きょうのるっちゃん99その2
BACKHOME

OLDNEW


1999年12月31日(金)
ぐ、グンデルの練習したわよ、大晦日に!いろいろあったけど今年もいい年だったと思えるね、やっぱガムラン弾くと。


1999年12月30日(木)
ボゴールに一泊旅行したんですが。そろそろ南十字が無理せず見られる時期なのにジャカルタじゃあ晴れた試しがないからけっこう楽しみにしていたんですけどね、田舎の澄んだ空を。 雨ぢゃ!雨!ああ……日頃の行いが悪いのかしら。


1999年12月22日(水)
UNAS最後の講義でした。しめっぽいのはいやなので、来学期から来ないことは学生には言っていなかったおかげ?で、ごく普通に授業を終えることができました。教務室に戻ってきたら学科長がいて、なんと私が文学部での最優秀講師に選ばれたといって記念品をくださいました。賞をもらうために仕事をしているわけじゃありませんが、やっぱりこうして地道な積み重ねみたいなものが認められると嬉しいですね。 UNASでの仕事っていうのは、暴動のさなか試験があったり、バリケード乗り越えて学校に行ったり、97-9年のインドネシアという環境で難しい部分もあったし、自分の経験的な面でも不安の連続だったりもしましたが。本当に岩にしがみつくような、ガラス坂に爪を立ててもちこたえるような感じだったけれど、後ろ向きにならずにふんばってきて良かったっす。貴重な体験を積めました。


1999年12月18日(土)
ヴィラのクリスマスパーティでした。Mはバリダンスを踊ってくれと頼まれて、またまた舞台です。この一ヶ月ちょい、ほぼ毎週何かしらに出演しているよなぁ。これでしばらくは静かに過ごせるかしら……。「僕たちの国の文化を学びこんな立派に踊ってくれるあなた達を誇りに思います」って司会者が言ってくれたけど、そういうコメントをしてくれるあなたをこそ誇りに思うわ。またしてもほろりとさせられてしまった。

「銀の装い」と「マスク持参」がドレスコードだったので、それなりに工夫して参加してました。バリダンスのご褒美に回ると光るコマもらってきたし、ラッキードローでは壁時計当ててきました。やるな。

私はやっぱまだしんどかったので早々に引き上げたんだけど、MJは10時頃までダンス・パーティにも参加してました。タフだね〜。



1999年12月16日(木)
ぶっ倒れました。火曜日起きたら全身筋肉痛。昨日 午前と午後バレエのレッスンしちゃったしね〜なんて最初は不思議にも思わなかったんですが。指まで曲がらなくなっていたから「ガムランの影響が今頃出てくるか、情けなぁ〜い」と思っていたら息切れがしてきて お弁当を作ろうとしても立っていられない。あれ?これはもしや体調が悪いのでは?とようやく熱を計ってみたら8度5分。ベッドに倒れ込んだらみるみるうちに熱が上がって40度に。水様下痢。腹痛。頭痛。動機・息切れ・目眩(ま寝てりゃ平気なんだけど)。火曜日・水曜日と寝込んでました。

今日は学年活動でフットベース大会。Mは私がうんうん唸っているのを見ていたから最初は「来なくていいよ」と言っていたんだけど、朝起きてみたら座っている分には大丈夫そうなんで、「行って見学してるのと、 まるっきり行けないのとどっちがいい?」と試しに聞いてみたら「来て欲しい」とのこと。今年はお仕事と重なって授業参観にも行けてないから、ここで罪滅ぼしと思って行ってきました。でもね、行ってみたら「せっかく来たんだから、やれば?」って(雨が降ったからドッヂボール大会になったんだけど)言うのだ。悪魔。ちょいと準備運動してみたらダメだ。やっぱりふらふらする。ってな訳で大人しく見学してきました。

でもね面白かった。お母さん達の意外な一面も見られたし。お嬢様〜って感じの人が顔色変えずにビシバシボールを受けたり投げたりしちゃうのね。びっくり。

Mってば自分の興味あることしかしないし。「ドッヂボールはきら〜い」って言ってたけど、さっさと元外野になっちゃって一回も中には入らないし、ボールはどんどんお友達に渡しちゃうし。大人になってちょっと「協調性」とか「みんなで頑張る」なんてことも頭の隅にある私としてはカツを入れたかったんだけど、なんでもかんでも全力出して頑張れってのも画一的過ぎるのかしらと思ってあんまりうるさくは言いませんでした。出番のない時はずぅ〜っとY君と遊んでるしさ……。ああいうの冷やかされたりしないのかな?私が3年生ぐらいの時にはみんな敏感だったけどなぁ。ま、ちょっと無理して行っただけのことはありました。



1999年12月12日(日)
いよいよフェスタ当日。緊張と雑務が重なってやっぱり一睡もできないまま朝を迎えました。会場に行ってみると控え室も準備できてないし、クーラーもついてなかったりして怪しい状況。ま、できることからサクサクこなしていくしかないんですが。照明やら音響に多少の問題があったものの、私たちの演奏はバグ〜スやったと思う(自画自賛)。詳しくはガムラン部のページに後日書くとしましょう(いつだそれは)。

私はなんだかとっても大きな何かに見守られているような気がして、誰かが側にいるような気がして、何度も辺りを見回したりしてしまった。不思議な感覚だったなぁ。号泣してしまうんじゃないかと心配していた「ウィレン・プラバワ」も無事に叩くことができたし。全体的に演奏のレベルも去年より上がっていると思う(なんせダヌールのメラがちゃんと入ったもんね)。なんか一歩ずつでも前進できるってのは嬉しいことです。



1999年12月4日(土)
混声合唱団B&Bのコンサートのお手伝いに。というか、MJはじめバレエを一緒に習っている子たちがスクール・メイツのような賑やかしで出演するので、そのお世話役として行ったのですが。子ども達はまぁよく躾られているというか、熱があったり体調の悪い子もいたんだけど「絶対踊る!」って頑張ってきていたし、多少賑やかだったけど出番までおりこうさんしていました。出来も上々。

いろいろあって受付とかやってた時間もあったんだけど。いろんな人がいるなぁってまた思っちゃった。私が立ってると、どうしても日本語で話しかけてくれないのよね、お客様。あんまりたどたどしいインドネシア語を使われたりするとこっちも意味不明になるから「日本の方ですか?」ってはっきりとした日本語でたずねても「tidak! saya orang Indonesia!」って豪語する人もいたりして(それなら「ンガッ」ぐらい言って欲しい)……。でもその直後に携帯でどなるようにして日本語で話してるんだ。やっぱどう聞いても母国語は日本語の話し方なんだよね。う〜ん。謎は深まる。



1999年12月2日(木)
朝から夕方までガムランのリハ。

むむむぅ〜。疲れました。こんな日に限って運転手が入らないって言うから、Mなんかスクールバスを乗車変更して会場の近くまでやってきて、ぜんぜんガムラン部とは関係ないEさんに送っていただいて踊りを合わせました(Eさん、ありがとう&ごめんなさい!)。

私にとっては自分がギインをやるレゴンが大曲な上にMと合わせる責任もあるし、これをひいたらやっぱり泣いちゃうのかも、なんて思っていたんだけど、コンサートの最後に太鼓を叩く予定のウィレン・プラバワを今日はじめてサリイちゃんと合わせてみたら、今までの数回のコンサートでこれを一緒に叩いてきた牧ちゃんやらのことを思い出してしまってがあふれてきました。やばいっす。

後10日で本番だわい。あえて今は何もコメントすまい。力の限り挑戦していくしかないのよね。



1999年11月28日(日)
Mのバリダンス発表会。今までガムラン部と合同でやっていたので「出演者&出演者の母」だったわけだけれど、今回初めて「出演者の母」だけをやればよくなって楽かと思ったら大間違いだった。なんか緊張しちゃって例によって眠れなかった……。

マヌクラワは発表会前に帰国した子の代わりにピンチヒッターとして入ったのだけど、これは前回も発表会で踊っているので大した問題はなさそう(と思っていたのでいつまでも左右を間違えてたけど)。レゴン・クラトンはチョンドンとガルーダ。10分以上は一人で踊るのでそういうプレッシャーに耐えられるのかなぁと思っていたら、一人だからむしろ気が楽なんだって。なるほどねん。

実際、マヌクはともかくレゴンなんてボロボロ間違えて「あっ頭が真っ白になってる!」ってのが私にもわかるシーンが何回かあったんだけど、「だけど止まらないで踊れてたからいいの」なんて後から言ってました。もう大した度胸と言うしかないでしょう。とにかく一つ大きな気がかりが済んで良かった。



1999年11月21日(日)
学習発表会です。日曜日だというのにみんなで早起きして7時にはおうちを出発しました。不覚にも泣かされてしまいましたねぇ。ああいう一生懸命なのってとても弱いです。やっぱり選曲ですか。Mたち3年生は「ビリーブ」を歌ったりしたんですが、「苦しみや悲しみもいつの日か喜びに変わるだろう。そんな未来を信じている」風の歌詞が、今のインドネシアやガムラン部(あれ?ギャップがありすぎ?)の状況にハマリすぎていて涙なしには聴けなかったっす。あと、2年生の「ジャカルタ少年少女冒険隊」の中に、「遠く離れていても同じモノを見つめ続けていよう」みたいな趣旨の歌詞があって、そこでも泣かされてしまいました。

時間的余裕がなかったんで途中で帰ったんですが、5年生の合奏・合唱もすごかったそうで、後からビデオを見せてもらいました。ガムラン部の和田親方の息子さんが指揮をとってたんだけど、それがまぁ、そっくりなんだわ。ダイナミックというか情緒たっぷりというか。そしてどんどんテンポが速くなって限界に挑戦!って感じになっちゃうとこまで……。親子ですねぇ。

なにはともあれ、ここしばらくのイベントの中で一番感動しました。



1999年11月20日(土)
朝から緊急手術のための血を探し、グンデルの練習をやって、続いてMとガムラン部有志でレゴンのガムラン合わせをやって、その後、お手伝いしている孤児院(このことをこのHPでは書いていなかったのかしらん。ありり?)を海外勤務健康管理センターの廣重先生とともに訪問して、そのまま先生をお連れしてMのバリダンスのリハーサルをやってホテルにお送りし……という無茶苦茶ハードな一日でした。お昼をまともに食べる時間もなくて先生に申し訳なかったです……。それでもリハの会場の体育館中を走り回るMJ。タフやなぁ。バリダンスの発表会のためのプログラムが上がってきたんだけどね。はっと気づいたら日付が19998年に。600部も刷ったのにぃ〜。みんなで長生きしようぜ〜。


1999年11月18日(木)
今日、ガムランの練習中に扇風機ガメリン号が大破した。きっとなんか意味があるんだろう。

都心で大雨が降ったらしく大きな道路に木が倒れたり電線を切ったりしてエライ騒ぎだった。でも、空が今まで見たことないぐらい美しかった。抜けるような、輝くような青空に、こうまで自由な形が作れるか!と呆然としてしまうぐらい壮大な雲。これもきっとなんか意味があるんだろう。

と思っていたらガメリちゃんから毛利ちゃんに会ってきたというメールが届いていた。それにまつわる不思議な話が書いてあった。まぁ内容をここに書くわけにはいかないけど、やっぱり意味があったんだと思った。コンサートまでもう少し。この場にいなくても一緒にガムランを奏でていてくれる人たちの分まで頑張ろうっと。



1999年11月5日(金)
ど〜してもピアノの先生が次々と海外に行ってしまうMなんですが、紹介に継ぐ紹介で今はインドネシア語のできないドイツ人の先生に英語で教えてもらってます。あの幼稚園の5年間はなんだったの?と思うぐらい綺麗さっぱり英語を忘れてしまっている(フリをしている)Mのために、レッスンで必要な英語の練習をおうちでしました。

「1の指」は「first」とかパッと理解できないと苦しいので、「fourth?」「よんっ」「second?」「にっ」ってな感じで日本語を素早く答えてもらってました。でも、どうにもやりづらくって。というのは、親の方が言語が混乱してるのね。英語を喋っているつもりが無意識のうちにインドネシア語になってるってのがここでも例外ではなく、どうしてもインドネシア語で聞いてしまいそうになるのです。それを抑え抑えやっていたもんだから、とうとう、「thaん?」って聞いてしまいました。サードと「さん」がまざっちゃったっす。ふぅぅ。道は長いぜ。



1999年11月4日(木)
今日も今日とて演奏だ。日本の文部省にあたる教育文化省で、バニュワンギ地方のガムランとバリのガムランの競演があって、その前座&休憩時の余興でブンブンとゴン・クビャールをひいてきました。

朝、出かけようとしたら「今日は仕事できない……」ってメイドがわざわざ言いにきたので急遽幼稚園を休ませてJを連れての参加。

まぁ、タマンミニの緊張に比べたら、こっちは眠っているぐらい安穏で。すっかり楽しんできました。バニュワンギのガムランはジャワのよりは小編成でしっかりスレンドロ音階なんだけど、不思議な音がしたなぁ。そうそう、バイオリン使ってたんで、Jが妙な顔してた。本当はガムランについて質疑応答できる時間があったはずなんだけど、カットされてしまって残念。また機会があったら参加したいものです。



1999年11月1日(月)
ううう。きゅぅぅ〜!ガンバレ毛利ちゃん!


1999年10月31日(日)
ふぉ〜い。久しぶりに緊張しました。

タマンミニ(ジャカルタにある「ミニインドネシア公園」というテーマパークのようなもの)でガムランを演奏してきたんです。ガムラン部ブンブン隊のみんなと演奏するブンブンはまだ良かったんだけど(でもこれとて急に高音部パートをやることになって戸惑ったけど……)、問題はグンデル。サリーちゃんは旅行中で参加できないし、完璧主義(なんだろう)の星野ちゃんはさっさと出場を辞退してしまっていたので、私とバパのサシで勝負するはめに(勝負じゃないっつうの)。

しかもこれが昨日の練習でも途中で止まってしまうできだったのよね〜。1曲は前回のコンサートでやった曲ではあるんだけど、私は高音部を担当していたので、今回急に基本の方をやれと言われて体が大混乱。緊張のあまり2時間しか寝られなかったよ〜。

でもね、本番のできは上々でした。バパも演奏が終わったら思わず握手してくれちゃったっす(よっぽど心配していたんだろう)。最大の賛辞は、だぁりんが「大したもんじゃん」と言ってくれたことっすね。ゴルフに熱中している彼曰く「パープレイだった」と。ほう、プロでもそれは必ずできることではない。すごいじゃん。変な音を鳴らしちゃったことは1-2回あったけど、演奏をストップさせたりはなかったしね。

ある程度の技術が身につけば、ゴルフは精神力で勝負が決まるスポーツだもんね。確かにろくに練習できず、気合いで乗り切ったところはゴルフに通じるものがあるかもしれない……。

誉めてくれたのはいいんだけど「るっちゃんにできて俺にできないわけがない」なんて妙な理屈を言いはじめて前より一層ゴルフへの情熱を燃やし始めちゃったのが難点かしらん。



1999年10月29日(金)
ハロウィン・パーティ。近所の子ども達がトリートを求めて数十人やってきたのですが。私の方から何も言わないと日本人の子どもも「さんきゅ〜」とか「てりまかし〜」とか言って帰っていくのね。いったいナニジンに私は見えていたんだろう。敢えて日本語使わない私も意地悪?


1999年10月18日(月)
また毛利ちゃんとの会話からなんだけど(もう漫才コンビを結成した方がいいのでは?という気が……。今度のコンサートの余興でやらせてもらおうかいな)。毛利ちゃんが「るっちゃん、こっちにもistriゲームってあんねんな」って言うから「妻ゲームって何だろう???」 とマジで思ってしまいました。は〜い、それは『イス取り』ゲームのことです。あるんです。

こないだは「この書類のkurang部分に全て記入して下さい」という日本語を聞いて「はいはい、足りないトコ全部ね」と思ってしまったんだけど、それは『空欄』部分やった。ああ、先行き不安。



1999年10月8日(金)
ちょっちこれは自分への覚え書き。31日にタマンミニで演奏することに関して毛利ちゃんが「ええ肝試しになるもんなぁ」と言った。それを言うなら「腕試し」やて!


OLDNEW
TOPBACKHOME