きょうのるっちゃん2000その1
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2000年3月30日(木)
いよいよチェックアウト。しっかり荷出ししたつもりだったのに、スティさんやらヤントさんやらにあげるものをまとめてみたら家の前が一杯になっちゃって、お見送りの人に「これ航空便?」って言われる始末。なは。

そうそう、Megちゃんとこと、Mさんとこ(つまりMが大好きなY君)が遠方よりお見送りにきてくれました。後から聞いた話ではMと握手したY君は「もう、この手は忘れない!」って言っていたそうです。なんか日本語的にはよく分からないけど、何となく分かるぞ、その気持ち!って感じです。

スティさんは大泣きだったなぁ。ヤントさんはどっかんと堪えていたなぁ。どこのメイドさんだか分からない人も泣いていたなぁ(知らぬ間にMJがお世話になっていたのね、ありがとう)。ふと気がつくとメイドさんと運転手さんがわんさと集まっていたなぁ。なんだったんだろ……。私もいよいよ最後になって家の壁にすりすりしてみたり。実際の所はまだ実感が沸いていないのだけれど……。

そう。絶対戻ってくると心のどこかで思っているから寂しくないのかもしれない。だって8年だよ。縁のない国のわけがない。楽しかった。理解できないこともあった。とっても勉強になった。世界が広がった。だから何らかの形で恩返しをしたいと思っている。そんな気持ちをママゴト呼ばわりする人もいたけれど。現実が厳しいからって何でひねてなきゃいかんのか。とにかく何ができるか分からないけど、感謝の気持ちだけは忘れない。「さよならは言わないよ」とはMのセリフ。まさしくね。万感の思いを込めてSampai jumpa♪



2000年3月28日(火)
荷出し。聡君が担当なのよん。笑っちゃうわね(失礼?)。結局あれもこれもできなかった〜。ガラクタもチリに運ぶことに。ガメリちゃんのことをとやかく言えません。実に段ボール107個?向こう着いてから片づけが大変そう……。

その間をぬってUNASの送別会へ。一時間も遅刻して最後に大ポカ。私的には約束の時間に行ったんだけど。なんだか派手な送別会だった。あの子たちは私を教師じゃなくてアイドルかなんかと思ってるんじゃなかろうか。あ、とうとう「心の友」を歌いましたよ。みんなも確実に歌える日本語の歌があるなんてすごいことだね。歌詞が分からないなぁって言ったらすかさず楽譜まで出て来ちゃうあたりが何ともいえない。



2000年3月27日(月)
なんと予定より早くガムランが到着したのでJJSに納めに行く。思ったよりでっかくて立派なガムラン。先生方も圧倒されていた。試しにマヌクを弾かせてもらう。それにしても無事に寄贈できて良かった。嬉しい〜!臆病さに負けて諦めちゃおうかなと思ったこともあったけれど、みんなの熱い心に支えられて実現したよ、夢が。みんなから「これ使って」って資金援助してもらう度に泣き出しそうだったんだ、本当は。こんなにガムランをJJSをインドネシアを愛してくれてる人がいるんだなぁ〜って……大げさかな……?とにかく全ての関係者に感謝します。ありがとう。


2000年3月23日(木)
ちょいとびっくりしました。RANDUっていう木があるんです。カポックみたいに綿をつける種類の。Mが1年生の時に学校で育て終わった朝顔の鉢をベランダに置いていたら、いつの間にかそれが芽を出していました。

植えた覚えのないものが芽を出してくるのも驚きでしたが(最初はシンコンかと思いました。JJSの土だから、シンコンのかけらでも入っていたのかと……)、その生命力の強いこと。朝顔の鉢なんて小さいものなのに、あっと言う間にMの身長を超えてしまいました。

このままじゃ枯れちゃうなぁと思って、コンプレックスの事務所の人に「どこかに植えさせてくれ」と頼んだら快諾(こういう大らかさが大好きだ)。裏庭に植えてもらいました。

もう会えなくなっちゃうな、と思って今日それを見に行ったら、ないんです。あれ?やっぱりいわゆる雑草(雑木?)だから抜かれちゃったかな?と思ったら、違う違う。あんまりにも大きく育っていて、一目見ただけでは分からなかっただけでした。3mぐらいの立派な木になっていたんです。植えて半年もたってないだろうに……。見上げちゃった。あまりのたくましさに感動しました。私がこの国で学んだことの集大成だったかも。



2000年3月19日(日)
財務でSPIへ。これでみんなともしばらくお別れだな。またしてもソフンさんを泣かしちゃった。SPIこそ忘れない。真心の数々。私のインドネシア生活の基盤だった。力不足で動けなかった分、これからもずっと応援するからね。


2000年3月18日(土)
MJバリダンスの送別会。先生に泣かれちゃった。バグース先生とはたった1年ちょいのつきあいだったけれど。すごい期待してくれていたのも感じていたし、可愛がってくれていただけに。帰りにMが押し黙っちゃって何怒ってるんだろう?と思っていたら、家に着いてから「バリダンスはやめたくなかった」って涙目で。うる〜。私だってやめさせたくなかったよぉ〜。ピアノやバイオリンやバレエは先生との別れが辛くても何とか続けることはできるけど、バリダンスはねぇ。日本ならともかくチリじゃあなあ。これだけ踊れる人が……もったいない。でも将来踊りのためにバリに戻ってきたりするようになるのかもね、もしかしたら。


2000年3月17日(金)
やっべぇ〜。あんまりバタバタしていてJJSの退学届けを出すのを忘れていた。今日が終業式ぢゃん。朝から夕方までバッチリ予定がつまっているのに……。でも何とか綱渡りで(いつものこと?)手続きをしに行くことができた。ほ。企業の人だったら社長/所長のハンコもらうようなところも自分のサインですませちゃった。すんません。

IngeとSPIのHPの最終打ち合わせ。後は日本語と英語バージョンを作ればいいだけだな(でもチリに行ってからになっちゃうな)。

わたちんと作りに行ったクバヤのできがむちゃくちゃ良かった。採寸してもらって、デザインのイメージを伝えただけだったのに、思った通りに仕上がっている。しかもお安い!(値段交渉をするのを忘れちゃっていた間抜けな私たちだったのだが)クバヤ、ワンピース、スカートを作ってもらって15万ルピアしたかしなかったかだ。こんなに安くていいのかぁ!ファトマワティをチネレ方面にちょっと南下したとこにあるYanie'sファッションというところっす。



2000年3月13日(月)
ガムラン部の送別演奏会?。自分が送られる日がこようとはね……。るっちゃんは永遠にジャカルタにいるとなぜか信じていたみんなとは違って、私自身はいつか離れる日がくるとは思っていたけれど(当たり前じゃい!)、なんか嘘みたいだ。どの曲もいっぱい思い出がつまっていて。涙なしには語れないエピソードに溢れていて。それでも今日という日が辛くないのは、本当の別れだと感じていないせいだろうな。これで一生ガムランが弾けなくなるとは毛筋ほども思っていないし、世界のどこに行っても私はガムランやスワ・ギタ・プルティウィのみんなを忘れることはないって確信してる。またいつか会おう。そして一緒に演奏しよう。その日までお互いに元気で。


2000年3月9日(木)
念願のヌガラへ。飛行機が遅れると言われた時にはどうしようと思ったけれど、なんとか間に合って。思ったより遠いわね〜。いや実際地図で見ても遠いんだけどさ。「ジェゴグはヌガラで聞かなければ本物ではない」という感覚を定着させるとは(事実なんだけど)、村おこしとしてはうまいことやったんじゃないでしょうか。なんてスエントラさんに失礼かな。

道中バパと携帯で連絡を取りながらJJSに寄贈するガムランを決める。賽は投げられた。

確かにすごい迫力。演奏中は好きなところに行って聞いていられる。横でも楽器の真下でも。ジュブラグあたりの楽器の下に潜り込んでいたら、前のカンティル系の人のばちが折れちゃったんだよね。で、彼はばちを放り投げて手で叩き出した。当然痛いよね。そしたら今度は声をあげて音を埋め始めた。それは何というか「そうしなければ自分のパートの音が足りなくなる」なんて計算じゃなくて、もういてもたってもいられないパッションの爆発というか。そうだよな、音楽ってホントはこんなストレートなものだよな。最近の私はちょっとあれこれ考えすぎていたかもなと思ったら泣けてきた(ほらね)。



2000年3月5日(日)
バレエの発表会。今回もまた緊張の余り眠れないのかと思っていたら、さすがに体を毎日使って疲れも頂点に達していたのか、衣装の補強とかも終わらないうちにいつの間にか眠っちゃっていた。もちろん目覚ましなんかかけてなかったから、ふと我に返った時にはぞぉ〜っとしちゃったわ。

写真撮影に思ったより時間がかかり、ちゃんとした当日のリハーサルはできずじまい。JISのシアターはJJSの体育館とは(当然ね)かなり違うからどの幕で出入りするとかしっかり確かめたかったんだけどなぁ。なぜか楽屋も工事が始まってて思うように使えないし……。

でもみんな頑張ったもんね。入院中で自分の出番だけ一瞬参加したMちゃんとか、足くじいても踊りをやめなかったYちゃんとか。一人一人にすんごいドラマがあったと思う。私はといえばリハーサルでも気持ちよく間違えちゃったりしたもんで、とにかく「はみださない」ようにすることばかり考えていた。いかんなぁ。だというのに……だからこそかな?「パ・クラシック」の大役が終わったわいと安心しちゃったんだろうか「ワルツ」ではしょっぱなから間違えて見事なごまかしぶりだったし(ビデオのある人は見てみてね〜)。

一方、最後の最後までしゃんとせずにみんなに心配されていたMの見事な踊りったら。自分のビデオはもう二度と見たいとは思わないけど、心底楽しそうに生き生きと踊っているMの場面は思わず何回も見たくなっちゃうのです。不思議だな〜。J?もちろん一生懸命踊っていました。今回は踊りの途中で隣の子を注意しちゃうこともなかったし♪

Jから花束をもらうフィナーレでは泣いちゃうかな〜と思ったけれどぐっと我慢。我慢なんかしないで泣きたければ泣けば良かった。どうも必要以上に感情を抑える癖がついちゃって……。こういうことしていると逆に些細なことで号泣しちゃったりするんです。

夜はSPIの送別会。ディアナが日本語上手になってたなぁ〜。去る者あれば来る者あり。



2000年3月4日(土)
帰任教師送別会。今年帰られる先生方っていうのは、私も司会として新任教師歓迎会に関わっていたり、ヘリテイジのチェアパーソンとして最後のデモンストレーションをした先生方だったりして、個人的に思い出深いのです。う〜ん。例年になく先生方の方が出し物とかに趣向を凝らしてたわねぃ。まさか自分も舞台に上がる羽目になるとは思わなかったわ。

本当はここに集まるPTA会長さんやら維持会の理事長さんやらにガムラン寄贈の件で協力を依頼したかったんだけど、ど真ん中の舞台真ん前のテーブルにいったいいつ近づけばいいのだ〜と思っているうちにさっさと帰られてしまった。むぅ。自分の引っ込み思案さに涙が出そうでした(ホントは引っ込み思案なの、ワタシ。信じて〜)。



2000年2月25日(金)
あんまり私が忙しそうにしていたからでしょうか、Mが晩ご飯作ってくれました。メニューはカレーうどん。インスタントだったけど、私は何一つ手伝わず、席に座って食べるだけでした。ちょっとぬるかったけど、美味しかったっす。日本に帰ったら、朝ご飯は作ってあげると豪語してました。楽しみ。


2000年2月19日(土)
久しぶりにむっちゃ忙しかったです。朝一番にMJを歯医者につれていって、10時からバリダンスの練習(Mがあげたチョコ、Y君はとっても喜んでくれたって!Y君のお母さん談)。お昼からのバレエの練習に一緒に出るためにKMちゃんを誘いに行って、そこでお昼をごちそうになりダッシュでレッスンへ。その後なんとMJはバイオリンの発表会……。一歩こけたらすべてがおじゃんになりそうな綱渡り状態だったけれどなんとかうまく渡り切ることができてよかったです。

MJの出来に関しては、発表会に参加することになったのが二週間前なんて突然だったこともあって(しかもお客さんがあったり、他の用事が忙しくて家で練習する時間もなかったもんで)、あんまり厳しく問う ては可哀想なのですが、他の生徒さんを教えているピアノの先生には「so gorgeous」と誉めて(んだよね?)いただきました。

バイオリンの音色って、すごくエモーショナルね。MJのはまだ「鳴ってる」だけなんだけど、上手なお姉さんが出した最初の音を聴いただけで何だか涙が出そうでした。いつかこの子たちもそんな人のハートを揺さぶるような演奏ができるようになるのかしらん……。



2000年2月18日(金)
マザーズクラブのHPの後任者が現れた。立ち上げた時はあんまり何度も同じような質問をあちこちで受けて一人じゃやってられんと思ったと同時に、でもそれだけジャカルタでの子育て情報を必要としている人がいるのだから何とかしなきゃという思いで作ってしまったのだ。どんな国にいたってHPの管理ぐらいできると思っていたし。るっちゃんいなくなったら維持できなくなるようなことはしない方がマザーズのためなんじゃない?なんて声もあったから、それでもしばらく考えてのスタートだった。

でもでも。私がジャカルタを離れる前に「やる!」と言い出してくれた人が現れたのは嬉しかった。いけぴさんが連れてきてくれたその人は……まぁフエヤッコさんなわけだけれど(とは後で分かったのだけれど)。なぁんだ、ガムランで会ってるじゃん〜って笑っちゃった。向こうもいけぴさんが言う「るしさん」とガムラン部の「るっちゃん」が一致しなかったというし。やっぱり世間は狭いのかしらん。何はともあれよろしくね〜。



2000年2月17日(木)
月曜日から平沢さんが卒業旅行で遊びにきてた(Sちゃんも。卒業旅行ではないけど、カリマンタンで二十歳を迎えるって強者)。「るっちゃんち」でもエヴァのMIDIを使わせてもらっていたし、私が一番最初にカキコしたBBSは平沢さんのとこ。もし彼がエヴァとチャイコフスキーなんてものを並列した(してない?)サイトを作っていなかったら「るっちゃんち」も生まれなかったか、すごく違った形になっていたと思う(確か彼は「サイトを作るのに1円たりとも本やソフトなどに投資しなかった」みたいなことをどこかに書いていた。違ったっけな。ともかく、それで私も「ほぉほぉ、私もそうしてみよぉっと」とHTMLを独学して「るっちゃんち」を立ち上げたのだった)。とっても感謝してるのねん。

そんな訳で彼が卒業旅行の先をインドネシアに決めたと教えてくれた時は「何でも手伝っちゃう〜」と思ったのだけれど、実際には厳しかった。大学もコンサートも終わっていたから身動き取れると思っていたんだけどなぁ。カリマンタンの川下りに一緒に行こうなんざ無謀だったのね、残念(涙)。

最初は体調を崩していた彼も恐るべき若さと執念で国立博物館-パサラヤ-タマンミニというジャカルタお勧めコースをこなして新たな土地に旅立って行ったわ。インドネシアでの日々が良い思い出になりますように。



2000年2月14日(月)
ちょっとはバレエのことも書いて〜って声があったもんで。いや、落ち込んでまんねん。今日はJJSで舞台稽古だったんだけど、家に帰ってからビデオを見てみたら、なんか自分が蚊トンボのようにフラフラと頼りなくって。レバラン休みが開けてからほとんど毎日バレエのレッスンをしているんだけど、今日までは毎日毎日踊れることが楽しくて仕方なかったんだけどなぁ〜。ふぅぅ〜。あともうちょっとで何とかなるのだろうか、これは。

朝はMのバレンタインのチョコ作り手伝っちゃった。青春だね?



2000年2月13日(日)
ウィラクンチャナのバリダンスの発表会で、ガムラン部として受付の応援に行ってきました。そしたらイワン先生に「お礼に」ってバラの花つきのお菓子もらっちゃったよ。ひょえ〜。一昔前だったらWKのメンバーに恨まれちゃったかも??この人はこういう気配りが日本人みたい。


2000年2月11日(金)
いや〜、参りました。OCS。私、基本的に他人のすることにあまり腹の立たないタチですが、ここばっかりは、もう許せませんね……。今日ね取りに来たんですよ、新聞代。9ヶ月分。6百万ルピア以上になりました(今、いくら?10万円ぐらい?)。しかも連絡なしに(うちのメイドですら「集金はどんなとこでも事前に電話の一本もよこしますよね……」って言ってた)。「払えません」って突き返せばよかった。

子どもの絵本に関しても家までの送料を払っているにも関わらず「そんな契約じゃないはずだ」と言って事務所に取りに来させたり、集金人(自分とこの従業員)が信用できないからって事務所でしかも日本円での支払いを強要したり……。OCS本社に問い合わせてジャカルタ代理店の勝手な判断だったことはハッキリさせましたが。本社の方はびっくりして謝罪してくれたけど、ジャカルタ代理店はそういえば「すみませんでした」の一言もないなぁ。自分たちがしたことの意味分かってるのかなぁ。ちゃんと他の利用者にも説明があったかなぁ。

新聞代を半年分ぐらい平気でまとめて取りに来ることも、しかも二重の取り立てがあったりすることも他の日本人から頻繁に聞いていましたから覚悟はしてたんだけど(そういえば返品できないからって急に帰国した他の人の頼んだ雑誌を無理矢理売りつけられたこともあったな、こっちは同意してないのに)……。実際自分がやられるとこんなに気分が悪いものだとは。胃が痛くなりました。これで日系企業だっていうからよけい情けないですわ。関係者の方、かなり評判悪いんですよ。読んでいたらぜひぜひ改善して欲しいものです。



2000年1月28日(金)
ドイツ校との交流学習に参加。普通に生活している分には分からないんだけど、ドイツ校って日本人学校に負けず劣らず大きいわん。こんなにドイツの人がいるんだぁ。なぜ数あるインターナショナル校の中で日本人学校とドイツ人学校が交流するのかというと、今の日本大使の奥様がドイツの方らしい。場所はJJSのそばなんだけど、しっかり高速ができあがっている。なぜかっていうと前の大統領がドイツで勉強したことがあったりとドイツびいきだったから、ドイツ人学校まではとっとと高速を造ることを確約したらしい(こっちは嘘だかホントだか)。

JJSではMのいる3年生と6年生が代表として訪問。それでドイツ校の全小学生と同数ぐらいになっちゃうんだから、やっぱり数は少ないのか。交流そのものは最初はドイツの子たちも遠慮がちだったりしたけど、場所替えとかしているうちにMの担当する「あやとり」のグループにも何人もきてくれて、しっかり教えていた。逆にひもを使った手品を教わったりして(はっ。誰が楽しんでいるやら)。

驚いたのは学生が校舎内で喫煙していること。ドイツじゃ高校生ぐらいからタバコが吸えるんだって。だから、まぁ隠れて吸う必要はないんだけど……もちろん喫煙スペースは限られているんだけど、ちょいとびっくり。

そしてここにも立派な階段式のシアターが体育館とは別に設けられている。どうして日本人学校は同じ敷地に体育館を二つ作ってシアターは作らないかなぁ。パイプ椅子を並べればどっちにも使えるって発想になっちゃうかなぁ。きちんとした舞台に立つこと。きちんとした舞台を見ること。海外に育っていろいろな文化に接してなお堂々としていける子の教育に欠かせないと思うんだけどなぁ(あ、だから要らないの?日本に帰って生きる子を育てるのが目的だから?)。



2000年1月6日(木)
みんな〜!星が綺麗だわよ〜!年に何回かはこんな綺麗な星空がジャカルタでも見えるのね〜(でも朝になったら曇ってたぁ!またも南十字、見られず)


2000年1月3日(月)
初ガムラン!日本だとまだ三が日だというのにねぇ。こんな日に練習やろうと言い出す人も言い出す人だけど集まる人も集まる人よねぇ(誰だそれは)。新曲Cittaなんとかも3回目にして通してひけるようになっちゃったし(本当はこないだの練習で既にひけていた)、オレグにも入ったしみんな優秀だしバパはやる気満々だなぁ〜。バリ行きが楽しみ。


2000年1月1日(土)
元旦だわ。初詣?にSGIインドネシアの新年勤行会に行く。私がこの頃あっち方面に行けない事情を知らない人からは「日本に帰ったのかと思ってた!」と言われる言われる。まぁこの状況を説明するのは難しいです。私も納得してないし。それでもやっぱりみんなに会えると嬉しいなぁ。

びっくりしたのはMさんとこの長男&次男で、こないだポンポン隊とかやっていたのに、今はうちの夫より大きくなっちゃってるんだもん。ひょえ〜って感じ。

「インドネシア母の日」を記念して(本当は12月だ、それ)みんなの手芸展示会みたいなのを同時開催。私は日本人グループのスタンドのコンパニャン。他のスタンドも賑わってたけど、「これ売り物じゃないの?」なんて聞かれちゃったりして、「やっぱ日本人って器用ね〜」ってみんな思ったみたい。私は他に芸がないので「え?」のコーナーにも載っけている絵をプリントアウトして額に入れて出品。欲しい!って言う人がいるから(この展示会の責任者。おいおい……)あげることにしました。ホント値をつけちゃえば良かった。なんちゃって。

どんなことをしていても、誰に会っても「これが最後の……」って思っちゃうようになったなぁ。特にSPIにはそう頻繁に来られないしさ。Jakartaでの生活も100日をとうに切っちゃったよ。


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