インド ネパール、
          釈迦の足跡を巡る旅・旅日記

        (上)(中)(下)

               木田 洋 (キダヒロシ)

    
  はじめに.母の死
  わが母が長い闘病生活の末今年の正月に死んだ。1910年9月18日生
まれ(明治43年)、享年91歳。関東大震災、昭和大恐慌、日中戦争、アジ
ア太平洋戦争、敗戦後の引上げ、2人の子供の死と、苦しみと悲しみの仮借無
き連鎖に耐え抜いて来た、明治女の寂しい旅たちだった。葬儀とわずかな遺産
の処理がすんだ後、オレは無性に旅に出たくなった。中国国内は仕事柄くまな
く回ったが、中国以外となると東南アジア諸国、オーストラリア、ニュージー
ランドに1998年に3ヶ月かけて放浪したヨーロッパ15カ国程度。海外旅
行の定番、ギリシャ、エジプト、トルコ、インドは魅惑的だし、南北米大陸に
も渡ってみたい。オレに残されたわずかな自分自身の生を旅で過ごし、旅に死
ねたらなんと幸せかと旅へのあこがれがエスカレートしていく。自分がそんな
気分になっていた頃、新年会と称して、中国で知り合ったF君、Wさんと日暮
里の飲み屋で飲んだ。この席で旅行社の添乗員をしているWさんが、彼女が主
催者になって「イント゛釈迦の足跡を訪ねる」パックツアーを企画したが、応
募者が7人しか集まらず、最少催行人員の8人に達しないので、このツアーは
実現しないだろうと言い出した。オレはもともと団体行動のパック旅行は好き
でなく、しんどくても1人で大きなザックを背に勝手気ままに歩く自由旅行の
方が性に合っている。だが、この時オレは旅に出なくてならない切迫感のよう
なものにさいなまれていた。そして即座に「じゃオレが行こう」と言ってしま
った。オレが個人旅行の愛好者であること知っていて驚く彼女に、武士に二言
は無いとまで答えてしまった。
  その「インド釈迦の足跡を訪ねて」の旅行行程は以下の通り
  釈迦の生涯の節目節目を代表する遺跡は4カ所ある。これを4大聖跡と呼
んでいる。第1が釈迦生誕の地・ネパールのルンビニ、ついで釈迦が出家し苦
行を重ねたのち苦行をやめて菩提樹の下で瞑想に入り遂に悟りを得たブッタガ
ヤ、3番目はその悟りを初めて説教したバラナシ郊外のサルナート、最後が釈
迦が80年の生涯を終えたクシナガラ。これに釈迦が王侯貴族の寄進を受けて
開いた私塾跡〜祇園精舎、竹林精舎など〜にも立ち寄り、生きている間に天界
へ登り母親のマヤ夫人に会いに行ったとき出発した小山、母親を説法し仏教に
改宗させた後、この世に戻って来た時に降り立った岡などを組み合わせ、さら
にインドに行くからには是非参拝したいイスラム教墓苑のタジマハールを加え
た欲張ったコース。
1.3月9日(土) 東京→シンガポール→カルカッタ
  母の葬式、納骨、遺産相続権放棄の手続きが終わりホッとした頃からひど
い体調不振に陥った。その上、足の神経痛が再発し旅へ出かけるような精神状
態ではなくなった。誰も信じてくれないが酒を1滴も飲まない日が続いていた。
「飲まない」と言うより身体がアルコールを受けつけず「飲めない」のが正し
い言い方。思い起こせば悔やまれるのは最後に酒を飲んだ夜の不用意な一言。
だがキャンセルすると、振り込み済みの旅行代金38万円のほとんどが返却さ
れないと聞く。武士に二言はないはず。泣き言を言わず歯を食いしばっても行
かねばなるまい。
        SQ997 12:00成田→18:20シンガポール
  シンガポールと日本には1時間の時差があるから、7時間20分も満員の
機内で足を縮めて逼塞していたことになる。シンガポールはすでに32℃の高
温。空港内の旅客も短パン、裸足にサンダルがけの姿が目立つ。7時間強の飛
行で、初春のまだ肌寒い国から盛夏の南国に送り込まれたわけ。空港内の喫茶
店で旅行団員の顔合わせ。ほぼ全員がWさんの主催するツアーに何回も参加し
たことのある旅のベテラン。旅行会社ではこのグループをW軍団と呼んでいる。

 ○  Aさん(男)、テレビ局に20年以上勤め、海外経験も豊富。退職後
は文筆生活を送っておられる。

 ○  Iさん(男)、劇団俳優、W軍団の主要メンバー。1人部屋に泊まる
と正規の旅行代以外に追加料金5万8千円を払うことになるので、相部屋に応
じる人を捜してくれと頼んで置いたところWさんが探し出してくれた人。旅行
中オレのいびきに悩まされる事になる。

 ○  Sさん(女)、同行のMさんと友人関係ようだが1人部屋を希望され
た。ニックネームは下町のSチャン。

 ○  Nさん母子、K市の有名な寺院の奥さんと息子さん。インドは2度目、
現地ガイドのサルマンカーン氏とは前から知り合い。

 ○  Mさん(女)、都内でカレー屋を営業。

 ○  T夫妻、10年前にインドを旅行したことがある由。
 
これにオレと添乗員のWさんが加わって計10人の旅行団。少なくもなく多す
ぎることもない丁度良い人数で、お互いに気心の知れた和気藹々たる旅行団に
なりそうだ。一服後また空の旅。
 
  SQ416 シンガポール18:20→カルカッタ21:05
 
  シンガポールとカルカッタの間にも2時間半の時差があり、飛行時間は5
時間35分。カルカッタ到着時間も日本時間に直せば翌日の深夜0時35分と
言うことになる。長く狭苦しい機内生活で身体がだるい。カルカッタは元イン
ドの首都。インドの空の玄関とも言える。だが、それにしては空港施設がお粗
末。サテライトが無く機からタラップでおりてバスでターミナルに向かう。入
国審査も手際が悪くパスポートにスタンプを押すだけなのに時間がかかる。託
送荷物を運ぶ回転板も古くさくなかなか出てこない。中国のローカル空港を思
い出した。空港税関を出ると、現地ガイド、サルマン・カーン君が出迎えてく
れた。長すぎる名前なのでサルと呼ぶことにした。バスで市内に向かう。途中、
電灯もない暗黒の中で家のない人々の群が゛ビルの軒先で身体を寄せ合って寝
ているのが見える。インド入り後、最初のショックを受ける。用意されたホテ
ルは豪華なもの、ここまで来る間に見た壊れかけたビル群、その下で寝る貧困
民との落差の大きさにとまどった。相部屋を了承してくれたIさんが、飲兵衛
の木田と一緒ならとウイスキー、日本酒を大量に持参された。Iさんが疲れを
とるにはこれが1番とコップ1杯のウイスキーをすすめてくれる。申し訳ない
が体調が復調せず酒がのどを通らない。頂いたウイスキーは持参した水筒に詰
め、先に横になる。Iさんは明かりを落とした部屋の中で相方もなく寂しげに
日本酒をすすっておられるようだ。    (OBEROI GRAND泊)
  3月10日(日) カルカッタ→汽車
  朝食後1人で散歩に出る。他の人は、昨日の長旅の疲れから部屋へ戻って
もう一休みすることになった。自分が1人だけ街へ出たのは、昨夜空港からの
バスで見た光景を確認したかったからだ。インド共産党は1950年代末から
60年代初めにかけて展開された中ソ論争の中でソ連派についた。だが党員の
中の毛沢東派が脱党してインド共産党(ML派)を結成したと聞いている。そ
して昨夜暗黒の貧民街に、そのMLの旗がなびいているのを見たような気がし
た。インド共産党の影響を強く受けているネパール共産党も、同じように毛沢
東派が結成されたが、同派は首都カトマンズ以外の広範な地域を実質的に支配
し、ネパール軍警と武力衝突を繰り返すほど強大な勢力になっている。そこで
インドの毛派はどうなのか知りたかった。

  カルカッタの街はかなり疲弊している。イギリスの植民地時代に建てられ
たビル街がスラムになっている。よく見ると1軒1軒の建物は、重厚なバロッ
ク式の煉瓦建てだが、壁ははがれ窓ガラスも割れ建物のひびには雑草が繁茂し
ている。ガラスの替わりにベニヤ板を取り付けた室内には人が住んでいるよう
だ。だがこのスラムにすら入れず路上で寝起きしているホームレスが無数にい
て、朝陽に消えつつある薄もやの中でうごめいている。ぼれ切れのように死ん
でいて周囲から顧みられない遺体も見た。自分が死んでいると判断したのは虚
空に不自然に突き出し動かない腕を、死後硬直によるものと見たからだ。そし
てスラム街に翻る鎌とハンマーを染め抜いた赤旗や毛派のCPI(ML)のビ
ラを多数確認した。毛派はインドでも元気なようだ。

  ホテルにもどり、バスでカルカッタ市内観光に出る。まず行ったのがマザ
ーテレサの修道院。テレサ修道院の見物はもとのツアー日程にはなかった。だ
が「テレサを見たい」という要求が団の1部から出たとたんに計画を変更する
柔軟さが、W軍団ツアーの強み。釈迦の足跡を巡るついでに、テレサの足にも
触れようとする強欲さ。修道院は喧噪に包まれた町中にあった。

  現地ガイドにせかされて靴を脱ぎ2階の大部屋に入る。室内では白髪の神
父が司祭して朝のミサが行われていた。現地ガイドはかまわず神父のわきに立
ってわれわれに説明を始めた。神父は闖入したわが1団と神父さまに対抗して
大声を出すガイドにたじろいだ。この2階のミサ室にマザーテレサの棺桶が安
置されている。オレは、彼女はインドの土になるはずではなかったのかと問い
たくなった。わが1行は、ミサの最中であるのもかまわず、テレサの棺桶の前
でフラッシュをバンバン焚いて記念撮影する。たまりかねた修道女が飛び出し
て来て注意しようとしたが、声を出せない規則になっている。

  「木田さーん、これがテレサの棺桶だって、早く早く」と呼ぶ声がする。
オレは赤面して外に飛び出した。テレサは1910年アルバニヤ人として生を
受けた。修道院での修行の後、若くしてインドに伝道師として派遣され、現地
で見た貧困者の群にショックを受ける。だが彼女に与えられた仕事はカソリッ
ク系女学校でごく一部のインド上流階層に属する娘達に歴史と地理を教えるこ
と。無数の貧困者とは無縁の社会。貧困者救済こそ自分の使命ではないのかと
考えた彼女は女学校を飛び出した。貧困者救済に伝道師の資格はかえって邪魔
と思い、ローマ法王に伝道師の身分を除籍するよう要請し、インドに帰化。貧
しい中でも最も貧しい人に仕える事を理念に自らの修道院を設立。孤児院、病
院、さらに「死を待つ人々の家」を建て、路上で死にかけた人々を助け上げて
死を看取った。後にノーベル平和賞受賞。1997年9月5日、「もう息がで
きないわ」とつぶやいて永遠に呼吸することをやめた。インド政府は国葬をも
って彼女の愛に応えた。

  ところで壁に貼られている変色した古い写真を見ると、テレサの若い頃は
それなりの美人だったことが見て取れる。院内には老年になったテレサの写真、
やせこけた姿の彫像も展示されている。年老いて縦横十文字に深く刻み込まれ
たしわだらけの小さな顔に落ちくぼんだ眼窩。一生涯男を拒否し処女を守り続
けると、こういう顔になるとの見本のように見えた。「レミゼラブル」の1節
を思い出した。ジャンバルジャンが孤児コゼットを修道院に預けに行く。院長
は「一生涯お預かりしましょう。でもきれいにはなれませんよ」と静かに答え
た。老院長の顔を見たジャンバルジャンはコゼットを修道院から連れ出した。
だが、テレサの一生は生き甲斐にあふれた幸福なものだったのだろう。彼女の
内面の美しさを感じ取れないオレはあまりにも卑俗だ。

  その後、ジャイナ教のシータルナート寺院に寄る。参拝すれば金持ちにな
れる有り難いお寺。昼食は町中のカレー屋で食べた。食後、ホテルに戻り東京
−カルカッタの空旅による疲れを早くとるため昼寝することになった。オレだ
けはホテル中庭のプールで日光浴と水浴びを楽しんだ。午後は仏教彫刻を見る
ためにインド博物館、ビィクトリア記念館とまわり、貧民街のカリガート地区
の真ん中にマザーテレサが設置した「死を待つ人々の家」にも出かけた。ここ
も元の計画にはない場所。わが1行の中によほどのテレサファンがいるようだ。

  門前の乞食の群の間を縫って「家」に入る。内部は男の病室と女の病室に
分かれている。満床でベッドが足りず床に寝かされている病人もいた。年老い
たヨーロッパ系の医師が全体を取り仕切っているようだが、若い日本人青年が
助手としてコマネズミのように駆け回り注射、点滴の処置をテキパキこなす。
彼以外にも日本の若い男女がボランテイアとして脇目もふらず働いていた。看
護の基本は老人達の目を見つめ微笑みながら手足をさすってあげること。われ
われは声も出なかった。彼らの背中に手を合わせる人もいる。確かに若者達の
背中は拝みたくなるほど巨大に見えた。カルカッタの名前の元になったヒンズ
ー教のカリー寺院を参拝する。

  夕食は市内の中華レストラン。正直のところ美味くない。時間つぶしにガ
ンジスの河畔で夕涼みの後、カルカッタ駅へ向かう。まず赤帽を雇う。赤帽が
引っぱって来た大八車に10個のトランクを載せる。列車の最後尾に近い第2
2号車が1等寝台と聞きプラットホームの突端まで歩く。オレは身体が綿のよ
うに疲れてへたり込んだ。列車がジーゼル機関車に引かれて頭から駅構内に入
って来た。先頭から2番目の車両に1等寝台の表示がしてある。ガイドのサル
が「間違えた」と叫んだ。列車と大量の乗客をへだてる臨時の柵のわずかな間
隙を、赤帽をせかして大八車を先頭に駅の入り口の方向に戻る。とたんに柵が
押し倒され乗客の群が鉄砲水のごとく我先に各車両の入口に殺到した。

  われわれが柵を乗り越えて、整然と柵内に並んでいる乗客を尻目に先に乗
車しようとしていると思ったからだろう。警官隊が駆けつけ乗客を竹の棒で誰
彼かまわず思いっきり殴りつける。ビシッ、ビシッと竹が肉体を打つ音が響く。
わが1行は人の塊に分断され、前方に駆け抜けた人、わきに飛び出した人に分
かれた。だがIさんだけは群衆に飲み込まれ押し合いへし合いの真ん中にいた。
彼が頭にまいた黄色い手ぬぐいが、もみ合う群衆の中で漂流している。オレは
大声を出しながら、腕をつかみIさんを人波の中から引き抜いた。

  ようやく2号車にたどり着いたが、この1等寝台車はインド鉄道省のお偉
方のために臨時につけられたもので、われわれの車両はやはり後部の22号車
とわかった。混乱するプラットホームの先端へ群衆をかき分けながらもどる。
車両に入ってまた1難。サルが1等寝台のチケットは8人分しか確保されてな
い、添乗員ともう1人の客は2等寝台車に乗れと言い出した。1等はコンパー
メントだが2等はむき出しで1晩で風邪をひくことは必定。W添乗員が当然の
ごとくオレに2等へ行けと言う。なんでオレがその不運な乗客にならなければ
ならないのか。オレは帰国後旅行代金の払い戻しをしてもらうとわめいた。サ
ルが車掌と交渉して2人部屋のコンパーメントを確保、列車でもIさんと同室
になった。

  Iさんが疲れた時はこれに限るとウイスキーの大瓶を取り出した。昨夜は
ご相伴しなかったオレも紙コップにウイスキーをなみなみとついでもらい、水
も氷も入れずゴクゴクと流し込んだ。臭いをかぎつけたのかサルが入ってきた。
自称回教徒なのに酒好きらしい。その内に添乗員のWさん、カレー屋のMさん、
下町のSチャンも入って来た。狭い2人用のコンパメントは満員。サルが自分
の父親は厳しい人だが母親はやさしく父に叱られるといつも母の元に逃げたこ
と、母は黙ってお小遣いをくれたことなどを話し出した。その両親は回教徒の
生涯の夢であるメッカ巡礼団に参加しているとのこと。
  
  深夜12時近く車掌達がドアを叩いた。酒を分けてくれと言う。廊下にウ
イスキーの香が漂い出たのだろう。大きなグラスになみなみとついであげる。
1時間後にも車掌がドアをノックしたが、今度は知らぬ顔を決め込んだ。われ
われの呑む分が無くなってしまうからだ。
  
  3231列車 21:05カルカッタ → 
                 翌朝 07:35パトナ (車中泊)
  3月11日(月) 汽車パトナナーランダラジギールブッダガヤ
  朝、寒さで目が覚める。列車の便所は床に大きな穴があいているだけで、
線路と枕木が地面を前から後ろへ飛び去って行くのが見える。自分の小便が
吹き上げられて来るようだ。パトナ駅に定刻の7時35分に着いた。インド
では列車が定刻に出て定刻に着くことは奇跡らしい。鉄道省のおえらさんが
臨時に1等寝台車をつけて乗ってくれたお陰で、かくも正確に列車が発着し
たのだとか。ポーターを5人雇い1人の頭に2個づつトランクを乗せて運ば
せ、われわれもポーター隊の後ろについて駅舎を出る。駅前にわがツアー専
属のバスが待っていてくれた。運転手は白髪の紳士。左手を自分の胸にあて
て丁重なお辞儀をする。少年の運転助手も同乗している。駅前で朝食。冷房
の効いたバスで85km先のナーランダ大学址へ向かう。仏教普及のため5
世紀に造られた、当時世界最大の大学址。12世紀に回教徒の侵入により破
壊されるまで、ここは仏教の研鑽の中心だった。アジア各国から留学生が集
まったが、その中には玄奘三蔵もいた。最盛期には教師1500人、学生は
1万人に上ったと言う。昼食は日本資本経営による法華クラブ。インド到着
3日目にして早くも日本食が出て来た。米ナスの味噌田楽、天ぷら、狐うど
ん、みそ汁、ご飯、漬け物が食卓にのぼったが、ほとんどが冷凍食品を電子
レンジで暖めただけのもの。

  食後ラジキールに出て、竹林精舎と釈迦が水浴びしたカランダ池を見る。
さらに釈迦と弟子が頂上の洞窟に起居し説法会を開いた霊鷲山に登ることに
なった。外は高温だし、昼間飲んだビールが効いてきてオレ1人バスに残り
昼寝を決め込むことにする。みんなが大汗をかいて戻って来た。今日の宿泊
地・ブッタガヤまで100kmの道を行く。道は舗装されているがメインテ
ナンスが悪く路面は穴だらけ。穴を避けながら右に左にとバスはジクザクに
進む。サルが、ここの知事が馬鹿だから道路補修の予算をポケットに入れて
しまい、こんな道になってしまったんだと、吐き捨てるように言った。よう
やくホテル着。今夜のホテルも豪華版だが出来たばかり、と言うよりはまだ
建設中。われわれが初めて且つ唯一の客のようだ。ここでも衛星放送のNH
Kが見られた。このホテル自慢の大理石張りの大風呂に1人で入る。                          
                (ROYAL RESIDENCY泊)
                  
  3月12日(火)  ブッダガヤ→バラナシ
               
  朝8時半、釈迦が悟りを開いた地に建立された大菩提寺に向かう。釈迦は
インドの王家の生まれ(ネパールとの説もある)。王城の中で何不自由ない生
活をしていたのだが、城外で見た老、病、死の悲惨さとそれらから逃れ得ない
人間の宿命に悩み、29歳で妻子を捨て出奔、出家の道をめざす。この時5人
の同志が付き従った。インドのブッタガヤ近くの同志と共に前正覚山にこもり
5年間にわたり苦行につとめる。だが悟りを得ないばかりか長い苦行で肉体を
痛めてしまう。釈迦は山を下り麓を流れるナランジャーナ河(尼蓮禅河)で身
体を洗い、村の少女スジャータから乳粥を恵んでもらう。そして苦行には戻ら
ずナランジャラーナ河を越えて対岸に渡ってしまう。河は修行者達にとって禁
断のルビコンの河であった。女に食事を乞い、ルビコンを越える釈迦を見て、
5人の同志は釈迦が求道の志を捨て堕落転向したと断じた。彼らは苦行を続け
た後、宗教の聖地・バラナシに向かい修行を続ける。釈迦はブッダガヤの菩提
樹の下で49日間の瞑想に入る。そして、ついに大いなる悟り(4ツの真理)
に達した。4ツの真理(四諦)とは、苦についての真理、苦の原因についての
真理、苦の滅却についての真理、苦滅却のための8ツの道(八正道)について
の真理のこと。したがってブッダガヤの大菩提寺は釈迦の足跡を巡る旅のハイ
ライト。寺はアショカ王(アレクサンダー大王の侵略を防ぎインド統一を成し
遂げたチャドラグプタ王の孫、仏教を国教とさだめ普及に努めた)が菩提樹の
前に建てたもの。その後何回もの回収増築を経て高さ52mの巨大な塔になっ
ている。後ろの菩提樹にも詣でる。木の根本に台上の大石があって、釈迦はこ
の石の上に座禅を組み四諦八正道の悟りを得た。大菩提寺の周囲にはチベット、
ビルマ、タイなどが建てた寺院がある。この中の日本寺にも寄ってみる。

  若い日本女性が1人だけ詰めていた。母の戒名・妙清信女名義で寄進し寺
の瓦にその名を書き込んでくれないかと頼んでみた。だが、ここでは受けつけ
ていないとの返事だった。午後は、ここからバラナシまで260kmをバスで
一気に走り抜ける行程。昼食も弁当を走る車内で取る。この道は悟りを得た釈
迦が最初に歩いた道でもあった。釈迦は自らの悟りを他人に話すべきか否か悩
んだ。釈迦の到達した認識は難解で自分以外には理解できないと思ったからだ。
しかし悟りを広めて衆生を救済すべきと思い立ち、まずバラナシを目指す。バ
ラナシには釈迦を脱落者として見捨てた5人の元同志がいる。まず彼らを説得
したい。またバラナシは当時から宗教の聖地、多くの宗教家が集まる場所。こ
こで自らの教義を他の宗教と競えるものか試して見たい。釈迦は、また1ツの
ルビコンを越えた。走行中の小さな町がヒンズー教のお祭りでにぎわっていた。
ヒンズー教は多神教で、数え方によっては3億8千万柱の神様がおられる。そ
こで1年中毎日どなたかの神様のお祝いが行われていて、今日がどの神の誕生
日または昇天した日か、サルにもわからないとのこと。舗装のない悪路を8時
間以上かけて夕方ようやくバラナシに着いた。釈迦はこの道を車馬に頼らず托
鉢しながら1人で走破したわけだ。何日かかったのだろう。
                (CLARKS VARANAS第1泊)
  サルマン・カーンの母の死
  現地ガイドのサルマンカーンは自称デリー大学の修士課程を終えたインテ
リ。回教徒の家に生まれ彼自身も回教を信じている。ブッタガヤ大菩提寺をお
参りした後、サルの母がメッカへの巡礼中死んだとの報が入って来た。ブッダ
ガヤに着いた時、サルは通りを友人2人が歩いているのを偶然見つけバスを短
時間止めさせた。回教徒の仲間だとのこと。寺の参拝が済み、門前町風に並ん
だ土産屋をひやかし、バスに乗り込もうとした時、さっきの回教徒の友人2人
がオートバイで追いかけて来た。2人は厳しい顔でサルに何事かささやく。サ
ルの顔に緊張が走った。バスに戻ったサルは密かに涙を流し、汗を拭くふりを
してタオルで涙をぬぐった。オレはサルが回教徒の経営する土産屋にわれわれ
を連れて行かなかったことで脅迫されたのだと思った。バスがナランジャーナ
河(尼蓮禅河)に着き停車、われわれが河畔で写真を撮っていた時にも、彼の
友人はオートバイで駆けつけサルに何事かささやいた。バス内でWさんが何が
起きたのだとサルを問いつめた。サルは答えた。友人がサルの母がメッカ巡礼
中に亡くなったと知らせに来てくれたのだと。オレは回教徒間の結束力の底知
れぬ強さを見せつけられる思いがした。そして彼らの間に張り巡らされている
連絡網の確かさも知った。中国にも回教を信じる少数民族が10民族いる。中
国駐在中、ある地方の回教徒が侮辱されると各地の回教徒が死を覚悟で抗議の
ため駆けつけるのを見たことがある。彼らは硬く団結しており、彼らの間には
緊急時のための確実な連絡網が作られている。サルは母親が35歳のとき生ま
れた1人息子で母親に可愛がられて成長した。彼はなぜか一昨日の汽車の中で
ウイスキーを呑みながらやさしい母を語った。虫が知らせたのかも知れない。
サルは自分の携帯電話で確かめるまで母の死を信じたくない様子だった。だが、
ここから彼の実家や会社があるデリーには電波が届かない。バラナシ市内に入
ると携帯電話が使えるようになった。母の死の知らせは間違いなかった。彼は
バスの中で人前かまわず大声をあげて号泣した。「ママが死んでしまったヨ」
と聞こえた。オレもわずか2ケ月前に母を亡くしたが泣かなかった。むしろ1
種の安堵感すら覚えた。泣きわめくだろうと心配していた妹も虚脱した顔で声
も出さなかった。サルと母親は切ろうにも切れない強い親子の絆で結ばれてい
たのだろう。サルはわがツアーを離れ、巡礼団が戻るカルカッタに行くことに
なった。別れを言いに来たサルに、オレは「自分も先々月、母を亡くしその慰
霊のためにインドに来たんだ」と話した。サルが無理に笑顔を作って応えてく
れた。
                         
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