|

|
|
|
|

|
|
|
|
|
|
15世紀末のイタリア半島
教皇領以北は名目上神聖ローマ帝国に含まれます(ヴェネツィアを除く)
サヴォイア公国はピエモンテを含んだ領域で表しています
|
|
|
|
|
|
|
【ベルギオジョソ侯国】 Principato
di Belgiojoso
|
|
|
Barbiano di Belgiojoso
|
|
|
|
【バルビアーノ家の紋章】
盾上部の赤い十字と銀赤のチェック。赤色の十字架はジェノヴァの紋章です。
ベルギオジョソはパヴィア近郊にあった小邦で、ミラノの貴族バルビアーノ家が統治していました。アントニオ1世マリアは神聖ローマ帝国の帝国伯に叙され(1715年)、以後、帝国の大使などの要職を歴任し、1769年に帝国諸侯となりました(在位1769−79)。
Checky argent and gules, on a chief argent bearing
a cross gules (Genoa).
|
|
|
Barbiano di Belgiojoso
d'Este
|
|
|
|
【バルビアーノ・ディ・ベルギオジョソ・デステ】
エステ家の紋章との組み合わせ。
第二代ベルギオジョソ侯アルベリコ(在位1779−1813)は1757年にモデナ=レッジョ公女アンナ・リッチャルダ(エステ家)と結婚したので、家名を「バルビアーノ・ディ・ベルギオジョソ・デステ」と改称しました。
Quarterly 1 and 4. or a double-headed eagle sable
crowned or (Este), 2 and 3. France a bordure
indented gules and or (Este), over all per pale
Barbiano and Este.
|
|
|
|
|
【ジェノヴァ共和国】 Repubblica
di Genova
|
|
Argent a cross gules.
|
|
|
|
|
ジェノヴァは古代リグリア人が建設した都市が起源で、早くから商港として栄えました。ローマ時代も北イタリアの中心都市として繁栄しますが、ローマの衰退とともに衰えました。西ローマ滅亡後は、東ローマやゲルマンのロンバルド王国、フランク王国の支配を経て、1099年に共和国が成立しました。共和国は地中海貿易で栄え、13世紀にはコルシカ島を併合するなど領土を広げました。
共和国は1339年にドージェ制に移行。しかし、この頃からたびたび隣国によって占領され衰退していきます。1396年にフランスに占領され、1409年にはモンフェラートに併合されました。1415年に独立を回復するものの、15世紀後半はミラノとフランスによる占領期間でほぼ占められ、独立を維持できたのはごく短期間でした。
1528年にアントレア・ドーリアが神聖ローマ帝国の援助を受けてフランスの支配を排し、共和国を復興させました。
1797年にフランス革命軍に占領され、翌年リグリア共和国となり、1805年にフランスに併合されました。ナポレオン体制崩壊後、一時共和国が復活するものの、ウィーン会議の結果、サルデーニャ王国領となりました。
共和国の紋章は銀地に赤い十字で、12世紀前半から共和国の紋章として用いられました。盾持ちはグリフォンで、姿勢にはバリエーションがあります。冠は1637年以前はオープンタイプ、それ以降はクローズドタイプが使われました。
|
|
|
|
|
|
【グァスタッラ公国】 Ducato
di Guastalla (1431 Marchesato, 1621 Ducato)
|
|
|
銀地に先の広がった赤十字と、十字の間に四羽の黒鷲。
1402年に伯領として成立し、1431年に侯国(辺境伯領)となりました。初代君主家のトレッリ家は16世紀に男系が途絶。1539年にマントゥヴァ侯フェランテ・ゴンツァーガがトレッリ家の女子相続人から領土を購入し、以後、同家によって統治されました。グァスタッラの紋章はゴンツァーガ家の紋章から採られています。1621年に公国に昇格。グァスタッラのゴンツァーガ家が1746年に絶えると、公国はオーストリアに占領され、翌々年にパルマ=ピアツェンツァに割譲されました。ナポレオン体制崩壊後に独立の公国として再興され、ナポレオン皇后マリア・ルイーザに与えられました。その後、ルッカやモデナ領となり、1860年にイタリア王国に編入されました。
Argent a cross paty gules between four eagles
sable.
|
|
|
1539-1746
|
|
|
|
【1539年以降】
中央の小盾はゴンツァーガ家の紋章で、ボヘミアとゴンツァーガの組み合わせ。
マントヴァ侯ジョバンニ・フランチェスコ3世とイザベッラ・デステの息子フェランテが、1539年にグァスタッラの領土を購入し、グァスタッラ系ゴンツァーガ家を興しました。同家は1746年に絶え、公国はオーストリア領となりました。
Argent a cross paty gules between four eagles
sable, on an escutcheon over all Gonzaga.
|
|
|
|
|
【ルッカ共和国】 Repubblica
di Lucca
|
|
|
【共和国の紋章】
斜め帯に自由・自由権という意味のレタリング。
元はトスカーナ辺境伯領の一部で、女伯マティルダ没後の混乱期に都市コムーネが成立しました。その後コムーネを排した領主によってルッカ公国がつくられました(1327年)。しかし、1、2年単位で次々と公が代わり安定せず、1341年にフィレンツェに征服されました。フィレンツェ、ピサ、神聖ローマ帝国の支配を経て、1369年に共和国として独立。隣のフィレンツェ共和国とは商業上の覇権をめぐって対立し、徐々に圧迫されるものの、1799年にフランスに占領されるまで独立を保ちました。
1805年にナポレオンはルッカ=ピオンビーノ公国を作り、妹のエリーザとその夫フェリーチェに進呈しました。
|
|
|
【ルッカ市章】
ルッカ市の市章です。ルッカでは共和国の国章と市章は区別されていたそうです。
Per fess argent and gules.
|
|
|
|
|
【ルッカ公国】 Ducato
di Lucca (1805-1814 Principato)
|
|
|
Principato di Lucca e
Pionbino
|
|
|
|
【ルッカ=ピオンビーノ】
中央の小盾にフランス帝国の鷲を収め、背後の盾は二分して、ルッカ(銀赤に二分した盾地に金色のパンサー)とボナパルト家の紋章を組みました。
1805年、フランス皇帝ナポレオン1世は、妹のエリーザをピオンビーノ女侯に、その夫フェリーチェをルッカ侯とし、両者を連合させて新国家を作りました。エリーザはさらに1809年にトスカーナ女大公に即位しました。
Per pale Lucca (per fess argent and gules a panther
rampant regurdant or) and Bonaparte, over all azure
a French imperial eagle or.
|
|
|
1818-1824
|
|
|
|
【1818−1824年】
中心の盾はブルボン=パルマ。中間の盾はルッカ。背後の盾は大きく四分割され、それぞれの区画にメディチ&ファルネーゼ、カスティーリャ&レオン、ゴンツァーガ(グァスタッラ)、オーストリア&ロートリンゲンを組んでいます。
ウィーン会議の結果、ルッカ=ピオンビーノはルッカ公国として存続し、エトルリア(トスカーナ)王国摂政だった王太后マリア・ルイーザに与えられました(在位1818−24)。
Quarterly, 1. per pale Medici and Farnese, 2.
quarterly Castile and Leon, 3. Guastalla, 4. per
pale Austria and Lorraine, an escutcheon Lucca,
with over all Bourbon-Parma (France a bordure gules
eight escallops argent.).
|
|
|
1824-1847
|
|
|
|
【1824−1847年】
中央の小盾はブルボン=パルマ家、背後の盾はルッカ市、スペイン。
マリア・ルイーザの死後に公位を継いだ息子のカルロ・ロドヴィーゴ(前エトルリア王)は紋章をシンプルな構成に改めました。その際に、ルッカの紋章は都市の紋章と同じになりました。
1847年にパルマ女公マリア・ルイーザ(ナポレオン皇后)が没すると、カルロ・ロドヴィーゴは旧領パルマに復帰し、ルッカ公国はトスカーナ大公国に吸収されました。
Quarterly Lucca (per fess argent and gules) and
Spain (Castile-Leon), over all Bourbon-Parma.
|
|
|
|
|
【マントヴァ公国】 Ducato
di Mantova (1403 Marchesato, 1530 Ducato)
|
|
|
Gonzaga
|
|
|
|
【ゴンツァーガ家の紋章】
金と黒の6分割図形。
マントヴァは11世紀にトスカーナ辺境伯に属し、伯家の断絶後はマントヴァ共和国を形成しました。共和国は1309年に崩壊し、1328年にゴンツァーガ家の所領となりました。ゴンツァーガ家は翌1329年に神聖ローマ帝国の代官となり、紋章もその頃に作られたと考えられています。
ゴンツァーガ家は1403年に侯位を得、第二代侯ジャンフランチェスコ1世(在位1407−44)の治下に大いに発展し、ルネサンスの文芸の中心地としての下地が整えられました。フランチェスコ2世(在位1484−1519)と妃イザベッラ・デステ、その子フランチェスコ2世の時代、マントヴァにはダヴィンチ、ラファエロ、テッツィアーノら、ルネサンスを代表する芸術家達が集いました。
Barry of six or and sable.
|
|
|
【1394年】
神聖ローマ王兼ボヘミア王ヴェンツェル(皇帝位は非承認)からボヘミアの紋章が授与されました。また、1403年に皇帝ジギスムントによってマントヴァは侯国とされ、さらに四羽の黒鷲の紋章も授かりました。黒鷲の紋章はその後、マントヴァとグァスタッラの紋章になりました。
In 1394, Emperor Wenceslas, king of Bohemia granted
to the arms of Bohemia.
|
|
|
1397
|
|
|
|
【1397年】
1397年に、フランチェスコ1世(在位1382−1407)は、ミラノ公ジャン・ガレアッツォは、ヴィスコンティ家の紋章の使用を許可されました。しかし、既に神聖ローマ皇帝からも紋章を授かっていたため、ミラノとの組み合わせはごく短期間しか用いられませんでした。
Quarterly Visconti and Gonzaga. Francesco I.
Gonzaga were permitted to use the arms of Visconti
by Gian Galeazzo, duke of Milan.
|
|
|
1510-1519
|
|
|
|
【マントヴァ侯】フランチェスコ2世(在位1487−1519)
フランチェスコ2世は1510年に教皇領の長官職を授かり、その職位を表す紋章を加えました。
In 1510, Francesco II. was made gonfalonier and
added the insignia of the office.
|
|
|
1531/1533-
|
|
|
|
【1531年】
中央の小盾はビザンツ、ボヘミア、マントヴァ、イェルサレム、アラゴン、モンフェラート、ザクセン、バール、コンスタンチノープル(パレオロゴ家)。背後の盾はゴンツァーガ(マントヴァ)。小盾に組まれた紋章のうち、ボヘミアとゴンツァーガ以外はモンフェラート侯国の紋章です。
マントヴァ侯フェデリーコ2世は1530年に神聖ローマ皇帝カール5世から公位とオリンポス山をかたどったクレストを授かりました。その翌年、モンフェラート侯国の女子相続人マルゲリータと結婚して侯国を相続。モンフェラートの紋章が組み込まれました。
In 1531, Federico II. married Margherita Paleologo,
heiress of Montferrat, and succsessed marquessate
after the death of the last male of the Paleologo
line in 1533.
|
|
|
Vincenzo I. (1588-1612)
|
|
|
|
【マントヴァ公】ヴィンツェンツォ1世(在位1588−1612)
中央上部にオーストリアの紋章が加わりました。即位時に神聖ローマ皇帝ルドルフ2世より使用が許可されました。
ヴィンツェンツォ1世の母エレオノーレは神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の皇女で、ヴィンツェンツォ1世と皇帝ルドルフ2世は従兄弟同士です。オーストリアの紋章はその血縁によって許可されたのでしょうか。
The escutcheon of Austria surmounted by an
archducal crown in point of honor is granted by
Emperor Rudolf II, cousin of Vincenzo I.
(1588).
|
|
|
1780-1797
|
|
|
|
【18世紀末】
中央にハプスブルク=ロートリンゲンの紋章が組まれました。
カルロ4世(在位1665−1708)には嗣子がいなかったため、彼の死後、公国は、オーストリア(ミラノ公国)に編入されました。
After death of Carlo IV, last duke of Mantua who
had no issue, Mantua was annexed to Austrian
Northern Italian domains.
|
|
|
|
|
【マッサ=カラーラ公国】 Ducato
di Massa e Principato di Carrara
|
|
|
Stemma della famiglia
Malaspina
|
|
|
|
【マラスピナ家の紋章】
金と赤で横分割された盾地の上に5本の枝と銀色の花を持つセイヨウサンザシ、あるいは、棘のある植物。
マラスピナ家の紋章です。家名Malaspina中のspinaは、茨など棘のある植物を意味するので、名前にちなんだ意匠が採用されました。元々は立木の形で描かれましたが、時代が下り、他の紋章と組み合わせられると、さまざまな姿で描かれました。しかし「棘のある植物」という点では一貫しています。
マッサ=カラーラは現在のマッサ=カラーラ県の県都マッサとカラーラ市を中心とする領域で、ピサ領でした。1421年にマラスピナ家が掌握し、ほどなくピサの支配を脱して辺境伯領(侯国)が成立しました。
Per fess or and gules a thorn branch sable five
flowers argent in pale.
|
|
|
Stemma della famiglia
Cybo
|
|
|
|
【チボー家の紋章】
赤字に銀青のチェックの斜め帯。盾上部の赤十字はジェノヴァの紋章です。
マラスピナ家の女侯リッチャルダ(在位1519−46)はフェレンティッラ伯ロレンツォ・チボーと結婚し、チボー=マラスピナ家が誕生します。ロレンツォの父フランチェスコはローマ教皇インノチェンチウス8世(魔女大勅書を発して魔女裁判を誘発させた教皇)の私生児で、母親はメディチ家のロレンツォ豪華王の娘マッダレーナ。家格が上だった母の紋章はチボー家の紋章に組み込まれ、以後18世紀末まで残りました。
Gules a bend chequy of three rows argent and azure,
on a chief argent bearing a cross gules
(Genoa).
|
|
|
16th-17th. century
|
|
|
|
【16世紀以降】
チボー=マラスピナ家が誕生してからの紋章です。盾の上部には「LIBERTAS(自由)」とレタリングされた帯をつかむ神聖ローマ帝国の双頭の鷲が置かれ、下部はマラスピナ家の紋章の上にチボー家の紋章が置かれています。マラスピナ家の紋章はかなり変形され、以後、多くのバリエーションが生まれます。チボー家の紋章の中央には、チボー=マラスピナ家初代のアルベリコ1世の祖母、マッダレーナ・ディ・メディチの紋章が置かれました。
帝国の鷲の紋章は皇帝マクシミリアン2世(在位1564−74)から与えられたもので、1568年にマッサが侯国(Principato)に昇格した時に加わりました。
マッサは1663年に公国に昇格します。
Malaspina with an escutcheon of Cybo, on a chief or
a double-headed eagle crowned sable holding a
scroll argent inscribed 'LIBERTAS'.
Medici in fess point of arms of Cybo is Maddalena
de' Medici, grandmother of Alberico I.
(1527-1623).
|
|
|
1731-1790
|
|
|
|
【マッサ=カラーラ女公】マリア・テレーザ(在位1731−90)
チボー=マラスピナ家の紋章が分解され、モデナの紋章が加わりました。また、マラスピナの紋章と組まれていた神聖ローマ帝国の鷲がチボー家の紋章と組み合わせられました。マリア・テレーザ時代の紋章にはバリエーションがあり、マッサ=カラーラとモデナが並べられた紋章(結婚紋章)も使われました。
マリア・テレーザはモデナ公エルコレ3世(在位1780−1803)と結婚し、エステ家と合同します。夫のエルコレ3世はマッサ=カラーラの君主とはならず、マリア・テレーザの死後は娘のマリア・ベアトリーチェが即位しました(在位1790−96、1814−29)。なお、マリア・ベアトリーチェの息子フランチェスコは1803年にエルコレ3世の跡を継いで、オーストリア=エステ家を興しました。
|
|
|
1790-1796
|
|
|
|
【マッサ=カラーラ女公】マリア・ベアトリーチェ(在位1790−1829)
チボーの紋章の中央の紋章がメディチからオーストリアに置き換えられました。
マリア・テレーザとモデナ公エルコレ3世の一人娘で、1771年にオーストリア大公フェルディナントと結婚しました。母の死後、マッサ=カラーラを相続。1796年にフランス軍に占領されて領土を喪失。しかし1814年に公国が復興されて復位を果たしました。
なお、父親のエルコレ3世の跡は息子のフランチェスコが受け継ぎました。マリア・ベアトリーチェの死後、フランチェスコによってマッサ=カラーラとモデナの合同がなされました。
an escutcheon in fess point of Cybo is Austria.
Maria-Beatrice Cybo-Malaspina d'Este married
archduke Ferdinand of Austria in 1771. She succeed
to the duchy in 1790.
|
|
|
|
|
【ミラノ公国】 Ducato
di Milano
|
|
Quarterly the Empire and Milan.
|
|
|
|
|
北イタリアにあった公国で、初代公家のヴィスコンティ家は14世紀初頭にミラノの支配を確立し、1394年に公位を得ました。ヴィスコンティ家が1447年に断絶すると、公国の傭兵隊長だったフランチェスコ・スフォルツァが公に就き、以後スフォルツァ家の統治が始まりました。スフォルツァ家の統治下に芸術や文学が栄え、公国の宮廷ではレオナルド・ダ・ヴィンチらが活躍しました。ところが、断絶したヴィスコンティ家と姻戚関係だったフランスが継承権を主張して侵攻し(1499年)、以後30年にわたってフランスの占領とスフォルツァ家の復位が繰り返されました。
1535年にスフォルツァ家が絶えると、神聖ローマ皇帝カール5世が公位に就き、以後、スペイン、次いでオーストリア領となりました。
1797年、ナポレオン率いるフランス軍に占領され公国は消滅。代わってチサルピナ共和国が建てられ、イタリア共和国(1802年)を経てイタリア王国(ナポレオン王国)に編入されました。ナポレオン体制崩壊後はロンバルド=ヴェネト王国となり、1859年にかつてのミラノ公国の領域はサルデーニャ王国に併合されました。
|
|
|
|
|
|
|
Visconti
|
|
|
|
【ヴィスコンティ家の紋章】
子供を飲み込む毒蛇。初代ミラノ公となったヴィスコンティ家の紋章です。
その後、冠が加えられ、さらに毒蛇の色が青色に変更されました。
ヴィスコンティ家の紋章は、イタリアの自動車メーカー、アルファロメオ社のマークにも取り入れられています。
Argent a serpent vert (in later versions azure)
swallowing a child gules.
|
|
|
1402?-
|
|
|
|
【15世紀以降】
冠が加えられました。
管見の限りでは、冠はジャン・ガレアッツォ(在位1395−1402)までは無冠で、次のジョヴァンニ・マリア(在位1402−12)から冠が確認できました。
|
|
|
1397-
|
|
|
|
【ミラノ公国】
神聖ローマ帝国の紋章が組み込まれました。
ミラノは1394年にローマ王ヴェンツェルによって公国に昇格させられました。その3年後の1397年に帝国の鷲を組み込んだ紋章が制定されました。
この紋章はヴィスコンティ家を継承したスフォルツァ家、そしてハプスブルク家にも引き継がれます。
冠の植物の飾りは17世紀になると取り去られるようです。
|
|
|
variation
|
|
|
|
【ミラノ公国】
上の紋章のヴァリエーションです。
|
|
|
-1700
|
|
|
|
【スペイン=ハプスブルク時代】
スペイン王国の紋章の中央にミラノの紋章が組まれました。また、冠がクローズドタイプに変更されました。
紋章構成は、上段がカスティーリャ&レオン、アラゴン&シチリア、グラナダ、小盾はポルトガル。中段はオーストリア、ブルゴーニュ(新)、小盾はミラノ。下段はブルゴーニュ(古)&ブラバント、小盾はフランドル&ティロルです。
|
|
|
1740-1780
|
|
|
|
【1740年以降】
マリア・テレジア時代の紋章です。ミラノの紋章の中央にオーストリアが組まれました。
|
|
|
1780-1796
|
|
|
|
【1780年以降】
小盾がオーストリアとロートリンゲンの組み合わせに変わりました。マリア・テレジアの跡を継いだヨーゼフ2世以降の紋章です。
1796年にナポレオンに征服され、ミラノ公国は終焉を迎えました。ナポレオン体制崩壊後は、新たにロンバルド=ヴェネト王国が建設され、ミラノの紋章も同王国の紋章に組み入れられました。
|
- 歴代ミラノ公 Duchi
di Milano
|
|
|
Francois I.
(1515-1521,1524-1525)
|
|
|
|
【ミラノ公】フランソア1世(在位1515−21、24−25)
フランスとミラノの組み合わせ。
フランス王フランソア1世の紋章です。フランスは1515年、マリニャーノの戦いに勝利してミラノを獲得します。1521年に皇帝カール5世との戦争が勃発してミラノを失いますが、その後奪還。しかし、1525年のパヴィアの戦いでフランソア1世自身が捕虜になるという大敗を喫し、ミラノはカール5世(スペイン)の支配下に入りました。
パヴィアの戦いは防護柵に守られた1500挺のスペイン鉄砲隊によってフランス騎兵隊が壊滅させられるという、長篠の戦いを彷彿とさせる会戦でした。
|
|
|
Felippe II. (1540-1598)
|
|
|
|
【ミラノ公】フェリペ2世(在位1540−98)
スペイン王フェリペ2世の1558年までの紋章です。向かって左側がスペイン、右側がイングランドで、両者をまたぐようにミラノの紋章が組まれています。
スペイン王太子時代にミラノ公となったフェリペ2世は、1554年にイングランド女王メアリー1世と結婚し、イングランドとの連合が成立しました。ミラノでのスペインの紋章は、父カール5世の代に登場し、以後のスペインの紋章となった構成です。他の地域やメアリー1世の紋章ではもっと複雑な構成になっています。また、向かって右側のイングランドの紋章も、ミラノでは序列に逆転が見られました。
From 1554 to 1558 Felippe II. used as arms of
Milan: per pale Spain and England, overall an
escutcheon Milan.
|
|
|
Phillip V. (1700-1706)
|
|
|
|
【ミラノ公】フェリペ5世(在位1700−06)
スペイン=ブルボン王家の紋章の中央にミラノの紋章が組まれています。
スペイン王国の紋章変更に連動した変化です。
スペイン=ハプスブルク家のカルロス2世の死後、スペインとその属領はアンジュー公フィリップが相続しました。しかし、これに異を唱えた列国はスペイン継承戦争を始め、その戦争中にミラノはオーストリアに占領されました。オーストリアのハプスブルク家による支配は、1714年のラシュタット条約によって確定しました。
|
|
|
Karl VI. (1707-1740)
|
|
|
|
【ミラノ公】カール6世(在位1707−40)
フェリペ5世の紋章のアンジューがポルトガルに差し替えられました。
スペイン継承戦争で対立スペイン王となったカール6世は、戦争終結後もミラノに対してはスペイン王のものとよく似た紋章を用いました。
|
|
|
Maria Theresia
(1740-1780)
|
|
|
|
【ミラノ女公】マリア・テレジア(在位1740−80)。
背後の縦はハンガリー、ボヘミア、ブルゴーニュ、ティロル。中央上部の小盾はオーストリア。オーストリア女大公の紋章にミラノを加えた形です。
|
|
|
|
|
【モデナ公国】 Ducato
di Modena (1452-1859)
|
|
arms of Franz Ferdinand :
Quarterly 1. Hungary ancient and modern,
2.Bohemia, 3. Galicia and Lodomeria, 4.
Nieder Oesterreich, over all per pale
Habsburg-Austria-Lorraine and Este,
surrounded by the Golden Fleece.
|
|
|
|
|
最後のモデナ公フランツ・フェルディナント(オーストリア皇太子)時代の紋章です。
モデナは1288年、エステ家のアンコナ辺境伯オビッツォ2世(在位1264−93)がモデナの統治者に選ばれ、エステ家による支配が始まりました。
ボルソ(在位1450−71)の代の1452年に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世によってモデナおよびレッジオ公に叙せられ、モデナ公国が成立します。次いで1471年には教皇パウルス2世からフェラーラ公に叙せられました。
しかし、エステ家のこの時代の活動の拠点はフェラーラで、フェラーラの宮廷はイタリア文化の中心地として栄えました。一方、モデナとレッジオは、アルフォンソ1世(在位1505−34)の時に一時教皇に奪われました。
1597年にエステ家の直系が絶えると、教皇を宗主にいただくフェラーラは没収され、代わってモデナがエステ家の本拠となりました。文化面では発展したものの、政治的には衰えていき、18世紀に入ると、オーストリアやフランスによってたびたび占領されました。
エルコレ3世(在位1780−96)の時にフランス革命軍によってモデナは占領され、リューネビルの和約の結果、代替地としてドイツのブライスガウが与えられました。エルコレ3世には男子がいなかったので、ハプスブルク家に嫁いだ娘マリア・ベアトリーチェの息子が跡を継いでオーストリア=エステ家を興し、1814年にモデナに復帰しました。
その後、立憲革命(1831年)や48年革命を経験。1859年にピエモンテのファリーニが独裁権を得たためフランチェスコ5世は国外に脱出。続いて行われた住民投票によってサルデーニャ王国への併合が決まりました。
なお、オーストリア=エステ家はフランチェスコ5世の代で絶え、エステ家の称号はオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントが受け継ぎました。
|
|
|
|
|
|
|
Este
|
|
|
|
【エステ家の紋章】
金地に冠を被った白鷲。
エステ家はゲルマンのランゴバルド系オベルテンギ家の分家で、10世紀初頭には辺境伯としてルッカ、パルマ、レッジョなどを支配しました。1049年前後に皇帝からエステ城を封として与えられ、それを家名にしました。紋章はエステ家成立の早い時期に定まったと言われます。
Azure, an eagle displayed argent, armed, beaked and
crowned or.
an open crown of alternating spikes and leaves (or
fleurs-de-lys) is shown on a coin (1782-1796).
|
|
|
1431-
|
|
|
|
【1431年以降】
赤と金の山形模様の縁取りがされた百合花紋は、1431年にフランス王シャルル7世から下賜された紋章です。
16世紀にモデナの紋章として定着したそうです。
Quarterly, 1 and 4. France a bordure indented gules
and or (granted by Charles VII of France), 2 and 3.
Este.
|
|
|
1452-
|
|
|
|
【1452年以降】
1452年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世によってロヴィーゴ伯と皇帝代官職を授けられ、神聖ローマ帝国の鷲の紋章とロヴィーゴ伯の紋章が加わりました。ロヴィーゴ伯の紋章は後に帝国の鷲に置き換えられました。翌1453年にモデナとレッジョは公国に昇格しました。
初期の頃の紋章では、双頭の鷲の頭上の冠はオープンタイプの冠でした。クローズドタイプの冠に置き換わるのは、皇帝冠のデザインが変更された16世紀以降です。
Quarterly 1 and 4. or a double-headed eagle sable
crowned or, 2 and 3. France a bordure indented
gules and or, overall Este.
|
|
|
1474-
|
|
|
|
【1474年】
1474年に教皇領の鍵の紋章が加わりました。
1471年、エステ家の本拠地で教皇宗主下のフェラーラは公国に昇格され、その3年後に教皇シクストゥス9世から教皇領の紋章が与えられました。
In 1474 Ercole I. was granted by Sixtus IV. the
papal keys.
|
|
|
1508-
|
|
|
|
【1508年以降】
1508年、アルフォンソ1世(在位1505−34)が教皇領の長官職に任ぜられたのを機に、三重冠が加えられました。アルフォンソ1世は翌年にはその職位を罷免されますが、教皇の紋章はそのまま残りました。
The tiara was added to the keys in 1508.
|
|
|
variation
|
|
|
|
【ヴァリエーション】
向かって右下にロヴィーゴ伯の紋章が組まれています。
1452年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世からロヴィーゴ伯および皇帝代官職を授けられました。ロヴィーゴの紋章はその後帝国の鷲の紋章に置き換えられましたが、本来の構成で描かれるバリエーションもあったようです。
|
|
|
Austria-Este (1806-1875)
|
|
|
|
【オーストリア=エステ家】
小紋章です。ハプスブルク=ロートリンゲン家の紋章(オーストリア&ロートリンゲン)との組み合わせ。
エルコレ3世とマッサ=カラーラ女公マリア・テレーザの一人娘マリア・ベアトリーチェは、1771年にオーストリア大公フェルディナントと結婚し、モデナはハプスブルク家に渡ることが確定。しかし、ナポレオン戦争によって公国はフランスに占領され、1796年にチスパーダ共和国に併合され消滅しました。
モデナ喪失の代償として1801年にブライスガウ(ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州内)を与えられ、マリア・ベアトリーチェとフェルディナントの息子フランツが1806年にブライスガウ公に即位し、オーストリア=エステ家が誕生しました。彼は1814年にモデナに復帰しました(モデナ公としてフランチェスコ4世:在位1814−46)。
In 1797 Ercole III d'Este lost Modena. His heiress
Maria-Beatrice Cybo-Malaspina d'Este had married
archduke Ferdinand of Austria (d. 1806) in 1771.
And their son Francesco returned to Modena in
1814.
|
|
|
Austria-Este (1875-1914)
|
|
|
|
【1875年以降】
1875年以降の小紋章です。ハプスブルク伯の紋章が加わりました。宗家であるオーストリア皇帝家の紋章に置き換えられました。
1859年にオーストリアとサルデーニャ王国間で戦争が勃発すると、フランチェスコ5世(在位1846−59)はオーストリア支持を表明したため、モデナはサルデーニャの侵攻を受けフランチェスコ5世は逃亡。モデナ復帰を試みるも果たせずに、翌1860年、公国はサルデーニャにに併合されて消滅しました。
ところで、フランチェスコ5世(在位1846−59)には世継ぎがいなかったので、その死に際し、エステ家の称号を親戚のフランツ・フェルディナントに遺贈しました(1875年)。
|
- 歴代モデナ公 Duchi
di Modena
|
|
|
Borso (1453-1472)
|
|
|
|
【モデナ公】ボルソ(在位1453−72)
初代モデナ公です。中央の小盾はエステ。背後の盾は帝国の鷲(加増紋)、フランス加増紋、ロヴィーゴ伯(色分けされた双頭の鷲の紋章)。
1452年、神聖ローマ帝国の代官職とロヴィーゴ伯に任ぜられたので、両者の紋章が加わりました。翌年にはモデナおよびレッジョ公に叙せられました。
なお、ロヴィーゴ伯の紋章は、後に帝国の鷲に置き換えられました。
Quarterly, 1. or a double-headed eagle sable
crowned or, 2 and 3. France a bordure indented
gules and or, 4. per pale azure and or a
double-headed eagle per pale argent and sable
crowned or (county of Rovigo, in later versions
Rovigo is replaced by Imperial double-headed
eagle), over all Este.
|
|
|
Caesar (1597-1628)
|
|
|
|
【モデナ公】チェーザレ(在位1597−1628)
嗣子のなかったアルフォンソ2世の従弟で後継者に指名されました。しかし、教皇クレメンス8世は、彼が私生児だという理由で相続を認めず、1598年にフェラーラを教皇直轄領に編入。チェーザレはモデナとレッジオは相続できたものの、以後のエステ家は徐々に政治力を失っていきました。
1605年、エステ家出身者としては最初の金羊毛騎士に迎えられました。
|
|
|
Ercole III. (1780-1803)
|
|
|
|
【モデナ公】エルコレ3世(在位1780−1803)
中央下部に、銀と青のチェックの斜め帯が加わりました。
チェックの斜め帯はチボー家の紋章の一部で、エルコレ3世の妃でマッサ=カラーラ女公のマリア・テレーザ(在位1731−90)の紋章から取り入れられました。君主同士の結婚でしたが、エルコレ3世はマッサ=カラーラの統治には関与しなかったので、両国は合同しませんでした。
1801年のリューネヴィルの和約によって、エルコレ3世はモデナを失い、代わりにブライスガウを与えられました。その2年後に彼が没すると、ハプスブルク家に嫁いだ一人娘マリア・ベアトリーチェの息子フランツが公位を継ぎ、オーストリア=エステ家が誕生します。
1751年に金羊毛騎士に、また1781年にフランスの精霊騎士団の名誉騎士に迎えられました。
Bend a chequy argent and azure is arms of Cybo
(Maria-Teresa duchess of Massa-Carrara, wife of
Ercole III.).
|
|
|
Franz Ferdinand
(1875-1914)
|
|
|
|
【モデナ公】フランツ・フェルディナント(在位1875−1914)
大紋章です。背後の盾は、ハンガリー王、ボヘミア王、ガリチア王&ロドメリア王、下オーストリア大公。オーストリア大公の紋章にモデナが加わった構成になっています。
フランチェスコ5世からエステ家の称号を遺贈されたフランツ・フェルディナントは、オーストリア皇太子ルドルフの自殺後、皇太子に指名されました。しかし彼はサラエボで暗殺され、これを発端に第一次大戦が勃発しました。
|
|
|
|
|
|
|
|
【モンフェラート侯国】 Marchesato
di Monferrato
|
|
|
銀地の盾の上部に赤色の横帯。
初代君主家だったアレラミッド家の紋章です。同家は初代アレドラムス(在位961−91)からおよそ350年に渡ってモンフェラートを支配しました。
1305年にジョヴァンニ1世が嗣子なく没して、同家の男系は途絶。彼の異母妹イレーネはビザンツ皇帝アンドロニクス2世の皇后となっていたため、その血縁でイレーネの子・テオドロス皇子が侯国を継承、パレオロゴス家(ビザンツ皇帝家)の統治が始まりました。
Argent, a chief gules.
|
|
|
1430?-1566
|
|
|
|
【15世紀以降】
パレオロゴス家時代の紋章です。背後の盾は、ビザンツ、イェルサレム&アラゴン、ザクセン&バール、コンスタンチノープル(パレオロゴス家)。
バールの紋章(金色の魚)は、テオドーロ2世(在位1372−1418)の妃ジョヴァンナ(ジャンヌ)の血縁で取り入れられたようです。ジョヴァンナの兄でヴェルダン司教を兼ねたルイ(在位1415−30)の死で公家は断絶したので、バールの継承権を主張して取り入れられたようです。
パレオロゴス家の女子相続人マルゲリータはマントヴァ公フェデリーコ5世に嫁いだため、侯国はゴンツァーガ家に渡ります。1566年にマルゲリータが没すると、彼女の息子グリエルモ1世が跡を継ぎ、同時に公国に昇格しました。
Quarterly, 1. Byzantium, 2. per pale Jerusalem and
Aragon, 3. per pale Saxony and Bar, 4. Gules a
cross between four letters B addorsed or
(Constantinople), over all Montferrat.
|
|
|
variation
|
|
|
|
【バリエーション】
16世紀にはより簡素化されたバリエーションも見られました。
Simplified variation : Quarterly Montferrat,
Byzantium and Constantinople.
|
|
|
|
|
【ナポリ王国】 Regno
di Napoli
|
|
|
【ナポリ】
フランス古紋章に赤色のレイブル。レイブルの足の本数にはバリエーションがあります。
フランスのアンジュー家の紋章です。シチリアのシュタウフェン王家を滅ぼしたアンジュー伯シャルルは教皇よりシチリア王位を授かりました。シャルルはシチリア晩鐘戦争(1282年)でシチリア島を失うものの、イタリア半島の領土と王位を確保しました。彼の王国はその後ナポリ王国と呼ばれるようになります。ナポリ王位はシャルルの子孫が継承していったので、アンジュー家の紋章がナポリの紋章となりました。
France ancient a label gules (Anjou).
|
|
|
1277-1382
|
|
|
|
【1277年以降】
1277年にシャルル1世はイェルサレム王位を主張したので、その紋章が組み込まれました。
この紋章は女王ジョバンナ1世(在位1343−82)まで使われました。ジョバンナ1世はシチリア王国を臣従させて勢威を高めますが、1378年に始まった教会大分裂でアビニョン派を支持したため、一族のハンガリー王カーロイに攻められ敗北、処刑されました。
Per pale Jerusalem and Anjou.
Charles of Anjou was ceded the rights to Jerusalem
by Marie of Antioch in 1277.
|
|
|
1385-1442
|
|
|
|
【1385−1442年】
ハンガリーの紋章が加わりました。シャルル1世の息子シャルル2世はハンガリー王家の女子相続人と結婚し、子孫はハンガリー王家とナポリ王家に分かれました。そのハンガリーのカーロイ王子が女王ジョヴァンナ1世を攻めて王位を奪い、次いでハンガリー王に即位したため紋章が変わりました。
彼の娘、女王ジョバンナ2世(在位1415−35)は後継者にアラゴン王アルフォンソ5世を指名。ところが、その後心変わりしてフランス=アンジュー家のルイ3世を擁立したので継承戦争に発展しました。1442年にアンジュー家が敗北し、ルイ3世の後継者ルネ1世が追放されて抗争は終わりました。
Tierced per pale Hungary ancient, Jerusalem and
Anjou.
Charles of Durazzo murdered his second cousin Qeen
Giovanna I. of Naples in 1382 and took the throne.
He regined Naples (1382-1386) and Hungary
(1385-1386).
|
|
|
Rene I. (1435-1442)
|
|
|
|
【ナポリ王】ルネ1世(在位1435−42年)
縦の上段はナポリ王の紋章、下段はアンジュー(第3アンジュー家)、バール、ロートリンゲン。
兄ルイ3世の跡を継いでアンジュー公とナポリ王となったルネ1世の紋章です。彼は婚姻を通じてバール公とロートリンゲン公でもあったため、両公国の紋章も組まれました。
ルネ1世の紋章は時期や領土によって多くのバリエーションがあります。この紋章は娘マルグリット(イングランド王ヘンリー6世妃マーガレット。バラ戦争を起こした人物)も用いました。
Quarterly of six in two rows, 1. Hungary, 2.
Naples, 3. Jerusalem, 4. Anjou, 5. Bar, 6.
Lorraine.
|
|
|
1435-
|
|
|
|
【1435年以降】
アラゴン王国の紋章との組み合わせ。アラゴン王の紋章では、ナポリの紋章のレイブルが省略されることが多かったようです。
ジョバンナ2世の死後、ナポリ王位に就いたアラゴン王アルフォンソ5世(ナポリ王として1世:在位1435−58)は、アンジュー家の対立王達との戦いに勝利し、王国を確保しました。アルフォンソ王はすでにシチリア王にもなっていたことから、「両シチリア王」を名乗ります。しかし、王の死後、王国はふたたび分裂しました。
Quarterly Naples (tierced per pale Hungary, Anjou
and Jerusalem) and Aragon.
|
|
|
variation
|
|
|
|
【バリエーション】
上の紋章のヴァリエーションです。アラゴンを上位に置いた紋章も用いられたようです。アルフォンソ1世が用いた紋章のヴァリエーションですが、フェルディナンド1世(在位1458−94)もこれを引き継いでいます。
Quarterly Aragon and Naples.
|
|
|
Ferdinando
|
|
|
|
【ナポリ王】フェルディナンド
1503年、ナポリ王位を手に入れたアラゴン王フェルディナンド(カトリック王)は、スペイン王の紋章の第二区画のアラゴン=シチリアをナポリに差し替え、ナポリ及びシチリア王の紋章として用いました。
After annexation of Naples, Fernand V of Aragon
used as arms in Sicily and Naples: quatery, 1 and
4. Castile-Leon, 2. per pale Aragon and per pale
Jerusalem and Hungary, 3. per pale Aragon and
Aragon-Sicily, ente en point Granada.
|
|
|
Carlo I. (Carlos V)
|
|
|
|
【ナポリ王】カルロ1世(カール5世)
祖父フェルディナンドの紋章の上部に、胸にオーストリアの盾を付けた帝国の鷲の紋章を加えました。祖父からナポリとシチリアを受け継いだ直後の紋章です。
Carlo I. (Emperor Carl V) added a double-headed
eagle (crowned and bearing an escutcheon of
Austria) in chief.
|
|
|
Carlo I. (Carlos V)
|
|
|
|
【ナポリ王】カルロ1世(カール5世)
紋章構成が大きく変更されました。盾地は大きく四分割され、それぞれカスティーリャ&レオン、アラゴン&シチリア&ナバラ、ブルゴーニュ、ナポリが組まれ、盾下部にグラナダ描かれました。
Later: quarterly, 1 Castile-Leon, 2. quarterly
Aragon, Aragon-Sicily, Navarra and Aragon, 3.
Austria, Bourgogne modern, Bourgogne ancient and
Brabant, overall an escutcheon per pale Flanders
and Tyrol, 4. per pale Jerusalem and Hungary, ente
en point Granada, borne by an imperial
double-headed eagle.
|
|
|
Philippo I. (Felipe II.)
|
|
|
|
【ナポリ王】フェリペ2世(1555−58年)
向かって左半分がナポリ、右半分がイングランドの組み合わせ。
1555年にナポリ王国を継承したフェリペ2世は、前年にイングランド女王メアリー1世と結婚したので、二つの王国の紋章が組みあわせられました。向かって左上のスペインの区画は、スペイン本国とフェリペ2世統治下の諸領土、それに妃であるメアリー1世の紋章で異なっています。ナポリ及びシチリア王としての紋章では、ナポリを表すイェルサレムとハンガリーの紋章が組まれました。
From 1555 to 1558: Per pale, 1. per fess 1a.
quarterly, Castile-Leon, per pale Aragon and
Aragon-Sicily, per pale Hungary-Jerusalem and
Castile-Leon, 1b. Austria (Austria, Bourgogne
modern, Bourgogne ancient and Brabant, overall
Flanders and Tyrol), 2. England (quarterly France
and England).
|
|
|
Philippo I. (Felipe II.)
|
|
|
|
【ナポリ王】フェリペ2世
その後、向かって左半分がスペイン、右半分はナポリとシチリアという構成となりました。また、スペイン(カスティーリャ&レオン)の序列が通常とは異なっていました。
Per Pale, 1. per fess Leon-Castile and Burgogne
(Austria, Bourgogne modern and ancient and Brabant,
overall Flanders and Tyrol), 2. quarterly Aragon,
Jerusalem, Aragon-Sicily and Hungary.
|
|
|
【スペイン=ハプスブルク家時代】
スペインの紋章の下半分(ブルゴーニュ公の紋章)に組まれていた小盾(フランドル&ティロル)が中央に配置されました。
王冠の台座は葉花と棘状の飾りが交互に並んでいるデザインで、ブルボン朝になると、一般的なデザインに変わりました。
Until 1700: per pale, 1. per fess Castile-Leon and
Burgogne (Austria, Bourgogne modern, Bourgogne
ancient and Brabant), 2. quarterly Aragon,
Jerusalem, Aragon-Sicily and Hungary, with overall
an escutcheon per pale Flanders and Tyrol.
|
|
|
【スペイン=ハプスブルク家時代】
バリエーションです。背後の盾にカスティーリャ、レオン、ブルゴーニュ(新)、アラゴン=シチリアを組み、その中央にオーストリアとイェルサレム(ナポリ)を組んだ小盾を置いています。
Simplified Arms in 17th. century: quarterly 1.
Castile, 2. Leon, 3. Bourgogne modern, 4.
Aragon-Sicily, overall per pale Austria and
Jerusalem.
|
|
|
Carlo II. (Carl VI.)
|
|
|
|
【ナポリ王】カルロ2世(カール6世:在位1707−34年)
中央の小盾がオーストリアに変更されました。神聖ローマ皇帝カール6世のナポリ王としての紋章です。
スペイン=ハプスブルク家が断絶すると、王国はブルボン=アンジュー家(スペイン王家)に属しますが、1707年にオーストリア軍に征服され、ユトレヒト条約(1713年)とラシュタット条約(1714年)によって、神聖ローマ皇帝カール6世の領有が確定しました。カール6世は1720年にシチリア王ヴィットリオ・アメデオ2世との間でナポリ領サルディーニャ島とシチリア王国を交換し、シチリア王位をも手中に収めました。
Emperor Carl VI. replaced an escutcheon of
Flanders-Tyrol with Austria.
|
|
|
Carlo II. (variation)
|
|
|
|
【ナポリ王】カール6世(バリエーション)
カール6世の紋章のバリエーションです。中央の小盾はオーストリア、背後の盾は、カスティーリャ、レオン、ブルゴーニュ(新)、シチリア。
サヴォア公からシチリアを譲り受ける以前から、カール6世は「両シチリア王」を称しました。なお。両シチリア王の称号が次に登場するのは19世紀に入ってからでした。
Simplified Arms of Carl VI: quarterly 1. Castile,
2. Leon, 3. Bourgogne modern, 4. Aragon-Sicily,
overall Austria.
|
|
|
1734
|
|
|
|
【1734年】
スペイン=ブルボン家の支配が始まると、紋章が大きく変わりました。向かって左列はパルマとポルトガル、中央列はカスティーリャ&レオンとナポリ、右列はトスカーナ。中央の小盾はアンジュー(スペイン=ブルボン)。パルマの紋章は、カルロスが一時パルマ公に就いた関係で取り入れられたようです。
ポーランド継承戦争が勃発すると、列国の支持を取り付けたスペイン王子ドン・カルロスはナポリを占領し、カルロ3世として即位しました。以後、ナポリとシチリアはスペイン=ブルボン家によって治められました。
Carlos, infante of Spain (duke of Parma) conquered
the kingdom of Naples in 1734 and chanded arms; Per
pale of three lines, 1. per fess Farnese and
Portugal, 2. per fess Spain (per pale Castile and
Leon) and Naples, 3. Medici, overall Anjou.
|
|
|
variation
|
|
|
|
【スペイン=ブルボン時代】
盾中央列上部にシチリア王国の紋章が、向かって左下にブルゴーニュ(古)とフランドルの紋章が加わりました。
上の紋章のヴァリエーションで、こちらはナポリとシチリアの両王国に対して用いられたようです。
19世紀に両シチリア王国が成立すると、小紋章としても使われました。
Per pale of three lines, 1. Per fess Farnese and
per pale Portugal, Burgogne ancient and Flanders,
2. per fess, 2a, per pale Castile-Leon and
Aragon-Sicily, 2b. Naples, 3. Medici, overall
Anjou.
|
|
|
variation
|
|
|
|
【バリエーション】
ナポリの紋章が向かって左上に置かれ、中央列下部にエルサレム王の紋章が描かれています。
カルロ3世(在位1734−59)とフェルディナンド4世(在位1759−99、1799−1805)が発行したドゥカート金貨(貿易用金貨)に描かれました。
This variation appear on coin (Ducati;
1749-1769).
|
|
|
Regno di Due Sicilie
|
|
|
|
【両シチリア王国】
ナポリ王国から引き継がれました。盾を縦に四分割し、多くの紋章が組まれています。
向かって左列はパルマの紋章です。ファルネーゼ(パルマ)とオーストリア&ブルゴーニュ(古)をX字に配し、中央にポルトガルが置かれています。なお、ブルゴーニュ(古)は赤い縁取りが省略されています。中央二列は上にスペインの紋章、下にナポリとイェルサレムが組まれています。スペインの紋章は1700年に制定されたもので、カスティーリャ&レオン&グラナダ、アラゴン&シチリア、オーストリア、ブルゴーニュ(新)、ブルゴーニュ(古)&フランドル、ブラバント&ティロル。向かって右列はメディチ(トスカーナ)。
|
|
|
|
|
【パルマ公国】 Ducato
di Parma e Piacenza
|
|
|
Farnese
|
|
|
|
【ファルネーゼ家の紋章】
金地に青色の6個の百合の花。ファルネーゼ家の紋章です。
かつてのトスカーナ辺境伯領の一部で、女辺境伯マティルデの没後コムーネが成立。14世紀にコムーネが崩壊すると、多くの僭主が立ち、1346年にミラノ公が購入。以後ミラノ領となりました。その後1511年に教皇に寄進され、1545年にパルマ=ピアツェンツァとして公国が設置されました。ファルネーゼ家が1731年に断絶すると、公国はオーストリア領となりました。
Or, six fleurs-de-lys 3, 2 and 1 azure.
|
|
|
1545-1556
|
|
|
|
【1545年】
中央に置かれた鍵の紋章は教皇領の職位を表します。1545年にルイージが公位と教皇領の長官職を与えられたため加えられました。
初代公ルイージ・ファルネーゼ(在位1545−47)は教皇パウルス3世の庶子で、強権をもって領国を支配しました。しかし、半世紀前のチェーザレ・ボルジアの再来を恐れた貴族達によって暗殺されまました。
|
|
|
1556-
|
|
|
|
【1556年以降】
両脇がパルマとオーストリア&ブルゴーニュの紋章に変わりました。オーストリアの紋章は第2代公オッタビオ(在位1547−86)が皇帝カール5世の庶子マルガレーテと1556年に結婚したことで加わりました。
オッタビオは帝国およびスペインからの影響を強く受けました。彼の息子アレッサンドロはスペインの宮廷で養育され、スペイン軍人として輝かしい軍歴を築きます。
Quarterly Farnese and Austria-Burgundy, over all a
pale gules with the papal keys per saltire or and
argent and the umbrellino proper.
2nd. Duke Ottavio married Marguerite, a natural
daughter of Charles V in 1556.
|
|
|
from 16th century
|
|
|
|
【16世紀以降】
中央にポルトガルの紋章が加わりました。アレッサンドロ(在位1586−92)はポルトガル王女マリアと結婚したので取り入れられました。
アレッサンドロはスペインのネーデルラント総督として活躍し、南部ネーデルラントをスペインにつなぎ止めることに成功しました。
Quarterly Farnese and Austria-Burgundy, overall a
pale gules with the papal keys per saltire or and
argent and the umbrellino proper, on an escutcheon
over all Portugal.
Alessandro married Maria of Portugal (at the time
part of Spain).
|
|
|
1748-1802
|
|
|
|
【1748年】
中央の小盾はブルボン=パルマ家。中間の盾はスペイン。背後の盾はパルマとグァスタッラ。アーヘンの和約(1748年)によってオーストリアからパルマとグァスタッラを譲られたボルボーネ家(スペイン=ブルボン家)の紋章です。
フェルディナンド1世(在位1765−1802)の死後、公国はフランスに併合され、フェルディナンド1世の息子ロドヴィーコには、代わりにエトルリア王国が与えられました。ボルボーネ家は1847年にパルマに復帰します。
Per pale Farnese and Gonzaga, over all quarterly
Castile and Leon, over all Bourbon-Parma.
|
|
|
Bourbon-Parma
|
|
|
|
【ブルボン=パルマ家】
アンジュー公の紋章の縁取りの上に、8個のホタテ貝。ブルボン=パルマ家はスペイン王家(フランスのアンジュー公家)の分家なので、アンジュー公の紋章に図形を加え、分家ということを表現しています。
France a bordure gules eight escallops argent.
|
|
|
1815-1847
|
|
|
|
【1815−1847年】マリア・ルイーザ(在位1815−47)。
中央の小盾はハプスブルク、オーストリア、ロートリンゲン。背後の盾はパルマ、グァスタッラ。
ナポレオン体制崩壊後のウィーン会議によって、パルマはナポレオンの皇后マリー・ルイーゼ(オーストリア大公女)に与えられました。
なお、パルマ領グァスタッラは、ウィーン会議の結果、独立公国として再興されたので、マリア・ルイーザは二つの公国の君主を兼ねました。
Per pale Farnese and Gonzaga, over all
Habsburg-Austria-Lorraine.
|
|
|
1847-1859
|
|
|
|
【1847年以降】
組まれている紋章は、最背後の盾がパルマ、ゴンツァーガ&ロッシ、メディチ&マラスピナ(マッサ=カラーラ)、サヴォア、コレッジョ、パラヴィチーニ、コンスタンチノープル(パレオロゴス家)、ランディ。中間の盾はカスティーリャ&レオン、中央の小盾はブルボン=パルマ家。マラスピナの盾地の分割は、本来の彩色と逆転しています。
マリア・ルイーザが没すると、旧主ボルボーネ家がルッカから復帰しました。
復帰したカルロ2世(在位1847−49)と息子カルロ3世(在位1849−54)の短い治世の後、幼君ロベルト1世が母ルイーザ・マリアの摂政下に即位します(在位1854−59)。しかし、イタリア統一をめざすサルデーニャ王国に圧迫されて母子は亡命、パルマ公国は消滅しました(1859年6月)。
Quarterly of eight in three rows, 1. Farnese, 2.
per pale Gonzaga and Rossi, 3. per pale Medici and
Malaspina, 4. Savoy, 5. Corregio, 6. Pallavicini,
7. Constantinople, 8. Landi. Overall Castile-Leon,
with an escutcheon Bourbon-Parma
|
|
|
|
|
【ピッコロミーニ侯】 Principe
di Piccolomini
|
|
|
Piccolomini
|
|
|
|
【ピッコロミーニ】
ピッコロミーニ家は中部イタリア・シエナの名家で、大規模な商業活動によって勢力を伸ばしました。同家は教皇派(グェルフィ)に属していました。
ピッコロミーニ家からはピウス2世、ピウス3世の二人の教皇をはじめ、多くの著名人が出ています。
|
|
Principe di Piccolomini
d'Aragona
1461-
|
|
|
|
【ピッコロミーニ=ダラゴーナ侯】1461年以降。
ナポリ王国の紋章との組み合わせ。ピッコロミーニが優位に置かれることもあるようです。
アントニオ1世は1458年にナポリ王女ジョバンナ(アラゴン王家)と結婚し、ジョバンナの早世後の1461年にロッサーノ女侯マリア(アラゴン王族)と再婚しました。再婚時にナポリ王国内のアマルフィ公に叙せられました。
17世紀の当主オッタヴィオは、三十年戦争に皇帝軍の将として参加し武名を上げ、またヴァレンシュタイン暗殺にも関わりました。三十年戦争時の功により、1648年に神聖ローマ帝国の諸侯の身分を与えられました。その後は外交でも活躍し、オーストリア、スペイン両ハプスブルク家から厚い信頼を寄せられました。
Quarterly, 1 and 4. Naples
(Aragon-Hungary-Naples-Jerusalem), 2 and 3.
Piccolomini.
|
|
|
|
|
【ポルツィア=ブルニェラ侯国】 Principato
di Porcia e Brugnera
|
|
|
ヴェネツィアの北東、ポルデノーレ近郊にあった小国です。1662年にポルツィア=ブルニェラ伯ジョヴァンニ・フェルディナンド(ヨハン・フェルディナント)が神聖ローマ帝国の諸侯の地位を得ました。彼は1664年に帝国等族(神聖ローマ帝国の国会での議決権を有する身分)になりますが、その地位は翌年の彼の死で失われました。
ポルツィア家はワイナリーを経営しており、同家のワインは日本でも販売されています。どこかでこの紋章を目にした方もいらっしゃるかもしれません。
あるいは、初代ポルツィア侯の曾祖父アントニオの肖像画をルネサンスの大画家テッツィアーノが描いていますので、美術関係でポルツィア家の名前をご存じの方もいらっしゃるかと思います。
Azure, six fleurs-de-lys 3, 2 and 1 or, a chief
or.
|
|
|
|
|
【サルッツォ侯国】 Marchesato
di Saluzzo (1175-1548)
|
|
|
トリノの南南西にある都市サルッツォを中心とした領邦で、1142年、ヴァスト辺境伯ボニファーツィオの息子マンフレード1世が獲得して、サルッツォ家の統治が始まりました。マンフレード1世は死の直前に皇帝フリードリヒ1世からサルッツォ辺境伯に叙せられ、侯国(辺境伯領)が成立しました(1175年)。
サルッツォは、その立地から、隣国のサヴォアとの抗争が絶えず、サヴォアとの和議を勝ち取ったマンフレード2世(在位1175−1215)の没後、孫の摂政に立った妃アデラシアはサヴォアに朝貢して領土の保全を図りました。しかし、これがその後のサヴォアによる領土請求の根拠となりました。
1548年にフランスに征服されて侯国は消滅。領土は1601年にサヴォアに譲渡されました。
サルッツォ家はモンフェラートのアレラミッド家の一族と言われ、紋章もモンフェラートの色違いとなっています。
Argent, a chief azure.
|
|
|
|
|
【シチリア王国】 Regno
di Sicilia
|
|
|
1282-
|
|
|
|
【13世紀以降】
盾をX字に4分割し、上下にアラゴン、左右にシチリア(シュタウフェン家)の紋章を組んでいます。鷲の冠はしばしば省略されます。
アンジュー家の支配を嫌ったシチリアは、シュタウフェン家のマンフレディ王の娘コンスタンツァを女王に据えるべく、1282年、「シチリア晩鐘戦争」を起こし、その結果、シチリア王国はアンジュー家が支配するイタリア半島の「ナポリ王国」と、コンスタンツァの嫁ぎ先アラゴン王家が支配するシチリア島の「シチリア王国」に分裂しました(1286年)。シチリアの紋章はコンスタンツァの夫アラゴン王ペドロによって制定されました。
Quarterly per saltire, 1 and 4. or four pallets
gules (Aragon), 2 and 3. argent an eagle displayed
(and crowned) sable (Hohenstaufen).
|
|
|
d'Hauteville
|
|
|
|
【オートヴィル家】
1060年、前年にプーリア・カラブリア公位に就いたオートヴィル家のロジェ1世がシチリア島に上陸し、10年間の征服戦争の後に島のイスラム勢力をほぼ駆逐しました。1130年、息子のロジェ2世が教皇より王位を授けられてシチリア王国が成立しました。
オートヴィル家はフランスのノルマンディーに定着した北欧系貴族で、いわゆる南のバイキングによって南イタリア征服に乗り出しました。
Azure, a bend chequy of two rows argent and
gules.
|
|
|
Staufen
|
|
|
|
【シュタウフェン家】
後継者に恵まれなかったシチリア王グリエルモの没後、庶出の一門タンクレドが王位に就くと、グリエルモの叔母と結婚していたシュヴァーベン公ハインリヒ(後の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世)が継承権を主張してシチリアを征服、シュタウフェン朝を開きました(1194年)。その息子フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)は開明的政策によって王国を隆盛に導くも、教皇との関係が急速に悪化。跡を継いだ神聖ローマ皇帝コンラート4世の早世(1254年)が王国をめぐる混乱に拍車をかけ、反シュタウフェンの教皇に招かれたフランスのアンジュー伯シャルルによってシュタウフェン家は滅ぼされました。
Argent, an eagle displayed sable.
|
|
|
Ferdinando II. il
Cattolico
|
|
|
|
【シチリア王】フェルディナンド(カトリック王)
カスティーリャ&レオンとシチリアの組み合わせ。
「カトリック夫婦王」フェルディナンド1世の紋章です。アラゴン=シチリア王フェルディナンド1世はカスティーリャ=レオン女王イザベルと結婚し、アラゴンとカスティーリャが合同したため、カスティーリャ=レオンの紋章がシチリアにも登場しました。
Quarterly Spain and Sicily.
|
|
|
|
|
【トスカーナ大公国】 Granducato
di Toscana
|
|
arms of Grand Duke Ferdinando IV. :
Quarterly, 1. Hungary ancient and modern,
2.Bohemia, 3.Burgundy ancient, 4. Bar,
overall Lorraine, Austria and Medici,
surrounded by the Golden Fleece, hung with
Order of Saint Joseph and Military Merit
Order, a cross of San Stefano behind the
shield. The inescutcheon surmounted with
an archducal crown. Motto. 'JUSTITIS
FIDES' below the shield.
The 4 Orders are, from left to right :
Order
of Saint Joseph (Ordine di San
Giuseppe : instituted as Order of
Grand Duchy Wuerzburg in 19. 3.1807, and
transformed into a Tuscan Dynastic Order
in 1817).
Order
of Saint Stephen (Ordine di San
Stefano : instituted by Cosimo I. in
1561, behind the shield).
Order of the Golden Fleece.
Military
Merit Order (Ordine del merito
militare : instituted by Leopoldo II.
in 19.2.1853).
|
|
|
|
|
古代にはエトルリアと呼ばれた地域で、西ローマ帝国滅亡後は、東ローマやゲルマン系国家の支配を受けました。フランク王国支配下の812年にトスカーナ辺境伯領が成立し、12世紀まで辺境伯による支配が続きました。しかし、1115年に女辺境伯マティルダが没すると、神聖ローマ帝国によって代官が置かれました。その後は辺境伯の再任と帝国代官による管理が交互に訪れ、その結果、トスカーナの統一性は失われていきました。このような下地から、フィレンツェ、シエナ、ピサ、ルッカなどの都市コムーネが台頭。これらの諸都市国家は中世期を通じて発展し隆盛を極め、ルネサンスをもたらします。
15世紀になると、メディチ家指導下のフィレンツェ共和国が優勢となり、16世紀にはルッカ、マッサ、カラーラを除くトスカーナ地方の統一を達成しました。
1531年、フィレンツェ共和国の新国法はメディチ家に世襲公位を与え、共和国から公国に移行。さらに1569年にコジモ1世が教皇ピウス5世からトスカーナ大公の称号を授かり、大公国が誕生しました(ただし、宗主の神聖ローマ皇帝が承認したのは1575年)。
しかし、17世紀に入ると衰退が始まり、1737年にメディチ家は断絶。大公国はウィーン予備会議に基づいてロートリンゲン公フランツ3世(後の神聖ローマ皇帝)に与えられました。以後、ナポレオン体制期と48年革命期の中断を除き、ハプスブルク家によって統治されました。1860年にサルデーニャ王国に併合され、翌年イタリア王国の一部となりました。
|
|
|
|
|
|
|
Stemma della famiglia
Medici
|
|
|
|
【メディチ家の紋章】
メディチ家の紋章です。赤い6個の円は丸薬を表しています。メディチナ(Medicina
=医学・薬)を連想した図案です。赤い円は通常6個で、稀に、8個描かれることもありました。
Or, six balls 1, 2, 2 and 1 gules.
|
|
|
1465-
|
|
|
|
【メディチ家の紋章】1465年以降。
1465年に上部の円が青色に変更され、中にフランスの百合花が置かれました。メディチ家はフランス王室に財政援助をしたので、ルイ12世からフランスの紋章が与えられました。
The balls in chief was changed by augmentation of
honor of Louis XI of France (azure three
fleurs-de-lys or) in 1465.
|
|
|
1561-
|
|
|
|
【メディチ家時代】
1559年にトスカーナ大公位を授かると、独自の大公冠が作られました。冠は百合花をモチーフとしたデザインで、外湾するトゲ状の突起と中央に大きな百合花があしらわれました。百合花はフィレンツェ共和国の紋章をかたどっていて、共和国の紋章と同じ赤色に塗られることもあります。冠の上には、白鳥とメディチ家のモットー「SEMPER」が描かれることもありました。
勲章は1561年にコジモ1世が設立した聖ステファノ騎士団章です。
|
|
|
1706-1737
|
|
|
|
【1706−1737年】
コジモ3世(在位1670−1723)の時にクローズドタイプの冠が登場しました。
コジモ3世は息子達や兄弟に跡継ぎができなかったことから、共和国の復活を提唱しました。しかし、大公国継承を目論む列強は1718年にロンドン条約を結び、スペイン王フェリペ5世の王子カルロス(後のカルロス3世)が、神聖ローマ帝国の封土として受け取るという取り決めを交わしました。その後1735年のウィーン予備会議で、カルロスの継承権放棄とロートリンゲン公フランツ3世の大公国相続が取り交わされ、大公ジョヴァンニ・ガストン(在位1723−37)の死によって実行されました。
|
|
|
1738-1765
|
|
|
|
【1738年−1765年】
ウィーン予備会議に基づいて大公国を継承したロートリンゲン公フランツ3世は、ロートリンゲンとメディチの紋章を組み合わせました。
また、紋章に描かれる冠も、トスカーナ独自の冠でなく一般的なデザインの冠を採用しました。
Per pale Lorraine and Medici.
|
|
|
1765-1801,1814-1860
|
|
|
|
【1765年以降】
中央にオーストリアの紋章が加わり、聖ステファノ十字は盾の背後に描かれるようになりました。
1765年にフランツが没すると、長男ヨーゼフが神聖ローマ皇帝位とハプスブルク家領を継承し、大公国は次男ピエトロ・レオポルドが相続しました。ピエトロ・レオポルドはその後神聖ローマ皇帝に即位しますが、トスカーナの紋章は以後も変化せず、ナポレオン体制期を除き、大公国解体まで使われました。
なお、19世紀になると、盾の背後に旗などのアクセサリー描き込まれました。また、1848年の革命政権期は、この紋章の背後に緑白赤のイタリア三色旗が描かれました。
Tierced palewise Lorraine, Austria and Medici.
|
|
|
1801-1807
|
|
|
|
【エトルリア王国期(1801−1807年)】
ブルボン(=アンジュー)とトスカーナの組み合わせ。
1801年、リューネヴィルの和約によってトスカーナ大公国は取りつぶされ、エトルリア王国が設置されました。この王国は旧ルッカ公に与えられたので、ルッカ公家の紋章であるフランスの紋章が組まれました(ルッカ公はスペイン=ブルボン家の分家)。スペイン=ブルボン家はフランスのアンジュー公家なので、本来ならば赤い縁取りが加えられるのですが、エトルリア王時代は縁取りが省略して描かれました。
Per pale Bourbon-Parma and Medici.
|
|
|
【現在】
現在の大公家の紋章では、ハプスブルク家の金羊毛勲章は省かれ、トスカーナ大公家の家章の聖ステファノ勲章と聖ジュゼッペ勲章のみが描かれるようです。
|
- 歴代大公 Granduchi
di Toskana
|
|
|
Francesco Stefano
(1738-1765)
|
|
|
|
【トスカーナ大公】フランチェスコ(在位1738−65)
ロートリンゲン公の紋章の小盾に、トスカーナの紋章が組込まれました。
1735年にロートリンゲンを失ったフランツは、代替地としてトスカーナ大公国を与えられました。メディチ家最後の大公が没した翌年に大公国を継承。その7年後には神聖ローマ皇帝となりました。
Quarterly, 1. Hungary and Anjou-Naples, 2.
Jerusalem and Aragon, 3. Anjou and Guelders, 4.
Juelich and Bar, over all Lorraine and Medici.
|
|
|
Pietro Leopoldo
(1765-1791)
|
|
|
|
【トスカーナ大公】ピエトロ・レオポルド(在位1765−91)
背後の盾はハンガリー、ボヘミア、ブルゴーニュ、バール。
父の跡を継いだピエトロ・レオポルドは紋章構成を大きく変更し、聖ステファノ勲章も盾の背後に大きく描きました。紋章はハプスブルク家主体の構成ですが、盾持ちは父方のロートリンゲン公家の銀色の鷲を使っていました。
彼は1790年にレオポルト2世として神聖ローマ皇帝に即位。その際に盾持ちがハプスブルク家のグリフォンに変わりました。皇帝即位の翌年に大公国を次男のフェルディナンド3世に譲りました。
Orders are:
Order of Saint Stephen, Military
Order of Maria Theresa (Austria) and Order of
the Golden Fleece.
|
|
|
Ferdinando III.
(1791-1824)
|
|
|
|
【トスカーナ大公】フェルディナンド3世(在位1791−1801、1814−24)
紋章構成は父親と同じです。
レオポルト2世の次男で、父が神聖ローマ皇帝になったため大公国を受け継ぎました。実家オーストリアの啓蒙的政策に倣い、法律・経済諸制度の改革を行いました。
ナポレオン戦争によって大公国は取りつぶされため、代替地としてザルツブルク選帝侯国が与えられました。その後、神聖ローマ帝国解体によってヴュルツブルク大公に転出。ナポレオン体制が崩壊した1814年に大公国に復帰しました。
|
|
|
Elisa Bonaparte
(1809-1814)
|
|
|
|
【トスカーナ女大公】エリーザ(在位1809−1814)
中央の小盾はナポレオンの鷲。背後の盾はトスカーナ、ルッカ、マッサ、ボナパルト家。
ナポレオン1世の妹エリーザは1805年にピオンビーノ女侯に叙せられ、夫と共にルッカ=ピオンビーノ公国を共同統治していました。1809年にナポレオン1世はトスカーナ大公国を再興し、妹のエリーザを女大公に据えました。
Quarterly, 1. Tuscany, 2. Lucca, 3. Massa, 4. gules
two bends between two stars or (Bonaparte), over
all azure a French imperial eagle or.
|
|
Ferdinando III. (restored)
1817-
|
|
|
|
【トスカーナ大公】フェルディナンド3世(復位1814−24)
1814年に復位した後はヴュルツブルク大公時代に制定した聖ヨセフ(ジュゼッペ)勲章が加わりました。
1801年のリューネビルの和約でトスカーナ大公国は取りつぶされ、フェルディナンド3世ザルツブルク選帝侯国が与えられました。その選帝侯国も神聖ローマ帝国解体で兄フランツ2世のオーストリア領となったので、ヴュルツブルク大公に転出しました。
1814年のパリ会議によってトスカーナ大公に復位。ヴュルツブルク大公時代に制定した聖ヨセフ勲章をトスカーナの勲章に取り入れました(1817年)。
フェルディナンド3世の紋章には、歴代大公同様、聖ステファノ勲章を盾の背後に大きく描くバリエーションもあります。
|
|
|
Leopoldo II. (1824-1859)
|
|
|
|
【トスカーナ大公】レオポルド2世(在位1824−48、1849−59)
フェルディナンド3世の息子で、自由主義的な政策を執り、1848年には憲法を発布しました。しかし、革命急進派の台頭によりガエタに避難。翌年、オーストリア軍の力を借りて大公国に復帰しました。オーストリア軍は1855年まで大公国に進駐し、その間は軍による議会の停止や憲法の廃止、革命派の投獄など、反革命的政策が行われました。
1859年に第二次イタリア独立戦争が始まると、国内世論もイタリア統一に傾いたため、国を脱出。リカソリ(カブールの後任として第二代イタリア首相)率いる臨時政府が、オーストリアとフランスが出した大公の帰国要求を拒むと、争いを避けるべく退位しました。
Orders are:
Order of Saint Stephen (Hungary), Order of Saint
Stephen (Tuscany, behind the shield), Order of the
Golden Fleece and Order of Saint Joseph.
|
|
|
Ferdinando IV.
(1859-1860)
|
|
|
|
【トスカーナ大公】フェルディナンド4世(在位1859−60)
父レオポルド2世の退位を受けて大公に即位しました。しかし、トスカーナ臨時政府はこれを承認せず、翌年3月に国民投票を実施してサルデーニャへの合併を可決。大公国の消滅で大公位を失いました。その後は名目上のトスカーナ大公を名乗りました。彼の子孫は現在もトスカーナ大公の称号を使っています。
|
|
|
|
|
【エトルリア王国】 Regno
d'Etruria (1801-1807)
|
|
|
【国章】
中央の小盾はカスティーリャ&レオンとブルボン&メディチ。背後の盾はパルマ、グァスタッラ、ロートリンゲン、オーストリア。背後の盾の分割は、均等な4分割ではなく、縦分割した盾の下部にロートリンゲンとオーストリアを組み込んだ形になっています。ブルボン=パルマの紋章にハプスブルク=トスカーナの紋章を組み込んだ形です。なお、冠は一般的な王冠と、1706年に登場したクローズドタイプのトスカーナ大公冠から百合花を取り除いたデザインの冠の二種類が用いられました。
Per pale Farnese and Gonzaga, in base per pale
Lorraine and Austria, over all quarterly Castile
and Leon, over all per pale Bourbon-Parma and
Medici.
|
|
|
variation
|
|
|
|
【小紋章】
小紋章は、スペインの小紋章にトスカーナを加えた構成でした。
トスカーナ大公国は1801年に解体され、跡地にエトルリア王国が建設されました。初代国王には旧パルマ公ロドヴィーコ1世が即位しました。ロドヴィーコ1世は在位2年で急逝し、王妃マリア・ルイーザが摂政に立ちます。しかし彼女は国政を顧みず、国家財政を破綻の危機に追いやったため、皇帝ナポレオン1世は王国を取りつぶして大公国を復活させ(フォンテンブロー条約)、これを妹のルッカ=ピオンビーノ女公エリーザに与えました。
|
|
|
|
|
【トリヴルツィオ侯(レテーニョ帝国男爵領)】 Principe
di Trivulzio / Baronia Imperiale di Retegno
|
|
|
【レテーニョ帝国男爵領】
金と緑の縦6分割図形。
レテーニョはミラノの影響下にあり、統治していたトリヴルツィオ家は、傭兵業で名を成します。フランス王ルイ12世の軍隊の将帥となったジャン・ジャコモ(1441−1518)が著名ですが、レテーニョは彼の弟の家系が統治しました。
レテーニョは1654年に帝国男爵領に昇格し、トリヴルツィオ家は帝国諸侯の地位を授かりました。
paly of six or and vert.
|
|
|
【18世紀】
神聖ローマ帝国の諸侯となってから分割の組み合わせが逆転したようですが詳細不明です。バリエーションかと思われます。
|
|
|
|
|

|
|

|
|
|