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- (4)帝国西部の諸邦(A−M)
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16世紀前半の神聖ローマ帝国西部
現在のノルトライン=ヴェストファーレン州、ラインラント=プファルツ州、ヘッセン州の地域にあった国々です
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掲載一覧です Liste (A -
M)
(N -
Z)
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アレンベルク公国
ベルク公国
ベルク大公国
ブランケンハイム伯領
コルヴェイ修道院領・司教領
ダウン伯領
エッセン女子修道院領
ユーリヒ=ベルク公国
ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公国
クレーヴェ伯領・公国
クレーヴェ=マルク公国
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ケルン大司教領・選帝侯国
ケルン市
マンダーシャイト伯領
マンダーシャイト=ブランケンハイム伯領
マンダーシャイト=ゲロルシュタイン伯領
マンダーシャイト=カイル伯領
マンダーシャイト=シュライデン=ヴィルネブルク伯領
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マルク伯領
メッテルニヒ=ヴィンネブルク侯国・伯領
ヴィンネブルク=バイルシュタイン領主領
メッテルニヒ=ヴィンネブルク=オシェンハウゼン侯
メールズ伯領
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Arenberg
(Hzm.)
Berg (Hzm.)
Berg (Ghzm.)
Blankenheim
(Gft.)
Corvey (Abtei,
Bm.)
Daun (Gft.)
Essen (Abtei)
Jurich-Berg
(Hzm.)
Julich-Kleve-Berg
(Hzm.)
Kleve (Hzm, Gft.)
Kleve-Mark (Hzm.)
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Köln
(Erzbm.)
Köln
(Rs.)
Manderscheid
(Gft.)
Manderscheid-Blankenheim
(Gft.)
Manderscheid-Gerolstein
(Gft.)
Manderscheid-Kayl
(Gft.)
Manderscheid-Schleiden-Virneburg
(Gft.)
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Mark (Gft.)
Metternich-Winneburg
(Fsm, Gft.)
Metternich-Winneburg-Ochsenhausen
(Fsm.)
Moers (Gft.)
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Abkürzungen :
Kgr.= Königreich, Ghzm.=
Grossherzogtum, Hzm.= Herzogtum, Kfsm.=
Kurfürstentum, Fsm.= Fürstentum
Mgft.= Markgrafschaft, Lgft.=
Landgrafschaft, Bgft.=Burggrafschaft,
Fgft.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft,
Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.=
Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum
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【アレンベルク公国】 Herzogtum
Arenberg (1644-1810)
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Wappen :
In Rot drei 2:1 goldene Rosen mit rotem
Samen und goldenem Bart.
12 Jh. Herrschaft Arenberg
1549 Grafschaft
1576 Fürstentum
1644 Herzogtum
1810 mediatisiert
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赤地に3個の金色の薔薇。盾持ちはライオンとグリフォンで、配置が逆転したり、前方ではなく振り返った姿勢などのバリエーションがあります。
アレンベルクは12世紀頃に成立し、領主家はケルン城伯を兼ねていました。13世紀に男系が絶えると、女子相続人と結婚したマルク伯の子孫が領地を継承しました。
そのマルク家も1544年に男系が途絶。女領主マルガレーテ(在位1544−96)は1547年にド・リニュー家のヨハン(ジャン)3世と結婚し彼を共同君主に据えます。ヨハン3世は皇帝カール5世に仕えてスペイン軍の将軍となっていた人物で、1549年に帝国伯に、その息子カールは1576年に帝国諸侯に列せられました。その後、1644年に公国に昇格します。
1801年のリューネヴィルの和約によって領土をフランスに奪われますが、1803年に旧ミュンスター大司教領の西部を獲得し、エムス川右岸に大きな領国を形成しました。1810年にフランスに領土を併合され公国は消滅。ウィーン会議でも公国の再興が承認されず、最終的に主権を喪失しました。
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【アレンベルク】
赤地に3つの金色の薔薇。この紋章単独で用いられることが多いです。
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1547-
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【1547年以降】
中央の小盾はリニュー、バルバンソン。背後の盾はアレンベルク、マルク。
16世紀の後半から用いられた紋章です。中央の小盾はアレンベルクを継承したリニュー家の紋章です。
しかし、肖像画やアレンベルク公国発行の貨幣に描かれた例を見るかぎり、アレンベルクのみの紋章が用いられることが多かったようです。
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Ligne - geviert 1 &
4. Ligne, 2 & 3. Fh. Barbançon,
Hauptschild : 1 & 4. Arenberg, 2 & 3. der
Marck.
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- 歴代領主・侯 Herren
und Fürsten von Arenberg
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Margarethe (1544-1599)
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【アレンベルク女伯】マルガレーテ(在位1544−96)
女性用の菱形の盾の向かって左側が夫ヨハン(ジャン)の実家リニュー家、向かって右側がマルガレーテの家系、マルクの紋章。いわゆる結婚紋章です。
アレンベルク領主ロベルト3世の妹で、兄の死で領土を相続し、1547年にバルバンソン男爵ジャン・ド・リニュー(ヨハン3世)と結婚して新アレンベルク家を興しました。
彼女はその死まで、夫や息子と共同君主の地位にありました。
Margarethe von der
Marck-Arenberg (1527-1599)
Tochter des Herrn Robert II. von der Marck.
1547 verheiratet mit Johann von Ligne, Baron von
Barbançon (General der spanischen
Armeen).
1544-1549 Herrin von Arenberg
1549-1599 Gräfin von Arenberg (seite 1576 gefürstetegräfin)
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Karl (1568-1616)
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【アレンベルク侯】カール(伯:1568−76、侯:1576−1616)
マルガレーテとヨハン3世の息子で、1568年に父が戦死するとその跡を継ぎ、軍人および外交官として活躍しました。1576年に帝国諸侯に列せられ、初代アレンベルク侯となりました。
Karl (1550-1616)
Sohn des Grafen Johann von Ligne und dessen
Gemahlin Margarethe Gräfin von Arenberg .
1568-1576 Graf von Arenberg
1576-1612 Fürst von Arenberg
1586 Ritter des Ordens vom Goldenen Vlies
(Nr.268)
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【ベルク公国】 Herzogtum
Berg (1093-1380 Grafschaft)
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銀地に舌と爪が青で、青の冠を被った尾が二本の赤いライオン。初期には爪や冠が金色のバリエーションも見られます。15世紀には青色に塗られるようになりました。
11世紀初頭に記録に登場し、1093年に伯領となりました。1218年にアドルフ6世が没すると、一人娘のイルムガルトが女伯に即位し(在位1218−48)、前年に結婚したリンブルク公ハインリヒ4世(ヴァルラム3世の息子)を共同統治者としました(ベルク伯としてはハインリヒ2世)。しかしリンブルク公の統治を嫌った領邦等族は、アドルフ6世の弟でケルン大司教のエンゲルベルトを対立伯に擁立し、イルムガルト夫妻の入国を拒否しました。夫妻はエンゲルベルトが没した1225年になってようやく迎え入れられ、リンブルクとの連合が実現しました。こうした経緯によって、リンブルクの紋章がベルクの紋章にもなったようです。
In Silber ein blau gekrönter, bewehrter und
gezungter roter Löwe mit Doppelschweif.
Alte Farben : In Silber ein Gold gekrönter,
bewehrter und gezungter roter Löwe mit
Doppelschweif.
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Variante
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【バリエーション】
尾が一本のライオンも使われました。ベルク大公国やプロイセン王国、およびザクセン諸国の紋章などに登場します。
Variente : In Silber ein blau gekrönter,
bewehrter und gezungter roter Löwe.
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1360-
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【1360年以降】
金地に黒色のライオンはユーリヒ。中央の小盾はラーヴェンスベルク伯領。ヴィルヘルム2世(在位1360−80)以降の紋章です。
ヴィルヘルム2世は父の死後、ラーヴェンスベルク女伯だった母マルガレーテと共にベルク伯に即位し、翌年に単独の伯となります。1380年には公に昇格しました(ベルク公在位1380−1408)。
ベルクとユーリヒは1348年以来たびたび合同します。1423年に完全に結合し、ユーリヒ=ベルク公国が誕生します。
Seit 1360 : Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Gft. Ravensberg,
Hauptschild : 1 & 4. Hzm. Jülich, 2 &
3. Gft. Berg
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【ベルク大公国】 Grossherzogtum
Berg (1806-1808)
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Wappen (1806) :
Auf gekröntem Wappenmantel der mit
Band und Grosskreuz der Ehrenregion
behangene Schild, vor zwei gekreuzten
Marschallstäben.
Gesplalter Hauptschild mit aufgelegtem
schwarzen Doppelanker und Herzschild.
Herzschild : in Blau ein stehender
linksgewendeter goldener Adler
(Bonaparte).
Hauptschild : gespalten, belegt mit einem
schwarzen Doppelanker (Grossadmiral von
Frankreich), vorne in Silber ein blau gekrönter,
bewehrter und gezungter roter Löwe
(Berg), hinten in Rot ein silberner
Schildchen, belegt mit einem goldener
Lilienhaspel (Kleve).
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盾の背後のバトンはフランス帝国元帥杖。勲章はレジオン・ド・ヌール(帝政時代)です。
フランス皇帝ナポレオン1世は1806年にバイエルンからベルク公国を取り上げ、これにユーリヒ、クレーヴェ公国などを合わせて大公国とし、義弟ヨアヒム・ミュラに与えました。
この大公国は短命で、1808年にヴェストファーレン王国に吸収され消滅。ヨアヒム・ミュラはナポリ王に転出しました。
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中央の小盾はボナパルト家の紋章。鷲の頭が通常と反対を向いているのが特徴です。
背後の盾はベルク公国とクレーヴェ公国の紋章の組み合わせ。両者に跨るように描かれている黒い錨はフランス海軍元帥を表します。
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【ブランケンハイム伯領】 Grafschaft
Blankenheim
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金地に赤い舌を持つ黒色のライオン。その上に5本足の赤いレイブル。
1395年に領主アルノルト5世が伯位を得て成立しました。しかし、息子ゲルハルト7世の死(1406年)によって男系が途絶。シュライデン領主ヨハン2世に嫁いだ娘ヨハンナの長女エリーザベトが女伯に即位しました(在位1406−63)。伯領は一時ハインスベルク伯(ナッサウ=ザールブリュッケン)の手に渡りますが、エリーザベトの死後は彼女の夫、マンダーシャイト伯ディートリヒ3世が領土を継承しました。
なお、エリーザベトは実家シュライデン領主家の女子相続人でもあったため、1445年に父親が没すると、シュライデン領主領は彼女の嫁ぎ先マンダーシャイト家が相続しました。
In Gold ein rot gezungter schwarzer Löwe, überdeckt
mit einem fünflätzigen roten
Turnierkragen.
1395 Grafschaft entstand
1463 Union mit der Grafschaft Manderscheid
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【コルヴェイ司教領・修道院領】 Reichsstift
(seit 1793 Hochstift) Corvey
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Geteilt von Rot und Gold.
820 Stift gegründet
1793 Hochstift
1802 säkularisiert
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パーダーボルン司教領の東に位置する修道院で、820年頃(815年とも)にベネディクト系修道院として建設されました。コルヴェイという名称は、修道院の建設者の一人、聖アーダルハルトが所属したフランスのコルビー修道院に由来します。
なお、設立から間もない822年に現在地へ移転したため、この年が設立年ともされます。
中世を通じて修道院は重要さを失い、領土も17町村にまで減少し、さらに16世紀、宗教改革運動によっていくつかの集落がプロテスタントに改宗して分離しました。
1793年に司教領に昇格し、1802年に世俗化。領土はオランニェ=ナッサウに併合されました。
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- 歴代修道院長と司教 Fürstbischöfe
und Reichsäbte von Corvey
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Christoph Bernhard von Galen
(Administrator : 1661-1678)
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【コルヴェイ管理人】クリストフ・ベルンハルト(在任1661−78)
中央の小盾は実家ガレン家の紋章で、背後の盾は、コルヴェイ修道院とミュンスター司教(金地に赤色の横帯)、ミュンスター司教支配下の諸領地の紋章が組み合わせられています。
ミュンスター司教軍の拡充に努め、諸国と同盟してたびたび軍事行動を起こしました。とりわけ、大砲を好んだことから、「大砲司教」とあだ名されました。
1661年にコルヴェイ修道院管理人に就任しました。
Christoph Bernhard von Galen
(1606-1678)
Der älteste Sohn des Dietrich von Galen.
1650-1678 Fürstbischof von Münster
1661-1678 Administrator der Abtei Corvey
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Christoph von Bellinghausen
(1678-1696)
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【コルヴェイ修道院長】クリストフ(在位1678−96)
修道院長の実家ベリングハウゼン家の紋章との組み合わせ。
Christoph von Bellinghausen
(-1696)
1678-1696 Fürstabt von Corvey
Feld 2. u. 3. Familienwappen
Bellinghausen.
※彩色が別系のベリングハウゼン家の彩色になっていました。訂正しました(2008.5)
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Florenz von dem Velde (1696ミ1714)
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【コルヴェイ修道院長】フローレンツ(在位1696−1714)
修道院長の実家ヴェルデ家の紋章との組み合わせ。
Florenz von dem Velde
(-1714)
1696-1714 Fürstabt von Corvey
Feld 2. u. 3. Familienwappen dem Velde.
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Maximilian von Horrich (1714ミ1721)
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【コルヴェイ修道院長】マクシミリアン(在位1714−21)
修道院長の実家ホーリヒ家の紋章との組み合わせ。
Maximilian von Horrich
(-1721)
1714-1721 Fürstabt von Corvey
Feld 2. u. 3. Familienwappen Horrich.
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Kaspar II. von Böselager-Hohneburg
(1737-1758)
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【コルヴェイ修道院長】カスパル2世(在位1737−58)
修道院長の実家ベーゼラーガー家の紋章との組み合わせ。
Kaspar II. von Böselager-Hohneburg
(-1758)
1737-1758 Fürstabt von Corvey
Feld 2. u. 3. Familienwappen Böselager.
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Johann Karl Theodor von Brabeck
(1776-94: seit 1793 Fürstbischof)
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【コルヴェイ修道院長・司教】テーオドール(修道院長1776−93:司教1793−94)
実家ブラベック家の紋章との組み合わせ。
長年に渡る交渉の結果、コルヴェイの司教座昇格を実現させ、初代司教となりました。
Johann Karl Theodor Freiherr
von Brabeck (1735-1794)
1776-1793 Fürstabt von Corvey
1793-1794 Fürstbischof von Corvey
Feld 2. u. 3. Familienwappen Brabeck.
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【ダウン伯領】 Grafschaft
Daun
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ダウン(Daun)はアレンベルクとマンダーシャイトの間に位置します。似た綴りのダウン(Dhaun)としばしば混同されますが、Dhaunはダウン森林伯としてザルム伯と結合し、16世紀初頭から1750年までザルム=ダウン伯が存在しました。
一方Daun(zu
Bruch)は15世紀初頭に婚姻によってマンダーシャイト伯と合同したため、この紋章はマンダーシャイト伯の紋章にも登場します。
なお、上記とは別系統のダウン伯もあり、のちにファルケンシュタイン伯となったダウン=オーバーシュタイン家や、13世紀頃にダウン城伯を称し、後にオーストリア大公に仕えて17世紀に帝国伯となった家系などがありました。
In Gold ein rotes Schrägflechtgitter.
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【ダウン伯】
18世紀末の紋章図鑑に載っていた紋章ですが、詳細不明です。盾地を大きく4つに分割し、それぞれの区画に2種類の紋章を縦分割で組んでいます。
青地に二個の百合花紋は、17世紀の紋章図鑑にもダウン伯一門の紋章に描かれていました。その紋章図では、ダウンの紋章にカントン(向かって左上隅1/9の面積の区画)として組み込まれています。
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- 歴代伯 Grafen
von Daun
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Wirich Philipp
(1706-1741)
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【ダウン帝国伯】ヴィーリヒ・フィリップ(在位1706−41)
父同様にオーストリアに軍人として仕え、1707年に元帥に任ぜられました。スペイン継承戦争が勃発すると、オイゲン公麾下の将軍としてトリノ防衛の任にあたり、その後ナポリ副王に就任。1725年からはミラノ総督を務めました。
Wirich Philipp Lorenz
(1668-1741)
Sohn des Grafen Wilhelm von Daun.
1706-1741 Graf von Daun
1710-1741 Fürst von Thiano
1707 Österreichischer Feldmarschall
1713 Vizekönig von Neapel
1725-1734 Statthalter von Mailand
1712 Ritter des Ordens vom Goldenen Vlies
(Nr.634)
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Leopold (1741-1766)
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【ダウン帝国伯】レオポルト(在位1741−66)
父や祖父同様、オーストリア軍人として活躍しました。ポーランド継承戦争、トルコ戦争、オーストリア継承戦争といった主要な戦争に参加、戦後はオーストリア陸軍の改革に携わりました。
七年戦争が始まると、オーストリア軍総司令官として軍を指揮し、コリーン(1755年)、ホーホキルヒ(1758年)の戦いでフリードリヒ大王を撃破し、プロイセン軍をボヘミアから駆逐します。トールガウの会戦(1760年)ではプロイセン軍に敗れましたが、その後も職にとどまり、オーストリアの軍制改革に尽力しました。
Leopold Joseph Maria
(1705-1766)
Der fünfte Sohn des Grafen Wirich Philipp
Lorenz von und zu Daun.
1741-1766 Graf von Daun, Fürst von Thiano
1754 Österreichischer Feldmarschall
1753 Ritter des Ordens vom Goldenen Vlies
(Nr.748)
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【エッセン女子修道院領】 Reichsabtei
Essen
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赤地に葉冠を巻き付けた交差した二本の剣。
852年創立のベネディクト系修道院を元に形成されました。10世紀後半から11世紀前半にかけてはザクセン朝の皇女が女子修道院長に就任し、ザクセン朝断絶後も帝国に影響力を及ぼしました。
女子修道院長は13世紀前半に「Fürstin(=Princess)」の称号で呼ばれたことが知られています。1802年に世俗化されました。
In Rot zwei gekreuzte silberner Schwerter mit
goldenen Griffen von einem grünen Lorbeerkranz
umschlungen.
852 Stift gegründet
1802 säkularisiert
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女子修道院領となった諸領の紋章が組み入れられました。
紋章構成はエッセン女子修道院、ブライジヒ領主領、レリングハウゼン修道院、フッカルデ(ドルトムント)領主領。
Geviert : 1. Stift Essen, 2. H. Breisig, 3. Stift
Rellinghausen, 4. H. Huckarde.
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- 歴代女子修道院長 Fürstinäbtissinen
von Essen
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Anna Salome I. von
Salm-Reifferscheidt (1646-1688)
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【エッセン女子修道院長】アンナ・ザロメ1世(在位1646−88)
女子修道院長の実家、ザルム=ライファーシャイト伯の紋章です。管見では、女子修道院の紋章と組み合わされた例が見あたりませんでした。
ザルム=ライファーシャイト伯エーリヒ・アドルフ(在位1619−73)の妹で、24歳の時に女子修道院長に就任しました。
Anna Salome I. von
Salm-Reifferscheidt (1622-1688)
Das zweite Tochrer des Grafen Ernst
Friedrich zu Salm-Reifferscheidt.
1646-1688 Fürstinäbtissin von Essen
Familienwappen
Salm-Reifferscheidt : geviert mit Herzschild.
Herzschild - Dyck. Hauptschild - 1. gespalten,
vorne Nieder-Salm, hinten Stammwappen
Reifferscheidt, 2. Bedbur, 3. Alfter, 4.
Hackenbroich (in Gold ein silbern gezungter
schwarzer Löwe).
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Anna Salome II. von
Manderscheid-Blankenheim
(1689-1691)
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【エッセン女子修道院長】アンナ・ザロメ2世(在位1689−)
女子修道院長の実家、マンダーシャイト=ブランケンハイム伯の紋章です。
Anna Salome II. von
Manderscheid-Blankenheim (1628-1691)
Das zweite Tochter des Grafen Johann Arnold zu
Manderscheid-Blankenheim.
1689-1991 Fürstinäbtissin von Essen
Familienwappen
Manderscheid-Blankenheim : geviert. 1. Mandescheid,
2. Blankenheim, 3. Schleiden, 4. Daun.
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Franziska Christine von
Pfalz-Sulzbach (1726-1776)
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【エッセン女子修道院長】フランツィスカ・クリスティーネ(在位1726−76)
中央に女子修道院長の実家、プファルツ=ズルツバハの紋章が組まれました。
プファルツ=ズルツバハ公テーオドール・オイスタッハの娘で、プファルツとバイエルン選帝侯を兼ねたカール・テーオドールの伯母にあたります。彼女はオランダにあったトールン女子修道院長も兼任しました(在位1717−76)。
Franziska Christine von
Pfalz-Sulzbach (1696-1776)
Das zweite Tochter des Pfalzgrafen Theodor Eustach
bei Rhein zu Sulzbach.
1717-1776 Fürstinäbtissin von Thorn
1726-1776 Fürstinäbtissin von Essen
Über
dem gevierten Hauptschild ein dreimal gespaltenes
und einmal getailtes Mittelschild mit Herzschild. -
Helzschild : Pfalz, Mittelschild : 1. Bayern, Jürich,
3. Kleve, 4. Berg, 5. Veldenz, 6. Mark, 7.
Ravensberg, 8. Moers.
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【ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公国】 Herzogtum
Jülich-Kleve-Berg
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Wappen (17 Jh.) :
Zweimal gespalten und einmal geteilt.
1. Hzm. Jülich, 2. Hzm. Kleve, 3. Hzm.
Berg, 4. Gft. Mark, 5. Gft. Ravensberg, 6.
Gft. Moers.
1336 Markgrafschaft Jülich
1356 Herzogtum Jülich
1423 Herzogtum Jülich-Berg
1521 Herzogtum Jülich-Kleve-Berg
1609 erloschen
1609-1614 erbforgekrieg
1614 Territorium wird unter Brandenburg
und Pfalz-Neuburg aufgeteilt
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組まれている紋章はユーリヒ、クレーヴェ、ベルク、マルク、ラーヴェンスベルク、メールズ。メールズ以外は婚姻を通じて合同した領土の紋章です。
ユーリヒは11世紀前後に記録に登場する領邦で、皇帝戴冠地であるアーヘンとライン河谷を結ぶ街道を押さえる立地から重要さを増し、1356年に公国に昇格します。その直後にヘルデルラント公国の継承問題に介入し公国を獲得。ネーデルラント方面にも深いつながりを築きました。同じ時期に、婚姻を通じてベルクとも結合し、1423年にユーリヒ=ベルク公国が成立します。次いで婚姻関係にあったクレーヴェとも連合し、ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公国が誕生しました(1521年)。
ヴィルヘルム5世(在位1539−92)は皇帝カール5世からヘルデルラントを要求されたため、対抗手段として姉アンをイングランド王ヘンリー8世に嫁がせ(ホルバインの肖像画「クリーヴスのアン」で有名です)、彼自身もナヴァール女王ジャンヌ3世と結婚します。しかしこの結婚政策はどちらも挫折し、アンは半年で、ヴィルヘルムも4年で婚姻関係が解消しました(ジャンヌ3世はブルボン家のアントワーヌと再婚し、後のフランス王アンリ4世を産みます)。
この失敗に加えて、ネーデルラントにあった領土も1543年にカール5世に奪われてしまったものの、公国の政治的重要性は損なわれませんでした。そのため、1609年にヨハン・ヴィルヘルム1世が男子なく没すると、ブランデンブルクとプファルツの両選帝侯間にユーリヒ継承戦争が勃発。1614年にクサンテン条約が結ばれ、カトリック住民の多いユーリヒとベルクはプファルツ=ノイブルクが、プロテスタントの多いクレーヴェとマルクはブランデンブルクが相続する合意がなされ、公国は分解しました。
なお、分割相続が行われた後も、ユーリヒ=クレーヴェ=ベルクの紋章は引き続き使用されました。
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bis 1511
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【ユーリヒ=ベルク公国】
4分した盾地にユーリヒとベルクの紋章を組み、中央にラーヴェンスベルクの紋章を置きました。本来はベルク公の紋章で、ユーリヒ公の一族であるベルク公がユーリヒを相続したことで、ベルク公の紋章がそのまま取り入れられました。
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1511-1521
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【ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公国】
組まれているのはユーリヒ、クレーヴェ、ベルク、マルク、ラーヴェンスベルク。
1511年にユーリヒ=ベルク公ヴィルヘルム4世が没すると、一人娘マリアの婿でクレーヴェ=マルク公の世継ぎヨハン3世(ユーリヒ=ベルク公:1511−1521、ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公:1521−1539)が公国を継承しました。ヨハンはクレーヴェ公の世継ぎが公国を相続した関係で、クレーヴェ=マルクの紋章が優位に組まれたようです。
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1521-
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【1521年以降】
組まれているのはユーリヒ、クレーヴェ、ベルク、マルク、ラーヴェンスベルク。
ヨハン3世は1521年に父のクレーヴェ=マルク公国をも相続し、名実共にユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公国が誕生しました。
この紋章は16世紀を通じて用いられたようです。
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17 Jh.
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【ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公国】
17世紀に入るとメールズ伯領の紋章が加わります。しかし、それ以前の構成の紋章も、1609年の公国断絶まで並行して使われていました。また、この頃から、本来二本尾のベルクのライオンが一本尾で描かれることが増えてきました。
1609年に最後の君主ヨハン・ヴィルヘルム1世の死をきっかけに「ユーリヒ継承戦争」が勃発。14年のクサンテン条約によってプファルツ=ノイブルクとブランデンブルクによる分割相続が確認されます。
なお、1624年までは両者による共同統治が行われました。
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【クレーヴェ公国】 Herzogtum
Kleve, Kleve-Mark
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赤地に銀の盾と金色の槍花車。
最初の紋章は赤地に銀の小盾のみで、1254年に槍花車が加えられました。銀の小盾は槍花車よりも手前に描かれることもあります。
クレーヴェ伯領は1398年に隣のマルク伯領と合同し、1417年に公国に昇格しました。1511年にはユーリヒ=ベルク公国と結合しました。
1609年に公家が断絶、1614年のクサンテン条約の結果、クレーヴェ公国はマルク伯領と共にブランデンブルク=プロイセンが継承しました。
1398 Grafschaft Kleve-Mark
1417 Herzogtum
1521 Herzogtum Julich-Kleve-Berg
1614 Herzogtum Kleve ging Preussen
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bis 1254
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【1254年まで】
赤地に銀無地の小盾。1254年までの紋章です。
Bis 1254 : In Rot ein silbernes Schildchen.
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1398-1521
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【1398年以降】
縦に二分割された盾地に、クレーヴェとマルクの紋章が並んで組まれました。
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Variente
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【バリエーション】
クレーヴェとマルクの紋章をX字に組んだバリエーションも存在しました。
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【ケルン大司教領・選帝侯国】 Erzstift
und Kurfürstentum Köln
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In Silder ein schwarzes Kreuz.
4 Jh. Bistum gegründet
785 Erzbistum
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銀地に黒い十字架。
4世紀頃に設置された司教座が起源で、カール大帝(シャルルマーニュ)が大司教座に昇格させました(785年)。
オットー大帝の弟ブルーノ1世(在位953−65)の頃から帝国に大きな影響力を持つようになり、ゲロー(在位969−76:のち列聖)はオットー2世の后となるビザンツ皇女テオファノを迎えにコンスタンティノープルに赴きました。大司教はマインツ、トリーア大司教と並んで、帝国に重きをなす聖職諸侯に数えられ、金印勅書によって選帝侯の地位を与えられました。大司教位は、1583年から1761年までバイエルン公一族によって独占されました。
1801年3月にライン左岸の領土をフランスに併合され、同年7月に大司教が死去すると、名ばかりの大司教が4ヶ月在位し、その後は空位のまま、翌1802年の世俗化を迎えました。
ナポレオン体制崩壊後はプロテスタントのプロイセン王国領となるものの、1821年に大司教座が復活し、今日に至ります。
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16 Jh.-
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【16世紀以降】
ケルン大司教領の基本となる紋章構成です。ケルンの支配下にある所領の紋章が組まれました。組まれているのは、ケルン、ヴェストファーレン公、エンゲルン公、アルンスベルク伯です。
ヴェストファーレン、エンゲルン公領はケルン大司教の陪臣領で、どちらも中世ザクセン部族公領の州名です。エンゲルン公領はテクレンブルク伯の旧領土に設置されました。それで、テクレンブルクと色違いの紋章が採用されました。しかしケルン以外の紋章では、テクレンブルクの彩色で描かれることが多いようです。エンゲルンの紋章は、ザクセン各家、アンハルト、プロイセンなどの紋章にも組まれています。
Geviert : 1. Erzbm. Köln, 2. Hzm. Westfallen,
3. Hzm. Engern, 4. Gft. Arnsberg.
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- 歴代大司教・選帝侯 Erzbischöfe-Kurfürsten
von Köln
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Friedrich III. von Saarwerden
(1371-1414)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】フリードリヒ3世(在位1371−1414)
中央に実家ザールヴェーデン伯の紋章が組まれました。
1400年の国王ヴェンツェル廃位とルプレヒト選出を強行したライン4選帝侯の一人です。1410年の二重選挙ではヨプストを支持し、彼を皇帝に選出しました。兄ハインリヒ3世が没すると、その跡を継いでザールヴェーデン伯にもなりました(在位1397−1414)。
Friedrich III. Graf von
Saarwerden (1348-1414)
Der erste Sohn von Graf Johann III. von
Saarwerden.
1371-1414 Kurfürst-Erzbischof von Köln
1397-1414 Graf von Saarwerden
Herzschild : Grafschaft Saarweden.
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Dietrich II. von Moers
(1414-1463)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】ディートリヒ2世〔在位1414−63)
選帝侯の実家メールズ伯の紋章が組まれました。
先代のフリードリヒ3世の甥で、伯父の後任で大司教に就任し、翌年からはパーダーボルン司教領の管理人を兼ねました。
Dietrich II. Graf von Moers
(1385-1463)
Der dritte Sohn des Grafen Friedrich III. von Moers
und Neffe des Erzbischofs Friedrich III. von
Saarwerden.
1414-1463 Kurfürst-Erzbischof von Köln
1415-1463 Als Dietrich III. Administrator des
Bistums Paderborn
Feld 2. u. 3. Grafschaft Moers.
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Ruprecht von der Pfalz
(1463-1480)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】ルードブレヒト(ルプレヒト)〔在位1463−80)
選帝侯の実家プファルツ(黒地に金色のライオン)とバイエルン(青と銀の斜め菱形)との組み合わせ。
プファルツ選帝侯ルートヴィヒ3世(神聖ローマ王ヨプストの息子)の4男で、ディートリヒ2世の死を受けて、後任の大司教に選出されました。諸都市から教会権力の制限を要求されたため、1475年にノイス市を攻撃、兄のプファルツ選帝侯フリードリヒ1世無敵侯の支援のもと、教会フェーデを開始しました。その後、ブルゴーニュ公シャルル豪胆侯にも軍事支援を仰いだものの、1478年に敗北。捕虜となり、解放されずに死去しました。
Ruprecht von der Pfalz
(1427-1480)
Der vierte Sohn des Kurfürsten Ludwig III. bei
Rhein.
1463-1480 Kurfürst-Erzbischof von Köln
Feld 2. Pfalz, Feld 3. Bayern.
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Hermann IV. von Hessen
(1480-1508)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】ヘルマン4世〔在位1480−1508)
銀と赤のストライプのライオンはヘッセン。黒金の横分割の盾地の上に銀色の星を置いた紋章はツィーゲンハイン。両方とも選帝侯の実家ヘッセン方伯領の紋章です。なお、ツィーゲンハインの紋章の位置にニダの紋章(星が二つになります)を組んだバリエーションも見ありました。
ヘッセン方伯ルートヴィヒ1世の息子で、1473年にケルン大司教区代理人に任命されました。ブルゴーニュ公シャルルのノイス包囲では防衛を担当しました。大司教ルプレヒトが捕虜となると、大司教の代理を務め、ルプレヒトの死後、正式に選出されました。1495年にパーダーボルン司教代理に就任し、1498年に同司教に選出されました(パーダーボルン司教1498−1508)。
Hermann IV. Landgraf von
Hessen (-1508)
Der dritte Sohn des Landgrafen Ludwig II.
von Hessen.
1480-1508 Kurfürst-Erzbischof von Köln
1495-1498 Koadjutor des Fürstbischofs von
Paderborn
1498-1508 Fürstbischof von Paderborn
Feld 2. Hessen, Feld 3. Ziegenhain.
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Philipp II. von Daun-Oberstein
(1508-1515)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】フィリップ2世〔在位1508−15)
中央に組まれているのは、選帝侯の実家、ダウン=オーバーシュタイン家の紋章です。
彼の実家はダウン=ファルケンシュタイン家を称していました。ダウン=オーバーシュタインを称したのは彼の兄メルヒオールですが、この家名は短命だったようです。16世紀の初頭頃、メルヒオールはファルケンシュタイン伯位を得たため、以後の同家はファルケンシュタイン家とも呼ばれるようになります。
Philipp II. Graf von
Daun-Oberstein (1463-1515)
Der vierte Sohn des Grafen Wirich IV. von
Daun-Oberstein.
1508-1515 Kurfürst-Erzbischof von Köln
Herzschild : Daun.
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Adolf III. von Schaumburg
(1547-1556)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】アドルフ3世〔在位1547−56)
中央に組まれているのは、選帝侯の実家シャウムブルク伯家の紋章です。
1533年にケルン大司教補佐およびケルンにある聖ゲレオン修道院長に就任し、1546年には、大司教ヘルマン5世の退位に伴い、ケルン摂政に就任しました。
翌1547年に大司教兼選帝侯に即位すると、前任者ヘルマン5世の行った改革の多くを白紙に戻しました。
1556年に死去。後任には実弟のアントンが選ばれました。
Adolf III. Graf von
Schaumburg (1511-1556)
Sohn des Grafen Jobst von
Schaumburg-Holstein-Pinneberg.
1547-1556 Kurfürst-Erzbischof von Köln
Herzschild : Grafschaft Schaumburg.
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Johann Gebhardt von Mansfeld
(1558-1562)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】ヨハン・ゲプハルト(在位1558−62)
中央に組まれているのは選帝侯の実家、マンスフェルト伯家の紋章です。
ゲプハルト1世と呼ばれることもあります。
マンスフェルト=フォルダーオルト伯エルンスト2世の十六男で、1558年7月26日に大司教に選出されました。しかし、所属司教区の全聖職者の支持を集めたわけではなく、就任直後は大きな混乱が起こりました。
1560年前後から所轄司教管区の再建に取りかかりました。
Johann Gebhardt Graf von
Mansfeld (?-1562)
Der sechzehnte Sohn des Grafen Ernst II. von
Mansfeld-Vorderort.
1558-1562 Kurfürst-Erzbischof von Köln
Herzschild : Grafschaft Mansfeld.
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Friedrich IV. von Wied
(1562-1567)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】フリードリヒ4世〔在位1562−67)
中央に組まれているのは選帝侯の実家、ヴィート伯家の紋章です。実家ヴィート伯は16世紀半ばに紋章を変更したようで、その変更を確認できる最も古い資料が、フリードリヒ4世の紋章です。
1562年に選帝侯に即位。しかし、ローマカトリック教会からの聖職封は受けられませんでした。その経緯もあって、1567年に退きました。大司教退任の翌年に没しました。
Friedrich IV. Graf von Wied
(1518-1568)
Sohn des Grafen Johann III. von Wied.
1562-1567 Kurfürst-Erzbischof von Köln
Herzschild : Grafschaft Wied.
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Salentin von Isenburg-Grenzau
(1567-1577)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】ザレンティン〔在位1567−77)
中央に選帝侯の実家イーゼンブルク=グレンツァウ伯の紋章が組まれました。
ザレンティンはケルンやマインツの聖堂参事会員を務めた後、ケルン大司教に選ばれますが、大司教就任をめぐって、ローマ教皇との間で騒動がありました。
彼はまた、長兄の死後、次兄と共にイーゼンブルク=グレンツァウ伯になっていたので(在位1565−1610)、その地位を利用してパーダーボルン司教位を画策し、1574年に同司教にも就任します。しかし、1577年に兄が嗣子を残さず没したので還俗し、以後はイーゼンブルク伯として活動しました。
後任のケルン大司教ゲプハルト1世がプロテスタントに改宗し、ケルン戦争を開始すると、ケルン参事会の要請で事態の収拾にあたりました。
Salentin Graf von
Isenburg-Grenzau (1532-1610)
Der zweite Sohn des Grafen Heinrich von
Isenburg-Grenzau.
1567-1577 Kurfürst-Erzbischof von Köln
1574-1577 Fürstbischof von Paderborn
1565-1610 Als Salentin VIII. Graf von
Isenburg-Grenzau (bis 1577 Co-Graf mit seinem älteren
Bruder Arnold)
Herzschild : Grafschaft
Isenburg-Grenzau.
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Gebhard I. von Waldburg
(1577-1583)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】ゲプハルト1世(在位1577−83)
中央に選帝侯の実家ヴァルトブルク男爵家の紋章が組まれました。
前大司教ザレンティンの還俗にあたり、後任に指名されました。厳格な宗教者でしたが、やがてプロテスタントの女子聖堂参事会員アグネスと恋に落ちます。このことを知ったアグネスの兄・マンスフェルト=アイスレーベン伯エルンストは、ゲプハルト1世に二人の関係を公式に認めるよう迫りました。
これによって立場を悪くしたゲプハルト1世は、1582年にプロテスタントに改宗し、アグネスと結婚します。同時に大司教領を世俗侯国に変えて自身が保持しようと図りますが、聖堂参事会やケルン市の抵抗によって挫折。ここに至って、皇帝と教皇はそれぞれ選帝侯位と大司教位を剥奪します。ゲプハルト1世は新大司教エルンストとの戦争にも敗れ、ケルンを去りました(1601年に没)。
Gebhard I. Reichsfreiherr von
Waldburg (1547-1601)
Der zweite Sohn des Freiherrn Wilhelm von
Waldburg.
1577-1583 Kurfürst-Erzbischof von Köln
Herzschild : Familienwappen Waldburg.
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Ferdinand von Bayern
(1612-1650)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】フェルディナント(在位1612−50)
選帝侯の実家バイエルンの紋章が中央に組まれました。
同じヴィテルズバハ家出身のエルンストの後任として選帝侯に就任しました。三十年戦争中の1636年に「プラハの和約」が結ばれると、彼は皇帝にもフランス=スウェーデンにも与しない第三勢力を帝国内に築こうと奔走します。帝国の平和維持組織(軍事行政管区)だった各地のクライスに共同戦線を呼びかけ、戦争の抑止を図ると共に講和の道を探りました。
Ferdinand Herzog von Bayern
(1577-1650)
Sohn des Herzogs Wilhelm V. von Bayern.
1595-1650 Fürstpropst von Berchtesgaden
(1591-1595 Koadjutor)
1596-1612 Koadjutor des Erzbischofs von Köln
1599-1612 Koadjutor des Fürstabtes von
Stablo-Malmedy
1602-1612 Koadjutor des Fürstbischofs von Lüttich
1611-1612 Koadjutor des Fürstbischofs Münster
und Hildesheim
1612-1650 Kurfürst-Erzbischof von Köln, Fürstbischof
von Hildesheim, Münster und Lüttich, Fürstabt
von Stablo-Malmedy
1618-1650 Fürstbischof von Paderborn (1612-1618
Koadjutor)
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Maximilian Heinrich von Bayern
(1650-1688)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】マクシミリアン・ハインリヒ(在位1650−88)
ヴィテルズバハ家出身の先代、フェルディナントと同じ紋章です。
1683年からはミュンスター司教を兼ねました。
1672年、フランス王ルイ14世がネーデルラント戦争を開始するとこれに協力し、ミュンスター司教クリストフ・ベルンハルトと共に2万の軍勢を提供しました。しかし、オランダ、スペイン、神聖ローマ皇帝、ブランデンブルク選帝侯らによる対仏同盟(ハーグ条約。1674年)結成によって孤立し、オランダとの和睦に追い込まれました。
Maximilian Heinrich Herzog
von Bayern (1621-1688)
Der dritte Sohn des Herzogs Albrecht VI. von
Bayern-Leuchtenberg.
1630-1650 Koadjutor des Fürstpropstes
Berchtesgaden
1633-1650 Koadjutor des Fürstbischofs
Hildesheim
1642-1650 Koadjutor des Erzbischofs von Köln
1650-1688 Kurfürst-Erzbischof von Köln, Fürstbischof
von Hildesheim und Lüttich (Liège), Fürstpropst
von Berchtesgaden
1650-1660 Fürstabt von Stablo-Malmedy
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Joseph Klemens von Bayern
(1688-1723)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】ヨーゼフ・クレーメンス(在位1688−1723)
中央に選帝侯の実家バイエルンの紋章が置かれ、背後に選帝侯が兼務した各聖職諸侯領の紋章と、ケルン選帝侯国を構成する各領土の紋章が組まれています。構成は、ケルン、フライジング司教、レーゲンスブルク司教、ベルヒテスガーデン修道院長、ヴェストファーレン公、エンゲルン公、アルンスベルク伯です。
バイエルン選帝侯フェルディナント・マリアの息子で、フライジング司教(在位1685−94)、レーゲンスブルク司教(在位1985−1716)、ベルヒテスガーデン修道院長(在位1688−1723)、リェージュ司教(在位1694−1723)、ヒルデスハイム司教(在位1702−23)を兼ねました。1694年にヒルデスハイム司教代理となると、レーゲンスブルクとフライジング両司教領の官庁をヒルデスハイムの下位に置いたため、両司教領の反発を招きました。結果、司教任期の満了に伴う再選挙に敗北、フライジング司教位を失いました。
Joseph Clemens Kajetan Herzog
von Bayern (1671-1723)
Der vierte Sohn des Kurfürsten Ferdinand Maria
von Bayern.
1685-1694 Fürstbischof von Freising (1685
Koadjutor)
1685-1716 Fürstbischof von Regensburg
(1683-1685 Koadjutor)
1688-1723 Kurfürst-Erzbischof von Köln, Fürstpropst
von Berchtesgaden
1694-1723 Fürstbischof von Lüttich (Liège)
1714-1723 Fürstbischof Hildesheim (1694-1714
Koadjutor)
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Klemens August von Bayern
(1723-1761)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】クレーメンス・アウグスト(在位1723−61)
小紋章です。選帝侯の実家バイエルンの紋章が中央に組まれ、紋章盾に載せられた選帝侯帽のデザインが変わりました。
クレーメンス・アウグストは、ミュンスター司教、パーダーボルン、オスナブリュック、ヒルデスハイムの各司教、およびドイツ騎士団長を兼務しました。
Klemens August Herzog von
Bayern (1700-1761)
Der siebte Sohn des Kurfürsten Maximilian II.
Maria Emanuel von Bayern.
1717-1719 Fürstbischof von Regensburg
(1715-1716 Koadjutor)
1716-1723 Koadjutor des Fürstpropstes
Berchtesgaden
1719-1761 Fürstbischof von Paderborn
und Münster
1722-1723 Koadjutor des Erzbischofs von Köln
1723-1761 Kurfürst-Erzbischof von Köln und
Fürstpropst von Berchtesgaden
1724-1761 Fürstbischof von Hildesheim
1728-1761 Fürstbischof von Osnabrück
1732-1761 Hoch-
und Deutschmeister
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Klemens August von Bayern
seit 1732
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【ケルン大司教領兼選帝侯】クレーメンス・アウグスト(1732年以降
)
金色の錫が描かれた黒十字と中央の鷲はドイツ騎士団長の紋章です。彼は1732年にドイツ騎士団長に就任しました。
彼はまた、いくつもの聖職者領を領有したため、各地の紋章が組み込まれました。ケルン選帝侯以外の地位を表す場合、第二位(向かって右上)にその領土の紋章が組まれます。左の紋章は、当時ケルン選帝侯およびドイツ騎士団長の紋章として認知されていたものです。最下位に置かれたミュンスター司教領の紋章は、組み方と彩色にバリーションが認められ、彼の代からミュンスター司教の紋章に青地に金色の横帯の彩色も使われるようになりました。
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Maximilian Friedrich von Königsegg-Rothenfels
(1761-1784)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】マクシミリアン・フリードリヒ〔在位1761−84)
選帝侯の実家、ケーニヒゼック=ローテンフェルス家の紋章が中央に置かれています。
Maximilian Friedrich
Reichsgraf von Königsegg-Rothenfels
(1708-1784)
Der fünfte Sohn des Grafen Albrecht Eusebius
Franz von Königsegg-Rothenfels.
1761-1784 Kurfürst-Erzbischof von Köln
1762-1784 Fürstbischof von Münster
Herzschild : Familienwappen Königsegg.
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Maximilian Friedrich von Königsegg-Rothenfels
(1761-1784)
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【ケルン大司教領兼選帝侯】マクシミリアン・フリードリヒ〔在位1761−84)
兼務したミュンスター司教の紋章を盾の下半分に組んでいます。
ミュンスター司教の紋章が青地に金色の横帯に変更されました。盾の向かって右下のヴェルト領主の紋章は、彩色を含め多くのバリエーションがあります。
Geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Königsegg.
Hauptschild : geteilt oben Erzstift Köln -
geviert 1. Erzbm. Köln, 2. Hzm. Westfallen, 3.
Hzm. Engern, 4. Gft. Arnsberg, unten Hochstift Münster
- geviert 1. Bm. Münster (In Blau ein goldener
Balken), 2. Bgft. Stromberg, 3. H. Borkulo. 4. H.
Werth (in Silber drei 2:1 schwarze Maueranker).
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【帝国都市ケルン】 Freie
Reichsstadt Köln
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Grosses Wappen :
Schildhaupt : in Rot drei goldenes
Kronen,
Hauptschild : in Silber elf schwarzen
Flammen (oder Tropfen).
v.Chr.38 Ara Ubbiurum
50 Colonia Claudia Ara Agrippinensium
1475 Freie Reichsstadt
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大紋章です。ヘルム&クレスト、盾持ちという構成です。クレストは15世紀までの市章をかたどっています。グリフォンとライオンの盾持ちは後ろを向いた姿勢のバリエーションもあります。この盾持ちは、ケルン大司教の紋章にも登場します。
起源前38年にローマの軍営地が建設され、西暦50年頃にローマの植民都市となった、ドイツ史上最も重要な都市の一つです。この地の生まれであるローマ皇后アグリッピナ(皇帝ネロの母)の願いによってローマ帝国の植民都市に昇格したことから、彼女の名を冠してコロニア・アグリピナなどと呼ばれたのが転訛し、ケルン(コロニア)の地名が生まれました。
481年にメロヴィング朝フランク王国の開祖クロートヴィヒがケルンにてフランク王に選出され、カール大帝はケルンの司教座を大司教座に昇格させました。
ケルン市では11世紀前後から商業が発展し、ハンザ同盟結成にも参加。ラインの交通要地を占める重要な商業都市に成長していきます。その過程で都市君主である大司教との対立が次第に深まり、12世紀には自治権を獲得。さらに1288年のヴォリンゲンの戦いでケルン大司教がベルク伯に敗北したのを機に、大司教の支配から事実上脱し、1475年に帝国自由都市となりました。
ハンザ同盟の衰退と共に街の経済活動も沈滞。それによって都市の力も徐々に失われていきました。しかし産業革命以降は復興し、現在もドイツ屈指の大都市として繁栄しています。
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Stadtwappen
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【市章】
現在の市章です。神聖ローマ帝国の鷲の胸に市の紋章盾を掲げた構成で、19世紀に定められました。しかし、ケルン市が帝国都市であることを説明するために、双頭の鷲が登場した15世紀には市の紋章と組み合わせられて描かれていました。
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盾上部に置かれた赤色の帯には三個の金色の王冠が描かれ、その下の銀地の盾には11個の炎(または水滴)が描かれています。
元々の市章は王冠と炎が描かれない無地の紋章でした。盾地の赤と銀はハンザ同盟の色で、ケルン市はハンザ同盟の創立メンバーだったため、市章の色に採用されました。1315年に東方三博士を意味する三つの王冠が加えられました(東方三博士は、ドイツ語では三人の聖なる王と綴ります)。これは、1164年に市に東方三博士の聖遺物がもたらされたことに由来します。
炎は1499年頃に加えられ、公式には11個を描きます。黒い炎はブルターニュの紋章(アーミン)からの連想で、ケルン市の守護聖人、聖ウルズラがブルターニュの公女と伝わることにちなんでいます。また11個という数は、聖ウルズラと共に殉教した11,000人の処女の伝説から採られています。聖ウルズラ伝説はケルンが発祥地で、聖ウルズラ教会近くで発見された墓石が長らく彼女のものと信じられてきました。11,000という数字は、11名の殉教者を表すラテン語の略語を誤解釈したものと言われ、それで市章には11個で描かれるそうです。
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【マンダーシャイト伯領】 Grafschaft
Manderscheid (1453-1803)
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金地に赤色のジグザクの山形の横帯。
マンダーシャイトは1453年に伯領に昇格します。婚姻を通じて領土を拡大しますが、1488年に分割相続が実行され、その後も分裂と統合が繰り返されました。
最終的にはマンダーシャイト=ブランケンハイム家によって再統合され、1803年に主権を喪失しました。
In Gold ein roter Zickzackbalken.
1453 Grafschaft Manderscheid
1488 Erbteilungen -> Manderscheid-Blankenheim,
Manderscheid-Kayl,
Manderscheid-Schleiden
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1463-
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【1463年以降】
マンダーシャイトとブランケンハイムの紋章の組み合わせ。
マンダーシャイト領主ディートリヒ3世(在位1453−88年)は彼の妃、ブランケンハイム女伯エリーザベト(在位1406−63年)の死後、ブランケンハイム伯領を相続し、初代マンダーシャイト伯を名乗りました。
ディートリヒ3世は1488年に退位し、三人の息子が伯領を分割相続します。
seit 1463 :
Geviert: 1.&4. Manderscheid, 2.&3. Gft.
Blankenheim
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【マンダーシャイト=ブランケンハイム伯領】 Grafschaft
Manderscheid-Blankenheim (1488-1803)
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組まれている紋章は、マンダーシャイト、ブランケンハイム、ダウン、シュライデン=ユンケラート。ダウンとシュライデンはしばしば逆転されて描かれます。
15世紀の末頃から用いられた紋章のようです。ダウン伯領は1420年の伯家断絶によって、またシュライデン領主領はブランケンハイム女伯エリーザベトがシュライデン家の女子相続人でもあったため、ブランケンハイムと共にもたらされました。
シュライデンの紋章の盾地にちりばめられたユリの花は、アーミン模様のバリエーションもあります。
Geviert 1. Gft. Manderscheid, 2. Gft. Blankenheim,
3. Daun, 4. H. Schleiden-Junkerath.
1488 Grafschaft entstand
1780 Manderscheid-Sternberg (oder
Sternberg-Manderscheid)
1803 mediatisiert
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1661-1715
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【1661−1715年】
中央の小盾はザイン=ハヒェンブルク。
ザレンティン・エルンスト(在位1644−94年)とザイン=ハヒェンブルク女伯エルネスティーネ・ザレンティーネの結婚によって二つの伯領が連合しました。しかし、エルネスティーネ・ザレンティーネの息子達は早世したためザインはエルネスティーネの娘マクダレーナ・クリスティーネが相続。一方、マンダーシャイトはザレンティン・エルンストの再婚相手の息子が相続したため、連合は解消しました。
Herzschild : Grafschaft Sayn-Hachenburg - 1. Sayn,
2. Wittgenstein, 3. Freusburg, 4. Homburg.
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16 Jh.-1780
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【16世紀以降】
組まれている紋章は、マンダーシャイト、ブランケンハイム、シュライデン、クローネンブルク、ベッティンゲン、ダウン。
マンダーシャイト=ブランケンハイムは、1488年の分裂で誕生した3家系の次兄系で、ブランケンハイム=ゲロルシュタインとも呼ばれます。1762年に末弟脈カイル家を1762年に婚姻を通じて相続し、家領を再統一しました(長兄脈はカイル家が相続していました)。しかし1780年に男系が途絶。女伯アウグステ(在位1780−1806)の夫、シュテルンベルク伯フィリップ・クリスティアン(注:リッペ系ではなくボヘミア系)が領土を継承し、マンダーシャイト=シュテルンベルク(シュテルンベルク=マンダーシャイトとも)家が誕生します。
Einmal gespalten und zweimal geteilt : 1. Gft.
Manderscheid, 2. Gft. Blankenheim, 3. H.
Schleiden-Junkerath, 4. Kronenburg, 5. Bettingen,
6. Daun.
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(Variante)
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【バリエーション】
中央の小盾はマンダーシャイト。背後の盾は、ブランケンハイム、ローシー、シュライデン、ベッティンゲン、ダウン。
上の紋章のバリエーションです。18世紀半ばに描かれた紋章系図(紋章を併記した家系図)にはこちらの構成で描かれていました。
Variente : geviert mit Herzschild .
Herzschild : Gft. Manderscheid,
Hauptschild : 1. Gft. Blankenheim, 2. Gft. Roucy,
3. H. Schleiden-Junkerath, 4. gespalten - Bettingen
/ Daun.
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【マンダーシャイト=ゲロルシュタイン伯領】 Grafschaft
Manderscheid-Gerolstein-Bettingen (1533-1697)
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中央の小盾はベッティンゲン、ローシー伯。背後の盾は、マンダーシャイト、ブランケンハイム、ダウン。
1533年のブランケンハイム=ゲロルシュタイン家の分裂で誕生し、ゲロルシュタイン=ベッティンゲンとも称しました。
カール・フェルディナント(在位1671−97)の代にローシー伯を称しますが、彼の死と共に断絶し、遺領はマンダーシャイト=ブランケンハイム家が継承しました。
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : geviert 1 & 4. Bettingen, 2 &
3. Gft. Roucy,
Hauptschild : 1 & 4. Gft. Manderscheid, 2. Gft.
Blankenheim, 3. Gfr. Daun.
1533 Grafschaft entstand (Teil von
Manderscheid-Blankenheim-Gerolstein)
1697 erloschen, Territorium fällt an
Manderscheid-Blankenheim
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【マンダーシャイト=カイル伯領】 Grafschaft
Manderscheid-Kayl (1488-1742)
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ca. 1645-
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中央の小盾はブランケンハイム。背後の盾は、マンダーシャイト、ダウン=ファルケンシュタイン、ライポルツキルヘン(下段の二つ)。
1488年の伯領分裂で誕生しました。フィリップ・ディートリヒ(在位1613−53)の妃、マンダーシャイト=シュライデン女伯エリーザベト・アマーリエの母で同女伯のマグダレーナは、ライポルツキルヘン共同領主だったレーヴェンハウプト家のシュテーン(シュタイノ)と結婚していました。シュテーンが1645年に没すると、彼の保有分の領主権がエリーザベト・アマーリエを通じてもたらされました。1722年(一部)と1730年(残り全部)に領主権をヒレスハイム伯に売却するまで、マンダーシャイト=カイル伯はライポルツキルヘンの共同君主でした。伯家は1742年に断絶し、領土はブランケンハイム家が相続しました。
Feld 3 und 4 : Herrschaft Reipoltskirchen.
1488 Grafschaft entstand
1742 erloschen, Territorium fällt an
Manderscheid-Blankenheim
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【マンダーシャイト=シュライデン伯領】 Grafschaft
Manderscheid-Schleiden (1488-1647)
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組まれている紋章は、マンダーシャイト、ヴィルネブルク、ブランケンハイム、ローシー、ダウン、クローネンブルク、ベッティンゲン、シュライデン、ケルペン。
1488年のマンダーシャイト伯領の分裂で誕生しました。ヴィルネブルク伯領を領有した家系で、分裂した三家中の長兄脈になります。ディートリヒ2世(在位1491−1551)は婚姻を通じてケルペン領主領を加えました。1590年に男系が途絶すると、女伯が二代続きました。エリーザベト・アマーリエ(在位1639−47)が没すると領土の分割相続が行われ、ヴィルネブルク伯領はレーヴェンシュタイン伯家が、残りの領土は夫のマンダーシャイト=カイル伯フィリップ・ディートリヒが相続しました。
Zweimal gespalten und zweimal geteilt : 1. Gft.
Manderscheid, 2. Gft. Virneburg, 3. Gft.
Blankenheim, 4. Gft. Roucy, 5. Gft. Daun, 6.
Kronenburg, 7. H. Bettingen, 8. H.
Schleiden-Junkerath, 9. H. Kerpen.
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【マルク伯領】 Grafschaft
Marck
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金地に赤と銀のチェックの横帯。
伯領は13世紀に成立しました。14世紀末に婚姻を通じてクレーヴェ伯領と合同し、さらにユーリヒ=ベルク公国とも合同、ラーヴェンスベルク伯領ほかを併せて大きな領国を形成しました。1609年に公家が断絶すると継承戦争が勃発。1614年にクサンテン条約が結ばれ、ブランデンブルクが相続しました。
In Gold ein von Rot und Silber in drei Reihen
geschachter Balken.
1160 Herrschaft Marck
1208 Grafschaft
1398 Union mit der Grafschaft Kleve
1614 zu Brandenburg
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【メッテルニヒ=ヴィンネブルク侯国】 Fürstentum
Metternich-Winneburg und Beilstein (1803-1806)
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Wappen (1803) :
Zweimal gespalten und einmal geteilt mit
Herzschild.
Herzschild : Metternich,
Hauptschild : 1.&6. H. Winneburg, 2.
in Gold ein schwarzer Stierkopf (?),
3.&4. H. Beilstein, 5. in Blau ein
goldenes Tatzenkreuz, bewinkelt von vier
goldenen Kugeln (?).
1362 Herrschaft Winneburg-Beilstein
1551 Freiherrschaft
1613 Freiherrschaf
Metternich-Winneburg
1679 Grafschaft
1801 Territorium fällt an
Frankreich
1803 Fürstentum Ochsenhausen
erworben
1806 mediatisiert
1813 Österreichische Fürsten
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盾持ちのうち、向かって左側の黒と銀で塗り分けられたアイベックスは、同じデザインのクレストを使っているヴィンネブルクの盾持ちのようです。向かって右側の野人もクレストに登場しています。中央列下段の十字の紋章のクレストか、紋章図ではバイルシュタイン領主(赤地に三つのホルンの紋章)のクレストがなくなっているため、バイルシュタインの新しいクレストのどちらかのようです。
ヴィンネブルク=バイルシュタインは現在のラインラント=プファルツ州にあった小邦で、ヴィンネブルク領主領はイダールオーバーシュタインの近くに、バイルシュタイン領主領はコッヘムとバイルシュタインかけてのモーゼル川流域に所領が広がっていました。領主家はそれぞれの城を中心に勢力を広げてきた騎士出身で、帝国等族の身分を得ていました。両者は14世紀に婚姻を通じて合同し、16世紀に男爵位を得ました。しかし、後継者が絶えたため、領土は1613年にメッテルニヒ家に売却されます。メッテルニヒ家治下の1679年に伯領に昇格。1801年のリューネビルの和約でフランスに併合されたため、1803年にオクセンハウゼン修道院領(現バーデン=ヴュルテンベルク州)を宛われ、帝国諸侯となりました。
ナポレオン体制崩壊後のウィーン会議によって、ヴィンネブルクとバイルシュタインはドイツに復帰し、プロイセン領となります。一方、オクセンハウゼンは神聖ローマ帝国解体時に主権を喪失し、メッテルニヒ家はオーストリア貴族となりました。ウィーン会議の主催者として知られるクレーメンス・ヴェンツェルは、第二代メッテルニヒ=ヴィンネブルク=オクセンハウゼン侯です。
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bis 1613
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組まれている紋章は、ヴィンネブルク、バイルシュタイン。ヴィンネブルクの紋章の階段状斜め帯の彩色は、青でなく銀とするヴァリエーションもあります。
ヴィンネブルク領主領は13世紀に記録に登場します。この地を領したヴィンネブルク家(ヴィネスベルク、ヴィンネンブルクとも)は騎士階級の出身で、14世紀の半ばに、バイルシュタイン領主のブルンスホルン家の女子相続人と結婚し、両者が合同しました(1362年)。
領主家は1551年に男爵となり、初代男爵のフィリップ1世は1563年に帝国法院長(二つあった帝国の最高裁判所のうち、皇帝直属の最高裁判所の長官)に任ぜられました。
17世紀初頭に後継者が絶えたため、領土はメッテルニヒ家に売却されました。
Geviert
1 und 4 in Rot ein schrägrechter blauer
Stufenbalken, begleitet je von drei oben 2:1 unten
1:2 goldenen Kreuzchen (H. Winneburg), 2 und 3 in
Rot drei 2:1 golden bebandete silberne Hörner
(H. Beilstein).
Variante des Wappen von
Winneburg : in Rot ein schrägrechter
Silberner
Stufenbalken, begleitet je von drei oben 2:1 unten
1:2 goldenen Kreuzchen
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1679-
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【メッテルニヒ=ヴィンネブルク伯領】
中央にメッテルニヒ家の紋章が加えられました。
メッテルニヒ家は現在のドイツ=ルクセンブルク国境付近を発祥地とする家系で、トリーア選帝侯国の官職保有者として徐々に勢力を拡大しました。
1613年にヴィンネブルクとバイルシュタインの領地を購入した同家は、1635年に帝国男爵、1679年に帝国伯の地位と帝国議会の議席を得ました。その一方で、ハプスブルク家からも官職を受けたため、オーストリア宮廷に活動の重心が移っていきます。
1801年に領土をフランスに併合され、2年後、代替地としてオクセンハウゼン(現バーデン=ヴュルテンベルク州)を与えられました。
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1803-1813
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【1803以降】
1803年に帝国諸侯に列せられると、紋章構成が変わり、盾の中央列に新たに二つの紋章が加わりました。これらの紋章について詳細は不明です。新領土となったオクセンハウゼンの紋章は、オクセンハウゼンの直訳そのままの、小屋から頭を出す雄牛です。新領土を表現するために新たに作られた紋章かもしれません。
フランス革命戦争に伴うリューネビルの和約(1801年)で領土を失ったメッテルニヒ家は、1803年にオクセンハウゼン(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州ビーベラハ東方にあった帝国修道院領)を与えられて帝国諸侯に列しました。しかし1806年に主権を喪失し、領土はヴュルテンベルク王国に併合されました。
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【メッテルニヒ=ヴィンネブルク=オクセンハウゼン侯】
Fürstlich
Metternich-Winneburg-Ochsenhausenisches
Wappen.
Zweimal gespalten und einmal geteilt mit Fürstenhut
gekröntes Herzschild.
1 & 6. H.Winneburg, 2. Gnadenwappen (
gespalten Österreich / Lothringen), 3
& 4. H. Beilstein, 5. geteilt oben in
Gold ein schwarzer Stierkopf, unten In
Blau ein goldenes Tatzenkreuz, bewinkelt
von vier goldenen Kugeln.
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オーストリア帝国の貴族となってからの紋章です。小盾に諸侯帽が載せられ、背後の盾中央列の構成が変わりました。
18世紀以来、オーストリアの外交官として活動していたメッテルニヒ家は、帝国解体後も引き続きオーストリアに仕え、1813年にオーストリア帝国の侯位を授かりました。
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【1814年以降】
中央の小盾はメッテルニヒ。背後の盾はヴィンネブルク、オーストリア&ロートリンゲン、バイルシュタイン、オクセンハウゼン?、不明。1814年頃からの紋章です。
背後の盾のオーストリア=ロートリンゲンは下賜紋で、オーストリア帝国の侯となったことを表しています。
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【メールズ侯領】 Fürstentum
Moers (bis 1702 Grafschaft)
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金地に黒の横帯。
メールズ伯領はデュイスブルクの西、ライン川の西岸に位置します。伯家は1186年に記録に登場し、婚姻を通じてアルザスのザールヴェーデン伯領を獲得します。しかし、1493年に男系が絶えたため、伯領は姻戚関係だったヴィート伯の手に渡り、さらに1517年にはノイエナール伯の所領となりました。そのノイエナール家も1578年に男系が絶え、領土は1601年にナッサウ=オランニェ家に遺贈されました
。
1702年プロイセン領となり、その際に侯領となりました。
In Gold ein schwarzer Balken.
1186 Grafschaft entstand
1493 zu Wied
1517 zu Neuenahr
1601 zu Nassau-Oranien
1702 Fürstentum Moers unter preussischer
Herrschaft
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- 歴代伯 Grafen
von Moers
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Friedrich IV. (1417-1448)
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【メールズ伯】フリードリヒ4世(在位1417−48)
黒地に銀色の双頭の鷲はザールヴェーデン伯の紋章。
フリードリヒ3世の妻ヴァルブルクはザールヴェーデン伯家の出身だったため、ケルン選帝侯を兼ねていた伯父フリードリヒ3世の死後、ザールヴェーデン伯に即位しました(在位1414−17)。
1417年に父伯の跡を継いでメールズ伯に即位すると、ザールヴェーデン伯領を弟ヨハン1世に譲りました。
Friedrich IV.
(1392?-1448)
Der erste Sohn des Grafen Friedrich III. von
Moers.
1414-1417 Gtaf von Saarwerden
1417-1448 Graf von Moers
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Friedrich IV. (1417-1448)
(Variente)
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【メールズ伯】フリードリヒ4世(2)
伯の家系を示すザールヴェーデンの紋章が優位に置かれたバリエーションも存在しました。ブルゴーニュ家の騎士団、金羊毛騎士団のメンバーを描いた肖像画ではこちらの序列の紋章が描かれています。
フリードリヒ4世は金羊毛騎士団結団の翌年にあたる1431年に、第26番目の騎士に迎えられました。
1431 Ritter des Ordens vom Goldenen Vlies
(Nr.26)
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Moritz von Nassau-Oranien
(1601-1615)
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【メールズ伯】モーリッツ(在位1601−15)
中央の小盾はザクセン。背後の盾は四分割され、第一と第四区画は、小盾がメールズ、その背後がナッサウ伯の紋章。第二と第三区画はオラニエン侯。ザクセンの紋章は、モーリッツの母アンナ(ザクセン選帝侯モーリッツの長女)に由来します。
1578年のメールズ伯ヘルマンの死によって、伯家の男系は途絶。ヘルマンの跡を継いだ妹の女伯ヴァルトブルク(在位1578−1600)にも子がなかったため、伯領をヘルマンの妃の甥モーリッツ(ウィレム沈黙公の三男マウリッツ)に遺贈しました。モーリッツはネーデルラント総督として独立戦争を指揮し、卓越した軍事的才能によって共和国の事実上の独立を達成しました。また、1612年には徳川家康に親書を送り、日蘭関係の端緒を開いています。
モーリッツは1613年にイングランドのガーター騎士団409番目の騎士に登録されました。
Moritz von Nassau-Oranien
(1567-1625)
Der dritte Sohn des Fürsten Wilhelm I.
"der Schweiger" von Nassau-Oranien.
1601-1615 Graf von Moers
1584-1625 Statthalter der Niederlande
1618-1625 Prinz von Oranien
1613 Ritter des Hosenbandordens (Nr. 409)
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