ボイジャー・ジャパン創立期のパンフレット詳細

エキスパンドブックを発行するに際して作った広報リーフレット。
当時、何をやったら有効なのか全く分からずに、ただただこのようなメッセージを流すことだけを行っていた。

松本弦人が快くこの仕事に力を貸してくれた。彼は私たちの意思を気軽に飲み込んで、一つのコンセプトをリーフレットに込めてくれた。いま、これを読み返すと胸が詰まる思いである。一口に言えば若気のいたり。だが、この無鉄砲な意気込みこそ全ての源に通じているような気がしてならない。なにかに挑戦するなら、一言二言思い切って言いくさるぐらいの覇気があってしかるべきだろう。我らが電子出版とは、ひと味もふた味も違っていることがこのスタート時点で明らかになっていると思いたい。

岩波新書や角川文庫に発刊の辞があるように、私たちも会社の発足にあたり汚れきった社会に向かって肩肘張った一言を叩きつけてみたいと思っていた。その発想はいいとして、出来たこととは結果、吹けば飛ぶよなパンフ一枚だった。A2レター紙を3回折り畳むとランダムハウスのポケットブックと同じサイズになる、なんて自賛したのだが厚みは当然空っぽにちかいということだった。
松本弦人がこのパンフをデザインしてくれた。彼は私たちの口吻に耳を傾け、遠い宇宙を旅して飛来する星屑を象った。よく見ると星屑の一つ一つが文字になっている。よーく見ないとわからない、いや愚か者には見えないかもしれない。文字はかたまって星雲をなし、拡散して流星となった。紙は生成りで木目のざらつくもの、色がのると洗い晒した木綿のように親しみと強さを感じた。できあがったそれを手にしてジーンときた。よーし、すべてを逆手に旅に出よう、一瞬だったとは思うが家出少年になれた。ざまーみィとばっかりに詰め襟の胸元乱して映画に出たような錯覚だった。松本弦人は笑っているだろう。
パンフの星屑を背に電子出版という私たちの横紙破りな計画はスタートした。お陰というべきか、私たちはみんな粋がってすっ飛んでいってしまった。デザインの力とはこういうものなんか…?

『松本弦人の仕事と周辺』(六耀社 1997)より



日本語版エキスパンドブック発刊への宣言 1993年12月

世界には、あなたの本を読みたい人が必ずいる

どこかで必ずあなたの本を待つ人がいる、そう信じることからエキスパンドブックは生まれました。あなたの本は決して多くの人々には読まれない、そう嘆くことからエキスパンドブック・ツールキットは創られました。紙と印刷という人類の偉大な発明がありながら、冷たい機械をとおして言葉を読み取る辛い方法を選ばねばならなかったのは、売れないとわかっても声を発することを諦めたくなかったからです。人間として私達が世に送りだすすべてが祝福されるものばかりではない、しかしその中にも忘れさることの出来ない大切なことが消えずに残されています。どんな方法を使ってもこれらを届けることは私達の仕事の一つではないでしょうか。テクノロジーを頼った理由がここにあります。
500年前、生まれたばかりの活版印刷は稚拙な揺籃期の技術にすぎませんでした。ルネッサンスのヒューマニストは羊皮紙と手写本を愛し活字本を軽蔑していたといいます。確かに当時の活字による出版は貧弱な手段でした。しかし毅然と本をつくる意思がたとえ貧弱であろうともその手段を必要としていたのです。後に花開く活字文化への確信は稚拙なものの中にさえしっかりと息づいていました。ワープロが姿を現したとき、どれだけの人がこの機械で字を書く毎日を想像したでしょうか。この10年間に言葉を書くという生活スタイルは確実に変化しました。

言葉をおおいに使いたい、言葉を大切な伝達手段と考えるのは、それが私達の一番熟達した手段だからです。満天の星空のような、無数の言葉の宇宙から私達は苦もなく一言一言を紡ぎだします。これほど力ある幅広い可能性をいまだたたえている手段がほかにも与えられているでしょうか。この言葉をもっと自由に使うために新しいテクノロジーを利用しようと思います。
やがて言葉を読むというスタイルにも大きな変化がおとずれることでしょう。最も期待するのはどんな機械を使うかということではなく「書く」ことと「読む」ことの間にある隔たりが限りなく近づいていくことです。私達は書き手であり、同時に時代の証しを探る読み手でもあるのです。それが人間としてのあたりまえの生活であることを願います。エキスパンドブックはそうした試みの一つとしてあり、この仕事に参加するすべての人たちに利用されることを待っているのです。



『エキスパンドブック ガイドブック』前文   萩野正昭

身捨つる祖国はありやニューメディア

              

映画がはじまるとクローズアップされた定期入れの中にありふれた学生証が見えてくる。周囲のノイズから電車の中だということがわかる。小刻みに振動しながらフレームを出入りする写真の像。
「留学生チュアスイリン」というドキュメンタリー映画の冒頭だ。時々こうしてシーンが私のアタマの中をカタカタと通りすぎていく。風景を眺めでもするように私はそれを眺めている。
学生証の写真の主はチュアスイリン自身である。国費留学生としてマレーから来日したが、在日中の活動を問われて、その資格を剥奪され、同時に退学処分となった。大学が揺れ動き大規模な紛争が勃発した60年代後半、それに先駆けて千葉大学で起こった一留学生の事件をこの映画は克明に記録していた。異国にあって、祖国の叱責を受けた一人の学生の孤独な闘いがどれほど困難であるか、たった一人でものを言う行為がいかに情けないほど無力に見えるか、揺れ動く学生証は切々と不安を伝えた。私費留学生として残留を望むが、留学資格喪失者に大学は冷淡だった。退学になれば国外退去となり、祖国への帰還は重罪を意味した。チュアスイリンは訴えた。やがて彼を支持する一人が生まれ、それは二人となり、ついには教室を満たし、大きなうねりとなって大学を圧倒していった。

おそらくこの映画を見た人は少ないだろう。日本のテレビ局は放送などしないと思う。ビデオがあるという話も聞かない。何かの機会に私も偶然見たのだろう。それとてももう20年以上も前、たった一回のことである。
カタカタいって今も私の頭の中をこの映像がめぐるのはなぜか。二つの理由がある。まず、何といっても一人の意見がついには多くの力を獲得することの原形を教えてくれることだ。勇気をもって正論を吐くことの大切さ。何でも最初は一人なんだということ。そこがしっかりしていなければ駄目だ、野合して衆を頼ってもはじまらない。
見方を変えて一人の意味を考えてみる。国費留学生というエリートとして、チュアスイリンが目指していたものが何であったのかは知らない。しかし資格を剥奪されてたった一人になったとき、一人の人間が生きることにもっと胸を張るべきだと彼は感じたに違いない。道に倒れてはじめて人は何かを掴むチャンスを得る。国を離れ、国に咎められ、大学から処分され、まるで蹴倒されるようにして孤立していることは赤子のように無力に見えるかもしれない。しかしこの事態の中に人として学ぶべき多くのものが潜んでいることをチュアスイリンは感動的に伝えている。

頭の中で映像がカタカタと鳴り続けるもう一つの理由は、映画それ自体にある。誰がこの映画をつくったか、何故つくったか、という自問自答を私は何回となく繰り返している。監督は誰かなどということを気にしているのではない。報われない多大の努力を一留学生に注がせたのは人の心のいかなる部分なのかをどうしても知りたかったのだ。表現することを生業とするなら、どんな端くれであろうとこの答は肝に銘じるべきだと思った。
文字の表現と比して映像がかけ離れて非日常の表現手段であったのは、映像が特殊で扱いにくく、高価で、複製はおろか上映することも放送することも自由ではなかったからだろう。従って、映像を使うとき多くの人は独特の気負いと選ばれた者の高みからの発想をしてきた。「生活綴方」という文字の世界での発想はあっても「普段着の映像」などというものは存在しなかった。それだけ映像は隔絶された一部の者たちの手に握られていた。一対マスという図式を堅持した視聴形態は、制作者たちに送り出す内容を常にある論理で厳選させていた。一度にできるだけ多数の人に見てもらわなければ存在理由としても経済効率からも意味をなさない。この論理に立脚すれば、たった一回、少数の人にだけ見てもらえばいいテレビ番組など考えられはしない。

映画「留学生チュアスイリン」はこうした論理を一切無視していた。一度に多くの人々に効率的に伝達しようとするよりは、例えその数は少なくとも本当に見てもらいたい人に届けようとする意思が優っているように思えた。制作費などどれほどのものがあったのだろう。生フィルムを買う以外おそらく無いに等しいものではなかったか。上映でさえ制限された教室や集会場などの機会に狭められていたのではないか。そうした無い無いずくめが衆におもねた一切の態度を削ぎ落とさせ、映画という表現方法を使いながらも一人一人に直接届けられる映像メディアの新たな一面を強烈に意識させた。それは書物の出版物を彷彿とさせたし、映像が陥っていた一定の考えに明らかな楔を打っていた。

映画が本であったら、いや映画が最後には本になることができたら、私は今書店から「留学生チュアスイリン」を取り出し、読むように見ているかもしれない。あるいは見るように読んでいるかもしれない。そうすれば何故この映画ができたのか、より深く理解できるだろう。その時点での私の自問自答はもはや読書の楽しみの域に昇華していることだろう。
 アメリカ国会図書館のモットーは「優れた本はたとえ百年に一度しか利用されないとしても、その価値を減ずるものではない」というものだ。本と映像の背景に広がる文化としての差を如実に示した言葉だと思う。そして映像に限らずメディアが文化として位置付けられるためには明らかに越えねばならない課題を指摘した言葉でもあるだろう。

「マルチメディア」が叫ばれたとき私が心のなかでひたすら希望し続けてきたのは、映像メディアに存在する厳然とした送り手、受けての壁をはずすことだった。つくる環境はいずれ改善されていくと楽観を決め、根深い考え方の転換をつつきはじめた。送り手である制作者の主導に依拠しなければならない関係を producer-driven だとして、これをまったく逆の観点から user-driven としてうちたてる活動を実際に行った。いくつかの兆しは見えていたとはいうものの、デジタルの道は険しい。ふつつかな試作品は自分たちの思い込みの無力さをさらけ出しているようでさえあった。しかしこのことに徹底的にこだわり続けた。
ある時ふと周りを見て気がついた。知らないうちにみんな自分が任天堂になることばかりを語るようになっている。都合に合わせて「マルチメディア」を利用し、持ち上げては翻した。そんなことをして生まれる何かが任天堂を上回るはずがないではないか。
私は愚直に user-driven にこだわり続け、仲間に呼びかけては寄ってたかって一人の user の存在を探し求めた。
幸福で満ち足りているとき人は学ぶことを忘れる。その意味からすれば不幸に遭遇している状況は不可避に学ぶことを要求される。思わぬアイデアを発見するチャンスがそこにある。学ぶだけでなく、不幸は人への呼びかけの衝動を生む。訴えずにいられない状況に人を立たせる。学んだことを伝えようとさせる。幸福の中に潜む不幸と、不幸の中に育まれている幸福という全く相反する方向の可能性が存在しているのだ。

かつて私も映画製作の下働きに身を挺していた時期があった。劣悪な制作環境のもとで酷使される役割を嘆く連続であったが、その中で学ぶことも大きかった。映画の制作だから相手に対して勝手な無理難題をお願いするわけで、歓迎される要素など皆無に等しいのだが、下働きとして駆けずり回る身にとって骨身にこたえたのは、世の中には何と多くの嫌な奴がいることかという失望だった。その大多数は高い地位にある者だ。
そんな中にあって、極めてまれに、恵まれない日陰の職に就きながら高い教養とモラルを堅持する人にも出会った。都会の片隅や遠くはなれた片田舎に立派な人間たちの存在を知ったとき、生きる勇気が湧いた。絶望するにはまだ早いと思った。
高い地位に就きながら不正を働き、傲慢に胡座をかいている正にその極北に、凛とした小さな人々の群が存在する。その存在を信じようと思う。そして黙して語ろうとしない、あるいは黙すことでしか人間としての誇りを保てないと思っている人々に、語るべき術を生み出すことこそ私にとっての「祖国」に近いものだと思うようになった。
苦しいときに何回となく映像が私の脳裏をかすめていく。己が非力に見えて身がすくんでしまうようなとき、全ては一人から始まるのだと自分を奮いたたせるのだが、そんなとき身についた習慣から映像が頭に浮かぶ。映画「留学生チュアスイリン」もその一つなのだ。数を頼るな。たった一人でも支持する顔が見えるなら決して悲観するにはあたらない。つまらんことで挫けてはいけない。頭の中の幻想がそう言い続けている。
映画の主人公を私は知らない。当時も、今も、どこで何をしているのさえ。だがチュアスイリンは私の心に生きている。

*「留学生チュアスイリン」 土本典昭監督 1965年 制作藤プロ(現在の自由工房)

*1993年MacLife誌に掲載された。その後1996年7月25日『エキスパンドブック オフィシャルガイドブック』(ビー・エヌ・エヌ)発行に際して、その前文に使われた。