忘れ去られた歴史への旅.
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ベトナム チャンパ王国の遺跡を訪ねて
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西 村 教 範
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700年の孤独−金塔
獣道すらなく、草に覆われ尽くした丘の斜面を僕は息を切らせながら登っ
た。標高100メートルもない丘だが、道がない斜面はことのほか登りづらく、
不惑の歳を迎え、体のあちこちにガタが目立ち始めた身にはかなりこたえた。
さんさんと降り注ぐ熱帯の太陽が恨めしい。ペットボトルの水は、ここに来る
までに大半を飲んでしまっている。ようやく中腹まで来たとき、下を見下ろし
た。僕をここまで運んでくれたバイクタクシーのドライバーは、既に豆粒のよ
うに小さくなっていて、白いTシャツでなければ、周囲と同化して見分けがつ
かなくなっていただろう。僕が上から振り返っているのに気づいた彼は、大き
く両手を振ってみせた。「がんばれよーっ」と励ましているつもりなのだろう
が、半分の行程でとっくにへとへとになってしまっている僕には、木陰で佇ん
でのんきに手を振る彼の姿は、親の苦労を知らない無責任な子供に思えた。し
かし、この場所まで行くよう頼んだのは僕であり、こんなのはただの逆恨みだ。
再び頂上を見上げて登り始めた視線の先には、塔の上半分がとらえられている。
てっぺんは雑草に覆われ、赤レンガはぼろぼろと剥がれ落ちていて、建築物の
様相を呈しているとは言いづらく、まるで朽木のようだ。四方どこからでもよ
く見える丘の上に建てられたこの塔は、作り上げた人々が南に去って以来数百
年間、誰に顧みられることもなく風雨に晒され、その壮麗な姿をぽろりぽろり
と崩し続けているのだ。まるで座して死を待つ病人のように。
丘の頂上付近は棘のある植物が繁茂していて、まるで来る者を拒んでいる
かのようだ。僕がそれらをかきわけて登るとバリバリと音をたててジーンズに
引っかかった。 登り始めて15分は経っただろうか。 棘をかき分けて登っ
た先に塔の全貌が露になった。 汗は顔全体から流れ、拭っても拭っても吹き
出してくる。 西にほんの少し傾き始めた太陽は、頂上に立った僕とうらぶれ
た形で悄然と立ち尽くす塔を鮮やかに照らしていた。
金塔、現地名トックロック。これが今、眼前に立つ塔の名前だ。 ベトナ
ム中部に興亡したチャンパ王国が、13世紀初頭に建立したいくつかの宗教施
設のひとつである。金塔の周囲を一周した。高さは20メートルくらいか。屋
蓋に茂る草と侵食によるレンガの剥がれや、基壇部分の無残な崩壊は、数百年
の孤独を雄弁に物語っていた。基壇の崩壊によって、遠くからながめると花瓶
のようで、実に不安定な印象を与える。この塔は、これからもレンガを一個一
個剥がすような、ゆったりとした速度で崩壊への道を進むのだろうか。僕の視
線は到達した喜びから次第に哀れみを帯びたものに変わっていった。
チャンパとは何か
2002年9月、僕は7回目のベトナム訪問に旅立った。今回の目的は、
中南部の港町クイニョン近郊に点在する、チャンパ王国の遺跡を訪ねることだ
った。
チャンパ王国とは、2世紀から17世紀にかけてベトナム中南部に興亡し
た海洋交易国家のことである。民族的にはオーストロネシア系に属するチャム
族で、我々が一般的に言うベトナム人とは、全く顔立ちが異なっている。サイ
ゴンから約100キロ北上したファンティエット近郊には、そのチャム族が住
んでいるが、アフリカ人かと見紛うほど真っ黒で、頭にはターバンを巻いてい
る。
2世紀末、ベトナム中部に日南郡を置き、ここを支配した中国の漢は、そ
の南にある国を林邑と呼んだ。これが7世紀の碑文で、自らをチャンパと称し
た王国が、東アジアの歴史に名を刻んだ最初の記録である。しかし、この王国
の形態は我々がイメージしがちな中央集権的な王国と若干異なっており、各地
方の小王国の連合体であると考えられている。
チャンパは海洋国家で、インドと中国を結ぶ交易ルート中継地として栄え
た。チャンパと同時期にインドネシアに興ったシュリーヴィジャヤも海洋国家
で、チャンパ同様、各港湾都市を統治していた小王国の連合体であると考えら
れている。東南アジアに栄えた王国はだいたいこれらと似たような、各王国の
ゆるやかな連合体だったようだ。
チャンパの中心は、当初は北緯17度戦よりやや南下したところにあった。
現在のダナンとホイアンの中間あたりである。首都はインドラプラと言い、そ
こから内陸に入った渓谷部に宗教的聖地ミーソンを置いていた。僕が訪れたク
イニョン周辺の遺跡は、10世紀以降に建てられたもので、北部に興ったベト
族(現在のベトナム人)の王朝の南進によって、南への遷都を余儀なくされた
王国が建てたものである。
この時代のべト族の王朝は、王位継承の抗争を王の死後に決まって繰り返
していたが、やがて儒教的な世襲交替制を受け入れ、集権的国家組織を作り上
げた。また、紅河デルタ(ハノイ周辺)の急激な人口増加による経済発展が、
ベト族の南下をいっそう促進することになった。北部ベト族の王朝の膨張によ
ってチャンパ王国は次第に圧迫されていったわけだが、彼らもただ押されまく
っているだけではなかった。散発的ではあるものの周辺諸国へ打って出る力を
有していた。1177年には、隣国カンボジアのクメール帝国の王都アンコー
ルを攻撃し、破壊した。この時のチャンパ水軍とアンコール軍の戦闘の模様は、
アンコールワットの回廊のレリーフに描かれている。また、14世紀には、2
度北部ベトナムの王国大越国の首都昇竜(ハノイ)を焼き討ちにした。 この
ように、敵対国に手ひどい打撃を与える力を持っていたのだが、チャンパの侵
略は、占領地に軍を駐屯させ、その土地の住民に対して同化政策を行ったり、
同胞を入植させたりなどの方法は採らず、単に破壊と略奪を行なうだけだった。
ここらへんが、海洋交易国家の限界と言えそうだ。
北部ベト族の王朝との勢力バランスが完全に崩れたのは14世紀後半であ
る。中央集権国家としての体裁を整備したベト族の黎(れ)朝は、南進を再開し、
当時のチャンパの首都であるヴィジャヤ以北を領土とした。黎朝の聖宗(タイ
トン)によって行なわれたこの時の対チャンパ戦争は殲滅戦とも言える残酷な
もので、王都ヴィジャヤの住民数万人を虐殺し、王を含む三万人を捕らえた。
この戦争後、チャム族は東南アジア各地に流民として散らばり、ベトナムにお
いては地方の小勢力としてその命脈を保つだけとなってしまった。
チャンパ王国の首都は当初はインドラプラ、そしてクイニョン地域に遷都
後はヴィジャヤと呼ばれていた。名前から想像できるようにインド的な匂いが
感じられることだろう。そう、彼らは「海のシルクロード」を通じて、インド文
化を採りいれ、ヒンドゥー教を信仰していたのである。チャンパ王国のことが
まだよくわかっていなかった頃、この王国はインド人移民による国家と考えら
れていたほどなのだ。しかし、8世紀から九世紀にかけて真言密教が入ってく
ると、これも受け入れ、ヒンドゥー教と仏教の二つの要素が融合した宗教を信
仰するようになる。ダナンから六五キロほど南に建てられたドンジュオン遺跡
は、仏教寺院としては東南アジア最大級と言われており、カンボジアのアンコ
ールワットよりも大規模だった。しかし、この遺跡は抗仏戦争の時に完全に破
壊され、遺溝しか残されていない。
チャンパ王国は東南アジア世界だけで完結した王国のように思えてしまう
が、実は意外なところで日本との接点を持っている。林邑楽という古代の楽舞
はチャンパの仏僧が伝えた舞であり、また、琉球の王族の女性がチャンパ王国
に嫁いだという記録も残っている。海を通じて当時のアジアも文化の往来が広
い範囲で行なわれていたのである。
海洋国家の象徴としてー銀塔
ニャチャンからクイニョンにバスで到着したのは9月30日の午後。僕は
チャンパ遺跡を見るために、ガイドブックにも載っていないこの貧しい街にや
って来た。日本の真夏そっくりの気候の中、街の中心部にあるアントゥーホテ
ルにチェックインし、すぐさま外に出た。交差点にいたバイクタクシーの運転
手に声をかけ、象牙塔のコピー写真を見せ、ここに行きたいと伝えた。 男は
「わかった」というふうにうなずいたので、値段交渉に入った。ベトナムでは
ここからが重要だ。ベトナム人は外国人との交渉事となると必ずぼってくるの
で、相手の言い値で納得すると後で悔しい思いをすることが多いのだ。サイゴ
ンだと、外国人だけではなく、ベトナム人でも相手が田舎者と見ると、ぼって
くるほどだ。バイクタクシーの男が言った値段は五万ドン(約4000円)。往
復数十キロの道程でこの値段なら、ごく正直な値段だと思われた。納得した僕
はリアシートに跨り、男はゆっくりとバイクを発進させた。街の中心部を抜け、
国道一号線に出ると、車の量が一気に増えた。大型車やバスが多く、追い抜か
れるたびに運転手はスピードを緩めた。トゥイフォックの街を過ぎ、15分ほ
ど走ると、右手の丘の上に赤レンガで造られた3つの建造物が見えた。 運転
手はそれらを指さして「ほら、あれだよ」と言った。確かに今見えているのも
チャンパの建物だが、僕が最も見たいものとは違っている。これは銀塔じゃな
いか。これは明日にしようと考えていたのだが、目の前と言える距離にあるの
だから、行ってもらうことにした。一号線を右折し、数百メートル走ると上り
坂となった。舗装はされておらず、雨季に大量の雨水が流れたようで、道路を
抉るように溝ができている。バイクが上って行くにはかなり危険で、前を行く
荷台に大きな荷物を積んだドライバーは何度も停止しては安全なルートを探し
ながら上って行った。僕も同様に危険を感じ、バイクから降りて歩くことにし
た。ドライバーは「大丈夫だから乗れ」というのだが、溝が好き勝手に走り、つ
るつるになった路面が大丈夫とはとても思えなかった。
遺跡が建つ丘の麓は金網で囲われていて、掘っ立て小屋のような建物の中
から管理人らしき男が出て来た。ドライバーが何か告げると、男は礼儀正しく
僕に向かって「どうぞお入り下さい」といった感じで金網の扉を開けた。ドラ
イバーに言われて、男に2000ドン(約20円)支払った。
丘の頂上までドライバーに先導される形で登った。道はなく、草の茂って
いないところを進み、雨水の浸食でできた大きな溝を飛び越え、何度も足を滑
らせながら何とか頂上までたどり着いた。
建造物は南北の軸線上に、頂上に主祠堂、少し低い位置に船形屋根の宝物
庫、そして少し離れた低い位置に碑文庫と並んでいた。どの建造物にも所々に
修復の手が入っていて、真新しい部分と古ぼけた部分が奇妙なアンバランスさ
を醸し出していた。宝物庫の屋根には、ヒンドゥーの神、ガルーダが翼を広げ
た姿が彫られているが、片翼は崩れてしまっている。最も高い位置にある主祠
堂は、おそらく湾内に入って来た船舶からも、また南シナ海を航行する船舶か
らもよく見えただろう。祈りの場所であると同時に航海者に対する灯台の役割
を果たしていたのか、あるいは王国の威容を誇示するためのものだったのだろ
う。かつて大和朝廷の有力者が、大陸からの使者に、自分たちの権勢を誇示す
るために、大和川沿いに古墳を造営したのと同様の目的と言える。
ドライバーは僕の横に立ち、遠く西の方角を指さした。丘の上に立つ朽木
のような塔が見えた。金塔だ。そして、南南西の方角には森の中から先端だけ
をのぞかせた建造物が見えた。銅塔だ。そして、金塔と銅塔の間の遥か彼方の
田園地帯には真ん中だけが少し背丈の高い3つの塔が微かにだが見えた。そう
か、あれが象牙塔か。一番見たい象牙塔は、ここからバイクで1時間くらいか
かりそうな場所にあった。「今から全部見に行くかい?」とドライバーは尋ねて
きた。象牙塔はかなり遠く、あそこまで行くと陽が暮れてしまいそうだ。
「金塔と銅塔を見てクイニョンまで戻ると何時くらいになるかな」
「そうだなあ、五時半くらいかな」
今、2時半だから、3時間か。ま、それくらいはかかるだろう。象牙塔は明
日にして、金塔と銅塔を見に行くことにしよう。
「で、いくら?」
「10万(ドン、約700円)だな」
まあ、そんなところだろう。このドライバーは、ぼったくりで有名なベトナム
人にしては意外と正直な値段を出してくる。僕は納得して、銅塔と金塔を今日
のうちに見ておくことにした。
2人で丘を下り、バイクを置いてある場所に戻った。ドライバーは乗れと
いうのだが、深い溝が走る急な下り坂をバイクの後ろに乗って走る気にはなら
ず、平坦な場所まで歩くことにした。途中、茶色の袈裟を着た青年僧たちとす
れ違った。この先にお寺でもあるのだろうか。バイクに2人乗りをして、滑る
後輪に苦労しながらも坂を上って来る。物珍しそうに僕を見るが、目が合うと
遠慮がちに軽く会釈をした。
密林に取り残されて−銅塔
銅塔の場所に関しては、ドライバーもよく知らないようだった。籾を道路
に広げて乾かしている農夫や、バイクを運転している男に声をかけたりしなが
ら、何とか国道を左折する道を探し当てた。あぜ道を少し広くした程度の未舗
装路を15分ほど走っただろうか。密林の中の少し小高くなった場所にレンガ
の建造物の一部が見えた。周囲には民家も点在しているのだが、こうして強い
生命力を持った木々に覆い尽くされているところを見ると、この塔も全く存在
を主張できていないことが如実にわかる。密林を掻き分け、見上げると、塔の
ほぼ全貌が確認できた。他の塔と同様、屋蓋には雑草が茂り、レンガが剥がれ
落ちたりしているが、頂上部にある四隅の尖塔には装飾が残り、荒れ果てては
てるものの、当時の美しい姿をわずかながらイメージすることはできる。しか
し、基壇部分がセメントで延命措置のごとく見苦しく補修され、著しく印象を
悪くしている。車一台通るのがやっとの狭い道しかないこんなところにでも補
修の手は入っているということだが、やり方があまりにもお粗末だ。
この銅塔がある周辺は、11世紀以降のチャンパ王国の中心部で、いくつ
もの堂塔群があったとされている。しかし、1471年に勃発した黎朝との戦
争で、王宮以下大半が破壊され、銅塔ひとつがぽつんと残されるだけとなって
しまった。崩壊を下手な補修工事で免れているこの建造物から漂うのは痛々し
さだけで、600年前の繁栄は、いくら想像をたくましくしても思い浮かべる
ことはできなかった。
今も祈りの場所として−フンタン
大型車が行き交う国道を数十キロも走り、あぜ道のような悪路でお尻をバ
イクのシートに存分に叩きつけてきた僕は、このまま帰ってホテルのベッドに
横になりたい気分だった。バイクタクシーのドライバーもいくら言い金になる
とは言え、いいかげん疲れていただろう。しかし彼は変に気が利く男で、銅塔
を見終わってクイニョンの街へ帰る途中、ビンディンを過ぎ、トゥイフォック
の街中でバイクを止めた。運転手が指さした左手の方に、四角い塔の上部が見
えた。フンタンだ。僕もこの塔の存在は知っていたが、正直言って「もういい
や」という気分だった。しかし、せっかく運転手が止めてくれたのだから、僕
も「遺跡好きの日本人」演じきることにした。
一号線から人が行き交う路地にはいり、数十メートル行くとフンタンの入
り口があった。周囲は商店があってなかなかの賑わいだ。塔は金網で囲われた
敷地内に大小二つあり、どちらも直方体だ。フランスの研究者によると、最も
背の高い塔が真ん中になる形で、3つの塔があったらしいのだが、ひとつは現
在失われてしまっている。両方とも屋蓋が身舎から迫り出していて、頭でっか
ちに見えた。研究者によるとフンタンは、12世紀後半に建造され、カンボジ
アのクメール民族の建築様式を採り入れたものだという。確かに屋蓋に尖塔は
なく、頂上に向かって少しずつ小さくなっていく7層の構造は、他の3つの塔
とは全く形が異なっている。
補修は完璧で、レンガの剥がれも全くない。敷地の中は掃除が行き届き、
花壇には花が植えられていた。この塔に対する人々の思いが感じ取れた。5、
6歳の女の子が、花を持って真っ暗なお堂の中を見つめていた。
今まで見てきた3つの塔とは明らかに雰囲気が違う。ここは、今も人々に
とって祈りの場なのだ。中に祀られていたのがどんな神様であるのか、そんな
ことはどうでもいいのだろう。彼らにとっては祈る対象さえあればいいことな
のだ。いいかげんというかおおらかな本質主義というか。ここらへんは、なん
でもかんでも神様にしてしまう我々日本人に似た宗教観を持っているような気
がする。
人々のこまやかな愛情を受け、この塔だけは今もひっそりと息づいている。
田園の中の廃墟−象牙塔
翌朝6時半、ホテル近くのロータリーで客待ちをしていたバイクタクシー
に声をかけた。昨日同様、象牙塔の写真を見せ、ここへ行きたいことを伝えた。
サングラスをかけたずんぐりした体形の男が頷いた。値段を尋ねると5万ドン
だと答えた。僕は咄嗟に直感した。「今日も銀塔に連れて行かれる」と。おそ
らく銀塔の前で値段交渉をやり直すことになるのだろう。
クイニョン市内はすでに通勤時間帯に入ったようで、交通量が多かった。
しかし、バイクは順調に走り、トゥイフォックの街を過ぎると、交通量はかな
り減った。そこから15分ほど走ると、あの銀塔が見えた。男はスピードを緩
め、路肩に止まった。
『やっぱり…』と思うと同時に男が言った。
「あれだろ?」
僕は思わず苦笑いした。もう、違うって。おそらくここの人たちにすると、
チャンパ王国の遺跡とは一番近くにある銀塔を指すのだろう。
再び象牙塔のコピー写真を見せ「ほら、1、2、3。3つ塔があるでしょ?」
「あれもあるじゃねーか、3つ建物が」
形が全然違うんだよ。僕は紙の余白に地図を書いて説明した。
「バギっていうところ…」
「バギ?」
「バジ?」
「バジ!」
「そう、そこを左折して、フフォン」
「フフォン?」
「…ていうところがあるから、そこを右折するの」
男は何となくわかってくれたようだ。
「で、いくら?」
「うーん、遠いからな…。××ドン」
「えっ?」
「往復だろ?だから××ドン」
何と言っているのか全くわからない。昨日もそうだったが、この地方の数
字の発音は聞き取りづらい。紙に書かせると『8万ドン』と書いた。 往復で
80キロはあるだろうから、そんなとこだろう。昨日のバイクタクシーもここ
までで5万ドンだった。どうやらクイニョンのバイクタクシーの運賃は一律で
決められているようだ。ベトナムでは珍しいが、いいことである。
バイクはUターンし、バジからフフォンへ向った。道路は空いていて、夏
の風が爽やかだった。ドライバーは他のバイクを追い抜いたり、抜かれたりす
るたびに道を聞いている。そして、誰もが「まっすぐ行って右だ」みたいなこ
とをジェスチャーまじりで言っていた。道端の道標にはフフォンまで30キロ
となっていた。かなり遠そうだ。山があって水田が広がり、風景は日本とほと
んど変わらない。1時間以上走っただろうか、一瞬だが、右の彼方に象牙塔が
見えた。この方向で間違いないようだ。安どのため息が不安の塊を吐き出した
ような気がした。
それからまだ十数分は走っただろう。小さな町に入った。どうやらここが
フフォンらしい。ドライバーは右折する道を何人ものひとに確認している。右
折した道は、乗用車が1台通れる程度の幅しかないダートだった。途中で2度
目の給油をした。「1万ドン出してくれ」というので出してやったら、おつり
はちゃっかり自分の懐に入れていた。 時計を見たら8時を過ぎている。ニャ
チャンへ戻るバスは12時発だ。間に合うだろうか。
狭い道路だが、車や人の往来が多く、車が通るたびに砂埃が舞い上がり、
道行くひとは顔を背け、ドライバーは一旦停止をして車をやり過ごしていた。
小さな村をいくつか過ぎ、坂を上り、また下った。いい加減乗っているのが嫌
になってきた頃だった。木立が切れ、眺望が広がった。そして、巨大な3つの
塔のシルエットが田園風景の中に姿を現した。象牙塔だ。その巨大な姿は周囲
の風景と完全に一線を画した雰囲気を醸しだしていて、まるでそこだけが異空
間のようだった。道路を右折し、あぜ道を走り、象牙塔がゆっくりと僕に迫っ
てきた。 近づくにつれその巨大さに圧倒されてしまいそうになった。
周囲では農民たちが作業の手を休めて珍しそうに僕を見ていた。軽く会釈
すると、彼らもにっこり微笑んだ。塔の方から1匹の野良犬が舌を出してとぼ
とぼとやって来て、僕の脇を通り過ぎて行った。若者がひとりで塔の周囲を金
網で囲う作業をやっている。修復の手がようやくここまでのびてきたというこ
とか。
3つの塔は東に向いて立ち、朝の光を浴びて鮮やかにその姿を浮かび上が
らせていた。青空とのコントラストが美しい。塔の屋蓋に草が生い茂っている
のは今まで見た塔と同じだ。しかし、形は他の祠堂とは全く異なっている。屋
蓋に尖塔はなく、4層の上には蓮の玉座が乗っている。開口部から中を覗いた
が、内部はがらんどうだった。3つの塔は真ん中が最も高いのだが、それぞれ
微妙に形が異なっている。正面の前房は消失しており、往時の壮大な姿を想像
するのは難しい。 建立されたのは13世紀頃だが、この時代は隣国クメール
(現在のカンボジア)との関係が緊密だったようで、装飾様式にクメール芸術
の影響が見てとれる。
広々とした田園の中に立つ姿は実に見事だが、ここを訪れる地元の人は全
くいないようだ。塔の周囲に雑草が生い茂っていることからもそれがよくわか
る。集落から特に離れているわけでもないし、登りづらい丘の上にあるわけで
もないのに。祠堂の中に神様が安置されていないからだろうか。 がらんどう
の建物だけだと有り難味も感じないのだろう。外観は立派の一言だが、誰も寄
り付かなくなった今では、風の中に佇む空疎な存在感しか生み出せなくなって
しまっている。
チャンパ王国以後の南シナ海
15世紀まで南シナ海交易の主力であったチャンパ王国は黎朝に領土の大
半を奪われた後、地方の小政権の地位に堕ち、人々は東南アジア各地域に四散
した。黎朝はチャンパ王国の主要港を手にし、東南アジアや中国との交易に乗
り出した。特に、明の海禁策という一種の鎖国政策によって中国製品不足が生
じた東南アジアでは、ベトナム産の陶磁器や絹がよく売れた。そして、長くこ
の地域で活躍していた中国人闇商人以上に目立ったのが、朱印船に乗って来航
した日本人の姿である。朱印船の総数の3分の1以上はベトナムまでやって来
た。クイニョンの北にあるホイアンという港町には日本人の街も作られ、千人
を超える日本人が住んでいた。郊外には日本人の墓もあり、今もベトナム人に
よって手厚く保存されている。また、この時の日本人はベトナム人に文化面、
言語面でいくつかの影響を及ぼし、言語面では日本語が転訛したと思われる単
語がいくつか存在する。また、ベトナムから伝わったものもある。面白いもの
では、江戸時代のろくろ首伝説がある。これは元来チャンパの言い伝えで、航
海に出た夫の帰りを首を長くして待っていた妻の首がそのまま伸びて行ったと
いうものである。意外なところでチャンパと日本はつながっているものだ。
ところで、東南アジア各地に散らばったチャム族だが、彼らはその後も独
自に貿易活動を行なっていた。ヨーロッパ人が残した記録によると、インドネ
シアの港にはチャム族の船がたくさん来航したという。現在でもカンボジアの
チャム族は貿易業に従事する者が多く、数ヶ国語を操ることが出来るので、外
国企業でも重宝されている。王国の滅亡とともに絶えたと思われたチャム族だ
が、今もしっかりと東南アジア各地で生きているのである。
遺跡の訪問を終えて
クイニョン周辺のチャンパ王国の遺跡を1日半かけて回ったわけだが、フ
ンタン以外は荒れるがままに晒されていた。このような状態になってしまった
のは、いくつかの要因が挙げられる。ベト族の圧迫、他の土地への強制移住な
ど、チャム族の身に降りかかった不運が重なって、彼らがこの地を去らねばな
らなかったのが大きいと思われる。 また、イスラム教への改宗も大きいだろ
う。偶像崇拝を禁じるイスラム教にとって、祠堂の中の像は破壊の対象でしか
なかったのではないか。 また、各建造物が意外と装飾性に乏しいことが気に
なった。カンボジアのアンコールワットなどは、精緻な装飾を点描画のように
組み合わせることで、あの壮大な寺院を作り上げたのではないかと思えるほど、
細かい装飾がびっしりと彫られているのだが、ここの遺跡群はあまりにも少な
い。これは、ここで採れる石が硬く、加工に適していないからだろう。また、
それぞれの建造物が間近で見るものではなく、遠くから見られることを意識し
て建てられたからではないだろうろか。だいたいどれも盛り土をした上に建て
られているし、金塔や銀塔は、小高い丘の上に建っていることからも間違いな
い。そして、この2つの塔の丘だが、お椀を伏せたような実にきれいな形をし
ており、周囲に同様の丘がないことから、塔のために人力で造成したのではな
いかという気がする。力の象徴として、または南シナ海を航行する船の守り神
として、あるいは、灯台のような目印として造成した丘の上に建立されたこと
は、チャンパ王国が海洋交易国家として存在していたのだからじゅうぶん考え
られることである。
クイニョン周辺のチャンパ遺跡は、観光資源にするにはかなり難しい。そ
れぞれの塔がかなり離れたところに建っているし、道路事情も悪く、たどり着
くには困難を極める。しかし、観光資源にしなければ遺跡の崩壊は止められな
いのではないかという気もする。こういうものはたくさんの人に見られてこそ
のものだと思うが、現状を考えるとかなり厳しいと言わざるを得ない。しかし、
何百年も風雨に晒され続け、ゆっくりと崩壊の道をたどる遺跡が醸しだす雰囲
気は独特で、その存在が忘れ去られた長い年月を見るものに感じさせ、ある種
の感動を呼び起こすのも事実である。
(終)
参考文献 『もっと知りたいベトナム』 弘文堂
『チャンパ遺跡』 連合出版