(3)帝国北西部の諸邦(M−Z)

16世紀前半の神聖ローマ帝国北西部
現在のニーダーザクセン州、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、ハンブルク特別市、ブレーメン特別市の地域です


掲載一覧です Liste (M - Z)  
(A - L)

ミンデン司教領
ミュンスター司教領
オルデンブルク伯領・公国・大公国
オスナブリュック司教領
オスナブリュック市

オストフリースラント侯国・伯領
ラーヴェンスベルク伯領
レーダ領主領
リートベルク侯国・伯領

シャウムブルク=リッペ侯国・伯領
シャウムブルク=ピンネベルク伯領

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国
テクレンブルク伯領


Minden (Bm.)
Muenster (Bm.)
Oldenburg (Gft, Hzm, Ghzm.)
Osnabrueck (Bm.)
Osnabrueck (Stadt)

Ostfriesland (Gft, Fsm.)
Ravensberg (Gft.)
Rheda (H.)
Rietberg (Gft, Fsm.)

Schaumburg-Lippe (Gft, Fsm.)
Schaumburg-Pinneberg (Gft.)
Schleswig-Holstein (Hzm.)
Tecklenburg (Gft.)


Abkuerzungen :
Kgr.= Koenigreich, Ghzm.= Grossherzogtum, Ehzm.=Erzherzogtum, Hzm.= Herzogtum, Kfsm.= Kurfuerstentum, Fsm.= Fuerstentum
Mgft.= Markgrafschaft, Lgft.= Landgrafschaft, Bgft.=Burggrafschaft, Fgft.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft, Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.= Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum


【ミンデン司教領】 Hochstift Minden

In Rot zwei gekreuzte, die Bärte abwärts kehrende silberne Schlüssel.


803 Bistum gegründet
1648 weltliches Fürstentum Minden unter brandenburgischer Herrschaft

赤字に交差した銀色の鍵。鍵は聖ペテロのを表しています。

803年にカール大帝によって設置された司教座で、フランク王国に頑強に抵抗したザクセン族のキリスト教化および統治の役割を担いました。
16世紀以降はブラウンシュヴァイク家出身者が司教となることが多く、16世紀半ばに同公家がプロテスタントに改宗すると、1625年までプロテスタントによる統治が行われました。
1648年のヴェストファーレン条約の結果、世俗化され、ブランデンブルクに併合されました。

歴代司教 Fürstbischöfe von Minden

Georg von Braunschweig-Lueneburg (1554-1566)

【ミンデン管理人】ゲオルク(在位1554−66)

司教の実家ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ヴォルフェンビュッテル)の紋章の中央にミンデン司教の紋章を組みました。

ミンデン司教フランツ1世(在位1508−1529)の実弟で、ミンデン司教ユリウス(実の甥:在位1553−1554)が実家ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公を継承したのを受けて、ミンデンの管理人となりました。継いで558年にはブレーメン大司教とフェルデン司教に就任しました。
甥ユリウスがプロテスタントに改宗してシュマルカルデン同盟に参加したため、初代プロテスタント司教(管理人)となりました。

Georg Herzog von Braunschweig-Lueneburg (1494-1566)
Der fuenfte Sohn des Herzogs Heinrich I. von Braunschweig-Wolfenbuettel.
1554-1566 Fuerstbischof von Minden (protestantisch)
1558-1566 Fuersterzbischof von Bremen und Fuerstbischof von Verden.


Anton von Schauenburg (1587-1599)

【ミンデン管理人】アントン(在位1587−1599)

実家シャウエンブルク(シャウムブルク)伯の紋章の中央に、ミンデン司教とヒルデスハイム聖堂参事会の紋章が組まれました。

ミンデンの第二代プロテスタント司教ヘルマン(在位1566−82)の弟で、ケルン選帝侯アドルフ、アントン兄弟の甥にあたります。また異母弟エルンストは帝国諸侯に列せられました。

Anton Graf von Schauenburg (1549-1599)
Der vierte Sohn des Grafen Otto IV. von Holstein-Schauenburg.
1587-1599 Fuerstbischof von Minden (protestantisch)


Herzschild : 1. Bm. Minden, 2. Dompropstei Hildesheim.


Christian von Braunschweig-Lueneburg "der Aeltere" (1599-1625)

【ミンデン管理人】クリスティアン(在位1599−1625)

実家ブラウンシュヴァイク=リューネブルクの紋章の中央にミンデンの紋章が組まれました。

プロテスタントの管理人で、1611年にはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公に即位しました。
三十年戦争が始まると、所属するニーダーザクセンクライスの平和維持のため、クライス軍を創設します。しかし、クライス長官にデンマーク王クリスティアン4世が就任したことからデンマーク=ニーダーザクセン戦争が勃発、戦争回避に失敗しました。
三十年戦争開始当初は皇帝を支持していましたが、1629年の回復令発布後はプロテスタント陣営に加わりました。

Christian der Aeltere, Herzog von Braunschweig-Lueneburg (1556-1633)
Der zweite Sohn des Herzogs Wilhelm von Braunschweig-Lüneburg.
1599-1625 Fuerstbischof von Minden (protestantisch)
1611-1633 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg und Füst von Lüneburg



【ミュンスター司教領】 Hochstift Muenster

In Gold ein roter Balken.


805 Bistum gegruendet
1180 Hochstift
1802 saekularisiert

金地に赤色の横帯。司教の紋章として今日まで用いられています。

ミュンスターは9世紀初頭に設置された司教座が起源で、13世紀から15世紀初頭にかけて諸領土を獲得し、広大な領国を形成しました。16世紀には司教フランツによる宗教改革が試みられ、カトリックとプロテスタントのせめぎ合いがおよそ1世紀に渡って続きますが、1648年のヴェストファーレン条約の結果、カトリックに留まることが確定しました。
1802年にプロイセン軍によって占領されて世俗化、領土は諸国間で分割されました。


Fuerstentum Muenster

【ミュンスター司教領・侯領】

青地に金色の横帯。

18世紀の半ばあたりから見かける彩色です。クレーメンス・アウグスト(在位1719−61)の紋章に初めて現れ、以後の司教の紋章にも登場します。
こちらの彩色は領土の紋章として用いられ、プロイセン王の紋章に取り入れられました。


Fuerstentum Muenster : In Blau ein goldener Balken.

歴代司教 Fürstbischöfe von Münster

Johann III. von der Pfalz-Simmern (1458-1466)

【ミュンスター司教】ヨハン3世(在位1458−66)

司教の実家プファルツ=ジンメルン家の紋章との組み合わせ。

ローマ王ルプレヒトの孫で、1466年にマクデブルク司教に転出しました。


Johann III. von der Pfalz-Simmern (1429-1475)
Der fuenfte Sohn des Pfalzgrafen Stefan von Simmern u. Zweibruecken.
1458-1466 Fuerstbischof von Muenster
1466-1475Fuersterzbischof von Magdeburg

Heinrich III. von Schwarzburg (1466-1496)

【ミュンスター司教】ハインリヒ3世(在位1466−96)

中央に司教の実家シュヴァルツブルク伯の紋章を置きました。

1463年にブレーメン司教となり、その三年後からミュンスター司教を兼ねました。

Heinrich III. Graf von Schwarzburg (?-1496)
Der Zweite Sohn des Grafen Heinrich XXVI. von Schwarzburg-Blankenburg.
1463-1496 als Heinrich II. Fuerstbischof von Bremen
1466-1496 als Heinrich III. Fuerstbischof von Muenster

Franz von Waldeck (1532-1553)

【ミュンスター司教】フランツ(在位1532−53)

中央に司教の実家ヴァルデック伯家の紋章を置き、背後の盾に兼務したミュンスター、オスナブリュック、ミンデン各司教の紋章を組みました。

ルター派支持の司教で、リューベックを宗教改革させたヘルマン・ボヌスを招聘して司教領の宗教改革と世襲の侯国化を試みました。

Franz Graf von Waldeck (1491-1553)
Sohn des Grafen Philipp II. von Waldeck-Eisenberg.
1530-1553 Fürstbischof von Minden
1532-1553 Fürstbischof von Münster und Osnabrück

Geviert mit Herzschild:
Herzschild: Waldeck,
Hauptschild: 1 u. 4. Bm. Münster, 2. Bm. Osnabrück, 3. Bm. Minden.



Johann IV. von Hoya (1566-1574)

【ミュンスター司教】ヨハン4世(在位1566−74)

中央に司教の実家ホヤ伯の紋章を組み、背後の盾は兼務したオスナブリュック司教(車輪)、ミュンスター司教、パーダーボルン司教(十字)と、司教の実家ホヤ伯の領土だったアルトブルフハウゼン伯領(赤銀の分割)、ノイブルフハウゼン伯領(銀青の放射分割)が組まれています。

ミュンスター兼オスナブリュック司教フランツの後任としてオスナブリュック司教に就任。ミュンスター司教には13年後の1566年に就任しました。

Johann IV. Graf von Hoya (1529-1574)
Der zweite Sohn des Grafen Johann VII. von Hoya.
1553-1574 Fuerstbischof von Osnabrueck
1566-1574 Fuerstbischof von Muenster
1568-1574 Fuerstbischof von Paderborn

Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
1 u. 9. Bm. Osnabrueck, 2 u. 8. Bm. Muenster, 3 u. 7. Bm. Paderborn, 4. Gft. Alt-Bruchhausen (Familienwappen Hoya), 5. Herzschild : Gft. Hoya, 6. Gft. Neu-Bruchhausen (Familienwappen Hoya).



Ferdinand I. von Bayern (1612-1650)

【ミュンスター司教】フェルディナント1世(在位1612−50)

司教の実家バイエルンの紋章の中央に司教領の紋章が組まれました。

1591年にベルヒテスガーデン修道院長補佐に就任したのを皮切りに、ケルン選帝侯はじめ多くの司教や修道院長を兼任しました。

Ferdinand Herzog von Bayern (1577-1650)
Sohn des Herzogs Wilhelm V. von Bayern.
1595-1650 Fürstpropst von Berchtesgaden (1591-1595 Koadjutor)
1596-1612 Koadjutor des Erzbischofs von Köln
1599-1612 Koadjutor des Fürstabtes von Stablo-Malmedy
1602-1612 Koadjutor des Fürstbischofs von Lüttich
1611-1612 Koadjutor des Fürstbischofs Münster und Hildesheim
1612-1650 Kurfürst-Elzbischof von Köln, Fürstbischof von Münster, Lüttich und Hildesheim, Fürstabt von Stablo-Malmedy
1618-1650 Fürstbischof von Paderborn (1612-1618 Koadjutor)


Christoph Bernhard von Galen (1650-1678)
1650-1660

【ミュンスター司教】クリストフ・ベルンハルト(在位1650−78)

司教の実家ガレン家の紋章を中央の小盾に収め、背後の盾にはミュンスター司教と司教領に組み込まれた領地の紋章が組まれました。向かって左上と右下はシュトルムベルク城伯、向かって右上と左下はボルクロー領主。シュトルムベルク城伯はニュルンベルク、マクデブルク、リーネックと並んで帝国4城伯と称せられていましたが、クリストフ・ベルンハルトの時代にミュンスター司教領に組み込まれました。

Christoph Bernhard von Galen (1606-1678)
Der älteste Sohn des Dietrich von Galen.
1650-1678 Fuerstbischof von Muenster
1661-1678 Administrator der Abtei Corvey

Zweimal gespalten und einmal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Galen,
Hauptschild : 1 u. 6. Bgft. Stormberg, 2 u. 5. Bm. Münster, 3 u. 4. H. Borkulo.



Christoph Bernhard von Galen
1661-1678

【ミュンスター司教】クリストフ・ベルンハルト(2)

1661年にコルヴェイ修道院管理人に就任すると、修道院の紋章が組み込まれました。向かって左上と右列中段がコルヴェイ修道院の紋章です。

彼は司教就任直後から傭兵を徴募して司教軍の充実に努め、ハンガリーでトルコと戦う皇帝に援軍を送ったり、イギリスと同盟してオランダに侵攻したり、フランスやケルン選帝侯と同盟してオランダ戦争に参入するなど、多くの軍事行動を起こしました。一連の軍事行動に加え、大砲を好んだことから、「大砲司教(Kanonen-Bischofs)」とあだ名されました。

なお、ガレン家はクリストフの甥ヴィルヘルム・フェルディナントの代に男爵位を得、1803年に伯に昇格しました。ガレン家からは20世紀にもミュンスター司教が誕生しました(クレーメンス・アウグスト。ミュンスター司教:1933−1946,枢機卿1946)。


Feld 1 und 6 : Reichsabtei Corvey (geteilt von Rot und Gold).


Friedrich Christian von Plettenberg zu Lenhausen (1688-1706)

【ミュンスター司教】フリードリヒ・クリスティアン(在位1688−1706)

中央に司教の実家プレッテンベルク家の紋章が組まれました。

Friedrich Christian von Plettenberg zu Lenhausen (1644-1706)
Sohn des Bernhard von Plettenberg zu Lenhausen.
1687-1688 Generalvikar in Muenster
1688-1706 Fuerstbischof von Muenster

Herzschild : Familienwappen Plettenberg

Franz Arnold von Wolff von Metternich zur Gracht (1706-1718)

【ミュンスター司教】フランツ・アルノルト(在位1706−18)

中央に司教の実家ヴォルフ=メッテルニヒ家の紋章を置き、背後の盾にはミュンスター司教と諸領の紋章、および兼務したパーダーボルン司教の紋章(赤十字と金色の錨形十字)が組まれました。

1703年に叔父のパーダーボルン司教ヘルマンの代理となり、翌年、叔父の後継としてパーダーボルン司教に就任しました。その2年後にミュンスター司教にも選出されました。

Franz Arnold Reichsfreiherr von Wolff gen. Metternich zur Gracht (1658-1718)
Neffe des Bischofs Hermann Werner von Paderborn.
1703-1704 Koadjutor des Fuerstbischofs von Paderborn
1704-1718 Fuerstbischof von Paderborn
1706-1718 Fuerstbischof von Muenster


Klemens August von Bayern (1719-1761)

【ミュンスター司教】クレーメンス・アウグスト(1732年以降)

1732年にドイツ騎士団長に就任してからの紋章です。騎士団長の紋章(金色の錫を置いた黒十字に帝国の鷲)で4分された盾地には、ケルン大司教、ミュンスター司教、ヒルデスハイム司教、パーダーボルン&オスナブリュック司教の紋章が組まれています。そして騎士団長の紋章の中心に、彼の実家バイエルンの紋章が組まれました。皇帝カール7世の同母弟です。

Klemens August von Bayern (1700-1761)
Der siebte Sohn des Kurfuerst Maximilian II. Maria Emanuel von Bayern.
1717-1719 Fuerstbischof von Regensburg (1715-1716 Koadjutor)
1716-1723 Koadjutor des Fürstpropstes Berchtesgaden
1719-1761 Fuerstbischof von Muenster und Paderborn
1722-1723 Koadjutor des Elzbischofs von Koeln
1723-1761 Kurfuerst-Erzbischof von Koeln und Fürstpropst von Berchtesgaden
1724-1761 Fuerstbischof von Hildesheim
1728-1761 Fuerstbischof von Osnabruerck
1732-1761 Hoch- und Deutschmeister

Durch ein schwarzes mit goldenen Lilienstäben belegtes Kreuz in vier geteilt. Auf dem Kreuz ein Mittelschild, belegt mit einem Herzschild.
Herzschild : geviert, 1 u. 4. Hzm. Bayern, 2 u. 3. Pfgft. am Rhain.
Mittelschild : In gold ein schwarzer Adler (Deutscher Orden).
Hauptschild : Feld 1. Erzbistum Köln - geviert 1. Erzbm. Köln, 2. Hzm. Westfallen, 3. Hzm. Engern, 4. Gft. Arnsberg, Feld 2. Bistum Münster - geviert 1. Bm. Münster, 2. Bgft. Stromberg, 3. H. Borkulo, 4. H. Werth (In Silber drei 2:1 Lilien gestellt, oder in Silber drei 2:1 rote Lilien gestellt), Feld 3. Bistum Hildesheim (Gespalten von Gold und Rot), Feld 4. Geteilt, oben Bistum Paderborn (geviert 1.&4. Bistum Paderborn: in Rot ein goldenes Kreuz, 2.&3. Grafschaft Pyrmont: in Silber ein rote Ankerkreuz), unten Bistum Osnabrück (in Silber ein rotes Wagenrad).




【オルデンブルク大公国】 Grossherzogtum Oldenburg

Grosses Staatswappen (1829) :

Einmal gespalten und zweimal geteilt mit gekrönt Mittelschild.
Mittelschild : Geviert und einer unten eingepfropften Spitze: 1. Gft. Oldenburg, 2. H. Delmenhorst, 3. Fsm. Lübeck, 4. Fsm. Birkenfeld, 5. H. Jever,
Hauptschild : 1. Kgr. Norwegen (Erbe zu Norwegen), 2. Hzm. Schleswig, 3. Hzm. Holstein, 4. H. Stormarn, 5. Land Ditmarschen, 6. H. Knyphausen.

大公国の大紋章です。ローブと留め具を兼ねた冠以外のアクセサリは加えられない、シンプルな構成です。

オルデンブルクは12世紀初頭に伯領として成立しました。1448年にオルデンブルク伯クリスティアン7世がデンマーク王に迎えられたので、一時的にデンマークと連合しました。1454年にクリスティアン7世の弟ゲルハルトのオルデンブルク伯位請求が認められ、ゲルハルトの家系が伯領を統治しました。ゲルハルトの家系が1667年に絶えると、本家筋のデンマーク王が伯を兼ねる同君連合が1773年まで続きました。
1773年に王家の分家ホルシュタイン=ゴットルプ家(ロシア皇帝家)がホルシュタイン公国をデンマークに譲渡すると、ホルシュタイン=ゴットルプ家の分家にオルデンブルク伯領が譲られ、デンマークとの同君連合が解消します。新たな君主家誕生に伴い、伯領は公国に昇格しました。
神聖ローマ帝国解体後も主権を保持し、1829年に大公国に昇格。その後ドイツ帝国に加わり、1918年の革命まで続きました。


bis 1575

【1575年まで】

金地に二本の赤色の横帯はオルデンブルク伯。青地に金色の十字架はデルメンホルスト伯。

12世紀初頭に登場する伯領で、13世紀後半にデルメンホルスト家が分立しました。デルメンホルスト家が絶えた15世紀以後はオルデンブルク家と結合分裂を繰り返し、1647年に最終的に合同します。

1448年、オルデンブルク伯クリスティアン7世がデンマーク王に迎えられ、オルデンブルク朝を開きました。クリスティアンの弟ゲルハルトはオルデンブルク伯位を主張し、1454年に請求が確定。以後、ゲルハルトの家系が伯領を統治しました。

1575-1667

【1575年−1667年】

1575年にイェーファー領主領を相続してからの紋章です。イェーファーでは同領地の紋章が小盾で組まれるの対し、本拠地オルデンブルクでは、イェーファーは第3番目の地位として描かかれました。

1667年に伯家が絶えると、伯領は本家であるデンマーク王家が継承し、1773年までデンマークとの同君連合が続きました。
一方イェーファーは、アンハルト=ツェルプスト家に渡り、オルデンブルクと分離しました。イェーファーが再びオルデンブルク領となるのは、分離から150年後の1818年です。

Feld 2 und 3 - Herrschaft Jever: In Blau ein goldener gekrönter Löwe.


1667-

【デンマーク統治時代およびオルデンブルク公国】

オルデンブルクとデルメンホルストの組み合わせ。デンマーク統治期の伯領、および公国の小紋章です。

1773年に王家の分家ホルシュタイン=ゴットルプ=オイティン家のフリードリヒ・アウグストに伯領が与えられ、デンマークとの同君連合が解消しました。伯領は翌74年に公国に昇格します。

1829-

【オルデンブルク大公国】

中央の小盾はオルデンブルク、デルメンホルスト、リューベック侯、ビルケンフェルト侯、イェーファー。背後の盾は、ノルウェー継承者、シュレースヴィヒ、ホルシュタイン、シュトルマルン、ディトマルシェン、クニプハウゼン。クニプハウゼンのライオンには冠が加えられました。
ビルケンフェルトは1817年に、イェーファーは1818年にそれぞれ獲得した新領土です。

Einmal gespalten und zweimal geteilt mit gekrönt Mittelschild:
Mittelschild: Geviert und einer unten eingepfropften Spitze: 1. Gft. Oldenburg, 2. H. Delmenhorst, 3. Fsm. Lübeck, 4. Fsm. Birkenfeld (1817 erworben), 5. H. Jever (1818 erworben),
Hauptschild: 1. Kgr. Norwegen (Erbe zu Norwegen), 2. Hzm. Schleswig, 3. Hzm. Holstein, 4. H. Stormarn, 5. Land Ditmarschen, 6. H. Knyphausen.



歴代公 Herzöge von Oldenburg

Friedrich August (1774-1785)

【オルデンブルク公】フリードリヒ・アウグスト(在位1774−85)

中心の盾はリューベック司教、中間の盾はオルデンブルク、デルメンホルスト。背後の盾は、ノルウェー継承人、シュレースヴィヒ、ホルシュタイン、シュトルマルン、ディトマルシェン。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴッットルプ=オイティン公クリスティアン・アウグストの息子で、リューベック司教を兼ねていました(リューベック司教:1750−1785)。すぐ上の兄に、スウェーデン王アドルフ・フレドリク(在位1751−71)がいます。
1773年、本家であるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴッットルプ公パウル(後のロシア皇帝パーベル1世)が領土を宗家であるデンマーク王家に譲渡したため、代わりにオルデンブルク伯領を譲り受けました。彼は翌年に公位を得て、オルデンブルク公国が成立しました。

Friedrich August (1711-1785)
Der sechste Sohn des Herzogs Christian August von Schleswig-Holstein-Gottorp und jüngerer Bruder des Königs Adolf Friedrich von Schweden.
1750-1785 Fürstbischof von Lübeck
1774-1785 Herzog von Oldenburg


Peter I. Friedrich Ludwig (1826-1829)

【オルデンブルク公】ペーター・フリードリヒ・ルートヴィヒ(摂政:1785−1823、公1823−29)

初代公フリードリヒ・アウグストの甥で、はじめリューベック司教でした(在位1785−1802)。
いとこのオルデンブルク公ペーター・フリードリヒ・ヴィルヘルム(在位1785−1823)の摂政として、彼の在位中全期間を通じて公国の統治を受け持ち、1823年に公が没すると自身がペーター1世としてオルデンブルク公に即位しました。
摂政期間中の1817年にビルケンフェルトが、翌18年にイェーファーがオルデンブルク領に加わりました。

Peter I. Friedrich Ludwig (1755-1829)
Der dritte Sohn des Herzogs Georg Ludwig von Schleswig-Holstein-Gottorp.
1785-1802 Fürstbischof von Lübeck
1785-1823 Regent des Herzogtums Oldenburg
1803-1829 Fürst von Lübeck
1823-1829 Herzog von Oldenburg



【オスナブリュック司教領】 Hochstift Osnabrueck

In Silber ein rotes Wagenrad.


780 Bistum gegründet
1650 Immerwährenden Kapitulation
1802 weltliches Fürstetum Osnabrück (Personalunion von den Herzöge von Braunschweig-Lüneburg)

銀地に赤色の車輪。

780年にカール大帝によって司教座が設置され、13世紀から14世紀にかけて領国形成が行われました。16世紀になると宗教改革の波を受け、16世紀後半からプロテスタント諸侯の統治下に置かれました。三十年戦争中の1631年にカトリック司教が復活し、対抗宗教改革を始めるものの、すぐにプロテスタント陣営に占領され、1648年のヴェストファーレン条約の結果、カトリックとプロテスタント(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公家)が交互に統治する取り決めがなされました。
1802年、プロテスタント領主司教フリードリヒ(ヨーク公フレデリック)は父親の英王ジョージ3世に統治権を移譲し、オスナブリュックはハノーファー治下の世俗侯領となりました。

宗教面では1855年にカトリック司教が復活し、現在はハンブルク大司教区に所属するカトリックの司教区となっています。


歴代司教 Fürstbischöfe von Osnabrueck

Erich von Braunschweig-Grubenhagen (1508-1532)

【オスナブリュック司教】エーリヒ(在位1508−32)

兼務したオスナブリュック、パーダーボルン両司教の紋章と実家ブラウンシュヴァイク公の紋章の組み合わせ。パーダーボルンの紋章は古紋章で、18世紀に彩色が変更されました。

1532年、ミュンスター司教に選出され、ヴェストファーレン地方の全ての司教を兼ねることとなりました。しかし、司教の就任式直前に没しました。

Erich von Braunschweig-Grubenhagen (1478-1532)
Sohn des Herzogs Albrecht II. von Braunschweig-Grubenhagen.
1508-1532 Fuerstbischof von Osnabrueck und Paderborn
1532-1532 Bishof von Muenster

Geviert, 1. Bm. Osnabrueck, 2 u. 3. Bm. Paderborn (in silber ein rotes Kreuz), 4. Hzm. Braunschweig.


Franz Wilhelm von Wartenberg (1625-1634, 1648-1661)

【オスナブリュック司教】フランツ・ヴィルヘルム(在位1625−34、1648−61)

中央の小盾はオスナブリュックと司教の実家ヴァルテンベルク伯。背後の盾は兼任したミンデンとフェルデン司教の紋章です。

1574年以降プロテスタント司教が続いた後のカトリック司教で、1628年にカトリック陣営のティリー将軍の支援を受けて司教領を掌握し、以後、対抗宗教改革運動を強力に押し進めました。次いでフェルデンとミンデン司教となり、ニーダーザクセンにおけるカトリック勢力復興の推進者として活動しました。1633年、スウェーデン軍来寇によって降伏し、司教位を明け渡しますが、ヴェストファーレンの和約交渉ではカトリック選帝侯の代理として交渉の席に着き、オスナブリュック司教領を再度確保し、カトリック信仰の復活に専心しました。

Franz Wilhelm Reichsgraf von Wartenberg (1593-1661)
Natuerlicher Sohn des Prinz Ferdinand von Bayern, dem Sohn des Herzogs Albrecht V. von Bayern.
1625-1661 Fuerstbischof von Osnabrueck
1630-1648 Fuerstbischof von Verden
1631-1648 Fuerstbischof von Minden
1642-1661 Apostolischer Vikar fuer Bremen
1649-1661 Fuerstbischof von Regensburg
1661 Kardinal


Ernst August von Braunschweig-Lüneburg
(1661-1679)

【オスナブリュック司教】エルンスト・アウグスト(在位1661−98)

ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲンの紋章の中央に司教の紋章が組まれました。

ヴェストファーレンの和約によって新旧の司教が交替で在位することが決められてからの、最初のプロテスタント司教です。
彼は1679年に実家ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲン公を継ぎ、さらに1692年には選帝侯位を得て、ハノーファー選帝侯を称しました。

Ernst August Herzog von Braunschweig-Lüneburg (1629-1698)
Sohn des Herzogs Georg von Calenberg.
1661-1679 Fuerstbischof von Osnabrueck (protestantisch)
1679-1692 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg, Fürst von Calenberg
1692-1698 Kurfürst von Braunschweig-Lüneburg (Hannover)


Karl Joseph von Lothringen (1698-1715)

【オスナブリュック司教】カール・ヨーゼフ(在位1698−1715)

オスナブリュック、オルミュッツ(チェコのオロモウツ)両司教の紋章を組み合わせ、中央に司教の実家ロートリンゲン公の紋章を置きました。

新旧両派の司教による交替統治期のカトリック司教で、神聖ローマ皇帝カール6世のいとこにあたります。はじめオルミュッツ司教(在位1695−1711)で、1698年からオスナブリュック司教を兼ね、更に1711年にはトリーア選帝侯となりました。

Karl Joseph Herzog von Lothringen (1680-1715)
Sohn des Herzogs Karl V. von Lothringen.
1695-1711 Fuerstbischof von Olmuetz
1698-1715 Fuerstbischof von Osnabrueck
1711-1715 Kurfuerst-Erzbischof von Trier, Fuerstabt von Pruem

Gevierter Hauptschild mit dreimal gespaltenes und einmal geteiltes Mittelschild und Herzschild.
Herzschild: Hzm. Lothringen,
Mittelschild: 1. Kgr. Ungarn, 2. Kgr. Neapel, 3. Kgr. Jersalem, 4. Kgr. Aragon, 5. Hzm. Anjou, 6. Hzm, Geldern, 7. Hzm. Juelich, 8. Hzm. Bar,
Hauptschild: 1 u. 4. Bm. Osnabrueck, 2 u. 3. Bm. Olmuetz.



Ernest August von Braunsweig-Lueneburg (1715-1728)

【オスナブリュック司教】エルネスト・アウグスト(在位1715−28)

イギリス王の紋章に、彼個人を表すレイブルマークを加え、更に、ハノーファーの紋章中の内帑長官の紋章をオスナブリュック司教の紋章に置き換えました。

イギリス王となった選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(ジョージ1世)の末弟で、1715年にオスナブリュックのカトリック司教が没したため、司教位を与えられました。翌1716年にはガーター騎士とヨーク公およびアルバニー公に叙せられました。

Ernest August Prinz von Braunsweig-Lueneburg, Herzog von York und Albany (1674-1728)
Der juengste Sohn des Kurfuersten Ernst August von Braunsweig-Lueneburg.
1715-1728 Fuerstbischof von Osnabrueck (protestantisch)
1716-1728 Herzog von York und Albany
1716 Ritter des Hosenbandordens (Nr. 530)

Friedrich August von Grossbritannien (1764-1802)

【オスナブリュック司教】フリードリヒ・アウグスト(在位1764−1802)

1801年頃以降の紋章で、イギリス王の紋章に彼個人を表すレイブルマークを加えました。オスナブリュック司教の紋章は加えられなかったようです。

イギリス王ジョージ3世の次男で、生後6ヶ月にしてオスナブリュック司教に任ぜられました。17歳の時に陸軍に入り、1787年までハノーファーで軍人としての教育を受けました。1784年に陸軍中将になると、ヨーク公およびアルバニー公に叙され、フランドル派遣軍司令官を経て陸軍元帥に昇進(1795年)。1795年から1807年、および1811年からその死に至るまで陸軍総司令官を務めました。軍事では目立った功績はなかったものの、兵士の福祉のために多くの改革を行って人気の高かった司令官でした。軍人養成学校(陸軍大学校や陸軍士官学校の前身)の設立者としても知られます。
1802年に司教領が世俗化されると、統治権を父王に移譲し、司教位を退きました。父王のお気に入りだったため、兄ジョージ4世との仲は冷えていました。
カナダのニューブルンスウィック州の州都フレデリックトンは、彼の名前に由来します。(ブルンスウィックはブラウンシュヴァイクの英語名)。

Friedrich August Prinz von Grossbritannien, Herzog von York und Albany (1763-1827)
Der zweite Sohn des Koenigs Geotg III. von Grossbritanien.
1764-1802 Fuerstbischof von Osnabrueck (protestantisch)
1784-1827 Herzog von York und Albany
1767ミ1827 Grossmeister des Bathordens (Great Master of Order of the Bath)
1771 Ritter des Hosenbandordens (Nr. 591)
1795-1809, 1811-1827 Oberbefehlshaber der britischen Armee



【オスナブリュック市】 Stadt Osnabrueck



銀地に黒色の車輪。司教の紋章の色違いです。

8世紀にカール大帝によって建設されました。1171年に都市権を獲得して司教の支配から事実上の脱却を果たしました。その後ハンザ同盟に加入し、15世紀に最盛期を迎えました。
1648年の「ウェストファリアの講和」の一部はこの町で締結されました。


In Silber ein schwarzes Wagenrad.



【オストフリースラント侯国】 Fuerstentum Ostfriesland

組まれているのは、キルクセナ家の支配下に入った領土を治めていた旧首長の紋章です。

キルクセナ家はウルリヒ1世が1453年にウケナ家の女子相続人テーダと結婚したことで支配権を得ました。彼は1454年に伯に叙され、息子「大伯爵」エッツァルト1世(在位1491−1528)の時に大発展します。エッツァルト1世の治世の初めまでは母テーダが伯家の舵取りを行い、数々の軍事的成功を収めました(1466−94)。
伯家は1654年に帝国諸侯に列せられ、1744年に断絶。領土はプロイセンが相続しました。

左の紋章は現在の東フリースラント郡の郡章に使われています(冠を除く)。


1. Cirksena, 2. tom Brok, 3. Haeuptlinge von Manslagt, 4. Haeuptlinge von Focko Ukena, 5. Attena, 6. Attena-Haeuptlinge von Hero Omken.


【オストフリースラント伯領】

黒地に金色のハルピュイ。および4個の金色の拍車。拍車と星は同一の図形を使うので、どちらの意味で使っているのかは制定者の説明に頼るしかないそうです。

フリースラント東部に大きな勢力を張ったキルクセナ家の紋章で、金色の拍車はノルデン伯領(現ノルデン市)の紋章から付け加えられました。
このハルピュイは、リヒテンシュタイン侯国の紋章にも組み入れられています。これは、一門のリートベルク女伯ヴァルプルギス(在位1562−86)に男性跡継ぎがいなかったため、彼女の次女アグネスの嫁ぎ先リヒテンシュタイン家が相続を主張したからです。



【ラーヴェンスベルク伯領】 Grafschaft Ravensberg

銀地に赤色の細い山形の帯。

記録には11世紀に現れ、1150年に伯領となりました。
1346年に男系が途絶すると、ベルク伯妃となっていたマルガレーテが女伯に即位しました(在位1346−84)。彼女はまた、夫の死後にベルク伯にも即位したため、以後、ベルクとラーヴェンスベルクは合同しました(ベルク女伯在位1360−61)。

In Silber drei rote Sparren übereinander.


11 Jh. Herrschaft Ravensberg
1150 Grafschaft
1360 Union mit der Grafschaft (seite 1380 Herzogtum) Berg


【レーダ領主領】 Herrschaft Rheda

銀地に冠を被った黒いライオン。ライオンの胴には金色のリングを3個置いています。

12世紀頃に成立した領主領で、1190年以降はリッペ家が所有しました。1364年に同家の男系が途絶すると、婚姻を通じてテクレンブルク伯が領土を相続しました。1557年からは一族のベントハイム=ベントハイム伯家の領土となり、1606年から神聖ローマ帝国解体までベントハイム=テクレンブルク=レーダ家が統治しました。


【リートベルク侯国】 Fuerstentum Rietberg (1764-1807)

Wappen :
Herzschild : Familienwappen Kaunitz.
Hauptschild : 1. Rietberg, 2. Ostfriesland (Cirksena), 3. ?.


1237 Grafschaft Rietberg entstand (Teil von Grafschaft Arnsberg)
1584 Haus Ostfriesland-Rietberg
1699 Haus Kaunitz-Rietberg
1764 Fuerstentum
1807 mediatisiert

中央の小盾はカウニッツ家。背後の盾は縦三分割され、向かって左の鷲は、初代伯家のアルンスベルク家、中央は16世紀に伯領を継承したオストフリースラント家の紋章です。

元はアルンスベルク伯領の一部で、1237年の分裂で誕生しました。初代伯家のアルンスベルク家は1562年に男系が途絶。女子相続人となった二人の姉妹が相次いで女伯に即位しました。しかし、姉には子が生まれず、オストフリースラント伯エンノ3世と結婚した妹ヴァルプルギス(在位1584−82)も男子に恵まれなかったため、娘達の嫁ぎ先オストフリースラント家とリヒテンシュタイン家が相続を主張します。結局、オストフリースラント家のヨハン3世(エンノ3世の弟)と結婚した長女サビーネが伯位を継承し、オストフリースラント家が引き続き伯領を統治しました。
このオストフリースラント家も1687年に男系が途絶。女伯マリアがオーストリア貴族のカウニッツ伯と結婚し、夫を共同統治者に迎えました。このカウニッツ伯との結婚によって、伯領はカトリックに復帰しました。マリアの息子ヴェンツェルは、オーストリアのマリア・テレジアの宰相として主に外交面で活躍し、オーストリアとフランスの同盟を成立させるなど功績を上げます。その功によって1764年に帝国諸侯の身分を与えられました。
神聖ローマ帝国解体の翌年、領土はヴェストファーレン王国に併合され、さらに1815年のウィーン会議の結果、プロイセン領となりました。
なお、アロイス(在位1812−48)に後継男子がいなかったため、リートベルク伯の称号はリヒテンシュタイン家が継承しました。


Arnsbergisches Wappen

【アルンスベルク家の紋章】

赤地に金色の鷲。最初の伯家、アルンスベルク家の紋章です。

リートベルクは1237年に行われたアルンスベルク伯領の分裂で誕生しました。アルンスベルク伯から分かれた形になるので、紋章もアルンスベルクの彩色(青地に銀色の鷲)を変えた物が使われました。
なお、アルンスベルク伯領は1368年にケルン大司教に売却されました。


※これまで掲載していた紋章は、オストフリースラント伯の紋章に組まれているトム・ブロックのものでした(参考にした銅版画の説明が間違っていました)。訂正し差し替えました。

bis 1565

【16世紀半ばまで】

向かって右側の紋章は、オストフリースラント伯の紋章に組まれているアッテナ関係の紋章と同じですが、オストフリースラントととの合同以前から組まれています。組まれた経緯について情報がなくわかりませんでした。


1565-

【オストフリースラント家】

盾中央にオストフリースラント伯の紋章(黒地に金色のハルピュイと4個の金色の拍車)が加わりました。

1562年に男系が絶えると、女伯ヴァルプルギス(在位1562−86)はオストフリースラント伯エンノ3世と結婚し、両家を合同させました(1565年)。

1565 Durch die Ehe mit dem Grafen Enno III. von Ostfriesland, Gräfin Walburgis begründet das Haus Ostfriesland-Rietberg.


1699-

【1699年年以降】

中央にカウニッツ家の紋章が組まれました。

1699年、12歳になったリートベルク伯家の女子相続人マリアは、カウニッツ伯と結婚することで統治権を返還され、女伯に即位しました。マリアは夫を共治伯に据えたので、リートベルク伯とカウニッツ伯の爵位は結合しました。

歴代伯 Grafen von Rietberg

Johann III. (1601-1625)

【リートベルク伯】ヨハン3世(1601−25)。

ヴァルプルギスの娘サビーナ・カタリーナ(在位1586−1616)は叔父のヨハン3世と結婚し、彼を共治伯に据えました。妻の死後、ヨハン3世は左のような組み合わせの紋章も使用しました。
黒熊と金色のバナーの紋章の序列は一時期逆転しました。逆転された紋章は1690年代まで見られます。

Johann III. (1566-1625)
Der dritte Sohn des Grafen Edzard II. von Ostfriesland.
1601 Heirat mit Sabina Catharina Gräfin von Rietberg, der Tochter des Grafen Enno III. von Ostfriesland-Rietberg
1601-1625 Graf von Rietberg


Maria (1699-1758)

【リートベルク女伯】マリア(在位1699−1758)。

フェルディナント・マクシミリアンの一人娘で、誕生の翌月に父が没し、伯家の男系は途絶えました。跡を継ぐべきマリアは生まれたばかりの乳児のため、伯領は帝国の管理下に置かれました。12歳になった1699年、オーストリアのカウニッツ帝国伯家のマクシミリアンと結婚することで統治権を返還され、女伯に即位しました。

Maria Ernestine Franziska (1687-1758)
Einziges Kind des Grafen Ferdinand Maximilian von Ostfriesland-Rietberg.
1699-1758 Gräfin von Rietberg
1699 Verheiratete sich mit Fortunatus Joseph Maximilian Ulrich Graf von Kaunitz


Wenzel Anton (1758-1794)

【カウニッツ=リートベルク侯】ヴェンツェル・アントン(在位1758−94)

マリアの次男で、兄が早世したために跡を継ぎました。1744年に父が没するとカウニッツ伯位を継承。父はリートベルク共治伯だったので、この年にリートベルク伯にも即位したともされます。
彼はオーストリアのマリア・テレジアの宰相として活躍し、いわゆる「三枚のペチコート」同盟を成立させ、外交革命を成し遂げました。七年戦争やポーランド分割などでもその手腕を発揮し、大国オーストリアの外交の柱石となりました。
それらの功績によって、1764年に帝国諸侯に列せられました。

Wenzel Anton Joseph Maria Blasius Dominik (1711-1794)
Der zweite Sohn des Grafen Fortunatus Joseph Maximilian Ulrich von Kaunitz-Rietberg und dessen Gemahlin Maria Ernestine Franziska von Ostfriesland-Rietberg.
1746/58-1764 Graf von Kaunitz-Rietberg
1764-1794 Fuerst von Kaunitz-Rietberg
1744 Ritter des Ordens vom Goldenen Vliess (Nr. 738)



【シャウムブルク=リッペ侯国】 Fuerstentum Schaumburg-Lippe

Wappen :

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Schaumburgisches Stammwappen
Hauptschild : 1 u. 4. Gft. Lippe, 2 u. 3. Gft. Schwalenberg.

Hausorden des Ehrenkreuzes gestiftet 1869/1890.


1613 Grafschaft Lippe-Alverdissen (Teil von Lippe-Detmold)
1640 Grafschaft Schaumburg-Lippe
1807 Fuerstentum

中央の小盾はシャウムブルク。背後の盾は、リッペ、シュヴァレンベルク。
紋章盾の下に掛けられている勲章「エーレンクロイツ勲章」は、1869年に制定された「全リッペ侯家のエーレンクロイツ勲章」に由来します。「全リッペ侯家のエーレンクロイツ勲章」は、一族のリッペ侯国と共通で用いられていた家章で、1890年に家章を分離する取り決めが二国間でなされたため、新たな家章が作られました。

1613年にリッペ=デトモルト伯領から分かれました。成立時はリッペ=アルヴァーディッセンと呼ばれ、1640年にシャウムブルク伯領をヘッセン=カッセルと分割相続したことを機に、リッペ=ビュッケブルク(ビュッケブルクはシャウムブルク伯領の中心都市)、次いでシャウムブルク=リッペと改称しました。
1806年の神聖ローマ帝国解体後も主権を維持し、翌1807年にライン同盟に加入。その際に伯領から侯国に昇格しました。その後、ドイツ連邦、北ドイツ同盟を経てドイツ帝国に参加し、帝国の構成国として1918年の革命まで続きました。


Kleines Staatswappen

【小紋章】

公国の小紋章は、シャウムブルクの紋章の盾の部分に、リッペのバラの紋章を組み込んでいます。紋章にはバリエーションがあり、シャウムブルクの盾の部分が本来通り銀と赤に分割されたものと、銀一色のものがあります。


1643-

【1643年以降】

1643年に定まった紋章です。

1640年、シャウムブルク伯領はヘッセン=カッセル方伯とリッペ=アルヴァーディッセン伯との間で分割相続されました。この相続によって、リッペ=アルヴァーディッセンはリッペ=ビュッケブルク(ビュッケブルクは伯領の中心都市)と改称し、ついでシャウムブルク=リッペと名を改めました。

1807-

神聖ローマ帝国解体後も独立を維持したシャウムブルク=リッペは、1807年に侯国に昇格します。昇格に伴い、紋章盾に描かれる冠が変更されました。

【シャウムブルク=ピンネベルク伯領】 Grafschaft Schaumburg-Pinneberg (1290-1640)

シャウムブルクの紋章はイラクサ図形が元になっています。銀赤に横分割された盾を銀色の王冠状の図形で取り囲み、上2個、下1個の突起が付いているのが基本で、この図形が描かれる盾の形状に応じてデフォルメされるため、多くのバリエーションがあります。この図形の由来はよくわかっていないそうです。

シャウムブルク伯はリンテルンの近くのシャウエンブルク城から興った貴族で、リンテルンからハーメルンにいたる領域を領土としていました。城名のシャウエンブルクを家名としていましたが、後にシャウムブルクとも呼ばれるようになりました。1110年にジュップリンブルク家のロタール(後の神聖ローマ皇帝)からホルシュタインとシュトルマルン伯領を授かって北ドイツにも進出。ハンブルク新市を建設したりしました。


16. Jh.

【16世紀半ば】

中央の小盾はシュテルンベルク。背後の盾はシャウムブルクとゲーメン。

1290年のホルシュタイン=イッツェホーの分裂で誕生しました。「ホルシュタイン=」が冠せられて呼ばれることもあります。ピンネベルクはイッツェホーの南東、ハンブルクの西にある都市で、ゲーメンは現在のドイツ=オランダ国境付近に位置します。
14世紀末にシュテルンベルク伯家の後継者が絶えると、その領土を購入。伯領はその後リッペ伯に質入れされたため、後にリッペの紋章にも登場します。また、ゲーメンは、ヨハン4世(在位1498−1527)がゲーメンの女子相続人コルドゥラと結婚したため、息子ヨプストによって領土が継承されました。このヨプストの代に、ゲーメンとシュテルンベルクの紋章が登場しました。


16. Jh.-17. Jh.

【16世紀末頃】

16世紀の末頃に紋章配置が変更されました。

伯領は16世紀半ばから一族による共同統治が行われ、1620年に帝国諸侯に列したエルンスト(在位1601−22)の死後はシャウムブルク=ゲーメン家の単独統治となりました。しかし、1640年に断絶。領土は諸家によって分割され、シャウムブルクはリッペとヘッセン=カッセルに、ゲーメンはリンブルク=シュティルムに、ピンネベルクはデンマークに渡りました。

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Gft. Schaumburg.
Hauptschild : 1 u. 4. Gft. Sternberg, 2 u. 3. H. Gemen (Gehmen).



【シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国】 Herzogtum Schleswig-Holstein

向かって左側がシュレースヴィヒ、右側がホルシュタイン。

1474年、デンマーク=ノルウェー=スウェーデン王クリスティアン1世がそれまでのホルシュタイン=レンツブルク公国を廃して設置しました。その初代公となったクリスティアン1世の没後、ゼーゲブルク系(デンマーク王家)とゴットルプ系に分裂し、以後、多くの家系が分かれました。
公国はシュレースヴィヒとホルシュタインの2公国で構成され、前者はデンマーク、後者は神聖ローマ帝国に属していました。成立以来たびたびデンマークと結合しましたが、1815年にホルシュタイン公国がドイツ連邦に加盟したことや、住民のほとんどがドイツ系だったことから、デンマークからの分離要求が高まり、いわゆる「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」が持ち上がりました。

1481-1773

【シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公国】

中央の小盾はオルデンブルク伯、デルメンホルスト伯。背後の盾は、ノルウェー継承人、シュレースヴィヒ公、ホルシュタイン公、シュトルマルン公、ディトマルシェン公。

1481年の分裂で誕生しました。その直後にグリュックシュタット家(デンマーク王家)など3家に分かれ、以後も多くの家系を分立させました。16世紀の後半にはリューベック司教位を獲得し、歴代公または一族が司教を兼ねました。さらに1762年にはロシア皇帝位を獲得。同家初代のロシア皇帝ピョートル3世の息子パウル(皇帝パーベル1世)は、1773年に公国をデンマークに譲渡したため、1864年までデンマークの支配が続きました。

ca. 1848

【19世紀】

中央の小盾はオルデンブルク、デルメンホルスト。背後の盾は、シュレースヴィヒ、ホルシュタイン、シュトルマルン、ディトマルシェン、ザクセン(ラウエンブルクを表現)。ザクセン=ラウエンブルクは1814年にデンマーク王家が獲得し、シュレースヴィヒ=ホルシュタインと結合しました。


Geviert mit Herzschild und einer unten eingepfropften Spitze.
Herzschild : geviert, 1 u. 4. Gft. Oldenburg, 2 u. 3. H. Delmenhorst.
Hauptschild : 1. Hzm. Schleswig, 2. Hzm. Holstein, 3. H. Stormarn, 4. Land Ditmarschen, 5. Hzm. Sachsen (fuer Lauenburg).



【テクレンブルク伯領】 Grafschaft Tecklenburg

銀地に三つの赤い睡蓮の葉。

伯領は12世紀初頭に成立しました。1263年にテクレンブルク家の男系が絶えると、女子相続人を通じてベントハイム伯家の所領となり、1277年から1557年まではベントハイム=テクレンブルク家が、1557年以降はベントハイム=ベントハイム伯がテクレンブルク伯を兼ねました。伯領は1696年にゾルムス伯に売却され、1707年にプロイセンに転売されました。

In Silber drei 2:1 rote Herzen.

12 Jh. Grafschaft endstand
1263-1277 zu Bentheim
1277-1557 zu Bentheim-Tecklenburg
1557-1696 zu Bentheim-Bentheim
1696-1707 zu Solms-Braunfels
1707 zu Preussen


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