CDコンパニオン『シューベルト歌曲・ます』のカバー。 ロバート・ウィンターの『ベートーベン第9交響曲』を見たアラン・リッチがボイジャーのスタッフと作ったもの。楽理的な解説を一切省き、耳で確かめる鑑賞の手引きとしての本を完成させた。ゲームのつくりなど随所に、アラン・リッチならではの茶目っ気たっぷり「親爺」ぶりが発揮されている。 <関連文章> 「ありもの」を別物に置き換えることに何の意味があるのか、あたかもそれはナンセンスといわんばかりの非難を受けました。それは創造行為ではないというのです。既存の本を電子化して、On Screenに読むことに何の意味があるのか、意味などないと。 しかし、意味があるのかないのか自分でその作業をやってみることは、馬鹿げているようで実は大切なことなのです。つらいおもいをしてことに当たらずして、意味がないなどというべきではないと知っただけでも、私たちには意味があったというものでしょう。 コンテンツとは何なのかを知ったのは、馬鹿げたつらい作業をかさねた結果つかんだものでした。コンテンツとはコンテントとコンテントに文脈をつけることをいうのです。コンテンツという固まりがゴロッと転がっている場合もあるのでしょうが、多くの場合はそこに文脈を張る幾千本もの細い糸ともいえる読者とのつながりこそ、文脈の正体なのです。 ボルヘス(Jorge Luis Borges)は書物を定義してこういいました。書物とは、読者との間ではじめられる対話であり、読者の声にオーバーラップするトーンであり、読者の脳裏に焼き付けられる残像だと。書物とはそこに記された一連の言語構造体なんかではないのです、読者の脳裏に記される残像なのです。 「ありもの」に新たな文脈をつけるための方法として、私たちの電子出版は位置づけられました。一つの代表的文脈として、それを語りうる知識というものがあるでしょう。知識がどこにあるのかといえば、多くの場合、人の内部に潜んでいることが多いのです。 『アラン・リッチの“ぼくならこう聴く”』というキャッチフレーズを入れて『クラシック音楽ガイド』シリーズが企画されたのは、少なからず知識を持つ人と技術との調和を再構築したかったボイジャーの意志でした。知識を持つ人が必ずしも技術の達人ではない、しかし二つが融合して知識を共有できるかたちに流通できるなら、潜んでいるものを表に出すことができるわけです。両者は今こそ手を組むべきではないか、と。 ZDNet 週間ドットブック より
シリーズ第一弾“バッハ以前”の画面より
モノクロ、512×384のサイズ。目次、ページ送り、ノンブル、ページ角折り(dog earといった)、クリップなど、本のインタフェースを意識していることがわかる。『オーケストラがやってきた』というテレビ番組を制作していた「テレビマンユニオン」のスタッフが日本語版に参加していた。
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