(6)帝国南部の諸邦(A−K)

16世紀前半の神聖ローマ帝国中西部
現在のバイエルン州、バーデン=ヴュルテンベルク州、オーストリア西部の地域にあった国々です


掲載一覧です Liste (A - K)  
(L - Z)

アウグスブルク司教領
バーデン大公国・選帝侯国
バーデン=ドゥルラハ辺境伯領
バーデン=バーデン辺境伯領
バンベルク司教領
バイエルン王国・選帝侯国・公国
ベルヒテスガーデン修道院領
ブランデンブルク=アンスバハ辺境伯領
ブランデンブルク=バイロイト辺境伯領

ブハウ女子修道院領
ブルガウ辺境伯領
カステル伯領
アイヒシュテット司教領
エルヴァンゲン修道院領
フライジング司教領
フッガー=バーベンハウゼン侯国
フッガー=グレット伯領
フュルステンベルク伯領・侯国

ハイタースハイム侯国(マルタ騎士団)
ホーエンローエ侯国
ホーエンローエ=バルテンシュタイン侯国
ホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯領・侯国
ホーエンローエ=シリングスフュルスト侯国
ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯国
ホーエンツォレルン=ジークマリンゲン侯国
コンスタンツ司教領


Augusburg (Bm.)
Baden (Ghzm, Kfsm.)
Baden-Durlach (Mgft.)
Baden-Baden (Mgft.)
Bamberg (Bm.)
Bayern (Kgr, Kfsm,Hzm .)
Berchtesgaden (Probstei)
Brandenburg-Ansbach (Mgft.)
Brandenburg-Bayreuth (Mgft.)

Buchau (Abtei)
Burgau (Mgft.)
Castell (Gft.)
Ellwangen (Propstei)
Eichstätt (Bm.)
Freising (Bm.)
Fuggaer-Babenhausen (Fsm.)
Fugger-Glött (Gft.)
Fürstenberg (Fsm.)

Heitersheim (Fsm.)
Hohenlohe (Fsm.)
Hohenlohe-Bartenstein (Fsm.)
Hohenlohe-Neuenstein (Gft, Fsm.)
Hohenlohe-Schillingsfürst (Fsm.)
Hohenzollern-Hechingen (Gft, Fsm.)
Hohenzollern-Sigmaringen (Fsm.)
Konstanz (Bm.)


Abkürzungen :
Kgr.= Königreich, Ghzm.= Grossherzogtum, Hzm.= Herzogtum, Kfsm.= Kurfürstentum, Fsm.= Fürstentum
Mgft.= Markgrafschaft, Lgft.= Landgrafschaft, Bgft.=Burggrafschaft, Fgft.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft, Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.= Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum


【アウグスブルク司教領】 Hochstift Augsburg

Gespalten von Rot und Silber.


739 Bistum gegründet
1802 Säkularisiert

赤と銀の縦分割。

739年に設置された司教座を中心に形成されました。1276年に町が司教の支配を脱して帝国都市となりますが、司教は依然として南ドイツに広大な所領を保持しました。1802年に世俗化され、バイエルンに併合されました。

歴代司教 Fürstbischöfe von Augsburg

Johann Christoph von Freyberg (1665-1690)

【アウグスブルク司教】ヨハン・クリストフ(在位1665−90)

司教の実家フライベルク家の紋章との組み合わせ。1674年以降の紋章です。

1660年にエルヴァンゲン修道院長に就任し、翌年からアウグスブルク司教区管理人を務めました。1665年にアウグスブルク司教に選出されました。なお、エルヴァンゲン修道院長は1674年に退いたので、それ以降は左の紋章構成となりました。

Johann Christoph Reichisfreiherr von Freyberg (1616-1690)
1660-1674 Fürstpropst von Ellwangen
1661-1665 Administrator in Augsburg
1665-1690 Fürstbischof von Augsburg

Feld 2. u. 3. Familienwappen Freyberg.

Johann Franz Schenk von Stauffenberg (1737-1740)

【アウグスブルク司教】ヨハン・フランツ(在位1737−40)

中央の小盾は司教の実家シュタウフェンベルク献爵侍従家。背後の盾は、向かって左上がコンスタンツ司教、向かって右上と左下がアウグスブルク司教、向かって右下の赤十字はライヒェナウ修道院長、エーニンゲン修道院長。

コンスタンツ司教(在位1704−40年)で、1714年からアウグスブルク司教補佐を兼ね、前任者の死去に伴いアウグスブルク司教にも就任しました。

Johann Franz Reichsfreiherr (1681 Reichsgraf) Schenk von Stauffenberg (1658-1740)
Der vierte Sohn des Freiherrn Wolf Friedrich Schenk von Stauffenberg.
1705-1740 Fürstbischof von Konstanz
1714-1737 Koadjutor des Fürstbischofs von Augsburg
1737-1740 Fürstbischof von Augsburg

Geviert mit Herzschild und einer unten eingepfropften Spitze.
Herzschild : Familienwappen Schenk von Stauffenberg
Hauptschild : 1. Bm. Konstanz, 2.&3. Bm. Augusburg, 4. Reichisabtei Reichenau, 5. Augustiner Chorherrstift Öhningen.



【バーデン大公国】 Grossherzogtum Baden

1112 Markgrafschaft Baden
1364 Reichsfürstenstand
1515 Markgrafschaft Baden-Durlach
1803 Kurfürstentum Baden
1806 Grossherzogtum

中世期に南西ドイツからスイスに勢力を張ったツェーリンゲン家の末裔で、一族のヴェローナ辺境伯ヘルマン1世の息子ヘルマン2世が1112年にバーデン辺境伯を名乗ったことに始まります。辺境伯領は1190年にバーデン=バーデン系とバーデン=ハヒベルク(ホーホベルク)系に分かれました。ホーホベルク系は16世紀に絶えますが、バーデン=バーデンはベルンハルト1世(在位1371−1431)の時に領邦国家として基礎を固めました。バーデン=バーデンは16世紀に4家に分かれ、カトリックのバーデン=バーデンとプロテスタントのバーデン=ドゥルラハが有力となります。1771年にバーデン=バーデン家が絶えると、バーデン=ドゥルラハによって領土の再統一がなされ、ナポレオン指導下の帝国再編で選帝侯位と広大な領土を獲得し、1806年には大公国に昇格しました。
ドイツ帝国成立後はその構成国となり、1918年の革命に至ります。大公フリードリヒ2世(在位1907−18)の従弟マックスは、1918年にドイツ帝国宰相に就任して皇帝の退位を宣言、ドイツ帝国の幕引きを行いました。

金地に赤の斜め帯。13世紀後半の印章に初めて現れ、その後、辺境伯とその本拠の町バーデン=バーデンの紋章となりました。バーデンを表す紋章として各分家も使用しました。現在もバーデン=バーデン市の市章に使われています。


In Gold ein roter Schrägrechtsbalken.

Kleines Familienwappen

【大公家の紋章】

大公国昇格直後のごく短期間、大公国の紋章とされました。大公家一族の紋章です。一般的なライオンの姿勢と異なり、尾が後ろ足の間をくぐっています。ライオンはツェーリンゲン家の一族を表す紋章から採られました。

この紋章は1813年までの大公国発行のコインに刻まれています。正式な大公国の紋章ではなく、初代大公カール・フリードリヒの再婚相手、ガイアー男爵令嬢ルイーゼ・カロリーネ(1796年にホーホベルク帝国女伯に叙爵)に始まる家系の紋章で、ナポレオン体制下でのみ用いられました。
「ドイツの紋章に紫が使用されるのは皆無と言ってよく、この紋章の紫の彩色もオリジナルは赤」とバーデン出身の方から指摘がありました(ジープマッハー紋章図鑑や当時のコインの彩色では紫です。赤地になっている図例はまだ確認できていません)。

【1809−13年】

1809年以降はライオンが逆向きに描かれました。この紋章は1813年まで使用されました。その後は、本来のバーデンの紋章が復活します。

1830年にルイーゼ・カロリーネの息子カール・レオポルトが大公に即位しますが、この紋章が復活することはありませんでした。


Schräglinksgeteilt : 1. In Purpur ein goldener schrägrechter Balken, 2. In Rot ein goldener abgewandter Löwe.

【バーデン選帝侯国】 Kurfürstentum Baden (1803-1806)

Wappen (1803):
Dreimal gespalten und dreimal geteilt mit Mittelschild und Herzschild.

Herzschild : Mgft. Baden (Stammwappen)
Mittelschild : geviert, 1. Mgft. Hochberg (Hachberg), 2. Zähringer Löwe, 3. Bm. Konstanz, 4. Bm. Bruchsal.
Hauptschild : 1. Ettenheim (Bm. Strassburg), 2. H. Sausenberg, 3. Gft. Eberstein (geteilt, Stammwappen / neues Wappen), 4. Odenheim, 5. Gegenbach, 8. Salem, 9. Benediktinerkloster Petershausen, 11. Rötteln, 13. gespalten, H. Badenweiler / H. Geroldseck (für Lahr), 14. gespalten, H. Mahlberg / Gft. Hanau, 15. Abtei Reichenau, 16. Augustiner Chorherrstift Öhningen.

1803年の帝国再編により、バーデンは選帝侯位と旧聖職諸侯領など多くの領土を獲得しました。それによって、紋章が大幅に変更されました。
盾持ちはそれまでのグリフォンにから、後を振り向いたグリフォンと、上半身と下半身を赤と金に塗り分けられた後ろを振り向いたライオンに変更されました。この盾持ちは、大公国昇格後もしばらくの間使用されました。

大紋章の構成です。盾を三重に重ねています。
中心の小盾はバーデン、中間の盾はホーホベルク、ツェーリンゲン家の末裔を表すライオン、コンスタンツ司教、ブルフザール司教。背後の盾は、エッテンハイム(ストラスブール)、ザウセンベルク、エバーシュタイン伯(上が家系の紋章、下が新紋章)、オーデンハイム、ゲーゲンバハ、ザレム女子修道院、クロスター・ペーターハウゼン、レーテルン、バーデンヴァイラー&ゲロルドゼック、マールベルク&ハーナウ、ライヒェナウ修道院、エーニンゲン修道院。

エッテンハイムはライン川右岸にあったストラスブール司教領の都市で、ライン川西岸がフランス領となってからは司教の宮廷所在地でした。

小紋章の構成です。組まれている紋章は、ホーホベルク辺境伯、ツェーリンゲン家のライオン、コンスタンツ、ブルフザール。金色のライオンは本来はツェーリンゲンの紋章ですが、選帝侯国の発行したコインの紋章ではプファルツの紋章に置き換えられています。

【バーデン=ドゥルラハ辺境伯領】 Markgrafschaft Baden-Durlach

Wappen (18 Jh.) :

Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
1. Mgft. Hochberg, 2. H. Sausenberg, 3. Gft. Sponheim-Starkenberg, 4. Gft. Eberstein (Stammwappen), 5. Herzschild : Mgft. Baden, 6. Gft. Eberstein (neues Wappen), 7. H. Badenweiler, 8. gespalten, H. Rötteln / H. Geroldseck (für Lahr), 9.H. Mahlberg.

Hausorden der Treue gestiftet vom Markgrafen Karl Wilhelm am 17.6.1715.

1577年に定まった紋章です。盾持ちのグリフォンは18世紀に入ってから登場します。
盾の下の勲章は1715年制定の辺境伯家の家章トロイエ勲章です。この勲章は、辺境伯領の首都カールスルーエに城館を建設したのを記念して制定されたもので、制定者の辺境伯カール・ヴィルヘルムのイニシャル「C」が巧みにデザインされています。

バーデン=ドゥルラハは1515年に行われたバーデン=バーデンの家領分割で誕生しました。本家のバーデン=バーデンと異なり、プロテスタントを国教としていました。
1771年にバーデン=バーデンが絶えると、家領を再統一し、1803年に選帝侯位を獲得します。


1533 - 1577

【1533年−77年】

中央の小盾はバーデン。背後の盾はホーホベルク、ザウセンベルク、バーデンヴァイラー、レーテルン。

1515年、バーデン辺境伯クリストフ1世は退位して、領土は彼の3人の子供達が分割相続しました。バーデン=ドゥルラハは彼の七男エルンスト1世(在位1527−53)が相続しました。
組まれている紋章は、ドゥルラハが相続した土地を表しています。この紋章はカール2世(在位1553−77)まで使われました。


Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Mgft. Baden,
Hauptschild : 1. Mgft. Hochberg, 2. H. Sausenberg, 3. H. Badenweiler, 4. H. Rötteln.


1577 - 1803

【1577年以降】

組まれている紋章は、中央の小盾がバーデン。背後の盾は、ホーホベルク、ザウセンベルク、ビルケンフェルト、エバーシュタイン伯(新)、エバーシュタイン(家系の紋章)、バーデンヴァイラー、レーテルン&ゲロルドゼック、マールベルク。


Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
1. Mgft. Hochberg, 2. H. Sausenberg, 3. Gft. Sponheim-Starkenberg, 4. Gft. Eberstein (Stammwappen), 5. Herzschild : Mgft. Baden, 6. Gft. Eberstein (neues Wappen), 7. H. Badenweiler, 8. gespalten, H. Rötteln / H. Geroldseck (für Lahr), 9.H. Mahlberg.


【バーデン=バーデン辺境伯領】 Markgrafschaft Baden-Baden (1190-1771)

1416 - 16. Jh.

【1416年以降】

バーデンとシュポンハイム=シュタルケンブルクの組み合わせ。

バーデン=バーデンは1190年の分裂で誕生した、兄脈の家系です。13世紀末にエバーシュタイン伯領を購入してバーデン=エバーシュタインが分立し、1515年にはバーデン=シュポンハイムとバーデン=ドゥルラハが分かれました。その間に1416年にラインラントにあるシュポンハイム伯領を相続したため、シュポンハイムの紋章が組まれました。
バーデン=バーデンはその後一時分家のバーデン=ローデマヘルンやバーデン=ドゥルラハの統治を受けますが、1771年まで続きました。

1190 Markgrafschaft Baden-baden
1771 erloschen, Territorium fällt an Baden-Durlach

Geviert : 1 u. 4. Mgft. Baden, 2 u. 3. Gft. Sponheim-Starkenburg.

ca. 1536 - ca. 1629

【17世紀初頭まで】

組まれている紋章は、シュポンハイム、エバーシュタイン(イノシシとバラの花)、ゲロルドゼック&マールベルク、シュポンハイム=シュタルケンブルク。エバーシュタイン伯の紋章は赤いバラでしたが、エバーシュタインのエバーの綴りはイノシシと同じなのでその後イノシシの意匠が採用されたようです。


Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Mgft. Baden,
Hauptschild : 1. Gft. Sponheim, 2. Gft. Eberstein, 3. gespalten, H. Geroldseck (für Lahr) / H. Mahlberg, 4. Gft. Sponheim-Starkenburg.


ca. 1629 - 1771

【17世紀前半以降】

シュポンハイム、エバーシュタイン、ホーホベルク、バーデンヴァイラー、ザウセンベルク、レーテルン、ゲロルドゼック&マールベルク、シュポンハイム=シュタルケンブルク。

ヴィルヘルム(在位1622−77年)の治世初期に紋章が変更されました。ヴィルヘルムはバーデン=ローデマルン家のエドゥアルト(バーデン=バーデン辺境伯ベルンハルト4世の孫)の息子で、エドゥアルトはバーデン=バーデン辺境伯を継いでいました。


Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
1. Gft. Sponheim, 2. Gft. Eberstein (geteilt, Stammwappen / neues Wappen), 3. Mgft. Hochberg, 4. H. Badenweiler, 5. Herzschild : Mgft. Baden, 6. H. Sausenberg, 7. H. Rötteln, 8. gespalten, H. Geroldseck (für Lahr) / H. Mahlberg, 9. Gft. Sponheim-Starkenburg



【バンベルク司教領】 Hochstift Bamberg

In Gold ein schwarzer Löwe, überdeckt mit einer silbernen Schrägleiste.


1007 Bistum gegründet
13. Jh. Reichsfürstenstand
1802 Säkularisiert
1818 Erzbistum Bamberg

銀地に舌と爪が赤い黒色のライオンの上に銀色の斜め帯。ライオンは二本尾で描かれる場合もあります。

1007年創建の司教座を中心に形成された司教領で、13世紀の半ばに帝国諸侯に列せられました。
1802年に世俗化され、領土はバイエルンに併合されました。
なお、司教区は1818年に行われた教区再編で大司教区となり、現在に至ります。


歴代司教 Fürstbischöfe von Bamberg

Georg Schenk von Limpurg (1505-1522)

【バンベルク司教】ゲオルク(在位1505−22)

司教の実家、リンプルク献酌侍従家の紋章との組み合わせ。

Georg III. Schenk von Limpurg (1470-1522)
Der zweite Sohn des Georg II. Schenk von Limpurg-Speckfeld.
1505-1522 Fürstbischof von Bamberg

Feld 2. u. 3. Familienwappen Schenk von Limpurg.

Weigand von Redwitz (1522-1556)

【バンベルク司教】ヴァイガント(在位1522−56)

司教の実家レドヴィッツ家の紋章との組み合わせ。

Weigand von Redwitz ( -1566)
1522-1556 Fürstbischof von Bamberg

Feld 2. u. 3. Familienwappen Redwitz.

Martin von Eyb (1580-1583)

【バンベルク司教】マルティン(在位1580−83)

司教の実家アイプ家の紋章との組み合わせ。


Martin von Eyb ( -1583)
1580-1583 Fürstbischof von Bamberg

Feld 2. u. 3. Familienwappen Eyb.

Neidhardt von Thuegen (1591-1598)

【バンベルク司教】ナイトハルト(在位1591−98)

司教の実家テュンゲン家の紋章との組み合わせ。

司教に就任すると、対抗宗教改革運動を精力的に押し進めました。また、バンベルクにおける最初の魔女裁判を執り行いました。

Neidhardt von Thuegen (1545-1598)
1591-1598 Fürstbischof von Bamberg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Thüngen.

Johann Gottfried von Aschhausen (1609-1622)
bis 1617

【バンベルク司教】ヨハン・ゴットフリート(在位1617−22)

司教の実家アシュハウゼンの紋章との組み合わせ。1617年からはヴュルツブルク司教の紋章が加わります。

1609年にバンベルク司教となり、1617年からはヴュルツブルク司教を兼ねました。バンベルク司教としては多数の魔女裁判を執り行い、多くの領民を魔女として処刑しました。

Johann Gottfried von Aschhausen (1575-1622)
1609-1622 Fürstbishof von Bamberg
1617-1622 Fürstbishof von Würzburg

Melchior Otto Voit von Saltzburg (1642-1653)

【バンベルク司教】メルヒオール・オットー・フォイト(在位1642−53)

司教の実家ザルツブルクの紋章との組み合わせ。

学芸に力を入れた人物で、三十年戦争終結の前年にあたる1647年に「アカデミア・オットニアナ」を設立しました。このアカデミーはその後バイエルン地方最古の大学「オットー・フリードリヒ・バンベルク大学」に発展します。その関係で、同大学の校章には彼の紋章が見られます。なお、校名のオットーは彼から、フリードリヒはアカデミアを発展させたフリードリヒ・カール(在位1729−46)から採られたそうです。

Melchior Otto Voit von Saltzburg (1603-1653)
Gründer des "Academia Ottoniana".
1643-1653 Fürstbischof von Bamberg

Feld 2. u. 3. Familienwappen Voit von Salzburg.

Peter Philipp von Dernbach (1672-1683)

【バンベルク司教】ペーター・フィリップ(在位1672−83)

中央の小盾は司教の実家デルンバハ。1676年以降の紋章です。

1672年にバンベルク選出司教となり、1675年に司教位を認められました。1676年からはヴュルツブルク司教を兼ねたため、二つの司教領の紋章が組み合わされました。1683年、ヴュルツブルクで没しました。

Peter Philipp Reichsfreiherr (1678 Reichsgraf) von Dernbach (1619-1683)
1672-1675 Elekt von Bamberg
1675-1683 Fürstbischof von Bamberg
1676-1683 Fürstbischof von Würzburg

Geviet mit Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Dernbach.
Hauptschild : 1.&4. Bm. Bamberg, 2. Hzm. Franken (Bm. Würzburg), 3. Bm. Würzburg.



Marquard Sebastian Schenk von Stauffenberg (1683-1693)

【バンベルク司教】マルクヴァルト・セバスティアン(在位1683−93)

司教の実家シュタウフェンベルク献酌侍従家の紋章との組み合わせ。
1686年に聖マルティン教会の建設に着手し、翌1687年にはバンベルク郊外にゼーホーフ宮の建設に取りかかります。ゼーホーフ宮は猟館および夏の避暑地として司教が好んで利用したため、マルクヴァルツブルク(Marquardsburg =マルクヴァルトの城)という俗称がつけられました。

Marquard Sebastian Reichsfreiherr (1681 Reichsgraf) Schenk von Stauffenberg (1644-1693)
Der älteste Sohn des Freiherrn Johann Sigmund Schenk von Stauffenberg.
1683-1693 Fürstbischof von Bamberg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Stauffenberg.

Lothar Franz von Schönborn (1693-1729)
bis 1695

【バンベルク司教】ロタール・フランツ(在位1693−1729)

中央の小盾は選帝侯の実家シェーンボルン。背後の盾は、バンベルク司教、ヴァインスベルク、ヘッペンハイム。ヴァインスベルクとヘッペンハイムはシェーンボルン家の紋章です。実家シェーンボルン家は1701年に伯の称号と帝国等族の身分(神聖ローマ帝国議会での議決権を持つ身分)を得ました。

バンベルク司教となった翌年にマインツ大司教代理に就任。次いでマインツ大司教に選出されたため、この紋章は短命でした。1695年以降は背後の盾の中央列にマインツの紋章が組み込まれました。

Lothar Franz Reichsgraf von Schönborn (1655-1729)
Der letzte Sohn des Freiherrn Philipp Erwein von Schönborn.
1693-1729 Fürsterzbischof von Bamberg
1694-1695 Koadjutor des Erzbischofs von Mainz
1695-1729 Kurfürst-Erzbischof von Mainz


Johann Philip Anton von und zu Frankenstein (1746-1753)

【バンベルク司教】ヨハン・フィリップ・アントン(在位1746−53)

司教の実家、フランケンシュタイン男爵家の紋章に司教の紋章が組み込まれました。中央の小盾がフランケンシュタイン家本来の紋章です。
マインツの司教総代理(在任1743−46年)を経て、バンベルク司教に就任しました。

Johann Philip Anton Reichsfreiherr von und zu Frankenstein (1695-1753)
Sohn des Freiherrn Johannes von und zu Frankenstein.
1743-1746 Generalvikar in Mainz
1746-1753 Fürstbischof von Bamberg

Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
1. & 9. Geschlechtes von Cleen, 2. & 8. Bm. Bamberg, 3. & 7. Praunheim-Sachsenhausen, 4. & 6. Praunheim-Sachsenhausen, 5. Herzshild : Familienwappen Frankenstein.


Franz Konrad von Stadion (1753-1757)

【バンベルク司教】フランツ・コンラート(在位1753−57)

司教の実家シュタディオン=タンハウゼン伯家の紋章に司教の紋章が組み込まれました。中央の小盾がシュタディオン家の紋章です。

Franz Konrad Reichsgraf von Stadion (1679-1757)
Der erste Sohn des Grafen Johann Philipp Joseph von Stadion-Warthausen und Thannhausen.
1753-1757 Fürstbischof von Bamberg

Zweimal gespalten und einmal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Stadion.
Hauptschild : 1. & 6. in Schwarz drei 2:1 goldene Tannenzapfen (Stadion), 2. & 5. Bm. Bamberg, 3. & 4. in Silber ein schwebendes rotes Tazenkreuz (Stadion).


Adam Friedrich von Seinsheim (1757-1779)

【バンベルク司教】アダム・フリードリヒ(在位1757−79)

司教の実家ザインスハイム伯家の紋章を小盾におさめ、背後の盾にはバンベルクとヴュルツブルク両司教の紋章を組みました。縦分割の上下に三角形の隙間を作るという方法で組まれています。なお、通常の十字分割に小盾を置いたバリエーションもありました。

Adam Friedrich Reichsgraf von Seinsheim (1708-1779)
Der zweite Sohn des Geafen Franz Maximilian Maria von Seinsheim.
1755-1779 Fürstbishof von Würzburg
1757-1779 Fürstbishof von Bamberg

Christoph Franz von Buseck (1792-1805)

【バンベルク司教】クリストフ・フランツ(在位1792−1805)

司教の実家ブーゼック男爵家の紋章との組み合わせ。

最後の領主司教です。1802年の司教領世俗化によって領主司教の地位を失いました。世俗の君主権を失った後もその死まで司教位に留まりました。彼の死後、ヴュルツブルク司教ゲオルク・カールが最後のバンベルク司教に就任しました(ゲオルク・カールの後10年にわたる司教不在期間を経て、バンベルクは大司教区に昇格します)。

Christoph Franz Reichsfreiherr von Buseck (1724-1805)
1792-1802 Fürstbischof von Bamberg
1802-1805 Bischof von Bmberg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Buseck.


【バイエルン王国】 Königreich Bayern

Mittleres Staatswappen (1835) :

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Alt-Bayern (Ober- u. Niederbayern).
Hauptschild : 1. Pfgft. am Rhein (In Schwarz ein goldener, rotbewehrter und rotgekrönter Löwe mit Doppelschweif), 2. Hzm. Franken, 3. Mgft. Burgau (für Schwaben), 4. Gft. Veldenz.


889 Herzogtum
1623 Kurfürstentum
1806 Königreich




Wappen (1806) :

Herzschild : 1. Erztruchsessenamt, 2. Pfgft. am Rhein.

上は1835年制定の王国中紋章、下は1806年の王国成立時の国章です。

バイエルンはゲルマン民族の大移動後に成立した部族公領が起源で、カール大帝によって最終的に征服され、フランク王国に組み込まれました。東フランクのカロリング王家が絶えると、アルヌルフ悪公は東フランク王位をリウドルフィング家のハインリヒ1世(オットー大帝の父)と争いました。バイエルンはその後、リウドルフィング家やザーリア家(いずれも皇帝家)の所領となり、両家出身のバイエルン公から三人の神聖ローマ王が出ています。その間に、ハインリヒ喧嘩公の叛乱によって976年にオーストリアが分離創設されました。ザーリア家の断絶でバイエルンを相続したヴェルフェン家は強大な勢力を誇りましたが、1180年のハインリヒ獅子公失脚でバイエルンを失い、代わって公位を得たヴィテルズバハ家が、以後、20世紀までバイエルンを領有しました。
13世紀半ばに上下バイエルンに分かれ、16世紀初頭にバイエルン=ミュンヘン家によって領土が再統合されました。三十年戦争で皇帝に与して選帝侯位を得、1742年にはカール・アルブレヒトが神聖ローマ皇帝に即位しました。1777年にプファルツ選帝侯国と合同し、1806年に王国に昇格。ウィーン会議後発足したドイツ連邦では、オーストリア、プロイセンに次ぐドイツの大国として第三勢力を築き、プロイセン主導のドイツ統一に抵抗しますが、普仏戦争ではプロイセンと共闘。1871年にドイツ帝国成立を承認して帝国に加わりました。ドイツ帝国の構成国となってからも、バイエルンは独自の外交権・軍事権の行使を認められた特別な地位にありました。

銀と青の細長い菱形による斜め分割図形。

上下バイエルンを示す紋章で、バイエルンを支配したヴィテルズバハ家の紋章となりました。現在もバイエルン州の紋章になっています。

Die Bayerischen Rauten - Silbern und Blau schrägrechts spitz gerautet.

1806

【1806年】

1806年の王国昇格時の紋章で、それまでの紋章の配置を変更し、バイエルンの紋章の中央に、帝国大膳長官とプファルツを組み合わせた小盾を置きました。
また、盾持ちに王権を表す剣と王錫を持たせ、バイエルンが王国であることを表現しました。
しかし、制定からほどなく、新しい紋章が制定されたため、この紋章はとても短命でした。

1806 - 1835

【1835年まで】

神聖ローマ帝国大膳長官職とプファルツの小盾を取り除き、ロイヤルレガーリア(王権を表します)を置きました。
王国の紋章として1835年まで使われました。

1835-

【1835年以降】

ルートヴィヒ1世(在位1825−48)の時代に紋章が変更され、ロイヤルレガーリアが外されました。また、プファルツのライオンが二本尾に変わりました。

ルートヴィヒ1世は1847年に踊り子のローラ・モンテスを妃に迎えました。その彼女が国政を掌握したために国民の怒りが爆発、翌48年の三月革命で退位に追い込まれました。孫のルートヴィヒ2世も祖父と同じく芸術を愛し、作曲家ヴァーグナー(ワーグナー)を後援します。しかし、投資額の大きさと彼の浪費癖が王国財政を圧迫したので、怒ったバイエルン議会はヴァーグナーにロールス(男性版ローラ・モンテス)というあだ名をつけました。

【バイエルン公国】 Herzogtum Bayern (889-1623)

Wappen (17 Jh.) :

geviert : 1u. 4. Alt-Bayern (Ober- u. Niederbayern), 2 u. 3. Pfgft. am Rhein

バイエルンとプファルツの組み合わせ。
公国時代は前方を向いた一本尾のライオンが盾持ちに使われていました。

【バイエルン選帝侯国】 Kurfürstentum Bayern (1623-1806)

wappen (1729-) :

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Erztruchsessenamt.
Hauptschild : 1 u. 4. Alt-Bayern (Ober- u. Niederbayern), 2 u. 3. Pfgft. am Rhein.


Orden : Das Goldene Vlies und der Militärische Haus Ritter Orden vom Heiligen Georg (gestiftet von Kurfuerst Karl Arbrecht am 20.3.1729).

三十年戦争で皇帝に味方したバイエルンは、一門のライン宮中伯が保持していた選帝侯位を獲得しました。
1638年頃に盾持ちがそれまでの前方向きのライオンから、後ろを向いた二本尾のライオンに変更されました。1729年に選帝侯家の騎士団として聖ゲオルク騎士団が設立され、以後の紋章図には同騎士団章が描かれます。
1777年に選帝侯家が絶えると、領土は一族のプファルツ選帝侯が継承したので、バイエルンとプファルツの選帝侯位は融合します。

1623 - 1777

中央の小盾は神聖ローマ帝国の大膳長官職の紋章で、選帝侯位を表します。
背後の盾は、バイエルンとプファルツ。

選帝侯位を示す小盾が加わった以外は、バイエルン公時代と同じ構成です。1777年に選帝侯家が絶えると、一族のプファルツ選帝侯が継承したので、紋章はプファルツ選帝侯の紋章に置き換えられました。

歴代選帝侯 Kurfürsten von Bayern

Maximilian I. (1623-1651)

【バイエルン選帝侯】マクシミリアン1世(在位1623−51)

バイエルン公(在位1597−1651)で、1609年にカトリック連合(die Kathlische Liga)を組織してその指導者となりました。
三十年戦争が勃発すると、皇帝フェルディナント2世に協力して一族のプファルツ選帝侯フリードリヒ5世を撃ち破り、選帝侯位を手にしました。
フェルディナント2世が登用した皇帝軍司令官ヴァレンシュタインとは不仲で、皇帝に圧力をかけ、1630年に彼を罷免させました。
三十年戦争の後半期は、スウェーデンやフランスにしばしば国土を蹂躙されますが、国土の再建に努め、バイエルンの大国としての礎を築きました。

Maximilian I. (1573-1651)
Der dritte Sohn des Herzogs Wilhelm V. von Bayern.
1597-1651 Herzog von Bayern
1623-1651 Kurfürst von Bayern
1600 Ritter des Ordens vom Goldenen Vlies (Nr.301)

Karl Albrecht (1726-1745)

【バイエルン選帝侯】カール・アルブレヒト(在位1726−45)

1729年に聖ゲオルク騎士団章が制定され紋章図に加えられました。

皇帝ヨーゼフ1世の娘の娘婿で、皇帝カール6世が没すと国本勅令を無視してハプスブルク家領の継承を要求。列国の支持を集めてオーストリア継承戦争を始めました。1742年の皇帝選挙で皇帝に選出されカール7世として即位。300年ぶりにハプスブルク家出身者でない神聖ローマ皇帝となりました。しかし、皇帝選挙の当日に本拠ミュンヘンをオーストリア軍に占領されたため、再度プロイセンと結びます。第二次シュレージェン戦争のさなかにミュンヘン奪還に成功し、翌年没しました。
彼の死後、バイエルンはマリア・テレジアに屈し、彼女の夫フランツ・シュテファンが皇帝に選出されました。

Karl Albrecht (1697-1745)
Der vierte Sohn des Kurfürsten Maximilian II. Maria Emanuel von Bayern.
1726-1745 Kurfürst von Bayern
1741-1743 als Karl III. König von Böhmen
1742-1745 als Karl VII. Römisch-Deutscher Kaiser
1701 Ritter des Ordens vom Goldenen Vlies (Nr.624)


Karl Theodor (1777-1799)

【バイエルン選帝侯】カール・テーオドール(在位1777−99)

プファルツ=ズルツバハ家出身で、1742年にプファルツ選帝侯を、1777年にバイエルン選帝侯を継承しました。翌1778年にウィーン協定を結んでオーストリアのニーダーバイエルン領有を承認したため、オーストリアとプロイセン間でバイエルン継承戦争が勃発しました。
世継ぎがいなかったため、ツヴァイブリュッケン公マクシミリアン・ヨーゼフを後継者としました。なお、庶子にカール・アルブレヒトとカロリーネがおり、それぞれブレッツェンハイム侯(帝国諸侯)とパルクシュタイン女伯(クライス等族身分)に叙されました。

Karl Theodor (1724-1799)
Sohn des Pfalzgrafen Johann Christian Joseph zu Sulzbach.
1733-1799 Herzog von Pfalz-Sulzbach
1742-1777 Kurfürst von der Pfalz, Herzog von Berg
1742-1794 Herzog von Jülich
1777-1799 Kurfürst von Bayern u. der Pfalz
1778 Ritter des Ordens vom Goldenen Vlies (Nr.814)


Maximilian IV. Joseph (1799-1806)

【バイエルン選帝侯】マクシミリアン・ヨーゼフ(在位1799−1806)。

ツヴァイブリュッケン公フリードリヒの次男で、1795年に兄カールの後を継ぎました。1799年にバイエルンとプファルツ選帝侯位を相続すると、モンジュラ伯マクシミリアンを首相に起用し、バイエルンを開明的な国家に作り上げます。それと並行して、フランスとの友好関係を保ちながら領土を拡大し、神聖ローマ帝国が解体するとバイエルン王となりました(バイエルン王在位1806−25)。

Maxinilian IV. Joseph (1756-1825)
Der zweite Sohn des Pfalzgrafen Friedrich Michael von Birkenfeld-Zweibrücken.
1795-1797 Herzog von Pfalz-Zweibrücken
1799-1806 Kurfürst von Bayern u. der Pfalz, Herzog von Berg
1806-1825 als Maximilian I. Joseph König von Bayern


【ベルヒテスガーデン修道院領】 Reichsprobstei Berchtesgaden

Geviert 1 u. 4. Berchtesgaden, 2 u. 3. Gft. Sulzbach.


1491 Reichsprälatenstand
1559 Reichsfürstenstand
1802 Säkularisiert

赤地に交差した金銀のペテロの鍵と青地に6個の銀色の百合の花。鍵の紋章が修道院の紋章で、百合の花の紋章は修道院を建設したズルツバハ伯の紋章です。ただし、ズルツバハ伯がこの紋章を使用していたという良好な資料がなく、異論の余地もあるそうです。
17世紀以降の歴代の修道院長は、中央に実家の紋章を組むことが多く、現在のベルヒテスガーデンの市章も、この組み合わせの中央にバイエルンの紋章を組んでいます。

アルプスの北麓に位置した修道院領で、三方をザルツブルク大司教に囲まれていました。12世紀に建設された都市が起源で、その後岩塩が発見されたため、周辺諸邦の紛争の的となりました。
修道院は1300年頃以降はアウグスチノ会修道院に属し、1491年に神聖ローマ帝国の聖職諸侯(高位聖職者)となり、1559年に聖職諸侯部会に単独の議席を得ました。1802年に世俗化され、ザルツブルク選帝侯国、次いでオーストリアに併合され、最終的にバイエルン領となりました。
ベルヒテスガーデンは風光明媚な土地で、近年はリゾート地になっています。また、第二次大戦時にナチス総統ヒトラーの別荘があったことでも知られます。


赤地に交差した金銀のペテロの鍵。修道院の本来の紋章ですが、ズルツバハ伯の紋章と組み合わせられるのが正式のため、単独では用いられないようです。しかし、多くの聖職位を兼務した修道院長の紋章は、多数の紋章が組み合わせられたため、この紋章単独で修道院を代表させました。


In Rot gekreuzt ein goldener schrägrechts gestellter und ein silberner schräglinks gestellter Schlüssel.

歴代修道院長 Fürstproepste von Berchtesgaden

Joseph Clemens Kajetan von Bayern (1688-1723)

【ベルヒテスガーデン修道院長】ヨーゼフ・クレーメンス(在位1688−1723)

中央に修道院長の実家バイエルンの紋章が組まれました。

ケルン選帝侯(1688−1723)、フライジング司教(1685−1694)、レーゲンスブルク司教(在位1685−1716)、リェージュ司教(在位1694−1723)など多くの聖職位を兼任しました。

Joseph Clemens Kajetan Herzog von Bayern (1671-1723)
Der vierte Sohn des Kurfürsten Ferdinand Maria von Bayern.
1685-1694 Fürstbischof von Freising
1685-1715 Fürstbischof von Regensburg
1688-1723 Fürstpropst von Berchtesgaden, Kurfürst-Erzbischof von Köln
1694-1723 Fürstbischof von Lüttich (Liège)
1714-1723 Fürstbischof Hildesheim

Cajetan Anton von Notthaft (1732-1751)

【ベルヒテスガーデン修道院長】カイェタン・アントン(在位1732−51)

中央に修道院長の実家ノットハフト家の紋章が組まれました。

スペイン継承戦争でオーストリア軍に抵抗したため、一時拘留。解放後はベルヒテスガーデン囲壁の強化に功績があり、1732年に修道院長に選出されました。
就任後は、領内のプロテスタント撲滅をめざし、ベルヒテスガーデンにおける対抗宗教改革運動を押し進めました。

Cajetan Anton von Notthaft (1670-1752)
1732-1752 Fürstpropst von Berchtesgaden

Herzschild : Familienwappen Notthaft.

Michael Balthasar von Christalnigg (1752-1768)

【ベルヒテスガーデン修道院長】ミヒャエル・バルタザール(在位1752−68)

盾を三段に分割し、上段に修道院の紋章、下二段に修道院長の実家クリスタルニック伯の紋章を組みました。

クリスタルニック家はオーストリアの貴族で、1721年に伯の地位を得ました。ミヒャエル・バルタザールは初代伯ゲオルク・バルタザールの次男です。

Michael Balthasar Graf von Christalnigg (1710-1768)
Der zweite Sohn des späteren Grafen Georg Balthasar von Christalnigg zu Gillitzstein.
1752-1768 Fürstpropst von Berchtesgaden

Schildhaupt : Berchtesgaden, Hauptschild: Familienwappen Christalnigg.

Joseph Konrad von Schroffenberg (1780-1803)
bis 1790

【ベルヒテスガーデン修道院長】ヨーゼフ・コンラート(在位1780−1803)

盾を上下に二分し、上半分に修道院の紋章、下半分と小盾に実家シュロッフェンベルク男爵家の紋章を分解して収めました。小盾の鷲の紋章はおそらく帝国の鷲(下賜紋)で、背後の盾の向かって左側の木の切り株の紋章は、金地に銀色の百合花紋とするバリエーションもあるようです。

1790年にフライジングとレーゲンスブルク司教にも就任したので、それ以後は3つの聖職領の紋章を背後の盾に組み、その上に実家の紋章を重ねました。

Joseph Konrad Reichsfreiherr von Schroffenberg (1743-1803)
1780-1803 Fürstpropst von Berchtesgaden
1790-1803 Fürstbischof von Freising und Regensburg


【ブランデンブルク=アンスバハ辺境伯領】 Markgrafschaft Brandenburg-Ansbach (1486-1791)

Wappen :

Herzschild : Hohenzollern.
Hauptschild : Brandenburg.


1486 Markgrafschaft Brandenburg-Ansbach entstand
1495-1515 Personalunion mit dem Markgrafschaft Kulmbach
1557-1603 Personalunion mit dem Markgrafschaft Kulmbach
1769-1791 Personalunion mit dem Markgrafschaft Bayreuth
1791 Preussischen Staat (als Brandenburg-Ansbach-Bayreuth)

ブランデンブルクの上にホーエンツォレルンの紋章を置きました。

もとはニュルンベルク城伯領で、城伯フリードリヒ6世(在位1397−1440)がブランデンブルク辺境伯領を獲得したことでブランデンブルクと結合しました。フリードリヒ6世の息子アルブレヒト・アヒレス(ブランデンブルク選帝侯:1440−86)が没すると、領土は子供達で分割相続されました。城伯領は選帝侯ヨハンの二人の異母弟に与えられ、フリードリヒ1世がブランデンブルク=アンスバハを、ジークムントがブランデンブルク=クルムバハ(のちにバイロイト)を相続しました。
ブランデンブルク=アンスバハは、16世紀にシュレージェンのイェーゲルンドルフ公領、18世紀にザイン=アルテンキルヘン伯領を相続し、また1769年にはブランデンブルク=バイロイトを相続してニュルンベルク城伯領の再統一を果たします。しかし、1791年に宗家プロイセンに領土を売却して領邦国家としての歴史を終えました。


erste hälfte des 16.Jh.-17. Jh.

【16世紀前半】

組まれている紋章はニュルンベルク城伯、ブランデンブルク辺境伯、シュテッティン公、ポンメルン公、カシュベン公、ヴェンデン公、プロイセン公、クロッセン(シュレージェン)公、イェーゲルンドルフ公、レガーリエン、リューゲン、ホーエンツォレルン伯。

アンスバハ家は1506年にシュレージェンのイェーゲルンドルフ公領を得たのでシュレージェン関係の紋章が登場しました。また、プロイセンはドイツ騎士団長となったアルブレヒト(フリードリヒ1世:在位1486−1515の息子)が騎士団を世俗化してプロイセン公領を創設した関係で取り入れられました。
プロイセンとイェーゲルンドルフは公の称号を持っていたものの、陪臣身分なので下位に組まれたようです。

Variante (erste hälfte des 17.Jh. )

【バリエーション】

17世紀前半の小紋章です。中央の小盾はニュルンベルク城伯。背後の盾は、ブランデンブルク、プロイセン、シュテッティン、ホーエンツォレルン。


Herzschild : Bgft. Nuernberg.
Hauptschild : geviert, 1. Mgft. Brandenburg, 2. Hzm. Preussen, 3. Hzm. Pommern, 4. Gft. Hohenzollern.

1648 - 1654

【1648−1654年】

組まれている紋章は、マクデブルク公、ブランデンブルク辺境伯、プロイセン公、ポンメルン公、シュテッティン公、カシュベン公、クロッセン公(シュレージェン公)、ヴェンデン公、イェーゲルンドルフ公、ハルバーシュタット侯、ニュルンベルク城伯、ミンデン侯、ホーエンツォレルン伯、レガーリエン。

1648年のヴェストファーレン条約で世俗化され、ブランデンブルク選帝侯国に併合された聖職諸侯領の紋章が組み込まれました。

1654-

【1654年以降】

盾最下段中央に、カミン侯の紋章が加わりました。カミンは旧司教領で、1648年のヴェストファーレン条約で世俗化され、ブランデンブルク領となっていました。
当初、カミンの紋章は正式な図形では描かれませんでしたが、18世紀初頭に本来の図形に修正されました。


Zweimal gespalten und viermal geteilt.
1. Hzm. Magdeburg, 2. Mgft. Brandenburg, 3. Hzm. Preussen, 4. Hzm. Pommern, 5. Hzm. Stettin, 6. Hzm. Kassuben, 7. Hzm. Schlesien, 8. Hzm. Wenden, 9. Hzm. Jaegerndorf, 10. Fsm. Halberstadt, 11. Bgft. Nürnberg, 12. Fsm. Minden, 13. Gft. Hohenzollern, 14. Fsm. Kammin, 16. Regalien.



ca. 1703

【1703年頃】

メクレンブルク関連の紋章が加えられ、構成が大きく変わりました。ブランデンブルクを小盾に収め、背後の盾は、シュテッティン、プロイセン、マクデブルク、ポンメルン、メクレンブルク、カシュベン、ヴェンデン、シュレージェン、ハルバーシュタット、イェーゲルンドルフ、ニュルンベルク、ミンデン、シュベーリン司教、カミン、ロストク、ラーツェブルク、ヴェルレ、ホーエンツォレルン、シュタルガルト、シュヴェーリン伯、レガーリエン。

Dreimal gespalten und viermal geteilt mit Schildfuss und Herzschild.
Herzschild : Mgft. Brandenburg.
Hauptschild : 1. Hzm. Stettin, 2. Hzm. Preussen, 3. Hzm. Magdeburg, 4. Hzm. Pommern, 5. Hzm. Mecklenburg. 6. Hzm. Kassiben. 7. Hzm. Wenden, 8. Hzm. Schlesien, 9. Fsm. Halberstadt, 10. Hzm. Jaegerndorf, 11. Bgft. Nuernberg, 12. Fsm. Minden, 13. Fsm. Schwerin, 14. Fsm. Kammin, 15. H. Rostock, 16. Fsm. Ratzeburg, 17. H. Werle (Fsm. Wenden), 18. Gft. Hohenzollern, 19. H. Stargard, 20. Gft. Schwerin.
Schildfuss : Regalien.



1742-1768

【1742年以降】

盾の下二段にザイン伯及びリンプルク伯の紋章が加わりました。下から二段目がザイン、最下段はリンプルクとレガーリエンです。

1741年、ザイン=アルテンキルヘン伯領の領主だったザクセン=アイゼナハ家が絶えると、同家出身の母親の血縁から、ブランデンブルク=アンスバハ辺境伯カール・ヴィルヘルム・フリードリヒが伯領を相続し、ザイン関係の紋章が登場しました。リンプルクの紋章は組み込まれた経緯がよくわかりませんでした。当時のリンプルク伯領は、元々の領主家が絶え、姻戚関係にあった諸家が共同で相続していました。アンスバハとリンプルクの領土は一部接しており、アンスバハ領内にもリンプルク伯領の飛び地がありました。

Feld 21-24 : Grafschaft Sayn-Altenkirchen (Freusburg, Sayn, Wittgenstein, Homburg).
Feld 25-26 : Grafschaft Limpurg (Limpurg, Franken).



1769-1791

【1769年以降】

1769年に一族のブランデンブルク=バイロイト辺境伯家が絶えると、その領土を継承し、かつてのニュルンベルク城伯領は再統一されました。その際に、ブランデンブルク=バイロイトの紋章に組まれていた、ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公の紋章が取り込まれました。新たに加わった紋章は、上段のベルク(赤いライオン)、クレーヴェ(槍花車)、ユーリヒ(金地に黒いライオン)、四段目のメールズ(黒い横帯)、マルク(チェックの横帯)です。

1791年、辺境伯クリスティアン・フリードリヒ・カール・アレクサンダー(在位1757−91)は領土をプロイセンに譲渡。以後の辺境伯領はブランデンブルク=アンスバハ=バイロイトと呼ばれました。辺境伯領はさらに1806年にはバイエルンに割譲されました。

Feld 1. Hzm. Berg, 2. Hzm. Kleve, 5. Hzm. Juelich, 19. Gft. Ravensberg, 22. Gft. Moers, 24. Gft. Mark.


Variante (18. Jh.)

【バリエーション】

18世紀の小紋章です。ブランデンブルク、ホーエンツォレルン、ニュルンベルクの組み合わせです。他に、盾地を三分割して組んだものや、ザインの紋章を組み込んだものなどのバリーションもありました。

【ブランデンブルク=バイロイト辺境伯領】 Markgrafschaft Burandenburg-Kulmbach (1603 Bayreuth)

Kleines Wappen (bis 17. Jh.) :

Geviert, 1. Mgft. Brandenburg, 2. Hzm. Pommern, 3. Bgft. Nuernberg, 4. Gft. Hohenzollern.


1486 Markgrafschaft Brandenburg-Kulmbach entstand
1495-1515 Personalunion mit dem Markgrafschaft Ansbach
1554-1557 Interregnum
1557-1603 Personalunion mit dem Markgrafschaft Ansbach
1603 Markgrafschaft Brandenburg-Bayreuth
1769-1791 Personalunion mit dem Markgrafschaft Ansbach
1791 Preussischen Staat (als Brandenburg-Ansbach-Bayreuth)


17世紀までの小紋章です。本家ブランデンブルク選帝侯の紋章から侍従長官の紋章を取り除いた構成です。

もとはニュルンベルク城伯領で、アルブレヒト・アヒレス(ブランデンブルク選帝侯1440−86)没後の分割相続で誕生しました。バイロイトはアルブレヒト・アヒレスの末子ジークムントの相続分で、クルムバハに居したことから、当初はブランデンブルク=クルムバハと呼ばれました。クルムバハは家系が安定せず、アンスバハとの同君連合がたびたび行われました。
アルブレヒト・アルツィビアデス(在位1541−54)は近隣の諸都市、司教領に対して、侵略と略奪・破壊を開始したため、帝国追放令を受けて亡命(マルクグラーフ戦争)。以後、彼が没するまでの三年間、辺境伯位は空位となりました。
1603年に新たな家系が興り、バイロイトを首府としたので、以後はブランデンブルク=バイロイトと呼ばれました。このバイロイト家も1769年に男系が絶え、みたびアンスバハと連合。さらに1791年には総本家にあたるプロイセンに売却されアンスバハ=バイロイトと呼ばれました。
1806年にバイエルンに割譲され、以後バイエルン領となりました。

アンスバハとの同君連合がたびたび行われたため、紋章は18世紀前半まではアンスバハとほぼ共通で、その後、独自の変更が行われました。バイロイト系の紋章にはユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公の紋章が組まれたほか、アンスバハと共通する紋章も、序列に若干の異同がありました。


Mitte des 18. hundert

【18世紀半ば】

1742年に行われたアンスバハの紋章変更に連動した変更のようです。それまでの共通の紋章に、ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公国の紋章を加えました。


Herzschild : Mgft. Brandenburg.
Hauptschild : 1. Hzm. Berg, 2. Hzm. Kleve, 3. Hzm. Preussen, 4. Hzm. Magdeburg, 5. Hzm. Juelich, 6. Hzm. Stettin, 7. Hzm. Schlesien, 8. Hzm. Wenden, 9. Hzm. Pommern, 10. Hzm, Kassuben, 11. Hzm. Mecklemburg, 12. Hzm. Jargerndorf, 13. H. Rostock, 14. Fsm. Minden, 15. Bgft. Nuernberg, 16. Fsm. Halberstadt, 17. Fsm. Kammin, 18. Fsm. Schwerin, 19. Gft. Ravensberg, 20. Gft. Hohenzollern, 21. Fsm. Ratzeburg, 22. Gft. Moers, 23. Gft. Mark, 24. H. Stargard, 25. H. Werle (Fsm. Wenden), 26. Gft. Schwerin.
Schildfuss : Regalien.




【ブハウ女子修道院領】 Reichsabtei Buchau

フェダー湖(ビーベラハの西にある湖)のブハウ島にあったベネディクト系修道院で、770年頃に創建されました。初期にはカロリング王家の保護を受け、857年にルートヴィヒ(ドイツ王)の所有となり、王女イルムガルトが修道院長になりました。
13世紀にはアウグスティノ会に属し、その後、立誓共唱共住修道会を経て1415年に世俗修道院化。1447年に聖職諸侯となりました。以後教会財産が増加し、1625年にシュトラスベルクの領主権を獲得します。1802年に他の聖職諸侯領と共に世俗化され、旧領土はトゥルン・ウント・タクシス侯に与えられました。
紋章はシュヴァーベン(シュタウフェン=ライオン)&ブハウ(菱形のチェック模様)、ケステルベルク伯の組み合わせで、ケステルベルクの紋章の三日月は、金または銀色で表現されました。


ca. 770 Stift gegründet
1802 säkularisiert


歴代女子修道院長 Fürstäbtissinnen von Buchau

Maria Theresia II. von Montfort (1693-1742)

【ブハウ女子修道院長】マリア・テレジア2世(在位1693−1742)

盾上半分が女子修道院の紋章で、構成はシュヴァーベン&ブハウ、ケステルベルク。盾下半分は女子修道院長の実家モンフォール伯家の紋章です。

マリア・テレジア2世はモンフォール伯アントン2世(在位1686−1730)の姉で、生年は不明ですが、女子修道院長就任時は20代後半だったようです。

Maria Theresia II. Reichsgräfin von Montfort (?-1742)
Die dritte Tochter des Grafen Johann VIII. von Montfort-Tettnang.
1693-1742 Fürstäbtissin von Buchau

Geteilt unten Familienwappen Montfort.

Maria Karolina von Königseck-Rothenfels (1742-1774)

【ブハウ女子修道院長】マリア・カロリーネ(在位1742−74)

盾上半分が女子修道院の紋章で、盾下半分が女子修道院長の実家、ケーニヒゼック=ローテンフェルス伯家の紋章です。

ケーニヒゼック=ローテンフェルス伯レオポルト・ヴィルヘルム(在位1694−1704)の8男カール・フィデリスの一人娘で、女子修道院長就任時35歳でした。

Maria Karolina Reichsgräfin von Königseck-Rothenfels (1707-1774)
Einzige Tochter des Karl Fidelis Desiderius von Königseck-Rothenfels, dem Sohn des Grafen Leopold Wilhelm von Königseck-Rothenfels.
1742-1774 Fürstäbtissin von Buchau

Geteilt unten Familienwappen Königseck.


【ブルガウ辺境伯領】 Markgrafschaft Burgau

Wappen (18. Jh.) :


1162 Markgrafschaft Burgau
1498-1806 unter Österreichisher Herrschaft
1806 Territorium fällt an Bayern

オーストリアとブルガウの組み合わせ。盾持ちはハプスブルク家のグリフォンです。後を振り向いた姿勢のグリフォンはマリア・テレジアの時代に用いられました。

ブルガウ辺境伯領は12世紀の末頃に成立しました。14世紀の初めに辺境伯家が断絶すると、領土は諸家の間を転々とし、16世紀末にティロル伯フェルディナント2世の息子カール(在位1592−1618)が辺境伯領を獲得します。彼の死後はオーストリア領となったため、オーストリアの紋章が組み込まれました。ヨーゼフ2世の代になると、シュヴァーベン地方にあった他のハプスブルク家領とあわせて「前オーストリア」と呼ばれました。
1806年にバイエルン王国に編入されると、ブルガウの紋章はバイエルン王国の紋章に取り入れられました。


burgau

銀赤で逆斜め6分割した盾地に金色の縦帯を置いた図形。クレストも紋章と同じに塗り分けられた鷲の翼でした。

オーストリア領時代の紋章です。向かって左にオーストリア、向かって右にブルガウの紋章を組みました。盾の上にはオーストリア大公冠を置くのが通常だったようです。


Gespalten vorne in Rot ein silbernen Balken (Oesterreich), hinten fuenfmal Silber-Rot schraeglinks geteilt, ueberdeckt von einem goldenen Pfahl (Burgau).


歴代辺境伯 Markgrafen von Burgau

Maria Theresia

【ブルガウ辺境女伯】マリア・テレジア(在位1740−80)

オーストリア大公の紋章を中央の小盾に収め、背後の盾にはハンガリー、ボヘミア、ブルゴーニュ、ブルガウの紋章を組んでいます。

双頭の鷲の胸の部分に描かれた紋章盾です。ブルガウ辺境伯領に対して用いられました。


【カステル伯領】 Grafschaft Castell

Wappen :
Geviert von Rot und Silber.


1200 Grafschaft Castell entstand
1253 Castell-Ältere Linie (-1327)
1258 Castell Jüngere Linie
1597 Erbteilung ->Castell-Remlingen (1762 erloschen) und Castell-Rüdenhausen (1803 erloschen)
1668 Castell-Castell (Teil von Castell-Remlingen, 1806 mediatisiert,)

13世紀に登場した伯領で、1597年にカステル=レムリンゲンとカステル=リューデンハウゼンに分裂しました。レムリンゲン家は1762年に、またリューデンハウゼン家も1803年に途絶したので、レムリンゲンの分家カステル=カステル家が両家を継承し、1850年にカステル=カステルとカステル=リューデンハウゼンに再分裂しました。1806年に主権を失い、バイエルン王国に編入されました。カステル=カステル家は1901年にバイエルンの侯位を得ました。


赤と銀の四分割図形。



【アイヒシュテット司教領】 Hochstift Eichstätt

In Rot ein silberner Bischofsstab.


745 Bistum gegründet
1802 säkularisiert

赤地に銀色の司教杖。

745年設立の司教座を中心に発達した領邦で、11世紀半ばの司教ゲプハルト1世(在位1042−57)は、最初のドイツ人教皇となりました(ヴィクトル2世:在位1055−57)。
1802年に世俗化。領土はハプスブルク家のトスカーナ大公フェルディナントに与えられ、ザルツブルク選帝侯国を形成しました。
神聖ローマ帝国解体に伴いザルツブルク選帝侯国が消滅すると、バイエルンに編入されます。バイエルン時代は、新設されたロイヒテンベルク公家の領有するアイヒシュテット侯領となりました。


歴代司教 Fürstbischöfe von Eichstätt

Johann Christoph von Westerstetten (1612-1636)

【アイヒシュテット司教】ヨハン・クリストフ(在位1612−36)

司教の実家ヴェスターシュテッテンの紋章との組み合わせ。

カトリック至上主義者で、就任の翌々年、イエズス会を招聘し、1617年には旧教徒連盟(Liga)にも参加し、カトリック勢力の巻き返しを図ります。しかし、三十年戦争でスウェーデン軍来寇によりインゴルシュタットに亡命。司教職はマルクヴァルト・シェンク・フォン・カステル(次代のアイヒシュテット司教)が代行しました。1636年、参事会はマルクヴァルトを正式に司教に選出したため、その地位を喪失。彼は翌1637年に、アイヒシュテットで没しました。
彼はイエスズ会の招聘と同時に魔女狩りを開始し、274人に魔女の判決を下しました。あまりの苛烈さから、同時代人から悪名をつけられるほどでした。

Johann Christoph von Westerstetten (1563-1637)
Sohn des Wolfgang Rudolf von Westerstetten zu Altenberg.
1612-1636 Fürstbischof von Eichstätt

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Westerstetten.


Marquard II. Schenk von Castell (1637-1685)

【アイヒシュテット司教】マルクヴァルト2世(在位1637−85)

司教の実家カステル献酌侍従家の紋章との組み合わせ。

三十年戦争中、スウェーデン軍来寇によって前任者が司教領を逃れたため、アイヒシュテット司教代理に任ぜられ、次いで司教に選出されました。
司教在任中は、司教領の改革や町をバロック都市化する事業に携わりました。

Marquard II. Reichsfreiherr (1681 Reichsgraf) Schenk von Castell (1605-1685)
1637-1685 Fürstbischof von Eichstätt

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Schenk von Castell.

Johann Euchar Schenk von Castell (1685-1697)

【アイヒシュテット司教】ヨハン・オイヒャル(在位1685−97)

司教の実家カステル献酌侍従家の紋章の中央に司教の紋章が組まれました。

カステル献酌侍従家からは3人の司教が出ており、ヨハン・オイヒャルは、同家出身のマルクヴァルト2世の後任として司教に選出されました。
実家カステル献酌侍従家は1681年に帝国伯に昇爵し、紋章が変更されました(銀地に赤色の鹿角と頭蓋がカステル家一族の紋章です)。ヨハン・オイヒャルはその新しい小紋章の中央に司教の紋章を組み入れました。

Johann Euchar Reichsfreiherr (1681 Reichsgraf) Schenk von Castell (1625-1697)
1685-1697 Fürstbischof von Eichstätt

geviert mit Herzschild.
Herzschild : Bm. Eichstätt,
Hauptschild : 1. & 4. Schenk von Castell, 2. & 3. Schenk von Landeck.


Johann Martin von Eyb (1698-1704)

【アイヒシュテット司教】ヨハン・マルティン(在位1698−1704)

司教の実家アイプ帝国騎士家の紋章との組み合わせ。
アイプ家はアイヒシュテット司教の宮廷の献酌侍従職を世襲していました。

1646年、16歳でアイヒシュテット司教座教会参事会会員となり、1698年に司教に選出されました。

Johann Martin Reichsritter von Eyb (1630-1704)
Sohn des Heinrich Konrad Reichsritter von Eyb.
1698-1704 Fürstbischof von Eichstätt

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Eyb.

Johann Anto I. Knebel von Katzenellbogen (1705-1725)

【アイヒシュテット司教】ヨハン・アントン1世(在位1705−25)

司教の実家クネーベル男爵家の紋章との組み合わせ。実家の紋章は複数の紋章で構成されていますが、ヨハン・アントンの紋章ではクネーベル家本来の紋章のみが組まれています。なお、クネーベル家は1710年に帝国男爵の地位を得ました。

Johann Anto I. (1710 Reichsfreiherr) Knebel von Katzenellbogen (1705-1725)
1705-1725 Fürstbischof von Eichstätt

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Knebel von Katzenellbogen.

Franz Ludwig Schenk von Castell (1725-1736)

【アイヒシュテット司教】フランツ・ルートヴィヒ(在位1725−36)

司教の実家カステル献酌侍従家の紋章の中央に司教の紋章が組まれました。

Franz Ludwig Reichsgraf Schenk von Castell (1761-1736)
1725-1736 Fürstbischof von Eichstätt

geviert mit Herzschild.
Herzschild : Bm. Eichstätt.
Hauptschild : 1. & 4. Schenk von Castell, 2. & 3. Schenk von Landeck.


Johann Anto II. von Freyberg-Hopferau (1736-1757)

【アイヒシュテット司教】ヨハン・アントン2世(在位1736−57)

司教の実家フライベルク家の紋章との組み合わせ。

在位中、司教座参事会との間にいくつかの紛争が勃発、総じて不利な形勢に立たされました。

Johann Anton II. Reichsfreiherr von Freyberg-Hopferau (1674-1757)
1736-1757 Fürstbischof von Eichstätt

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Freyberg.

Johnn Anton III. von Zehmen (1781-1790)

【アイヒシュテット司教】ヨハン・アントン3世(在位1781−90)

司教の実家ツェーメン男爵家の紋章との組み合わせ。

ツェーメン家はザクセンの貴族で、男爵の称号を持ちますが帝国非直属身分でした。18世紀に入ってから所領を買い増しするなどして勢力を拡大しました。

Johnn Anton III. Freiherr von Zehmen (1715-1790)
1781-1790 Fürstbischof von Eichstätt

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Zehmen.


【エルヴァンゲン修道院領】 Reichspropstei Ellwangen

In Silber eine goldene Mitra.


764 Stift gegruendet
1460 Reichsfuerstenstand
1802 saekularisiert -> Kfsm. Wuerttemberg

エルヴァンゲンはバーデン=ヴュルテンベルク州の北東部、ネルトリンゲンの北西に位置にある町で、記録には13世紀に登場します。しかし修道院の歴史はそれより500年近くも古く、764年頃に創建された聖堂が起源です。会派はアウグスティノ会に属しました。
1460年に神聖ローマ帝国の聖職諸侯の地位を獲得。帝国議会での地位も高く、大多数の修道院とは異なって諸侯部会に議席を持ち、単独の議決権を行使できました。修道院は1802年に世俗化され、翌1803年にヴュルテンベルクに併合されました。

紋章は銀地に金色のミトラです。紋章のルール上彩色違反にあたりますが、古くはミトラの縁は赤色で縁取られていたそうです。


歴代修道院長 Fuerstproepste von Ellwangen

Johann Rudolf von Rechberg (1654-1660)

【エルヴァンゲン修道院長】ヨハン・ルドルフ(在位1654−60)

実家レヒベルク家の紋章との組み合わせ。レヒベルク家はエルヴァンゲンの南西にあるシュヴェービッシュ・グミュント近郊を拠点とする貴族です。複数の家系に分かれており本来の紋章は盾地が銀色でした。ヨハン・ルドルフはホーエンレヒベルク家系の出で、彼の弟は男爵位を得、その子フランツ・アルブレヒトは1686年に初代ホーエンレヒベルク=ドンツドルフ伯となりました。

Johann Rudolf von Rechberg (1606-1660)
Der aelteste Sohn des Johann Wilhelm von Rechberg.
1654-1660 Fuerstpropst von Ellwangen

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Hohenrechberg.

Johann Christoph III. von Freyberg(1660-1674)

【エルヴァンゲン修道院長】ヨハン・クリストフ3世(在位1660−74)

実家フライベルク家の紋章との組み合わせ。

1660年にエルヴァンゲン修道院長に就任しました。翌年からアウグスブルク司教区管理人を務め、1665年にアウグスブルク司教となりました。1674年にエルヴァンゲン修道院長を退きました。

Johann Christoph Reichisfreiherr von Freyberg (1616-1690)
1660-1674 Als Johann Christoph III. Fuerstpropst von Ellwangen
1661-1665 Administrator in Augsburg
1665-1690 Fuerstbischof von Augsburg

Feld 2. u. 3. Familienwappen Freyberg.


Johann Christoph IV. Adelmann von Adelmannsfelden (1674-1687)

【エルヴァンゲン修道院長】ヨハン・クリストフ4世(在位1674−87)

実家アーデルマン・フォン・アーデルマンスフェルデン家の紋章との組み合わせ。同家はエルヴァンゲン近郊を拠点とする貴族で、1680年に男爵位、1790年に伯位を得ました。

Johann Christoph Adelmann von Adelmannsfelden (-1687)
1674-1687 Als Johann Christoph IV. Fuerstpropst von Ellwangen

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Adelmann von Adelmannsfelden.

Anton Ignaz von Fugger-Gloett (1756-1787)

【エルヴァンゲン修道院長】アントン・イグナーツ(在位1756−87)

実家フッガー=グレット家の紋章の中央にエルヴァンゲン修道院長の紋章を組んでいます。

1769年にレーゲンスブルク司教クレーメンス・ヴェンツェルがトリーア大司教に転出すると、その後任となりました。司教就任以後は、中央の小盾は縦二分割されて、レーゲンスブルクとエルヴァンゲンの紋章が組まれました。

Anton Ignaz Reichsgraf Fugger-Glött von Kirchberg und zu Weissenhorn (1711-1787)
Der vierte Sohn des Grafen Anton Ernst Fugger von Kirchheim und Glött.
1756-1787 Fuerstpropst von Ellwangen
1769-1787 Fuerstbischof von Regensburg


【フライジング司教領】 Hochstift Freising

In Gold ein rote gekroenter schwarzer Mohrenkopf mit roten Lippen.


724 Bistum gegruendet
1802 saekularisiert -> Kgr. Bayern
1821 Erzbistum Muenchen-Freising

赤い冠を被った黒人の横顔。

フライジングはミュンヘンの北北東にある街で、724年の司教座設置から18世紀まで、バイエルンの宗教文化の中心地として栄えました。
司教は13世紀の前半に神聖ローマ帝国の聖職諸侯の地位を得ました。1802年に世俗化され、領土はバイエルンに併合されました。
なお、宗教面では、1803年以降は司教位が空位の状態が続き、1821年にミュンヘン=フライジング大司教区に教区が再編されました。
歴代司教には、バイエルン公ハインリヒ2世喧嘩公に荷担して皇帝オットー2世に刃向かったアブラハム(在位957−93)や、皇帝フリードリヒ・バルバロッサの政策に重要な役割を果たしたオットー3世(在位1138−58)らがいます。また、現教皇ベネディクト16世もフライジング大司教だった関係で、教皇の紋章にはフライジングが組み込まれています。


Variante

【バリエーション】

盾地が銀色に、黒人の冠が赤色から金色に変更されました。
17世紀頃から登場した彩色だそうで、19世紀にュンヘン=フライジング大司教区になった際にもこちらの紋章が使われました。


歴代司教 Fürstbischöfe von Freising

Albrecht Sigmund von Bayern (1651-1685)
bis 1669

【フライジング司教】アルブレヒト・ジークムント(在位1651−85)

司教の実家バイエルンの紋章の中央に、フライジング司教の紋章が組まれました。

バイエルン=ロイヒテンブルク家出身で、すぐ上の兄にケルン選帝侯マクシミリアン・ハインリヒ(在位1650−88)がいます。

Albrecht Sigmund Herzog von Bayern (1623-1685)
Der vierte Sohn des Herzogs Albrecht VI. von Bayern-Leuchtenberg.
1642-1651 Koadjutor des Fürstbischofs von Freising
1651-1685 Fürstbischof von Freising
1669-1685 Fürstbischof von Regensburg

Albrecht Sigmund von Bayern (1651-1685)
seit 1669

【フライジング司教】アルブレヒト・ジークムント(在位1651−85)

1669年にレーゲンスブルク司教に就任したため紋章が変更になりました。中央の小盾は司教の実家バイエルン。背後の盾は、兼任したフライジングとレーゲンスブルク司教です。


Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Hzm. Bayern - geviert 1 & 4. Bayern, 2 & 3. Pfgft. am Rhein.
Hauptschild : 1 & 4. Bm. Freising, 2 & 3. Bm. Regensburg.



Johann Franz Eckher von Kapfing u. Liechteneck (1694-1727)

【フライジング司教】ヨハン・フランツ(在位1694/5−1727)

司教の実家、エッカー男爵家の紋章との組み合わせ。

実家エッカー家は1691年に男爵の称号(帝国非直属身分)を得ました。

Johann Franz Freiherr Eckher von Kapfing u. Liechteneck (1649-1727)
1696-1727 Fürstbischof von Freising

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Eckher von Kapfing u. Liechteneck.

Clemens Wenzelaus von Sachsen (1763-1768)

【フライジング司教】クレーメンス・ヴェンツェラウス(在位1739−68)

中心の小盾はザクセン。中間の盾はポーランドとリトアニア。背後の盾はフライジング司教とレーゲンスブルク司教。勲章はザクセン=ヴァイマールの白鷲勲章です。

ポーランド王兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の息子で、1763年にフライジングとレーゲンスブルク司教となりました。1768年にトリーア選帝侯とアウグスブルク司教に選ばれたため、フライジングとレーゲンスブルクの司教位を退きました。

Clemens Wenzelaus Herzog von Sachsen (1739-1812)
Der achte Sohn des Kurfürsten Friedrich August II. von Sachsen.
1763-1768 Fürstbischof von Freising und Regensburg
1765-1768 Koadjutor des Fürstbischofs von Augusburg
1768-1802 Kurfürst-Erzbischof von Trier, Fürstabt von Prüm
1768-1812 Fürstbischof von Augusburg
1787-1802 Fürstpropst von Ellwangen

Geviert mit goldener Koenigskrone gekroentes Mittelschild und Herzschild.
Herzschild : Hzm. Sachsen.
Mittelschild : geviert 1 u. 4. Kgr. Polen, 2 u. 3. Ghzm. Litauen.
Hauptshild : geviert 1 u. 4. Bm. Freising, 2 u. 3. Bm. Regensburg.
Orden : Sachsen-Weimarer Orden vom Weissen Falken.



Maximilian Prokop von Toerring-Jettenbach (1788-1789)

【フライジング司教】マクシミリアン・プロコプ(在位1788−89)

兼任したフライジングとレーゲンスブルク司教の紋章を背後の盾に組み、その上に実家テリング伯家の紋章を置きました。

テリング伯はバイエルンの貴族で、マクシミリアンはテリング=イェテンバハ伯家の傍系の出身です。1787年にレーゲンスブルク司教とバイエルン選帝侯家の聖ゲオルク騎士団の司教に就任。フライジング司教には翌1788年に就任しました。

Maximilian Prokop Reichsgraf von Toerring-Jettenbach (1739-1789)
Der dritte Sohn des Grafen Maximilian Joseph von Toerring-Jettenbach-Raenkam.
1787-1789 Bischof des Hausritterordens vom Heiligen Georg
1787-1789 Fürstbischof von Regensburg
1788-1789 Fürstbischof von Freising


Joseph Konrad von Schroffenberg (1790-1803)

【フライジング司教】ヨーゼフ・コンラート(在位1790−1803)

背後の盾に兼務したフライジング、レーゲンスブルク両司教と、ベルヒテスガーデン修道院長の紋章を組み、その上に実家シュロッフェンベルク男爵家の紋章を置きました。

最後のフライジング領主司教です。1790年に、前任者の死を受けてフライジングおよびレーゲンスブルク司教に選出されました。彼の没後はフライジング司教位は空位となり、1821年の教区再編を迎えます。

Joseph Konrad Reichsfreiherr von Schroffenberg (1743-1803)
1780-1803 Fürstpropst von Berchtesgaden
1790-1803 Fürstbischof von Freising und Regensburg


【フッガー=バーベンハウゼン侯国】 Fürstentum Fugger-Babenhausen (1803-1806)

Wappen :
Geviert, 1 & 4. Fugger, 2. Gft. Kirchberg, 3. H. Weissenhorn.


1530 Grafschaft Kirchberg
1560 Grafschaft Fugger-Babenhausen
1803 Fürstentum
1806 mediatisiert

フッガー家はアウグスブルクの市民階級出身で、14世紀頃に織物商を始めました。ヨーロッパ各地との商売を通じて富を蓄積して15世紀後半に金融業を開始。アウグスブルクの他、ヴェネツィアやアントウェルペンに支店を構えて活動しました。富裕者(der Reiche)と呼ばれたヤーコプ2世(1459−1525)の時が最盛期で、1487年に初めてハプスブルク家に貸し付けを行い、その担保としてティロルの鉱山開発権や商業上の独占権などを獲得。さらにハンガリーの鉱山業にも進出したりローマ教皇とも金融上の関係を結ぶなどして巨大財閥に成長しました。皇帝カール5世の皇帝選挙で選挙資金の大半を調達したことから、スペイン王室とのつながりが深まり、スペインの保護下に大規模な国際取引を営みました。しかし、16世紀後半にスペイン王家が財政破綻すると膨大な額の貸し倒れが発生し、以後は衰退していきました。
ところで、フッガー家はハプスブルク家への貸付金の担保としてキルヒベルク伯領(帝国非直属領土)を保持し、1511年には神聖ローマ帝国の貴族に列せられました。
1530年にライムントとアントン1世の兄弟が伯位を与えられ、次いでグレット(1536年)、バーベンハウゼン(1538年)の二つの帝国直属の領地を獲得。1563年に帝国等族に迎えられました。ライムント、アントン兄弟の子孫はそれぞれ多くの家系に分かれ、帝国解体時には5家がありました。

フッガー=バーベンハウゼンはアントン1世(在位1530−60)の息子ヤーコプに始まる家系で、1803年に帝国諸侯となりました。しかし、帝国解体時に主権を失い、領土はバイエルン王国に併合されました。


Stammwappen

フッガー一族の紋章です。盾地を縦に二分し、向かって左に金地に青、向かって右に青地に金の百合花紋を描いています。


Stammwappen : Gespalten, vorne in Gold eine blaue Lilie, hinten in Blau eine goldene Lilie.

組まれているのは、フッガー家、キルヒベルク伯領(ミトラを掲げる若い黒人女性)、ヴァイセンホルン領主領。フッガー諸家とも構成は同じでした。
ヴァイセンホルンの紋章はその名の通り白い(ヴァイス)ホルンです。

【フッガー=グレット伯領】 Grafschaft Fugger-Glött

中央の小盾はポルヴァイル。

フッガー=キルヒハイム伯ヨハン(アントン1世の息子)の次男クリストフに始まる家系で、グレット伯領などを領しました。
1806年に一族各家と共に主権を失い、領土はバイエルンに併合されました。
なお、この家系は1913年に侯位を得ました。

Herzschild : Polweil.

1598 entstand (Teil von Fugger-Kirchheim)
1806 mediatisiert


【フュルステンベルク侯国】 Fürstentum Fürstenberg

銀と青で雲形に分割された縁取りのある金地の盾に赤色の鷲。

13世紀半ばにウーラハ家から分かれ、伯を自称しました。その後、非常に多くの家系への分裂と統合を繰り返しました。諸家のうち、フュルステンベルク=ハイリゲンベルクが1667年に帝国諸侯に昇格しました。
1806年、帝国解体と同時に主権を失い、バーデン大公国に併合されました。

1250 Grafschaft Fürstenberg
1559 Grafschaft Fürstenberg-Heiligenbetg (1664 Fürstentum, 1686 erloschen)
1667 Reichsfürstenstand
1704 Grafschaft Fürstenberg-Fürstenberg (1716 Fürstentum, 1804 erloschen)
1762 Fürstentum Fürstenberg-Pürgnitz (1806 mediatisiert)

In Gold ein blau bewehrter, roter Adler, umgeben einem mit Wolkenschnitt von Silber und Blau geteilen Bord.


中央の小盾はヴェールデンベルクとハイリゲンベルク伯。

ヴェールデンベルク=ハイリゲンベルク伯家はボーデン湖の周辺(現在のスイス・リヒテンシュタイン、オーストリア西部)に所領網が展開していた、帝国等族の身分を持った伯です。1530年に男系が途絶すると、女伯アンナの夫フリードリヒ3世によって帝国等族の地位が代行され、以後、フュルステンベルクが帝国解体まで代行者を務めました。
フリードリヒ3世の没後、末子ヨアヒムがフュルステンベルク=ハイリゲンベルク家を興し、1667年に帝国諸侯の地位を得ます。その後、分裂と国名変更を経て、1704年にフュルステンベルク=フュルステンベルクとなり、1760年に帝国議会の諸侯部会への出席が認められました。

1530 Grafschaft Werdenberg-Heiligenberg erworben

Herzschild : Geviert 1. & 4. in Rot ein silberne Kirchenfahne (Gft. Werdenberg), 2. & 3. in Silber ein schrägrechter schwarzer Stufenbalken (Gft. Heiligenberg).


【ハイタースハイム侯国(マルタ騎士団領)】 Fürstentum Heitersheim (Johanniterorden)

1428 Reichisprälatenstand
1548 Geistliche Fürstentum Heitersheim
1806 Territorium fällt an Baden

赤地に銀色の十字。ヨハネ騎士修道会(ロードス騎士団、マルタ騎士団とも)の紋章で、盾の背後の十字(マルタ十字)も同騎士団を表します。

ハイタースハイムはドイツ南西国境の近くにある町(ミュールハイムの北)で、13世紀に騎士団の所有となり、ドイツ総長の在所と定まりました。総長は1428年に神聖ローマ帝国の諸侯(高位聖職者)の身分を与えられ、1548年に諸侯に昇格。ハイタースハイム侯国が成立します。1806年に神聖ローマ帝国が解体すると、領土はバーデン大公国に併合されました。
ヨハネ騎士修道会はドイツ騎士修道会同様、帝国内に多くの寄進地を保有していました。修道会は現在もドイツ各地に支部を持ち、慈善奉仕活動を行っています。


歴代ドイツ総長 Fürsten und Generalprioren des Johanniterorden zu Heitersheim

Philipp Wilhelm von Nesselrode (1728-1754)

【ドイツ総長】フィリップ・ヴィルヘルム(在位1728−54)

総長の実家ネッセルローデ家の紋章との組み合わせ。

Philipp Wilhelm von Nesselrode
1728-1754 Fürst und Generalprior

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Nesselrode.

Ignaz Balthasar Willibald Rink von Baldenstein (1796-1806)

【ドイツ総長】イグナーツ・バルタザール(在位1796−1806)

総長の実家リンク・フォン・バルデンシュタイン家の紋章との組み合わせ。

最後のハイタースハイム侯です。

Ignaz Balthasar Willibald Rink von Baldenstein
1796-1806 Fürst und Generalprior

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Rink von Baldenstein.


【ホーエンローエ侯国】 Fürstentum Hohenlohe

銀地にこちらを向いた歩き姿の二頭のライオン。

ホーエンローエ家は12世紀末に遡る家系で、13世紀初頭に2家に分裂、その後も多くの分家を出しました。
諸家のうち、カトリックのヴァルデンブルク家とプロテスタントのノイエンシュタイン家の系統が有力となり、前者の系統は1744年に、後者の系統は1764年にそれぞれ帝国諸侯の地位を得ました。
しかし、いずれの家系も1806年に主権を失い、領土はバイエルンとヴュルテンベルクに併合されました。

Ende des 12 Jh. Grafschaft Hohenlohe entstand
1744 Fürstentum
1806 mediatisiert

ホーエンローエとランゲンブルク領主領の組み合わせ。
ホーエンローエ各家の基本紋章です。諸家とも紋章盾の構成は同一で、クレストあるいは盾持ちを違えて区別していました。ランゲンブルクの紋章の下半は黒色の菱形を2段に並べています。菱形の数は紋章図によって個数がまちまちですが8個が基本のようです。


Geviert : 1. u. 4. in Silber übereinander zwei hersehende schreitende rot gezungte schwarze Löwen (Hohenlohe), 2. u. 3. geteilt oben in Schwarz ein schreitender gekrönter goldener Löwe, unten in Gold achte schwarze Rauten in zwei Reihen (H. Langenburg).

【ホーエンローエ=バルテンシュタイン侯国】 Fürstentum Hohenlohe-Bartenstein

ca. 1763-

1763年頃の紋章です。最下段にリンプルク伯領の紋章が加わりました。

バルテンシュタインは1668年のホーエンローエ=シリングスフュルスト伯領の分裂で誕生しました。1744年に帝国諸侯に昇格し、翌々年に帝国議会の諸侯部会に議席を持ちました。
初代侯カール・フィリップの妃ゾフィー・マリア(ヘッセン=ラインフェルス家)は、母親がリンプルク=シュペックフェルト家出身で、ゾフィー自身もリンプルク伯領の共同相続人でした。第2代侯ルートヴィヒ・レオポルト(在位1763−98)は1777年に、ゾフィーからリンプルクの領土を相続しました(リンプルクの領土は1804年にコロレド家に売却されました)。
1806年に一族各家と共に主権を喪失し、領土はヴュルテンベルク王国に編入されました。

1688 Grafschaft entstand (Teil von Hohenlohe-Waldenburg-Schillingsfürst)
1744 Fürstentum
1746 Reihsfürstenstand
1806 mediatisiert

【ホーエンローエ=ノイエンシュタイン侯国】 Fürstentümer Hohenlohe-Neuenstein (Ingerfingen, Kirchberg, Langenburg, Öhringen)

1764-

1764年の帝国諸侯昇格時に制定されました。同時に昇格したノイエンシュタイン系諸家(インゲルフィンゲン、キルヒベルク、ランゲンブルク、エーリンゲン)共通の紋章です。
1806年、存続していた3家(インゲルフィンゲン、キルヒベルク、ランゲンブルク)は各家とも主権を失い、領土はヴュルテンベルク王国とバイエルン王国に編入されました。

Neuensteinischer Linie:
1472 Grafschaft Hohenlohe-Neuenstein (-1698)
1610 Hohenlohe-Weikersheim (-1756)
1610 Hohenlohe-Langenburg (1764 Fürstentum, 1806 mediatisiert)
1676 Hohenlohe-Öhringen (1764 Fürstentum, 1805 fällt an Hohenlohe-Ingelfingen)
1701 Hohenlohe-Ingelfingen (1764 Fürstentum, 1806 mediatisiert)
1701 Hohenlohe-Kirchberg (1764 Fürstentum, 1806 mediatisiert)


1632-1764

【1632−1764年】

中央にトンナ(グライヒェン=トンナ伯)の紋章が加わりました。
1631年にグライヒェン=トンナ伯家が断絶すると、ホーエンローエ=ヴァイカースハイム伯家のゲオルクは、姉アグネス(グライヒェン=トンナ伯フィリップ・エルンスト:在位1578−1619の妃)の続柄からグライヒェン伯を称しました。ヴァイカースハイム家は1610年にノイエンシュタイン家から別れた家系だったので、左の紋章はノイエンシュタイン系各家が用いました。
なお、グライヒェン伯領はザクセン=ゴータ公国の陪臣領として、1701年以降、ホーエンローエ=キルヒベルク家が保持しました。

Geviert mit Herzschild:
Herzschild: Gft. Tonna,
Hauptschild: 1. & 4. Hohenlohe, 2. & 3. H. Langenburg

【ホーエンローエ=シリングスフュルスト侯国】 Fürstentum Hohenlohe-Waldenburg-Schillingsfürst

シリングスフュルスト家は1615年にヴァルデンブルク家から別れました。
1744年、他のヴァルデンブルク系諸家と共に帝国諸侯の地位を得ますが、1806年に主権を喪失し、領土はバイエルン王国に編入されました。

バイエルン王国首相(在職1866−70年)およびドイツ帝国宰相(在職1894−1900)を歴任したクロートヴィヒはこの家系の出身です。

1615 Grafschaft entstand (Teil von Hohenlohe-Waldenburg)
1744 Fürstentum
1806 mediatisiert


【ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯国】 Fürstentum Hohenzollern-Hechingen

Wappen (19. Jh.) :

Herzschild : Bgft. Nuernberg.
Hauptschild : Hohenzollern.

Fuerstlich Hohenzollernscher Hausorden (gestiftet durch Fuerst Konstantin zu Hohenzollern-Hechingtn und Fuerst Carl zu Hohenzollern-Sigmaringen am 5.12.1841)


1333 Grafschaft Hohenzollern-Hechingen entstand (Teil von Zollern)
1653 Fürstentum
1849 Dankte zugunsten des Königs von Preussen
1869 erloschen

シュヴァーベン系ホーエンツォレルン家で、フランケン系(ブランデンブルク系)とは13世紀初頭に分かれました。1333年に兄脈(1412年に断絶)とヘヒンゲンに分かれた際に、フリードリヒ9世(在位1333−79年)が称号をツォレルン伯からホーエンツォレルン伯に変えました。
アイテル・フリードリヒ2世(在位1488−1512年)の代に神聖ローマ帝国世襲侍従職を授かり、1623年に帝国諸侯に昇格。神聖ローマ帝国解体後も独立を維持してドイツ連邦に加盟しますが、1848年の三月革命で主権を放棄。領土を親戚のプロイセン王国に譲渡し、以後はホーエンツォレルン侯を名乗りました。
侯家は1869年に断絶しました。


1504-1653

【1504年以降】

中央の小盾は神聖ローマ帝国世襲侍従職。背後の盾は、ホーエンツォレルン、ジークマリンゲン。

アイテル・フリードリヒ2世(在位1488−1512年)は神聖ローマ帝国世襲侍従職を授かり、同職の紋章が組み込まれました。世襲侍従職は本家のブランデンブルク選帝侯家が侍従長官職を保有している関係から授かったそうです。


Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Erbkämmeramt,
Haiptschild : 1. & 4. Hohenzollern, 2. & 3. Gft. Sigmaringen.

1653-

中央の小盾は神聖ローマ帝国世襲侍従職。
背後の盾は、ホーエンツォレルン、ニュルンベルク城伯、ジークマリンゲン。

1576年のヘヒンゲンとジークマリンゲンに分裂後は、職位はヘヒンゲンが保持しました。
ヘヒンゲン家は1623年に帝国諸侯に列せられました。


Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Erbkämmeramt,
Haiptschild : 1. & 4. Hohenzollern, 2. Bgft. Nürnberg, 3. Gft. Sigmaringen.

19. Jh.

【19世紀】

ホーエンツォレルンの紋章の中心にニュルンベルク城伯の紋章。
神聖ローマ帝国が解体すると、それまでの紋章からシンプルな構成の紋章に変わりました。

【ホーエンツォレルン=ジークマリンゲン侯国】 Fürstentum Hohenzollern-Sigmaringen

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Gft. Hohenzollern (Stammwappen),
Hauptschild : 1. Gft. Sigmaringen, 2. Bgft. Nürnberg, 3. Gft. Veringen, 4. Haigerloch und Wehrstein.


1576 Grafschaft Hohenzollern-Sigmaringen
1653 Fürstentum
1849 Dankte zugunsten des Königs von Preussen

1576年にヘヒンゲン家から分かれました。1653年に帝国諸侯に昇格し、神聖ローマ帝国解体後も独立を維持します。しかし、1848年の三月革命でヘヒンゲン家と共に主権を放棄し、以後はホーエンツォレルン侯を称しました。

1634-1848

中央の小盾はホーエンツォレルン。背後の盾は、ジークマリンゲン、ニュルンベルク城伯、フェーリンゲン、ハイガーロッホ。フェーリンゲンの彩色は本来のものと異なりますが、詳細不明です。

【ホーエンツォレルン侯】

Wappen des Fürstlichen Hauses Hohenzollern :

Einmal gespalten und zweimal geteilt mit Herzchild.
Herzschild : Hohenzollern,
Hauptschild : 1. Bgft. Nürnberg, 2. Erbkämmeramt, 3. Haigerloch und Wehrstein, 4. Gft. Sigmaringen, 5. Gft. Veringen, 6. Gft. Berg.

主権を放棄してホーエンツォレルン侯を称してからの紋章です。盾の下のモットーはラテン語で、「神不在などあり得ぬ」というような意味です。
第二代ホーエンツォレルン侯レオポルト(在位1869−1905)はスペイン王に推挙されましたが、即位を拒否しました。彼の弟カールはルーマニア王となり(在位1881−1914)、カールの死後はレオポルトの息子が王位を継承しました。

中央の小盾はホーエンツォレルン。背後の盾は、ニュルンベルク城伯、帝国世襲侍従職、ハイガーロッホ=ヴェールシュタイン、ジークマリンゲン伯、フェーリンゲン伯、ベルク伯。

フェーリンゲン伯領はもともとハプスブルク家領で、1535年にローマ王フェルディナント1世からハプスブルク家の封土として授けられました(よって、フェーリンゲン伯としてはハプスブルク家の家臣となります)。フェーリンゲンの紋章はジークマリンゲン家の主権放棄後にプロイセン王の紋章にも組み入れられましたが、プロイセン王の紋章では金地に青い鹿角に彩色が変更されています。


【コンスタンツ司教領】 Hochstift Konstanz

In Silber ein rotes Kreuz.


6 Jh. Bistum gegründet
1802 Säkularisiert

銀地に赤の十字。

ボーデン湖の北岸に広がる司教領で、6世紀に設置された司教座を中心に形成されました。
ザーリア朝時代(11世紀)はシュヴァーベンに対する皇帝の尖兵として活動しました。時の司教オットーは、カノッサの屈辱で知られる皇帝ハインリヒ4世の腹心でした。
1526年にコンスタンツ市が宗教改革を実施すると、宮廷をメールズブルクに移しました。その後、1534年にエーニンゲン修道院を併合し、1540年にライヒェナウ修道院を陪臣化し、勢力を盛り返します。
1802年に世俗化され、バーデン選帝侯国に併合されました。


歴代司教 Fürstbischöfe von Konstanz

Hugo von Hohenlandenberg (1496-1529,1531-1532)

【コンスタンツ司教】フーゴー(在位1496−1529、1531−32)

司教の実家ホーエンランデンベルク家の紋章との組み合わせ。
組み方にはいくつかバリエーションがありました。

1525年にバイエルン戦争が起こると、コンスタンツ市側に大きな譲歩を強いられ、都市に対する司教の影響力が弱まりました。
1529年に一度司教を退きますが、後任司教が在任わずかで没し、後継者が決まらなかったために復帰し、その死まで司教位にありました。

Hugo von Hohenlandenberg (-1532)
1496-1529, 1531-1532 Fürstbischof von konstanz

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Hohenlandenberg.

Marquard Rudolf von Rodt (1690-1704)

【コンスタンツ司教】マルクヴァルト・ルドルフ(在位1690−1704)

司教の実家ロト帝国騎士家(18世紀に帝国男爵に昇爵)の紋章との組み合わせです。中央の小盾はコンスタンツ。背後の盾は、ライヒェナウ修道院(赤十字)、ロト家、エーニンゲン修道院。エーニンゲン修道院は1534年に、またライヒェナウ修道院は1540年に帝国直属の身分を放棄してコンスタンツ司教の陪臣となったため、司教の紋章に組み込まれるようになりました。

Marquard Rudolf Reichsritter von Rodt (1644-1704)
1690-1704 Fürstbischof von Konstanz

Geviert mit Herzschild und einer unten eingepfropften Spitze:
Herzschild : Bm. Konstanz.
Hauptschild : 1.& 4. Reichisabtei Reichenau, 2. & 3. Familienwappen Rodt, 5. Augustiner Chorherrstift Öhningen.


Johann Franz II. Schenk von Stauffenberg (1705-1740)

【コンスタンツ司教】ヨハン・フランツ2世(在位1705−40)

司教の実家、シュタウフェンベルク献爵侍従家の紋章との組み合わせ。
1714年からアウグスブルク司教代理を兼ね、1737年に同司教にも就任しました。1737年以降はアウグスブルク司教の紋章も組み込まれるようになります。

Johann Franz II. Reichsfreiherr (1681 Reichsgraf) Schenk von Stauffenberg (1658-1740)
Der vierte Sohn des Freiherrn Wolf Friedrich Schenk von Stauffenberg.
1705-1740 Fürstbischof von Konstanz
1714-1737 Koadjutor des Fürstbischofs von Augsburg
1737-1740 Fürstbischof von Augusburg

Geviert mit Herzschild und einer unten eingepfropften Spitze:
Herzschild : Bm. Konstanz.
Hauptschild : 1.&4. Reichisabtei Reichenau, 2.&3. Familienwappen Schenk von Stauffenberg, 5. Augustiner Chorherrstift Öhningen.



Kasimir Anton von Sickingen

【コンスタンツ司教】カージミール・アントン(在位1744−50)

司教の実家、ジッキンゲン男爵家の紋章との組み合わせ。

Kasimir Anton Reichsfreiherr von Sickingen (1684-1750)
1744-1750 Fürstbischof von Konstanz

Geviert mit Herzschild und einer unten eingepfropften Spitze:
Herzschild : Bm. Konstanz.
Hauptschild : 1.&4. Reichisabtei Reichenau, 2.&3. Familienwappen Sickingen, 5. Augustiner Chorherrstift Öhningen.


Franz Konrad von Rodt

【コンスタンツ司教】フランツ・コンラート(在位1751−75)

司教の実家ロト男爵家の紋章を最優位に組み、兼務したコンスタンツ、ライヒェナウ、エーニンゲンの紋章を組んでいます。紋章にはバリエーションがあり、同じロト家出身の司教達と同じ構成の紋章も用いられたそうです。
1756年に枢機卿に任ぜられました。

Franz Konrad Reichsfreiherr von Rodt (1706-1775)
1751-1775 Fürstbischof von Konstanz
1756 Kardinal

Geviert, 1. Familienwappen Rodt, 2. Bm. Konstanz, 3. Reichisabtei Reichenau, 4. Augustiner Chorherrstift Öhningen.

帝国中部(N-Z)

帝国南部(L-Z)

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