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- (4)帝国西部の諸邦(N−Z)
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16世紀前半の神聖ローマ帝国西部
現在のノルトライン=ヴェストファーレン州、ラインラント=プファルツ州、ヘッセン州の地域にあった国々です
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掲載一覧です Liste (N -
Z)
(A -
M)
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パーダーボルン司教領
プリュン修道院領
ザルム=ザルム侯国
ザルム=ノイブルク伯領
ザルム=ライファーシャイト=ダイク伯領
ザルム=ライファーシャイト=クラウトハイム侯国
ザルム=ライファーシャイト=ライツ侯国
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ザイン侯国・伯領
ザイン=アルテンキルヘン伯領
ザイン=ハヒェンブルク伯領
ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ホーエンシュタイン侯国・伯領
ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン侯
トリーア大司教領・選帝侯国
ヴィルネブルク伯領
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ヴァルデック=ピルモント侯国
ヴァルモデン=ギンボルン伯領
ヴェスターブルク伯領
ライニンゲン=ヴェスターブルク伯領
ヴィート侯国・伯領
ヴィトゲンシュタイン伯領
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Paderborn
(Bm.)
Prün (Abtei)
Salm-Salm (Fsm.)
Salm-Neuburg
(Gft.)
Salm-Reifferscheidt-Dyck
(Gft.)
Salm-Reifferscheidt-Krautheim
(Fsm.)
Salm-Reifferscheidt-Raiz
(Fsm.)
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Sayn (Fsm,
Gft.)
Sayn-Altenkirchen
(Gft.)
Sayn-Hachenburg
(Gft.)
Sayn-Wittgenstein-Hohenstein
(Fsm, Gft.)
Sayn-Wittgenstein-Sayn
(Fsm, Gft.)
Trier (Erzbm.)
Virneburg
(Gft.)
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Waldeck u.
Pyrmont (Fsm.)
Wallmoden-Gimborn
(Gft.)
Westerburg
(Gft.)
Leiningen-Westerburg
(Gft.)
Wied (Fsm, Gft.)
Winneburg-Beilstein
(H.)
Wittgenstein
(Gft.)
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Abkürzungen :
Kgr.= Königreich, Ghzm.=
Grossherzogtum, Hzm.= Herzogtum, Kfsm.=
Kurfürstentum, Fsm.= Fürstentum
Mgft.= Markgrafschaft, Lgft.=
Landgrafschaft, Bgft.=Burggrafschaft,
Fgft.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft,
Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.=
Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum
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【パーダーボルン司教領】 Hochstift
Paderborn
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In Rot ein goldenes Kreuz.
795 Bistum gegründet
1321 Hochstift
1802 säkularisiert
1930 Erzbistum
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赤地に金色の十字。
795年設置の司教座を中心に形成された司教領です。
799年にカール大帝(シャルルマーニュ)とローマ教皇レオ3世がこの地で会見したことから、神聖ローマ帝国発祥の地とされます(カール大帝は翌800年に西ローマ皇帝に即位しました)。
市内には泉が多く、それらから流れ出た水が合流してパーダー川となることから、「パーダー川の水源」がそのまま地名となりました。
1802年に世俗化され、領土は翌年プロイセンに併合されました。ただし、カトリックの教区としては存続し、1930年に大司教区に昇格して現在に至ります。
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【古紋章】
銀地に赤色の十字。18世紀以前の彩色です。
十字の紋章が最初に登場したのは司教ベルンハルト(在位1321−41)の時代で、司教の印章に自家の紋章と組み合わせて使用したのが初見だそうです。
Alte Farben : In Silber ein rotes Kreuz.
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1668-
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【1668年以降】
フェルディナント2世(在位1661−83)の時に紋章が変更になりました。
赤地に金色の錨形十字はピルモント伯の紋章です。
1631年にピルモント伯家(グライヒェン伯家)が断絶すると、伯領の帰属をめぐってパーダーボルン司教とヴァルデック伯間で争いが起き、双方によって伯領は分断されました。司教テーオドール・アドルフ(在位1650−61)はピルモント伯を司教の称号に加え、両者の対立は長引きます。ヴァルデック伯との争いは、次代司教フェルディナント2世の時に決着し、それ以降、ピルモント伯の紋章が司教の紋章に組み込まれました。
seit 1668 :
geviert 1 und 4 : In Silber ein rotes Kreuz (Bm.
Paderborn), 2 und 3: in Rot ein goldenes Ankerkreuz
(Gft. Pyrmont).
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18. Jh.
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【18世紀以降】
18世紀に入ると、司教の紋章は赤地に金色の十字、ピルモントの紋章は銀地に赤色の錨形十字に彩色が変更されました。それ以前の両者の紋章の彩色を交換した格好になります。
この彩色は18世紀の中葉には登場しますが、それ以前の彩色と並行して使われていたようです。1789年にフランツ・エーゴン(在位1789−1825)が自家の紋章の彩色を司教領の紋章としたことで定まりました。
この組み合わせと彩色は、現在の大司教の紋章にも引き継がれています。
Im 18 Jarlhundert :
geviert, Feld 1 und 4: in Rot ein goldened Kreuz
(Bm. Paderborn), Feld 2 und 3: in Silber ein rotes
Ankerkreuz (Gft. Pyrmont).
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- 歴代司教 Fürstbischöfe
von Paderborn
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Theodor I. von Fürstenberg
(1585-1618)
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【パーダーボルン司教】テーオドール1世(在位1585−1618)
司教の実家、フュルステンベルク家の紋章との組み合わせ。名前はディートリヒ1世とも綴ります。
この紋章は同家出身の司教フェルディナント2世も使用しました。
Theodor I. (auch Dietrich I.)
von Fürstenberg (1546-1618)
Sohn des Friedrich von Fürstenberg.
1585-1618 Fuerstbischof von Paderborn
Feld 2 u. 3. Familienwappen Fürstenberg
(Wesrfallen).
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Ferdinand von Bayern
(1618-1650)
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【パーダーボルン司教】フェルディナント(在位1618−50)
バイエルンの中央に司教の紋章が置かれました。完全紋章では、ケルン大司教など兼務した諸職の紋章と、出身家バイエルン=ロイヒテンベルク家の紋章が組み合わせられました。
Ferdinand Herzog von Bayern
(1577-1650)
Sohn des Herzogs Wilhelm V. von Bayern.
1595-1650 Fürstpropst von Berchtesgaden
(1591-1595 Koadjutor)
1596-1612 Koadjutor des Erzbischofs von Köln
1599-1612 Koadjutor des Fürstabtes von
Stablo-Malmedy
1602-1612 Koadjutor des Fürstbischofs von Lüttich
1611-1612 Koadjutor des Fürstbischofs Münster
und Hildesheim
1612-1650 Kurfürst-Erzbischof von Köln, Fürstbischof
von Hildesheim, Münster und Lüttich, Fürstabt
von Stablo-Malmedy
1618-1650 Fürstbischof von Paderborn (1612-1618
Koadjutor)
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Dietrich Adolph von der Recke
(1650-1661)
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【パーダーボルン司教】ディートリヒ・アドルフ(在位1650−1661)
司教の実家、デア・レッケ男爵家の紋章との組み合わせ。名前はテーオドールとも綴られます。
デア・レッケ家には複数家系があり、それぞれ異なる紋章を使用していましたが、青色の盾地に赤色の杭状の図形を置いた銀色の帯という紋章は、レッケ一族の紋章として共通して使用されました。
Dietrich (auch Theodor)
Adolph (seit 1653 Reichsfreiherr) von der Recke
(1601-1661)
1651-1661 Fürstbischof von Paderborn
Feld 2 u. 3. Familienwappen der Recke.
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Ferdinand II. von Fürstenberg
(1661-1683)
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【パーダーボルン司教】フェルディナント2世(在位1661−83)
1668年から使われた紋章です。
パーダーボルンとピルモントの紋章を組み合わせ、中央に司教の実家フュルステンベルク男爵家の紋章が置かれました。
即位時はピルモントは同家出身のテーオドール1世と同じ紋章が使用されました。彼の在位中にピルモント伯領の帰属をめぐっての争いが決着し、紋章が組み合わせられるようになりました。
Ferdinand II. (seit 1660
Reichsfreiherr) von Fürstenberg (1626-1683)
Sohn des Friedrich von Fürstenberg.
1661-1683 Fuerstbischof von Paderborn
1667-1678 Koadjutor des Fuerstbischofs Münster
1678-1683 Fuerstbischof von Münster
1680-1683 Apostolischer Vikar eines Teiles der
Nordischen Missionen
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Hermann Werner von Wolff gen.
Metternich zur Gracht (1683-1704)
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【パーダーボルン司教】ヘルマン・ヴェルナー(在位1683−1704)
中央に司教の実家ヴォルフ・フォン・メッテルニヒ男爵家の紋章を置き、背後にパーダーボルン司教とピルモント伯、およびヒルデスハイム司教座参事会の紋章(金赤の斜め分割)を組みました。
ヴォルフ・フォン・メッテルニヒ家はケルンの貴族で、彼の父はケルン選帝侯の枢密顧問官を務め、選帝侯や皇帝から厚い信頼を寄せられ男爵位を授かりました。ヘルマン・ヴェルナーは彼の多くの兄弟と同様に聖職界に入り、1678年にパーダーボルン司祭に叙任されました。司教叙任の年にヒルデスハイム聖堂参事会首席参事にも就任しました。
Hermann Werner Reichsfreiherr
von Wolff gen. Metternich zur Gracht
(1625-1704)
Sohn des Freiherrn Johann Joseph von
Wolff-Metternich zur Gracht.
1678-1704 Dompropst im Fuerstbistum Hildesheim
1683-1704 Fuerstbischof von Paderborn
Zweimal
gespalten und einmal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Wolff von
Metternich.
Hauptschild : 1 u. 6. Dompropstei Hildesheim, 2 u.
5. Bm. Paderborn, 3 u. 4. Gft. Pyrmont.
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Franz Arnold von Wolff gen.
Metternich zur Gracht (1704-1718)
1704-1706
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【パーダーボルン司教】フランツ・アルノルト(在位1704−18)
中央に司教の実家ヴォルフ=メッテルニヒ家の紋章を置ました。
前任司教ヘルマンの甥で、1703年に司教代理となり、翌年、叔父の後継としてパーダーボルン司教に就任しました。その2年後にミュンスター司教にも選出されました。
Franz Arnold Reichsfreiherr
von Wolff gen. Metternich zur Gracht
(1658-1718)
Neffe des Bischofs Hermann Werner von
Paderborn.
1703-1704 Koadjutor des Fuerstbischofs von
Paderborn
1704-1718 Fuerstbischof von Paderborn
1706-1718 Fuerstbischof
von Muenster
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Franz Arnold von Wolff gen.
Metternich zur Gracht
1706-1718
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【パーダーボルン司教】フランツ・アルノルト(1706年以降)
1706年にミュンスター司教にも就任すると、ミュンスター司教と同司教が統治する諸領土の紋章が組み込まれました。ミュンスター司教としての紋章は序列が異なります。
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Klemens August von Bayern
(1719-1761)
1719-1723
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【パーダーボルン司教】クレーメンス・アウグスト(在位1719−61)
中央に司教の実家バイエルンの紋章を置き、背後の盾には、兼務していたミュンスター司教(在位1719−61)の紋章が組み込まれました。
1723年にケルン大司教兼選帝侯に即位するまでのごくわずかな期間だけ用いられました。
Klemens August Herzog von
Bayern (1700-1761)
Der siebte Sohn des Kurfürsten Maximilian II.
Maria Emanuel von Bayern.
1717-1719 Fürstbischof von Regensburg
(1715-1716 Koadjutor)
1716-1723 Koadjutor des Fürstpropstes
Berchtesgaden
1719-1761 Fürstbischof von Paderborn und
Münster
1722-1723 Koadjutor des Elzbischofs von Köln
1723-1761 Kurfürst-Erzbischof
von Köln und Fürstpropst von
Berchtesgaden
1724-1761 Fürstbischof von Hildesheim
1728-1761 Fürstbischof von Osnabrück
1732-1761 Hoch-
und Deutschmeister
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Klemens August von Bayern
1732-1761
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【パーダーボルン司教】クレーメンス・アウグスト(1732年以降)
ドイツ騎士団長に就任してからの紋章です。ドイツ騎士団の十字の紋章で画された各区画に、兼務していたケルン大司教兼選帝侯、ヒルデスハイム司教、オスナブリュック司教、ミュンスター司教の紋章が組まれています。
Durch
ein schwarzes mit goldenen Lilienstäben
belegtes Kreuz in vier geteilt. Auf dem Kreuz ein
Mittelschild, belegt mit einem Herzschild.
Herzschild : geviert 1.&4. Hzm. Bayern,
2.&3. Pfgft. am Rhain,
Mittelschild : In gold ein schwarzer Adler
(Deutscher Orden),
Hauptschild : Feld 1 : Erzbistum Köln - geviert
1. Erzbm. Köln, 2. Hzm. Westfallen, 3. Hzm.
Engern, 4. Gft. Arnsberg, Feld 2 : Bistum
Paderborn, Feld 3 : geteilt, oben Bistum Hildesheim
(Gespalten von Gold und Rot), unten Bistum Osnabrück
(in Silber ein rotes Wagenrad), Feld 4 : Bistum Münster
- geviert 1. Bm. Münster, 2. Bgft. Stromberg,
3. H. Borkulo, 4. H. Werth (In Silber drei 2:1
Lilien).
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Friedrich Wilhelm von Westfalen
(1782-1789)
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【パーダーボルン司教】フリードリヒ・ヴィルヘルム(在位1782−89)
中央の小盾は司教の実家ヴェストファーレン男爵家の紋章。背後の盾の中段は、兼務していたヒルデスハイム司教の紋章です。
Friedrich Wilhelm Freiherr
von Westfalen (1727-1789)
1763-1789 Fürstbischof von Hildesheim
1773-1782 Koadjutor des Fürstbischofs von
Paderborn
1775-1780 Apostolischer Vikar des Nordes
1780-1789 Apostolischer Vikar der wiedervereningten
Vikariate des Nordes
1782-1789 Fürstbischof von Paderborn
Herzschild : Familienwappen Westfalen.
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【プリュン(プリューム)修道院領】 Reichsabtei
Prüm
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In Rot auf grünem Grund ein zurückschauendes
silbernes, golden nimbiertes Lamm mit
Fahne, die ein rotes Kreuz in Silber führt.
721 Stift gegründet
1222 Reichsabtei
1576 Personalunion mit dem Erzbistum
Trier
1802 säkularisiert
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赤地に聖ヨハネの羊。緑色の大地と金色の光輪をつけ、聖ヨハネの赤い十字を描いた旗を持つ羊で、俗に「プリュンの羊」と呼ばれるそうです。聖ヨハネの十字の旗を持つのは右前足ですが、左前足が持つバリエーションも認められます。また、頭の部分の光輪や緑色の大地が省略されるケースもありました。
8世紀前半に成立したベネディクト系修道院で、1222年に神聖ローマ帝国の聖職諸侯の地位を与えられました。しかし、中世を通じて次第に衰退し、1576年にトリーア選帝侯が修道院長を兼ねる同君連合となりました。トリーアとの連合が成立すると、帝国議会の議席は高位聖職者部会から諸侯部会に移りました。
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Variante
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【バリエーション】
緑色の大地と後光が描かれないバリエーションもありました。
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【ザルム侯国】 Fürstentum
Salm-Salm (1623-1810)
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Wappen :
Geteilt, oben viermal gespalten, unten
dreimal gespalten mit Herzschild.
Herzschild : Stammwappen Salm-Salm,
Hauptschild : 1. Rheingrafschaft, 2.
Wildgrafschaft, 3. Kyrburg, 4. Vinstingen,
5. H. Anholt, 6. Mgft. Montferrat, 7. Hzm.
Sachsen, 8. Byzanz, 9. Hzm. Mantua.
1019 Grafschaft Salm(Teil von Saarbrücken)
1163 Grafschaft Ober-Salm
1499 Grafschaft Salm-Dhaun
1561 Grafschaft Salm-Neuweiler
1574 Grafschaft Salm-Salm
1623 Fürstentum Salm
1739 Fürstentum Salm-Salm
1810 mediatisiert
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ザルムは11世紀初頭にザールブリュッケン伯から分かれました。1163年に上ザルムと下ザルムに分裂し、15世紀以降は、上ザルムはヴィルト&ラインガウ伯、下ザルムはライファーシャイト領主の家系が領しました。
ザルム家の領土はドイツ、ルクセンブルク、ベルギーの国境地帯、エルザスなど各地に散在していたため、多くの家系が生まれました。上ザルム系からはザルム=ザルム、ザルム=キルブルク、ザルム=グルンバハ(1803年にザルム=ホルストマールと改称)などが分かれ、ザルム(1738年に断絶)が1623年に、その後ザルム=ザルムが1739年に、ザルム=キルブルクが1742年に帝国諸侯に昇格しました。一方下ザルム系は、17世紀前半に4家に分かれ、うち、ザルム=ライファーシャイト=ライツが1790年、ザルム=ライファーシャイト=ベトブルが1804年に帝国諸侯となりました。
上ザルム各家は18世紀末のフランス革命戦争で領土を失いますが、旧ミュンスター司教領内に代替地を与えられて再興され、神聖ローマ帝国解体後はザルム=ザルムとザルム=キルブルクがライン同盟に参加し、主権国家として存続します。しかし、両国とも1810年にフランスに併合されました。
なお、ザルム=ザルム侯は1811年にフランス帝国の公の爵位を授かりました。
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Salm
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【ザルム】
描かれている銀色の魚はサケです。ザルム(Salm)とはサケという意味なので、その名通りの紋章図案が採用されました。
Im rotenen, mit silberne Nagelkreuzen bestreuten
Felde zwei nach außen gebogene silberne
Fische.
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Ober-Salm
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【上ザルム】
ザルム伯領の分裂後、上ザルムは4つの小十字を加えた紋章を用いました。この紋章はヴィルト&ライン伯系一族の紋章となりました。
Ober-Salm :
In Rot zwei nach außen gebogene silberne
Fische, begleitet von vier silbernen Kreuzchen.
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Nieder-Salm
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【下ザルム】
下ザルムはザルムの紋章と彩色が逆転し、盾地には十字が加えられません。この紋章はライファーシャイト系ザルム一族の紋章となりました。
Nieder-Salm :
In Silber zwei nach außen gebogene rote
Fische.
1163 Grafschaft Nieder-Salm (Teil von Salm)
1639 Erbteilungen -> Salm-Reifferscheid-Bedbur
und Salm-Reifferscheid-Dyck
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【15世紀以降】
中央の小盾はキルブルク、ザルム、フィンスティンゲン。背後の盾は御料場伯(ヴィルトグラーフ)とラインガウ伯。上ザルム系諸家の基本紋章です。
キルブルクとフィンスティンゲンは、御料場伯(ヴィルトグラーフ)家の系統が婚姻によって獲得した領地で、伯家の男系が途絶すると、伯家の女子相続人の嫁ぎ先ラインガウ伯家にもたらされました。
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : gespalten vorne Kyrburg, hinten
geteilt - oben Ober-Salm, unten Vinstingen,
Hauptschild : 1.&4. Woldgrafschaft, 2.&3.
Rheingrafschaft.
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17 Jh.
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【17世紀半ば以降】
中央の小盾にアンホルト領主領の紋章が加わりました。
アンホルトはオランダとの国境沿いにあった領邦で、レオポルト・フィリップ・カール(在位1636−63)がアンホルトの領主であるブロンクホルスト家の女子相続人マリア・アンナと結婚したことからザルムと結合しました。
以後アンホルトは侯家の居所となりました。
Herzschild : Geviert - 1. Kyrburg, 2. Ober-Salm, 3.
Vinstingen, 4. H. Anholt (in Rot eine golden gekrönter
silberne Säule).
Fürst Leopold Philipp Karl (1620?-1663)
verheiratet mit Maria Anna von
Bronckhorst-Batenburg, Herrin von Anholt
(1624-1661).
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18 Jh.-
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【18世紀以降】
中央の小盾はザルム。背後の盾の上段は、ラインガウ伯、御料場伯(ヴィルトグラーフ)、キルブルク、フィンスティンゲン、アンホルト。下段はモンフェラート、ザクセン、ビザンツ(モンフェラートのパレオロゴス家)、マントヴァ(グァスタッラ)。
下段の紋章はイタリアのモンフェラート公の紋章で、ザルム侯カール・テーオドール(在位1663−1710)の妃ルイーゼがマントヴァ=モンフェラート公カルロ1世の孫娘にあたるという血縁から取り入れられました。カール・テーオドールの息子ルートヴィヒ・オットーには息子がいなかったため、彼の長女と結婚した分家のザルム=フークストラーテン伯ニコラス・レオポルトが領土と侯位を継承し、ザルム=ザルム侯となりました。
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【ザルム=ノイブルク伯領】 Grafschaft
Salm-Neuburg (1529-1784)
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紋章について情報がありません。ザルムの紋章と組まれているのは、ウサギを捕まえたグリフォンの紋章で、紋章意匠がそのままクレストにも使われています。
初代ザルム伯の家系です。ザルム=バーデンヴァイラー伯ヨハン6世(在位1451−90)の長男が興した家系で、1529年にノイブルク伯領(現バイエルン州)を取得し、ザルム=ノイブルク伯を名乗りました。ノイブルクは1654年に手放しますが、それ以後もノイブルク伯を名乗りました。
1784年に男系が途絶しました。
Geviert: 1.&4. Salm, 2.&3. ?.
1529 Grafschaft Salm-Neuburg entstand
1654 verkauft Grafschaft Neuburg
1784 erloschen
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【ザルム=ライファーシャイト=ダイク伯領】 Grafschaft
Salm-Reifferscheidt-Dyck (1639-1806)
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組まれている紋章は、下ザルム、ライファーシャイト、ダイク領主、アルフター領主。
1456年、ライファーシャイト=ベトブル=ダイク家は1416年に断絶していた下ザルム伯の遺領を相続しました。相続時、伯領はルクセンブルク公の宗主下にありましたが、1460年にザルム=ライファーシャイト伯を称し、同じ頃に神聖ローマ帝国の直属身分を得ました。
ザルム=ライファーシャイト=ダイクは1639年の下ザルム分裂で誕生した領邦で、神聖ローマ帝国の帝国議会にはダイク領主の資格で議席を持っていました。
1806年に主権を喪失。その後、1816年にプロイセン王国の侯位を得ました。
1639 Grafschaft Salm-Reifferscheidt-Dyck
entstand
1806 mediatisiert
1816 Preussische Fürsten
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【ザルム=ライファーシャイト=クラウトハイム侯国】 Fürstentum
Salm-Reifferscheidt-Krautheim (1804-1806)
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中央の小盾はダイク。背後の盾は、下ザルム、ライファーシャイト、ベトブル領主、アルフター、ヘッケンブロイヒ(ヘッケンブルック)領主。
1639年の下ザルム分裂で誕生しました。はじめザルム=ライファーシャイト=ベトブルと呼ばれていましたが、1804年、神聖ローマ帝国の諸侯への昇格を機に、領邦名を変更しました。1806年の帝国解体に際して主権を失い、領土はヴュルテンベルク王国に併合されました。
1888年に一族のザルム=ライファーシャイト=ダイク侯家が絶えると、家名をザルム=ライファーシャイト=クラウトハイム=ダイクと改めました。1958年に家系が絶えました。
1639 Grafschaft Salm-Reifferscheidt-Bedbur
entstand
1804 Fürstentum
Salm-Reifferscheidt-Krautheim
1806 mediatisiert
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【ザルム=ライファーシャイト=ライツ侯国】 Fürstentum
Salm-Reifferscheidt-Raitz (1790-1806)
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Wappen :
Geviert mit Herzschild :
Herzschild : 1. Niedersalm, 2. Stammwappen
Reifferschaidt.
Hauptschild : 1. Dyck, 2. Bedbur, 3.
Alfter, 4. Häckenbroich.
1734 Grafschaft Salm-Reifferscheid-Raitz
entstand (Teil von
Salm-Reifferscheid-Bedbur)
1790 Fürstentum
1806 mediatisiert
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1734年にザルム=ライファーシャイト=ベトブル伯領から分かれました。1790年に帝国諸侯の地位を獲得するも、帝国解体時に主権を失いました。
なお、ザルム=ライファーシャイト系諸家は称号をザルム古伯(Altgraf
von Salm)としていました。
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中央の小盾は下ザルムとライファーシャイト。背後の盾は、ダイク、ベトブル領主、アルフター、ヘッケンブロイヒ(ヘッケンブルック)領主。
組まれている紋章の種類は本家筋のライファーシャイト=ベトブル家と同じで、紋章の序列が少し異なりました。
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【ザイン伯領】 Grafschaft
Sayn, Sayn-Wittgenstein
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赤地にこちらを向く金色のライオン。
伯領は12世紀頃に成立しました。中世を通じ、ライン中流域に領土を拡大していきました。13世紀末に2家に分裂し、兄脈のザイン=ザイン系(ザイン=アルテンキルヘン家)は1606年に男系が途絶、弟脈のザイン=ヴィトゲンシュタイン系も1607年に3家に分裂します。ザイン=ヴィトゲンシュタイン系各家は18世紀から19世紀初頭に帝国諸侯に昇格しました。
In Rot ein herschauender blau bewherter und
gezungter goldener Lïwe mit Doppelschweif.
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【ザイン=ヴィトゲンシュタイン伯領】
中央の小盾はザイン。背後の縦はヴィトゲンシュタイン(黒の縦帯)、ホンブルク(城)、フロイスブルク(イノシシ)。
ザイン=ヴィトゲンシュタイン系の基本となる紋章構成です。各家はここに自家の領土の紋章を組み込みました。
現在のザイン侯家の紋章は、この紋章の上部に金色の剣が描かれています。
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Gft. Sayn.
Hauptschild : 1.&4. Gft. Wittgenstein, 2. H.
Homburg, 3. H. Freusburg.
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【ザイン=アルテンキルヘン伯領】 Grafschaft
Sayn-Altenkirchen
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1686-1741
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【1686年以降】
ザクセンとザインの組み合わせ。
1606年に本家であるザイン伯領の男系が途絶えると、女子相続人アンナ・エリーザベトが女伯となり、その夫ザイン=ヴィトゲンシュタイン伯ヴィルヘルムが伯領の継承を主張しました。この請求は1648年のヴェストファーレン条約で認められ、ヴィルヘルムの孫娘、エルネスティーネ・ザレンティーネとヨハネッテ姉妹に伯領が与えられました。ザイン=アルテンキルヘンは、アルテンキルヘンを首府としたヨハネッテ(在位1648−1701年)の相続領で、彼女はザクセン=アイゼナハ侯と結婚したため1686年以降はアイゼナハと合同しました。
1648 Grafschaft entstand
1686 Union mit der Fürstentum
Sachsen-Eisenach
1741 zu Brandenburg-Ansbach
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1741-
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【1741年以降】
中央の小盾はブランデンブルク、背後の盾は、プロイセン、ニュルンベルク城伯、ホーエンツォレルン、ザイン。1741年にブランデンブルク=アンスバハ領となってからの紋章です。
1741年にザクセン=アイゼナハ家が絶えると、アルテンキルヘンはヨハネッテの孫にあたるブランデンブルク=アンスバハ辺境伯カール・ヴィルヘルム・フリードリヒが相続し、以後、ブランデンブルク=アンスバハ領となります。
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Mgft. Brandenburg,
Hauptschild : 1. Hzm. Preussen, 2. Bgft. Nürnberg,
3. Gft. Hohenzollern, 4. Gft. Sayn.
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【ザイン=ハヒェンブルク伯領】 Grafschaft
Sayn-Hachenburg
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bis 1715
(Grafen von
Manderschaid-Blankenheim)
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【1661年以降】
背後の盾は、マンダーシャイト=ブランケンハイム伯の紋章です。
ハヒェンブルクは1648年に行われたザイン伯領の分割相続のうち、エルネスティーネ・ザレンティーネの相続領です。彼女はマンダーシャイト=ブランケンハイム伯ザレンティン・エルンスト(在位1644−94年)と結婚したので、ハヒェンブルクはマンダーシャイト伯領と合同しました。しかし、この連合は、エルネスティーネの息子達が早世したため解消。伯領はキルヒベルク城伯と結婚した娘のマクダレーナ・クリスティーネが相続し、以後はキルヒベルク城伯家が統治しました。
1648 Grafschaft entstand
1661 Union mit der Grafschaft
Manderscheid-Blankenheim
1715 zu Kirchberg
1799 zu Nassau-Weilburg
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1715-1799
(Bruggrafen von Kirchberg)
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【1715年以降】
盾地を縦分割し、向かって左にキルヒベルク城伯、向かって右にザイン伯の紋章を組みました。
キルヒベルク城伯はイェーナにあるキルヒベルク城の城伯を務めた家系で、帝国非直属身分の貴族でした。婚姻によってザイン=ハヒェンブルクを相続したことで帝国等族の身分を獲得し、ザイン伯を名乗りました。
1799年にキルヒベルク家が絶えると、キルヒベルク家の娘と結婚したナッサウ=ヴァイルブルク家が領土を相続、その4年後の1803年にザイン=ベルレブルク(ザイン=ザイン)侯に譲られました。
Gespalten : 1. Kirchberg (geviert, 1.&4. Bgft.
Kirchberg, 2.&3. Gft. Kirchberg), 2. Sayn
(geviert, 1. Gft. Sayn, 2. Gft. Wittgenstein, 3. H.
Freusburg, 4. H. Homburg).
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【ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ホーエンシュタイン侯国】 Fürstentum
Sayn-Wittgenstein-Hohenstein (1801-1806)
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Wappen :
Herzschild : Stammwappen,
Hauputschild : 1. Gft. Lautterberg (obere
Wappenhälfte), 2. H. Homburg, 3. Gft.
Lautterberg (untere Wappenhälfte),
4.H. Klettenberg, 5. Gft. Wittgenstein
& H. Freusburg, 6. Gft. Hohenstein, 7.
H. Limpurg-Speckfeld.
1657 Grafschaft
Sayn-Wittgenstein-Hohenstein
1801 Fürstentum
1806 mediatisiert
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1657年のザイン=ヴィトゲンシュタイン伯領の分裂で誕生しました。ザイン伯は1593年に断絶したホーエンシュタイン伯の遺領の一部を相続していたため、家名にホーエンシュタインを加えました。この家系はホーエンシュタイン伯とクレッテンベルク領主を称号に加えています。
フリードリヒ・カール(在位1796−1806)は母親からリンプルク=シュペックフェルトを相続し、リンプルク伯領の共同君主となり、翌年、帝国諸侯に列せられました。しかし、1806年の帝国解体で主権を喪失し、領土のうち、ヴィトゲンシュタインはヘッセン=ダルムシュタットに、リンプルク=シュペックフェルトはバイエルンに併合されました。
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bis 1796?
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ホーエンシュタイン伯の紋章が加わり、紋章構成が大きく変わりました。背後の盾の金色のライオンと金赤の横分割はラウターベルク伯領、黒鹿はクレッテンベルク領主領、赤銀のチェックはホーエンシュタイン伯領の紋章です。
また、ヴィトゲンシュタインとフロイスブルクの紋章が一つにまとめられました。
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1801-
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18世紀末に最下部にリンプルク伯領の紋章が加わりました。
リンプルク=シュペックフェルト伯領の共同君主だったピュックラー家のヴィルヘルミーネ・ヘンリエッテ・カロリーネ(在位1793−1800)が1796年にザイン=ヴィトゲンシュタイン=ホーエンシュタイン伯ヨハン・ルートヴィヒと結婚したことから、リンプルクの相続権が発生しました。1800年にヴィルヘルミーネが没すると、息子のフリードリヒ・カールほか3人の姉妹がリンプルクの共同君主となりました。
フリードリヒ・カールは1801年に帝国諸侯に列せられました。
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【ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン侯】 Fürsten
zu Sayn-Wittgenstein-Sayn
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1834-
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【1834年以降】
盾の上部に金色の剣の紋章が加わりました。詳細は不明ですが、クレストはのロシア皇帝の双頭の鷲となっていますので、下賜紋のようです。
1694年にザイン=ヴィトゲンシュタイン=ベルレブルクから分かれ、ザイン=ルートヴィヒスブルク伯を称しました。1806年の帝国解体で一族と共に主権を失いました。
クリスティアン(在位1750−97年)はロシア帝国に軍人として仕え、その息子ルートヴィヒ・アドルフ・ペーターもロシア帝国元帥として対ナポレオン戦争で活躍しました。彼は1834年にロシア皇帝の了解を得たプロイセン王から、侯の称号を贈られ、1848年に称号をザイン=ヴィトゲンシュタイン=ザイン侯と改めました。
1694 Grafschaft Sayn-Ludwigsburg entstand
1806 mediatisiert
1834 Preussische Fürsten
1848 Titel "Fürsten zu
Sayn-Wittgenstein-Sayn"
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【トリーア大司教領兼選帝侯国】 Erzstift
und Kurfürstentum Trier
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In Silber ein rotes Kreuz.
50 Bistum gegründet
784 Erzbistum
1802 säkularisiert
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銀地に赤い十字架。1273年に大司教ハインリヒ(在位1260−86)が印章に用いたのが初見で、クーノ2世(在位1362−88)の代から大司教の実家の紋章と組み合わせられるようになりました。
トリーアはローマ皇帝アウグストゥス(在位BC.27−AD14)が建設したアウグスタ・トゥレヴァロールムに起源を持つ、ドイツ最古の都市です。293年にローマ帝国が4分割されると、4首都の一つになり、コンスタンチヌス大帝などが居住しました。
伝承では西暦50年に司教座が設置されたとされ、カール大帝の時代に大司教座に昇格。12世紀頃から都市と大司教領の整備が進みました。金印勅書によって大司教は神聖ローマ皇帝を選出する7人の選帝侯の一人に列せられ、帝国の重鎮として活動します。
1802年に世俗化され、領土はフランスとナッサウとで分割されました。
トリーア生まれの著名人には『資本主義論』のカール・マルクスがいます。
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- 歴代大司教・選帝侯 Erzbischöfe-Kurfürsten
von Trier
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Kuno II. von Falkenstein
(1362-1388)
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【トリーア大司教兼選帝侯】クーノ2世(在位1362−88)
中央の小盾はミュンツェンベルク。
クーノ2世はファルケンシュタイン家の出身。ミュンツェンベルクはファルケンシュタイン伯の所領で、ミュンツェンベルクの紋章はファルケンシュタイン伯の紋章となっていました。なお、ミュンツェンベルクの紋章は金地の盾の上部に赤色の帯を置いた形で、15世紀に入ると、赤と金の横分割図形に変化しました。
Kuno II. Graf von Falkenstein
(1320-1388)
Der zweite Sohn des Grafen Philipp IV. von
Falkenstein.
1360-1362 Koadjutor des Erzbischofs von Trier
1362-1388 Kurfürst-Erzbischof von Trier
1366-1368 Koadjutor des Erzbischofs von Koeln
Herzschild : Münzenberg
(Minzenberg) - in Gold ein rotes Schildeshaupt.
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Kuno II. von Falkenstein
(Variante)
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【トリーア大司教兼選帝侯】クーノ2世(在位1362−88)
クーノ2世の紋章のヴァリエーションです。大司教領とミュンツェンベルクの紋章をX字に組んでいます。クーノ2世は、通常はこちらの紋章を用いたそうです。トリーア歴代大司教中、トリーアの紋章と実家の紋章を組み合わせて使ったのは、クーノ2世が最初と言われています。
クーノ2世の母親はザールヴェーデン伯家の出なので、同伯家出身のケルン選帝侯フリードリヒ3世(在位1371−1414)は従兄の子になります。
Feld 2 u. 3 : Münzenberg.
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Werner III. von Falkenstein
(1388-1418)
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【トリーア大司教兼選帝侯】ヴェルナー(在位1388−1418)
クーノ2世の後継者となったヴェルナーの紋章で、大司教領とミュンツェンベルク領主領の紋章を盾の左右に組んでいます。
先代クーノ2世はヴェルナーの祖父ファルケンシュタイン伯クーノ2世のまたいとこにあたります。1407年に兄フィリップ8世が嗣子なく没すると、ファルケンシュタイン伯を継ぎました(在位1407−18)。ヴェルナーの死をもって、初代ファルケンシュタイン伯家は断絶します。
彼はまた1400年に国王ヴェンツェル廃位とルプレヒト選出に参与しました。1410年の二重選挙ではライン宮中伯と共にジギスムントを推しますが、選挙には敗れました。
Werner III. Garf von
Falkenstein (1373?-1418)
Der zweite Sohn des Grafen Philipp VI. von
Falkenstein.
1388 Koadjutor des Erzbischofs von Trier
1388-1418 Kurfürst-Erzbischof von Trier
1407-1418 Graf von Falkenstein
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Otto von Ziegenhain
(1418-1430)
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【トリーア大司教兼選帝侯】オットー(在位1418−30)
選帝侯の実家ツィーゲンハインの紋章との組み合わせ。
Otto von Ziegenhain
(1380-1430)
Der vierte Sohn des Grafen Gottfried VIII.
von Ziegenhain.
1418-1430 Kurfürst-Erzbischof von Trier
Feld 2 : Grafschaft Ziegenhain.
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Jakob I. von Sierck
(1439-1456)
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【トリーア大司教兼選帝侯】ヤーコプ1世(在位1439−56)
選帝侯の実家ジールク家の紋章との組み合わせ。
ジールク家はロートリンゲン(ロレーヌ)の騎士で、所領はドイツとルクセンブルクとの国境付近にありました。
ヤーコプ1世は皇帝フリードリヒ3世の下で1441年から帝国尚書長官(帝国宰相)を務めました。
Jakob I. von Sierck
(1398?-1456)
Der erste Sohn des Arnold V. von Sierck.
1436-1456 Kurfürst-Erzbischof von Trier
Feld 2 u. 3 : Familienwappen Sierck.
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Johann II. von Baden
(1456-1503)
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【トリーア大司教兼選帝侯】ヨハン2世(在位1456−1503)
選帝侯の実家バーデン辺境伯家の紋章との組み合わせ。トリーアとバーデンの紋章をX字に組んだヴァリエーションも使われました。
Johann II. Markgraf von Baden
(1430-1503)
Der dritte Sohn des Markgrafen Jakob I. von
Baden.
1456-1503 Kurfürst-Erzbischof von Trier
Feld 2 : Markgrafschaft Baden.
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Richard von Greiffenklau zu
Vollraths (1511-1531)
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【トリーア大司教兼選帝侯】リヒャルト(在位1511−31)
選帝侯の実家グライフェンクラウの紋章との組み合わせ。
リヒャルトの紋章には、左のようにX字に組んだ紋章の他に、トリーアとグライフェンクラウを並べて描いたヴァリエーションも存在しました。
Richard von Greiffenklau zu
Vollraths (1467-1531)
Der dritte Sohn des Hans (Johann)
Greiffenclau zu Volrads.
1511-1531 Kurfürst-Erzbischof von
Trier
Feld 2 u. 3 : Familienwappen
Greiffenklau.
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Johann III. von Metzenhausen
(1531-1540)
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【トリーア大司教兼選帝侯】ヨハン3世(在位1531−40)
選帝侯の実家メッツェンハウゼンの紋章との組み合わせ。メッツェンハウゼン家はモーゼル川流域の同名の小村を領した騎士で、同家の紋章はメッツェンハウゼンやネーフなど、同家が足跡を残した土地の自治体の紋章に取り入れられています。
ミュンスター司教フランツ・フォン・ヴァルデックがルター派への改宗の動きを見せるとそれを阻止すべく軍隊を派遣(1534年)。しかし在位の末期には、プロテスタント勢力のシュマルカルデン同盟と接触を持ちました。
Johann III. von Metzenhausen
(1492-1540)
1531-1540 Kurfürst-Erzbischof von Trier
Feld 2 u. 3 : Familienwappen
Metzenhausen.
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Johann IV. von Isenburg
(1547-1556)
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【トリーア大司教兼選帝侯】ヨハン4世(在位1547−56)
組まれているのは選帝侯の実家、イーゼンブルクの紋章です。イーゼンブルクの紋章は2種類あって、イーゼンブルク=グレンツァウ家が両者を組み合わせて用いていました。
皇帝カール5世の敗北で宗教戦争が転機を迎えると、マインツ選帝侯と共にプロテスタント側に譲歩し、宗教和議への道筋をつけます。そして1555年のアウグスブルク帝国会議において、宗教和議と帝国執行令制定が実現しました。
ケルン大司教ザレンティンはヨハン4世の甥になります。
Johann IV. Graf von Isenburg
(1507-1556)
Der zweite Sohn des Grafen Gerlach IV. von
Isenburg-Grenzau. Johann IV. ist Onkel des
Erzbischofs
Salentin von Köln.
1547-1556 Kurfürst-Erzbischof von Trier
Feld 2 u. 3 : Familienwappen
Isenburg-Grenzau.
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Johann VI. von der Leyen
(1556-1567)
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【トリーア大司教兼選帝侯】ヨハン6世
(在位1556−67)
選帝侯の実家デア・レイエン家の紋章との組み合わせ。
Johann VI. von der Leyen
(1556-1567)
Der zweite Sohn des Bartholomäus von der
Leyen.
1556-1567 Kurfürst-Erzbischof von Trier
Feld 2 u. 3 : Familienwappen der Leyen.
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Johann VII. von Schönenberg
(1581-1599)
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【トリーア大司教兼選帝侯】ヨハン7世(在位1581−99)
中央の小盾はプリュン修道院。背後の盾はトリーアと選帝侯の実家シェーネンベルク家の紋章の組み合わせ。
プリュン修道院は1576年にトリーア選帝侯の管轄下に置かれて同君連合となったので、16世紀以降の選帝侯の紋章に登場します。
Johann VII. von Schönenberg
(1525-1599)
Sohn des Johann von Schönenberg.
1581-1599 Kurfürst-Erzbischof von Trier, Fürstabt
von Prüm
Feld 2 u. 3 : Familienwappen Schönenberg.
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Lothar von Metternich
(1599-1623)
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【トリーア大司教兼選帝侯】ロタール(在位1599−1623)
中央の小盾はプリュン修道院、背後の盾はトリーアと選帝侯の実家メッテルニヒ家の紋章。トリーアの紋章の中央にメッテルニヒの紋章を置くバリエーションもありました。
実家メッテルニヒ家は、1613年に選帝侯の兄ハンス・ディートリヒがヴィンネブルク=バイルシュタイン領主領を購入し、帝国等族の身分を獲得しました。
Lothar von Metternich
(1551-1623)
Der dritte Sohn des Hans von Metternich.
1599-1622 Kurfürst-Erzbischof von Trier, Fürstabt
von Prüm
Feld 2 u. 3 : Familienwappen
Metternich.
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Phiripp Christoph von Sötern
(1623-1652)
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【トリーア大司教兼選帝侯】フィリップ・クリストフ(在位1623−52)
中央の小盾を横分割し、上段にプリュン修道院、下段にヴァイセンブルク(ヴィッサンブール)修道院を組み、背後の盾にはトリーアとシュパイアー司教(青地に白十字)、選帝侯の実家ゼーテルン家の紋章(金地に赤色のかすがい)が組まれました。
Phiripp Christoph von Sötern
(1567-1652)
Der zweite Sohn des Georg Wilhelm von Soetern.
1609-1610 Koadjutor des Fürstbischofs von
Speyer
1610-1652 Fürstbischof von Speyer, Fürstpropst
von Weissenburg
1623-1652 Kurfürst-Erzbischof von Trier, Fürstabt
von Prüm
Geviert
mit Herzschild.
Herzschild : geteilt, oben Fürstabtei Prüm,
unten Fürstpropstei Weissenburg.
Herzschild : 1. Erzbm. Trier, 2 & 3. in Gold
ein roter Doppelhaken (Sötern), 4. Bm. Speyer.
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Karl II. Kaspar von der
Leyen-Hohengeroldseck (1652-1676)
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【トリーア大司教兼選帝侯】カール2世カスパル(在位1652−76)
中央にプリュン修道院の紋章を置き、背後の盾にトリーアと選帝侯の実家デア・レイエン家の紋章を組みました。
弟のダミアン・ハルトラルト(後のマインツ選帝侯:在位1676−78)をトリーア領内の首席助祭に任じ、すぐ下の弟フーゴー・エルンスト(初代デア・レイエン男爵)とその息子ヨハン・カール・カスパル(初代デア・レイエン伯)にトリーアの封を与えました。また、1672年には姉の息子フーゴー・フォン・オルスベックを大司教代理としました。
Karl II. Kaspar
Reichsfreiherr von der Leyen-Hohengeroldseck
(1618-1676)
Der zweite Sohn des Damian von der Leyen.
Karl Kaspar war grosser Bruder des Erzbischofs
Damian Hartard von Mainz.
1650-1652 Koadjutor des Erzbischofs Trier
1652-1676 Kurfürst-Erzbischof von Trier, Fürstabt
von Prüm
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Johann VIII. Hugo von Orsbeck
(1678-1711)
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【トリーア大司教兼選帝侯】ヨハン8世フーゴー(在位1678−1711)
中央の小盾は選帝侯の実家オルスベック。オルスベック家の紋章は、緑色の三日月ではなく、緑色の睡蓮の葉とするバリーションもあります。背後の盾はトリーア、プリュン、ヴァイセンブルク、シュパイアー。シュパイアー司教(在位1675−1711)やヴァイセンブルク修道院長を兼ねたため、それらの紋章が組み込まれました。
前任者の甥で、1672年から大司教代理を務め、さらに大司教就任の前年にシュパイアー司教とヴァイセンブルク修道院長となりました(ヴァイセンブルク修道院はシュパイアー司教と同君連合の関係にありました)。
Johann VIII. Hugo von Orsbeck
(1634-1711)
Der zweite Sohn des Wilhelm von Orsbeck.
1672-1676 Koadjutor des Erzbischofd Trier
1675-1711 Fürstbischof von Speyer, Fürstpropst
von Weißenburg
1676-1711 Kurfürst-Erzbischof von Trier, Fürstabt
von Prüm
Herzschild : Familienwappen Orsbeck.
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Karl Joseph von Lothringen
(1711-1715)
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【トリーア大司教兼選帝侯】カール・ヨーゼフ(在位1711−15)
オスナブリュック司教(在位1698−1715)を兼ねました。中央の盾は選帝侯の実家ロートリンゲン(ロレーヌ)公。背後の盾は、6分割された区画の対角線上にオスナブリュック司教、トリーア、プリュン修道院の紋章が配されました。
ロートリンゲン公カール4世と皇帝フェルディナント3世の皇女との間に生まれました。はじめオルミュッツ(オロモウツ)司教で、トリーア大司教に選出されると、教皇より出された条件に従ってオルミュッツ司教を退き、トリーア大司教となりました。1715年、生まれ故郷のウィーンに滞在中に疱瘡を患い急死。彼はハプスブルク家の一員ではなかったものの、同家の家族教会に埋葬されました。彼の棺はナポレオン皇后マリア・ルイーザやメキシコ皇帝マクシミリアンと同じ安置室に置かれています。
Karl Joseph Herzog von
Lothringen (1680-1715)
Der zweite Sohn des Herzogs Karl IV. von
Lothringen.
1695-1711 als Karl III. Fürstbischof von Olmütz
1698-1715 Fürstbischof von Osnabrück
1711-1715 Kurfürst-Erzbischof von Trier, Fürstabt
von Prüm
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Franz Ludwig von Pfalz-Neuburg
(1716-1729)
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【トリーア大司教兼選帝侯】フランツ・ルートヴィヒ(在位1716−29)
中心にトリーアの小盾を置き、その背後にドイツ騎士団長の紋章(十字と鷲)、中間の盾に彼が兼務した聖職諸侯の紋章、そして背後の盾に彼の実家プファルツ=ノイブルクの紋章が組まれています。中間の盾の構成は、ヴォルムス司教、エルヴァンゲン修道院長、ブレスラウ(ウロツワフ)司教、プリュン修道院長。
1683年にブレスラウ司教、1694年にドイツ騎士団長とヴォルムス司教、トリーア大司教には1716年に就任しました。1729年にマインツ大司教が没すると、1712年からマインツ大司教代理を務めていたためトリーア大司教を退きマインツ大司教に就任しました。(神聖ローマ帝国の国制上では、マインツ選帝侯が最上位です)
Franz Ludwig Pfalzgraf am
Rhein zu Neuburg (1664-1732)
Der sechste Sohn des Kurfürsten Philipp
Wilhelm von der Pfalz.
1683-1732 Fürstbischof von Breslau
1694-1732 Fürstbischof von Worms, Hoch-
und Deutschmeister, Fürstpropst von
Ellwangen
1716-1729 Kurfürst-Erzbischof von Trier, Fürstabt
von Prüm
1729-1732 Kurfürst-Erzbischof von Mainz
(1712-1729 Koadjutor)
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Johann IX. Philipp von Walderdorff
(1756-1768)
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【トリーア大司教兼選帝侯】ヨハン9世フィリップ(在位1756−68)
中央の小盾は選帝侯の実家ヴァルダードルフ伯家、背後の盾はトリーアとプリュン修道院領の紋章です。1760年頃までの貨幣に描かれました。
Johann IX. Philipp
Reichsfreiherr von Walderdorf
(1701-1768)
1739-1742 Generalvikar für Obererzstift
Trier
1754-1756 Koadjutor des Erzbischofd Trier
1756-1768 Kurfürst-Erzbischof von Trier, Fürstabt
von Prüm
1763-1768 Fürstbischof von Worms
Herzchild : Familienwappen Walderdorff.
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Johann IX. Philipp von
Walderdorff
(Variante)
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【トリーア大司教兼選帝侯】ヨハン・フィリップ(在位1756−68)
1760年に紋章配置が変わりました。ヴァルダードルフ伯の紋章が分解され、中央の小盾がヴァルダードルフのみとなり、背後の盾にイーゼンブルクの紋章が移されました。
Variente : Geviert mit Laubkrone gekröntes
Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Walderdorff.
Hauptschild : 1 & 4. Trier, 2. Prüm, 3.
Gft. Nieder-Isenburg (zum Familienwappen
Walderdorff).
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Johann IX. Philipp von
Walderdorff
seit 1763
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【トリーア大司教兼選帝侯】ヨハン・フィリップ(在位1756−68)
1763年以降の紋章です。ヴォルムス司教領の紋章が加わりました。
ヨハン・フィリップは1763年にヴォルムス司教にも即位したため、紋章が変更になりました。
なお、この時期の紋章にもイーゼンブルクの紋章が背後の盾の向かって右下に置かれるヴァリエーションがあります。
Hauptschild : Feld 2 - Bistum Worms.
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Clemens Wenzelaus von Sachsen
(1768-1801)
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【トリーア大司教兼選帝侯】クレーメンス・ヴェンツェラウス(在位1768−1801)
中心の小盾はザクセン。中間の盾はポーランドとリトアニア。背後の盾はトリーア、アウグスブルク、エルヴァンゲン、プリュン。
ポーランド王兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の8男で、1763年にフライジングとレーゲンスブルク司教となりました。1768年にトリーア選帝侯とアウグスブルク司教に選ばれたため、フライジングとレーゲンスブルクの司教職を退きました。
Clemens Wenzelaus Herzog von
Sachsen (1739-1802)
Der achte Sohn des Kurfürsten Friedrich August
II. von Sachsen.
1763-1768 Fürstbischof von Freising und
Regensburg
1765-1768 Koadjutor des Fürstbischofs von
Augusburg
1768-1802 Kurfürst-Erzbischof von Trier, Fürstabt
von Prüm
1768-1812 Fürstbischof von Augusburg
1787-1802 Fürstpropst von Ellwangen
Geviert
mit goldener Königskrone gekröntes
Mittelschild und Herzschild.
Herzschild : Hzm. Sachsen.
Mittelschild : geviert, 1 & 4. Kgr. Polen, 2
& 3. Ghzm. Litauen.
Hauptshild : geviert, 1. Erzbm. Trier, 2. Bm.
Augusburg, 3. Fürstpropstei Ellwangen, 4. Fürstabtei
Prüm.
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【ヴィルネブルク伯領】 Grafschaft
Virneburg
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bis 1615
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金地に上段4個、下段3個の赤い菱形図形。オットー大帝の対ハンガリー戦に従軍した際に、皇帝から使用を許可されたと伝わります。
コブレンツの北西に位置する伯領で、13世紀に成立しました。伯家は1485年に断絶し、領土はマンダーシャイト=シュライデン伯が相続します。その後1590年に伯領はレーヴェンシュタイン伯の手に移り、1615年に紋章がレーヴェンシュタイン伯の紋章と組み合わせられた、現在の紋章に変更されました。
Altes Wappen : In Gold sieben 4:3 rote Rauten.
1238 Grafschaft entstand
1485 erloschen, Territorium fällt an
Manderscheid-Schleiden
1590 zu Löwenstein
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seit 1615
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【新紋章】
盾の上半にレーヴェンシュタイン伯の紋章が組まれました。レーヴェンシュタイン家が伯領を相続したことでの変更です。
なお、レーヴェンシュタインの紋章は、盾下部の丘の図形は3または4つで、彩色も緑または自然色(多くの場合金色)で描かれます。
Neues Wappen : Geteilt, oben in Silber auf drei
order vier gespitzter natülicher Felsen
schreitend ein gold gekrönter roter Löwe (Löwenstein),
unten in Gold sieben 4:3 rote Rauten
(Virneburg).
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【ヴァルデック=ピルモント侯国】 Fürstentum
Waldeck und Pyrmont
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Wappen :
Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit
Herzschild.
1.&9. Gft. Pyrmont, 2.&8. Gft.
Rappltstein, 3.&7. H. Hohenack, 4. H.
Tonna, 5. Herzschild : Waldecksches
Stammwappen, 6. H. Geroldseck.
1137 Herrschaft Waldeck entstand
1349 Grafschaft
1474 Waldeck-Wildungen (1682 Fürstentum,
1692 erloschen)
1474 Waldeck-Eisenberg (1706
Waldeck-Pyrmont, 1712 Fürstentum, 1812
erloschen)
1806 Grafschaft (1807 Fürstentum)
Pyrmont abgeteilt
1812 Fürstentum Waldeck und
Pyrmont
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中央の小盾はヴァルデック、背後の盾はピルモント(赤い錨形十字)、ラッポルトシュタイン(赤い3個の盾)、ホーエナック(3つの黒鷲の頭)、トンナ=グライヒェン(白いライオン)、ゲロルトゼック(赤いライオン)。
1137年のシュヴァレンベルク伯領の分裂で成立しました。この分裂で誕生した兄脈の家系がヴァルデック家を、弟脈の家系がピルモント家を名乗りました。ヴァルデック家は1349年に伯位を得、1474年にヴァルデック=ヴィルドゥンゲンとヴァルデック=アイゼンベルクに分かれました。兄脈のヴィルドゥンゲン家は一時断絶の後に再興し、1682年に帝国諸侯の地位を得るもその10年後に断絶。アイゼンベルクが遺領を相続して1706年にヴァルデック=ピルモントと改称、1712年に帝国諸侯の身分を得ました。
一方ピルモントは、1557年に男系が途絶。婚姻を通じてリッペ伯、さらにグライヒェン伯の所領となります。そのグライヒェン伯が1631年に絶えると、遺領をめぐってヴァルデック伯とパーダーボルン司教とが争い、領土は両者によって分割されました。
神聖ローマ帝国が解体すると、ピルモント伯領を分家に譲って二国に分裂。ヴァルデック侯国は1807年にライン同盟に参加して1812年に断絶。ピルモント伯領は1807年に侯国に昇格し、1812年にヴァルデック侯国を相続してヴァルデック=ピルモントの呼称を復活させ、ライン同盟に参加。ナポレオン体制崩壊後はドイツ連邦に加わります。しかし、1866年の普墺戦争の結果、プロイセン王国の管理下に置かれ、政治的独立を失いました。1871年にドイツ帝国が誕生すると、その構成国の一つとして、1918年まで続きました。
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Waldecker Stern
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【ヴァルデックの星】
金地に8個の尖端を持つ黒色の星。ヴァルデック一族を表す紋章で、ヴァルデックの星と呼ばれるそうです。シュヴァレンベルク伯の金地に赤い星の紋章に由来します。
In Gold ein achtstrahliger schwarzer Stern.
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Kleines Staatswappen
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【小紋章】
侯国の小紋章です。ヴァルデックとピルモントの紋章のみの構成で、19世紀になってから小紋章として用いられました。
Kleines Staatswappen :
Gespalten vorn in Gold ein achtstrahliger schwarzer
Stern (Waldeck), hinten in Silber ein roter
Ankerkreuz (Pyrmont).
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1673-
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【1673年以降】
背後の盾はピルモント、ラッポルトシュタイン、ホーエネック、ゲロルトゼック。この紋章は1850年代の末まで用いられました。
ラッポルトシュタイン、ホーエネック、ゲロルトゼックは、現在のフランス・アルザス地方にあった伯領で、1673年に断絶しました。ヴァルデック伯はラッポルトシュタイン伯の娘と結婚していたため、紋章が加わりました。また、ラッポルトシュタイン伯領を相続した、プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト家(のちのプファルツ=バイエルン選帝侯家)ともその後2代にわたって妃を迎えたため、同家の断絶後はラッポルトシュタイン伯の称号を受け継ぎました。
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1859? -
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【1859年頃以降】
1850年代の末、59年頃に、二つあるゲロルトゼックの紋章の片方が、トンナ領主領の青地に白色のライオンの紋章に置き換えられました。
トンナはピルモント伯を兼ねていたグライヒェン伯の領土です。ヴァルデックは1621年にグライヒェン伯と相続協定を結んでピルモントの相続を取り決めました。ピルモント以外の領地はザクセン=ゴータ公やシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯らによって相続され、トンナはザクセン=ゴータ領となりました。
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【ヴァルモデン=ギンボルン伯領】 Grafschaft
Wallmoden-Gimborn (1783-1806)
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Wappen (1783) :
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : geteilt, oben engrische Earl-Coronet,
unten von Wendt (Countess of Yarmouth - Mutter des
Grafen Johann Ludwig).
Hauptschild : 1 & 4. Familienwappen Wallmoden,
2. Gimborn, 3. Neustadt / Wied.
1631 Herrschaft Gimborn-Neustadt
1682 Grafschaft
1783 Grafschaft Wallmoden-Gimborn
1806 mediatisiert
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中央の小盾は英国伯爵冠とヴェント家(初代伯の母の生家)。背後の盾は、ヴァルモデン、ギンボルン、ノイシュタット/ヴィート。盾上の冠は英国子爵冠です。ヴェント家の紋章は、3個のヘルメットを上2個、下1個で描くのですが、ここでは2個となっています。
ベルク伯からマルク伯に質入れされた小領土が起源です。1550年に婚姻を通じてギンボルン宮殿を獲得したシュヴァルツェンベルク男爵家(1670年に帝国諸侯)が、ユーリヒ継承戦争や三十年戦争を利用して領邦支配権を強化し、ギンボルン=ノイシュタット領主領が成立しました。次いで1631年に帝国直属の領邦となり、1682年に伯領に昇格します。
シュヴァルツェンベルク家は1782年に伯領をハノーファーの将軍ヨハン・ルートヴィヒに売却。ヨハン・ルートヴィヒは翌1783年に帝国等族の身分を得てヴァルモデン=ギンボルン伯を名乗りました。彼は英王ジョージ2世と愛人アマーリエ・ゾフィー(ニーダーザクセン貴族のヴァルモデン伯アダム・ゴットリープの妃で1739年に英国ヤーマス女伯。彼女の祖母も英王ジョージ1世の愛人でした)との間に生まれた私生児で、1776年に異父兄が没すると、ヴァルモデン家を継いでいました。彼はまた、1799年にシャウムブルク=リッペ伯ゲオルク・ヴィルヘルムの後見人となり、1807年まで同伯領を統治しました。
伯領は1806年に主権を失い、領土はベルク大公国に併合されました。
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【ヴェスターブルク伯領】 Grafschaft
Westerburg
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赤地に金色の十字架。赤地の部分には金色の小十字が配されています。
ヴェスターブルクはトリーア選帝侯国とヴィート伯領、ナッサウ伯領などに囲まれた小さな伯領です。1227年にルンケル領主家から分かれて成立しました。ヴェスターブルク家はライニンゲン=ライニンゲン家の女子相続人との結婚を通じて領土を相続し、1467年(1475年とも)にライニンゲン=ヴェスターブルク伯を名乗りました。
In Rot ein goldenes Kreuz, begleitet je von 5
goldenen Kreuzchen.
1227 Herrschaft Westerburg
1467 Grafschaft Leiningen-Westerburg
1557 Erbteilungen > Leiningen-Leiningen (1705
erloschen), Leiningen-Westerburg (1597 erloschen)
und Leiningen-Westerburg-Schaumburg
1695 Erbteilungen > Leiningen-Altleiningen und
Leiningen-Neuleiningen
1806 mediatisiert
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【ライニンゲン=ヴェスターブルク伯領】 Grafschaft
Leiningen und Westerburg (1467-1806)
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ライニンゲン=ライニンゲンとヴェスターブルクの組み合わせ。ライニンゲン=ライニンゲン伯は1779年に帝国諸侯に昇格したハルテンブルク系とは1306年頃に分かれました。紋章はハルテンブルク系とは異なり、レイブルを描かないのが基本です(描かれることもあります)。
ライニンゲン=ライニンゲン伯はヘッソ(在位1437−67)の代で男系が絶え、彼の妹と結婚したヴェスターブルク家が遺領を相続し、ライニンゲン=ヴェスターブルク家が誕生しました。
Geviert 1. & 4. Leiningen-Leiningen, 2. &
3. Westerburg.
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Leiningen-Westerburg-Schaumburg
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【ライニンゲン=ヴェスターブルク伯領(2)】
中央にシャウムブルクの紋章が組まれました。
ライニンゲン=ヴェスターブルクは1557年に3家に分かれ、長兄脈のライニンゲン家は1705年、次兄脈のヴェスターブルク家は1597年に絶えました。唯一、弟脈のシャウムブルク家が家系を保ち、1695年にライニンゲン=ヴェスターブルク=グリュンシュタット(アルトライニンゲン、クリストファー家とも)とライニンゲン=ヴェスターブルク=ヴェスターブルク(ノイライニンゲン、ゲオルク家とも)に分かれて続きます。1806年の帝国解体で共に主権を失い、領土はベルクとヘッセン=ダルムシュタットの両大公国に併合されました。
Herzschild : Schaumburg : In Gold ein blaues
Kreuz.
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【ヴィート侯国】 Fürstentum
Wied-Neu-Wied (1784-1806)
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Wappen (19. Jh.) :
Zweimal gespalten und dreimal geteilt mit
Herzschild.
1.&12. Gft. Wied, 2. in Blau ein
silberner Turm (Runkel : aus Helmzier?),
3.&10. H. Runkel, 4.&9. Gft.
Isenburg, 5. Herzschild : in Gold ein
radschlagender Pfau (Wied : aus
Helmzier?), 6. Gft. Sayn, 7. ?, 8. Gft.
Kirchberg, 11. Bgft. Kirchberg.
9 Jh. Grafschaft entstand
1698 Erbteilungen > Wied-Neu-Wied ind
Wied-Runkel
1784 Fürstentum Wied-Neu-Wied
1806 mediatisiert
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盾の構成は1784年の神聖ローマ帝国の帝国諸侯昇格時に定まりました。その後1835年に、天使の盾持ちと、紋章ローブ、ヘルム&クレスト、モットーで飾り立てられた現在の構成が制定されました。
9世紀の半ば頃に伯領が成立しました。領土はコブレンツの北西のライン川右岸に広がっていました。ヴィート伯は後に現在のノイヴィート市を建設し、そこを首府とします。13世紀の末に初代の伯家が断絶すると、イーゼンブルク伯の一族が領土を相続しました。しかし、イーゼンブルク=ヴィート家も1454年に男系が途絶。伯の一人娘アナスタシアとルンケル領主ディートリヒ4世の間に生まれた息子フリードリヒが伯家を継承しました。
ルンケル系ヴィート家は1698年にヴィート=ノイヴィートとヴィート=ルンケルに分かれ、前者は1784年に、後者は1791年に神聖ローマ帝国の諸侯となります。しかし、両家とも1806年の帝国解体時に主権を喪失、ノイヴィートはナッサウに、ルンケルはナッサウとベルクに併合されました。
なお、主権喪失後のノイヴィート家からは、ルーマニア王妃となったエリーザベトや、ヨハン・アウグスト(在位1802−1806年)の孫で1913年にアルバニア王に選出されたヴィルヘルムが出ています。
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金地に4本の赤色の斜め帯を置いた盾に孔雀。ブレーゾンでは盾地を8回分割(=9分割)したと説明されているので、分割図形とすべきかもしれません。孔雀の彩色は自然色です。違和感のない実物に近い青色で描かれることが多いです。全身を青一色で塗ったり、尾羽を「孔雀の羽らしく」表現するなど、描き方にはバリエーションがあります。
In achtmal Gold-Rot schrägrechts geteiltem Feld
ein natürlicher Pfau.
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1591-1784
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【1784年まで】
16世紀の末頃に、孔雀の向きが逆転されました。紋章学上のルールに違反しますが、1784年までの約300年間修正されませんでした。
bis 1784 : In achtmal Gold-Rot schrägrechts
geteiltem Feld ein abgewandter natürlicher
Pfau.
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1482-
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【1482年】
ルンケル領主家が伯家を継承してからの紋章です。この時期のヴィートの紋章は、盾地は赤と金で斜めに6分割されていたようです。
銀と赤で4分割した盾地に、青色のカントン(向かって左上隅の、盾地の4分の1の面積の四角)を置いた紋章は、ルンケル領主領の紋章です。ルンケルの紋章も後に変更されました。
Feld 1 und 4 : Wied - fünfmal Gold-Rot schrägrechts
geteiltem Feld ein natürlicher Pfau.
Feld 2 und 3 : Runkel - dreimal Silber-Rot geteilt,
Freifiertel blau.
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c.a. 1500
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【1500年頃】
ヴィートの紋章の盾地が分割ではなく、金地に赤い4本の斜め帯を置いた図形に変更されました。
また、ルンケルの紋章も、盾地は分割ではなく、赤色の細い縦帯を置いた図形に変更されました。左上隅のカントンも、盾の面積の4分の1から9分の1に変更されました。
Feld 1 und 4: Wied - achtmal Gold-Rot schrägrechts
geteiltem Feld ein natürlicher Pfau.
Feld 2 und 3: Runkel - in Silber zwei rotes Pfähle,
Obereck blau.
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c.a. 1562
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【1562年頃】
向かって左下に、イーゼンブルク伯の紋章が加わりました。
この構成は一族のケルン選帝侯フリードリヒ4世〔在位1562−67)の紋章に登場するのが初見で、正確な使用開始時期は不明だそうです。
Feld 3 : Grafschaft Isenburg - In Silber zwei rote
Balken.
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1591
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【1591年】
ヨハンネス・ヴィルヘルム(在位1591−1633)が制定した紋章です。
伯領を構成する三つの領土(ヴィート伯領、ルンケル領主領、イーゼンブルク伯領)の紋章を組み合わせ、斜め帯の方向と孔雀の向きを逆にして描きました。
ヴィートの紋章の斜め帯が5本なのも、大きな特徴です。
Feld 2 : In zehnmal gold-rot schrägrecht
geteiltem Feld ein abgewandter natürlicher
Pfau.
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bis 1769
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【1769年まで】
ヴィート伯家は16世紀にノイヴィートを建設し、家名を変更しました。1693年にルンケル家を合わせますが、1698年にノイヴィートとルンケルに再分裂しました。基本的な紋章配置は両家とも共通していました。
ルンケルの紋章のカントンは、幅が1/2の短い帯のような図形で表現されることもありました。
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1765-1779
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【1765−1779年】
中央にクリーヒンゲン伯の紋章を組み込みました。中間の盾がクリーヒンゲン伯の紋章で、クリーヒンゲン(銀地に赤色の横帯)とピッティンゲン(赤地に金色の錨形十字)の紋章を組み合わせています。中心盾のライオンは詳細不明です。
クリーヒンゲンはロレーヌ地方にあった伯領で、15世紀に婚姻を通じてピッティンゲン領主領と結合し、1697年に断絶しました。伯領はノイヴィート伯家の領土に加わったので、紋章が組み込まれたようです。なお、クリーヒンゲン伯領は、1801年のリューネヴィルの和約によって、フランス領となりました。
Mittelschild : Grafschaft Criechingen - geviert 1
& 4 Gft. Criechingen, 2 & 3 H. Pittingen (Püttlingen).
Herzschild : in Blau ein Löwe (?).
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1779-1784
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【1779−1784年】
帝国諸侯昇格直前のおよそ5年間用いられた紋章です。中央の小盾の羽を広げた孔雀はヴィート伯のクレストを、また、背後の盾の向かって左上の塔はルンケル領主のクレストを図案化したようですが、明確な由来はわからないそうです。
この紋章制定直後の1784年、ノイヴィート家は帝国諸侯に列し、ルンケル家も1791年に帝国諸侯に昇格します。
Herzschild : in Gold ein auffliegender Pfau
(Wied),
Hauptschild : 1. in Blau ein silberner Turm
(Runkel), 2. in Silber zwei rote Balken (Isenburg),
3. in Blau ein Löwe (?), 4. in Silber ein roter
Balken (Gft. Criechingen), 5. in Rot ein goldener
Ankerkreuz (H. Pittingen / Püttlingen), 6.
Wied, 7. Runkel.
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1784-
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【1784年以降】
帝国諸侯に昇格すると、紋章が大きく変更されました。ヴィートの紋章の孔雀が正しい向きに直されたのも大きな特徴です。組まれている紋章は、中央の小盾がヴィート。背後の盾は、ヴィート、ルンケル(クレスト)、ルンケル(本来の紋章)、イーゼンブルク、ザイン、不明(小盾はホンブルクのようです)、キルヒベルク城伯(3本の黒い縦帯)、キルヒベルク伯(黒いライオン)。
初代侯となったヨハン・フリードリヒ・アレクザンダー・クリスティアン(伯:1737−84、侯1784−91)の妃カロリーネはキルヒベルク城伯家の出身で、同家は婚姻を通じてザイン=ハヒェンブルク伯領を獲得し、ザイン=ヴィトゲンシュタイン伯を名乗りました(ザイン=ハヒェンベルク女伯エルネスティーネの娘と結婚したため)。カロリーネの兄弟達は男子後継者に恵まれず、1799年に男系が絶えています。キルヒベルクおよびザイン関係の紋章はこの妃の血縁から取り入れられたようです。
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【ヴィトゲンシュタイン伯領】 Grafschaft
Wittgenstein
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銀地に2本の黒の縦帯。
伯領は13世紀半ばに成立しました。1382年頃のジークフリート(4世)の死で男系が絶えると、伯の祖父ジークフリート3世の外孫(娘の子)のザイン伯ヨハン4世が伯領を相続し、ザイン=ヴィトゲンシュタイン伯家が誕生しました(1384年)。以後、伯領はザイン伯領と結合します。
In Silber zwei schwarzes Pfähle.
1382 erloschen
1384 Union mit der Grafschaft Sayn
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