インド ネパール、
釈迦の足跡を巡る旅・旅日記
(上)(中)(下)
木田 洋 (キダヒロシ)
3月13日(水) バラナシ→ガンジス河→バラナシ
今日から、現地ガイドとしてサルの替わりに急遽呼び出されたプラデイー
プ・クマール・チョードリ君が勤めることになった。名前が長すぎるのでプラ
と呼ぶことにした。プラが仕事に慣れるまで、サルも今日と明日の午前中は付
き添うと言ってくれた。プラもサルと同じ大学卒のインテリで日本語が達者、
正業は貿易商でガイドは副業だとか。
朝4時に起きで聖なる河ガンジスの日の出を拝みに行く。早朝から沐浴す
る人、太陽をたたえる1団の読経の声、河の対岸から黄色い太陽がのぼる。読
経の声が1段と高く大きくなった。河畔で薪を積み上げ死体を上に載せて焼く
火葬がはじまった。見物者の前で火葬される何体かの遺体。死があまりにもむ
き出しな形で、ここにある。カルカッタの路上で見たホームレスの死体、テレ
サの「死を待つ人々の家」に並べられた老人達の姿、そしてガンジス河のわき
で無造作に焼却される遺体。生と死が表裏一体であることを思い知らされる。
ホテルに戻り朝食後、バラナシ市内見物。サルがアジア最大の大学(学生
2万、教職員5千)と言い張るバラナシヒンヅー大学に入る。構内中央にヒン
ヅー教のビシュワナート寺院がある。寺の1番奥の部屋にご神体が祭られてい
た。一目で男女の生殖器を組み合わせたものとわかる。黒の大理石で作られた
男根が堂々と佇立している。男根は白色の大理石で出来たテニスのラケット状
をした皿の上に安置されている。ラケットの網を張った部分にあたる、楕円形
の皿は間違いなく子宮をあらわしている。そこからラケットの柄にあたる細長
くのびた部分が膣。膣は末端で開口している。男根の真上に天井から水が降り
注ぐ。聖なるガンジス河の水を汲んできたものとか。男根をぬらした水は滴っ
て子宮を満たし、膣を通って膣口から外に流れ出る。美しくも清らかな女学生
達が争ってこの聖水に指を浸し自分の額をぬらす。中年の婦人達がご神体を囲
む柵をまたいで入り込み、聖職者の叱声にかまわず男根をなぜさすっていた。
この隣の部屋に、破壊の神シヴァ神、その妻パールヴァッテイー女神、その息
子ガネーシャ神の3人家族の偶像が祭られている。息子ガネーシャは身体こそ
人間の幼児のものだが、何故か頭は象。3人の親子関係についてのサルの解説
は、出発前に読んでおいたヒンドウー教解説書の説明と違うが、サルのもの方
が面白く、その上現地の民衆が実際に信じている神話であると思えた。以下は
サルの話。
邪悪なものを破壊するシバ神はいつも忙しく家を空けることが多い。孤閨
を守る妻のパールヴァッテイー神は寂しくて仕方がない。寂しさから自分の身
体の垢を集めてこね上げ赤ん坊の人形を作り上げた。すると垢の塊は本物の男
の赤ちゃんになった。ある夜パールヴァッテイー神は風呂に入り、ふらち者が
のぞき見しないよう門の外で見張りをせよと息子に命じた。そこへ久しぶりに
シバ神が帰って来る。入浴中と察したシバは妻の裸体をのぞき見しようとする。
母の夫とは知らずにガネーシャが追い払おうと近づいて来た。 シバはガネー
シャこそ妻の入浴シーンをのぞこうとするふらち者と勘違いする。暗闇の中で
シバの刀が1閃、ガネーシャの首が転がり落ちた。何食わぬ顔で家に入ったシ
バは妻から息子出生の顛末を聞かされる。シバは殺した男の子が我が家の跡取
りと知るが、今とはなってはどうしようもない。そこで翌朝最初に会った生き
物の首を切って、残った胴体につなぎガネーシャを生き返らせる事にした。翌
朝、シバが最初に会った生き物は人間ではなく象だった。かくして可愛そうな
ガネーシャ神が再生した。だがガネーシャは拝めば金持ちになれる神として信
仰を集めている。
ホテルへの帰り道はバスでなく、三輪車で戻ることにした。オレとIさん
を乗せた気の毒な三輪車は積載重量超過で他の車よりかなり遅れてホテルに着
夜、ホテルに踊り子の1座を呼んでインド民族舞踊を観賞。この時カメラのフ
ラッシュが壊れているのに気がついた。建物内部での撮影はほぼ不可能になっ
た。サルは明日母の遺髪を出迎えるためカルカッタへ向かうことになり、みん
なにお別れを言いに来た。 (CLARKS VARANASI第2泊)
何故仏教はインドに根付かなかったのか
釈迦は悟りを得た後80歳の生涯を閉じるまでインドで仏教布教に勤めた。
だが仏教は結局インドには根付かなかった。釈迦の存命中、仏教は多くの王侯
貴族の庇護を受け、金持ちの寄金を集めて最も恵まれた環境で釈迦は説法を続
けた。キリスト教や回教のような宗教弾圧を受けていない。もともと悟りを開
くきっかけとなった釈迦の苦悩〜生、病、老、死とは贅沢ななやみではないの
か。病は別としても、平均寿命が極端に短かった当時、老は長寿として目出度
いことであったはず。死もこの世の苦しみから逃れる唯一最終の手段である事
は今も変わらない。敗戦直後、妹が死んだときオレは次は自分の番だと思った。
生活苦の中では弱いものから先に死んでいく。そのことは決して怖くなかった。
もともと葬式とは、周りのものが酒を飲みご馳走を食らって、死者の門出をに
ぎやかに祝うもの。若き釈迦が内省的で、物事を悲観的にとらえ精神的苦悩に
陥った陰には、彼の出生の秘密があるように思う。母マヤは昼寝中に大きな象
が脇腹から体内に入る夢を見て懐妊する。象とは体躯が大きく象のように力が
強いマヤ夫人の浮気相手のことではないか。何故マヤ夫人が臨月の大きなおな
かを抱えて実家へ戻ろうとしたかの謎がこれで解ける。実家へたどり着く前に
早産したマヤ夫人は、産後の肥立ちが悪く出産後7日目に亡くなった。シャカ
は夫人の妹に育てられた。多くの宗教家の人生には出生の秘密がつきまとって
いるように思える。
たとえば、中国に聖人・孔子も父が少女と「野合」して生まれた子であっ
た(野合とは老人が少女を犯すことを指す)。キリストの母マリヤは婚約者で
大工のヨセフがいながら誰が父か知れぬ子を身ごもってしまう。マリアは処女
のまま妊娠したと強弁した。お人好しのヨセフはイエスを自分の子として育て
大工としての技術をイエスに教えた。イエスは30歳くらいまで大工として真
面目に働いたと言う。出生の秘密を抱えるキリストもやはり内向的な少年時代
を過ごしたのではないか。彼も釈迦と同じように中年にさしかかって人生に悩
み、その悩みの末、新しい教義を創立する。だが、イエスは貧乏人の子で貧民
に対する同情を彼の思想の根本においた点で釈迦と違う。釈迦は王の子と認知
され15歳で結婚、妻妾に囲まれて贅沢三昧な日々をおくる。結局釈迦の苦悩
は深窓のお坊ちゃんの悩みで、一般民衆の悩みとはかけ離れていた。
そこへ行くと、ヒンズー教の教義はセックスむき出し、お金が儲かる等、
現世での御利益にもあずかれる有り難い教え。この方が大衆受けする。山中に
こもったり、先人の書物も読まず、大衆の話も聞かず、社会から隔離して木の
下で座禅を組むことで悟りが得られるはずはない。むしろ社会活動に身を投ず
ること、科学活動に参加することで真理は追究できる。王侯貴族に庇護されて
7世紀に最盛期を迎えた仏教も、やがて勃興する庶民階級に捨てられ、ついに
すたれてしまう。日本で仏教が今日まで生き続けているのは、平安末期から鎌
倉時代の封建革命期に、法然、親鸞、一遍、日蓮らが仏教の軸足を貴族から武
士へ、さらに民百姓にうつす宗教改革を断行した事による。
3月14日(木) バラナシ→サルナート→クシナガラ
今朝は遅く起床してゆっくり朝食を取りバラナシ市郊外のサルナート(鹿
野苑)に向かう。釈迦が5人の元同志に自分の悟りを開陳した場所。5人は釈
迦の説を受け入れ、彼らにより釈迦の思想を広めるための教団が結成された。
釈迦が自分の悟りを他人に明かさず1人だけの思想として胸の中に納めたまま
にしていたら、世界宗教の仏教は成立しなかったはず。サルナートは仏教発祥
の地として4大聖地の1ツに挙げられている。ここにはアショカ王が建てた巨
大なストウーパが残っている。スリランカが建てたムラガンダ・クテイ寺院内
の釈迦の生涯を描いた壁画は、日本人画家・野生司香雪(ノウスコウセツ)に
よるもの。午後ホテルへ戻り一休み後クシナガラに向かう。行程270km。
ところがクシナガラに近づいたところで車の長い列に前進を阻まれた。スムー
スに走って来る対向車を止めて運転手が情報を取る。前方の町でヒンズー教徒
の暴動が起き、軍警によりクシナガラ行きの車は全部停車させられているらし
い。運転手はかまわず対向車線を走り抜けて警官隊が阻止線をはっている前ま
で出た。警官はわれわれが外国人観光客と確認した後、田舎道を迂回してクシ
ナガラに向かうよう指示した。大型バスが通るには無理がある細い道を突破し、
夕刻、予定時刻から大幅に遅れてクシナガラ着。釈迦が涅槃に入った沙羅双樹
の址などのクシナガラ観光は出来なかった。
(ROYAL RESIDENCY泊)
3月15日(金) クシナガラ→国境越え→ルンビニ
暴動を避けるため出発を朝6時に繰り上げた。 回教がインドに進出し、
16世紀に回教を国教とするムガール帝国が成立した頃から、異教の仏教やヒ
ンズー教の寺院は破壊され、その址に回教のモスクが建てられた。だが今のイ
ンドではヒンズー教徒が全国民の80%以上を占め、回教徒は10%に過ぎな
い。そこでヒンズー至上主義者がモスクを破壊し、その上にヒンズー寺院を復
活する運動を始めた。これに回教徒が反発しヒンズー教徒の乗った列車が焼き
討ちされるなどの宗教暴動が発生した。特にアヨデイヤでは、ヒンズー至上主
義者達が、3月15日つまり今日をモスク跡地にヒンズー寺院を再建する着工
式の日とさだめ教徒の動員をかけていた。そして今日、各地で同じようなデモ、
集会が行われる予定。昨日迂回させられたゴラクプール市でも同じ動きがあり、
それに反対した政治家宅に爆弾が仕掛けられ、使用人1人が死亡したと現地の
ニュースは伝えていた。警官隊はヒンズー至上主義者のゴラクプール進入を防
ぐため国道上に阻止線をはったようだ。しかも今日もそのゴラクプール市をわ
がバスは通過しなければならない。
昨日行くはずだった、釈迦が入滅した跡地に立ち寄る。ここも4大聖地の
1ツ。釈迦は2本のサーラの木の間に横たわり、弟子達に見守られて80年の
生命を終えた。釈迦はここから1km先のラマバル塚で荼毘にふされ、仏舎利
は各王に分骨された。
ゴラクプール市を抜けてネパールに向かう。市内は全く平静。ヒンズー教
徒のデモは午後からとかで午前中の市内は警官の姿が目立つ程度。170km
駆け抜けてインド・ネパール国境に着く。国境と言っても、現地のインド人、
ネパール人は自由に往復している。出入国管理官に調べられるのは、往来する
トラックと大きな荷物を背負った行商人。それに外国人だけが出入国の手続き
と審査を受けなければならない。ガイドのプラがチップをあげたとかで出国、
入国共にスムースに済んだ。インド人とネパール人は明らかに顔が違う。イン
ド人はヨーロッパ系、ネパール人はアジア系の顔立ち。ネパールでは女性が活
躍しているのもインドとは異なる。インドではホテルのフロント、レストラン
の従業員、店の売り子などを含めて全ての職業から女が締め出されている。ネ
パールでは出入国管理官に女性が配属されているが、インドでは考えられない
こと。国境付近の商店街の売り子も女性だった。ゴム製サンダルを買う。彼女
の言う最安値から更に値引きさせようとしたら、私はネパール人だから信用し
ろと言う。客からぼるインド商人と一緒にしてくれるなと言う意味らしい。そ
のくせ、支払いはネパールルピーよりインドルピーの方が良いと言った。
ホテルは日本資本経営の法華クラブ。ここのフロントも食堂の従業員も女
性だった。みんな優しい穏やかな顔をしている。部屋はふすまに畳敷きの和風。
和食の昼食後、マーヤデビ寺院(誕生釈迦堂)に詣でる。臨月のマヤ夫人が実
家へ向かう途中、急に産気づいて脇の下から釈迦を産み落としたところ。聖人
は生殖器からこの世に出て来るのではないのだそうだ。その後、最近発掘され
たと言うカピラバストウ王城址に案内された。一寸待ってくれ。釈迦が育ち結
婚し子供に恵まれ、その後出家するために抜け出したカピラバストウ王城はイ
ンドのピプラワにあったはず。われわれは明日そのピプラワに行くことになっ
ている。ルンビニのすぐ側、それもネパール国内に王城があったとは聞いてい
ない。だが案内された小麦畑の真ん中には、それらしき煉瓦の土台と王の墓が
あり、その脇にひかえめなマヤ夫人の墓もある。こうなると釈迦はインド人で
はなくネパール人と言うことになる。ホテルに戻り、日の落ちない内に洗濯を
済ませ、部屋の外に干す。日本の温泉風に作られた大風呂に入る。夕食も日本
食。せっかくネパールに来たのだからネパール料理が食べたかったのに。日本
風の浴衣に着替え、畳の上に敷いた布団で寝る。
(HOTEL・HOKKELUMBINI泊)
釈迦はアジア人系かヨーロッパ人系か
釈迦がネパール人だとすると彼はアジア人と言うことになる。われわれが
日本で慣れ親しんできた釈迦像は明らかにアジア系のお顔立ち。鼻が低く横に
広がっている、瞼に脂肪がついて腫れぼったい、 顴骨が飛びだし顔全体が平
べったいなどのアジア人独特の特徴をそなえておられる。ところがインドで見
る釈迦像は全てヨーロッパ系の顔。鼻梁が高く、眼窩が落ちくぼんでいて、顔
立ちは細面。立ち姿も足が長い。インドのアーリア族は、東欧を離れ中東に下
りさらに東行してインドに定着したヨーロッパ系の民族。釈迦がインド人とす
ればインドの釈迦像がヨーロッパ系の体型、顔立ちをしているのは当然のこと。
従来の説では、釈迦一族はネパールに近いインド領内のビプラワに城を構え、
妊娠したマヤ夫人が、実家で出産するためネパール入りし、ネパール領内のル
ンビニで釈迦は生まれ、インドに戻った事になっている。だがネパールでは釈
迦が幼児期から青年期を過ごしたと言うカピラバストウ王城址に案内された。
こうなると、釈迦はネパール生まれのネパール育ちのネパール人、成人した後
悟りを求めてインドへ入った事になる。この説にインド側が黙っているはずは
ないだろう。さてどちらが正しいのか興味深い。
3月16日(土) ルンビニ→国境越え→ピプラワ
また国境を越えインドに戻る。途中、小学校に立ち寄り子供達の元気な姿
に接する。鉛筆でも買って下さいと幾ばくかのルピーを包んだ。本日の行程は
わずか60km。早めに今夜の宿に着いてしまった。宿は豪族の別荘を改造し
たもの。元の持ち主はこの館を虎狩りの拠点にしていたようだ。壁に虎の毛皮
や首の剥製が所狭しと飾られている。だがホテルとしては内装が失格。部屋に
後から取り付けたトイレがあるがバスタブはなくシャワーだけ、各部屋にテレ
ビ、電話機、冷蔵庫がない。ピプラワにもインドの考古学者がカピラバストウ
王城址と主張する遺跡がある。ホテルで昼食後バスで向かい見物。こちらの方
がネパールのものより規模が大きい。
夕食まで時間があるのでバスを途中下車し近くの商店街を冷やかす。おれ
はインド到着早々ほころびてしまったサファリベストのつぎあてを裁縫屋にた
のんだ。これも男の仕事。仕上がりはチップをはずんだほど見事なものだった。
1部の人はバスで先に帰ったが、残りの人は散歩がてら歩いて宿に戻る事にし
た。オレは田舎道の脇の原っぱで男達が芝居の舞台造りをしているのを見つけ
た。ガイドのプラが舞台ではないと言ったが、オレには自信があった。水田跡
の低い部分をさらに掘りさげて客席とし、残土を積み上げて舞台にする。周り
に置いた丸太や太い竹は幔幕を張って目隠しにするものに違いない。このやり
方は、中国の田舎芝居の舞台作りと同じ。プラが現場を指揮している男に確か
めると、果たして舞台を作っている最中。しかも今日の夜開演とか。 外国人
10人ほどが見に来るから椅子席を用意せよとプラに頼ませる。電気の無い村
で小型発電器を持ち込み煌々と蛍光灯を光らせる設備は村人にとってなんと刺
激的なことだろう。鼓膜を破るほど大きなスピーカーの音楽が村人を呼び寄せ
る。夕食後、蛍が飛び交う道をわれわれも胸を弾ませる思いで「にわか劇場」
に向かった。わが1行には万一にそなえてホテルのボーイと竹の警棒を持った
ガードマンが付き添ってくれた。1番前に陣取る外国人客、そして彼らが焚く
カメラフラッシュの嵐となれば、劇団員も張り切らざるを得ない。 黄色いサ
リーをまとい、大胆に脇腹と足首を見せてくれる若い女が歌い踊りながらしき
りにオレを指さし挑発的なウインクを繰り返す。オレも負けていない。彼女を
指さし彼女に合わせ腕をふって上半身を踊らせる。 後でガイドに聞くと歌は
「白い顔をした、ほくろのある男に心を奪われた」という歌だとか。 帰りに
100ルピーも祝儀をはずんでしまった。 観劇後、酒を持ち寄ってホテルの
ホールで飲み会。エッセイストのAさんがイタリア語でオーソレミヨを朗々と
歌ってくれた。劇団員のIさんも故郷茨城の民謡を披露。テラスから見上げれ
ば大空に北斗七星がひろがっている。地上では星と同じように、ひそやかな光
を暗闇に放つホタルが舞う。 (ROYAL RETREAT 泊)