■まずは御礼
さる1996年2月10日、ジャカルタジャパンクラブ婦人部員およびその子女による 第19回バリダンス・ガメラン合同発表会 が開催されました。当日は記録的な大雨と大洪水で、出演者ですら会場までたどりつけない、あるいは出番ぎりぎりに駆けつけるという状況の中、例年より少ないとはいえかなりのお客様に来ていただきました。しかも会場は停電の影響でクーラーが入らず、ほとんどサウナ状態。「3キロは痩せた」とはある部員さんの弁ですが、出演者も汗だくなら、お客様もプログラムをうちわ替わりにパタパタ。そのような中で辛抱強く私達の舞台を見て下さった全ての方に心から御礼申し上げます。本当に本当にありがとうございました(来られなかった方も決して心苦しくなんかならないでください。私も家を出る時には既にずぶぬれで「何でここまでして?」と思ったものです)。そして全関係者同志!ご苦労さまでした!!
■本文
ガメラン部はジャパンクラブの中でそう歴史のある部ではないが、私の知る限りいつも 存続の危機 に迫られていた。こう書くと大袈裟だが、つまりはいつも部員数が少なかったのである。だいたい15人前後でようやく部として成り立っているというのに、発表会に前後して本帰国が決まってしまう人がぼろぼろ出たりして、木槌を片手に、私達の明日はどっちだ……と途方に暮れたこともないではなかった。加えて昨今のジャカルタの日本人住宅事情の推移にともない、私達は 練習場所ジプシー になってしまっていた。というのも、ガメラン部では基本的に1ヶ月交代でお互いの自宅を練習場所として使用してきたが、それは、練習場所とは別に楽器をしまっておく部屋があり、私達の出す騒音があまり近隣にご迷惑とならない(であろう)一軒家に限られていた。以前なら15人部員がいれば3人前後が自宅を提供できず肩身の狭い思いをし、他の人も1年に1回我が家がガムラン屋敷になってしまうだけですんでいた。
ところが今や圧倒的にアパートに住む人が多くなり状況は逆転した。一軒家に住むガメラン部員は日本で季節が移り変わるよりも速くガメラン部ご一行様を受け入れる番が巡ってきてやつれてしまう。これはもう練習場所を持ち回りにするのは無理だという結論に達し、外部の施設を借りて練習をしたこともあったが、これも理由はともかく最終的にはポシャった。ついには全くの部外者のお宅を、しかもその方が日本に帰国中にお借りするなどという 前代未聞の恥知らず なことをしてしまうほど私達は追い込まれたのである。
ついつい辛酸の時代の話が長くなってしまったが、実はこのごろは違うということが書きたかったのである。大御所であり不世出のOさんが帰国してしまい、ああ、胸にポッカリ穴が……と思っているところに電話がかかってきた。
「 ガムランに興味がある ので見学したいのですが……」
この手の電話は非常に喜ばしい。ガムランを始める人には主に2種類ある。ひとつは周囲のガムラン好きに誘われていつの間にか入部しているというパターン。こういう人はやればできるのに勝手に「ガムランは難しそう」だと敬遠し、在イ残り1年というところで入部してきて、送別会で 「 もっと早く入ればよかった…… 」 と言う人である。ほんとにそういう人にはとっとと入ってほしかったのである。
もう一方はもともと音楽が大好きで、船便の荷物の片づけも済まないうちから「ジャカルタミニガイド」などを見て部長宅に電話をし、翌週には練習場所に現れている人である。後者は音楽を長く、あるいは専門的にやってきた人が多く、ガムランが肌に合えば重要な即戦力となる。故に、くだんの電話を受けたときの部長の喜びは尋常の域を越え、ガメラン部についてキャッチセールスも顔負けの熱弁をしたかもしれない。(98年注:2代目Oさんとも言えるガメリちゃんには事あるごとに「あの時のるっちゃん恐かった」と言われている)
そんな電話をどれくらい受けたのだろう、はっと気付けばガメラン部は25名を越える大所帯になってしまった。かつて先生から「24人そろえばNyonya(≒奥様)だけで演奏できる」と言われたことがあり、その時は「どこに24人もそんな 物好き が……」と思ったものだが、その夢のような話が今回の発表会では現実となってしまった。しかも新しく入った人達の半数近くは電話組で、例の象形文字のようなバリ文字の楽譜がわかりづらいといって、五線譜に書き直してしまうOさんのような人がゴロゴロいるのである。練習場所は、持ち回りは依然として無理にしても、ようやく部員宅で練習できる状況にはなった。先生も今までになくホクホクしている。
この先生というのは愉快な方だ。公務員にして芸術家。覚えの悪い私達に対しても忍耐強く、ここの人にしては珍しく(失礼)先々のビジョンを持っている。例えそれが芸術家らしく、いかにも実現不可能なものであったにしてもだ。例えばこんな感じだ。
「いつか発表会でこういうのやりませんか?出だしではみんなバリの衣装を着てバリの曲を演奏するんだけど、途中からキモノに 早変わり して日本の曲を弾く。今まで誰もやったことがないし、みんな驚くんじゃないかな?」
それはみんなさぞ驚くだろうが、いったい誰にできるというのだ?(98年注:悲願は実現しました)ま、この頃のガメラン部員はどんな話に乗り気になるかわからない人が集まってきてはいるが。また先生は意外と細かい提案をなさったりする。一昨年の発表会の反省会でのことだ。
「演奏はすばらしかったけど、Nyonyaの髪型がバリ人みたいじゃなかった。それだけが惜しかったなぁ、と 友達が言っていた」
仮装大会をしているのではないのだが……と思いつつ、私は髪を伸ばし始めた。長さもちょうど良くなってきて、次は自分の髪でなんとか形が作れそうだと思っていたある日。先生が例の友達の話を持ち出してきて、今回は全員サングル(つけ髷)をしてはどうかとおっしゃる。しかしその時の私の髪は諸般の事情によりまっ茶っ茶でサングルの色とマッチしないこと甚だしい。配付された烏の濡れ羽色のサングルを合わせてみて、みんなが「るっちゃん変!」と大笑いしている中で、イブ(先生の奥様で主にダンスを指導されている)は「 Tidak apa apa (大丈夫)」という。どこがどう大丈夫なんだ!髪の短い日本人のガムラン奏者はおかしくて、色の合わないサングルをつけているガムラン奏者はおかしくないというのか!いや、絶対おかしい。私は自分が「変」なことには自信があるが、浮いていい場所と悪い場所は弁えているつもりだ。
そこで私は何とか髪を黒くしようと考えた。しかし、若かりし頃、髪を黒くしようと染毛剤を使ったらよけい茶色くなってしまったという苦杯を喫したことがあり、恐くて染められない。coba(試)してみたカラーリンス等の効果が露ほども認められないまま発表会を迎えたが、後からビデオを見て、なるほどこれは「Tidak apa apa」だと思った。カメラにとらえられた私の髪はライトを浴びてふだん以上に真っ茶色だったが、サングルは陰になって殆ど見えない。よしよし。しかし、とすると、恥ずかしがり屋のガメラン部員が涙をのんで 秘匿のおでこ を人前にさらし、サングルを付けなければならない理由は何なんだ?
話は飛ぶが、前回の発表会の模様は翌日にRCTI(とあるテレビ局)のニュース番組Seputar Indonesiaで放映された。この反響はものすごかった。月曜日、ふだんは寡黙なうちの運転手が突然「Nyonya、TV見たか?」と聞く。いつもTVは殆ど見ないので「いいや」と答えると、私とMが写っていたニュースを偶然見たのだと非常に嬉しそうに話す。確かに私は目立つパートを受け持っていたし、控え室ではチグハグな色の頭でMに着付けをしているところを撮られているのには気付いていた。その絵は面白がられても不思議ではない。しかしニュースの内容を子細に繰り返す彼の話ぶりは、まるで自分か自分の親戚が大手柄をたてたニュースが放映されたようで、「うん、そうだね、私知ってるんだその発表会のこと。やってたのは自分だから」と思ったほどだ。
その後も十数人のインドネシア人から抱きつかれんばかりに「ニュース見たよ」と言われた。数回しか会ったことのない人にまで「TVに出てたでしょ」と言われる。主人ですら見破れない私達の 変装 がこういう人にわかるとは不気味である。そして人に紹介するときに「ほら、あのTVに出てた」なんて言ってくれる人まで現れる。自分のことのように喜んでもらえるのは嬉しいのだが、どうもやりすぎのような気がする。
この騒ぎはジャカルタにとどまらず、発表会のすぐ後バリに遊びに行った友人は、現地の人に「自分はガムランを習っている」という話をしたところ、「あのニュースを知っているか」と聞かれ、自分がその発表会に出ていたというのもあまりに嘘臭いので適当に話を合わせてしまったと言っていた。日本人のテレビ信仰は相当なものだと思っていたが、この国の人も負けず劣らずである。ここまでくると自分が見ていないのが悔やまれる。
今年もあの悪天候のなか取材に来てくれた局があり、やはり翌日同じ時間帯にニュースとして放映された。今回は去年の轍を踏むまいとテレビの前に陣取っていたのでしっかりビデオで録画までできた。しかし、まわりの反応が去年と大違いだ。誰もうんともすんとも言わない。それもそのはず、 TVRI(国営テレビ)の英語ニュース だったからだ。いったい、これはこの国で誰が見ているのだろう?Mのおじーちゃんおばーちゃんに見せるには英語の方が良かったかも知れないが、日本じゃこのビデオ見れないよな……。パルだし……とほほ。
何だかガムランに関係ない話ばかりになっているので話題を変えよう。私たちの習っているバリガムラン・ Gong Kebyar の1音階は5音から成り、主体をなす楽器は大きいものからギイン・プマデ・カンティルといって、1台2オクターブ(?)=10枚の鍵盤が並んでいる。そしてどれも木槌みたいなもので金属の鍵盤を叩く。叩き方の中にCecandetanという技法があり、ものすごく単純な例を挙げれば、12345678と聞こえる音を打つのに、Aさんは12−(休)−56−−と叩き、Bさんは−−34−−78と叩く、というのは「ある日のガメラン部 その1」で述べた。
大抵、主旋律を奏でるのは音の低いギインで、それを支える装飾を前列にいる中位の音程のプマデが奏で、さらに派手な飾りを後列で高音のカンティルが担当する。ただ皆で主題を奏でるような時には、ギインとその両脇のプマデとカンティルが旋律(ポロス/ガメラン部用語でヒタム=黒)をひき、両端のプマデとカンティルは高音部(サンシ/同じくメラ=赤)をひくというのが基本である。基本的にメラはヒタムの3個右隣の音を叩けばいいので、慣れてしまえばどうということはないのだが、CecandetanではBさんに当たる部分をひくことになり、実際の複雑なリズムでは結構メラはひきにくくなる。そのためこのパートは割と上級者向きと判断され、敬遠されがちである。その辺を知っていて先生もある曲の練習のはじめの段階でこう言った。
「Nyonya yang lama(=古い奥様)はメラを練習してほしい」 するとみんな顔を見合わせて「誰がlama(=古い)だって?」「あなたでしょ」「あなたよ」と何だかむきになって譲り合っている。そして誰かが「 歳の事じゃない のよ」と言ったので大笑いしてしまった。
このメラとヒタムの配置は先に述べたように真ん中にヒタム、それを挟むようにしてメラが並ぶことに決まっている。聞く人にとってのバランスがいいからだ(ろう)。しかし、隣で違うことを叩かれると上手くいかない人もいる。私達はメラのパート担当になった人はメラ同士でまとまって座って練習したいと先生に申し出るのだが、長い期間それをすることは許してもらえない。今回の発表会ではRebongという曲がこのヒタム・メラの難易度が高く、担当の人は当日まで胃に穴が開く思いだったようだ。
惨憺たる苦心の末に 恐ろしい計画 が持ち上がってきた。何としてもメラとヒタムでまとまって座りたいから、発表会当日に配置を先生に内緒で変えてしまうのはどうだ、という一大プロジェクトだ。本来ならば前列のプマデ、後列のカンティルともギインを挟んでそれぞれ両脇にいるヒタムのさらに外側に座るメラを、2人並べて、プマデは右側にメラ、カンティルは左側にメラが来るようにすればいいという。
ホントはこんな感じ
カンティルの列→●●■●●
プマデの列→ ●●■●●
それを……
カンティルの列→●●■●●
プマデの列→ ●●■●●
こうするという話。「何をご冗談を」と思ったが「これならバランスも悪くないし」と頷きあうみんなの顔はかなり真剣だった。しかし、私にはそのプランを上申する勇気はなかった。結局、何の小細工もなしに、ひたすら練習し、祈るような気持ちで迎えた当日のRebongの演奏は、それはそれは、 涙 が出るほど 見事 にCecandetanが決まっていた。
苦労するといえば、どういうわけだかガムランの演奏中にはたった3回の繰り返しが数えられなかったりする。特に全体に合図を出すギインや太鼓の人がこの繰り返しの数を間違えるとえらいことになる。そこで自ずと色々な工夫がこらされるわけだが、「るっちゃんはどう数えてるの?」と聞かれたことがあった。
私が今一番気に入っているのは色を思い浮かべる方法である。1回目なら赤、2回目には黄色、3回目は青をずっと頭の中においておく。これは「1回目、1回目……」というコトバを思い続けながら演奏するよりは労力が少ないし、演奏がかたくならない。こう答えると、質問した人は「そりゃいい」と言って試し始めた。しかし、しばらくして「あっ」と演奏を中断して曰く「今、何色を思い浮かべてたっけな?」。もうこうなるとお手上げである。
そんなこんなで発表会では様々な想わぬ事が起きる。そこが生演奏の醍醐味なのかもしれないが、小心者の私達はいつも心臓がはちきれそうな思いをしている。特にインドネシアの人と協力して発表会系のことをする時には日本人の繊細な神経が恨めしくなったりもする。私達はリハーサルの段階で寸分違わず本番通りにやってみたいと願っている。しかし、それは叶えられた試しがない。
例えば去年の発表会では、ある曲に突然 うなり声 が入って全員度肝を抜かれた。それが歌だと気付くまでに随分時間がかかったような気がする。後から先生に「お願いだから当日何かを付け足すのはやめてくれ」と懇願したら、
「リハーサルでも歌っていたんだよ。ただマイクが切れていてみんなには 聞こえなかったみたい だけど」と言われてしまった。しかもその曲は打ち合わせでは3回繰り返しの予定だったのに実際には4回繰り返された。私は独りみんなから引き離され舞台の真ん中でトロンポンという楽器を弾いていたのだが、こういうヤなパートは早く終わろうとしか考えていなかったので、赤・黄色・青と自信をもって3回数えたところで、終わり!と思って楽譜から目を離してしまった。ところがどういうわけか演奏はまだ続いている。
私達がふだん練習に使っているガムランと本番のガムランでは金属の材質が違い、音程も違っているために、楽譜から目を離した今となってはみんながどの音を叩いているのかつかめない。そりゃ1個1個音を確かめながらひけばわかるけれど、演奏中に舞台の中央でそんなみっともないことはできない。頭が真っ白になった瞬間、「何者か」が私を助けてくれた。私は自分が何をしているかわからないままその曲を無事ひき終えた。これはもう サンヒャン (≒神憑り)状態だ。
けったいなことを体験したなと思っていたら、今年はもっと驚くことがあった。トロンポンは練習用のものがなくほとんどぶっつけ本番になるため、家で叩き方だけでも練習できるようにと先生がトロンポン用のバチを貸してくださった。さあやってみようと構えてみたら、このバチは自分から動くのだ。コックリさんのように字を書いたりという派手な動きをするわけではないが、私がむきになってトレモロをしようとすると「そうじゃないでしょ」といわんばかりに震える。あるいは片手ばかりに熱中すると「こっちも忘れないで!」と反対側が震えるのだ。やっぱりバリにはまだ 神々がいる のかもしれないと思ってしまった。
もともとここでの生活は驚きには事欠かないが、今年の発表会のプログラムにも驚かされた。バリダンス部とガメラン部のモットーは「 昨日より今日は進歩していなければならない 」らしい。立派だ。真面目すぎる。初めて知ったなと思ってバリダンス部の人に聞いてみたら、彼女たちも初耳だそうだ。どうやらこれは部のモットーというよりも先生のモットーらしい。
そういわれて思い返してみると、ガメラン部にあっては、発表会では毎回新しい試みがあるし、日々の練習では毎週何かしらできるようになっていく。それがほんの些細な「何か」であったにしてもだ。打ち出したモットーを実行しているとは、素晴らしい先生ではないか。時折、発表会の前日に「ここはこう変えた方がもっとbagus(≒素晴らしい)」とか言ってくれちゃうが、それも熱心さから来るものだと思えばいたしかたあるまい。
進まざるは退転 という。育ち盛りを過ぎてしまった人間としては、多少無理と思えることでも挑戦して、一歩でも二歩でも前進できるなら、そういう機会は決して逸したくはないと思う。ああ、ありがたやガメラン部。今年は我が部にどんなびっくりが飛び出すのか楽しみである(98年注:生半可なびっくりではありませんでした。バリ・アートフェスティバルに出演しちゃったんですから)。