世界遺産・朝鮮民族の故郷〜中国集安をたずねる     木田 洋   
  中国にはユネスコにより世界遺産に指定された自然遺産、文化遺産が多い。
2006年末現在で32個所もある。中国国内を隅々まで歩いたとうそぶいて
いるオレも、世界遺産に指定された32個所の全部を見たわけではない。冥土
とやらにお邪魔させていただくまでに、残された時間はわずかしか無い。そこ
で、まわりきっていない世界遺産未踏地(中国内のみ)を踏破せねばと、あせ
りにも似た思いを持つようになった。

  今年の8月(2006年)、オレは所用で天津と瀋陽に行った。そしてつ
いでに2004年世界文化遺産に指定されたばかりの集安市の高句麗遺跡に立
ち寄る気になった。
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1.集安市への道
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 集安は、吉林省東南部、朝鮮と中国の国境をなす長白山のふもとにある、鴨
緑江沿いの小都市。瀋陽とは長距離バスで結ばれているはずだが、バスの停留
場がわからない。 宿屋のおかみに聞いたが、集安という町の名前さえ知らな
かった。とりあえず瀋陽鉄道駅前のバス停に行き、チケット売場のオバチャン
に尋ねたが、面倒臭そうに知らんとぶっきらぼうな返事。公衆電話で北京にい
る友達に聞いてみた。彼女は受話器を肩と顔のエラではさんで、オレと世間話
をしながら、パソコンを開いて、集安を検索してくれた。そして、瀋陽には瀋
陽北駅と言う別の停車場があって、そのわきに大きなバス停があり、朝1本だ
け集安行きのバスが出ると教えてくれた。パソコンとは実に便利な物であると
改めて感心させられた。バス停は民営化したバス会社・虎躍快客が建てた巨大
なビル。虎躍快客会社のバスの車体には、社名の通り跳躍する虎の姿が描かれ
ている。バス停と言っても1階がチケット販売所、荷物検車所、待合室、きれ
いなトイレ、2階にはスーパーマーケット、3階以上はホテルと事務所のある、
鉄道の駅舎よりも立派なもの。最近北京でバスに爆弾をしかけられた事件が起
き、バスに乗るにも厳重な荷物検査が必要。ここでは空港と同じようにX線検
査機がつかわれていた。検査が終わってチケット売り場へ向かったが、集安行
きの路線は廃線になったと言われた。公共交通も民営化後は、公益よりは私的
利益が優先となり、乗客の少ない路線はさっさと廃線にされてしまう。ところ
が良くしたもので、大手民間バス会社が撤退した路線を、中小・零細のバス会
社が引き継いで経営している場合もある。

  虎躍快客会社ビルの脇の細い道に入ると、こんな狭い場所にバスを停める
なと言いたいぐらいの小さな広場に、中小、零細バス会社のくたびれたバスが
ひしめいている。車は大手バス会社が処分した中古を安値で買い取り、車体を
ペンキで塗り替えたもの。お父ちゃんが運転手、お母ちゃんが車掌の家族経営
のバス会社もある。椅子の皮が破れていたり、冷房が効かなかったりするが、
これしか無いのだから文句は言えない。うまい具合に集安行きのバスが2台も
客待ちしているのを見つけた。「何時に出発するんだ」と聞くと満員になり次
第出発だとの答え。後2、3人で満席になるバスは車内の通路がゴミだらけで
汚かったが、こちらの方が早く出発するだろうとチケット(69元)を買って
乗り込む。瀋陽から集安までは約400km。大手バス会社の虎躍快客が、この
路線を営業していたときは6時間で走行したが、零細企業バスは9時間かけて
集安にたどり着いた。くたびれかけたバスの車体にも、それを転がしたお父さ
ん運転手にも「ご苦労様」と声をかけた。

  だが「ご苦労様」だったのは、車体と運転手だけではなかった。乗客のオ
レ自身も、長時間のバス旅でかなり疲れた。その上の腰痛が再発して歩けない。
そこへタクシーの運ちゃん達が殺到してきた。勝手にオレのザックを取って自
分の車に載せようとする奴もいる。その中に「自分はタダで乗せてあげる」と
言い出した運転手がいた。オレはザックを奪い返し彼に手渡した。タクシーは
走り出したとたんにすぐ止まった。集安のバス停からわずか50m程度。バス
停から大通りを走り最初のT字路を右折したところに、天星招待所の看板が掛
かっていた。ここで出てきた女将と宿代の交渉。1泊70元で手を打った。運
ちゃんは交渉がおわりオレが部屋に入るまで待っていた。この女将から客を紹
介した手数料をもらったようだ。

  シャワーを浴びベッドにひっくり返ったが、腹が空いてきた。痛い腰をさ
すりながら外に出てみる。集安は中朝国境をなす鴨緑江に平行して細長くのび
た街。集安バス停のある勝利路がこの街を貫く幹線道路。勝利路に出て横断す
ると、バス停の斜め向かいに照明をふんだんに使ってひときわ明るい店がある。
のぞき込むと女の子達がたむろしている。その中の年かさの女性が出てきて、
この店の説明をしてくれた。ここは家足楼(オレは家庭料理で満足させてくれ
る店〈楼〉と勘違いしたのだが)と言い、足を漢方薬入りのお湯で洗い、その
後あしの裏を指圧する治療所だとか。是非試してみろというので、夕メシ前の
腹ごなしにと入ってみる。「痛くするな」と言ったのが逆目に出て、指圧はく
すぐったいばかりで効き目がなかった。この娘に集安の名物料理は何かと聞く
と、麻辣湯(マーラータン)を勧めてくれた。ついでに「あんたは夕飯を食っ
たか」と聞くと、まだだと言う。道案内してくれと彼女を外に連れ出して一緒
に麻辣湯を食べた。麻とはしびれると言う意味。できあがりにたっぷりふった
山椒の粉がしびれの素。辣とはトンガラシの辛さ。湯はスープの意味だが、こ
このスープは肉野菜がたっぷり入ったごった煮風。とんがらしの粉で真っ赤な
汁に、ピリリと辛い山椒が振ってあって、その辛いこと。たっぷり汗をかいた。
今日は早寝とする。
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2.高句麗遺跡巡り
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  集安にある高句麗遺跡について、以下2点の知識を事前に得ていた。
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  (1) 高句麗国とは
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    紀元前37年頃 〜 668年。卵から生まれたと言われる伝説上の英
    雄・朱蒙が、今の中国東北地方に建てた国。中国の東北部と朝鮮半島
    の北側ほとんどを占める大国であった。朱蒙が建国した当時は都を、
    現在の遼寧省本渓市に置いたが、後に現在の集安市郊外の山地に移し、
    さらに平野の集安市内に拠点を移した。領土を拡張し朝鮮半島南部に
    あった新羅、百済の2国を半島の南端に追い込めたあと、現在の平壌
    に遷都する。中国に隋、唐の大帝国が成立すると、常に大国の侵略に
    悩まされたが、これを撃退した。しかし7世紀に新羅が唐と結び、ま
    ず百済を滅ぼし、さらに北から唐が南から新羅が高句麗に攻め込んで、
    ついに700年間も続いた高句麗国も滅亡してしまう。その後935
    年まで統一新羅が朝鮮を支配することになる。だが高句麗の末裔が再
    起し、新羅を打ち倒して高句麗を再建し国名を高麗国と名付けた。朝
    鮮を英語でKoreaと呼ぶのはこの高麗から来ている。なお自分が中学生
    だった当時の歴史の教科書では、新羅をシラギ、百済をクダラと読む
    ように教えていた。不思議に思っていたのだが、朝鮮語で「ギ」とは
    「こん畜生」という意味があるそうだ。唐と結んで高句麗を滅ぼした
    裏切り者・「新羅のこん畜生」という憎しみが、この読み方に込めら
    れているらしい。また「クダラ」には偉大な国と言う意味があるとか。
    百済の残存勢力が新羅に反攻した際、中大兄皇子(天智天皇)は百済
    に援軍を派遣している。しかし白村江の戦いで唐新羅連合軍に壊滅さ
    せられる。これを機に高句麗、百済から日本に多くの難民が逃げ込み、
    日本文化の発展に寄与したことも忘れてはならない。
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  (2)高句麗国の隆盛期、広開土王、長寿王:
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    西暦381年、19代目の王位についた好太王(在位391〜412
    年)は、後に広開土王と呼ばれている。国力が充実したこの時代に、
    今の中国領の遼東を攻め、朝鮮半島では百済新羅を討ち服属させて、
    領土を広く開いたからである。高句麗は今の中国の東北地方、遼東半
    島と朝鮮半島の北半分を領有する大帝国となった。彼の息子20代目
    の王は長寿王(在位413〜481年)と呼ばれた。その名の通り、
    97才まで生きた。長寿王は領土を拡大した父王の遺徳をたたえる記
    念石碑・好太王碑を集安に建設した。長寿王は後に首都を集安から朝
    鮮半島の平壌に移した。この2人の王の時代が高句麗国の隆盛期と言
    える。
 
  朝早くから目が覚めた。今日も暑くなりそうだ。散歩がてら朝飯を食おう
と外に出ると、昨日タダでホテルに連れて来てくれたタクシーがオレを待ち伏
せしている。今の中国、リストラが大流行。合理化のためクビになった労働者
の中に、雀の涙ほどの退職金を頭金にして車を買い、個人営業のタクシーをは
じめる者もいる。そこでタクシーが増えすぎて、客の奪い合い、メーターを倒
さず乗っけた客からぼる、わざわざ遠回りして料金を稼ぐなどなど、気の弱い
日本人旅行客を悩ませる事故が頻発している。

  集安は観光都市としてはまだまだ未開発で観光地を巡回するバスなどの交
通機関網が整っていない。観光にはタクシーを利用しなければならない。その
上、この運転手は正直だし商売熱心だ。彼は高麗の歴史についてよく勉強して
いて運転をしながら観光ガイドもしてくれる。次回も彼の車に乗ろうと思うの
で名前と携帯電話番号を聞いておいた。
  李樹森 携帯:133-5153-6367(日本語不可)。
彼によるとせっかく集安に来たからは、もう1泊して高麗遺跡をすべて見るべ
きだという。従うことにした。それからタクシーの価格交渉。彼も必死で値引
きには応じない構え。結局集安観光2日分160元(1日89元)で、相場よ
りやや高いと思ったが手を打った。

  運ちゃんがまず案内してくれたのは集安博物館。発掘された高句麗の副葬
品、壁画が陳列されている。ここの解説が韓国で物議を醸している。博物館の
入り口に、高句麗は東北地方における中国の一地方政権だったと言う文言がデ
カデカと掲げてある。これに韓国が激怒した。韓国朝鮮にとって高句麗は自民
族の歴史の基を築いた国。それを中国史の一部であると言われては黙っていら
れない。帰国後知った話だが韓国ではこの表示に抗議するデモ行進がおこなわ
れたりと、ことは国際問題に発展しているようだ。それはさておき、この博物
館を先に見ておくと、これから見に行く遺跡の意味と歴史的関係が把握できて
便利だ。

  次に案内してもらったのはキリスト教会。この町にはキリスト教を信じる
人が多いと聞いていたので立ち寄ってみた。木製の小さな十字架が屋根の上に
立っていて、これがなければ普通の民家と区別がつかない。信者たちがボラン
テイヤで建物の修復中だった。なんの手伝いもしないのに信者から西瓜をご馳
走になってしまった。

  ここから市のはずれにある遺跡群まではタクシーを飛ばす。遺跡群は金網
で囲われ観光用に整備されている。高い入場料を払って中に入る。李運転手も
途中まで付いてきてくれた。広大な敷地内に点々と石で築かれた墓がある。高
句麗の文化は石の文化と呼ばれている。たしかに石を積み上げてピラミッド型
の墓が見事に建てられている。敷地内のもっとも奥にある、大王稜によじ登っ
てみた。広開土王の墓と言われている。ここは盗掘されているし、石材として
ほとんどの石が持ち去られていて、ただの土の山になっていた。おかげで稜墓
の作り方がよくわかる。まず土をピラミッド型に盛り上げ、その表面を横1m、
縦40cm、奥行30cmほどの 切石で覆う。ピラミッドの頂上部分に墓室をも
うける。ピラミッドの基底部に巨大な自然石を立てかける。この自然石を立て
かける意味がわからないのだが、墓の崩壊を防ぐ役目をしていたのかも知れな
い。あるいはもともとは墓を守る石柱のように立っていたが、時の流れととも
に倒れて墓に寄りかかってしまったのかも知れない。
  次に好太王の碑を見る。高句麗の建国伝説、広開土王の偉業などを高さ6
メーター余りの巨大な石に刻んだ石碑。碑文の中に「391年以来、倭が海を
渡って、百済や新羅を破り、臣民とした」との記述があり、この拓本をもとに、
日本陸軍は朝鮮がかつて日本領であったとして、日本による朝鮮植民地化を正
当化しようとした。敗戦後、皇国史観による古代史の歪曲を是正する動きがお
きた。明治大学の教員で在日の李進煕氏が、陸軍による碑文改ざん説をとなえ
て、論争を巻き起こしたことがあった。しかし後の研究で改ざんはなかったと
結論づけられた。その部分を読もうとしたが、石碑の上の方にあって双眼鏡で
も持ってこないと読めない。その上文字のほとんどが風化していて判読できな
い。解説員がこの石碑には「倭」という文字が8カ所もあり、そのすべてが日
本のことを指すかは疑問だと指摘したのが興味深かった。
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集安好太王の碑( 広開土王)ガラス張りの建物で覆われている
  長寿王の墓と思われる将軍稜は盗掘されているとはいえ、保存状態が良い。
「東洋のピラミッド」と呼ばれるだけあって重量感のある堂々たる構え。ここ
には階段が設置してあって頂上まで登ることができる。将軍稜の下にいくつか
の小さな石積みの墓が見える。将軍に仕えた官僚のものらしい。そのうちの一
つの盗掘された後の墓室が見物できる。入り口にテントが張ってあって兵隊が
警備している。解説員に「墓室の中に入りたい」と言うと、猛暑にかかわらず
分厚い外套を羽織った。地中の墓室内部は鳥肌が立つほど涼しいのだ。墓の副
葬品は盗み出されているが、墓室の壁画は残っていた。解説員が照らす懐中電
灯の光で、天井に描いた星座と墓室の4壁面に描いた青龍・白虎・朱雀・玄武
が見て取れる。そのとき思いついたのが奈良明日香村で発掘された高松塚古墳
の壁画。日本の古墳は高句麗の影響を受けていたのではないかと言うこと。次
に思いついたのが、江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説。やはり敗戦により、皇
国史観の束縛から考古学が解放された時期に、歴史学者・江上氏は古代大和王
朝が北方から日本に渡来侵入した騎馬民族による国家権力だったととなえた。
集安の壁画は江上氏の説を裏付けるものではないか。ところで気になったのは、
壁画の表面が大量の汗をかいていること。外の高温で湿気を帯びた空気が、墓
室を開放したことにより進入し、冷たい石壁に触れて結露しているのだ。高松
塚古墳の壁画も発掘後、表面にカビが生えたことが問題になっているが、集安
壁画も早晩結露により破損してしまうだろう。

  遺跡群の見学を終え、中朝国境をまたぐ鴨緑江鉄橋を見に行く。国境警備
隊に金を払うと鉄橋を歩いて渡ることができる。橋の中央に白線がひいてあり、
ここが中朝の国境のようだ。中国側の線路はよく整備されているが、朝鮮側は
枕木がぼろぼろで心許ない。河の向かう側で朝鮮の子どもたちが水遊びをして
いるのが見え、子どもたちの声も聞こえてきた。

  運ちゃんが今日の行程はここまでと言う。腹も空いてきたのでホテルにも
どり、シャワーを浴びた後、再度外へ出てビールと冷麺の遅い昼食。また家足
楼(足マッサージ屋)で、足を揉んでもらいながら昼寝。夜は鴨緑江川岸にあ
る朝鮮経営の飲み屋・美香山餐庁をのぞいてみる。この店は朝鮮から派遣され
たコック、ウエイトレスが働く朝鮮の国営企業。この種の店は中朝国境の都市
と北京に設置されているらしい。この店の「売り」は、可愛らしいウエイトレ
スが演じる朝鮮の踊りと歌。今の中国娘に比べると純朴で初々しい。閉店まで
川エビの天ぷらを肴に呑みながらねばった。彼女らのシメの歌は懐かしい「金
日成将軍の歌」。鴨緑江の川風に酒でほてった頬をなぶらせながらホテルに戻
る。
将軍塚  長寿王の墓と見られる
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3.高句麗遺跡・山城編
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  やや二日酔い気味でお目覚め。外に出ると朝早くから門前でタクシーの李
運転手が見張っている。観光客はまばら、このホテルの泊まり客はオレ1人。
となればタクシー代を値切るケチな人間でも上客となる。「必ずあんたの車に
乗るよ」と言い置いて、朝飯を食いに大通りに出て揚げパンとワンタンで腹を
満たす。「今日はどこに連れて行ってくれるんだい」と車に乗る。

  昨日は集安の東寄りの郊外で、今日行くところは西側の山地にある遺跡群
だという。高句麗の初代王とされる朱蒙が首都を置いたのは、集安よりさらに
北の卒本とされている。その後集安に遷都し丸都城と称した。丸都城はまず今
の集安の丘陵地帯に山城として築かれた。そこが本日の見学地。昨日言った平
野部の遺跡は、高句麗国が国力をつけ、周囲の勢力を攻略したあとに築かれた
もの。

  山城の麓には多数の墓がならんでいる。昨日見た石造りのものは少なく、
土まんじゅうがほとんど。猛暑の中、山城跡に草むらをかき分けながら登って
みた。敵の攻撃に備えた石積みの城壁がわずかながら残っている。敵の来襲を
見張る望楼はごく最近復元されたもので、往事の姿を今に伝えているかは疑問
だった。

  山を下りて鴨緑江河畔に出る。モーターボート屋が朝鮮との国境ぎりぎり
まで行くが乗らないかと言う。乗るというと客1人のために船を出すのだから、
規定の3倍の料金を出せとぬかす。「あー、そうかい、それならやめたよ」と
答えると、「それなら2倍で良い。えー、2倍でも駄目だあ!えーい、通常料
金で良いから乗れや」ときた。ボートに乗り込んだとたん「写真撮影は禁止だ
が、撮るなら写真代をよこせ」と言い出した。オレは「やーめた」とエンジン
がかかったばかりのボートから飛び降りた。ボート屋が「写真代もただにする」
と後ろから大声を出したが、乗る気がうせた。実は2日後に丹東という中朝国
境の街に行き、遊覧ボートに乗ったが、舟は河向こうの朝鮮側の岸にぎりぎり
まで近づき、釣りに来ていた朝鮮の人々と声を掛け合うことができた。丹東で
は「客が少ないから代金は割り増しとか、写真を撮るなら写真代を出せ」など、
せこいことは言わなかったのだ。

  ボートに乗らなかったため時間が余ってしまい、李運転手は街の中を流し
ながらガイドをしてくれた。集安駅に行ってみる。汽車は1日1回早朝来るだ
けなのに大きな駅舎が新設されている。世界遺産指定で観光客が増えるとの読
みからだろうか。今は駅員の姿も見かけないほど閑散としている。また中朝国
境を渡る船舶用の税関も建てられていた。これも今は舟が就航していないので
閉鎖中だった。市役所前に3階建ての趣味の悪いけばけばしい邸宅がある。李
さんによると中朝貿易で大もうけした人間の私邸だとか。朝鮮人が生活苦にあ
えいでいるのに、それをネタにして大もうけしている奴もいるのだ。

  集安市内で見るべきところは全部まわったと運転手が言う。 昨日と同じ
80元を払って、ホテルの近くの食い物屋で生ビールと冷麺の昼飯。昼寝した
後で又も家足楼で足底の指圧をしてもらい、そこの娘に案内してもらって、夕
飯を食いに行く。明日は早朝の長距離バスで丹東へ出る。早寝ときめこもう。
かくして3泊4日(実質2日間)の世界遺産・高句麗遺跡(集安市)の旅がお
わった。
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4.高句麗は古代中国の一地方政権か
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  集安の飲み屋で現地でしか聞けない面白い話を耳にした。上の2の部分で、
「集安博物館の入り口に、高句麗は東北地方における中国の一地方政権だった
と言う文言がデカデカと掲げてある。これに韓国が激怒した」と書いた。これ
に関係した話である。もちろん酒の上のうわさ話とは、誇張があったり、はっ
たりであったり、まるっきりウソである場合さえある。そのことを承知の上で
書くことにしよう。

  韓国の大金持ちが集安に観光に来た。朝鮮韓国の父祖の王朝である高句麗
の遺跡が大事に保護されていないことに腹を立てた。そこで集安の8人の農民
に大金をわたし、墓室の壁画を盗み出すように頼んだ。盗掘は見事に成功し、
壁画が描かれた石は韓国に運び出された。この一件がばれてしまったのは、胡
錦涛主席が韓国を公式訪問したとき。随行の中国記者たちがソウルの博物館へ
見物に行ったところ、集安にあるはずの壁画が陳列してあるのを発見した。急
に金持ちになった集安の農民8人がご用になり、そのうち5人は銃殺、他も長
期刑を課せられたとか。

  たしかに、1つだけ公開されている墳墓の前に兵隊が見張りをしていたし、
墓室からオレが出るまで解説員が付き添っていた。盗難を恐れての措置ではな
いか。

  中国では、ながらく辺境の僻地だった東北地方の歴史の見直しをはかる、
歴史学者たちが参加した「東北工程」と呼ぶプロジェクトが進んでいる。「東
北工程」の過程で、高句麗は中国の地方政権に過ぎないとの「学術的」結論が
出されたわけだ。

  朝鮮が経済的に困窮していることに乗じて、中国資本が朝鮮の鉱山資源の
掘削権を買いあさっているとのニュースがながれ、韓国が神経をとがらせてい
る。まさに、この時期に「東北工程」の内容が明らかになってきている。こと
は「学術的」な論争よりは「政治的」な論争になって行きそうな気配。帰国後
も集安から目が離せなくなった。(この文章は2006年8月にかいたもので
す。中国の世界遺産は2007年に35カ所に増えました。  
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