中庭が見えた。青青と色をつけるまでにはこちらも時期が早いらしい。

「ほら」

 いつの間にか戻って来ていた手塚はカップを不二に渡すと、自分も隣に腰をかけてミルクティに口を付ける。相変わらず顔に似合わずコーヒーが苦手らしい。

「ありがと」

 所望通りの薄茶の液体からは、湯気と共にやわらかい香りが漂う。両手で大きめのマグカップを包むとじんわりと温かさが伝わって気持ち良い。

「悪かったな、寒い中」

「あは、大丈夫大丈夫。ちょっと虐めてみただけだから」

「知ってる」

 何時もの無表情で言ってから、手塚は呟く。

「……だからやめた方が良いと言ったんだ」

「どゆこと?」

 不二が顔を向けると、ほんの少し手塚は溜め息をつく。

「母さんがな、お前も呼べっていって聞かなくて」

 手塚の上を行くハイレベルなマイペースぶりを発揮する彩菜に、いつもの如く押し切られたの手塚を想像して、苦笑する。多分彼が逆らえ無い貴重な人物だ。きっと不二にとっての由美子と同じようなものだろう。

「こんな陽気だから止めた方が良いと言ったんだが、折角だからとかいってな。受話器を渡されて電話かけるまで見張られて、本当に参った」

 それでか、と不二は納得する。珍しい電話も、ぶっきらぼうな言葉もちゃんと理由があったということだ。そういえば電話越しに彩菜の声が聞こえていたような気もする。

「暇だったのは本当だしね。コーヒーもいれてもらったし、存分に働かせてもらうよ……どうしても手塚の気が晴れ無いって言うんなら、おねだりしたいことは沢山あるけど」

 どうする、と流し目を作るとあっさりと辞退された。まあ予想通りだ。

「それは別として。バイト代にはならないが、良いものを見せてやるぞ」

 何やら口元で笑む手塚に不二は首を傾げる。新しいビデオでも手に入ったのだろうか。以前も海外でのプロテニスの試合を見せてもらった事があったが。

「きっと、気に入る」

 まだ僅かに中身の残ったカップを置いて、不二は立ち上がった手塚の後を追った。どうやら自室にあるのではないらしい。

 家の中は誰も居ないのか音がしない。障子や襖で区切られた純日本建築の代名詞のようなこの建物は、いつ来ても不二には新鮮に感じられた。手入れはされているものの、古い建物だというのに。一面に広がる目のそろった畳や、湿気の多い日本ならではの欄間のもつ独特の雰囲気というのは、不二家の近代建築らしいデザインハウスとは似ても似つかない。なのに暮らしているわけでも無いのに、何故か妙に落ち着くのが不思議だ。

 ボーリングでも出来そうな長い廊下の奥から二番目の戸の前で立ち止まると、手塚は不二がついて来ている事を確認して、丁寧な手付きで障子を開ける。鴨居を潜り中へと足を踏み入れるが、そこには何も無かった。

「こっちだ」

 そのまま入った正面の障子戸に手をかけて、手塚は手招きをする。外の陽射しが真っ白になった和紙から伝わって、眩しい。

 何があるのかと視線で問うと手塚は微笑んで、細い指を木枠にかけてゆっくりと開く。

「どうだ」

 続く縁側の更に奥に広がる庭の端に位置しているそれに、不二は目を奪われる。
 色味の少ない中庭でただ一つ鮮やかに煌めくのは、紅。

「見事な桃だろう」

 誇らし気な手塚に、不二はただ頷きを返す。  屋外に繋がる硝子戸を抜けて、置かれていたつっかけを借りて、庭におりる。

 間近にみると、その美しさに不二は溜め息を漏す。

 濃い紅色の花  見事な枝ぶりの焦げ茶。

 桃にしては随分と太さのある幹は、不二の背丈の倍はあろうかという自身を、しっかりと支えている。 「綺麗だ……」

 本当に素晴らしい。

 これ程形良く花開き、つややかな枝を称えた桃を不二はみたことがない。

「満足してもらえたみたいだな」

 あまりに熱心にみていたのか、手塚は苦笑顔だ。

「うん、とっても。凄く手が行き届いているんだね、木が生きてるっていう感じ」

「おおげさだな」

 絶対に化学物質では作り上げる事が出来無い、植物の命があるのだ。

 幹に触れてその冷たさと、感触は心地良い。

 瑞々しいとまで言えるような木の輝きや、洗練された花は、力を感じる。大切に慈しまれたであろう桃。それ故に美しく育つ。

 見上げると、空とのコントラストが綺麗だ。

 これを見せたかったのか、と思うとなんだか嬉しい。

 振り向いて見つめると、手塚は訝し気な顔になる。

「……なんかさ、君にに」

「似てるとか馬鹿な事いうと、町内を走らせるぞ」

 言葉尻を遮られて、おやという顔をすると手塚は追い風に乱された髪に手をやりながら、不二に向き直る。

「お前の考えそうな事だ、その思考回路は全く理解できないがな」

「そうかな?似てると思うけど」

 真面目に返すと、肩を落としてみせる。

「どこかに不具合があるなら乾辺りにでも見てもらえば、直るかもしれ無いぞ」

 それがいい、と腕組みをして勝手に頷く手塚に、不二は意地悪な笑みを浮かべる。
「じゃあ、君曰く『どこかおかしい』事を一切言わなくなって、心の中が純白でおっとりやさしい物静かな不二周助くんが、お望みなわけ?手塚は」

 言われて考えるように腕を組んで、手塚はすぐに嫌そうな顔になる。自分で言ったとはいえ、そこまで不快さをアピールされるとちょっと面白く無い。

「気持ち悪い……というか不気味だな。……背後に後光とは真逆なものが渦巻いてそうだ」

「渦巻くって……ちょっと酷く無い?」

「想像の話だろう」

「そうだけどさあ」

 一体頭の中でどんな想像をされたものやら。しきりに気持ち悪いと呟く手塚の前に回って、不二は少し屈んで顔を覗き込む。

「それに比べれば、今の僕って物凄く無害じゃない?」

「なんか根本の改善を無視してないか?」

「気のせいでしょ」

 にっこりと微笑んでやると、手塚は肩をすくめる。

「でもさ、本当に綺麗だよね。カメラでも持ってくればよかったな」

「いつでも撮りにくればいいだろ」

 まだ暫くは咲いているから、と手塚は桃を愛し気に見上げた。

「うん、そうだね」

 今、この瞬間を収められないのは残念だが。

 また晴れの日に来て、手塚とそれから桃を撮りに来ることを想像して、不二は頬を緩める。

 楽しみができた。

「さあ、そろそろ仕事に戻らないとな。3時までに終わらせるぞ」

 両手で伸びをして、手塚は来た道を戻る。

「3時?」

 呟いて時計に目を走らせれば、もう2時になるところである。

 室内に入ると、満たされた暖気にホッと息を吐く。短時間とはいえ外に出るにしては、薄着すぎた。温度差に手塚は一つくしゃみをしている。

「この部屋に飾るんだ。とりあえず先に段を組んでしまわないとな」

 居間に戻らずに左の部屋へ進むと、積まれた沢山の木箱が部屋の隅を占領していた。きっと中に各々道具が入っているのだろうが、思っていたよりも随分数が多いようだ。

 細長い平たい箱のそばにしゃがむ手塚を見つつ、不二は足下にある蓋を覗き込む。筆でなにやら記されているが、良くわからない。

「……風?あ、屏風か」

 開いてみれば、お馴染みのちいさな金屏風が薄紙につつまれている。隣を揚げてみれば牛車が。そんなものもあったかもしれない、と不二は記憶を辿る。

「もしかしなくてもこれって一つ一つはいってるんだよねえ」

 並べるなんて容易な作業じゃないのではないかという不二の問いかけに、手塚は自信満々という表情ではない。

「一応飾り方のメモを母さんが作ってくれてるから、それをみれば多分大丈夫……だとおもう」

 手塚の指すメモを受け取って、少しだけ不二は嫌な予感がする。

「……手塚って、おひなさま並べるの得意?」

「そんなわけないだろう」

 目を落とした紙には、7本の線と人形の名前、なのだが。三人官女とか五人囃子とか、おおざっぱな名前だけで肝心のその人形の位置が書かれていない。しかも箱には当然飾る位置が書かれているわけも無く。

 これしきのメモでは大して作業できないだろう。
あとは手塚の優秀な脳に期待するしかないらしい。

「さ、とりあえず段を組み立てるぞ」

 それ程不安は感じ無い手塚の表情に、不二はどうにか形にはなるだろうと思う事にした。




 大体、不安に感じた事は現実になり得るというのが、不二の短い人性で悟ったことだ。

 人形に関してはまあ、取り敢えず形になったし、メインの2体に関しては問題無い。

 だが他の細々とした道具の方がよくなかった。頼みの綱の紙切れにはひらがなで名前が書かれており、読む事すら困難な表書きと照らし合わせるだけで大変な苦労で。 音訓をひたすら組み合わせて、左右の向きは最早勘に頼って無理やり並べてはみたが、帰宅した彩菜からは苦笑を頂戴することになった。

「なんか、違う意味で疲れた」

 それでも予定を30分しかオーバしなかったのだから、よかった。
彩菜が救いの神にすら見える程、難解な作業だったのだ。

 手塚の部屋のベッドを占領しながら、不二は呟く。床に座ってベッドに寄り掛かりながら深く頷きを返す手塚自身、こんなに苦労する羽目になるとは思っていなかったらしい。

「全くだ」  テーブルに乗せられたティーカップに手を延ばす様子を、その背後から不二は眺める。

「でも奇麗だったね。普段の生活では絶対に見ないじゃない、ああいうのって。これでもかって特別オーラがでてるもん」

 派手な金と黒と赤を基調とした品々はどれも色味が強く、あまりインテリアにはやさしくない。しかも7段もあるのだからなおさらだ。

「あれがいつもあったら頭がおかしくなる。どれも昔は高貴さを表す色だからな、実際に高価せもあっただろうし。今でも赤や黒の絵の具なんかは普通よりも値段が高かったりするんだ」

「へえ、本当?」

 振り返らずに言葉を続ける手塚に、不二は相槌を打ちながら、エアコンの風で僅かに揺れる黒髪を眺める。見た目よりもずっと柔らかいことを知っている者は少ないだろう。

「ああ、原材料の違いらしいがな。他にも藍色に似た色で、その素が今はもう殆ど手に入らずに幻とも呼ばれているものもある。確か海でとれる貝か何かだったんだが……て、なにしてるんだ……!」

 項を押さえながら手塚は勢い良く振り返る。

「別になんにもしてないよ?」

「嘘をつけ」

「ちょっとおいしそうだなあって」

「だからって喰うなよ……」

「ごめんね、痛かった?」

 平気だが、と答える手塚は少し顔が紅い。

 再び口を開こうとすると、ノックに遮られた。

 返事を待たずに開けられたドアの先には、お盆をもった彩菜の姿があった。

「遅くなってごめんなさいね。甘いもの、どうぞ。あら?どうしたの国光、可愛い顔しちゃって?」

 指摘されて膨れる手塚に、体を起こしながら不二は苦笑する。

「そうそう、不二君にはこれね」

 テーブルにティーセットを並べ終えると、彩菜はどこにもっていたのか、小さな包みを不二に差し出す。何かと立ったままの優しい顔を見上げると、より目が細められる。

「誕生日だって聞いたから、プレゼント」

 可愛いラッピングは、お菓子だろうか。 「ありがとうございます」

 微笑んで受け取ると、もう一つ手にしていた箱をテーブルにおいた。

「それと、これは国光からね」

「え?」

「母さん……」

「あら、まだ言ってなかったの?ごめんなさい、聞かなかった事にしといてね」

 二本の指を合わせてカットの仕種でウィンクする彩菜に、不二は苦笑する。

「じゃあ、ゆっくりしていってね」

 手を振って出て行く彩菜に会釈を返しながら手塚を見遣ると、眉間に皺を寄せて何を見るでもなく、視線をひたすら反らしている。

「で?」

「……なんだ」

「こっちの箱は?」

 不二の笑顔に手塚は更に皺を深くする。

「可愛い顔してないで教えてよ」

 茶化してやると思いきり睨まれてしまった。そんな赤い顔しても可愛いだけなのだが。

「ねえ、手塚てば」

 そっぽを向いたままの手塚に詰め寄ると、困った様に目だけ振り向く。

「あのな、先に言っておくが別にオレが買って来る様に頼んだわけじゃ無いぞ」

「そうなの?」

「今日はお前は誕生日だから呼んだら迷惑になると母さんに言ったんだが、結局手伝わせることになってしまったから、せめての思っただけで……」

 ふいに言葉を切らすと手塚は勢い良くうつむく。

「て、手塚?」

 まるで糸が切れてしまったかのようだ。いや、手塚は操り人形ではないのだけれど。

「別に、良いんだろうな。誤解されたって」

 髪をかきあげると、不二に少し目線を預けてから腰を浮かせて、手塚は置かれた茶色の箱に手をのばす。

「本当にそういうつもりはなかったが、今日はお前の誕生日なんだって事を思い出してこれを頼んだんだから、そういうつもり、だったんだろうな」

 置かれた華奢な更に、そっと取り出されたのは、真っ白なショートケーキ。

「誕生日、おめでとう」

 皿を押しやって、手塚は伺うような視線を送る。それを受け止めて、不二は苦笑する。

 素直なんだか、素直じゃ無いんだか。

 こんな絶妙なバランスを保てるのは、手塚位だ。

「ありがとう」

 ベッドからおりて、床に座ると、フォークを差し出される。それを受け取って、早速手をつける。もう一つ取り分けて、自分も口に運ぶ手塚を眺めていると、表情の変化に不二は軽く吹き出す。見咎めた手塚は恨めし気に、口を引き結ぶ。

「なんだ」

「何でも無いよ」

「気持ち悪い奴め」

 仕返しにと不二のケーキの一角を手塚は強奪する。

「あ!僕のなのに!」

「オレが買ったんだからいいんだ」

 また滅茶苦茶な理由だ。

 ケーキを食べた瞬間に少し嬉しそうに目を緩ませたのが、幼くて可愛かったからつい吹き出してしまったのだなんて、手塚には言えない。こうして自分は秘密が増えて行くのだ、と不二は思う。大きな宝箱に少しずつ秘密をしまう、その楽しさを手塚は知る由も無いのだろうけど。

「手塚って、苺を最後に残さないんだね」

「お前はちゃんと取っておくんだな」

 兄弟の有無で別れるという動作論はあてはまっているらしい。

 甘い苺を味わってから、不二は思い付いて手塚のそばへ一歩寄る。

「ねえ」

「……なんだ」

 嫌な予感でもしたのか、手塚は僅かに体を引く。

「食べたいものがあるんだけど」

「…………ケーキはもう無いぞ」

「そうじゃなくて」

「苺は食べてしまった」

「夕飯なら言えばきっと母さんが用意してくれるぞ」

 言ってこよう、と腰を浮かそうとする手塚の腕を不二は逃すはずも無い。

「わかった、じゃあ……」

 神妙な顔をする恋人の言葉をまつ、が。

「この間お祖父さまが買って来て下さった、とっておきの羊羹をわけてやる」

 思わず力が抜けたところを見計らって、手塚は立ち上がってしまう。追う様に腰を浮かせても間に合わずもうドアへ辿り着かれてしまった。

「つまみ食いなんてはした無い真似をするやつには、飯はやらんのが手塚家の家訓なんだ」

 絶対、嘘だ。

 解りきってはいるが、ただすねるのは癪で、不二はききわけの良い振りをしてみせる。

「じゃあ、食べる時にお腹いっぱい頂くことにするね」

 悪魔の微笑み、というのはきっとこういう心境なのだろう。手塚が明らかに不味いと言う顔をするのを、不二は内心苦笑しながら眺める。

「ほら、いくぞ」

 何かと思ったら、手塚は律儀に羊羹をもらいにいくらしい。ためいきを吐きながら、不二も部屋を後にする。なんだか今日は変な展開ばかりだ。

「あ、そういえばさ。僕の誕生日覚えてたの?」

「あたりまえだろう」

 忘れているに決まってる、と思たのに。

「じゃあ今日は羊羹でいいや」

「じゃあ、なんていったらおこられるぞ。それは高い羊羹なんだからな」

「はーい。手塚の代わりだからね、大切にいただきますよ」

 僅かな期待は、黙殺された。








内心ほっとした。

不二の機嫌の良は、明らかに見当違いなのだが、黙っておく事にする。

手塚が今年の手帳を買ったその日。不二自身が紫色のペンで無理やり誕生日を書き込んだことなど、覚えてい無いのだろう。

喜びに水を指す必要は無い。

言わぬが花、だ。