インドネシア5000キロ ママチャリの旅アルジュナ坪井スマトラ編 「チャリンコおやじ スマトラを行く」 2850キロ 36日間の旅
スマトラ島北端 バンダ・アチェより チャリンコ アルジュナ号で 2850キロ走破!! スラウェシ島 マナド到着 1998.10.8 ホテル ノボテル にて ウジュンパンダン(マカッサル)〜マナド アルジュナII号にて、右手後方がブナケン島その1<有言実行> 私は意志の弱い人間です。今回のスマトラ島縦断チャリンコの旅をやろう、 と決めて以来、親しい人に宣言し自分自身にプレッシャーをかけ続けた。スマ トラ島の北端、バンダ・アチェからインドネシアの首都、ジャワ島のジャカル タまで直線で約2000キロ、友人には「何とかなるだろう?」と軽く言った が、自転車で長距離を走った経験もなく、内心全く自信はなかった。「こりゃ いかん!!」と出発日、1997年9月1日の2月前からしばしば真夏の名古 屋市内外を50〜60キロ走って体力をつけ、何とか成功率50ペーセントま で自信がついた。 私の宣言にたいし友人達は二つの反応を示した。「私も行きたーい。羨ま しい」と現地の事情も知らずに羨望する人。「どんな意味があるの?」と冷や やかな人。どちらも共通するのはスマトラ島が何処に位置するのか知らない。 シンガポール、マレー半島は大体分かるのだが、赤道がスマトラ島を横切って おりインドネシア領だと多くが知らなかった。ガックリ!! さて、何故スマトラか? 話しが長くなるので詳細は省くが、きっかけは 学生時代探検部でボルネオに2度行き、すっかり東南アジアが好きになったこ とだ。今は高校生がスタディツアーでロングハウスへ気軽にでかけるが、30 年前は情報も少なく真面目に探検だ、と思っていた。就職して3年目の197 5年から3年半、ジャカルタに駐在したのがインドネシアとのきっかけだ。駐 在中、又その後出張でジャワ島内は各地を回ったが、スマトラ島へはメダンと パレンバンに一回行ったのみ。いつの日かゆっくり見てやろうと楽しみにして いた。会社を早期リストラ退職し、機会は案外早くやってきた。「体力、時間、 金銭」がある今がチャンスと1997年9月1日、インドネシア独立50周年 のロゴが入ったTシャツとジーンズ姿でガルーダに乗り込み、小牧からジャ カルタへ飛び立った。スラマッ ジャラン!! <出発地点 バンダ・アチェへ> 9月3日18時50分、PELNI(国営船会社)のブキット・シグンタ ン号はジャカルタ、タンジュン・プリオクを出港。船室は大部屋の三等、毛布 が支給され82番のマットがメダンまで2泊3日、我が陣地となる。大音響の テレビ、インドネシアとは思えない明かり満載の大部屋だがタオルを顔にかけ 眠った。早朝4時15分コーランの放送で起こされ、お祈りが約5分続く。食 事は野菜の水煮(トマト、いんげん、キャベツ、人参、白菜等)が三食とも出 た。野菜にプラス、朝はゆで卵のカリー又は目玉焼き、昼・夕食はアヤムゴレ ン(鶏のフライ)、鶏カリー、羊のスープ、魚のフライかココナッ煮から二品。 味は薄味でマーマーだ。ご飯は食べ放題だが運動不足なのか?、お客は陸上と 違いあまり食べない。コーヒーと果物、パパイヤかスイカが付いて満足。スナ ン! インドネシアの船旅は環境(冷房、マーマーの飯)が良いので最高、友達 もすぐでき、情報収集も簡単。誤った情報も多いから要注意。この後、インド ネシアでは船旅が主になった。ジャカルタ−クパン、ジャカルタ−ウジュン・ パンダン、マナド(ビトゥン港)−アンボン、アンボン−ディリ(東ティモー ル)。難はチケットがすぐ売り切れる、時間がマチマチ、時には欠航もある。 売店の値段が高い、酒はない。ジャカルタからウジュン・パンダンへの旅は面 白かった。チケットは二等船室だったが欠航になり二日後の次船に乗り込んだ ら、エコノミー以外は満室で床で寝るはめになった。隣の家族と二泊三日を共 に過ごし退屈はしなかったが、いくら安いとはいえエコノミーは勧めませんネ。 9月5日13時、メダン、ベラワン港着。4時間遅れたぶん昼飯がでて一 食助かった。下船する客の後についてミニバス乗ったらベラワンの町で一緒に 降ろされアンパラス・バスターミナル行きのミニバスに乗せられた。よく喋る おばさんにスマトラホテルと告げると1000ルピア(40円)で値段交渉し てくれた。ミニバスはメダンの町をぐるぐる回り40分後に見覚えのあるホテ ルの前に到着。船が港へ着いて2時間後にはマンディ(水浴び)をしていた。 バス代は1500ルピア(60円)とローカル価格。ラッキー。 メダン、シシンガマンガラジャ通りのスマトラホテルはエアコン、マンデ ィ、朝食付きで一泊36000ルピア(1440円)と中級クラス。ジャカル タまで泊まった宿ではここが一番高かった。田舎で3500ルピア(140円) の宿屋に泊まることになるとは想像もしていなかった。ムラ スカリ!! 20年前にメダンへ来た時何処も回らなかったのでモスク、王宮、軍事博 物館を見学し、9月7日にあこがれのトバ湖へ向かった。ツーリストバスはブ ラスタギで昼飯休憩、所々に教会やカロバタックの高床式建物が点在するカロ 高原をドライブ。シ・ピソピソの滝とバタック族の王様の家を見物してパラパ ッに夕方6時に着いた。6時45分にサモシール島のアンバリータへ渡る船に 乗り込み、宿は船にいた客引きスウドン君の KING’S II に決めた。 5000ルピア(200円)と安い。7時半小さなアンバリータの港は真っ暗。 バスが待っているが運転手がいない。運転手は飯屋でトアック(椰子酒)を一 杯やっている。おつきあいとばかり、スウドン君を誘い飲んでいると、運転手 が「そろそろ行くぞ!」と声をかけた。 KING’S II はバスで5分。 ここが気に入り今回の旅でさらに2度寄り計13泊も宿泊した。詳しくはジャ カルタへの途中チャリンコで訪問する時話題にします。9月10日トバ湖を発ちメダンへ向かう。萩谷朴氏の「僕の大東亜戦争」 にでてきたプマタンシアンタールの病院の敷地らしき所を通った。ゴム、油椰 子カカオの林が続く。テビンティンギに入る。太平洋戦争が終わった1945 年12月に飯尾大尉他60人が殺され、日本軍はインドネシア人50人を処刑、 戦闘で150人を殺した町だ。メダンの旅行会社で車を乗り換え400キロ北 西のバンダ・アチェへ夜8時半出発。客は4人、運転手2人、荷物満載のコル トはメダン近郊は対抗車やベチャも多く飛ばせない。途中休憩を2度取り一路 バンダ・アチェめざしコルトは、時々牛や犬が横切る暗闇の道を突っ走る。深 夜にスピード計を見たら140キロだった。ベルトを締め恐怖から逃れるため 眠ってしまった。アワス ハティ ハティ 25ルピア=1円 (1997年9月現在)その2<ウェイ島サバン> メダンを昨夜出発し、牛や犬が横切るアチェ街道を100キロで飛ばした 荷物満載のミニバス、コルトは途中二度の休憩をはさみ、1987年9月11 日午前6時バンダアチェに到着。客を目的地まで届け、荷物を配達し終え、終 点の旅行会社に着いたのは午前8時になっていた。友人のシュハダ氏(名古屋 大学大学院留学生)の親類のアグス氏に電話するもメダンへ出張中で戻りは明 日か明後日らしい。奥さんに「2・3日サバンへ行ってくる。」と伝える。 手持ちルピアが少なくなったのでバンク・ネガラ・インドネシア(BNI) でT/CUS300ドルを換金した。 交換比率は1ドルが2800ルピア。 9月2日にジャカルタのバリ銀行では2920ルピアだったので少しルピアが 弱くなったのか? 銀行間で比率が違うので何とも言えない。インドネシアの 田舎ではまず両替は期待できない。バリなどの観光地は別として県庁所在地で も難しい。できてもレートがすこぶる悪い。 インドネシアは東西5100キロ、南北1900キロに約1万3700の 大小の島々が散らばっている。1945年8月17日にスカルノとハッタが独 立宣言し、以来「多様性の中の統一」がモットーだ。「サバン(インドネシア 北・西端アチェ)からメラウケ(東・南端イリアンジャヤ、現パプア)まで」 と歌われてる。現在、この歌に登場する象徴的なアチェとイリアンジャヤが独 立を求めているのは皮肉なことだ。 サバンがあるウェイ島へはフェリーがある。乗り場まではバンダアチェ市 内の魚市場からベモ(ミニバス)で約40分、2000ルピア(80円)。外 国人はパスポートを見せ、自分で乗船名簿に氏名、国名、性別、旅券番号を記 入せねばならない。エコノミー席のみで3500ルピア(140円)。300 人位が乗り込んだ。運が良いとルンバ・ルンバが見られるそうだが、この日は 雨模様、帰りは海が時化ていて残念ながらルンバ・ルンバ=イルカは現れなか った。イルカと言えばスラウェシ縦断の疲労をマナドのブナケン島で癒した時、 10頭ほどのイルカに遭遇、ボートの回りを飛び跳ねてくれた。スナン!! 2時間ほどでフェリーはウェイ島着。英語を喋る要領のいい客引き外国人 を自分のベモへ呼び込んでいる。 伊藤忠○○のジャカルタ所長の名刺を見せ ながら『島巡りをしないか!』とセールス。所長さん、自分の名刺がサバンの 客引きに使われているのを知っていますか?? ベモはフェリー乗り場から丘 を越えて北側へ向かいサバンに着いた。今夜の宿はプラウ・ジャヤ旅社に決め た。風の通る窓が無いシングル部屋、首の回らないファン付き、マンディ、ト イレは外、一泊5000ルピア(200円)。暑い。やっぱり200円の宿だ。 昨夜はアチェに車で移動したので充分眠っていない。やがてウトウト・・・ 敗戦で抑留されし三千の兵が住みたる丘今何処 『赤道直下の血涙』 大東亜戦争参戦の記録 河野誠著 心交社 昭和6 2年元スマトラ憲兵隊分隊長の河野氏の著書に「幽閉地サバン島」が出てくる。 戦争終了の翌年、昭和21年6月から翌22年3月末までスマトラの憲兵隊が、 サバンで抑留生活をした。上記の拙い短歌はプラウ・ジャヤ旅社の裏山で歌っ たものだ。帰国後調べたら抑留者は10個分隊で800人だった。 <イボイの海> 宿をチェックアウトして近くのツーリストセンターへ行くとベモの運転手 がイボイ=IBOIHへ行くから「乗れ!」と言う。昨日フェリーで一緒だっ た少年、フリー君がベモにいる。女の子2人とヘッドフォンステレオの兄ちゃ んが現れた。彼らも昨日来て親戚で泊まった。イボイとは我がファミリーネー ム、つぼい=坪井と似ており興味を持った。客は5人、サバンから北西方面に ベモで40分IBOIH着。1人2千ルピア(80円)、他の客4人が俺を見 つめる。まー、エエか。1万ルピア札を気前よく払う。何の関係もない人のバ ス代を払う、しかもごく自然に。特に大げさなお礼の言葉も無い。これがイン ドネシアの金持ちムスリムの使命か??イボイ海の家は3畳ほどのコッテージ。椰子の葉でふいた屋根、板間にマ ットを敷き蚊帳があるだけ。もちろんトイレもマンディも外。これで1万5千 ルピア(600円)はないぜ。雨が降り出した。何もやることが無い。1時な ったので下のレストラン「ママ」でインドミー(インスタントラーメン)とナ シで昼をすます。店の人に椰子酒は無いかと聞くと「近くの村にある。」との 返事。早速彼のオートバイで出かけたが農家の主人は外出しており手に入らな かった。この親切なオートバイの青年は警察官だ。アチェはアルコールは禁制 品で警察官の彼も大きな声でトアックと言えない。トアックが無いのでレスト ランでビールを飲む。ヘイネッケンの缶ビールが5千ルピア(200円)。高 い!! 昨夜もヘイネッケンの缶ビールだった。ウェイ島はヘイネッケン缶ビ ールが独占しているのか?? イボイ付近の海は禁漁だそうだ。ウニや熱帯魚が見られる。長期宿泊してい る南アフリカの旅行者曰く、『イボイはインドネシア一の海』。私はインドネ シアの海について知らないが、バリやロンボック、スラウェシのマナドなどダ イビングスポットと比較してイボイはどうだろう。日本ではウェイ島、サバン のイボイの海なんて誰も知らない。空港を建設中と言われているがシンガポー ルからシルク航空あたりが直接乗り入れすれば脚光を浴びるだろうが?? 翌朝コーランの大音響ではなく鳥の鳴き声で目を覚ました。猿やブタもい る。敬虔なイスラム教徒の多いアチェに野生のブタが? 人糞を食べるブタは ここではでは掃除人として重宝されるだろう。本人は安全が保証されており、 人間がいる限り食料がありイボイはブタの天国だ。豚肉を2週間食べていない のでブタを見て思わず食欲がわいた。昨日の昼はインドミーの汁ソバ、今朝は インドミーの焼きそば版。玉子と野菜を入れただけ。ご飯があれば充分だが、 欧米系の旅行者がメインだから仕方がない。 ウェィ島ではサバンとイボイに1泊しただけでバンダアチェに戻ることに した。アグス氏もメダンから帰っているだろう。今回はスマトラ島のアチェか らジャカルタまでチャリンコで旅するのが目的だ。まずはチャリンコを手に入 れるのが先決。サヨウナラ イボイの海よ! サンパイ ジュンパ ラギ!
ウェイ島へのフェリー イボイのロッジ イボイのロッジの中もどる