寧波・蒋介石の生家を訪ねる     
               
               木田 洋 (キダヒロシ)               


1.毛沢東と蒋介石の生家
  もう10数年も前のことになるが、旅行ガイド書作成のための取材で、中
国各地を歩き回っている時に、毛沢東の故郷、湖南省の韶山を訪ねた。この時、
毛沢東の不倶戴天の敵で、毛沢東と共に中国近現代史を駆け抜けた蒋介石の生
地も訪ねてみようと考えた。昨年末、中国政府が15日以内の観光旅行ならビ
ザは要らないと発表し、蒋介石生家の探訪がようやく実現した。毛沢東は中国
大陸内陸部、湖南省の山奥にひっそりと息づいてきた寒村の小地主の長男とし
て生まれた。 一方、蒋介石は長江河口の港町、寧波市の郊外にある渓口鎮に
代々大店(オオダナ)をはる塩問屋の一人息子として生を受けている。
2.寧波
  寧波は古くから栄えた港町。日本との交流も浅からぬものがあった。遣唐
使船も玄界灘を渡って寧波港を目指した。室町時代にも勘合船が頻繁に入港し
ていた。その当時、上海は寧波の側の一漁村に過ぎなかった。だが近代に入り、
イギリスが上海に目をつけ、イギリスの中国侵略の基地として近代的な港湾都
市に造成した後、寧波はその繁栄を上海に奪われてしまう。と言っても、上海
人の多くが寧波から移り住んだ人々であり、われわれが上海語と呼んでいる言
葉は、実際には寧波語である。僻地と化した寧波だったが、その後2度歴史の
注目を浴びる。1度目が日中戦争中、日本軍が上海をはじめ中国の大港湾都市
を占領し、中国にアメリカの軍事支援物資が入らなくなった際、寧波港はまだ
中国軍が保持していた。そして寧波が上海に代わって欧米からの物資が流入す
る港となった時期、寧波は戦時下で短期間の繁栄を取り戻した。当然日本軍の
寧波攻撃は激烈で、日本軍が細菌爆弾まで使用して寧波港を占領したことが最
近明らかになっている。2度目が文化大革命敗北後に、とう小平がすすめた改
革開放政策により外国資本が中国に再進出した後のこと。外国資本の多くが上
海に拠点を置いたが、彼らは寧波地区は上海に近く安価で豊富な農民労働力が
あることに目をつけた。かくして寧波の田畑はブルトーザーで整地され、電子
部品、金型部品の下請け工場が雨後の竹の子の如く設立されて、寧波はまたも
活気を取り戻した。しかし資本は常に浮気である。最近では更に安い労働力を
求めて工場群は江西省などの長江沿いの内陸部に移転しつつある。
3.蒋介石の家(上海から寧波経由で渓口鎮へ)
  上海に一泊した後、早朝の長距離バスに乗って寧波に向かう。3時間半で
寧波バスターミナルについた。蒋介石の生家を見に来たとチケット売り場に言
うと、渓口鎮行きのバスがすぐ出るという。あわててバスに飛び乗る。この頃
から雨が降り出し、渓口鎮に着いたときは本降りになっていた。このバスの客
の中で観光客はオレ一人。下車した途端に三輪車引きに取り囲まれた。三輪車
とは自転車の後ろに客が乗る椅子車をつけたもの。敗戦直後の東京でも進駐軍
の米兵を乗せる三輪引きがたくさんいた。東京では「輪タク」と呼んでいた。
彼らを振りきって歩き出したが、しつこく着いてくる奴がいる。町の人までが
道不案内で大きなザックを背負って歩いていくよりは三輪車に乗って行けなど
と余計なことを言う。根負けして乗る事にした。蒋介石関連建物の共通入館チ
ケット70元(1元は14円相当)を買い、三輪引きに20元わたした。こに
来て驚いたのは蒋介石関連施設が当時のまま完璧に保存されていること。人民
解放軍が寧波に突入する直前、毛沢東が「蒋介石の住居などを破壊してはなら
ない」と命令したからだと現地の人は言う。その命令文が毛沢東選集第5巻に
掲載されているとも言っていたので、帰国後調べてみたがそのような文書は見
つからなかった。これとは反対に、韶山の毛沢東の生家は蒋介石の軍隊により
跡形なく破壊された。そればかりか毛沢東の妻・楊開慧は捕らえられて惨殺さ
れ、革命運動に関係のない毛の妹(養子)までも殺されている。今、韶山にあ
る毛沢東の家は新中国建国後に村人達の記憶をたよりに再建されたものである。
ついでに言うと地主であった毛家の土地は新政府によって没収され貧農に分
配されている。

  三輪引きが最初に連れて行ってくれた先は蒋家の店、屋号が玉泰塩舗。蒋
介石の家は古いのれんを誇る塩屋だった。塩が王朝の独占的な収入源の一つで
あった時代、塩の販売は特権的な商人にのみ許されていた。蒋家の店構えは塩
取り扱い業者の名にふさわしく間口の広い石造りの2階建て。1階部分が店舗
で塩以外に酒、米も扱っていたようだ。2階が住居になっていて蒋介石はここ
の寝室で生まれた。1887年10月31日のことである。その7年後の18
95年、蒋介石が数え年で9歳になった時、中国は日清戦争で日本に敗れ、「
眠れる獅子・東洋の大帝国」が、「惰眠をむさぼる豚」に過ぎないことが暴露
されてしまう。この後中国は以前に増して帝国主義諸国の浸食を受ける。ちな
みに毛沢東の出生は1893年で、蒋より5歳年下である。

  寝室の外側はベランダになっていて店の前の街道が見下ろせる。街道は寧
波港と杭州を結ぶ幹線道路。往時は寧波で陸揚げされた貨物、寧波から船で運
ばれる物資が、この道を忙しく往来したにちがいない。道の向こうは幅の広い
川になっており、川の向こうになだらかな山が見える。蒋介石は幼年時代から
少年時代にかけて、このベランダに立って眼下に広がる山河と波乱に満ちた世
相を眺めながら育ったのだろう。
 
4.蒋介石の母
  6年前のことだが台湾に遊びに行ったことがある。この時台北で知り合っ
た青年が口を極めて蒋介石をののしった。外国人に対してなら日頃秘匿してい
る自分の感情を吐露しても、台湾公安当局に密告されることは無いと踏んだか
らだろう。台湾で生まれ育った彼が、蒋介石を骨の髄まで恨む気持ちはわかる。
第2次世界大戦後勃発した内戦で毛沢東軍に破れた蒋介石は敗残兵を率いて、
日本の植民地支配から解放されて喜びに沸く台湾に逃げ込んできた。そして軍
隊、警察、諜報機関による台湾圧政を死ぬまでつづけた。そうは言っても彼の
蒋介石誹謗があまりに激しく、「蒋介石と言えども人間で彼にも人権があるの
だから、人格を傷つける悪口は言うべきでないヨ」と言いたくなるほどだった。
その台湾青年の蒋介石への悪口の一つが「蒋介石には母親がいるが父親はいな
い」説。寧波に来てこの謎が解けた。蒋介石は親孝行の息子であったようだ。
椅子に座った母親の後ろに寄り添うように立つ蒋介石の写真が残されている。
蒋介石は母親のために塩店の2階から見える山の中腹に巨大な墓を作っている。
自分は雨のためこの墓に詣でなかったが、長い石段がつづく広大な墓苑だそう
だ。ところが何故か蒋介石の父の方は、写真はおろか墓さえない。蒋介石の生
母、王採玉は蒋家に嫁ぐ前、結婚歴があった。だが前夫と死に別れ、尼となっ
て夫の菩提をともらう生活をおくっていた。それがなんと、尼になったはずの
王採玉は妊娠した。相手は尼寺の近くにある寺の高僧だと噂された。そのこと
を百も承知、二百も合点した上で、蒋家の当主・蒋玉表が、神経に欠陥があっ
た息子・粛庵の嫁として王採玉を迎え入れた。かくして蒋家には跡取り息子が
できたことになる。これに安心したのか蒋家の当主(つまり蒋介石の祖父と言
うことになる)とその息子(戸籍上は蒋介石の父)は相継いでこの世を去る。
再び寡婦になった蒋介石の母・王採玉は蒋を厳しく教育しながら、蒋家の家業
に精を出し蒋家ののれんを立派に守り抜いた。
 
5.蒋介石の妻
  1901年蒋介石が15歳になった時、母親は同じ渓口鎮生まれの19歳
の娘・毛福梅と結婚させた。蒋は母親の期待を裏切って家業の塩販売には興味
をしめさず、もっぱら軍人として立身出世することをめざした。1906年4
月、19歳の青年になった蒋は妻を残して日本に留学した。日露戦争でヨーロッ
パの大国ロシアを破った日本は、蒋介石の目にアジアの希望の星として映じた
のだろう。一旦帰国し、軍人を養成するため設立された保定軍官学校に入学す
る。翌08年、軍事留学生として日本の陸軍士官学校に派遣され、日本の軍人
養成教育を受ける。この間、日本亡命中の革命家・孫文に会い、孫文が東京で
立ち上げた中国革命同盟会に入会したようだ。1910年士官学校卒業後、新
潟県高田市の野砲連隊(陸軍第13師団第19連隊)に配属され見習い士官と
して勤務している。同年長男の蒋経国が誕生している。1911年辛亥革命が
勃発し蒋介石は即座に帰国し、孫文の元で清朝政府軍に対する武装蜂起を指揮
する。1912年、268年間続いた清朝は倒れ、孫文を初代総統とする中華
民国が成立した。しかし中華民国の実権は軍閥の袁世凱に奪われてしまい、孫
文は再度日本に亡命する。蒋介石は袁世凱に対して武力で挑戦するがあっさり
負けてしまう。日本中国間を往復し、軍人としての重責を担いながら、蒋介石
は女性との関係でも大忙しであった。寧波に留まって蒋家の母につかえ、商売
をつづけ、子の蒋経国を育てている毛福梅と離婚し、まだ女学校に通っていた
14歳の陳潔如と結婚した。さらに上海の芸妓・姚怡琴とも事実上の婚姻関係
なり、次男の蒋緯国を養育させている。蒋介石の冷たい仕打ちにもかかわらず、
毛福梅は息子の経国を愛情深く育て、その上蒋家の商売を成功させ、店の近く
に広大な私邸を建設している。私邸は豊鎬房と名付けられた。邸内には樹木が
生い茂り、自宅以外に客が泊まるための棟も数軒ある豪華さ。また豊鎬房は台
所だけでも小学校の教室ほどの広さがあり、大きな竈が並んでいる。蒋家がい
かに多くの従業員を雇っていたかがうかがえる。苦労人の蒋介石の母・王採玉
が息子の嫁にふさわしいと選んだ娘だけに、義母の期待を裏切らなかった。
 
6.蒋介石の子
  蒋介石には蒋経国、蒋緯国の2人の息子がいた。「経」とは布を織るとき
の縦糸をさし、「緯」は横糸を指す。世界地図に縦にひいた経度、横にひいた
緯度があり、地球上の位置を表すのに使うのは、この縦糸、横糸の関係にちな
んだもの。蒋介石は息子達が縦糸と横糸のように助け合って「国」を作り上げ
ることを望んだのだろう。最初に次男の緯国について触れよう。彼は謎に満ち
た男である。緯国は蒋介石の3番目の妻・姚怡琴に養育されたが、本当の母は
日本人であることは確かだ。緯国は戦後、個人的に何度も日本を訪問している
が、母親に密かに会いに来ていたのではないだろうか。父親については諸説あ
るが、蒋介石でないことは間違いない。緯国は軍人として活躍し、第二次世界
大戦終了後の内戦で毛沢東軍に破れた際は、国民党軍最精鋭の戦車師団を率い
ていた。台湾に脱出した後も、常に台湾軍の中枢にいた。政治舞台で活躍し、
死ぬ間際に台湾総統の地位にまで登り詰めた兄の経国とは違って、弟緯国は常
に冷遇されたと父と兄を恨んでいたようだ。台湾総統府に戦車で乗り付け砲塔
を蒋介石の事務室に向ける、クーデターまがいの行動を取ったこともあったと
伝えられている。緯国は自分の父が誰であったか、母が誰であったかを明かさ
ぬままこの世を去っている。

  緯国とちがって、長男の経国は実母のもとで幸せな幼年時代をおくったと
はいえ、彼の人生もやはり波乱に満ちたものだった。自分と母を捨て、わかい
女と再婚した父・蒋介石に経国は反発し、父とは反対に共産主義にシンパシー
を感じるようになる。上海、北京の学校で学生運動に参加、警察に逮捕され放
校されている。1925年、経国は革命に成功して間もないソ連に留学した。
一方、父・介石は1926年国民革命軍総司令に就任、中国各地に盤踞する軍
閥を倒して、中華民国の下に全中国を統一する北伐戦争に取りかかる。国民革
命軍の進軍に合わせて、各大都市では中国共産党の指導を受けた労働組合が武
装し、軍閥政府軍を打ち破る。従って蒋介石の軍は、すでに労働者の手で解放
された都市に無血入城し、北伐は快進撃を続ける。しかし蒋介石は労働組合の
武装化と国民革命軍内部で影響力を増し続ける共産党に恐怖をいだいていた。
そして北伐戦争中の1927年4月、上海でクーデターを起こし、上海の共産
党員、労働組合員を多数虐殺した。子の経国はこの報をモスクワで聞き、即座
に中国人留学生を集めて集会を開き、蒋介石非難の演説をぶっている。同年、
経国は留学期間を終えていたので帰国を申請する。しかし蒋介石がクーデター
で多くの共産主義者を虐殺したことに驚いたスターリンは経国の帰国を許さな
かった。経国はいわば人質になってしまったのだ。経国は長くソ連に残ってモ
スクワ郊外の工場で働いている。その間ロシア娘、ファン・ニーナと結婚し長
男長女を持つにいたった。写真を見るとニーナはなかなかの美人である。経国
が帰国できたのは1937年4月のことであった。彼の帰国の願いがかなった
のは、前年の1936年12月、西安事件(張学良、孟虎城将軍が蒋介石を監
禁し、共産党への攻撃を止め一致して日本軍に当たるよう要求した事件)が起
こり、蒋介石が折れて抗日のため国共合作(国民党と共産党が協力する)協定
が結ばれたためである。
7.蒋経国の母の死
  帰国した蒋経国は妻子を連れて故郷の渓口鎮に戻り母の毛福梅との再会を
果たした。金髪碧眼の嫁と合いの子の孫達と会って毛福梅は驚喜したようだ。
ファンニーナは名前を蒋方良と改め、中国語を猛勉強して中国人になりきろう
と努力した。毛福梅は、蒋家の邸宅である豊鎬房の斜め筋向かいの川沿いに息
子一家のために小さな洋風の家を建ててあげた。今では小洋館と呼ばれている。
外見は中国風の家だが、内部は洋風の暖炉があり、トイレの便器はヨーロッパ
から輸入した腰掛け式。嫁に対する義母のやさしい気遣いが感じられる。話は
本題をそれるが、さる著名な現代中国評論家が数年前渓口鎮の蒋介石の生家を
訪ね、紀行文をものにしている。彼は旅行社にもたのまず通訳も連れずに1人
でタクシーを飛ばして渓口鎮に着いたと自慢している。そして蒋の家が小さく
あまりにお粗末だったと書いている。本文で触れたように、蒋家の私邸は大邸
宅である。彼は多分蒋家の邸宅・豊鎬房と蒋経国の小洋館を取り違えたのだろ
う。また彼は蒋家代々の店・玉泰塩舗ついて紀行文の中で一言も触れていない
のは、店を見つけられなかったからのようだ。閑話休題。父・蒋介石に反発し
てソ連へ留学した経国だが、帰国後は抗日戦争推進のため父の下で政務を執る
ようになった。日中戦争が拡大激化し始めた頃、寧波港をめぐる両軍の攻防は
激しさを増してきたことは、この文の「第2節寧波」で書いた。 1939年
12月12日、日本軍の爆撃機が寧波郊外の渓口鎮にも爆弾の雨を降らせた。
その内の何発かが豊鎬房にも落下した。台所にいた毛福梅は外へ逃げだそうと
したところで爆死してしまった。母の死を知って駆け付けた蒋経国は、母が倒
れた台所の脇の通路に、「以血洗血」(死をもってこの恨みを晴らすと言う意
味)の石碑を建てて報復を誓った。また日本軍の爆撃で壊された台所の窓は修
理せずに保存して、日本軍の罪状を今に伝えている。実に意外なことに蒋経国
の「以血洗血」の石碑は、石碑の意味を解説する看板が有るのに、今はここに
無い。現地の人に聞きながら、小洋館階段下の目立たない場所に、経国が恨み
をこめて作った石碑が仮置きされているのをようやく見つけた。今、寧波には
日本の資本も投下されており、日本企業家も渓口鎮に遊びに来る。日本の経済
界が日本軍への敵討ちを誓った石碑を見て、投資意欲を失う事を恐れての措置
ではないか。

  経国は母のために大きな土饅頭とそれを囲む美しい庭園からなる墓苑を豊
鎬房の側に造成した。墓石を見ると「顕姚毛太君の墓」と経国の手跡が刻まれ
ている。「顕」は顕彰すると言う意味。母親の名前「毛」が墓碑に刻まれてい
るのは当然だが、「姚」とは誰のことを指すのだろうか。また「太君」とは男
性に対する尊称ではないだろうか。墓苑の係員に尋ねたが、彼女は知らぬと素
っ気ない返事しか返さない。この理由をご存じの方はお教え願いたい。
8.蒋介石4番目の妻・宋美齢
  日本で軍人教育を受けた蒋介石は、日本に亡命中の孫文の知己を得て帰国
後は孫文のもとで軍務に従事した。1911年の辛亥革命は一旦勝利したが、
軍閥袁世凱の軍事力に屈服せざるを得なかった。1917年、孫文が再度革命
を決意し広州に中華国民軍政府を樹立した。その年の11月にロシアでレーニ
ンの社会主義革命が成功する。レーニンは孫文を支援し、孫文はレーニンを師
と仰ぐ。孫文はレーニンの提案を受け、1919年中国国民党を結党、党の下
に国民革命軍を組織した。中国共産党は国民党より2年遅れて1921年上海
で創立された。レーニンが中国に派遣したヨッフェの勧告に従い、1924年
国民党と共産党は共同して革命を進めることに同意する。後にこの両党の関係
を「第一次国共合作」と呼ぶようになった。1925年孫文は革命の成功を見
ずに永眠する。翌26年、蒋介石は軍のトップ゚、国民革命軍総司令に就任、各
地の軍閥を打倒する北伐戦争に出発する。当時中国共産党は独自の軍隊を持た
ず、党員は国民革命軍に参加した。軍内部の共産党勢力の伸長と労働者の武装
化に恐れをいだいた蒋介石が、27年上海でクーデターをおこし国共合作は破
滅、北伐も中断したことは前にも書いた。軍のトップになり、共産党勢力を抑
えた蒋介石は、アメリカで商売に成功し大金もちになったチャーリー宋の三女
・宋美齢に結婚を申し込んでいる。子供をかかえた前妻、2番目の正妻、さら
に誰の子かわからぬ次男を養育させられている3番目の妻がいるのにだ。宋家
には3男3女の子供がいた。子供達は全員アメリカに留学している。3人の娘
はそれぞれ中国近代史を彩る有名人と結婚している。当時の世間の人は、これ
を「中國有三個姉妹、一個愛銭、一個愛國、一個愛権(中国に3人の姉妹がい
た。1人はお金を愛し、1人は国を愛し、1人は権力を愛した)」と評した。

  長女の宋靄齢は大財閥孔家の御曹司・孔祥熙と結婚した。次女の宋慶齢は
孫文の秘書をしていたが、「彼は私を必要としている」と親子ほど歳の違う孫
文と結婚し、夫を助けて中国革命に邁進した。三女の美齢は軍人蒋介石を選ん
だ。蒋介石が美齢に求婚したのは、宋家の財産が目当てだが、宋家の方も権力
を掌握した蒋介石と結ぶことで権力の一部に食い入り、更に財産を大きくする
ことをねらった。かくして蒋家、宋家、孔家は婚姻関係を通じて閨閥を作り上
げ、それぞれが国民党、政府、軍の要職につき、利権をむさぼり、戦争を利用
して財を増やし、大財閥となって中国経済を牛耳るようになる。美齢との結婚
を果たした蒋介石は北伐を再開、国民党内の反対派を排除し、1928年南京
に国民政府を樹立、総統に就任した。蒋の絶頂期である。一方、蒋介石に裏切
られて大虐殺の憂き目を見た中国共産党員は各地で武装反乱を起こす。その多
くが蒋介石軍に破れるが、毛沢東が率いる部隊だけは江西省の山奥・井岡山に
分け入り根拠地を作ってゲリラ戦を展開していた。毛沢東の軍は力を増すと山
を降り、1931年江西省内の交通の要衝・瑞金を臨時首都と定め、中華ソビ
エト共和国の建国を宣言するにいたった。中華ソビエト共和国は建国と同時に
日本に対し宣戦布告し、同時に中国国民には内戦を中止し一致して日本と闘う
ことを呼びかけている。日本の中国侵略は激しさを増しているのに、蒋介石は
瑞金ソビエト政権攻撃に全力をそそぐ。ついに蒋自ら100万の兵を率いて瑞
金包囲作戦を行い、ソビエト軍は持ちこたえず1934年江西省を脱出する。
ソビエト軍は追いすがる蒋介石軍と行く手に待ちかまえる地方軍閥と2年間の
戦闘を続けながら12500kmを走破し、日本軍の前面に当たる陜西省延安
に到着した。これを長征・Long Marchと言う。

  延安に到着した毛沢東軍は現地の農民を吸収して大きくなり延安を首都に
さだめ再度革命政権を樹立する。蒋介石は古都・西安に軍を派遣し、延安攻撃
を開始する。中国国民の間に「内戦停止一致抗日」の声が強まってきた。国民
党軍内部にも、日本軍との戦闘を避けて内戦に血道をあげる蒋介石に対する不
満が巻き起こった。延安討伐を命じられた国民党軍の若き将軍・張学良と孟虎
城は、西安まで督戦に来た蒋介石を監禁し延安の共産軍への攻撃を止め一致し
て日本軍に当たるよう要求した。前にも触れた1936年12月の「西安事件」
である。事件発生と同時に妻の宋美齢は西安にかけつけ、共産党・張学良・蒋介
石の間に立って難しい交渉を続け、ついに夫の釈放に成功した。当時の女性に
はめずらしい、抜群の政治力である。この交渉の結果、国民党と共産党は再度
協力して日本軍と対決する事になった。これを第二次国共合作とよぶ。

  1941年太平洋戦争が勃発した後、美齢は夫に通訳として同行しアメリ
カに渡った。美齢は米国会で抗日中の中国を助けよと演説、多額の援助を勝ち
取り、またも優れた政治力を発揮した。第二次世界大戦終了後、蒋介石は共産
党支配地区に兵をすすめ、毛沢東がいる延安を攻め落とす。だがその後軍事を
勉強したことがない毛沢東に、軍事専門家の蒋介石はさんざんに打ち破られ、
台湾に逃げ込んでしまう。1949年毛沢東は北京天安門の楼上から全世界に
中華人民共和国の成立を宣言した。蒋介石が台湾で余命をまっとう出来たのは、
1950年朝鮮戦争が勃発し、アメリカが反共基地として台湾を確保すべく第
7艦隊を台湾海峡に派遣して、毛沢東軍の台湾進攻を阻止したからである。蒋
介石は大陸反攻を唱え続けたが、故郷の寧波に帰れぬまま1975年4月87
歳で死去した。翌年の76年10月、毛沢東も台湾解放を見ることなく死去し
ている。蒋介石の遺体は故郷の渓口鎮に埋葬すべく長年台湾に仮安置されてい
たが、蒋経国の妻の要望で、今年になり経国の遺体と共に台湾の陸軍墓地に埋
葬された。蒋介石にとっても、蒋経国にとっても、故郷はあまりにも遠い所に
あった。蒋介石の4番目の妻・宋美齢も今年103歳の高齢で、やはり故郷に
は帰れぬままニューヨークで亡くなっている。

  話を渓口鎮に戻す。渓口鎮には蒋家の店・玉泰塩舗、蒋家に邸宅・豊鎬房、
蒋経国の家・小洋館、蒋介石の母と最初の妻の墓以外に、蒋氏宗祠と呼ぶ蒋家
代々の慰霊を祭る道教風の社(ヤシロ)がある。蒋介石は立身出世を遂げ故郷
に錦を飾った時、この社を豪華な建物に建て替えたようだ。この中には宋美齢
の寝室もある。最初の妻が住んだ豊鎬房に入る気になれず、この社の一角に寝
泊まりしたようだ。ウェディングドレスに身を包んだ美齢の写真が飾られてい
る。豪華なダブルベッド、舶来の家具、蓄音機などを見て、蒋家の祖先達跡取
り息子の新妻をどう感じたのだろう。商人はもともと節約を旨としてつつまし
く生活するのを誇りとするのだが。さらに渓口鎮には蒋介石が地元の子弟なの
ために立てた職業訓練校、武?学校が残っていて、今は博物館として利用され
ている。蒋介石が校長、宋美齢が副校長となっていた。ここには建物と校庭に
は蒋介石の揮毫が刻まれていた。
9.第3次国共合作はなるか
  渓口鎮には、辺鄙な地に似つかわしくない高級ホテルが建っている。どうや
ら台湾からの観光客を当てにしているようだ。蒋介石が内戦に敗れて台湾に逃
れたとき、渓口鎮からも2万人の住人が蒋に従って台湾に移ったと言う。中国
大陸・台湾間の往来が自由になった今、一時帰郷したい老人も多いだろう。蒋
介石の生家に興味を持つ台湾人もいるに違いない。そこでホテルが建ったり、
おみやげ屋が林立したり、三輪引きが並んだり、蒋介石の「そっくりさん」が
路上に出現し写真を撮らせて銭をせびったりと、渓口鎮は一大観光地に変貌し
つつある。寧波から渓口鎮への道路も整備中だったから、交通の便もさらに良
くなるだろう。

  渓口鎮では観光客を集めて観光収入をあげる以外に、台湾人観光客に対す
る台湾統一宣伝にも力を入れている。蒋介石・宋美齢夫妻が創立した元武?学校
内に、台湾が中国の一部であること、台湾は中国に統一されべきであることを
訴えるパネルが展示してある。蒋介石が所属した中国国民党と毛沢東の中国共
産党とは2回協力関係(国共合作)を結んだことは、この文章の折々に触れた。
そこで第3回目の国民党と共産党の協力関係を築き(第3次国共合作)、それ
により台湾統一を図るアイディアが持ち上がった。蒋介石と毛沢東が並んで撮
った写真がもてはやされた。抗日戦争終了後、戦後の国共両党の協力関係を如
何にすべきかを協議するため、両者が重慶で会談したときに撮影されたもので
ある。そこで中国革命の過程をもう一度振り返っておこう。中国では1921
年の共産党建党から1949年10月の中華人民共和国成立までの過程を、以
下の4ツの段階にわけて評価している。

1)第1次国内革命戦争期(21年7月〜27年7月):孫文が創立した国民
党と生まれたばかりの共産党が、共同して、全国各地に盤踞する封建地主軍閥
を打倒し、共和制国家を打ち立てるために戦争を進めた時期。第1次国共合作
期でもある。1927年7月の上海における蒋介石の反共クーデターで終了す
る。

2)第2次国内革命戦争期(27年8月〜37年7月):蒋介石のクーデター、
蒋介石政権確立後、共産党が独自の軍隊をつくりあげ、農村に入り、地主の土
地を没収して貧農に分配、農村部にソビエト政権を確立しつつ国民党との内戦
を進めた時期。

3)抗日戦争期(37年7月〜45年8月):中国の不統一を好機として日本
の中国侵略が拡大した。1936年12月の西安事件で蒋介石も内戦停止に同
意し、国共両党の軍が一致して日本軍に抵抗した時期。第2次国共合作期でも
ある。

4)第3次国内革命戦争期(45年8月〜49年98月):第二次世界大戦が
日独伊の敗北に終わり、戦勝後の国共関係を如何にするかで、蒋介石と毛沢東
は重慶で協議を重ね連合政府を樹立することで合意に達した。しかし蒋介石軍
がソビエト地区に侵入し国共内戦が再開した。当初破竹の勢いで進撃した蒋介
石軍であったが、毛沢東の巧みな運動戦術に翻弄され、さんざんに打ち破られ
て、49年10月1日の中華人民共和国の成立をみる。

  つまり国共両党は双方共通の敵があり、それがあまりに凶悪強大であった
ときに妥協が成立し合作するが、共通の敵が無くなるか弱くなると合作は破れ、
内戦を起こしている。時代は移り変わって、現在では国民党と共産党に共通し
た強大な敵は存在しない。その上、台湾国民党は蒋介石が死に、跡を次いで総
統の地位に就いた息子の蒋経国も急死した後、党勢は衰える一方で、先の総統
選挙でも民進党の陳水扁に破れている。現在では国共合作の再現は何らの現実
性も持っていない。時間的にはかなり飛び飛びになったが、毛沢東の生地、台
湾、蒋介石の生家を見てまわり、中国革命史、今後の中国と台湾の関係などに
ついて、考えさせられた。せっかく行った渓口鎮だが、降りしきる雨にたたら
れて、ゆっくり風景を楽しむ事が出来なかった。蒋家周辺は古い町並みが保存
されているし、蒋家の前を流れる川の対岸には美しい自然がひろがっているこ
とを、最後に付け加えておきたい。

                        東京にて 2004年6月
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