(5)帝国中部の諸邦(N−Z)

16世紀前半の神聖ローマ帝国中部
現在のラインラント=プファルツ州、ヘッセン州の地域にあった国々です


掲載一覧です Liste (N - Z)  
(A - M)

ナッサウ公国
ナッサウ=ディレンブルク侯国
ナッサウ=オラニエン侯
ナッサウ=ヴァイルブルク侯国
ライン宮中伯領・選帝侯国(プファルツ)
プファルツ=ノイブルク侯国
プファルツ=ツヴァイブリュッケン公国
プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト公国
プファルツ=フェルデンツ伯領

ライポルツキルヘン領主領
リーネック伯領
ジッキンゲン伯領
ゾルムス=ブラウンフェルス侯国・伯領
ゾルムス=ホーエンゾルムス侯国・伯領
ゾルムス=ラウバハ伯領
ゾルムス=リヒ伯領
シュパイアー司教領

シュポンハイム伯領
シュポンハイム=クロイツナハ伯領
バーデン=シュポンハイム伯領
プファルツ=シュポンハイム伯領
ヴィルト&ライン伯
ヴェルトハイム伯領
ヴォルムス司教領
ヴュルツブルク司教領
ヴュルツブルク大公国


Nassau (Hzm.)
Nassau-Dillenburg (Fsm.)
Nassau-Oranien (Fsm.)
Nassau-Weilburg (Fsm.)
Pfalz bei Rhain (Kfsm.)
Pfalz-Neuburg (Fsm.)
Pfalz-Zweibrücken (Hzm.)
Pfalz-Zweibrücken-Birkenfeld (Hzm.)
Pfalz-Sponheim (Gft.)
Pfalz-Veldenz (Gft.)

Reipoltskirchen (H.)
Rieneck (Gft.)
Sickingen (Gft.)
Solms-Braunfels (Fsm, Gft.)
Solms-Hohensolms (Fsm, Gft.)
Solms-Laubach (Gft.)
Solms-Lich (Gft.)
Speyer (Bm.)

Sponheim (Gft.)
Sponheim-Kreuznach (Gft.)
Baden-Sponheim (Gft.)
Veldenz (Gft.)
Wild u. Rhein (Gft.)
Wertheim (Gft.)
Worms (Bm.)
Würzburg (Bm.)
Würzburg (Ghzm.)


Abkürzungen :
Kgr.= Königreich, Ghzm.= Grossherzogtum, Hzm.= Herzogtum, Kfsm.= Kurfürstentum, Fsm.= Fürstentum
Mgft.= Markgrafschaft, Lgft.= Landgrafschaft, Bgft.=Burggrafschaft, Fgft.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft, Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.= Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum


【ナッサウ公国】 Herzogtum Nassau (1806-1866)

Wappen (1803) :
Dreimal gespalten und dreimal geteilt mit Mittelschild und Herzschild.

Herzschild : Gft. Nassau.
Mittelschild : geviert, 1. Kurtrier, 2. Kurpfalz , 3. Gft. Sayn, 4. Kurköln.
Hauptschild : 1. Gft. Königstein, 2. Gft. Diez, 3. Gft. Weilnau, 4. Gft. Katzenelbogen, 5. Bgft. Hammerstein, 8. H. Mahlberg, 9. H. Merenberg, 12. H. Limburg (Lahn), 13. H. Eppstein, 14. Gft. Wittgenstein, 15. H. Homburg, 16. H. Freusburg.


1151 Grafschaft Nassau entstand
1642 Grafschaft Nassau-Usingen (Teil von Nassau-Saarbrücken)
1688 Fürstentum
1806 Herzogtum Nassau (1816 erloschen)
1816 Herzogtum Nassau (Nassau-Weilburg)
1866 Das Land fällt an Preussen

12世紀の半ばに伯領として成立しました。1255年にヴァルラム家とオットー家に分裂し、両家からは更に多くの家系が分立しました。ヴァルラム家出身者では神聖ローマ王アドルフ・フォン・ナッサウ(在位1291−98)が、オットー家ではネーデルラント独立戦争のウィレム沈黙公(ナッサウ=ディレンブルク伯在位1559−84)やイギリス王ウィリアム3世(在位1694−1702)が著名です。
ナッサウ各家は三十年戦争後に帝国諸侯の地位を獲得しましたが、諸家分立のため、帝国内では有力となり得ませんでした。その中でヴァルラム系のウージンゲン家が1806年に公位を得て、1815年に全ナッサウを統一。それを継承したヴァイルブルク家は1866年に公国を失うものの、1890年にルクセンブルク大公国を継承しました。


金色の木札模様をおいた青地の盾に、金色のライオン。

大紋章の構成です。中心の小盾はナッサウ、中間の盾はトリーア選帝侯、プファルツ選帝侯、ザイン伯、ケルン選帝侯。背後の盾は、ケーニヒシュタイン伯、ディーツ伯、ヴァイルナウ伯、カッツェネルンボーゲン伯、ハンマーシュタイン城伯、マールベルク領主、メレンベルク領主、リンブルク領主(ラーン川流域)、エプシュタイン領主、ヴィトゲンシュタイン伯、ホンブルク領主、フロイスブルク領主。1803年の神聖ローマ帝国の領土再編で獲得した諸領地の紋章が組み込まれました。

ライン川西岸の領土を失ったナッサウ諸家は、代替地としてザイン伯領等を獲得しました。1806年に帝国が解体すると、ナッサウ=ウージンゲンが公国に昇格し、1816年の同家断絶後は、ナッサウ=ヴァイルブルク侯家が公国を継承しました。
1866年の普墺戦争ではオーストリア側に立って敗北。戦後、国民多数の意思に基づき、プロイセンに併合されました。

【ナッサウ=ヴァイルブルク侯国】 Fürstentum Nassau-Weilburg

Wappen :

1. Gft. Saarbrücken, 2. Gft. Saarwerden, 3. Gft. Moers, 4. Gft. Weilnau, 5. Herzschild : Gft. Nassau, 6. H. Merenberg, 7. H. Geroldseck (für Lahr), 8.H. Mahlberg.

1442 Grafschaft Nassau-Weilburg entstand (Teil von Nassau-Weilburg-Saarbrücken)
1668 Fürstentum
1816 Herzogtum Nassau
1866 zu Preussen

ヴァルラム系の家系で、1442年のヴァイルブルク=ザールブリュッケン家の分裂で誕生しました。16世紀にいったんヴァイルブルク家に統一されますが、その後、ザールブリュッケン家が分立、さらに数家が分かれました。1797年以降はウージンゲン家とヴァイルブルク家が続いていました。フランス革命戦争でライン川西岸の領土を失うものの、1803年にライン川東岸で領土を補填され、神聖ローマ帝国解体後もウージンゲンと共に主権を保ちました。ライン同盟にもウージンゲンは公国として、ヴァイルブルクは引き続き侯国の資格で加盟しています。
1816年にウージンゲン家が絶えると、ヴァイルブルク家が全ナッサウを継承し、単一ナッサウ公国を実現しました。


中央の小盾はナッサウ、背後の盾は、ザールブリュッケン、ザールヴェーデン、メールズ、ヴァイルナウ、メレンベルク、ゲロルトゼック、マールベルク。

【ナッサウ=ディレンブルク侯国他】 Fürstentümer Nassau-Dillenburg, Siegen, Beilstein, Dietz u. Hademar

組まれている紋章は、ナッサウ、カッツェネルンボーゲン、フィアネン、ディーツ。

ディレンブルクはオットー家の系統で、1290年に成立しました。1606年に5家に分かれ、三十年戦争後に帝国諸侯の地位を獲得しました。左の紋章はディレンブルク系各家の基本紋章となっています。


Nassau-Dillenburg : (1290 Teil von Nassau-Ottonische Linie)
1606 Erbteilungen -> Dillenburg, Siegen, Beilstein, Dietz und Hademar
1620 zu Nassau-Beilstein

Nassau-Siegen : (1606 Teil von Nassau-Dillenburg)
1664 Fürstentum
1734 zu Nassau-Oranien

Nassau-Beilstein : (1606 Teil von Nassau-Dillenburg)
1620 gen. Nassau-Dillenburg
1652 Fürstentum
1739 zu Nassau-Oranien

Nassau-Dietz : (1606 Teil von Nassau-Dillenburg)
1702 gen. Nassau-Oranien

Nassau-Hademar : (1606 Teil von Nassau-Dillenburg)
1650 Fürstentum
1711 zu Nassau-Dillenburg



中央の小盾はリンブルク、ブロンクホルスト、ヴィーチュ、ボルケロー。主にネーデルラント系の領土と貴族家の紋章です。

ナッサウ=ジーゲンは1623年にカトリック系とプロテスタント系に分裂し、カトリック系は1652年、プロテスタント系は1664年にそれぞれ帝国諸侯の地位を得ました。両家とも1734年にナッサウ=オラニエンに併合されました。
また、ディレンブルクは1652年に帝国諸侯となりますが、1739年に断絶。ハーデマールは1650年に帝国諸侯に昇格し、1711年に断絶しました。
そしてディーツは、1620年以来フリースラント総督を世襲し、1702年にナッサウ=オラニエン家のウィレム3世(英王ウィリアム3世)の死を受けてオラニエン家を継承、家名をナッサウ=オラニエンと改めました。さらに18世紀半ばまでにディレンブルク系の諸領を再統合します。

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : geviert, 1. Limburg, 2. Bronchorst, 3. Wisch, 4. Borkelo.
Hauptschild : geviert, 1. Gft. Nassau, 2. Gft. Katzenelbogen, 3. Vianen, 4. Gft. Diez.

【ナッサウ=オラニエン侯国】 Fürstentum Nassau-Oranien

Wappen :

Geviert mit Mitterschild und Herzschild.
Herzshild : Gft. Genf (Genève).
Mittelschild : Geviert, 1 & 4. Gft. Châlon, 2 & 3. Fsm. Oranien (Orange).
Hauptschild : 1. Gft. Nassau, 2. Gft. Katzenelbogen, 3. Vianen, 4. Gft. Diez.


1559 endstand
1702 zu Nassau-Diez
1814 zu Nassau-Weilburg

オットー系のナッサウ=ディレンブルク伯家の分家で、ディレンブルク伯ヨハン3世の息子、ナッサウ=ブレダ伯ハインリヒ3世がフランスのオランニェ(オランジェ)侯の女子相続人と結婚していたことで成立しました。彼の息子ルネ(在位1530−44)に世継ぎがいなかったため、ディレンブルク家のヴィルヘルム(ウィレム沈黙公)が侯位を継承しました。彼は婚姻などを通じてネーデルラントに所領を拡大し、ネーデルラント独立戦争の指導者として活躍します。ウィレム3世の時にイングランドとスコットランド王位を得るも、後継者なく断絶。ナッサウ=ディーツ家が二代目のオラニエン家を名乗り、1748年にネーデルラント総督職を世襲とし、1813年にネーデルラント侯、1815年にオランダ王およびルクセンブルク大公となりました。
また、1803年に称号がナッサウ=オランニェからオランニェ=ナッサウ公(Prinz van Orange-Nassau)に変更されました。
なお、ドイツ内では、1803年にコルヴェイとフルダの司教領、ヴァインガルテン修道院領などを獲得しましたが、帝国解体時に喪失。それ以外の領土もナッサウ=ウージンゲンに編入されました。


中央にオランジェ(オランニェ)侯の紋章が組まれました。中心の小盾はジュネーブ伯。中間の盾はシャロン伯(斜め帯)とオランジェ侯(ホルン)。


【ライン宮中伯領(プファルツ選帝侯国)】 Kurfürstentum Pfalz bei Rhein

黒地に金色のライオンがライン宮中伯の紋章で、青と銀の斜め菱形はバイエルンの紋章です。

王宮(プファルツ)を管轄する長官(宮中伯)が起源で、ライン中流域に所領を拡大した宮中伯が神聖ローマ帝国内で大きな政治力を行使する存在へ成長していきました。1214年にバイエルンのヴィテルズバハ家が所領を獲得し、以後、同家による統治が1918年まで続きます。ライン宮中伯は神聖ローマ皇帝を選出する世俗選帝侯として重きをなし、宗教改革後はプロテスタント勢力の指導者としても活躍、分家のクレーベルク家はスウェーデン王位を獲得しました。

三十年戦争時はバイエルンの管理下におかれたため、プファルツとバイエルンの序列が逆転しました。

18. Jh.

【ライン宮中伯領(プファルツ選帝侯国)】

盾下部の赤地に金色の宝珠の紋章は、神聖ローマ帝国の大膳職長官の紋章で、選帝侯であることを表します。

1777年にプファルツ選帝侯がバイエルンを継承すると、バイエルンでもこの紋章が使われました。

(1559-1685 : Pfalz-Sinmern)

【プファルツ=ジンメルン家】

中央に帝国大膳職長官の紋章が組まれました。

1619年、選帝侯フリードリヒ5世はボヘミア王に選出されますが、皇帝フェルディナント2世と戦って敗北、王位と選帝侯位を剥奪されました。その在位の短さから「ボヘミア冬王」と呼ばれました。フリードリヒのボヘミア王即位の経緯は、三十年戦争の始まりの事件として知られます。

(1685-1742 : Pfalz-Neuburg)

【プファルツ=ノイブルク家(1685−1707)】

選帝侯位を表す赤い盾(レガーリアシルト)が加わりました。帝国内帑長官職を表します。同職の紋章は最初の頃は赤い無地の盾でした。

1685年にジンメルン家が絶えると、選帝侯位はカトリックのノイブルク家が受け継ぎました。1708年にプファルツ選帝侯は帝国大膳職長官に復職したので、内帑長官の紋章は同長官の紋章に置き換えられました。

(1742-1799 : Pfalz-Sulzbach)

【プファルツ=ズルツバハ家(1742−99)】

1742年にノイブルク家が断絶すると、選帝侯位はズルツバハ家(1614年にノイブルクから分かれた家系)が継承しました。選帝侯カール・テーオドール(在位1742−99)は親戚のバイエルン=ヴィテルズバハ家断絶でバイエルンをも相続したので、二つの選帝侯位は結合しました(バイエルン選帝侯在位1777−99)。
プファルツとバイエルンの合同を果たしたものの、彼は嫡出の後継者を残さずに没してズルツバハ家は断絶。領土と選帝侯位は一族のビルケンフェルト=ツヴァイブリュッケン家に渡りました。

【プファルツ=ノイブルク侯国】 Fuerstentum Pfalz-Neuburg

17 Jh.

【17世紀】

背後の盾は、バイエルン公国、ユーリヒ公国、クレーヴェ公国、ベルク公国、フェルデンツ伯領、マルク伯領、ラーヴェンスベルク伯領、メールズ伯領。
ユーリヒ継承戦争の後の紋章です。クレーヴェやマルクなど、プロイセンが継承した領土に対しても、紋章上では領有を主張しています。
ライン宮中伯の分家、ノイブルク家が使いました。

ズルツバハ家(同家の後身で、新しい選帝侯家)やビルケンフェルト=ツヴァイブリュッケン家も、これとよく似た配置の紋章を使いました。


Dreimal gespalten und einmal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Pfalz am Rhain.
Hauptschild : 1. Hzm. Bayern, 2. Hzm. Jülich, 3. Hzm. Kleve, 4. Hzm. Berg, 5. Gft. Velsenz, 6. Gft. Mark, 7. Gft. Ravensberg, 8. Gft. Moers.

【プファルツ=ツヴァイブリュッケン公国】 Herzogtum Pfalz-Zweibrücken (1459-1731)

17 Jh. -

【17世紀以降】

ユーリヒ継承戦争後の紋章です。盾の向かって左半分にプファルツ=フェルデンツ伯領、右半分にユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公国の紋章を組んでいます。

プファルツ=ツヴァイブリュッケンは1459年のツヴァイブリュッケン=ジンメルンの分裂で誕生し、1569年にはさらに、ノイブルク、ツヴァイブリュッケン、ビルケンフェルトに分かれました。
ツヴァイブリュッケン家は1661年に断えたため、1611年に分かれたプファルツ=クレーブルク家が領土を継承。同家はスウェーデン王であったので、ツヴァイブリュッケンはスウェーデン領となりました。その後、1731年にプファルツ=ビルケンフェルト家がツヴァイブリュッケンを相続し、ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト公国が誕生します。ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルトは、後にプファルツとバイエルン選帝侯位を得、1806年にはバイエルン王位を与えられました。

【プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト公国】 Herzogtum Pfalz-Zweibrücken-Birkenfeld

Wappen : (18. Jh.)

Gespalten, vorn : geviert 1 u. 4. Pfalz am Rhein, 2 u. 3. Hzm. Bayern, hinten : geviert 1. Gft. Veldenz, 2. Gft. Sponheim, 3. H. Hoheneck, 4. Gft. Rappoltstein.


1569 Pfalz-Birkenfeld entstand (Teil von Pfalz-Zweibrücken)
1671 Pfalz-Birkenfeld-Bischweiler
1731 Pfalz-Zweibrücken-Birkenfeld
1799 Kurfürstentum Bayern-Pfalz
1806 Königreich Bayern

1569年のプファルツ=ツヴァイブリュッケン分裂で誕生した領邦で、はじめプファルツ=ビルケンフェルトと呼ばれました。
1671年にビッシュヴァイラー、翌々年にラッポルトシュタイン伯領を相続。1731年にプファルツ=ツヴァイブリュッケンが絶えるとその領土を継承し、プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルトとなりました。さらに1799年にはプファルツとバイエルンを相続して選帝侯位を獲得。神聖ローマ帝国解体後に王位を得てバイエルン王国を築きました。


向かって左半分にライン宮中伯の紋章を配し、右半分に同家の領地の紋章を組んでいます。向かって右上の赤と銀のチェックがビルケンフェルトの紋章、その下の二つの紋章はホーエネック領主領とラッポルトシュタイン伯領で、婚姻を通じて相続した領土です。

同家のマクシミリアン・ヨーゼフは一族の選帝侯カール・テーオドールの跡を継いでバイエルン=プファルツ選帝侯となり、1806年には初代バイエルン国王に即位します。


【プファルツ=フェルデンツ伯領】 Grafschaft Pfalz-Veldenz

プファルツの紋章の中央にフェルデンツ伯の紋章が組まれました。

1444年にフェルデンツ伯フリードリヒ(3世とも)が嗣子なく没すると、彼の女子相続人アンナ(1439年没)の息子、プファルツ=ツヴァイブリュッケン公ルートヴィヒ1世が伯領を相続しました。この関係で、1569年に同家が分裂するまで、同家系はプファルツ=ツヴァイブリュッケン=フェルデンツとも称されました。


Grafschaft Veldenz

【フェルデンツ伯領】

銀地に金色の冠をかぶった青いライオン。

11世紀の末頃に成立した伯領で、15世紀に伯家が断絶、プファルツ=ツヴァイブリュッケン公によって相続されました。
プファルツ=ツヴァイブリュッケン公家はその後プファルツとバイエルン選帝侯位を獲得し、1806年にはバイエルン王に即位します。その関係で、同家の主要な領土のひとつだったフェルデンツの紋章はバイエルン王の紋章にも組み込まれました。


In Silber ein gold gekrönter blauer Löwe.


【ライポルツキルヘン領主領】 Herrschaft Reipoltskirchen (1277-1793)

ボランデン家の一族で、1130年に分立、ホーエンフェルス家を名乗りました。1277年に行われた家領分割でホーエンフェルス=ライポルツキルヘン家が成立しました。
1602年に領主ヨハン3世が没し、ホーエンフェルス家の男系は断絶。領主の地位はヨハン3世の母アマーリエが引き継ぎました。アマーリエの没後は、彼女の実家ファルケンシュタイン伯が相続し、その後、伯の甥達が共同で相続。相続者の一人に後継男子がいなかったことから、1628年以降は「共同財産」と位置づけられて諸家による共同統治が行われました。
1793年にフランス革命軍に占領され、1797年にフランスの行政区に編入されました(1815年にドイツに復帰)。

なお、左の領土の紋章は変更されず、20世紀初頭にバイエルン王国政府によって変更されるまで使用されました。

【1290年−1415年頃】

青地に銀の車輪と金色のクローバー。
車輪はマインツ大司教兼選帝侯の紋章に由来します。本家筋のファルケンシュタイン伯がマインツの紋章の色を変えたものを用いたのに対し、ホーエンフェルス家はさらに金色のクローバーを周囲に配しました。

ライポルツキルヘン領主領はファルケンシュタイン伯領の西隣に位置しますs。

【1415年頃−1602年】

緑地に倒立した銀色の錨と、その周囲に10個の金色の木札模様。紋章説明では金色の木札模様は10個と記されていますが、当時の紋章図では8個になっています。また、現在の市の紋章では木札模様は銀色です。

兄脈のホーエンフェルス家が絶えた後、ライポルツキルヘンを継承した弟脈ホーエンフェルス家の紋章です。


【16世紀頃】

ホーエンフェルス=ライポルツキルヘンの紋章として紋章図鑑に載っていましたが、詳しい情報がありません。
中央の小盾は、おそらくフォルバハとリキシンゲン。ジープマッハーの紋章図鑑では盾地が赤く塗られていたのでそれに従いましたが、他の資料で確認していないため、正確でないかもしれません。

歴代共同領主 Herren von Reipoltskirchen (1608-1793)

Grafen von Falkenstein (1608-1628)

【ファルケンシュタイン伯:1608−28年】

1602年にホーエンフェルス家の男系が断絶すると、最後の領主の母アマーリエが領主となりました。アマーリエはファルケンシュタイン伯家の出だったので、領土を実家に遺贈しました。

1602-1608 Amalie Gräfin von Daun-Falkenstein, Mutter des Letzten Herren Johann III. von Hohenfels-Reipoltskirchen.
1608-1628 Emich Graf von Daun-Falkenstein (Bruder der Vorgängerin)

Grafen von Löwenhaupt (1628-1763)

【レーヴェンハウプト伯:1628−1763年】

1608年に没したアマーリエは、レーヴェンハウプト家に嫁いだ妹シドニエの二人の息子に領土を与える遺言を残していました。その兄弟のうち、弟のシュタイノには後継男子がおらず、跡取り娘のエリーザベト・アマーリエが1628年に結婚したので、シュタイノの相続分は娘の嫁ぎ先マンダーシャイト伯が相続することが確定。これを受けてライポルツキルヘンを共同財産領と位置づけ、諸家による共同統治の道を開きました。
なお、兄のヨハン・カージミールの家系はその後も続き、1763年に自己の保有分をエルロット帝国伯に売却するまで、ライポルツキルヘンを統治しました。

1628-1634 Johann Casimir von Löwenhaupt (Neffe der Gräfin Amalie von Daun-Falkenstein)
1628-1645 Steino (Steen) von Löwenhaupt (Bruder des Johann Casimir)
1763 verkauft seinen Anteil dem Reichsgrafen von Ellrodt


Grafen von Manderscheid-Kayl (1628-1730)

【マンダーシャイト伯:1628−1730年】

レーヴェンハウプト家の共同領主だったシュタイノは男子に恵まれず、女子相続人のエリーザベト・アマーリエ(1639年に母親の跡を継いでマンダーシャイト=シュライデン女伯)がマンダーシャイト=カイル伯フィリップと結婚すると、シュタイノの保有する統治権はエリーザベト・アマーリエを通じてマンダーシャイト伯にもたらされました。マンダーシャイト=カイル伯は、ヒレスハイム伯に領主権を売却する1730年まで、ライポルツキルヘンを領有しました。

1628 Elisabeth Amalie, Erbtochter des Steino von Löwenhaupt heiratet den Grafen Philipp von Manderscheid-Kayl.
1730 verkauft seinen Anteil dem Reichsgrafen von Hillesheim






Grafen von Ellrodt (1763-1777)

【エルロット伯:1763−77年】

1763年にレーヴェンハウプト家から領土を購入して領主となりました。
1767年にエルロット伯フィリップが没すると、エルロット家の持ち分の領主権の買取をめぐって訴訟が起きました。売買は帝国最高裁判所によって差し止められ、伯の未亡人が領地を管理しました。
1777年にパルクシュタイン女伯に領主権を売却しました。

1763 Durch Kauf erwirbt
1777 verkauft seinen Anteil dem Reichsgräfin Karoline von Parkstein





Grafen von Hillesheim (1730-1793)

【ヒレスハイム帝国伯;1730−93年】

1440年まではメーアシャイト家(Meerscheid)を名乗っていた貴族家で、1712年に帝国伯の地位を得ました。1722年にレーヴェンハウプト家の権利の一部を購入。この売買は帝国裁判所によって差し止められましたが、1730年にマンダーシャイト伯から領有権を購入し、領主となりました。領主となると、カトリックとプロテスタントが混在する領内の教区を再編したり、プロテスタントのための教会建設など、宗教関連の事業を精力的に行いました。
1785年に男系が絶えると、最後の伯の二人の姉妹シャルロッテとエリーザベト(シュペー伯妃)が共同領主となりました。彼女達ともう一方の共同領主、イーゼンブルク侯妃カロリーネの三人の女領主がフランス革命軍の侵攻を受けるまで、ライポルツキルヘンを統治しました。

1730 Durch Kauf erwirbt
1730-1748 Willhelm
1748-1785 Ernst Gottfried
1785-1793 Charlotte (Schwester des Grafen Ernst Gottfried)
1785-1793 Elisabeth Auguste von Hillesheim (Gräfin von Spee)


Fürstin von Isenburg (1777-1793)

【イーゼンブルク侯妃(パルクシュタイン帝国女伯):1777−93年】

プファルツ=バイエルン選帝侯カール・テーオドールの庶長女で、1776年にパルクシュタイン帝国女伯に叙され、同じ年にイーゼンブルク=ビュディンゲン侯ヴォルフガング・エルンストの七男フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚。翌1777年にエルロット伯から領土を購入して領主となりました。現地には代官を派遣して統治させ、自身はプファルツの首都マンハイムで暮らしていました。なお、領主権はカロリーネの私有財産だったので、夫は共同領主とはなりませんでした。

1777 Durch Kauf erwirbt
1777-1793 Karoline Reichsgräfin von Parkstein (Fürstin von Isenburg)


【リーネック伯領】 Grafschaft Rieneck


Neunmal geteilt von Gold und Rot.

リーネックはヴュルツブルク司教領の北西に位置する伯領で、12世紀前半にオランダのローン伯が婚姻を通じてこの地を手に入れ、1156年頃に領土をリーネックと名付けました。リーネック伯はニュルンベルク、マクデブルク、シュトロムベルクと並んで「帝国四城伯」と称され、マイン河谷の有力な伯でしが、1559年に家系は断絶しました。
その後、ボヘミア(チェコ)の貴族ノスティッツ伯がリーネック城を購入して伯領を再興(1673年)し、帝国解体まで続きました。


金と赤の横10分割。ローン伯の紋章に由来します。

クレストは飛び立とうとする姿の白鳥ですが、羽をたたんだ姿で表されることもありました。また、ノスティッツ家時代はヘルメットではなく冠の上に描かれることが多かったようです。

Nostitz-Rieneck

【ノスティッツ=リーネック】

背後の盾はノスティッツ家の紋章で、向かって左上の、外反する牛の角とその下の金色の三日月がノスティッツ家の紋章です。牛の角は、ジープマッハーの紋章図鑑などに従って水玉模様風に表現しましたが、赤と銀のチェックが正式のようです。

1673年にボヘミアのノスティッツ伯家がリーネック城を購入し、伯領を再興しました。
なお、ノスティッツ家の紋章は、帝国伯の地位を得た1651年から使われだしたそうです。


【ジッキンゲン伯領】 Grafschaft Sickingen

黒地に銀色の5つの球。

ジッキンゲン家は15世紀の末頃から周囲に領土を拡張した帝国騎士で、その時期の当主フランツ(1481−1523)は、没落する騎士階級の復権をめざす騎士同盟の軍事指導者として活躍します。ヴォルムス包囲事件(1515年)を起こした後、フッテンを識り、1522年に騎士戦争を起こしますが、諸侯軍に敗北、戦傷死しました。
ジッキンゲン家はその後2家に分かれ、ジッキンゲン=ジッキンゲン家は1623年に帝国男爵、1773年に帝国伯の地位を得、1792年にクライス等族、翌93年には帝国等族(帝国議会の議席保有者)に迎えられました。またジッキンゲン=ホーエンブルク家は1706年に帝国男爵、1790年に帝国伯に昇爵します。

Sickingen-Sickingen (-Eltschowitz) :
1623 Freiherrschaft
1773 Grafschaft (1793 Reichsstand, 1806 mediatisiert)

Sickingen-Hohenburg :
1706 Freiherrschaft
1790 Grafschaft (1806 mediatisiert)


【ゾルムス侯国】 Fuerstentum Solms (-Braunfels)

Wappen (1742) :

Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
1. Gft. Lingen, 2. Gft. Tecklenburg, 3. H. Rehda, 4. gespalten, 4. H. Greifenstein / H. Lichtenstein, 5. Herzchild : Solms, 6. H. Münzenberg, 7. Gft. Criechingen, 8. H. Erchingen, 9. H. Pittingen (Püttlingen).


1223 Grafschaft Solms entstand
1255 Grafschaft Solms-Braunfels
1742 Fuerstentum
1806 mediatisiert ->Hessen-Darmstadt und Wuerttemberg

ヘッセンとナッサウの境界に位置する伯領で、12世紀前半に登場しました。1255年に成立したゾルムス=ブラウンフェルス家が本流で、同家からは1409年以降多くの家系が分かれました。
ブラウンフェルス家は1742年に帝国諸侯の地位を獲得。また、分家のホーエンゾルムス家も1792年に帝国諸侯に列しました。しかし、いずれの家系も1806年の帝国解体時に主権を失い、領土はヘッセン=ダルムシュタットとヴュルテンベルクに併合されました。

盾持ちは野人とグリフォンで、姿勢にバリエーションが認められます。盾持ちは最初両側とも野人で、グリフォンはヴィルヘルム・モーリッツ(在位1693−1724)の代に登場しました。


Stammwappen

【ゾルムス】

金地に舌が赤い青色のライオン。

In Gold ein rot bezungter blauer Löwe.

Stammwappen

【ゾルムス】

時代が下がると、盾地に青色の木札模様が加えられました。15世紀頃からブラウンフェルス家の紋章に登場するそうですが、古い紋章も18世紀まで見られました。


1420-1648

【1420−1648年】

ゾルムスとミュンツェンベルク領主領の組み合わせ。

ミュンツェンベルクはファルケンシュタイン=ミュンツェンベルク伯家(ファルケンシュタイン=リヒ家)の領地でしたが、同伯家は1418年に断絶。ゾルムス=ブラウンフェルス伯オットー1世はファルケンシュタイン伯の妹と結婚していたことから、1420年にミュンツェンベルクを相続し、帝国解体までゾルムス伯家が保持しました。

Heinrich Trajectinus (1648-1693)

【1648−93年】

ハインリヒ・トライェクティヌス(在位1648−93)の紋章です。
紋章図ではミュンツェンベルクの紋章の彩色が上下逆転されて描かれていますが、正規の彩色に変更しました。ミュンツェンベルクの彩色の逆転は、歴代のゾルムス伯の紋章に時折見られます。向かって右半分はザクセンにあったヴィルデンフェルス領主領の紋章です。

ハインリヒ・トライェクティヌスは三十年戦争でオランダ軍の将軍として活躍しました。中央に組まれているのはその職位を表す紋章のようです。
ハインリヒ・トライェクティヌスの没後、ブラウンフェルスはゾルムス=グライフェンシュタイン伯ヴィルヘルム・モーリッツが継承します。グライフェンシュタインが吸収されるという形での継承です。

seit 1697

【1697年以降】

中央の小盾のゾルムスの紋章に青色の木札模様が加わりました。
背後の盾はリンゲン伯領、テクレンブルク伯領、レーダ領主領、グライフェンシュタイン領主領&リヒテンシュタイン領主領、クリーヒンゲン伯領、エルヒンゲン領主領、ペッティンゲン領主領。

ヴィルヘルム・モーリッツ(在位1693−1724)は1696年にベントハイム=テクレンブルク=レーダ伯からテクレンブルク伯領を譲り受けたため、同伯領の紋章が加わりました。中段向かって左のグライフェンシュタインとリヒテンシュタインは13世紀末にゾルムス=ブラウンフェルス領となった領土で、分家のゾルムス=グライフェンシュタイン家がブラウンフェルス家を継いだため、登場したようです。また、最下段の三つはアルザスのクリーヒンゲン伯の紋章で、伯家が1697年に断絶したこと、そして異母弟がクリーヒンゲン家から妃を迎えていたことで取り入れられたようです。


(variante)

【ヴァリエーション】

紋章が大幅に変更されました。組まれている紋章は、中央の小盾がゾルムス。背後の盾は、ミュンツェンベルク、テクレンブルク、リンゲン、ヴィルデンフェルス、不明(ヴィルデンフェルス)、クリーヒンゲン、エルヒンゲン、ペッティンゲン。

この紋章は帝国諸侯に昇格してからも使われました。

【ゾルムス=リヒ伯領】 Grafschaft Solms-Lich (1432-1718)

上段がゾルムス、ミュンツェンベルク(ファルケンシュタイン=リヒ)、下段がヴィルデンフェルスという構成です。ヴィルデンフェルスの銀色のライオンは、冠をかぶらないのが本来の紋章らしいですが、ゾルムス伯の紋章では冠が加えられています。

ゾルムス=リヒは15世紀の初頭にゾルムス=ブラウンフェルスから分かれました。この家系からは、ラウバハ家とホーエンゾルムス家が分立します。
1718年に家系が断絶すると、ゾルムス=ホーエンゾルムス家によって遺領が相続されました。


1432 Grafschaft entstand (Teil von Solms-Braunfels)
1718 erloschen, Territorium fällt an Solms-Hohensolms

【ゾルムス=ホーエンゾルムス伯領】 Grafschaft Solms-Hohensolms-Lich (1792-1806 Fürstentum)

Wappen (bis 1792) :

Gaspalten, vorne geviert, 1 & 4. Münzenberg (Falkenstein-Lich), 2 & 3. Solms, hinten geviert, 1 & 4. ?, 2 & 3. H. Wildenfels.


1562 Grafschaft Solms-Hohensolms entstand (Teil von Solms-Lich)
1718 Grafschaft Solms-Hohensolms-Lich
1792 Fürstentum
1806 mediatisiert -> Nassu

1562年にゾルムス=リヒ家から分立した家系で、初めはゾルムス=ホーエンゾルムスを称しました。1718年に本家にあたるリヒ家が断絶すると、その遺領を継承してゾルムス=ホーエンゾルムス=リヒと改称しました。
1792年に帝国諸侯に列しますが、1806年の帝国解体時に主権を喪失。領土はナッサウに併合されました。


向かって左側は、ゾルムス&ミュンツェンベルク(ファルケンシュタイン=リヒ)、向かって右側はヴィルデンフェルス。ゾルムス&ミュンツェンベルクの紋章は、盾の中央軸を基準に反転されているために序列が逆転されているように見えます。ドイツ系の紋章では、盾の中心軸を基準に反転されることが頻繁に行われます。

【ゾルムス=ラウバハ伯領】 Grafschaft Solms-Laubach

盾地を縦に二分し、ゾルムス伯とヴィルデンフェルス領主の紋章を組みました。
1522年にゾルムス=リヒから分かれた家系で、紋章構成は一緒に分立したゾルムス=ホーエンゾルムス家とよく似ています。

ヴィルデンフェルス家は1593年に断絶し、ゾルムス伯が領土を継承しました。実際にヴィルデンフェルスを領したのは1602年にゾルムス=バールト(ゾルムス=ラウバハの分家)から分かれたゾルムス=ヴィルデンフェルス家で、同家は1945年までヴィルデンフェルス宮殿を保有しました。


1522 Grafschaft Solms-Laubach entstand (Teil von Solms-Lich)
1806 mediatisiert


【シュパイアー司教領】 Hochstift Speyer

In Blau ein silbernes Kreuz.


4 Jh. Bistum gegründet
1802 Säkularisiert

青地に白い十字架。

4世紀に建てられた司教座が起源で、11世紀までにシュパイアーにあった王領地の統治権を獲得し、領邦支配を確立しました。その後、1546年にライン西岸にあったヴァイセンブルク(ヴィッサンブール)帝国修道院と同君連合となり勢力を広げます。
しかし、プファルツ戦争(1681−97年)およびフランス革命戦争でライン西岸の領土をフランスに奪われ、ライン東岸の領土は1802年に世俗化。翌1803年にバーデンに併合されました。
なお、宗教上の管区としては、8世紀まではトリーア大司教区、1803年まではマインツ大司教区に属していました。世俗化後の空位期間を経て1822年に司教が復活し、現在はバンベルク大司教区所属の司教区となっています。


歴代司教 Fürstbischöfe von Speyer

Adolf von Nassau (1372-1390)
bis 1379

【シュパイアー司教領】アドルフ(在位1372−90)

司教の実家ナッサウの紋章との組み合わせ。

1379年にはマインツ大司教兼選帝侯にも即位した人物です(マインツ在位1379−90)。

Adolf Graf von Nassau-Wiesbaden-Idstein (1346-1390)
Der vierte Sohn des Grafen Adolf I. von Nassau-Wiesbaden-Idstein.
1372-1390 Fürstbishof von Speyer
1379-1390 Kurfürst-Erzbischof von Mainz

Feld 2 u. 3 : Stammwappen Nassau.

Georg von Pfalz bei Rhain (1513-1529)

【シュパイアー司教領】ゲオルク(在位1513−29)

シュパイアーの紋章の中央に司教の実家プファルツの紋章が組まれました。

プファルツ選帝侯フィリップの五男で、兄弟にはフライジング司教フィリップ、ルプレヒト、ヴォルムス司教ハインリヒ、レーゲンスブルク司教ヨハン3世など多くの聖職者がいました。

Georg Pfalzgraf bei Rhein (1486-1529)
Der fünfte Sohn des Kurfürsten Philipp von der Pfalz.
1513-1529 Fürstbishof von Speyer

Herzschild : 1. Pfgft. am Rhein, 2. Hzm. Bayern.

Markward von Hattstein (1560-1581)

【シュパイアー司教領】マルクヴァルト(在位1560−81)

シュパイアー、ヴァイセンブルク(修道院)、ハットシュタイン(司教の実家)の組み合わせ。

ヴァイセンブルクは現ヴィッサンブール(フランス)。ランダウの南方、ドイツとの国境沿いにあった帝国修道院で、シュパイアー司教との同君連合となっていました。

Markward Freiherr von Hattstein (1529-1581)
1559-1560 Koadjutor des Fürstbishofs von Speyer
1560-1581 Fürstbishof von Speyer, Fürstpropst von Weissenburg

Geviert, 1 u. 4. Bm. Speyer, 2. Fürstpropstei Weissenburg, 3. Familienwappen Hattstein..

Lothar Friedrich von Metternich-Burscheid (1652-1675)

【シュパイアー司教】ロタール・フリードリヒ(在位1652−75)

中央の小盾は選帝侯の実家メッテルニヒ=ブルシャイト。背後の盾はシュパイアー司教とヴァイセンブルク修道院長。

1673年ににマインツ選帝侯に就任するまでの紋章です。

Lothar Friedrich Reichsfreiherr von Metternich-Burscheid (1617-1675)
Der zweite Sohn des Freiherrn Johann Gerhard von Metternich-Burscheid.
1652-1675 Fürstbischof von Speyer und Fürstpropst von Weissenburg
1671-1673 Koadjutor des Erzbischofs Mainz
1673-1675 Kurfürst-Erzbischof von Mainz
1674-1675 Fürstbischof von Worms


Franz Christoph von Hutten zu Stolzenberg (1743-1770)

【シュパイアー司教】フランツ・クリストフ(在位1743−70)

シュパイアー&ヴァイセンブルク、司教の実家フッテン家の紋章との組み合わせ。
上部に掲げられているのは枢機卿帽です。フランツ・クリストフは1761年に枢機卿に任ぜられました。

Franz Christoph Reichsfreiherr von Hutten zu Stolzenberg (1706-1770)
Sohn des Freiherren Franz Ludwig von Hutten zu Stolzenberg.
1743-1770 Fürstbishof von Speyer, Fürstpropst von Weissenburg
1761 Kardinal

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Hutten.


【シュポンハイム伯領】 Grafschaft Sponheim

赤と銀のチェック模様。ビルケンフェルトと同じ紋章です(ビルケンフェルトはシュポンハイム由来)。

伯領は10世紀初頭にまで遡りますが1227年に4系統に分裂、その後も分裂を繰り返します。分家からはザイン伯家(初代)が出ています。
シュポンハイム各家は、しかし、15世紀前半には全て途絶し、領土はプファルツとバーデンによって分割相続されました。

Von Rot und Silber geschacht.

Sponheim Kreuznach

【シュポンハイム=クロイツナハ伯領】

1227年の分裂で成立しました。
ジーモン3世(在位1380−1414)の時に男系が途絶。後を継いだ娘エリーザベト(在位1414−16)の没後、伯領はプファルツとバーデンによって分割相続されます)。この分割統治は、1707年に全域がプファルツ領となるまで続きました。
なお、女伯エリーザベトはプファルツ選帝侯世継ぎルプレヒト(神聖ローマ王ルプレヒトの息子)と結婚していました(夫は早世)。

Von Blau und Gold geschacht.

Grafschaft Baden-Sponheim

【バーデン=シュポンハイム伯領】

バーデンとシュポンハイムの組み合わせ。1416年にシュポンハイムを獲得したバーデン辺境伯が用いました。

バーデン辺境伯ベルンハルト1世(在位1372−1431)の母親がシュポンハイム=シュタルケンブルク家の出身だったため、1437年に同家が断絶すると、シュポンハイム=シュタルケンブルク伯領についてもプファルツと共同相続します(1444年)。1515年にバーデン辺境伯家が分裂すると、バーデン=シュポンハイム家が興されます。しかし一代で断絶し、本家のバーデン=バーデンが領土を併合しました。
バーデン領シュポンハイムのうち、クロイツナハは1707年に、シュタルケンブルクは1776年にプファルツ領に編入されました。


Grafschaft Pfalz-Sponheim

【プファルツ=シュポンハイム伯領】

プファルツの紋章との組み合わせ。1416年にシュポンハイム=クロイツナハを獲得したプファルツの紋章です。シュポンハイムの紋章は、クロイツナハの彩色で表される事例も見られます。

1437年にシュポンハイム=シュタルケンベルクが断絶すると、同家出身の母を持つフェルデンツ伯が伯領を相続しますが嗣子なく断絶、フェルデンツ伯の女子相続人と結婚していたプファルツ=ジンメルン=ツヴァイブリュッケンが、もう一人の相続者であるバーデン辺境伯と共に相続しました。


【ヴェルトハイム伯領】 Grafschaft Wertheim

Geviert, 1 u. 4 : Wertheim, 2 u. 3 : Breuberg.


1097 Grafschaft entstand
1556 erloschen -> Stolberg
1581 -> Loewenstein


ヴェルトハイムはヴュルツブルクの西方、タウパー川がマイン川に注ぐ合流点の一帯を領土としていた伯領で、11世紀末に記録に登場しました。
ミハエル3世(在位1531−56)の時に一族が絶え、シュトルベルク伯家出身の妃カテリーナが伯位を継承(在位1556−98?)。しかし、彼女の実家もすでに後継者が絶えていたので、伯領はカテリーナの実アンナの嫁ぎ先レーヴェンシュタイン伯に渡り(1581年)、レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム伯家が誕生しました。


盾地を上下に二分し、上半は金地に黒鷲の半身、下半は青地に三つの銀色のバラ。
クレストは金色の鷲で、ブロイベルク相続後はブロイベルクのクレスト(紋章を描いた三角旗)と組み合わせられました。ブロイベルクの旗は2ないし4本で、通常は4本描かれました。

ブロイベルクの紋章との組み合わせ。ルドルフ4世(在位1348−55)の妃がブロイベルク家の女子相続人だったことから紋章が取り入れられたようです。
1556年に伯家が途絶えると、婚姻を通じてシュトルベルク=ケーニヒシュタイン=ヴェルトハイム=ロシュフォール家が領土を相続。しかし、1574年に男系が途絶えました。その結果、女子相続人と結婚していたレーヴェンシュタイン伯とシュトルベルク伯一族によって分割相続が行われ、ヴェルトハイムはレーヴェンシュタイン領、ブロイベルクはシュトルベルク領となりました。

なお、ブロイベルク家からは早い時期にフランケンシュタイン家(ヴォルムス司教ヨハンネス・カールの実家)が分かれています。しかしフランケンシュタイン家の紋章にはブロイベルクは組まれませんでした。


【ヴィルト&ラインガウ伯領】 Wild und Rhaingrafschaft

黒地に銀色のレパード(=こちらを向いたライオン)はラインガウ伯。金地に赤色のライオンは御料場伯(ヴィルト伯)。

上ザルム伯家から分かれた家系で、現在のラインラント=プファルツ一帯に所領が展開していました。17世紀にザルム=ザルム伯を称し、次いで帝国諸侯に列せられます。他にもキルブルク家、ダウン家など多くの家系がありました。


ザルム


【ヴォルムス司教領】 Hochstift Worms

In Schwarz ein schräg gestellter silberner Schüssel, beleitet von goldenen Kreuzchen (Schindeln, Rauten).


4 Jh. Bistum gegründet
1802 Säkularisiert

金色の十字架をちりばめた黒地の盾に、銀色の鍵。

ヴォルムスはローマ時代から続く町で、4世紀に司教座が置かれました。413−36年はブルグント王国の首都となりましたが、フン族の攻撃を受けて町と司教座は破壊されました。この事件に取材して『ニーベルンゲンの歌』が作られました。
7世紀に司教座が再建され、以後、ライン川両岸に司教領が形成されました。ライン西岸の領土は1801年にフランスに併合され、残りも1803年にヘッセン=ダルムシュタットに併合されました。
また、宗教上の管区としても、1803年にマインツ大司教区と結合しました。


歴代司教 Fürstbischöfe von Worms

Heinrich IV. von der Pfalz (1523-1552)

【ヴォルムス司教】ハインリヒ4世(在位1523−52)

中央の小盾は司教の実家プファルツ。背後の盾は兼務したヴォルムスとフライジング司教(黒人の頭部)、エルヴァンゲン修道院長(司教帽)。これは1541年以降の紋章です。

プファルツ選帝侯フィリップの六男で、兄弟のうち4人が聖職者になりました。ハインリヒはエルヴァンゲン修道院長となった翌々年にヴォルムス司教に就任。1541年にフライジング司教の兄フィリップが没すると、その後任としてフライジング司教に選出されました。

Heinrich von der Pfalz (1487-1552)
Der sechste Sohn des Kurfuersten Philipp von der Pfalz.
1521-1552 Fuerstpropst von Ellwangen
1523-1552 Fuerstbischof von Worms
1541-1552 Als Heinrich III. Fuerstbischof von Freising


Theodorich II. (Dietrich) von Bettendorf (1552-1580)

【ヴォルムス司教】テオドリヒ2世(在位1552−80)

司教の実家ベッテンドルフ(ペッテンドルフとも)家の紋章との組み合わせ。
ベッテンドルフ家はプファルツの貴族で、後に男爵位を得ました。

本名はディートリヒで、司教就任時にテオドリヒ2世を名乗りました。

Dietrich von Bettendorf (?-1580)
1552-1580 als Theoderich II. Fürstbishof von Worms

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Bettendorf (Pettendorf).

Georg von Schönenberg (1580-1595)

【ヴォルムス司教】ゲオルク(在位1580−95)

司教の実家シェーネンベルク家の紋章との組み合わせ。

Georg von Schönenberg (?-1595)
1580-1595 Fürstbishof von Worms

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Schönenberg.

Philipp I. von Rodenstein (1595-1604)

【ヴォルムス司教】

司教の実家ローデンシュタイン(ローテンシュタインとも)家の紋章との組み合わせ。

Philipp I. von Rodenstein (Rothenstein : ?-1604)
1595-1604 Fürstbishof von Worms

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Rodenstein.

Geotg Anton von Rodenstein (1629-1652)

【ヴォルムス司教】ゲオルク・アントン(在位1629−52)

司教の実家ローデンシュタイン家の紋章との組み合わせ。

彼が没すると、約2年の間、司教は空位となりました。

Geotg Anton von Rodenstein (Rothenstein : 1579-1652)
1629-1652 Fürstbishof von Worms

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Rodenstein.

Franz Emmerich Kaspar Waldbott (Elekt : 1679-1683)

【ヴォルムス選出司教】フランツ・エメリヒ・カスパル(選出1679−83)

ヴァルトボット男爵家の紋章との組み合わせ。ヴァルトボット家は1720年に伯に昇爵しました。

前司教の没後に司教に選出されました。しかし、正式な認可はなされず、公式には彼の没するまでヴォルムス司教は空位とされています。

Franz Emmerich Kaspar Reichsfreiherr Waldbott von Bassenheim (1626?-1683)
Der fuenfte Sohn des Freiherrn Damian Waldbott von Bassenheim.
1679-1683 Elekt von Worms

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Waldbott.

Johannes Karl von Frankenstein (1683-1691)

【ヴォルムス司教】ヨハンネス・カール(在位1683−91)

司教の実家フランケンシュタイン家の紋章との組み合わせ。

Johannes Karl Reichsfreiherr von und zu Frankenstein (1610-1691)
1683-1691 Fürstbishof von Worms

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Frankenstein.

Ludwig Anton von Pfalz-Neuburg (1691-1694)

【ヴォルムス司教】ルートヴィヒ・アントン(在位1691−94)

実家プファルツ=ノイブルクの紋章の上に兼務したヴォルムス司教とエルヴァンゲン修道院長の紋章を組み合わせた盾を置き、更にその上に、兼務したドイツ騎士団長の紋章を被せました。

プファルツ選帝侯フィリップ・ヴィルヘルムの三男で、24歳でドイツ騎士団長となり、その後、エルヴァンゲン修道院長、ヴォルムス司教にも就任しました。司教在任三年で没。

Ludwig Anton Pfalzgraf am Rhein zu Neuburg (1660-1694)
Der dritte Sohn des Kurfürsten Philipp Wilhelm von der Pfalz.
1679-1684 Koadjutor des Hoch- und Deutschmeisters
1684-1694 Hoch- und Deutschmeister
1689-1694 Fürstpropst von Ellwangen
1691-1694 Koadjutor des Erzbischofs von Mainz
1691-1694 Fürstbischof von Worms



【ヴュルツブルク司教領】 Hochstift Würzburg

Geviert, 1 und 4 : in Rot drei silberne Spitzen (Hzm. Franken), 2 und 3 : in Blau das schräg gestelte, von Rot und Silber gevierte Standarte des Bistums Würzburg.


741 Bistum gegründet
1802 Säkularisiert
1806-1814 Weltliches Grossherzogtum

14世紀に定まった紋章です。フランケン公(赤と銀の山形分割)とヴュルツブルク司教(青地に赤と銀のチェックの旗)を組み合わせています。ヴュルツブルクの紋章の旗は、それぞれの一辺に辺の約三分の一の長さの切れ込みが入ります。

741年に司教座が設置されました。初代司教ブルハルトはフランク王国宮宰ピピンのクーデターに加わり、カロリング朝成立の重要な役どころを演じました。11世紀初頭には神聖ローマ帝国の諸侯の地位を得、また、フランケン公領の解体後はフランケン公を名乗りました。フランケン公位(ただし、Herzog in Franken =フランケンの中の公)は、ヴュルツブルク司教が公領の跡地に領土を持つ諸侯中最有力であったことから、1441年に正式に認められました。
1802年に世俗化されてバイエルン領となり、1806年から1814年まではザルツブルク選帝侯のために大公国が置かれました。ウィーン会議の後、再度バイエルン領となりました。
宗教上の管区としては、最後の領主司教が没した1808年からは空位が続きました。1818年になって司教が再任され、現在はバンベルク大司教区所属の司教区となっています。


歴代司教 Fürstbischöfe von Würzburg

Gottfried IV. Schenk von Limpurg (1443-1455)

【ヴュルツブルク司教】ゴットフリート4世(在位1443−55)

向かって右上は司教の実家、リンプルク献酌侍従家の紋章です。

Gottfried IV. Schenk von Limpurg (1403-1455)
Der siebte Sohn des Schenken Friedrich III. von Limpurg.
1443-1455 Fürstbishof von Würzburg

Johann III. von Grumbach (1455-1466)

【ヴュルツブルク司教】ヨハン3世(在位1455−66)

司教の実家グルンバハ家の紋章との組み合わせ。

グルンバハ家はフランケン地方の古い貴族家で、後代には、一族のヴィルヘルムがヴュルツブルク司教を殺害したり、都市を占拠する事件を起こしました。

Johann III. von Grumbach (?-1466)
1455-1466 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Grunbach.

Rudolf II. von Scherenberg (1466-1495)

【ヴュルツブルク司教】ルドルフ2世(在位1466−95)

司教の実家シェーレンベルク家の紋章との組み合わせ。

実家シェーレンベルク家はフランケンの騎士で、家名のシェーレンの綴りはハサミ(Schere)の複数形と同じです。そのため、紋章意匠にハサミが採用されたようです。

Rudolf II. von Scherenberg (1401?-1495)
Sohn des Erhard von Scherenberg.
1466-1495 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Scherenberg.

Lorenz von Bibra (1495-1519)

【ヴュルツブルク司教】ローレンツ(在位1495−1519)

司教の実家ビブラ家の紋章との組み合わせ。

ルネサンスの精神に溢れた人文主義者で、教会の改革の道を模索し、ルターとも会見しました。

Lorenz von Bibra (1459-1519)
Sohn des Ritters Hans von Bibra.
1495-1519 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Bibra.

Konrad II. von Thüngen (1519-1540)

【ヴュルツブルク司教】コンラート2世(在位1519−40)

司教の実家テュンゲン家の紋章との組み合わせ。

実家テュンゲン家はフランケン公(ヴュルツブルク司教が兼務)の料理長職を世襲していた家系で、教会諸侯の官職とのつながりの深さによって、中世後期以降勢力を拡大していきました。18世紀初頭に男爵の地位を得、1708年には一代限りながら帝国伯の地位を与えられました。

Konrad II. von Thüngen (?-1466)
1455-1466 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Thüngen.

Konrad III. von Bibra (1540-1544)

【ヴュルツブルク司教】コンラート3世(在位1540−44)

司教の実家ビブラ家の紋章との組み合わせ。同じビブラ家出身のローレンツと同じ構成です。

コンラート3世には私生児が二人おり、娘カテリーネの結婚相手は、後に、次代ヴュルツブルク司教メルヒオールの命を受けたヴィルヘルム・フォン・グルンバハによって暗殺されました。

Konrad III. von Bibra (1490-1544)
1540-1544 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Bibra.

Melchior Zobel von Giebelstadt (1544-1558)

【ヴュルツブルク司教】メルヒオール(在位1544−58)

司教の実家ツォーベル家の紋章との組み合わせ。

司教領の封臣である騎士ヴィルヘルム・フォン・グルンバハと所領をめぐって対立が生じ、その結果、グルンバハによって拉致殺害されました。

Melchior Zobel von Giebelstadt (?-1558)
1544-1548 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Giebelstadt.

Friedrich von Wirsberg (1558-1573)

【ヴュルツブルク司教】フリードリヒ(在位1558−73)

司教の実家ヴィルスベルク家の紋章との組み合わせ。

1563年、前任者を殺害したグルンバハにヴュルツブルクを奇襲・占拠され、このような事件に対処するために設置されたはずのクライス(帝国の地域別平和維持組織)が、実際には即応できない不備を皇帝や諸侯に指摘し、制度改革の必要を訴えました。

Friedrich von Wirsberg (1504-1573)
1558-1573 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Wirsberg.

Julius Echter von Mespelbrunn (1573-1617)

【ヴュルツブルク司教】ユリウス(在位1573−1617)

実家エヒター・フォン・メスペルブルン家の紋章との組み合わせ。

この紋章は17世紀にハルトハイム市の市章にも組み込まれました。この町の領主だったハルトハイム家に後継者が絶えると、ユリウスがヴュルツブルクの封土として引き継いだことに由来します。
彼はまた、ヴュルツブルク大学の創立者としても知られています。

Julius Echter von Mespelbrunn (1545-1617)
Der zweite Sohn des Perer Echter von Mespelbrunn.
1573-1617 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Echter von Mespelbrunn.

Johann Gottfried von Aschhausen (1617-1622)

【ヴュルツブルク司教】ヨハン・ゴットフリート(在位1617−22)

中央の小盾は司教の実家アシュハウゼンの紋章。背後の盾は兼務したバンベルクとヴュルツブルク司教の紋章を組み合わせています。アシュハウゼンの紋章はマインツ選帝侯の紋章と似ていますが、車輪のスポークが5本です。

1609年にバンベルク司教となり、1617年、前任者の死去によってヴュルツブルク司教に就任しました。バンベルク司教としては多数の魔女裁判を執り行い、多くの領民を魔女として処刑しました。

Johann Gottfried von Aschhausen (1575-1622)
1609-1622 Fürstbishof von Bamberg
1617-1622 Fürstbishof von Würzburg

Herzschild : Familienwappen Aschhausen - In Rot ein fünfspeichges silbernes Rad.

Franz von Hatzfeld (1631-1642)
seit 1633/1635

【ヴュルツブルク司教】フランツ(在位1631−42)

1633年以降の紋章です。中央に司教の実家ハッツフェルト伯家の紋章を置き、背後の盾には兼務したバンベルクとヴュルツブルク司教の紋章を組みました。ハッツフェルト家はヘッセンの貴族で、1635年に伯位を得たので、それ以後の紋章では、小盾に伯爵冠が描かれました。

1631年にヴュルツブルク司教、翌々年にバンベルク司教に選出されました。しかし、三十年戦争でスウェーデン軍が来寇。両司教領を占領されたため1634年までケルンに避難しました。

Franz Reichsgraf von Hatzfeld (1596-1642)
Der dritte Sohn des Sebastian von Hatzfeld.
1631-1642 Fürstbishof von Würzburg
1633-1642 Fürstbishof von Bamberg

Graflich gekrönter Herzschild : Familienwappen Hatzfeld - geviert, 1 u. 4. Hatzfeld, 2 u. 3. Wildenburg (zum Hatzfeld).


Johann Hartmann von Rosenbach (1673-1675)

【ヴュルツブルク司教】ヨハン・ハルトマン(在位1673−75)

司教の実家ローゼンバハ家の紋章との組み合わせ。ローゼンバハ家の紋章は銀と黒に分割された盾地の銀の区画に黒色のライオンの半身が描かれています。ライオンの舌は冠と同じく金色で塗られるほか、赤色で塗られるバリエーションもあります。

Johann Hartmann von Rosenbach (1609-1675)
1673-1675 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Rosenbach.

Johann Gottfried von Guttenberg (1684-1698)

【ヴュルツブルク司教】ヨハン・ゴットフリート(在位1684−98)

司教の実家グッテンベルク家の紋章との組み合わせ。グッテンベルク家はフランケンの騎士の家系で、15世紀以来、多数の人物がヴュルツブルク聖堂参事会員に名を連ねました。

Johann Gottfried von Guttenberg (1645-1698)
1684-1698 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Guttenberg.

Christoph Franz von Hutten (1724-1729)

【ヴュルツブルク司教】クリストフ・フランツ(在位1724−29)

実家フッテン家の紋章との組み合わせ。

前後をシェーンボルン家出身の司教に挟まれた5年間在位しました。
フッテン家というと16世紀のドイツ騎士戦争の指導者ウルリヒ・フォン・フッテンが有名ですが、クリストフ・フランツは別系のシュトルツェンベルク家の出身です。同家からは枢機卿を兼ねたシュパイアー司教フランツ・クリストフ(在位1743−70)が出ています。

Christoph Franz Reichsfreiherr von Hutten (1673-1729)
Der erste Sohn des Ritters Johann von Hutten.
1724-1729 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Hutten.

Anselm Franz von Ingelheim (1746-1749)

【ヴュルツブルク司教】アンセルム・フランツ(在位1746−49)

実家インゲルハイムの紋章との組み合わせ。中央の小盾はメスペルブルン家、背後はヴュルツブルクとメスペルブルン。インゲルハイム家はメスペルブルン家と合同してインゲルハイム=メスペルブルン男爵家となり、アンセルム・フランツの司教就任前の1737年に帝国伯の地位を得ました。

Anselm Franz Reichsgraf von Ingelheim (1683-1749)
Der erste Sohn des Freiherrn Franz Adolf Dietrich von Ingelheim gen. Echter von und zu Mespelbrunn.
1746-1749 Fürstbishof von Würzburg

Geviert mit goldener Laubkrone gekrönter Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Ingelheim.
Hauptschild : 1. Hzm. Franken, 2 & 3. Familienwappen Echter-Ingelheim, 4. Bm. Würzburg.



Karl Philipp von Greiffenklau zu Vollraths (1749-1754)

【ヴュルツブルク司教】カール・フィリップ(在位1749−54)

司教の実家グライフェンクラウ=フォルラーツ男爵家の紋章との組み合わせ。グライフェンクラウの紋章は、銀と青で分割された盾地に描かれた槍花車の紋章(グライフェンクラウ)と黒地に銀の逆斜め帯の紋章(イッペルブルン)を組み合わせています。


Karl Philipp Reichsfreiherr von Greiffenklau zu Vollraths (1690-1754)
Sihn des Johann Erwein von Greiffenklau zu Vollraths.
1749-1754 Fürstbishof von Würzburg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Greiffenklau.

Adam Friedrich von Seinsheim (1755-1779)
bis 1757

【ヴュルツブルク司教】アダム・フリードリヒ(在位1755−79)

中央の小盾は司教の実家ザインスハイム。背後の盾のイノシシの紋章もザインスハイム家の紋章です。

母親がシェーンボルン家出身で、ヨハン・フィリップ・フランツ(ヴュルツブルク司教:1719−24)、フリードリヒ・カール(ヴュルツブルク兼バンベルク司教:1729−46)、フランツ・ゲオルク(トリーア選帝侯:1729−56)らの甥にあたります。

Adam Friedrich Reichsgraf von Seinsheim (1708-1779)
Der zweite Sohn des Geafen Franz Maximilian Maria von Seinsheim.
1755-1779 Fürstbishof von Würzburg
1757-1779 Fürstbishof von Bamberg

Adam Friedrich von Seinsheim
seit 1757

【ヴュルツブルク司教】アダム・フリードリヒ(在位1755−79)

1757年以降の構成です。司教の実家ザインスハイム伯家の紋章を小盾におさめ、背後の盾にはバンベルクとヴュルツブルク両司教の紋章を組みました。

1757年にバンベルク司教に就任したので紋章が変更されました。

Herzschild : Familienwappen Seinsheim.
Hauptschild : 1 & 4. Bm. Bamberg, 2. Hzm. Franken, 3. Bm. Würzburg.

Adam Friedrich von Seinsheim
Variante

【ヴュルツブルク司教】アダム・フリードリヒ(在位1755−79)

バンベルク司教に就任した頃の紋章のヴァリエーションです。実家の紋章を分解してザインスハイムの紋章のみを小盾に収め、背後の盾にイノシシの紋章を組みました。
この紋章はヴュルツブルクで発行された金貨に刻まれました。


Franz Ludwig von Erthal (1779-1795)

【ヴュルツブルク司教】フランツ・ルートヴィヒ(在位1779−95)

中央の小盾は司教の実家エルタール男爵家。背後の盾は兼務したヴュルツブルクとバンベルク司教領の紋章を組み合わせています。

マインツ選帝侯フリードリヒ・カールの実弟で、司教就任にあたり、本名フランツ・ルートヴィヒ・カール・フィリップ・アントンの最初の二つの名前を司教名としました。

Franz Ludwig (Karl Philipp Anton) Reichsfreiherr von Erthal (1730-1795)
Der fünfte Sohn des Philipp Christoph von Erthal. Franz Ludwig ist jüngerer Bruder des Kurfürst-Erzbischofs Friedrich Karl Josef von Mainz.
1779-1795 Fürstbishof von Würzburg und Bamberg

Geviert mit goldener Laubkrone gekrönter Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Erthal.
Hauptschild : 1 & 4. Bm. Bamberg, 2 Hzm. Franken, 3. Bm. Würzburg.



Georg Karl von Fechenbach (1795-1808)

【ヴュルツブルク司教】ゲオルク・カール(在位1795−1808)

最後のヴュルツブルク司教の紋章です。司教の実家フェヒェンバハ男爵家の紋章が組まれています。

1800年にはバンベルク司教代理となり、同職を1805年まで務めました。
1802年に世俗君主権を失いますが、司教としては1808年の自身の死までその地位にありました。また、1805年からはバンベルク司教も兼務しました。

Georg Karl Ignaz Reichsfreiherr von Fechenbach (1749-1808)
1795-1808 Fürstbishof von Würzburg
1800-1805 Koadjutor des Fürstbishofs von Bamberg
1805-1808 Bischof von Bamberg

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Fechenbach.


【ヴュルツブルク大公国】 Grossherzogtum Würzburg (1806-1814)

Wappen (1806) :
Geviert mit Königlich gekrönter Mittelschild und Erzherzoglich gekrönter Herzschild.

Herzschild : Österreich.
Mittelschild : 1. Kgr. Ungarn (Alt / Neu), 2. Kgr. Böhmen, 3. Gefürstete Grafschaft Tirol, 4. Ghzm. Toskanien, 5. Hzm. Lothringen, 6. Gft. Habsburg.
Hauptschild : 1 u. 4. Hzm. Franken, 2 u. 3. Bm. Würzburg.

トスカーナ大公フェルディナンド3世(在位1790−1801,1814−24)はナポレオン1世に大公国を没収され、代替地としてザルツブルク大司教領ほかと選帝侯位を与えられました。しかし、神聖ローマ帝国解体によって選帝侯位は失われ、領土もオーストリアとバイエルン間で分割併合されました。この処置の代償として、バイエルン領となっていた旧ヴュルツブルク司教領と大公位が提供されました(ヴュルツブルク大公としてフェルディナント1世:在位1806−14)。
ナポレオン体制が崩壊し1814年にトスカーナ大公国が再興されると、ヴュルツブルク大公国はバイエルン王国に返還されました。


ハプスブルク家の紋章を組み込んだ大紋章の構成です。中心の小盾はオーストリア。中間の盾は、ハンガリー、ボヘミア、ティロル、トスカーナ、ロートリンゲン、ハプスブルク。

Kleines Wappen

【小紋章】

ヴュルツブルク司教の紋章の中央にオーストリアが組まれたシンプルな構成です。

帝国中部(A-M)

帝国南部(A-K)

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