『 い ま そ こ に あ る 未 来 』

萩 野 正 昭

10年、一体なにをしてきたのか?
1992年、私は電子的な出版という新しいメディアをつくりだす夢を抱いた。技術革新がいくつかの示唆を与え、誰でも一人で「パブリッシュ」というコミュニケーションの原初形態を手に入れることができると確信した。ならば実践してみようということで志願してこの分野に我が身を進めた。なにをしてきたのかは、ここでなにが生まれたかということを通して語ることができる。これを解説し、来た道のなんたるかを話してみたい衝動に私は駆られる。夢とはなんだったのか。
なによりも大きかったのは、一人でやれるという希望だった。この言葉の中には万感の思いが込められている。いかに一人ではできないか思い知ってきたからだ。いまのメディア状況の中でインディペンデントに成立することの難しさは誰もが知るところだろう。情報でさえその流通経路を握られてきたことを考えれば、支配的に形成されたメディアに立ち向かうことはできないことだし、もし徒党が組めたとしてもインディペンデントという独自性を貫くことは多勢がゆえに翻弄される。小さいものであろうとも一人でまともな発信ができることは一つの夢の実現だった。
一人でやれることのなかにはいくつかの意味が含まれる。
作家が一人で創作するような、品質管理上の快適さがまずある。誰にも邪魔されず自分の力で対象にむかう集中ができるということ。一人なら費用的な負担を抑えられる。これは一番の根本問題だろう。品質管理ができ、費用的な抑制が利き、身軽に流浪し、時間・納期のコントロールをもって配信でき、読者をつかみ再生産のための集金力も備える、となれば一つの完結したメディアの体をなす。これらがすべて電子的な技術によって可能となるならば手を出さない方が愚かとしかいいようがないではないか。電子的な出版を実現させることは、まさに小さなメディアの必要をかなえさせる夢だったのだ。

たった一人の術をみつける

私のシナリオには以下のような筋書きがたてられていた。
1. 自分一人でやる自覚をもつ
2. 術をみいだし身につける
3. 確立した方法を分かち与える
4. 流通を起こし対価を得る
5. 再生産の歯車を廻す
シナリオ通りにことが進まないのは世の常だ。だからうまくことが進まなかったとして感傷的になどなってはいけない。どのあたりでこのシナリオが狂ってきたのかは明らかで、3.の「確立した方法」とか、「方法を分かち与える」からだった。いうならばここは最初の山場なのであり、すんなり行くはずもない。
そう考えるなら、山場にさしかかる勾配の道で自分一人でやるということと、「術をみいだし」た、あたりまでをなんとか基準として定着させたのは大きな意味がある。これは電子的な出版が人の心の中に育ませた共有財産として誇るべき10年の成果だったろう。

私たちがやってきた例をもって説明する必要がある。もっとも初期の段階(1989年)に作られたとてもシンプルなものを紹介したい。
『ベートーベン第九交響曲』というオーディオCDがある。ロンドン・ジュビリーレーベルのもの、特別なものというより数多ある『第九』のうちの一つだといっていい。これをCDプレーヤーではなく、コンピュータのCDドライブに置くと、音の再生と解説の本が出現して、二つを強い関連のうちに示すことになる。
私たちがやったのは解説部分を「本」としてモニター上に表示させ、CDとのリンクを取ることだった。これを『CDコンパニオン』といった。
作曲された譜面があり、演奏の録音があり、それがCDとしてあり、研究論文や本があり‥‥‥というかたちで記録が別々の媒体に分けられて存在している。これらを一つのまとまりとして提示でき、相互に関連をもって文脈をつけるなど今までに考えることもできなかった。やれることは一人一人が各媒体から情報を取り出して、自分の脳の中で関連のリンクを張ることだった。そんなこと簡単には歯がたたない、誰もができることではない。

テレビがやってきたのは人々に成り代わって咀嚼してみせることだった。
『オーケストラがやってきた』という日曜日の朝の人気番組があった。山本直純や小沢征爾という指揮者が、身振り手振りでオーケストラによる音の再現をし、時には自ら語りかけて文脈をかたちづくり、テーマを解説した。これなど人に代わって、一ランクうえの専門家がリンクしてみせるという構図だったろう。おもしろおかしく誰もが楽しんで学ぶことができるエンターテイメントを仕立ててくれるのがテレビの力だった。
私はある意味でテレビ番組を敵視した。情報の流通を支配し、人材も資金も機械もとあらゆるパワーを放送局に集約させて、増大をはかる彼らの姿勢を良いものとは思わなかった。我慢ならないのはその大衆追随性だった。おもしろおかしく仕立てることに汲々としていることは、この先どこかに大きな破綻があるように私にはみえた。だからどんなにテレビ番組が上手にできていても、これが私たちみんなの将来と深くかかわりあうわけがないと思った。むしろ私たちが理解を得る方法は、私たち一人ができる術を追求することしかないという気持ちだった。
『CDコンパニオン』は一人でやれるという私たちの切望にかないはじめて期待できるパフォーマンスを生み出した。アラン・ケイをして「初めて論評するに足るマルチメディア作品」といわしめたものだった。
一人でやれることの一つは、すでに培ったものを新たな土俵で増幅するという意味あいをもっていた。「ありもの」を利用するといってしまえばなんとなく蔑んだもののいいように聞こえるが、これはまるで逆で、すでに誰かが培った「ありもの」への愛着、深い敬意からしか生まれようのないものだった。必要なのはこの知と事実に注目することであり、これを自分たちのものへ引き戻すことなのではないかということだった。電子的な手段こそ「ありもの」に新たな文脈をつける方法だと私たちはおもった。そしてこれを誰もが「パブリッシュ」できるメディアとすることによって、一人でやれることの意味が問えるはずだと位置づけた。
語りうる文脈とは知識であり、知識がどこにあるかといえば、多くの場合、まともに生きる人の内部に潜んでいるだろうということだ。『第九』の例では、UCLAの音楽学部教授だったロバート・ウィンターが知識の源だった。電子的な出版を考える上でなにか別の知識がこれに勝り君臨するようなことはなかった。だからこそウィンター教授の『CDコンパニオン』をみた別の知識の持ち主が、この電子的な出版の方法を、なんとかできる自分の方法として興味を感じることができたのだ。
同じ方法を通してシューベルトの歌曲『ます』の『CDコンパニオン』がつくられた。さらに大胆にも西洋音楽の始まりからひもとく音楽史について5巻シリーズの電子出版企画も計画された。(*アラン・リッチの『ぼくならこう聞く』)
これらを一人でやったのは、ロサンゼルスで定評あるクラシック・ラジオ番組を担当していた、当時68歳の評論家だった。

一切を捨て去ってもいい

もう一つの例をあげておきたい。
CD-ROM版『A Hard Day's Night』だ。ビートルズ映画でおなじみのリチャード・レスター監督の映画(邦題:『ビートルズがやってくるヤア!ヤア!ヤア!』)を電子的な出版物として考えてみようとしたものだった。
私たちの会社ボイジャーは、1984年に米国西海岸で生まれた。80年代の第一次ニューメディアブームの中でレーザーディスク(LD)による出版事業をはじめた。もともとパートナーがJanus Filmという映画の権利ビジネスを行っていた関係からだった。
さまざまなクラシックな映画をLDとして発売した。RKOでのオーソン・ウェールズの映画『市民ケーン』『偉大なるアンバーソン家の人々』、フレッド・アステアの『スウィング・タイム』などとともにビートルズ映画もあったわけだ。
米国からみた海外映画のLD化権もかなり持っていた。ベルイマンの映画、トリュフォーの映画、そして日本映画についても黒澤明の『素晴らしき日曜日』から『七人の侍』『隠し砦の三悪人』、小津安二郎、市川昆、鈴木清順もあった。
こうした秀作をコレクション用として出版、販売したわけだけれど、LDというメディアにおいては、高品質や本来の画像比率を保つノートリミング版として提供することがやれることのほとんどで、これを『CDコンパニオン』のように、新たな文脈へ導く手段はまだ十分到達できてはいなかった。
LD、CDときて、CD-ROMになり、一般にも手が届く最初のデジタル化された映像=QuickTimeが表示できるようになった。そのとき、私たちが取り組んだものがビートルズの映画『A Hard Day's Night』だった。モノクロだったが90分の映画一本をまるまるQuickTimeムービーにしたというのも初めてのことだったろう。
初期のデジタルムービーの画像はサイズが208×156という小窓のようなフレームだった。これが映画か、と識者は唖然とした。その割には台詞や音響は明瞭だった。これは映画の鑑賞というよりは、明らかになにか別種のコンテンツへと発展するものではないかという予感がした。

直感として私たちは「本」がもつ一人の編集の力を電子的な出版物の上に投影しようと必死になっていたことを思い出す。「本」をまねたのではなく、私たちは一人の人間の手のなかに映画を取り戻してみたいと願望していたのだ。もしそれが自分の手のひらにコントロールされる可能性があるならば、他のいかなる要素も捨て去っていいのだという思いがあった。大事なことは自分がこの映画についてなにかいえるという幻想をもつことであり、天下の映画を虫けらのごとくダウンサイジングしてまでも自分が出版できるのだということを力強く世の中に突き出したかったのだ。

「ありもの」の輝き

そっくり同じ手法を使って、日本でも『The Complete OZU』とか『書を捨てよ、町へ出よう』という電子的な出版が行われた。
『The Complete OZU』とは映画監督小津安二郎のすべてということなのだが、出版元が東芝EMIという会社で、ビートルズのレコード発売元であったことから、『The Complete Beatles』をもじってこんな英語の題名になってしまった。
私たちはドナルド・リチーが書いた『小津安二郎の美学』(フィルムアート社)という本に注目していた。映画のシーンの引用が詳細に書かれたこの本は、いうならばことごとく映画を見た人の記憶を頼りに成り立つとしかいいようのないものだ。映画を見たこともない人にとって、引用の接点はない。引用された記述に対して逐一映画の該当箇所をリンクしてやったらなにが生まれるのか、これが主題となった。
なに一つアイデアとして新鮮さもなく、あまりにも当たり前すぎておかしくもないこのようなやり方を平然と行ったのは、ばかばかしかろうとなんだろうと誰もそんなことやれなかったという事実があったからだ。もしやれているなら、ドナルド・リチーご本人がまずやったはずなのだ。
リチーには本しかなかった。やがて時代がリチーの仕事をより明らかに知らしめる本以外の術を生み出したとき、本とそれ以外の術は反目するのではなく、互いに引き合う関係になった。ひとつの「ありもの」は再び輝きをとりもどすことになった。
「ありもの」は、すでに先行して存在する誇るべき仕事の意である。この仕事が少なくとも私たちに大きな機会を作ってくれたのだ。かっこいいだのきれいだのという同意などものともせず、愚直であろうと一人の意思で堂々とやれるという痛快さが私の全身をビリビリと走っていくようだった。

『書を捨てよ、町へ出よう』は寺山修司の代表的作品の題名だが、CD-ROM版は彼の作品のいいとこ取りをしたようなものだった。寺山修司が自作の詩を読む「肉声」が聞こえる本などまずないだろうし、「サザエさんの性生活は‥‥‥」などと挑発的に話しかける講演が聞けるだけでも彼を理解する十分な手がかりになるはずだ。
残念なことに寺山修司はすでに故人だったが、九条映子、J.A.シーザーなど多くの関係者が深くかかわった。一人でやることが編集者やライターを集め、小規模の協力関係を築く方向に動き始めていた。そうでなければCD-ROMに収録される多数の資料は集めることはできなかった。「ありもの」に出会うことは一人の力を強化し、協力関係を増幅させるはじまりでもあった。
新しいことは随所に判断を必要とされるのだが、なんだか分からないというのも事実だった。『A Hard Day‘s Night』をCD-ROM化するときも、映画のプロデューサだったウォルター・シェンソンは許可を与えるべきかどうか判断がつかなかった。ボイジャーの執拗な説得と未来を語る口吻に押されて、自分では分からず仕舞のうちにLDの権利期限いっぱいという条件でなんでもやれといったのだ。
こうした局面に際して、言下に切り捨て受け入れない精神の持ち主もいる。これがほとんどだ……が、どういうわけかなんとなく、こっちへこいと木戸を開けそっと通してくれるような人が必ずいることを経験した。理解をしてくれたというのではない。がんじがらめの社会の中にあってなお、憐憫の情をもって相通じる苦労を共有できた人たちなのだ。
電子的な出版は無一文の中からスタートし、高い理想を掲げ、一人一人を相手として動いてきた。一人を強調したのは、なによりも自分自身に対して叱咤激励したからだ。そして同じような一人一人のいることを、常に意識していたかった。

援軍たりえぬ技術革新

私たちが関わった作品を例にあげてきたが、いまあらためてこのCD-ROM作品をみてみると、徹底した「本」の体裁であることに妙な驚きを感じる。そこには初めて手にしたデジタル映像の成果を、禁欲的なまでに「本」という過去あるメディアの中に格納しようという意図が紛々とする。「本」というタガをはめることによって失うものを得るものに転化できる嗅覚が働いているような思い切りだった。このような共通したデザインを、確立した手法としていこうと考えるのは自然なことだった。
このあたりから私たちのシナリオは山場に差しかかる。そしてシナリオは狂いはじめる。方法は確立しないどころか、バラバラになり、細かく分断されたアイデアに技術が後押しし、各社各様、独自の方法として自己主張がなされていく。
テクノロジーこそ電子的な出版を保証し、私たちの夢を実現させる援軍だと思ってきた。しかしながら10年たってみると、技術革新は単純に援軍とはいえず、むしろめまぐるしく変化する技術の進歩が普及を妨げる大きな矛盾として感じられるようになった。
出版とは、変化に富む内容を、変化のないシステムに流通させるものだ。多種多様という内容を、一様に本という一つのビークルに納めるという極めて単純なシステムに基づくものであり、冊子体(Codex)という構造が生まれた昔から本の基本システムはまるで変わっていない。つまり変わる内容と変わらないシステムが組み合わさって出版は成り立たってきたということができる。
電子的な出版のビークルは、見た目はどうあれコンピュータであり、コンピュータはこの10年、変化ばかり繰り返した。私たちは、ビークルの形態には敏感だったが、変化に富む見栄えを押し出すことに夢中になり、基底にあって内容の表示を司るものがどうなっていくのかは関心を示さなかった。結果、蓄積されるどころか残るであろうすべてを失った。
虚心に私たちの作ったものをみたいと思い、苦労の末にそれを手にしてくれても、さらに苦労を重ねなければみることもできない。出版物というなら最低だ。
10年必死にやってきて、今ここで残らないとはショッキングなことだ。けれど、そもそも残すべき代物であったのかどうか。辛辣にこう問うてみる必要もあるだろう。
今振り返ればすべてが大いなる試作品だった。技術革新に翻弄され、舞い上がったり落ち込んだりと出版物として確固とした土壌ももたず揺れ動いた可能性の見本だった。ここにあるのは残るべきコンテンツなのではなく、課題なのだ。なにを残すべきかも分からずに、欣喜雀躍、夢のあとの光景をいまみているのだ。それでも夢を抱いた私たちが手に入れたものは、一人でやれることへの確信という立派な報酬だった。

出版には新しい世界があるはずだ

そもそも電子的な出版の萌芽は、一人というかたくな拘りを糧に、乗り越えるべき大きなメディアの欠点を意識するところからはじまった。一人でやれることの術が身についたとあっては勇気も出てくる。ただ、一人というかたくなな拘りは、意固地な狭隘となる。
『本とコンピュータ』というとき、常にそこには調和させるモメントよりも対立する構図があった。コンピュータの側にあった電子的出版は常に本と対立するものとして置かれていた。電子本をバカにする二つの方法がある、と津野海太郎がいみじくもいった。本が到達した豊かな高見に立って電子本の貧弱さを指さすことと、出版界が陥った「今ここにある危機」を脱するワン・オブ・ゼムに電子本を限定してしまうことだと。この仕打ちは痛いほど経験した。どちらも広がりとしての出版から電子的なものを排除するものだった。そのなかで一人を鍛えることがどんなにか人を意固地にさせていったかは想像していただけるだろう。
こう考えると、求めるべきは新しい出版というおおきな括りで考えるべき概念ではないかとおもう。電子的な出版はこの新しい出版という大きなうねりの一部分をになうものではなかったか。
新しい出版を考える上で、私たちはすでに多くの示唆ある実例を見はじめている。アメリカ議会図書館のアメリカンメモリーがもたらした電子的資料の全的保存、そのための策略と具体化のための壮大な構想もそうだろうし、『ブルックリン・ブリッジ』という教育映画をひっさげて現れてきたケン・バーンズにも注目すべきだろう。米国公共放送機構(PBS)での彼の一連の活動は目を背けることのできないメディアに起こった一大事だ。テレビでありながらテレビに集約すること無しに、点在する個々へ届ける着実なメッセージへとつながっていった事実。ここではテレビもまた電子的な出版の一つを担う有効な仕組みとなっている。これらはすべてが新しい出版という考えにあたるものだろう。
いくつかのヒントは私たちボイジャーがやったCD-ROM作品の中にも見いだせるはずだ。これらすべてに共通するものは、作品を作ることがまた別種のなにかを着実に生むということに向きあう人間の意志なのだ。それは人々のメンタリティーの中に育まれるだけではなく、具体的な利用を可能にし、人々に利用を催させる新たな「ありもの」の創出なのではないだろうか。
一人でやることもまたそこに確固と位置づけられる素養だった。

03.08.06

パンフレット

 

イラスト:小島 武

 

 イラスト:横尾忠則