電子本の発見 詳細



ボイジャーCD-ROM『機械時代における人間性の擁護』より
随所に登場するドン・ノーマン博士。現実のスケールを無視できたので、本の表面を自由に歩いて説明しているかのような妙な親しみが感じられた。コンピュータのデスクトップのメタファーについて指差してみせたり(左)、本のメタファーを取り入れたボイジャーの電子本の表示画面についてその一つ一つを説明したりしている(右)。

電子出版をすすめていくうえで参考にすべきいくつかの研究があったわけです。私たちも読み、学びしたのですが、そのすべては紙の本によって教えられるものでした。紙の本の偉大さは、ですから身に滲みてわかったのです。そのうえで、これを私たちなりのやり方で咀嚼しようとおもいましました。紙の本に記録された考えを電子的な時代にどう継承させていくことができるのかがテーマでした。
すでに音声との一致については「CDコンパニオン」でやっていましたから、こんどは映像をとりこもうとしました。単純にフレームに切り取られた映像ではなく、本の中に“めり込んだ”映像を考えてみました。映像のフレームとは、ある意味で一つの区分けであり、融合というより境界という感じで受け入れられるものですから、本に“めり込む”とはならないのです。
そこで、現実のスケールを無視して“本”のうえに人物を登場させてみました。背景を透明に抜いて、本の地色に同化させることによって違和感を無くした状況をつくり、身振りや語りかけをさせてみたのです。

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ドン・ノーマン博士本人が登場して説明する。博士が手を差し出すと、掌の上に「時計マーク」が現れる。そしてアクセス待ちの「時計マーク」について解説する。本の中に“めり込む”人物像と対象アイテムの出現は、今まで以上に強烈な印象となった。博士をスタジオでブルーバックで撮影し、背景を透明に抜いたQuickTimeムービーをはめ込む手法でこうした効果を演出した。

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「マービン・ミンスキー・心の社会」CD-ROMより
ミンスキー博士が脳の回路を示した図の上に登場して話しかけてくる。図の中の人物によって、無機的な図が親しみをもって受け入れられる事実を私たちは発見したように思った。本の中に“めり込む”映像、一体それがなにを意味するのか、これからの一つの課題となることだろう。

本であるということ、本に似ているということ、本だけではないということ、この点について触れてみる必要があるとおもいます。
電子出版はいつも本を越えたいという欲望をぶら下げて歩いていました。シンプルで“ローテク”ともいえる紙の本に対して電子本は“ハイテク”だと考えていたからです。最初の頃は、威力をみせつけたいがあまりハード指向の“ハイテク”が蔓延したのです。しかし全ては短命に終わりました。そこで少しは考えるようになってきたのです。
むかしながらのおとぎ話のような題材をつかい、“本”を舞台にして、本以上のファンタジーをつくろうとした試みがありました。「ルル」です。
ボイジャーのパリ事務所にいたアリーン・スタイン(その後独立してOrganaを設立)が企画の中心となり、これにフランスの大手出版社フラマリオンが資金的バックアップを与えて大掛かりな発展をしたのが「ルル」でした。
ヨーロッパ調の美しい本の中に住む少女を主人公としたもので、“舞台”が本なのです。本というパッケージされた世界の閉塞性を下敷きに、そこから飛び出るという願望を、本を越えるイメージとしてちりばめた仕掛けをもっていました。典型的な例は、挿絵が動くのです。単純に動くだけではなく、アクセスの仕方によってあたかも変幻自在に動くかのようにつくられています。特に、本は視覚的に平面で挿絵も二次元のイメージですが、挿絵が三次元立体となって起き上がり、平面的な本の上を随所に動き回ります。これは見るものに素朴な感動を与えました。
 

 「LE LIVRE DE LULU(ルルの本)」

トップページが開かれたところ。懐かしい昔の本の雰囲気をただよわせる。作者のロマン・ビクトル・プジュベ氏はこれが彼にとって最初の電子出版作品だった。電子的な本に対するプジュベの率直な希望や願望が込められたメッセージとなっている。不思議な新鮮さが人々を驚かせた。



暑さにオーバーヒートしたロボット「ネモ」は、本の上に立ち上がって自分でページをめくり、原生林が記された66ページへいこうとする。




二次元の本と三次元に表示が調和して、童話的世界に新鮮なファンタジーを加味させている。この後、ロボット「ネモ」は水のなかに入るのだが、滴などが歩き回るロボットの後にしたたるという細かい演出も施されていた。

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フレームで切り取られたいわゆる映画フレームの映像を本のうえに表示するのではなく、本にめり込ませて対象を自在に表示するという考えは、何度か試みられた手法でした。
ドン・ノーマン博士の「機械時代における人間性の擁護」でも、マービン・ミンスキー博士の「心の社会」においても、同様のことは試みられました。難解な専門書をひも解く手段としてこの方法を利用するのか、あるいは児童書のファンタジーとして使うのか、手段の適応ということでは、選択の広がりは着実にもたらされつつあったということでしょう。 しかし、ここで気をつけねばならないのは、手法があたえる印象というものです。手法が人の理解という極めて実直なものと結びつく場合は、同じ手法の繰り返しはポジティブに受け止められます。けれども、それが人の予断をさえぎるショックや開放感を伴う効果として利用されるとなると、同じ手段の繰り返しは予測可能になり、飽きられ廃れるものとなりがちだということです。
「ルル」は多大の費用を注ぎ込み手の込んだつくり込みをしましたが、手法は限られたものです。プロデューサーは一定の手法を繰り返して、次々と違うお話に適応させていきました。その結果は、作るたびに売上を落としていくということに終わっていったのです。
退屈とも思われる本がもつ形の単純さ、素っ気なさ、定型化は、本というシステムを確固とした不変として人々には受け入れられたのだと思います。退屈はある意味では重要な鍵です。退屈だからいいこともあるのです。これを理解するのはかなりの力量を必要とします。甘いものがうまいものとしか認識できない子どもの味覚を越えるような、ある皮を剥く勇気と資質を必要とします。
単純だけど不変であったシステム……だから作家は一心に精力を注いで書き綴ることをよしとしたのでしょう。こみいった筋でも縦横無尽のファンタジーでも、中味にうつつをぬかしてよかったのです。一番シンプルな文字という道具を使って……。
システムが中味と深く関わるということは、システムのパワーで力ずく変化を起こし、人はびっくりして一度は目を向けるものの、やがては飽きてシステムそのものをよりパワフルに変化させる衝動にかられることになります。限りない刺激 “順応”との戦いです。そして前へ前へと限りなく進むことになります。市場も確立していない電子出版において、このことが可能だったとはおもえません、映画やゲームならいざ知らず。
 


アリーン・スタイン(左)とグレッチェン・ジョーンズ(右)
アリーンはボイジャーの創立者の一人で2児の母。家庭と仕事を両立させ、数々の名作をプロデュースした。常に慈愛に満ちたまなざしと、強烈な闘志をあわせもち、多くのスタッフの信頼を得た名実ともにボイジャーを代表する人物だった。現在は米国の出版社Scholasticの海外事業部長となっている。
グレッチェンは日本文学を専攻し、短期間だが家政学院大学で教鞭をとった。日本の学生の不勉強にあきれたとよく愚痴をこぼしていたことを覚えている。 ボイジャー・ジャパンにはスタッフとして参加し、この間『ヒロシマ・ナガサキの前に』など、日本語版制作に大きな力を注いだ。現在はメリーランド州立大学の日本語日本文学の助教授をしている。