ある日のガメラン部 その3 バリ行き綺談編
BGMにSekar Sandatを聴く
BACKHOME

この文章はジャカルタ・ジャパンクラブの会報誌「Berita Jakarta 1997年9月号」に掲載されたものに加筆・訂正したものです

(おことわり:これはフィクションですが、実際の事象にとーっても関係あります)

■97年3月

楽園で天女たちが舞っている。金糸銀糸もあでやかな衣をまとい、なめらかに指を動かすたびに鈴を鳴らすようなきらきらした音がする。きらきら、ちりちり、きらきら、じりり……って、そりゃ目覚ましや!ということは朝!?……あっ違う、電話だ。やれやれ……。寝ぼけ眼をこすりながらベッドサイドの受話器を取り上げると、慌てた声が耳に飛び込んでくる。

「えらいこっちゃ盧(る)っちゃん!」
 この声はガメラン部の牧さん。
「えー?あ……牧さんか……おはよー」
 まだ楽園の余韻が残っていて盧の頭はうまく回転していない。
「ちょいと、お昼寝もいいけど、寝ぼけてる場合じゃないの。今JJS(ジャカルタ日本人学校)の来年度の時程の説明会が終わったとこなんだけど、運動会が6月29日でほぼ決定みたいよ!どうする?」
「どうする?って日本人学校の運動会と私に何の関係が……あ今度うちの子も1年生か……6月29日???ぇえっマジ?それってアートフェスティバルの翌日ってこと?」

完璧に目が覚めた。あっ、天女が行ってしまう。ま、待ってくれぇぇ。ついでに世界が音を立てて崩れていく。あぁぁぁ。

アートフェスティバルは、毎年、インドネシアの学校が長期の休みになる6月中旬から7月中旬にかけて、バリで行われる芸術祭である。ここでは、現代・古典を問わず、音楽から舞踊・演劇・絵画・写真・料理など、インドネシアを中心とした世界中の芸術家が集まり、ありとあらゆる種類の「芸術」の腕が競い合われる。盧と牧が所属しているジャカルタジャパンクラブ・ガメラン部も、あろうことか6月28日、出演を予定していたのである。

勢いに任せて初めて出演した1996年は無知が災いした。まずは、締切を何カ月も過ぎてから申し込んでしまった。
「6月の行事なら4月に申し込めば十分よねー」
なんてインドネシア人よりものんきなコトを言っていたのだ。本当は年明けには書類選考、その後のオーディションなどを経て3月までに参加資格を得る、というのが正式な手順だったらしい。後からそれを聞いて真っ青になったものである。そんな手続きを無視して受け入れてくれるあたりがインドネシアらしいなと感動もしたのだが、当然「枠」はもう一杯だったわけで、その結果、人のよいバリ日本人会の持ち時間にぐりぐりと割り込むことになってしまったのだ。さらにその日は平日だったため、涙を飲んで参加を見送った部員も多かったのである。

本場バリでの晴れ舞台……行けるものなら一度は参加したいというのがみんなの本心だった。よっしゃ、それなら「行こう」と思う人がいるうちに!と、今年は年明け早々にアートフェス実行委員会に打診をした。なるべく多くの部員が参加できるように、
「土日で、しかもJJSの中間休業に重なりそうな6月下旬に出演させて下さい」
というガメラン部からの要望に対し、委員会から誠意あふれるドンピシャの返答をもらったばかりだったのだ。既に他の日も埋まっているようだし、今更変更は許されるか? 土日が取れなかったら、最低人員に達しなくて計画は流れてしまう。今のままでも、運動会の前日まで母親が何日か家を空けることになり、そんなことはJJSに子供を行かせている人にはできないだろう。それを配慮して組んだ予定だったのに……。

「おーい、盧っちゃん、生きてるかぁ!Pengurus(≒世話役)の意見を聞きたいぞぉ」
業を煮やして牧が叫んだ。
「ん……そだね……。牧さんの仕事増やして申し訳ないけど、委員会にお伺い立てるしかないよね。28日の次の週で土日が空いてないか」
「繰り上げるのは危険だぁね。OK。連絡取ってみる。運動会の雨天順延てのが怖いケド」

世界の強豪が集うアートフェス。去年は無我夢中というより五里霧中。「取り合えずやってみました」レベルの演奏だったが、もう一度チャンスがあるならもっといい演奏をしたい。でも仮に今回がだめになったとしたら、ニョニャ(≒奥様)に“来年”はない。誰しもいつ本帰国が決まるかわからない身であり、バリまで行きたいと思う物好きが来年10何人も部に集まる保証もない。盧は祈るような気持ちで受話器を置いた。

次の月曜日、練習が終わると、バリ行きコーディネーターである牧がみんなに言った。
「アートフェスの日程が決まりました。7月5日土曜日、これ以上日にちは動かせないからねって念を押されちゃった。後は練習あるのみ、だね」
みんな感慨深げに頷いた。最大多数の最大幸福を望んでこの日程を組んだが、蓋を空けてみれば、間近になってダンナの急な出張が決まり、この日にしたために子供を見てくれる人がいない!ということにならないとも限らないではないか?もはや頭上に幸運の星が輝き続けてくれることを願うしかない。


■4月

演奏曲目が決まった。本来ガムラン奏者は自分の担当の楽器が決まっていて、死ぬまで(?)それを担当し奥義を極める。ところがガメラン部員はジャカルタ生命が短いことを悟っているので、今はできるだけ色々な楽器の経験を積んで、極意に達するのは老後の楽しみにしようと思っている(かい?)。今回のステージは合計13曲、約2時間弱である。なるべく公平に前に出られるよう曲毎にポジションを振り分けるが、これを決めるのも一苦労である。人を好きになるのに、遠くから眺めているだけで満足な人もいれば、骨まで愛したくなってしまう人まで様々なように、ガムランに対する感情だって十人十色である。

牧は新入部員達を見回して言った。
「1.2曲目のギラ・ササッとスカル・ガドゥンはそんなにややこしいことないから、新しく入った人がギインをしない?」

ギインはいわばバンマスである。みんなより一回り大きな楽器で旋律を奏でる、その気持ちよさをなるべく多くの人に味わってもらおうというのがガメラン部の伝統である。しかし新入部員の何と遠慮深いことか。

「や、やだ。そんな中心なんて私達にはまだ……」
「この曲なら、ギインもプマデも叩き方は同じだよ?……ね、どこいくの?後ずさりなんかして」
「……」
 ……新入部員たちは微笑みだけ残して固まってしまった。
「あれ、壁になっちゃったよ、この人達……。羽田さん、ちょっと発掘お願いします」
 部長の羽田は木槌を片手に新入部員を掘り起こしに向かった。

「んね、ね、わたしにプスパの太鼓をやらして!」
瞳を輝かせて館山ガメリが言った。彼女は日本でも音楽を専門にやっていて、ジャカルタに着いて荷物も片付かないうちにガメラン部に入った人である。ガメランきち○い(略してガメきち)の大親分といえる。
「踊りと合わせる太鼓は特にややこしいからニョニャ達には無理だってバパが」
「それは教えんのがややこしいっていう意味やろ?必ず叩いてみせるから、やらして!」

太鼓はガムラン・オーケストラの指揮者である。単純な曲なら今までも発表会でやってきたことはあるが、プスパという曲の太鼓は華麗つまり複雑で即興も多い。しかし。
「どんなパートもやる気と勇気があればできるんじゃない?館山さんがこんだけ言うんだからバパに頼んでみようよ。いざとなればバパが教えてくれなくてもテープから音を拾えるかも」
盧の言葉に牧も頷いた。
「んじゃ、その交渉と、プスパでの館山さんの相方は盧さんに任せた」(太鼓は二人一組が原則である)
「え」
まさかの展開だが、最終的に本当にビデオやテープから音を拾うハメになったのである……。忙しさを招く体質というのはこういうのである。

「羽田さん新人さんたちは?」
「ええ、新しいところで桝居さん、松崎さん、白木さんがギインを引き受けて下さるって」
賽は投げられた。


■5月

選挙!選挙!どの道を通ってもポスターだらけ、あっちもこっちもキャンペーンの車で道がふさがっている。ガメラン部の練習場所の近くには黄色い政党の人達の大きな拠点があり、彼らのキャンペーンの日は行きも帰りもエラい騒ぎである。乗っている車をひっくり返されるんではないか、という恐怖心のおまけつきである。松崎が車から降りるなり青い顔をしてまっすぐトイレに飛び込んだ。ついこの間おめでたが判明したところなのだ。

「これからが大変だ……えっとぉ……2年ぐらい身籠るんだっけか?」
「象とちゃいますがな」
「……どうしてすぐ漫才になっちゃうかな。えーと、今妊娠が分かったという事は?」
「バリ行きの頃が一番不安定なんじゃない?」
 戻ってきた松崎をみんな心配そうに見た。
「大丈夫。わたし、何があっても行きます

まだ少女のような彼女は花のごとき笑みをたたえ、しかし凛として言い放った。盧も去年「死んでも行く」と宣言していたが、本番まぎわにデング出血熱にかかり、退院後ふらふらの体で、それこそ死ぬ思いでバリに行った。以後“何があっても”の類は気安く誓わない方が良いと思っている。バリ行き前には代々の部長が転んで打撲傷を負うというジンクスもある。全員が何事もなく日々を過ごすことのなんと難しいことか……。

「誰かの携帯電話が鳴ってる!」
電話のベル音に敏感な桝居が叫んだ。彼女がいなければ練習場所に携帯を持ってきていても無意味である。ガムランの轟音の中では呼出音も聞こえない。続けざまに他の人の携帯も鳴りだした。
「みんな、JJSの緊急連絡網が回ってきたよ!今日の特大のキャンペーンに巻き込まれたらヤバいから、子供達は早い時間に緊急一斉下校をするんだって」
「大変!わたし今すぐ帰らなきゃ。子供が閉め出されちゃう」

この日を最後に選挙が済むまで全員で練習ができなくなるなどと誰に予想できただろうか?日に日に激しさを増す選挙運動。万一のことを考え、部としても外出自粛の方針を打ち出さざるを得なくなってしまったのだ。しかし転んでもタダでは起きないガメラン部員。それぞれの家で心ゆくまで謎の楽譜と格闘し、かえって練習量は増えたようだ。選挙で一番迷惑したのはガメラン部員の近所の方々かもしれない。


■6月上旬

「うわぁ、本物のガムランはいつ触っても気持ちえぇわ」
副部長の桃井が言った。久々の全体練習。しかも、鉄製の練習用ガムランではなく、本物のガムランに慣れるために先生の家に来ているのだ。もちろんこのガムランを当日使えるわけではない。バリまでガムランセットを運んだりしたら運搬料で部は破産してしまう。当日どんな楽器が出て来るかは分からないが、音を止める練習だけは練習用のガムランではやりきれないのだ。演奏のキレもコクもこのtutupの技術に左右される。本物のガムランで音をきちんと止めて一曲演奏すると汗だくになる。ほとんど力仕事、体力勝負の世界だ。しかし不思議なことに、本物のガムランでひくと何者かが勝手に体を動かしてくれるという現象も起きる。

「楽器にほおずりしてる場合ちゃうわ。な、ここひいて。どぉしてもリズムが狂うんよ」
「どれどれ」
桃井が指さした楽譜の箇所をひこうとした会計の中本は一瞬たじろいだ。
「えーと?どんな曲だっけな?」
一緒にひこうとした毛利も黒岩も絶句した。
「あかん」
「Saya(=私)バリ人化してる……」

バリの人達はゴマンとある曲を全て見て聞いて覚えるが、外国人の私達に短期間で教えるために先生はバリ文字でとはいえ楽譜を起こしてくれた。この楽譜はバリ人でも高等音楽教育を受けた人でないと通じない。今まで何回か先生以外のガムラン奏者がアシスタントとして指導に来てくれたことがあるが、彼らはある曲のある部分を頭出ししていきなり演奏することも苦手である。自分の教えてもらいたい所を伝えるために曲の始めから何回歌ったことか。ところが、今この体質がガメラン部員に伝染しつつある。

「こんなんやなくて、もっと速よぉ叩けるようなトコがうつってほしいわ」
桃井はうなり声をあげた。
はい、はい。嘆いてないで練習しますよ」
羽田の仕切りも切れ味を増している。何しろ既に秒読み体制なのだ。


■6月中旬

先生の家はバンカという地域のガン(≒路地)を入ったところにある。車を乗り入れることができないので、どんなお嬢様育ちのニョニャであろうとも、ネズミの死骸や西瓜の丸ごと浮いている川に沿って、しばらく徒歩で行かねばならない。近所の子供達も最初は見慣れぬ外国人の群に戸惑っていたが、今は盛んに声をかけてくる。はじめは中国語らしき言葉で話しかけてきた子達も、いつの間にかどこからか日本語を仕入れている。

「アリガト」
「ワタシハインドミー(ラーメンの名前)ガダイスキデス」(そういうCMがあるのです)
「カワイー」
この言葉に対しては
「あら、大人には『きれい』とおっしゃい」
と、思わず正しい(?)日本語の使い方を教えてしまう部員もいた。

この先生の家には週2回の全体練習と、それ以外に個別に特殊な楽器の担当になったものがそれぞれの都合に合わせて通いつめた。インドネシアで一番日本人ニョニャに歩かれたガンの一つであろう。


■6月下旬

今日からカイン(=布)を腰に巻いて練習することになった。当日はクバヤ(インドネシアの代表的民族衣装。長袖のブラウスみたいなの)にカイン、頭にはサングル(つけ髷)をつけてバリのイブ(=母、ミセス)に変身するガメラン部員だが、普段は自分で納得する拍を取るために足は好き勝手なところに伸びていたりするし、下手すると悪いアンヨは移動の際に楽器をまたいでしまう。それは非常にお行儀の悪いことなのだ(どうしてもまたがなければいけない時は「permisi」(=失礼)と楽器に一声かける。ホントです)。そこでそういう事にこだわりのある先生は当日の窮屈さに慣れるためと言いつつ部員のお行儀矯正作戦に出たのであった。

曲も大方仕上がってきた。この辺でいつも感心するほど細かい先生のチェックが入るのである。
「ニョニャ、頼むから能面のような顔で演奏しないでね。コワイから。それと、曲を始めるときに頷き合わないでね。ヘンだから。あと、楽器には大きなアンチョコは貼らないでね。目立つから。そうそう、ギインの木槌は予備を用意しといてね。飛ばしちゃう人がいるから……」(木槌そのものを飛ばす人とか、木槌割っちゃう人とか……誰のことかなぁ)

バリでの宿泊先の部屋割りも簡単ではなかった。
「名簿通り入部順で組んでくってのは?」
「新しく入った人は前日不安で寝れなくって、古い人達の部屋ではリハのコレクシ(=ダメ出し)で盛り上がってやっぱり眠れないとかさ、ろくな結果にならなさそう……」
「じゃあ名簿の前と後ろから組んでくのは?」
「あら、私、美津島さんとか市原さんとかの若い人達のおじゃまになるのはいやだわ」
「誰もじゃまだなんて……。あっ、16人だと3で割り切れませんね。2人部屋には誰が?」
 羽田の発言に、すかさず美津島は話題をそらした。
 柏木が真顔で行った。
「んじゃ、一つはバパと……話の合うとこで、盧さんしかないね」
「……バパは会場の近くに自分ちがあるんだよ。何で私と同室になんのよ」

その時ドアがノックされ、ドアの側にいたカトリーヌ初鳥が見知らぬ妙なおじさんが来ているとみんなに言った。ときどき包丁セットや鍋セットを売りに来る人や、なんだかよくわからない募金を集めたりする人が来るのである。そのテかと思ってみんな気持ちを追い返しモードに入れると、彼は名刺を差し出した。

「私ブリタ・ブアヤのチョ・ヘンダロと申します」
なんのことはない、ぬぼーっとした彼は先生の知り合いの新聞社の人だった。部長の羽田、コーディネーターの牧と最古参の盧に、バリ公演にむけてインタビューしに来たのだった。しかしインタビューとは名ばかり。彼はガムランが世界のあちこちで演奏されているということを話すだけ話して帰っていってしまった。後日掲載された記事では羽田の名が畏れ多くも“ハッタ(初代副大統領の名)”になってたし。何だったんだ?彼の印象はこの一言に尽きる。超・変だろ?


■7月4日

いよいよバリ入りである。こんな日に限って(限らないケド)飛行機が1時間以上も遅れてしまい、空港から会場にご飯も食べずに慌てて駆けつけたもののリハーサルは全曲できなかった。しかも、設置された借り物のガムランを叩いて部員の顔はひきつった。ガムランはセットによって微妙に音程がちがうものだが、今回のこれは“微妙”なんて可愛らしいものではなく、長調の曲をひいたつもりが短調に聞こえる、あるいはその逆というツワモノだった。つまり正しく叩いても何だか全然違う曲をひいているように聞こえて自信がなくなってしまうのである。楽器によっては音が割れているのもあり、すっかり音の分からなくなった盧は舞台前方中央でひくトロンポンの曲をまるまる立ち往生するという屈辱を味わった。

この音に、何としても明日までに慣れなくてはいけない。今日できなかった曲は明日ぶっつけ本番でやらなくてはいけない。そんな状況の中でも、みんなペロリと夕御飯をたいらげ、アートフェスの夜の部を見物にいく者もいた。ああ、ガメラン部員……生き馬の目を抜く芸能・芸術・マスコミ畑で生きてきた人もあれば、生粋のお嬢様、一筋縄ではいかない生徒を相手にしてきた教育関係者、筋金入りの“普通の”OL、肝っ玉かあさん……バックグラウンドは様々だが、なんとみんな不屈の根性をもっている事よ。


■7月5日

「さあ、いよいよ本番です。今まで練習してきた成果を存分に発揮してください。今日はサラスワティの日です……」スタンバっている舞台裏。みんなを集めた先生はそこで言葉を詰まらせた。

サラスワティはヒンズーの文芸の女神で、今日はバリでは彼女に感謝を捧げる祝日である。偶然にも大トリの曲は“サラスワティ”。私達には分からないが、今日その曲を演奏するのはバリの人にはかなりの意味があるのだろう。先生の目は涙で潤んでいる。berkaca(=鏡・ガラスになる、転じて涙ぐむ、の意)とはよく言ったものだ。先生のあふれんばかりの涙に、みんなの姿が映っている。長く暑く苦しかった練習の日々をそこに見た人もいただろう。決して完全に仕上がったと言える状態ではない。しかもジャカルタの「どれも同じ曲に聞こえるもんね」という人達を相手に演奏するわけでもない。観客の誰もが曲を知り尽くしている、と思うと不安と緊張で手が冷たくなってくる。でもここで引き返すわけにはいかない。先生はそれ以上言葉を続けられなかった。

「……さあ、祈りましょう」
 それぞれのスタイルでしばし黙祷した。しかし気持ちは一つ……どうかみんなが思う存分力を発揮できますように……。

ブンブンで演奏される“砂山”のメロディに合わせてジャカルタ・ジャパン・クラブの真っ赤な法被を羽織ったガメラン部員が入場していく。始めは“キモノ”を着て途中でクバヤに早変わりするという先生の悲願がここにようやく実現することになった。ギラ・ササッ、スカル・ガドゥン、プスパ・ルスティ、タブ・ガリ、レボン、マヌクラワ、スカル・サンダット、スカル・ジュプン、アルム、コサルヤ・アリニ、サラスワティ。無我夢中のうちに演奏は進んでいく。今まで何の問題もなかった曲で頭が真っ白になる人もいれば、星野のように本番で初めて完璧にひけたという人もいる。誰かが間違えまくったら誰かが涼しい顔でフォローし全体としての和を保つ。いつの間に培ったのやら高度なチームワークである。観客も去年の冷やかし体勢とは大違いだ。難曲がはじまるとおおっと歓声が上がり、いわゆるブレイクでは口笛つきの拍手が起こる。会場に一体感が高まる。ああ、ガムランやっててよかった

全ての演奏が終わった。万雷の拍手。この曲が始まったら帰るというしきたりのウィレン・プラバワが終わっても席を離れる観客はいなかった。日本から応援に来たガメラン部OG達は立ち上がって大拍手。知らず知らずのうちにガメラン部員たちの頬を涙がつたう。長い長い道のり……私達はやりきった!


■後日

年末あるいは年始にジャカルタで行われる、バリダンス部との合同発表会についてのインタビューと称して、チョ・ヘンダロ氏が練習場所を訪ねてきた。
「来年のバリはぼくも取材に行くよ」彼はにこやかに言った。
「ら、来年?」部員達は顔を見合わせた。
「そ。仲間もみんな楽しみにしてるからね」

世の中そんなに甘くないと思いつつも、部員達はあの熱い感動が胸に甦えるのを抑えることはできなかった。私達は何に魅入られてしまったのだろう?神々に捧げられる芸術に満ち満ちたバリを、ガムラン奏者として再び訪れられるとしたら……やっぱり行きたいと思ってしまう……でも……。

「はい、はい。何はともあれ練習、練習」
羽田が木槌を振り回した。

そう、あの輝く出来事を、ただの思い出にしないためにも、今は練習、練習……。


TOPBACKHOME