台湾・霧社の旅    木田 洋 (キダヒロシ)

      
  中国では日本の都道府県に当たる行政区画を1級行政区と呼び、全部で32
区ある(1997年3月14日重慶市が直轄市に、7月1日香港が特別行政区に
なって、従来30だった1級行政区が32ヶ所になった)。この全てを走破した
いとの長年の夢は、1996年寧夏回族自治区銀川市駐在中に実現した。こうな
ると「残された」台湾に是非行かなければならなくなる。夏休みを目一杯とって
ユースホステル等を利用する自由旅行を考えたり、安価で短期間に台湾の名所を
手際よくまわるパック旅行のパンフを集めていた頃、ある新聞の記事が目に入っ
た。8月22日から5日間、霧社事件址を巡る旅行を、日野市社会教育センター
が企画していると、朝日新聞に載ったのだ。霧社事件には以前から興味を持って
いたから、早速申し込んだ。


【1】 8月22日(金)東京:くもり、台北、台中、日月譚:曇り、一時雨。

    日本アジア航空 EG201 
    東京10:30 → 台北中正12:40(1時間の時差あり)

  成田空港に団員20人、旅行社、日野センター職員各1人、計22人が集合。
機内で席を隣り合った団員は、よほどの酒好きとみえて、ビール、ウイスキーの
おかわりを連発する。オレもあおられて、ついついお相伴してしまった。おかげ
で中正空港に着いた時は、「金時の火事場見舞い」もかくやの真っ赤な顔で、ア
ルコール混じりの汗をかくていたらく。出迎えの観光バスに乗る。バスの中で各
自が自己紹介。それぞれ一家言も「二」家言も持っていて、にぎったマイクをな
かなか離さない。 22人全員の発言が終わったのは2時間近くたった頃ではな
かっただろうか。みんなが、それぞれ霧社事件や日本の台湾植民地統治に思い入
れを持って、この旅に参加している。台湾の観光名所・日月譚に泊まる。 
                           中信日月譚大飯店泊。


【2】 8月23日(土)日月譚、清流、霧社、廬山:晴れ、猛暑、夕刻一時雨。

  この旅行には、もう1人の案内人が現地参加した。柳本通彦という若手のフ
リージャーナリスト。霧社に入れ込んで台湾に長く留まり、『霧社に生きて』、
『漫画・霧社事件』(ともに現代書館)を著し、霧社事件、日本軍に参加した台
湾兵士に関するドキュメントフイルムをものにしている。われわれは、この青年
のおかげで、長い間口にすることすらタブーだった霧社事件を縦糸にして、その
糸にからまれながら壮烈に生き抜いてきた人々と会い、話し合うことが出来た。


【2−A】 台湾処分と霧社事件

  1895年、日清戦争に勝った日本は莫大な賠償金とともに台湾を獲得する。
清国政府は、日本がアジア太平洋戦争で敗れた後、沖縄を捨てたように、化外の
地・台湾を捨てた。日清の台湾処分に怒った台湾住民は、台湾の独立を宣言し、
進駐した日本占領軍に抵抗する。抵抗を次々に鎮圧し、まず平地を押さえた日本
軍は台湾の面積の大部分を占める山岳地帯への攻略にかかる。しかし山中には、
誇り高く勇敢な山地先住民が住んでいた。彼ら険しい山岳地帯の地の利を生かし、
登って来る日本軍に石、丸太、やりを投じて抵抗する。山地の強行偵察に入った
日本人14人が行方不明になる事件が起きた。ここで日本軍は山岳地帯を、地雷
と鉄条網で封鎖する手段をとる。数年の封鎖により塩を入手出来なくなった山地
住民は健康を害するようになった。

  ある日、日本軍と警察は塩を配給すると布告し、帰順してきた住民の内、若
い男を殺して平定に成功する。これが霧社事件の遠因になった(以上は下山みさ
子さんの話しを元にした)。山岳民の強い抵抗に懲りた日本当局は、住民を軍と
警察の力で押さえつける「鞭」と、教育、医療、役職登用で懐柔する「あめ」の
両面政策をとる。山の奥深くまで派出所や交番が設置された。警官はその土地の
経営にも口を出し、さらに山地民の児童を集め日本語を教える教育機関・蕃童教
育所(少数民族の子弟を蕃童と蔑称した)の教師も兼任した。つまり警官は警察
権以外に行政権、経済権、教育権を一手に握るオールマイテイの存在だったのだ。
霧社地区に派遣された巡査・吉岡は木材を住民に伐採運搬させボロ儲けした。し
かも作業にあたった住民の給料をごまかし、運搬の方法が悪いと殴打して住民の
恨みをかっていた。これも霧社事件の原因の1ツになった。

  霧社地区マヘボ社にはモーナルダオ(漢字では莫那魯道と書く)と云う山岳
民の首領がいた。ある日住民の結婚式に来賓として出席した吉岡巡査は、モーナ
ルダオの息子が握手を求めた際、巡査の権威の象徴である白い手袋が汚れたと息
子を殴打した。さらにお詫びのしるしに差し出した酒杯を手で払った。結婚式で
は山羊や野豚をほふって料理するから息子の手は血で汚れていたかも知れないし、
酒は麹のかわりに唾で発酵させるから、日本人には不潔に思えたのだろうと、下
山みさ子さんは云う。これが霧社事件の直接の原因になった。山地住民の若者達
がマヘボ社のモーナルダオに決起をせまった。住民の間で信望の厚いモーナルダ
オがたてば、霧社地区12社の全住民が蜂起すると思われた。社とは集落のこと。
山岳地帯では食糧の大量確保が難しいから、社と社は互いのテリトリーを犯さぬ
ように距離を保って山中に点々と散在していた。モーナルダオはついに武装蜂起
を決意し、決行の日を10月27日と定めた。

  当時の台湾の初等教育機関には台湾人〜主に漢民族の通う公学校、先住民族
の児童に巡査が日本語を教える蕃童教育所、日本人の為の小学校の3種類あった。
1930年10月27日、霧社公学校では日本人小学校との合同運動会が開催さ
れようとしていた。1895年の10月28日、台湾進駐軍の近衛師団長北白川
宮能久親王は住民との戦闘中に戦病死している。北白川宮は祭神として台湾神社
に祭られ、毎年彼の命日には神事が行われるようになった。 その前日に当たる
10月27日の宵宮に台湾各地では運動会などの行事を組んで親王逝去を記念し
ていた。深夜3時、モーナルダオに率いられた300人余りの青年部隊が、霧社
周辺の駐在所、交番を襲い、巡査を殺し、銃器を奪い、電話線を切断しながら、
孤立無援の状態にした霧社公学校と霧社警察署に向かった。事件の直接の原因を
作った吉岡巡査は真っ先に血祭りにあげられていた。朝8時、運動会場での国旗
掲揚、国歌斉唱の開始と同時に学校と警察署は、刀、やり、銃で武装した部隊に
襲撃され、日本人は女、子供を問わず殺害の対象になった。運動会に招待されて
いた小笠原郡守はいち早く崖から飛び降りて逃亡をはかったが執拗に追う住民の
手で首をはねられた。この蜂起に際し、霧社12社の内、モーナルダオに従った
のは6社(全住民併せて1300人)だけで、残りの6社は参加を拒否した。前
出の柳本氏は、もし霧社地区の全社が加わり、もっと多くの青年が参軍していれ
ば、モーナルダオは霧社制圧の後、山を下って平地の埔里市を攻撃し、事件はさ
らに大きなものになっていただろうと云う。埔里市は霧社に通じる幹線道路の登
り口にあたり、蜂起住民を鎮圧する日本軍の前進基地になったところ。モーナル
ダオは部隊と蜂起に参加した6社の全住民をまとめ、自分が首領をしていたマヘ
ボ社奥地のアヘボ渓谷に分け入った。

  日本当局は山岳民族蜂起の報に愕然とした。首領のモーナルダオは住民慰撫
のため日本に招待したこともある男。さらに驚くべき事は、住民の間に、日本当
局の覚えめでたく、警官に取り上げられた花岡一郎、花岡二郎(2人は兄弟では
ないが、兄弟のような名前を付けられた)がいたことだ。警官として日本の訓練
を受けた一郎、二郎の2人が、住民の日本に対する怨念を、計画的で統制の取れ
た武装蜂起に組織する上で、重要な位置を占めたことは想像に難くない。

  激怒した日本当局は軍警一体の討伐部隊を山中におくる。蜂起部隊は岩の陰、
木の陰に隠れて反撃をやめない。ついに日本軍は飛行機による毒ガス弾爆撃の挙
に出る。これが日本軍がヨーロッパから生産設備を輸入し製造した毒ガス弾実戦
使用の端緒とされている。日本軍に逐われた山地住民は、足手まといの子供をマ
ヘボ渓谷に投げ入れ、女達も木に縄をかけて首吊り自殺していった。山地の少数
民族は自分たちの祖先が木から生まれたと信じていて、木に首をかけて死ねば祖
先に会えると思っていたようだ。山岳地帯のゲリラ戦に手を焼いた日本軍は、他
の山岳民族にモーナルダオ隊の戦士の首を取って来たものには多額の賞金を出す
と布告し、山岳民と山岳民を相闘わせる策をとる。こうして山岳民は日本軍に協
力する「味方蕃」と、なお抵抗する「敵蕃」とに分裂させられる。最後まで抵抗
を続けたモーナルダオは、マヘボ渓谷源流の洞窟の中で自ら喉を鉄砲で撃って自
決した。モーナルダオの遺骨は翌年発見され、台湾帝国大学に陳列された。モー
ナルダオには子や孫が多数いたが、モーナルダオと行を共にし戦死あるいは自殺
した。しかし娘のマホンモーナだけは夫と子供を含む全親族を亡くしながら1人
生き残った。

  警官でありながら事件に関わった(蜂起に参画しなかったとの説もある)花
岡一郎、花岡二郎もモーナルダオの部隊とは別の場所で家族と共に自殺した。一
郎は日本の古武士のごとく切腹した。 二郎は一族の死を見届けた後、首をつっ
た。しかし二郎は妊娠中の妻・オビンタダオ(日本名:花岡初子)の自殺を許さ
なかった。妻には生き延びて自分の子を産めと厳命した。蜂起に参加した6社の
住民の内、約500人余りが生存した。翌年、「味方蕃」が生き残った「敵蕃」
を襲い200人以上が殺害される事件が起きた。これを第2次霧社事件と呼ぶ。
霧社事件後、「敵蕃」は日本軍警の厳しい監視下に置かれていたのだから、「味
方蕃」による襲撃は日本当局の指示により行われたことは疑いない。霧社事件、
第2次霧社事件後も生き残った200人余りは山から下ろされ川中島(現在は清
流と改名)に強制移住された。山の中に住まわせて置くと、また山岳ゲリラ活動
をおこす恐れがあると判断された為である。川中島と名付けられて平地は島では
ないが、後方に山が広がり、前方が川で1本の吊り橋でしか外界との連絡がとれ
ない土地。この地の中央に50人が駐在する警察署を置き、吊り橋のたもとにも
交番を設けて、霧社の生き残りを閉じこめた。この「敵蕃」ゲットーの中には、
花岡二郎の子を宿した臨月のオビンタダオ(花岡初子)がいた。モーナルダオの
娘・マホンモーナもいた。

  オビンタダオはゲットー到着後、まもなく男の子を産んだ。花岡初男(現在
の名は高興華氏)と名付けられた。夫と子供を事件で失ったマホンモーナは、父
であり山岳民族の勇者であったモーナルダオの血統を絶やすべきでないと決意し、
子を産む為に再婚した。しかし子供には恵まれず、モーナルダオの親戚筋で、霧
社3美人の1人と言われたバカンワリスの娘を養女にする。母親に似て美人の養
女・ルビマホンはパーワンネヨン(現在の名前は劉忠仁氏)を婿に取り、今では
孫もいる。勇者・モーナルダオのやしゃ孫と云うことになる。   


【2−B】 川中島ゲットー

  われわれは途中道を間違えたり、こんな大きなバスが来たのは初めてと云
う細い道を通り抜けて川中島に着いた。モーナルダオの孫娘に当たるルビンマ
ホンさんと劉さんの夫婦が出迎えてくれた。劉さんは背筋をピンと伸ばして、
われわれの前に立つと、霧社事件のようなことが起きたが、日本人のおかげで
山を下りることが出来たし、米の作り方も教えてもらい、日本人には感謝して
いると挨拶された。ルビンマホンさんも同じ主旨の話しをされた。夫妻に案内
されて、われわれは山を登りルビンマホンさんの養母でモーナルダオの娘のマ
ホンモーナの墓、実母・バカンワリスの墓、花岡初子・オビンタダオの墓(昨
年9月1日に病没された)にもうで、墓の周りの雑草をむしり、掃除をし、生
花をたむけた。日本敗戦後、破壊された川中島神社址に建てられた霧社事件記
念碑にも立ち寄った。

  記念碑は劉さんが村長だった時に建てられたもの。劉さんは義理の祖父・
モーナルダオの遺骨が台湾帝大(現台湾大学)に保存されていることを知り、
苦労して捜しだした。彼はモーナルダオの骨をマホンモーナの墓の隣りに埋め
て父娘を再会させようとしたが、台湾当局はこれを認めず、父の方は霧社事件
が起きた旧霧社公学校そばの記念碑後方に巨大な墓が造られ埋葬された。ルビ
ンマホンさんも劉さんも墓前でキリスト教式の祈りを捧げた。柳本氏によると、
山岳先住民の95%以上が敬虔なクリスチャンだと云う。日本の占領時代、先住
民の伝統宗教は禁止され、日本の神道信仰が強制された。日本の敗戦後、蒋介
石軍は日本の建てた神社を破壊した。日本軍と共に「神」も敗れて去って行っ
たわけだ。神がいなくなり精神的に空虚になった先住民の間に、キリスト教の
宣教師がメリケン粉と粉ミルクを持って入って来た。山の民は集落ぐるみで一
斉に入信した。この布教の成功は「天地創造以来の奇跡」と呼ばれている。劉、
ルビンマホン夫妻が、われわれ日本人に一言も恨みがましい言葉を吐かなかっ
たのは、山岳民族の心の広さ以外に、「汝の敵を愛せよ」と説くキリストの教
えの影響があるからかも知れない。


【2−C】 川中島から出征した高砂義勇隊員

  山を下りてバッサオマデ・オビンナウイ夫妻の家を訪ねた。ご主人のバッ
サさんは日本植民地時代に中野愛三の名前を付けられていた。フリージャーナ
リストの柳本が勇者・モーナルダオの遺族を探して川中島にたどり着いた時、
彼はアジア・太平洋戦争中、川中島の若者達が高砂義勇隊の名で戦地に送られ
たこと、そしてその多くが南太平洋で戦死したことを知り、さらに元日本兵士
が生き残っているのを発見した。日本当局は霧社事件の山岳戦中に、山地住民
がゲリラ戦で発揮する強さを思い知らされた。日本軍は、これを逆手に取って
山地民を徴兵し南太平洋でのジャングル戦で日本軍の先頭にたてることを考え
ついた。バッサオマデ・中野愛三は軍に志願した。川中島ゲットーに閉じこめ
られた若者にとって、日本兵になることは抑圧から逃げる唯一の道に見えたか
らだ。中野は「蕃刀」1本を腰にたばさみ、裸足で従軍した。刀は男の強さの
象徴で、男児は大きくなると父親から刀を贈られ、一生身につける。当時の日
本当局は山の男の誇りである刀を「蕃刀」と蔑称した。モロタイで輝き部隊(
中野は高砂義勇隊ではなく正規の日本軍に参軍した)の兵士としてジャングル
の中でゲリラ戦を戦い抜く。夜目の効く彼は、深夜音も立てずに米軍基地に忍
び込み「蕃刀」で米軍兵士を殺して戻って来た。日本軍が食糧不足に悩まされ
ていた頃、彼は山豚を捕まえては日本兵を飢えから救った。軍上層部から数回
感謝状を与えられている。妻のオビンナウイさんに聞いた。中野の出征日の1
週間前、日本人巡査が来て中野が可愛そうだから結婚しろと命令された。日本
人の命令には逆らえず、いやいや従った。夫22歳、妻18歳の時である。わ
ずか7日間の新婚生活の後、自分の骨が戻るまでは生きているものと思えと言
い残して中野は出征した。中野は腕にけがをしたが生きて川中島に帰って来た。
今では2人の間に7人の子供と20人の孫がいる。日本政府は、日本軍の先頭
で勇敢に闘い、日本兵を飢えから救った中野達になんらの補償もしていない。


【2−D】 下村文枝さん一家

  ルビンマホン・劉さん夫妻の家に戻ると、娘さんがお赤飯をたいて待って
いてくれた。そこへ「待ちかねた」と言いつつ、下村文枝さんの次男・誠さん
がランドクルーザーを転がして、われわれを迎えに来てくれた。下村文枝さん
についても、柳本は一文をものにしている。山地住民の抵抗に手を焼いた日本
当局は、日本人と現地住民の結婚を奨励し、「日−台融和」の雰囲気作りをは
かった。山地に派遣された巡査・下村治平は、この政策にしたがって霧社地区
奥地に居住する少数民族の首領の娘・ペッコタウレと結婚した。治平は3年経
ったら別れて良いと、上司に言われていたらしい。2人の間には長男・一(ハ
ジメ)を頭に6人の子供が出来た。治平はこの間に日本から追って来た許嫁と
も結婚し、平地にも一家を成した。

  1925年、任期を終えた治平は日本人妻とその子ども達だけを連れて帰
国する。母・ペッコタウレと共に山地に残された下山一は父に日本人と結婚し
ろと命令されていた。やはり霧社の巡査だった藤原の娘・文枝は一や後に花岡
二郎の嫁になるオビンタダオと幼なじみだった。藤原一家は霧社事件の後帰国
していたが、文枝は一の嫁探しの話しを人づてに聞いて、霧社に戻り一に嫁入
りする気になった。当時上映された山口淑子・李香蘭の映画「サヨンの鐘」を
見て台湾の山々が急に恋しくなったのが動機だと云う。一は教師として活躍し
ていた。文枝さんは3女2男を産んだ。

  日本敗戦後、台湾在住の日本人は続々と引き上げて行った。文枝さんは一
に日本へ行くことをせまった。しかし一はペッコタウレに再び家族から捨てら
れる悲しみを味合わせたくないと残留を決めた。日本軍にかわって台湾に進駐
した蒋介石軍は一を日本のスパイであると何回も取り調べ、家財を没収し、教
職を剥奪した。下山一家は山中に入り、先住民の畑をたがやして、わずかな作
物を分けてもらいながら生き延びた。一はキリスト教に帰依し無給の宣教師に
なって山々を布教して歩いたが今は亡い。それでも子ども達は立派に育って、
それぞれ教員や軍人として活躍している。80歳をすぎた文枝さんは、日本の
衛星放送TVで相撲を見るのが楽しみらしい。ひいきの力士を聞いたら、土佐
の海と答えた。なかなかの相撲通である。霧社事件、アジア・太平洋戦争、蒋
介石軍の台湾進駐とめまぐるしい歴史の変遷に翻弄されながら生き抜いてきた
1人のおばあさんが、台湾の山の中から応援していることを土佐の海に伝えよ
うと思った。

  日本人グループが文枝さんを訪ねて来ると聞いて、文枝さんの子ども達が
孫を連れて集まって来た。川中島近くのレストランを借り切って、われわれと
下山一族の昼食会が開かれた。汗をビッショリかき喉がカラカラのオレは、レ
ストランの主人に冷たいビールを直ぐ出すよう頼んだ。主人はビールは置いて
ないと云う。オレは泣き出した。ルビンマホンさんや、中野さんがジュースを
すすめてくれたが、甘いものは嫌いと断ったのは、ビールを美味しく飲もうと
思ったから。このやり取りを後ろで聞いていた、下村家の末っ子・誠さんが、
麓の酒屋までランクルを転がして行こうとする。「待った。ビールが無いから
と言って死ぬわけじゃない」。オレは誠さんを押さえた。だが誠さんはオレの
すきを見てランクルを飛ばして行った。 食事がはじまって間もなく、冷えた
ビールを山ほど担いで、誠さんが戻って来た。彼のおごりだと云う。酒飲みは
酒を愛するものを知る。誠さんとオレはすっかり意気投合して「台湾式」乾杯
を何度も繰り返した。誠さんは大学の軍事教官を勤めている。軍事教官殿によ
れば一気に杯を空けるのが台湾式乾杯だそうだ。 教員で下村家三女のみさ子
さんが「母は日本人に会うのが楽しみで、皆さん来るのをずっと待っていまし
た」と挨拶した。酒がまわった頃、カラオケをつけて古い日本の歌謡曲の大合
唱になった。誠さんとオレは又コップをぶつけ合った。

  昼食後、下山家の別荘に立ち寄った。対岸の切り立った崖に滝がかかる美
しいところで、庭には下村一の墓がある。われわれはここでも生花をささげた。
墓の隣には霧社事件日本人殉難者慰霊塔のてっぺんにあった宝珠が安置されて
いた。霧社事件で殺された日本人130余名をとむらう慰霊塔が事件の翌年建
てられた。慰霊塔は日本敗戦後も残されていたが、田中角栄訪中、日中国交回
復直後に破壊された。下山一は瓦礫の中から宝珠を見つけだし地中に埋めて密
かに保存していた。別荘でくだものをいただいた後、みさ子さんの案内で霧社
に向かう。今、霧社に住んでいる人々は、霧社事件発生後、日本軍警の指示で
モーナルダオを追撃した「味方蕃」の子孫である。モーナルダオの部隊がせん
滅され、生き残りが川中島に強制移住させられた後、霧社の地はほうびとして
「味方蕃」に与えられた。今は物干し台になっている慰霊塔の跡地、霧社公学
校址(現台湾電力公司)、蜂起軍が襲った警察署(今でも警察署)、霧社神社
址、校長の指示で逃げ込んだ小学生が全員殺された校長宿舎址をまわり、蜂起
した住民の慰霊碑とモーナルダオの墓にもうでる。ここで案内してくれたみさ
子さんと別れた。霧社地区は国立公園に指定され、今ではバス道が開かれてい
る。わがバスは今夜の宿泊先・廬山温泉に向かう。急峻な山肌を切り開いて造
った道は、生命保険会社の社員が見たら気を失うほどの危険なもの。夜遅く碧
華山荘に着いた。


【2−E】 元日本兵・高聡義氏

  霧社事件慰霊碑の前で、元日本兵・高聡義さんがわれわれの一行に加わり
廬山温泉へ案内してくれた。高さんは村長、県議会議長を歴任したこの地の名
士。やはり日本軍兵士として出征した体験をもっている。宿での夕食代を自分
に任せろと言い張ってわれわれをこまらせた。夕食時に挨拶に立った高さんは
次のように述べた。自分はもう80歳を超えたが、3ツのことをやり遂げなけ
れば死ねない。1ツは日本兵として戦った台湾人への補償を日本政府から獲得
すること、2ツ目は霧社の日本人慰霊碑を再建すること(下村さんの別荘に宝
珠が保存されているが、慰霊碑跡地は物干し台になっている)、そして3番目
は安置場所の無い明石台湾総督の遺骨を引き取ること。明石の墓は霧社に造る
べく、その土地を手配済みと付け加えた。第1項については、われわれ自身も
誠に申し訳なく何らかの運動を起こさねばと思った。第2の慰霊碑再建も寛大
な気持ちを有り難く感じた。しかし明石総督の墓再建案は理解に苦しんだ。明
石元二郎陸軍大将(1864〜1919)は日本の近現代史の裏面で奇怪な役
割を演じた人物。日露戦争中、明石はストックホルムに飛び、亡命中のレーニ
ン、トロッキーと接触、軍資金を渡して1905年のロシア革命を支援した。
革命の勃発によりロシアは日露戦争を継続できなくなる。日韓併合の陰でも、
明石は朝鮮駐在憲兵隊長として謀略と独立運動弾圧に辣腕をふるった。その実
績をかわれて1918年、台湾総督に抜擢される。歴史の陰の部分を歩んでき
た明石にとって初めての陽の当たるポストであった。しかし間もなく健康を害
し日本に戻り病没した。遺体は明石の遺言に従い台湾駅の近くに埋葬された。
墓は後に明石神社となり、神社を中心に日本人墓地が造営された。 乃木希典
(第3代台湾総督でもあった)の母親の墓もここに設けられた。1948−9
年、蒋介石に従って中国大陸から台湾に逃げ込んできた国民党軍の内、下級の
兵隊は職も住まいもなく日本人墓地にバラックを建てて住み着いた。墓石は床
材や柱に使われ、明石の墓の上に共同便所が造られた。かくして旧明石神社と
日本人墓地は台北市最大のスラム街になった。数年前、台北市当局は市の玄関
口(台北駅)に広がるスラム街を取り払い公園を造成することにした。バラッ
ク群を取り壊す内に墓石が次々とあらわれ、重なり合う小屋に隠れていた明石
神社の2ツの鳥居も姿を見せた。この事についても柳本は「文芸春秋」(97
年6月号)紙上に写真特集を掲載している。明石の遺体を納めた棺も共同便所
の近くから掘り出されている。今、この棺は引き取り手の無いまま台北市内の
火葬場倉庫に保管されている。高さんは何のえにしか明石の棺を引き取り彼の
墓を霧社に再建すべく奔走している。その理由をしつこく聞くオレに、「明石
は台湾電力を設立して台湾の近代化に貢献した」と答えた。高さんは台湾人旧
日本兵や遺族への補償をさせる一方、霧社日本人慰霊碑、明石総督の墓を再建
することによって、日本台湾占領中の怨念を超えた、新たな日本人との友好関
係を創りあげようとしているのだろうか。


【2−F】 廬山温泉・碧華山荘と花岡初男

  川中島に閉じこめられていたオビンタダオ(花岡初子)は日本の敗戦で自
由の身になった。モーナルダオが首領をつとめ、死に場所にしたマヘボ社に土
地を買って小さな温泉宿を開いた。今、この一帯は大観光地になって大きなホ
テルが立ち並んでいるが、ここに目をつけ最初の温泉宿を立てたのはオビンタ
ダオである。子どもの頃から利発だったと云う、彼女の先見の明がしのばれる。
オビンさんには花岡二郎との子・花岡初男(現在の名は高光華)がいる。初男
は生まれて長らく自分が何故閉じこめられて暮らしているのかわからなかった。
日本の巡査に命じられて町へ巡査のための米や生活用品を買いに行かされるの
が、外の世界を見るわずかなチャンス。米は重たく、山道を担いで歩くのはつ
らかったが小遣いをもらえるし、町を歩けるのも嬉しかったと、初男は述懐す
る。初男は日本敗戦後はじめて母・オビンタダオから自分の出生の秘密を聞か
された。霧社事件を知る最後の語り部としてオビンタダオは生きてきた。昨年
(1996年)秋、日本軍による毒ガス戦と毒ガス兵器の遺棄問題を究明して
いるグループが日本からオビンさんを訪ねて来た。上機嫌で日本人一行を接待
し霧社事件を語ったオビンさんは、翌日倒れ9月1日台中市の病院でなくなっ
た。オビンさんが建てた温泉宿は初男夫妻が受け継いでいる。 われわれは夜
12時過ぎまで、高聡義さん、花岡初男さんと飲みながら語り合った。 
 
               花岡初男さん経営の廬山温泉・碧華山荘泊。


【3】8月24日(日)廬山温泉、タロコ渓谷、花蓮:晴れ

  朝早く廬山を出る。台湾で一番美しい景観を誇るタロコ渓谷を通り抜けて
太平洋岸の花蓮に夕方ついた。ここでは高砂義勇隊生き残りの3人がわれわれ
を待っていてくれた。 中村武雄さん(民族名:ブテンカザウ、中国名:林武
丁)の家にバスを乗り付ける。中村さん達は平地に住む先住民族のアミ族人。
アミ族も日本軍兵士として太平洋の戦線にかり出され、その多くが帰って来な
かった。中野さんの家の庭にテントがはられテーブルがならんで野外宴会場が
つくられている。宴会に駆けつけた平山さん、松原さんと、この屋の主人・
村さんの3人は、兵士としてアメリカ軍を相手に勇敢に戦ったことを今でも誇
りにしている。この3人が「花蓮三勇士」と呼ばれる由縁である。酒が入る内
にアミ族民謡に併せて全員が手をつないで踊り出した。わが旅行団の中の若い
女性が、この人達に魅せられてしまい、団から離れてこの家に泊まりたいと云
い出した。彼女はたった2時間の付き合いですっかり仲良くなったアミの人々
と別れ難かったようだ。明日はアミ族の豊年祭だと云う。中村さん宅に泊めて
もらえればお祭りにも参加出来そうだ。  
                          花蓮統帥大飯店泊。


【4】8月25日(月)花蓮、台北:晴れ、猛暑

  花蓮から汽車で台北に戻る(自強号 花蓮09:08→台北11:59)
バスに乗り換え市内に残る日本統治時代の遺跡巡り。 明石神社址、日本人墓
地址、旧台湾総督府、旧台湾帝大医学部、2.28記念公園、龍山寺、芝山公
園(日本台湾占領直後、日本人教師6人と用務員1人が殺された地に建てられ
た神社、伊藤博文が揮毫した慰霊碑があるが、今は倒されている)。夜、ホテ
ルで柳本氏と懇談会。              
                         台北美麗華大飯店泊。


【5】8月26日(火)台北:晴れ、猛暑、東京:晴れ

  旅の最終日はオプショナルコースの台湾故宮博物館に行くつもりだったが、
気が変わった。昨夜の柳本氏との懇談会の際、明石神社址に鳥居があったと云
う人と、無かったと云う人の間で論争が起きた。オレは再度神社址に行き確か
めることにした。 同室の中山さんと連れだって市バスで台北駅に向かう。台
北駅裏を探し歩く。ところが通行人や店の人に尋ねても誰も知らぬと答える。
パトロール中の警官に、昔は日本人墓地、その後スラム街、今は公園建設地と
聞くと親切に教えてくれた。ようやく跡地にたどり着いた。鋼矢板を打ち込ん
で囲われた工事現場に潜り込む。ブルトーザーで平らになったさら地を見る。
明石神社の鳥居は無かった。まだ時間があるので、うだるような猛暑の中を昨
日も立ち寄った2.28記念公園まで歩く。昨日は休館だった2.28記念館
では日本兵として徴兵された台湾人の特別展覧会開催中。ここで公園の片隅に
明石神社の鳥居を見つけた。撤去された鳥居は取りあえずここに置かれていた
のだ。わが団員の1人はバスの窓から、この鳥居を見たのだろう。台湾人兵士
展会場で2.28事件犠牲者の遺児と日本軍に看護婦として中国戦線に派遣さ
れた女性と話すことが出来た。タクシーを拾ってホテルに戻る。

  日本アジア航空EG208 台北中正15:00→東京19:15(1時
間の時差あり)たった5日間なのに歴史の証人たちと会い親しく話し合えた。
頭の中が整理できぬほどの体験を積んだ旅が終わろうとしている。       
    
                   (1997年8月、文中の各所で)


【6】台湾・霧社の旅から今日まで

  この旅日記は5年も前に書いたものである。時々読み返しているが、わず
か4泊5日の短い時間で、よくもこんなに多くの人と会え、貴重な話しを伺え
たものだと思う。日本の台湾統治時代に残された傷跡は深く、しかもそれらは
未解決のまま葬り去られようとしている。この事実を忘れないためにも、台湾
から帰国した後、わが旅行団員と台湾で出会った人々との交流はつづいている。
これらの事を書き添えておきたい。

1) われわれは文集を出した。ツアー参加者は新聞を見て応募した人がほと
んどで互いに初対面であったが、印象深い旅をおえて別れがたい気持ちになっ
ていた。そこで文集を編もうとの話しが持ち上がった。団員は全員が筆達者、
編集の腕がプロ級の人もいて、立派な冊子が出来上がった。この文集(「台湾
〜日本統治時代を訪ねる旅、日野社会教育センター発行)の影響もあって、日
野社会教育センターは翌年も翌々年も同じコースの旅行団を派遣している。

2) 1999年9月21日、台湾中部山岳地帯で大地震が発生した。旅行中
お世話になった下山さんの家は倒壊し、霧社地区の人々の家も損壊した。わが
旅行団員の多くが下山さん宅に義捐金を送付した。後に下山家の人はそのお金
を自分たちのためには使わず、全て霧社地区の被災者に寄付したと聞いた。苦
難の生活をおくりながら、なおやさしさを失わない下山文枝さんとその子ども
達の行いに心を動かされた。

3) われわれの旅を有意義なものにしてくれたフリージャーナリストの柳本
通彦氏と下山文枝さんの三女・みさ子さんとの交流も続いている。その後、柳
本氏は慰安婦にされた台湾先住民をあつかった「台湾先住民・山の女たちの『
聖戦』」(現代書館)、蒋介石による台湾のファッショ的支配とそれに抵抗し
国民党独裁を終わらせた民衆の運動を主題にした「台湾革命」(集英社新書)
を世に問うている。みさ子さんも下山一家がたどる数奇な運命について「故国
はるか〜台湾霧社に残された日本人」(草風館)を著した。2人は出版社との
打ち合わせの為2001年3月来日したが、わが旅行団員などが主催し新宿で
歓迎会が開かれた。

4) 旅日記の中で、花蓮のアミ族の人々に魅せられ団から離れて村に留まっ
た若い女性がいたことについて触れた。彼女はその後も花蓮を訪れ、村人から
「アミの娘」と呼ばれるほど現地の人に溶け込んでいる。その彼女が「花蓮3
勇士」と家族、計6名を日本に招待しようと団員に呼びかけた。団員のカンパ
と彼女達がフリーマーケットで台湾の民芸品などを売ったお金で資金の目途が
つき、2001年11月招待旅行が実現した。だがこの時松原さんは亡くなっ
ておられ、中村さんも病が重く参加できなかった。替わりに松原さんのご子息、
中村さんの奥さんなどが参加された。招待客が到着した翌日に中村さんが危篤
との連絡があり、奥さんは帰国された。残りの一行は都内見物、大学でのシン
ポジユーム参加、富士山見物のスケジュールをこなしていたが、中村さんが亡
くなったとの報が入り予定を1日繰り上げて帰国された。花蓮3勇士はついに
1人に成ってしまった。日本統治時代の歴史を語り得る人々がだんだん少なく
なっていくのが寂しく且つ何も出来ない自分達がいらだたしい。

5) 「花蓮1勇士」になってしまった平山さんから今年の豊年祭に来ないか
と誘いが寄せられている。アミ族の人々は酒好きで祭りともなれば夜っぴいて
飲み、歌い、踊る。自分は体調をくずしているが、霧社と花蓮を再訪し楽しく
飲んで騒ごうかと思っている。 
                        (2002年7月東京)

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