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マ リ ポ ン の カ ン ボ ジ ア スレアンピル孤児院 遺跡で会った娘 袖の下「 袖 の 下 」プノンペンの女性のガイド氏は地味なクロマーを手放さず、ヒンズー教の 説明とりわけリンガ(男根)信仰の説明などでは、恥ずかしがっていた。50 前後のお歳だと思うが、その恥じらいがなんとも良かった。恥じらいを捨てて しまった某国のへそだしルック嬢がわが物顔で闊歩するのをみると、説教した くなる、なんて彼女は言っていません。私がガイド氏を見てそう思ったのです。 彼女の様子からタンクトップなどは受け入れられない国情も理解できる。彼女 は決して政治的なことは口にしなかった。 アンコール遺跡を案内してくれた男性ガイド氏(名前は伏せておきます) は「憂国の志士」を思わせるような人だ。シェムレアップについてから3泊4 日、彼の口から出てくる言葉は「袖の下」であった。シハヌーク国王の「カン ボジア王国」時代が一番楽しかった、という。彼がまだ生まれていないときだ。 1980年から91年まで難民キャンプにいた。彼は教育に熱心だったソン・ サン派のキャンプに行ったという。 そこで教育を受け、高等教育を受けた。 1998年の国会前のデモに友人が参加。政府側の発砲で彼の友人2名が死亡。 1名はその後アメリカに渡った。彼の話はこうだ。 キャンプでは女装していた。女性は米をもらえたからだ。混乱の中で両親 と離ればなれになった。ここ数年で両親の安否が確認された。母親はカンボジ アにいたが、父親はアメリカに渡っていた。「カンボジアの言葉では何も言え ない。日本語だから自分は言う。カンボジアの政治家も公務員も袖の下が好き です」と。彼の説明によれば、まともな国会議員は2,3人だ。ベトナムやタ イにつながっている人間ばかりで、カンボジアの国のことを真剣に考えている 政治家はいない。アンコールワットなどの入場料はカンボジアの収入になって いるように見えるが、実際はベトナムに持って行かれている。多くの人がアン コール遺跡にきても、カンボジアは豊かにならない。公務員が袖の下の誘惑に 乗って私服を肥やしている。彼はすでに結婚をし、新しい家族を作っている。 私生活では幸せそうだ。 カンボジアは経済的に発展しないのだろうか。ホテルの前を早朝、自転車 が何台も過ぎ去っていく。彼らは10キロも20キロもの先の工事現場に働き に行く。1日2ドルになればいい方だ。遺跡修理に携わっている人は米が現金 の変わりに支払われるという。旅行中1人の人が言った。「安心しました。こ の国の男たちは一生懸命働いていますよ。お茶ばかり飲んで、女を働かせてい る国もありますからね」「憂国の志士・ガイド氏」が議員になればいいかな、 なんて思いながら空港で別れの握手をした。 (2001.7.28〜8.1)スレアンピル孤児院孤児院「スレアンピル平和の子どもの家」(以下、「スレアンピル孤児院」 と記す)には約束の時間よりかなり遅れて到着した。日曜日の朝のプノンペン は車やバイクでごった返していた。そこを抜けるのに時間がかかった。もちろ ん途中でビスケットやお米を買った時間もあるのだが・・・。 私たちのお土産は院には米500KG・ビタミンCの錠剤・サッカーボー ル・バレーボール・ビスケット、個人にはハンドタオル・フェイスタオル・T シャツ・ショーツ・ブラジャー・ノート・鉛筆・ボールペンである。米・ビタ ミンCの錠剤・各ボール・ビスケットは現地で調達した。下着類はサイズを問 い合わせてひとり2枚を用意し、タオルなどと共に日本から持ち込んだ。 「スレアンピル孤児院」を紹介してくださったのは「アジア子供教育基金」 代表の堀本崇氏である。堀本氏はバッタンバンで職業訓練所など開設している。 当初はそこを訪問させていただこうと思ったがバッタンバンはあまりにも遠い ので、プノンペン郊外「スレアンピル孤児院」を紹介していただいた。堀本氏 は「どうしても食べることが第一なので、下着は後回しになるんです。女の子 に何が欲しいと聞くとブラジャーと答えが返ってきますよ。面倒でなければ下 着をもっていってください」と。 孤児院では敷地内の施設を見学させていただいた後、ホールで歓迎の式が 子供たちの手で行われた。6歳から17歳まで117名の子供が生活している が、整然とならび、自分が何をするのか心得ている。司会進行の男子は16,7歳と思われる。彼の進行に従って、「紅葉」や 「上を向いて歩こう」など日本語による歌を披露してくれた。その後「アプサ ラの舞」や「漁師の踊り」と6歳の男子の独唱などどれも思い出に残った。 とりわけ「漁師の踊り」は、年頃の男子がはにかみやの女の子を冷やかしつつ も、2人の気持ちを通わせるといういおおらかな話である。踊り手の目つきや 仕草が何ともおかしく、笑ってしまう。こっちは勝手に「あの2人は個人的に 憎からず思っているのではないか」とおばさん的な想像をしてしまう。 さて、いよいよこちらが何をもってきたのか、その儀式をしなければなら ない。4人の子供にビスケット、ボール、男子用、女子用の個人のものを渡し た。それぞれに拍手が沸いた。「ボール」「ビスケット」のそれぞれに歓声が 上がったが、特に「下着2枚」には今まで以上にどっと歓声が上がった。6歳 から大人用Lサイズのパンツを240枚そろえるのは簡単ではなかったが、こ んなに喜んでもらえるとは思わなかった。
漁師の踊り」 ロウソクの舞次にこちらから何か披露しなければならない。こんな時に友人が力になっ てくれる。ヨシコさんが謡曲「高砂」を詠じてくれた。次は旅行参加者18名 で歌を歌うことにした。私はそのころ少しは成績が上がってきていた阪神タイ ガースの「六甲おろし」をみんなに提案したが軽く却下された。それは当然だ。 知っている人が限られている。誰か「花」と口火を切り、2部合唱をした。こ ういうとき透き通るような声で民謡の一つも歌えたらどんなにいいかと思う。 子供と何も交わすこともなく時間だけが過ぎ、とうとう退所の時間となった。 迎えたときと同じように太鼓で送ってくれた。 バスが見えなくなるまで手を降ってくれた姿が忘れられない。 (マリポン) 2001.7.29
見送り カンパ物資の一部遺跡で会った娘アンコール遺跡の見学はアンコール・トムから始まる。まず、バスは南大 門の手前で停車する。通路の両側に左右54体ずつ、石像の巨人が一列に並べ られて綱引きをしている。これはアンコール・ワットの第一回廊東面南側の壁 面彫刻「乳海攪拌の図」にあるものと同じモチーフである。単純な構図で印象 に残りやすい。 そこでガイド氏の説明を聞きながら記念撮影などする。アンコール遺跡め ぐりの第一番はここなのか多くの観光客がやってくる。写真を撮り終わると土 産売りの子供から大人まで押し掛けてくる。それは生きていく強い意志を感じ させるもので、「ひやかす」ことはできないとさえ思わせる光景だ。私が遠目 で見ていたのはアンコール遺跡についての日本語の本であった。けれども、こ こで誰かに買えば「これもこれも」と売りつけられそうな気がして、さっさと バスに乗った。「この本安いでしょ」とバスの中で見せられて、なるほど、日 本ではどう見ても千円はくだらない内容の本だった。海賊版には間違いないが ・・・。午後はアンコール・ワットとプノン・バケンからの夕日鑑賞となる。プノ ン・バケンは山頂にヒンドウ教の寺院があるが、観光客にとっては椅子ぐらい にしか思っていないようだ。山道を歩き、広場のようなところに出る。そこで 拓本やTシャツが売っている。右手には片腕、片足をなくした人達が4、5人 楽器を弾いている。観光客に音楽を提供する楽団の一員としてそれは評価しな いと行けないと思い1ドルを箱に入れる。そこへ、本を持ってきた男の子がい た。こちらには「買う」という決意がある。手に取ってみると、一冊は写真集 それも今年4月に発行されたものである。もう一冊は学術的な記述で昭和44 年の初版である。それぞれ3ドルだが、2冊買うと5ドルというので購入した。
プノン・バケンからアンコール・ワットを見る プノン・バケンから夕日を見る。山頂の人々も鑑賞の対象だ
遺跡で会った娘それを持って急な石段をあがって山頂の寺院に着くと、そこには夕日を楽 しむ人でごった返していた。もちろん遺跡として鑑賞する人もいるかもしれな いが、360度に開けた眺望の中に、密林に千年以上も生きてきたアンコール・ ワットやアンコール三山を見つめる人がほとんどである。女の子が「日本の本」 と持ってきた。 「持っているよ」 「うそ、私、朝アンコール・トムで見ました。買ってない」 鞄から二冊の本を取り出し、 「今、下で買ったの」と答える。彼女は納得して下を向いた。この子はどうし て私の顔を覚えていたのか、朝はアンコール・トムで、夕方はプノン・バケン に移動しているのか。 彼女の袋の中にフィルムにあった。 「フィルム、いくら」、「4ドル」、「3ドルにならない」 「3ドルは私が買う」 そうかもしれない。本と絵はがきとフィルムと細々したものを売っている彼女 が卸売から大量に購入しているわけがない。ホテルで3ドルだったので、1ド ルの手間賃として納得できる。アーサー100の同じものがないが、もう一つ は400を同じ値段にするという。10ドル紙幣を出す。2ドルのおつりがな いという。これはどうしたことか。リエルでもいいと思ったが、今度は絵はが き2セットでどうかと言う。そうするとちょうど10ドルに収まる。交渉成立。 10ドルを支払った。絵葉書はすでに購入済だったが、彼女のひたすらさに参 ったというところだ。 「あなた、いくつ」、「20」、「12?」、「20」 そして指で示した。私は「20(ツエンティ)」と「12(ツエルブ)」を間 違えているんだと思ったので聞き返した。そばにいた青年を「ブラザー」と答 えた。ヤンガーかエルダーかとまで問わなかった。私には年齢不詳としかいい ようがない。両親は亡くなったという。彼女の指に金の指輪があった。母親の 形見らしい。 カンボジアの人は12歳ぐらいかと思われる人が成人なのだ。前日、米屋 で50KGの米を購入した。その折、50KGいり米袋を担いでくれた青年が いる。14,5歳に見えたが20歳を超えていたかも知れない。 一気に夜がやってくる。売り子たちは商売道具を片付けて下山していった。 旅の感傷に浸っていることはできない。懐中電灯にたよりに山を降りた。昼間、 売り子たちでいっぱいの遺跡も闇に包まれていった。私が子どもだと思った娘 さんも家路に着いたことだろう。 2001.7.30(内田真理)もどる