(3)帝国北西部の諸邦(A−L)

16世紀前半の神聖ローマ帝国北西部
現在のニーダーザクセン州、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、ハンブルク特別市、ブレーメン特別市の地域です


掲載一覧です Liste (A -L)  
(M - Z)

ベントハイム=シュタインフルト伯領
ベントハイム=テクレンブルク=レーダ伯領
ブラウンシュヴァイク公国

ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯国
ブラウンシュヴァイク=ダンネンベルク侯領
ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン侯国
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク侯国
ブレーメン(自由ハンザ都市)
ブレーメン大司教領

ブレーメン=フェルデン公国

ブルフハウゼン伯領
ディープホルツ伯領

ガンダースハイム女子修道院領
ハンブルク(自由ハンザ都市)

ハノーファー王国・選帝侯国
ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲン侯国

ヘルフォート女子修道院領
ヒルデスハイム司教領
ヒルデスハイム市

ホヤ伯領
イェーファー領主領

クニプハウゼン=ファーレル男爵領
ザクセン=ラウエンブルク公国
ラウエンブルク公国
リンゲン伯領
リッペ=デトモルト侯国・伯領
リューベック司教領
リューベック侯領
リューベック(自由ハンザ都市)


Bentheim (Gft.)
Bentheim-Steinfurt (Gft)
Bentheim-Tecklenburug-Rheda (Gft.)
Braunschweig (Hzm.)
Braunschweig-Wolfenbuettel (Fsm.)
Brarunschweig-Dannenberg (Fsm.)
Braunschweig-Grubenhagen (Fsm.)
Braunschweig-Lueneburg (-Celle, Hzm.)
Bremen (Hansestadt)
Bremen (Erzbm.)
Bremen-Verden (Hzm.)

Bruchhausen (Gft.)
Diepholz (Gft.)
Gandersheim (Abtei)
Hamburg (Hansestadt)
Hannover (Kgr, Kfsm.)
Braunschweig-Lueneburg-Calenberg-Hannover (Fsm.)
Herford (Abtei)
Hildesheim (Bm.)
Hildesheim (Stadt)

Hoya (Gft.)
Jever (H.)
Knyphausen-Varel (Fh.)
Sachsen-Lauenburg (Hzm.)
Lauenburg (Hzm.)
Lingen (Gft.)
Lippe-Detmold (Gft, Fsm.)
Luebeck (Bm.)
Luebeck (Fsm.)
Luebeck (Hansestadt)


Abkuerzungen :
Kgr.= Koenigreich, Ghzm.= Grossherzogtum, Ehzm.=Erzherzogtum, Hzm.= Herzogtum, Kfsm.= Kurfuerstentum, Fsm.= Fuerstentum
Mgft.= Markgrafschaft, Lgft.= Landgrafschaft, Bgft.=Burggrafschaft, Fgft.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft, Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.= Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum


【ベントハイム伯領】 Grafschaft Bentheim (-Steinfurt)

Wappen (19. Jh.):

Herzschild : dreimal gespalten und einmal getailt - 1. H. Wevelinghoven, 2. H. Rheda. 3. Gft. Hoya, 4. H. Alpen, 5. H. Helpenstein?, 6. ?,
Hauptschild : geteilt oben zweilal gespalten - 1. Gft. Bentheim, 2. Gft. Tecklenburg, 3. Gft. Lingen, unten gespalten - 4. Gft. Steinfurt, 5. Gft. Limburg.


1182 Grafschaft Bentheim
1277 Erbteilungen -> Bentheim-Bentheim und Bentheim-Tecklenburg (1557 erloschen)
1454 Grafschaft Bentheim-Steinfurt entstand
1495 Reichsgrafenstand
1806 mediatisiert
1817 Preussischer Fürst

ベントハイム伯はエムス川流域の有力者で、13世紀には婚姻を通じてテクレンブルク伯領を獲得します。1277年にベントハイム=ベントハイム家にとベントハイム=テクレンブルク家に分かれ、前者は1454年にベントハイム=ベントハイムとベントハイム=シュタインフルトに分かれました。
ベントハイム伯各家のうち、ベントハイム=シュタインフルト家は1495年に帝国伯の地位を得、1530年にベントハイム=ベントハイム家が、また1557年にベントハイム=テクレンブルク家が絶えたので家領を再統一しました。1592年にリンブルク伯領やアルペン領主領を獲得した後、1606年にベントハイム=テクレンブルク=レーダ、1643年にベントハイム=ベントハイムが分かれました。ベントハイム=ベントハイム家は自家の領有部分に付属する神聖ローマ帝国議会への出席権をハノーファーに質入れして陪臣化しましたが、伯家全体としては1806まで主権身分を維持しました。帝国が解体すると、領土はベルクやハノーファーなどに渡り、最終的にプロイセン領となりました。
主権を失った後、ベントハイム=シュタインフルト家とテクレンブルク=レーダ家が1817年にプロイセン王国の侯の爵位を得ました。


赤地に18個の金色の球。
ベントハイム伯の紋章です。球の並べ方にはバリエーションがありましたが、上3段には4個ずつ並べ、それより下の段は1個ずつ数を減らすようです。

In Rot achtzehn 4:4:4:3:2:1 goldene Kugeln.

16 Jh.

【16世紀】

中央の小盾はヴェーヴェリングホーフェン領主。背後の盾は、ベントハイム伯とシュタインフルト伯。

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : H. Wevelinghoven.
Hauptschild : 1 und 4. Gft. Bentheim, 2 und 3. Gft. Steinfurt (In Gold ein blau bewehrter roter Schwan).

17 Jh.-

【17世紀以降】

情報がなく詳細不明です。中央の小盾はヴェーヴェリングホーフェン領主、レーダ領主、ホヤ伯、アルペン領主、ヘルフェンシュタイン領主、(不明)。背後の盾はベントハイム、テクレンブルク、リンゲン、シュタインフルト、リンブルク。17世紀頃から使われていた紋章です。

リンブルクはラーン川流域にあった伯領で、領主だったノイエナール=アルペン家が1592年に断絶すると、遺領を相続しました。ベントハイム=リンブルク、ベントハイム=アルペン家の統治を経て、1629年以後はベントハイム=テクレンブルク=レーダ家の領土となりました。
ベントハイム伯各家は1806年に主権を失い、領土はベルクやプロイセンなどに併合されました。その後、1817年にベントハイム=シュタインフルト家とテクレンブルク=レーダ家がプロイセン王国の侯の爵位を得ました。


【ベントハイム=テクレンブルク=レーダ伯領】 Grafschaft Bentheim-Tecklenburg-Rheda

Kleines Wappen

中央の小盾はレーダ領主領。これは小紋章です。

1269年に成立したベントハイム=テクレンブルク伯家は、14世紀の半ばに婚姻を通じてレーダ領主領を獲得します。16世紀にベントハイム家はいったん統一されますが、1606年の家領分割で新たなベントハイム=テクレンブルク=レーダ家が誕生しました。
伯家の領土のうち、テクレンブルク伯領は1696年にゾルムス伯に渡り、1707年にはプロイセンに売却されました。伯領の残りの領土は1806年に主権を失いました。その後、1817年にプロイセン王国の侯位を得ました。

1606 Grafschaft Bentheim-Tecklenburg-Rheda
1806 mediatisiert



【ブラウンシュヴァイク公国】 Herzogtum Braunschweig

Wappen (1835)

1291 Fuerstentum Braunschweig-Wolfenbuettel
1345-1428 (Altes Haus)
1428-1634 (Mittelers Haus)
1635-1735 (Neues Haus)
1735-1884 (Bevern)
1814 Herzogtum Braunschweig


Herzoglich Braunschweigischen Ordens Heinrichs des Löwen gestiftet durch Herzog Wilhelm am 25.4.1834

Kleines Staatswappen :

1. Hzm. Braunschweig, 2. Hzm. Lueneburg.

上が大紋章の構成、下が小紋章です。大紋章は1835年に定まった組み合わせで、それまで小紋章に使われていたザクセンの馬(現在ニーダーザクセンの州章になっています)を取り除きました。
小紋章はブラウンシュヴァイク(赤地に2頭の歩き姿のライオン)とリューネブルク(赤いハートがちりばめられた金地に青色のライオン)の組み合わせで、ブラウンシュヴァイク一族の公式称号、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を表現した構成になっています。2頭のライオンの盾持ちは、1735年に公国を相続したヴェーベルン家の盾持ちから採られたようです。また、盾の周囲を囲むベルトは、ハインリヒ獅子公勲章のチェーン部分の円形プレートを表していて、「IMMOTA FIDES」は勲章のモットーです。台座を兼ねている青色の巻物に刻まれている「NEC ASPERA TERRENT」が公家のモットーになります。

ザクセン兼バイエルン公ハインリヒ獅子公の下で領土が形成されました。1180年の獅子公失脚後も、彼の子供達によって領土は保持され、1235年にブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国となりました(都市リューネブルクは獅子公によって建設されました)。その後分割相続が繰り返されて多くの家系に分かれましたが、ヴォルフェンビュッテルとカレンベルクが諸領を統合して発展します。
ヴォルフェンビュッテルは1814年にブラウンシュヴァイク公国と改称し、その後ドイツ帝国に参加して1918年まで存続しました。


Braunsweig

赤地にこちらを向いた二頭の歩き姿のライオン。

1267年の公国分裂後、ブラウンシュヴァイク家(古家系:1596年に断絶)が用いた紋章で、ブラウンシュヴァイクの紋章となりました。


In Rot zwei goldene, blau gezungte Leoparden uebereinander.

Kleines Wappen

【小紋章】

ブラウンシュヴァイクとリューネブルクの組み合わせ。リューネブルクの紋章は、古リューネブルク家(1369年絶)が用いていた紋章です。

1814年にブラウンシュヴァイク公国が成立すると、君主の称号を「ブラウンシュヴァイク公およびヴォルフェンビュッテル侯」から「ブラウンシュヴァイクおよびリューネブルク公」と改めたため、小紋章は両者の紋章を組み合わせたものが使われました。「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公 Herzog zu Braunschweig und Lüneburg」は、13世紀まで遡る同公家の正式称号です。


Gespalten vorn in Rot zwei goldene, blau gezungte Leoparden übereinander (Hzm. Braunschweig), hinten Im goldenen, mit toten Herzen bestreuten Felde ein rot bewherter blauer Löwe (Hzm. Lüneburg).


1835-

【1835年以降】

ブラウンシュヴァイクの馬が削られ、ホーエンシュタインの紋章が正規の構成に戻りました。

ヴィルヘルム(在位1831−84)が没すると、公国はプロイセン政府による統治が行われます。1913年に新公が即位して公国が再興しますが、その5年後、ドイツ革命によって消滅しました。


Zweimal gespalten und dreimal geteilt.
1. Hzm. Lüneburg, 2. Hzm. Braunschweig, 3. Gft. Everstein, 4. H. Homburg, 5. Gft. Diepholz (obere Wappenhälfte. Im Vereine mit Feld 8.), 6. Gft. Lauterberg, 7. Quergeteilt; oben Gft. Hoya, unten geteilt: oben von Rot und Silber viermal quergestreift (Gft. Neu-Bruchhausen), unten von Silber und Blau geständert (Gft. Alt-Bruchhausen), 8. Gft. Diepholz (untere Wappenhälfte), 9. Gft. Hohnstein, 10. Gft. Regenstein, 11. Gft. Klettenberg, 12. Gft. Blankenburg.


【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯国】 Fürstentum Braunschweig-Wolfenbüttel

16 Jh.

組まれている紋章は、ブラウンシュヴァイク、リューネブルク、エバーシュタイン、ホンブルク。

1345年にブラウンシュヴァイク=ゲッティンゲンから分かれ家系で、途中、家系の断絶や占領を経験しましたが、1918年まで存続しました。19世紀にブラウンシュヴァイク公国と改称しました。


Geviert, 1. Hzm. Braunschweig, 2. Hzm. Lüneburg, 3. Gft. Everstein, 4. H. Homburg.

歴代公 Fuersten von Braunschweig-Wolfenbuettel

Heinrich II. (1514-1542, 1547-1568)

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】ハインリヒ2世(在位1514−15)

ヴォルフェンビュッテル最後のカトリック君主です。1519年、ヒルデスハイム教会フェーデを起こして領土を拡大しました。領内のプロテスタント勢力がシュマルカルデン同盟に加わると、対抗してカトリック同盟に参加。しかし1542年にシュマルカルデン同盟軍の進攻を受け逃亡し、公国はプロテスタント化しました。ミュールベルクの戦いでプロテスタントが敗北すると公国に復帰して再カトリック化を試みましたが、達成できませんでした。
1555年に金羊毛騎士に叙されました。

Heinrich II. (1489-1568)
Der zweite Sohn des Herzogs Heinrich I. von Braunschweig-Wolfenbuettel.
1514-1542, 1547-1568 Herzog zu Braunschweig-Lueneburg und Fuerst von Wolfenbuettel
1555 Ritter des Ordens vom Goldenen Vliess (Nr. 214)


Heinrich Julius (1589-1613)

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】ハインリヒ・ユリウス(在位1589−1613)

中央の小盾はハルバーシュタット司教。背後の盾は、ブラウンシュヴァイク、リューネブルク、エバーシュタイン、ホンブルク、ホヤ、アルトブルフハウゼン(赤銀の横分割)&ノイブルフハウゼン(銀青の放射8分割)。ホヤ=ブルフハウゼン伯領は1582年にブラウンシュヴァイク=カレンベルクが継承し、1584年にカレンベルクが絶えると、本家のヴォルフェンビュッテルに渡りました。

ハインリヒ・ユリウスはハルバーシュタット司教を兼ねていました(在位1566−1613)。ハルバーシュタットでは彼を初代として1627年までプロテスタント司教が在位しました。

Heinrich Julius (1564-1613)
Sohn des Herzogs Julius von Braunschweig-Wolfenbuettel.
1566-1613 Administrator des Bistums Halberstadt
1589-1613 Herzog zu Braunschweig-Lueneburg und Fuerst von Wolfenbuettel

Herzschild: Bm. Halberstadt : gespalten von Silber und Rot.


Heinrich Julius
ca. 1593

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】ハインリヒ・ユリウス(2)

ホーンシュタイン伯の紋章が加わりました。向かって右下のラウターベルク(ライオンと金赤の横縞)、ホーンシュタイン(チェック)、最下段の鹿(クレッテンベルク)です。

ホーンシュタイン(ホーエンシュタイン)伯家は1593年に断絶し、その領土の大部分をヴォルフェンビュッテルが相続しました。

Heinrich Julius
ca. 1600

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】ハインリヒ・ユリウス(3)

1600年頃からの紋章です。
組まれているのは、中央の小盾がハルバーシュタット司教。背後の盾は、リューネブルク、ブラウンシュヴァイク、エバーシュタイン、ラウターベルク(の上半分)、アルト&ノイブルフハウゼン、ホヤ、ホーンシュタイン&ラウターベルク(の下半分:金と赤の横帯)、ブランケンブルク、クレッテンベルク、レーゲンシュタイン。

ヴォルフェンビュッテルは1593年にホーンシュタイン伯の遺領を相続しました。その結果、同伯の紋章(ホーンシュタイン、ラウターベルク、クレッテンベルク)が組み込まれました。しかし組み方が定まらなかったようで、バリエーションが認められます。1600年頃にブランケンブルクとレーゲンシュタインの紋章が組み込まれ、紋章配置が安定しました。


Friedrich Urlich (1613-1634)

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】フリードリヒ・ウルリヒ(在位1613−34)

ハインリヒ・ユリウスの息子で、父の死後、公位を継ぎました。ハルバーシュタット司教位は弟のクリスチャンが継いだため(司教在位1613−24)、ハルバーシュタット司教の紋章が消え、盾の中央列の紋章が上に詰められました。
彼には世継ぎがいなかったため、領土は一族のブラウンシュヴァイク=リューネブルク=ダンネンベルク公子アウグストが継承します。

Friedrich Urlich (1591-1634)
Sohn des Herzogs Heinrich Julius von Braunschweig-Wolfenbuettel.
1613-1634 Herzog zu Braunschweig-Lueneburg und Fuerst von Wolfenbuettel

August II. (1634-1666)

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公国】アウグスト2世(在位1634−66)

1635年頃にディープホルツ伯の紋章が組み込まれました。ディープホルツ伯は1585年に断絶し、領土はブラウンシュヴァイクが継承していました。ディープホルツの紋章は、中央列の金地に赤色のライオンと青地に銀色の鷲で、ラウターベルク伯の紋章と同じく、一つの紋章が上下に分離されて組み込まれました。また、ブランケンブルクとレーゲンシュタインの紋章が一つにまとめられたのが大きな変更点です。正式には二つの紋章の間に分割線が入るのですが、しばしば省略されるようです。
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク=ダンネンベルク公ハインリヒの末子で、ヴォルフェンビュッテル公を継ぎました。

August II. (1579-1666)
Das letzte Kind des Herzogs Heinrich von Braunschweig-Dannenberg.
1598-1634 Herzog zu Braunschweig-Lueneburg und Fuerst von Hitzacker
1634-1666 Herzog zu Braunschweig-Lueneburg und Fuerst von Wolfenbuettel


Ludwig Rudolph (1731-1735)

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】ルートヴィヒ・ルドルフ(在位1731−35)

盾の最下段の構成が変更されました。
なお、ホヤ&新旧ブルフハウゼンやラウターベルクとホーエンシュタインの紋章の組み方にもバリエーションがありました。

兄アウグスト・ヴィルヘルム(在位1714−31)の死後、公位を継承しました。世継ぎがいなかったため、従弟のフェルディナント・アルブレヒト(ベーヴェルン家)が領土を相続しました。

Ludwig Rudolph (1671-1735)
Der letzte Sohn des Herzogs Anton Ulrich von Braunschweig-Wolfenbuettel.
1731-1735 Herzog zu Braunschweig-Lueneburg und Fuerst von Wolfenbuettel


Karl II. Wilhelm Ferdinand (1780-1806)

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】カール2世ヴィルヘルム・フェルディナント(在位1780−1806)

中央にブラウンシュヴァイクの馬(ザクセンの馬)が組み込まれました。
1834年まで使用されました。

君主であると同時にプロイセン王国軍の司令官を務めました。1806年、プロイセン軍の主力を率いてアウエルシュテットでフランス軍と対戦し、敗死しました。彼の戦死後、公国はヴェストファーレン王国に併合されました。
公国は1813年にブラウンシュヴァイク公国として再興します。

Karl II. Wilhelm Ferdinand (1735-1806)
Sohn des Herzogs Karl I. von Braunschweig-Wolfenbuettel.
1780-1806 Herzog zu Braunschweig-Lueneburg und Fuerst von Wolfenbuettel


【ブラウンシュヴァイク=ダンネンベルク侯領】 Fürstentum Braunschweig-Dannenberg (1569-1636)

Heinrich (1569-1598)

【ブラウンシュヴァイク=ダンネンベルク侯】ハインリヒ(在位1569−1598)

ブラウンシュヴァイク=ツェレの分裂で誕生しました。ダンネンベルクはハインリヒ獅子公によって設置された伯領で、1306年以降ブラウンシュヴァイクに組み込まれました。
初代ハインリヒは1546年からツェレの共治侯で、ブラウンシュヴァイク=リューネブルクを興したヴィルヘルムの兄にあたります。彼はダンネンベルク侯を称したものの、リューネブルク侯国内の領主と見なされました。
ハインリヒの没後、ダンネンベルクとヒツァカーに分裂。二代目ダンネンベルク侯ユリウス・エルネストには世継ぎがなく、二代で絶えました。
紋章は1583年以降のブラウンシュヴァイク各家と共通でした。

Heinrich (1533-1598)
Der dritte Sohn des Herzogs Ernst I. von Braunschweig-Lueneburg-Celle.
1546-1569 Fuerst von Braunschweig-Lueneburg-Celle
1569-1598 Fuerst von Dannenberg


Julius Ernest (1598-1636)

【ブラウンシュヴァイク=ダンネンベルク侯】ユリウス・エルネスト(在位1598−1636)

ディープホルツの紋章が加わり、ホヤ=ブルフハウゼンの紋章とX字状に組まれました。盾地を上下に二分し、それぞれをさらに四分割して紋章を組んだ構成になっています。新旧ブルフハウゼンの序列は逆転されています。

父親の没後、領土を弟アウグスト2世と分割相続しました。1636年に後継者なく没し、領土はアウグスト2世が継承。なお、アウグスト2世は1634年にヴォルフェンビュッテルを相続していたので、ダンネンベルクはヴォルフェンビュッテルと合同して消滅しました。

Julius Ernest (1571-1636)
Der aelteste Sohn des Herzogs Heinrich von Braunschweig-Dannneberg.
1598-1636 Fuerst von Dannenberg

【ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン侯国】 Fürstentum Braunschweig-Grubenhagen (1291-1596)

ca. 1593-1596

【16世紀末】

1291年にゲッティンゲンと共にブラウンシュヴァイクから分かれた侯国で、アインベックやオステローデ、ヘルツベルクなど、ハルツ山地の西部にあたる地域(おおよそブロッケン山以西)を領土としました。領邦名はアインベックにあったグルーベンハーゲン城に由来します。1322年にオステローデ家が分かれ、1526年以降はオステローデ家による単独統治となりました。
1596年に断絶し、領土はブラウンシュヴァイク=リューネブルクが相続しました。

16世紀末の紋章は、最下段にラウターベルクを組んでいました。

【ブラウンシュヴァイク=リューネブルク侯国】 Fürstentum Braunschweig-Lüneburg (1267-1705)

-1624

【1624年まで】

1267年のブラウンシュヴァイク公国の分裂で誕生しました。1369年に家系が絶えると継承戦争が勃発し、1373年まで一族のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルが、その後1388年までザクセン公アスカニエル家が統治しました。
エルンスト2世(在位1520−1546)が1527年に宗教改革を実施すると、領土はハールブルク、ツェレ、ギフホルンに分裂して一時中断。ツェレの再分裂で1569年に再興しました。
1641年にツェレとカレンベルク=ゲッティンゲン(のちのハノーファー)に分裂しました。

1267 entstand (Teil von Herzogtum Braunschweig)
1641 Erbteilungen -> Braunsweig-Celle und Braunsweig-Lüneburg-Calenberg
1705 Linie Braunsweig-Celle erloschen, Territorium ging Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg (Braunsweig-Lüneburg-Calenberg)


1626-1636

【1626年−1636年】

最下段にラウターベルクの紋章が加わりました。


1. Hzm. Lüneburg, 2. Hzm. Braunschweig, 3. Gft. Everstein, 4. H. Homburg, 5. Gft. Hoya, 6. Gft. Diepholz (obere Wappenhälfte. Im Vereine mit Feld 8.), 7. Gft. Alt- und Neu-Bruchhausen, 8. Gft. Diepholz (untere Wappenhälfte), 9. Gft. Lauterberg.

1637-

【1637年以降】

紋章が大幅に変更されました。1641年にカレンベルクとツェレに分裂してからも、引き続き両国で用いられた他、ブラウンシュヴァイク各家の基本的紋章となりました。

歴代公 Fuersten von Braunschweig-Lueneburg

Christian der Ältere (1611-1633)
1624-1625

【ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公】クリスティアン(在位1611−33)

1624年以降の紋章です。最下段にラウターベルクの紋章が加えられました。

クリスティアンは初めミンデン司教で(在位1599−1625)、1611年の兄の死で公国を相続しました。三十年戦争では、デンマーク王クリスティアン4世と共にニーダーザクセンクライス軍を創設し、クライス内の平和維持を図りました(1625年)。

Christian der Ältere (1556-1633)
Der zweite Sohn des Herzogs Wilhelm von Braunschweig-Lüneburg.
1599-1625 Fürstbischof von Minden
1611-1633 Herzog zu Braunschweig-Lueneburg und Fuerst von Lueneburg


Christian der Ältere (1611-1633)
1626-1633

【ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公】クリスティアン(2)

1626年頃に、下段の配置が手直しされました。ミンデン司教位を失ってからも、彼の紋章にはミンデンの紋章が残りました。


Georg Wilhelm (1665-1705)

【ブラウンシュヴァイク=ツェレ公】ゲオルク・ヴィルヘルム(在位1665−1705)

ブラウンシュヴァイクの紋章の中央にニーダーザクセンの馬が組まれ、それによって盾の下半分の紋章の配置が若干変更されました。

カレンベルク=ゲッティンゲン公ゲオルク(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク共治公)の次男で、兄や弟エルンスト・アウグスト(初代ハノーファー選帝侯)と領土を分割相続しました。はじめハノーファーに宮廷を構え、兄の死後にツェレに宮廷を移しました。後継男子がいなかったため、娘ゾフィー・ドローテアと結婚した甥、ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のイギリス王ジョージ1世)が領土を相続しました。
1694年にガーター騎士に叙されました。

Georg Wilhelm (1624-1705)
Der zweite Sohn des Herzogs Georg von Braunschweig-Lüneburg-Calenberg.
1648-1665 Herzog zu Braunschweig-Lueneburg und Fuerst von Calenberg
1665-1705 Herzog zu Braunschweig-Lueneburg und Fuerst von Lueneburg
1694 Ritter des Hosenbandordens (Nr.500)



【自由ハンザ都市ブレーメン】 Freie Hansestadt Bremen

Grosses Staatswappen :


787 Stadt gegründet
1358 Hansestadt
1646 Freien Reichsstadt

787年にカール大帝(シャルルマーニュ)によって建設された都市で、1646年まではブレーメン大司教の支配下にありましたが、13世紀には事実上の独立を果たします。1358年にハンザ同盟に加入し、以後は商業都市として発達しました。1646年に帝国都市となり、1815年に自由ハンザ都市としてドイツ連邦に加入、1918年まで独立の都市国家として存続しました。現在も市域は独立の州となっています。

Mittleres Staatswappen

【中紋章】

中紋章は盾と冠という構成です。
元々は鍵を持つ聖ペテロ像が都市の紋章で、14世紀後半に鍵のみの紋章に変わりました。その後、都市が宗教改革を行うと、カトリックの聖ペテロの鍵という説明は取り下げられ、代わって、ニーダーザクセンの鍵、あるいは海路への鍵といった解釈が付け加えられました。

1811-1813

【ナポレオン体制期】

彩色が変更され、盾の上部に赤い帯と三匹のミツバチが置かれました。ミツバチはナポレオンから授与された紋章で、三匹という数は第一級都市ということを表します。
この変更は強制的に行われたため、ナポレオンが失脚すると直ちに廃止され、以前の紋章が復活しました。


【ブレーメン大司教領】 Erzstift Bremen

In Rot zwei gekreuzte, die Bärte abwärts kehrende silberne Schlüssel.


805 Bistum Bremen gegründet
1072 Erzbistum Bremen
848-1224 Personalunion mit dem Erzbistum Hamburg
1220 Erzstift
1648 weltliches Herzogtum Bremen unter schwedischer Herrschaft

赤地に銀色のペテロの鍵。

805年に設置された司教座が起源で、845年にノルマン人の来寇でハンブルク大司教区が破壊されると、ブレーメン司教位はハンブルク大司教位と結合しました。その後、1072年に大司教座に昇格し、1220年には神聖ローマ帝国の聖職諸侯の地位を得ました。
1558年以降はプロテスタントの支配を受け、三十年戦争では、スウェーデンやデンマークに占領されました。
1648年のヴェストファーレンの和約の結果、大司教領は世俗化され、スウェーデンの統治する「ブレーメン=フェルデン公国」となりました。

Herzogtum Bremen

【ブレーメン公領】

大司教領は1802年に世俗化され、プロイセン支配下の公領となりました。プロイセン時代は、司教の紋章の鍵の上方にラテン十字タイプの十字架が描かれました。

歴代大司教 Fürsterzbischöfe von Bremen

Nikolaus von Oldenburg-Delmenhorst (1422-1435)

【ブレーメン大司教】ニコラウス(在位1422−35)

オルデンブルク伯の紋章との組み合わせ。

オルデンブルク=デルメンホルスト伯オットー4世の長男で、1423年に父親が没すると、デルメンホルスト伯を継承しました(デルメンホルスト伯1423−38)。1435年に大司教位を退いて世俗君主となりますが、1438年に伯位と領土をオルデンブルク伯本家に譲りました(1444年没)。
なお、デルメンホルスト伯を継承したオルデンブルク伯ディートリヒの死後、デルメンホルスト伯領は次男モーリッツが継承し、新オルデンブルク=デルメンホルスト家を興しました。(長男クリスティアンはデンマーク、ノルウェー、スウェーデン王に選出され、オルデンブルク朝を開きます)。

Nikolaus Graf von Oldenburg-Delmenhorst (?-1447)
Sohn des Grafen Otto IV. von Delmenhorst.
1421-1434 Fürsterzbischof von Bremen
1423-1438 Graf von Oldenburg-Delmenhorst

Feld 1 u. 4. : Gft. Oldenburg.


Heinrich II. von Schwarzburg (1463-1496)

【ブレーメン大司教】ハインリヒ2世(在位1463−96)

大司教の実家シュヴァルツ伯の紋章との組み合わせ。

シュヴァルツブルク=ブランケンブルク伯ハインリヒ26世(在位1444−88)の次男で、1466年からはミュンスター司教を兼ねました(ミュンスター司教ハインリヒ3世:在位1466−96)。

Heinrich II. von Schwarzburg (?-1496)
Der Zweite Sohn des Grafen Heinrich XXVI. von Schwarzburg-Blankenburg.
1463-1496 als Heinrich II. Fürsterzbischof von Bremen
1466-1496 als Heinrich III. Fürstbischof von Münster

Feld 2 u. 3. : Gft. Schwarzburg.


Georg von Braunschweig-Lüneburg (1558-1566)

【ブレーメン大司教】ゲオルク(在位1558−66)

司教の実家ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ヴォルフェンビュッテル)の紋章の中央にブレーメン大司教およびミンデン、フェルデン両司教の紋章が組まれました。

ミンデン司教フランツ1世(在位1508−1529)の実弟で、ミンデン司教ユリウス(実の甥:在位1553−1554)が実家ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公を継承したのを受けて、ミンデンの管理人となりました。ブレーメン大司教とフェルデン司教には1558年に就任します。
甥ユリウスがプロテスタントに改宗してシュマルカルデン同盟に参加したため、初代プロテスタント大司教となりました。ブレーメンでは以後1648年の世俗化まで、プロテスタントによる統治が続きます。

Georg von Braunschweig-Lüneburg (1494-1566)
Der fünfte Sohn des Herzogs Heinrich I. von Braunschweig-Wolfenbüttel. Er war der letzte katholische Erzbischof von Bremen.
1554-1566 Administrator des Bistums Minden
1558-1566 Fürsterzbischof von Bremen und Fürstbischof von Verden.

Hauptschild : 1. Erzbm. Bremen, 2. Bm. Minden, 3. Bm. Verden.


Johann Friedrich von Holstein-Gottorp (1596-1634)

【ブレーメン大司教】ヨハン・フリードリヒ(在位1596−1634)

ホルシュタイン=ゴッットルプ公の紋章に、ブレーメン大司教、リューベック司教の紋章を組み込みました。1607年以降の紋章です。

初代シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴッットルプ公アドルフの末っ子で、デンマーク王フレデリク1世の孫に当たります。兄ヨハン・アドルフ(ブレーメン大司教:1585−96、リューベック司教:1586−1607、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴッットルプ公:1587−1616)から1596年に大司教位を、1607年にリューベック司教位を譲られました。また1631年には、それまでのカトリック司教に代わってフェルデン司教にも就任しました。

Johann Friedrich Herzog von Schleswig-Holstein-Gottorp (1579-1634)
Der letzte Kind des Herzogs Adolph von Schleswig-Holstein-Gottorp.
1590-1634 Herzog von Schleswig-Holstein-Gottorp
1596-1634 Fürsterzbischof von Bremen
1607-1634 Fürstbischof von Lübeck
1631-1634 Bischof von Verden

1. Norwegen, 2. Erzbm. Bremen, 3. Hzm. Schleswig, 4. Holstein, 5. Bm. Lübeck, 6. Stormarn, 7. Ditmarschen, 8. Oldenburg (geviert 1 u. 4. Oldenburg, 2 u. 3. Delmenhorst).

【ブレーメン=フェルデン公国】 Herzogtum Bremen-Verden (1648-1715)

ブレーメン大司教とフェルデン司教の紋章の組み合わせ。

1648年のヴェストファーレン条約の結果、ブレーメンとフェルデンの聖職諸侯領は世俗化され、それぞれ公国と侯国となりました。これらを獲得したスウェーデンは、両者を合同し、神聖ローマ帝国内の一公国として統治しました。
1675年から翌年にかけてのスウェーデン=ブランデンブルク戦争では、神聖ローマ帝国=デンマーク連合軍によって占領されたものの、1679年の和約によって、引き続きスウェーデンが統治することが確認されました。しかし、北方戦争勃発によって再びデンマーク軍によって占領され、戦争終結後の1715年に領土はハノーファー選帝侯国に売却され、公国は解体しました。

Gespalten, 1. Hzm. Bremen, 2. Fsm. Verden.

1648 Herzogtum Bremen und Fürstentum Verden
1715 zu Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg


1654-1712

【1654年以降】

中央の小盾はプファルツ。中間の盾は、バイエルン、ユーリヒ、クレーヴェ、マルク。背後の盾は、スウェーデン(新&古)、ブレーメン、フェルデン。
女王クリスティーナ(在位1632−54)のいとこのカール10世以後の紋章です。プファルツの紋章は、カール10世の父ヨハン・カージミールが興したプファルツ=クレーブルク家(プファルツ=ツヴァイブリュッケン家の分家)に由来します。

カール12世(在位1697−1718)が北方戦争を起こすと、公国はデンマーク軍の侵攻を受け、1712年に占領されました。デンマークは1715年に公国をハノーファーに売却し、北方戦争終結後の1719年、正式にハノーファーに組み込まれました。


【ブルフハウゼン伯領】 Grafschaft Bruchhausen (1182-1589)

Geteilt, oben von Rot und Silber viermal quergestreift (Gft. Neu-Bruchhausen), unten von Silber und Blau gestaendert (Gft. Alt-Bruchhausen).

赤と銀の横分割図形(アルトブルフハウゼン)と銀と青の放射八分割図形(ノイブルフハウゼン)の組み合わせ。
クレストも新旧ブルハウゼンのものを組み合わせています。銀と青で互い違いに塗り分けられた水牛の角がアルトブルフハウゼン、赤と銀で分割され、金色の槍を描いた旗がノイブルフハウゼンです。ノイブルフハウゼンの旗の数は7ないし14本だそうです。

伯領が記録に登場するのは1189年で、1338年にアルトブルフハウゼンがホヤ伯に買い取られました。ノイブルフハウゼンもその後ホヤ伯の所有となりました。
1582年のホヤ伯家断絶後は、ブラウンシュヴァイク領になりました。


新旧ブルフハウゼンの紋章が組み合わせられたのは、おそらくホヤ伯によってだと思われます。ホヤ伯断絶後、ブラウンシュヴァイク領となってからも構成は変わりませんでした。ブラウンシュヴァイクの紋章ではまた、ホヤ伯の紋章と組み合わせられて描かれました。


【ディープホルツ伯領】 Grafschaft Diepholz (1531-1589)

Geteilt, oben in Gold ein blau gekroenter, bewehrter und gezungter roter Loewe, unten in Blau ein silberner Adler.

ブレーメンとオスナブリュックの中間にあった小邦で、領主のディープホルツ家は12世紀頃に記録に現れました。同家は1531年に伯となり、1585年に男系が途絶。以後はブラウンシュヴァイク=リューネブルク領となりました。


金地に赤いライオンと青地に銀色の鷲の組み合わせ。ブラウンシュヴァイク領となると、紋章紋章は二つに分けられて描かれるようになり、また、銀色の鷲のくちばしと脚が赤色に塗られるようになりました。

クレストは銀と赤の色違いの水牛の角で、ブラウンシュヴァイク公の紋章では、レーゲンシュタインとブランケンブルクのクレスト(鹿の角)と一つにまとめられて描かれました。


【ガンダースハイム女子修道院領】 Reichsabtei Gandersheim

黒と金の縦分割。

856年に創建された女子修道院で、ザクセン朝(リウドルフィング家)の祖リウドルフによって建設されました。ザクセン朝時代は皇帝オットー2世の皇女ゾフィー1世(在位1002−39)、アーデルハイト1世(在位1039−45)姉妹が女子修道院長を務め、帝国に影響力を持ちました。
女子修道院は1417年に神聖ローマ帝国の聖職諸侯に列し、16世紀半ばに宗教改革を実施してルター派女子修道院となりました。1802年に世俗化され、領土はブラウンシュヴァイク公国に併合されました。
世俗化までの一世紀以上の期間、女子修道院長の地位はブラウンシュヴァイク公家の子女によって占められました。


Gespalten von Schwarz und Gold.

856 Stift gegruendet
919 Reichsabtei
1802 saekularisiert



【自由ハンザ都市ハンブルク】 Freie und Hansestadt Hamburg

Grosses Staatswappen :


1510 Reischsstadt
1806 Freie Hansestadt
1819 Freie und Hansestadt

808年にカール大帝によって築かれた防塞が起源で、834年には大司教座が置かれました。大司教座は845年にノルマン人の手によって破壊されましたが、ブレーメン司教区と結合して北ヨーロッパへのキリスト教布教の中心地となりました。
都市は1110年にシャウエンブルク(シャウムブルク)=ホルシュタイン伯の支配下に入り、1188年にシャウエンブルク伯によって新市が建設され、商業都市として発展する端緒が開かれました。翌1189年に十字軍遠征費用の負担の見返りに特権が授与され、1241年にリューベックと都市同盟を締結。ハンザ同盟成立後はその主要メンバーとなりました。
市は1292年にシャウエンブルク伯から完全な自治を認められ、1510年のアウグスブルク帝国議会で帝国自由都市の地位を獲得。市では1529年に宗教改革が行われ、以後1785年までルター派以外の信仰は禁止されました。17世紀に入ると郵便や為替事業が開始され、また、アメリカや中南米との貿易路も開拓されて隆盛しました。
神聖ローマ帝国解体後も自由都市の地位を保ち、1871年にドイツ帝国に参加しました。現在も1市で州を形成。ヨーロッパ大陸最大の海運の中心地であり、また、内陸部への交通網や空港によって、陸水空運の要衝として栄えています。


Kleines Staatswappen

【小紋章】

両脇に円塔のある扉が閉まった城門と、その背後に十字架とドーム状の屋根を持つ教会の塔。二つの塔の上には市の守護聖人にちなんだ「マリアの星」が描かれています。

1241年の市の印章に登場したのが初見です。彩色は1752年の市議会で最終的に定められ、それ以前の配色を反転しました。また、その後、中央の塔の屋根をドーム型にしたり、落とし格子付きで開いていた城門の扉を閉めるなど細部の描写にも変更が加えられました。
大紋章では後を振り向いたライオンの盾持ちとクレストが描かれます。クレストは1594年が初見で、市の支配者だったシャウエンブルク=ホルシュタイン伯のクレストに由来します。
ライオンは1591年に盾持ちとして初めて現れますが、17世紀になるまであまり用いられなかったようです。現在の大紋章の構成は1695年に初めて使われ、市章として正式に制定されたのは1835年です。


-1835

【19世紀まで】

現在の市章が定められる前は彩色や細部の表現にバリエーションがありました。三つの塔をもつ城塞という基本は変わりませんが、落とし格子付き城門あるいは紋章付き盾が描かれたり、塔の屋根もドーム型ではありませんでした。

1811-1813

【ナポレオン体制期】

盾上部に赤色の帯とミツバチの紋章が置かれ、その下に都市の紋章が描かれました。都市の紋章は彩色が逆転されたほか、緑色の大地が描き加えられました。
ミツバチはナポレオンから授与された紋章で、三匹という数は第一級都市を表します。
この変更は強制的に行われたため、ナポレオンが失脚すると直ちに廃止されました。


【ハノーファー王国】 Königreich Hannover (1814-1866)

Wappen (aber ohne Georgs- und Guelphen-Orden) :

Gevierter Hauptschild mit göpelschnitt geteiltes Mittelschild und Herzschild.

Herzschild : Reichserzschatzmeisterschild.
Mittelschild : 1. Hzm. Braunsweig, 2. Hzm. Lüneburg, 3. Niedersachsenross.
Hauptschild : 1 u. 4. England, 2. Schottland, 3. Irland.


1641 Fürstentum Braunsweig-Lüneburg-Calenberg
1692 Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg
1814 Königreich Hannover

1801年から1837年までのイギリスの紋章と同じ構成です。イギリスと同君連合だったため、盾持ちその他のアクセサリにも英国色が強く現れています。モットー「SUSCIPERE ET FINIRE」の書かれた巻物に添えられている植物は、チューダーローズとアザミです。より完全な形では、盾の下にゲオルク勲章(Georgs Orden)とグェルフェン勲章(Guelphen Orden)が描かれます。グェルフェンはブラウンシュヴァイク一族の家名、ヴェルフェン家の転訛のようです。

1641年にブラウンシュヴァイク=リューネブルク侯国の分裂で誕生したブラウンシュヴァイク=リューネブルク=カレンベルクが前身で、1692年に選帝侯位を獲得し、1705年に兄脈のツェレ家断絶でリューネブルク侯国を再統合しました。
1714年、第二代の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス王に迎えられてハノーヴァー朝を開き、以後、イギリスと同君連合となりました。神聖ローマ帝国解体後は一時ヴェストファーレン王国に吸収されますが、1814年に王国として復活し、その際に国名をハノーファーと定めました。1837年にイギリスでヴィクトリア女王が即位すると、女子の相続を認めないハノーファーはイギリスとの連合を解消。ジョージ3世の5男エルンスト・アウグスト(アーネスト・オーガスタス)を国王に迎えました。1866年の普墺戦争でオーストリアを支持して敗北し、プロイセン王国に併合されました。


1801年に定まった配置です。中央にハノーファーの紋章を置き、背後にイングランド、スコットランド、アイルランドの紋章を組んでいます。
中央の小盾は神聖ローマ帝国内帑長官、中間の盾は、ブラウンシュヴァイク、リューネブルク、ザクセンの馬(ハノーファー)。
同君連合だったイギリスの紋章に連動しての変更です。イギリスでは、ハノーファーの小盾に王冠(1814年以前は選帝侯帽)が載せられています。
1837年にイギリスとの同君連合が解消すると、イギリスではハノーファーの紋章が取り除かれて現在の紋章構成になり、ハノーファー固有の紋章となりました。

【ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲン侯国】 Fürstentum Braunschweig-Calenberg-Göttingen

組まれている紋章はリューネブルク、ブラウンシュヴァイク、エバーシュタイン、ホンブルク、ディープホルツ(の上半分)、ラウターベルク(の上半分)、ホヤ&アルトブルフハウゼン(赤銀の横帯)&ノイブルフハウゼン(銀青の放射8分割)、ディープホルツ(の下半分)、ホーエンシュタイン(チェック)&ラウターベルク(の下半分:金赤の横帯)ブランケンブルク、クレッテンベルク、レーゲンシュタイン。

ブラウンシュヴァイクから分立したカレンベルクとゲッティンゲンは15世紀に合同します。その後家系が絶えますが、1641年のブラウンシュヴァイク=リューネブルクの分裂で新家系が生まれました。

歴代公と選帝侯 Herzöge und Kurfürsten von Hannover

Ernst August (1679-1692)
1661-1692

【ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲン公】エルンスト・アウグスト(在位1679−92)

中央にオスナブリュック司教の紋章が組まれました。

はじめオスナブリュック司教(在位1661−98)で、兄ヨハン・フリードリヒの死後、カレンベルク侯国を継承しました。1692年には第9番目の選帝侯位を獲得し、ハノーファー選帝侯を称します。
妃ゾフィーの母親がイギリス王女だったため、息子ゲオルク・ルートヴィヒにイギリス王位がもたらされます。

Ernst August (1629-1698)
Der vierte Sohn des Herzogs Georg von Calenberg.
1661-1679 Fürstbischof von Osnabrück
1679-1692 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg, Fürst von Calenberg
1692-1698 Kurfürst von Braunschweig-Lüneburg (Hannover)


Ernst August (1692-1698)
1692-1698

【ハノーファー選帝侯】エルンスト・アウグスト(在位1692−98)

オスナブリュック司教の紋章が背後の盾に組み込まれ、中央に選帝侯位を示す赤無地の盾が置かれました。これは「騎手長官」の職位を表すようです。
また背後の盾中央列上部に、ニーダーザクセンの馬(ブラウンシュヴァイクの馬とも呼ばれます)が組み込まれました。「ザクセンの馬」はブラウンシュヴァイク公のクレストに用いられており、同家を象徴するものとして国章に使われたり、後にはハノーヴァー朝イギリス王の紋章にも取り入れられました。

選帝侯の正式称号は「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公にして選帝侯」ですが、首都の名を採ってハノーファーと通称され、王国昇格時にはハノーファーが国名に採用されます。

Georg I. Ludwig (1698-1727)
1698-1711

【ハノーファー選帝侯】ゲオルク・ルートヴィヒ(1698−1711年)

オスナブリュックの紋章が削られました。
父の跡を継いで選帝侯となったゲオルク・ルートヴィヒ(在位1698−1727)は、1706年にプファルツ選帝侯に代わって内帑長官となります。しかし、同長官の職位を表す紋章も赤無地の盾だったため、紋章の変更はなされませんでした。

Georg I. Ludwig (1660-1727)
Sohn des Kurfürsten Ernst August von Braunschweig-Lüneburg
1698-1727 Kurfürst von Braunschweig-Lüneburg (Hannover)
1707 Reichserzschatzmeister
1714 als George I. König von Grossbritannien und Irland


Georg I. Ludwig (1698-1727)
1711-1714

【ハノーファー選帝侯】ゲオルク・ルートヴィヒ(1711−14年)

1711年からの紋章です。内帑長官の紋章にカール大帝(シャルルマーニュ)の冠が描き加えられました。

ゲオルク・ルートヴィヒは1714年にイギリス王に即位したので(ジョージ1世)、この紋章はごく短期間使用されただけでした。
なお、選帝侯位を表す紋章は、帝国解体後もイギリスとハノーファーの紋章に残り、イギリスでは1837年まで、ハノーファー(1814年に王国昇格)ではプロイセンに征服される1866年まで組まれていました。

Georg I. Ludwig (1698-1727)
1714-

【ハノーファー選帝侯】ゲオルク・ルートヴィヒ(1714年以降)

イギリス王に即位してからの紋章です。イギリス王の紋章に選帝侯の紋章が加えられました。組み込む際に、選帝侯の紋章は大幅に簡略化され、代表的な4つの紋章、内帑長官、ブラウンシュヴァイク、リューネブルク、ザクセンの馬(国章としても使われました)のみとなりました。
この紋章は1801年まで使用されました。


Geviert, 1. gespalten vorne England, hiten Schottland, 2. Frankreich, 3. Irland, 4. göpelschnitt geteiltes mit Herzschild : 4a. Hzm. Braunsweig, 4b. Hzm. Lüneburg, 4c. Niedersachsenross, Herzschild : Reichserzschatzmeisterschild.


【ヘルフォート女子修道院領】 Reichsabtei Herford

銀地に赤色の横帯。

800年頃に創建された修道院で、中世ザクセン大公領に建設された最古の女子修道院です。女子修道院はルートヴィヒ敬虔王(アクィタニア王:781−814、西ローマ皇帝:814−840)によって、帝国修道院の地位を与えられました(823年)。神聖ローマ帝国時代も12世紀初頭に改めて帝国直属身分を与えられ、聖職諸侯の地位を得ました。女子修道院はヘルフォート市の君主でもありましたが、市は1631年に帝国都市の地位を得て修道院の支配を脱しました(1647年に帝国都市の地位は取り消されます)。
1533年に宗教改革を実施して福音派女子修道院となり、1802年に世俗化、翌年プロイセン領となりました。

In Silber ein roter Balken.

ca. 800 Stift gegründet
1553 Evangelische Abtei
1802 saekularisiert


歴代 Aebtissinnen von Herford

Anna II. von Limburg (1524ミ1565)

【ヘルフォート女子修道院長】アンナ2世(在位1524−65)

女子修道院長の実家リンブルク=シュティルム伯家の紋章との組み合わせ。

リンブルク=シュティルムは12世紀にベルク伯から分かれた家系で、最初はアルテナ伯を名乗っていました。紋章もベルク(ベルギーのリンブルフの紋章が起源です)の紋章と同じく、二本尾のライオンで表現されることもあります。

Anna II. Graefin von Limburg-Styrum (1496ミ1565)
Die ersteTochter des Grafen Adolf von Limburg-Styrum.
1524-1565 Aebtissin von Herford

Margarete II. zur Lippe (1565ミ1578)

【ヘルフォート女子修道院長】マルガレーテ2世(在位1565−78)

実家リッペ伯の紋章との組み合わせ。バラの紋章がリッペ、星に留まったツバメがシュヴァレンベルクの紋章です。

Margarete II. Graefin zur Lippe (1525ミ1578)
Die ersteTochter des Grafen Simon V. zur Lippe.
1565-1578 Aebtissin von Herford


【ヒルデスハイム司教領】 Hochstift Hildesheim

Gespalten von Gold und Rot.


815 Bistum gegruendet
1802 Saekularisiert

815年に設置された司教座を中心に形成されました。16世紀に宗教改革の波が押し寄せると、司教領の多くの地域もルター派に改宗しました。プロテスタントに改宗した地域は、しかし、17世紀にはカトリックに回帰しました。16世紀以降はヴィテルズバハ家出身のケルン選帝侯がヒルデスハイム司教を兼ねたため、ケルンとの同君連合体制が長期に渡りました
1802年に世俗化され、翌年プロイセン王国に併合されました。世俗化後もカトリックの教区としては存続し、現在に至ります。

紋章は金と赤の縦分割です。プロイセン領となると、彩色を逆転したものがヒルデスハイム侯領の紋章とされました。また、他の教区とは異なって、ヒルデスハイム聖堂参事会も独自の紋章(金と赤の斜め分割)を持っていました。


歴代司教 Fürstbischöfe von Hildesheim

Magnus von Sachsen-Lauenburg (1424-1452)

【ヒルデスハイム司教】マグヌス(在位1424−1452)

ザクセンの紋章との組み合わせ。

ザクセン=ラウエンブルク家出身の司教です。ザクセン=ラウエンブルク家からは彼の他に2名の司教が在位しました。

Magnus von Sachsen-Lauenburg (?-1452)
Der vierte Sohn des Herzogs Erich IV. von Sachsen-Lauenburg.
1424-1452 Fürstbischof von Hildesheim

Feld 2 u. 3 : Hzm. Sachsen-Lauenburg.

Ernst II. von Bayern (1573-1612)

【ヒルデスハイム司教】エルンスト2世(在位1573−1612)

実家バイエルンの紋章の中央に司教の紋章を組みました。バイエルン公家出身ですが、プファルツを優位に組むバリエーションも見られました。
ケルン選帝侯(在位1583−1612)をはじめ、フライジング司教(在位1566−1612)、リェージュ司教(在位1581−1612)、ミュンスター司教(在位1585−1612)など多くの聖職位を兼ねたので、大紋章ではそれらの諸領地の紋章が組み合わせられます。

Ernst II. von Bayern (1554-1612)
Sohn des Herzogs Albrecht V. von Bayern.
1566-1612 Fürstbischof von Freising
1573-1612 Fürstbischof von Hildesheim
1581-1612 Fürstbischof von Lüttich
1583-1612 Erzbischof-Kurfürst von Köln
1584-1612 Fürstbischof von Münster

Hauptschild : geviert 1 u. 4. Hzm. Bayern, 2 u. 3. Pfgft. am Rhein


Ferdinand von Bayern (1612-1650)

【ヒルデスハイム司教】フェルディナント(在位1612−1650)

エルンストの甥にあたります。叔父が兼任していた各聖職位を受け継ぎました。多くの聖職位を兼ねたので、大紋章ではそれらの紋章が組み合わせられました。

Ferdinand Herzog von Bayern (1577-1650)
Sohn des Herzogs Wilhelm V. von Bayern.
1595-1650 Fürstpropst von Berchtesgaden (1591-1595 Koadjutor)
1596-1612 Koadjutor des Erzbischofs von Köln
1599-1612 Koadjutor des Fürstabtes von Stablo-Malmedy
1602-1612 Koadjutor des Fürstbischofs von Lüttich
1611-1612 Koadjutor des Fürstbischofs Münster und Hildesheim
1612-1650 Kurfürst-Erzbischof von Köln, Fürstbischof von Hildesheim, Münster und Lüttich, Fürstabt von Stablo-Malmedy
1618-1650 Fürstbischof von Paderborn (1612-1618 Koadjutor)

Hauptschild : geviert 1 u. 4. Hzm. Bayern, 2 u. 3. Pfgft. am Rhein



Jost Edmund von Brabeck (1688-1702)

【ヒルデスハイム司教】ヨプスト・エトムント(在位1688−1702)

司教の実家ブラベック家の紋章との組み合わせ。ブラベック家の紋章は、立たせた狼猟の罠をかたどっています。

カモ猟に熱を上げた人物として知られ、「entenfang」とあだ名されました。

Jost Edmund Freiherr von Brabeck (1619-1702)
1688-1702 Fürstbischof von Hildesheim
1697-1702 Apostolischer Vikar des Nordes

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Brabeck.

Friedrich Wilhelm von Westfalen (1763-1789)

【ヒルデスハイム司教領】フリードリヒ・ヴィルヘルム(在位1763−89)

司教の実家ヴェストファーレン家の紋章との組み合わせ。

1761年から63年にかけて空位が続いた後に、ヒルデスハイム司教に選出されました。1782年からはパーダーボルン司教を兼務しました。

Friedrich Wilhelm Freiherr von Westfalen (1727-1789)
1736-1789 Fürstbischof von Hildesheim
1773-1782 Koadjutor des Fürstbischofs von Paderborn
1775-1780 Apostolischer Vikar des Nordes
1780-1789 Apostolischer Vikar der wiedervereningten Vikariate des Nordes
1782-1789 Fürstbischof von Paderborn

Feld 2 u. 3 : Familienwappen Westfalen.



【ヒルデスハイム市】 Stadt Hildesheim

Grosses Wappen :
Geteilt, oben in Silber ein gold gekroenter schwarzer aus der Teilung hervorkommender Adler, unten von Gold und Rot geviert.

ニーダーザクセン州の南部、ハルツ山地北麓に位置する都市で、8世紀にケルン〜マクデブルク間の交易中継地として建設された城塞が起源で、市名は建設者の名前に由来すると言われます。815年に司教座が置かれ、11世紀には地域の文化や学芸の中心地に発展しました。市は1300年に都市権を獲得。1367年にはハンザ同盟に加盟しました。16世紀には宗教改革の波が押し寄せ、司教領の多くの地域がプロテスタント化。市にも1542年にルターの同志が入城しました。しかし、その後も市はカトリックを護持して司教領の首都であり続けました。プロテスタント化した地域も17世紀には司教領に復帰します。
1802年の帝国再編で司教領が世俗化されると、ヒルデスハイム市も翌年にプロイセン領となりました。
市は現在もヒルデスハイム司教区の司教座所在地となっています。


盾地を上下に分割し、上半分に黒鷲の半身、下半分に金と赤の十字分割図形を組んでいます。鷲の舌は現在の市章は黒色ですが、赤色に塗られたバリエーションもあります。
都市の紋章は13世紀末には用いられていました。当初は十字分割で、1528年に皇帝カール5世によって鷲の紋章が与えられ、現在の市章が作られました。

市の大紋章は、盾の下半分と同じ彩色の衣服を着て、おそらく、ハンザ都市を表す赤と銀に塗り分けられた数珠を持ち、頭に赤と金色のダチョウの羽根飾りを付けた若い女性(ヒルデシア)のクレストが描かれます。ヘルメットは20世紀までは格子付タイプが、現在の市章ではバイザー型のヘルメット(Stechhelm)が使われています。



【ホヤ伯領】 Grafschaft Hoya

In Gold zwei schwarze, auswärtsgekehrte Bärentatzen.


1202 Grafschaft endstand
1583 erloschen, Territorium faellt an Braunschweig


1202年に伯領が成立しました。初代伯ハインリヒ1世はニーンブルク自由伯領を購入するなどして勢力を拡大しました。アルトブルフハウゼン伯領を購入して間もない1345年にホヤ家とニーンブルク家に分裂。ホヤ家はホヤ=ブルフハウゼン伯を、ニーンブルク家はホヤ伯を称しました。ホヤ家は1497年に、ニーンブルク家は1583年に断絶。ニーンブルク家の断絶後、伯領はブラウンシュヴァイク各家によって分割相続され、中核であるホヤ伯領は、後のハノーファー選帝侯家の領土となりました。


金地に外を向いた黒熊の前足。足の指は4ないし5本描かれます。

ホヤ伯はブルフハウゼン伯領もその領土としていたので、ブラウンシュヴァイク領となると、ブルフハウゼンの紋章と組み合わせられて描かれました。


【イェーファー領主領】 Herrschaft Jever

In Blau ein goldener Loewe.

青地に舌と爪が赤い金色のライオン。

現在の東フリースラント郡、ヴィルヘルムスハーフェン市の西にあった領邦です。神聖ローマ帝国の直属身分を持ちながらも、帝国の身分制度である帝国等族やクライス等族には加わっていなかった特殊な領邦でした。
領主のパピンガ家は14世紀に登場し、漸次領土を広げていきますが、1517年に男系が途絶。2代半世紀にわたって同家の女領主の統治が続いた後、オルデンブルク伯が領土を相続しました。
そのオルデンブルク伯家が1667年に絶えると、イェーファーはアンハルト=ツェルプスト侯が相続。1793年までアンハルトの統治が続きました。1793年に侯家の男系が絶えると、同家出身のロシア女帝エカテリーナ2世が領土を相続。ナポレオン体制期はホラント王国やフランスに組み込まれ、体制崩壊後は再度オルデンブルク領となりました。

イェーファーの紋章は、現在は同市の市章やフリースラント郡そしてオルデンブルク郡の郡章などに見ることができます。また、イェーファーの市章には、パピンガ家最後の当主「フロイライン・マリア」(在位1536−75)への献辞が刻まれています。


1576-1667

【オルデンブルク時代】

オルデンブルク伯の紋章の中央にイェーファーの紋章が組まれました。

1575年にマリアが没すると、領土は彼女の母親の実家オルデンブルク伯家が相続しました。


Hauptschild : Geviert, 1 u. 4. Gft. Oldenburg, 2 u. 3. H. Delmenhorst.

【18世紀以降】

ライオンに冠が加えられたバリエーションです。冠は17世紀のオルデンブルク伯の紋章からしばしば描かれるようになりました。

1667年にオルデンブルク伯家が断絶すると、イェーファーはアンハルト=ツェルプスト侯家の領土となりました。
アンハルト=ツェルプスト侯家は1793年のフリードリヒ・アウグストの死で途絶え、領土はフリードリヒ・アウグストの姉、ロシア女帝エカテリーナ2世が相続しました。このロシア領時代、実際に統治していたのはフリードリヒ・アウグストの未亡人フリーデリケ・アウグステ・ゾフィーで、彼女が実質的な最後の領主でした(領地管理人1793−1807)。


【クニプハウゼン男爵領】 Freie Herrschaft Kniphausen

Gräflich Bentincksches Wappen :

Geviert, 1 u. 4. Fammiliewappen Bentinck, 2 u. 3. Grafen zu Aldenburg.


1588/1624 Freiherrschaft
1854 zu Oldenburg

男爵領最後の領主、ベンティンク伯家の紋章です。

クニプハウゼンは現在のヴィルヘルムスハーフェン市内にあります。男爵領はクニプハウゼンの他に東フリースラント郡内に所領が散在していて、領主のインハウゼン=クニプハウゼン家はそのため複数の家系に分かれていました。
男爵領のうち、クニプハウゼンは1624年にオルデンブルク伯に売却され、その際に帝国男爵領となりました。クニプハウゼン家から男爵領を購入したオルデンブルク家が1667年に絶えると、男爵領はオルデンブルク伯の庶子のアルデンブルク伯が相続し、同じヤーデ湾沿岸の最奥部にあったファーレル男爵領と結合します。その後、婚姻を通じてオランダ系英国貴族のベンティンク家が領主となります。
男爵領は帝国直属の地位を持ちながらも、帝国議会に議席を持たず、また帝国の地域組織のクライスにも属していませんでした。そのため、1802年に行われた帝国再編の対象とならず、帝国解体後も主権を保って独立の男爵国となります。
しかしナポレオン体制崩壊後の1818年にオルデンブルク公国(1829年以降大公国)が実効支配し、1825年には男爵領がオルデンブルクに併合されたという国際的な認識が生まれます。そのため、ベンティンク家とオルデンブルクの間に主権をめぐっての長期の係争が起こりました。この係争は1854年にオルデンブルク側が領土と統治権を購入することで決着し、ベンティンク家は主権を放棄しました。なお、1843年当時の男爵領の面積は45平方キロで人口は3100人。独立国と呼ぶにはあまりにも小さな領土でした。


クニプハウゼン本来の紋章です。金地に舌と爪が赤い黒のライオン。オルデンブルク時代以降の紋章には冠が描かれます。

領主のインハウゼン=クニプハウゼン家は1588年に男爵位を得ました。クニプハウゼン家は複数の家系に分かれており、ブランデンブルク大選帝侯に仕えたイェネルト家のドード2世(在位1654−98)は、ドイツで最初の国家予算を組んだ人物として著名です。また、早い時期にオストフリースラント系から分かれたヘッセン系クニプハウゼン家の一族のヴィルヘルムは、アメリカ独立戦争でヘッセン傭兵部隊司令官となり、ニューヨークを守備した人物として知られます。


In Gold ein rot bewehrter, schwarzer Loewe.


歴代領主 Herren von Kniphausen

Reichsgrafen zu Aldenburg
1667-1747

【アルデンブルク伯】

銀色の馬は「ザクセンの馬」。ザクセンのシンボルで、ハノーファー王の紋章や、現在のニーダーザクセン州の州章などにも採用されています。クニプハウゼンでは1751年まで男爵領旗にも使っていました。バラは13世紀に絶えたオルデンブルク=ヴィルデスハウゼン家の紋章です。中央の小盾の向かって右側はオルデンブルク伯の紋章で、アルデンブルク家の出自を示しています。左側は神聖ローマ帝国の紋章。同家が帝国直属身分であることを説明しています。

オルデンブルク伯の庶流で、オルデンブルク家の断絶後、クニプハウゼンとファーレルの男爵領を相続しました。男子のいなかったアントン2世は、財政支援を目当てに英国のポートランド伯家から婿取りをします。が、アルデンブルク家最後の当主シャルロッテ・ゾフィーは、シャウムブルク=リッペ伯とのスキャンダルが元で領主の座を追われました。

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : gespalten - vorne in Gold ein schwarzer Doppeladler (Reichsadler), hinten in Gold zwei rote Balken (Gft. Oldenburg).
Hauptschild : 1 u. 4. Sachsenross, 2 u. 3. Oldenburg-Wildeshausen.



Reichsgrafen von Bentinck-Aldenburg
1747-1854

【ベンティンク=アルデンブルク伯】

青地に銀色の錨形十字は英国ポートランド伯・公ベンティンク家の紋章で、左肩にある金の三日月はその分家を示すマークです。ポートランド伯の息子ウィリアムはシャルロッテ・ゾフィーと結婚し帝国伯となり、ベンティンク=アルデンブルク伯家を興しました。ベンティンク家は1747年にシャルロッテを追放して男爵領を掌握します。神聖ローマ帝国が解体すると男爵領は独立国となりますが、ナポレオン体制崩壊後はオルデンブルクの支配が及んだため、主権をめぐっての係争が勃発しました。この係争は、1854年にオルデンブルク側が約200万ターラーを支払って領土を購入するという形で決着し、男爵領側は主権を放棄しました。
ベンティンク家の紋章はフリースラント郡の郡章などに取り入れられています。


【ザクセン=ラウエンブルク公国】 Herzogtum Sachsen-Lauenburg (1260-1689)

ザクセン公、ザクセン宮中伯、エンゲルン公の紋章の組み合わせ。

ラウエンブルク公国はザクセン公と選帝侯を兼ねていたアスカニエル家の家領分割で誕生しました(1260年)。この直後から、同族のヴィッテンブルク家との間で選帝侯位継承をめぐる争いが起こりました。この争いは1356年の「金印勅書」によってヴィッテンベルク家の選帝侯位が定められてひとまず決着します。15世紀にヴィッテンブルク家が断絶すると、選帝侯位をめぐってマイセン辺境伯(ヴェッティン家)と争って敗北、アスカニエル家は選帝侯位を失いました。しかし、ラウエンブルクはその後も選帝侯位を要求し続けました。


Geviert, 1 u. 4. Hzm. Sachsen, 2. Pfgft. Sachsen, 3. Hzm. Engern.


歴代公 Herzüge von Sachsen-Lauenburg

Julius Franz (1666-1689)

【ザクセン=ラウエンブルク公】ユリウス・フランツ(在位1666−89)

ザクセン公、ザクセン宮中伯、エンゲルン公、帝国式部官の紋章の組み合わせです。彼は皇帝軍司令官に任ぜられていました。

アスカニエル家系最後のラウエンブルク公です。
1689年に彼が没すると公国の相続をめぐる係争が起こり、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(後のハノーファー)がこの地を獲得しました。

Julius Franz (1641-1689)
Der vierte Sohn des Herzogs Julius Heinrich von Sachsen-Lauenburg.
Julius Franz war der letzte askanierische Herzog von Sachsen-Lauenburg.
1666-1641 Herzog von Sachsen-Lauenburg

Feld 4 : Generalfeldmarschall.

【ラウエンブルク公国】 Herzogtum Lauenburg

1819-

【1819年】

青地に金色の馬の首。

1814年にデンマーク領になると、紋章が変更されました。
描かれている馬の頭部は、ザクセンの馬(=ハノーファー)の紋章をアレンジしたもののようです。

1867-

【1867年】

銀と黒に分割された縁取りのある赤地の盾に銀色の馬の首。

1864年のウィーン条約の結果、ラウエンブルクはプロイセン領となりました。プロイセン領となってからも、ラウエンブルクは公国として扱われ、1867年、プロイセン王ヴィルヘルム1世がラウエンブルク公に即位しました。
ヴィルヘルム1世は以前の紋章の彩色を変え、さらに、プロイセン(ホーエンツォレルン)をイメージさせる銀と黒の縁取りを加えました。


【リンゲン伯領】 Grafschaft Lingen

青地に金色の錨。

1493年にテクレンブルク伯領から分裂して成立しました。領主テクレンブルク=シュヴェーリン伯家は16世紀にプロテスタントに改宗してシュマルカンデン同盟に加わったため、皇帝カール5世から帝国追放を宣告され、伯領は1547年にビューレン伯マクシミリアン・ファン・エフモント率いる皇帝軍に占領されました。伯領はマクシミリアンに与えられ、翌年彼が没すると、女子相続人のアンナが伯領を相続しました。彼女は1551年、ウィレム沈黙公との結婚に際し領土を皇帝に売却し、以後スペイン領となりました。
オランダ独立戦争が始まると、伯領はウィレム沈黙公の息子マウリッツに占領され、以後ナッサウ=オラニエン家の領土となります。イングランド王となったウィレム3世の死で同家が絶えると、テクレンブルクはプロイセン王に譲渡されました。

In Blau ein goldener Anker.

1493 Grafschaft Lingen
1551 zu Spanien
1597 zu Nassau-Oranien
1702 zu Preussen


【リッペ侯国】 Fürstentum Lippe

Wappen (19 Jh.) :

Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
1 u. 9. H. Vianen, 2 u. 8. Gft. Schwalenberg, 3 u. 7. H. Ameiden, 4 u. 6. Gft. Sternberg, 5. Herzschild : Stammwappen.


12 Jh. Herrschaft Lippe entstand
1529 Grafschaft
1536 Grafschaft Lippe-Detmold
1789 Fürstentum Lippe

中央の小盾はリッペ。背後の盾は、フィアネン領主、シュヴァレンベルク伯、アマイデン領主、シュテルンベルク伯。
盾持ちは紋章が描かれた陣羽織を羽織った紋章官風の天使ですが、18世紀はこちらを向いた二頭のライオンが使われていました。

12世紀の初頭にヴェーザー川西岸に成立した領邦で、1529年に伯領になりました。直後の1536年にリッペ=デトモルトとシュテルンベルク=ピルモントに分裂し、リッペ=デトモルトからは、更に1613年にリッペ=アルヴァーディッセン(後にシャウムブルク=リッペと改称)など3家が分かれました。
リッペ=デトモルトは1789年に帝国諸侯に列し、領邦名をリッペ侯国と改めます。神聖ローマ帝国解体後は、リッペとシャウムブルク=リッペが主権を維持してライン同盟に参加、その後ドイツ帝国の構成国として1918年まで続きました。


Kleines Staatswappen

【小紋章】

侯国の小紋章はリッペ一族のバラの紋章に諸侯帽を被せた構成です。バラの棘は省略されることもあるそうです。


In Silber eine rote Rose mit goldenem Samen und Bart.


16 Jh. - 17 Jh.

【リッペ伯領】

組まれているのはリッペ(赤いバラ)とシュヴァレンベルク(星とツバメ)。シュヴァレンベルク伯の紋章は、家名がシュヴァルム/シュヴァルベ(Schwalm / schwalbe =燕)の発音に似ていることから、燕が図案に採用されたようです。

Geviert, 1 u. 4. Lippe, 2 u. 3. in Rot ein goldener Stern, auf dem eine Schwalbe sitzt (Gft. Schwalenberg).


18 Jh.

【リッペ=デトモルト伯領・18世紀】

中央の小盾はフィアネンとアマイデン(現オランダ)。ごく短期間伯家の領土となった土地の紋章です。


Geviert mit Herzschild.
Herzschild : geviert, 1 u. 4. H. Vianen, 2 u. 3. H. Ameiden.
Hauptschild : 1 u. 4. Lippe, 2 u. 3. Gft. Schwalenberg.

1789-

【1789年以降】

1789年、侯を名乗るにあたって紋章配置が変更されました。同時に、フィアネンの紋章の図案が変更され、本来の紋章とは異なったデザインとなりました。向かって左上隅の紋章が変更されたフィアネンの紋章です。

1905年に侯家が断絶すると、侯国の摂政を務めていた分家ビースターフェルト伯家が侯位を継承しました。


【リューベック司教領】 Hochstift Lübeck

In Blau ein schwebendes goldenes Kreuz, bedeckt mit einer silbernen Mitra.


952-1160 Bistum Oldenburg
1163 Bistum Lübeck
1586 Reformation
1803 weltliches Fürstentum Lübeck unter oldenburgischer Herrschaft

青地に銀色のミトラを戴いた金の十字架。

948年にオルデンブルクに建設された司教座が起源で、司教座は1163年にリューベックに移されました。司教は1180年に神聖ローマ帝国の諸侯の地位を得ました。
その後司教座の移転を経験し、エーバーハルト2世(在位1561−1586)の時に宗教改革を実施。以後はホルシュタイン=ゴットルプ公が司教を兼ねる、プロテスタント司教領となりました。1648年のヴェストファーレン条約でも聖職諸侯の身分を失わず、引き続プロテスタント聖職諸侯領として存続しました。
1774年にオルデンブルクと結合し、1803年にオルデンブルク統治下の世俗侯国となります。1823年以降はオルデンブルク公/大公がリューベック侯を兼ねました。

歴代司教 Fürstbischöfe von Lübeck

Johann Adolf Herzog von Schleswig-Holstein-Gottorp (1586-1607)

【リューベック司教】ヨハン・アドルフ(在位1586−1607)

ホルシュタイン=ゴットルプ家の紋章の中央に司教の紋章が組まれました。

デンマーク王フレデリク1世の孫で、第2代のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公です(在位1590−1607)。リューベック司教の他にブレーメン大司教も兼ねました(在位1586−1597)。
なお、ブレーメン大司教職は1597年に末弟のヨハン・フリードリヒに譲り、またリューベック司教職も、彼の死後、ヨハン・フリードリヒが継ぎました。

Johann Adolf Herzog von Schleswig-Holstein-Gottorp (1575-1616)
Der dritte Sohn des Herzogs Adolf I. von Schleswig-Holstein-Gottorp.
1585-1596 Fürsterzbischof von Bremen
1586-1607 Fürstbischof von Lübeck
1590-1616 Herzog von Schleswig-Holstein-Gottorp


August Friedrich von Schleswig-Holstein-Gottorp (1666-1705)

【リューベック司教】アウグスト・フリードリヒ(在位1666−1705)

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公フリードリヒ3世の息子で、実兄クリスティアン・アルブレヒト(リューベック司教:1655−66、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公:1659−94)の後任として司教に就任しました。

August Friedrich von Schleswig-Holstein-Gottorp (1646-1705)
Der siebte Sohn des Herzogs Friedrich III. von Schleswig-Holstein-Gottorp.
1655-1705 Fürstbischof von Lübeck


Friedrich August von Schleswig-Holstein-Gottorp (1750-1785)

【リューベック司教】フリードリヒ・アウグスト(在位1750−85)

1773年以降の紋章です。

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ=オイティン公クリスティアン・アウグスト(リューベック司教:1706−26)の息子で、兄アドルフ・フリードリヒ(スウェーデン王アドルフ・フレドリク)の後任で就任しました。
なお、本家ホルシュタイン=ゴットルプ家の当主パウル(在位1762−73、ロシア皇帝パーベル1世:1796−1801)が1773年にホルシュタイン=ゴットルプを本家デンマークに譲渡すると、フリードリヒ・アウグストはデンマークからオルデンブルク伯領を譲り受けました。翌年、彼は初代オルデンブルク公に即位します(伯1773、公1774−85)。

Friedrich August von Schleswig-Holstein-Gottorp (1711-1785)
Der sechste Sohn des Herzogs Christian August von Schleswig-Holstein-Gottorp und jüngerer Bruder des Königs Adolf Friedrich von Schweden.
1750-1785 Fürstbischof von Lübeck
1774-1785 Herzog von Oldenburg


Peter Friedrich Ludwig von Holstein-Gottorp (1785-1802)

【リューベック司教】ペーター・フリードリヒ・ルートヴィヒ(在位1785−1802)

伯父のフリードリヒ・アウグストから司教位を継承しました。オルデンブルク公国を継承した従兄ペーター・フリードリヒ・ヴィルヘルム(在位1785−1823)の摂政として、公の在位中の全期間に渡って公国を統治し(オルデンブルク摂政1785−1823)、公の没後に、オルデンブルク公位を継承しました。
なお、司教領が1802年に世俗化されたため、1803年からはリューベック侯を名乗りました(リューベック侯:在位1803−29)。

Peter Friedrich Ludwig von Schleswig-Holstein-Gottorp (1755-1829)
Der dritte Sohn des Herzogs Georg Ludwig von Schleswig-Holstein-Gottorp.
1785-1802 Fürstbischof von Lübeck
1785-1823 Regent des Herzogtums Oldenburg
1803-1829 Fürst von Lübeck
1823-1829 Herzog von Oldenburg


【リューベック侯領】 Fürstentum Lübeck

Grosses Wappen :

Gespaltenen Hauptschild mit dem Herzschild.
Herzschild : Fsm. Lübeck,
Hauptschild : Oldenburgische Landeswappen - vorn in Gold zwei rote Quarbalken (Gft. Oldenbueg), hinten in Blau ein goldenes Ankerkreuz (H. Delmenhorst).

大紋章です。オルデンブルクの小紋章の中央にリューベックの紋章を置き、ローブで飾り立てました。

1802年に世俗化された司教領は、オルデンブルク統治下の侯領となり、リューベック司教だったペーター・フリードリヒ・ルートヴィヒが初代リューベック侯となりました。彼は1823年にオルデンブルク公に即位したので、以後、リューベック侯位はオルデンブルク公・大公と結合しました。



【自由ハンザ都市リューベック】 Freie Hansestadt Lübeck

Grosses Staatswappen :

In Gold ein rot bewehrter schwarzer Doppeladler, mit einem von Silber und Rot geteilten Herzschilde belegt.


1143 gegründet
1226 Reichsstadt

胸に銀赤に横分割された小盾が置かれた双頭の鷲が金色の盾地に描枯れています。都市の大紋章はヘルム&クレスト、および盾持ちが描かれます。

リューベックは1143年にホルシュタイン伯アドルフ2世が建設した町が起源とされます。1157年の大火で焼亡すると、翌年にザクセン公ハインリヒ獅子公によって再建されました。獅子公の没落後、一時デンマーク領となるものの、ほどなく帝国に復帰し、1226年に帝国都市の地位を獲得しました。
帝国都市昇格と同じ頃にハンザ同盟にも参加し、その盟主となります。リューベックでは多くのハンザ会議が開催され、北海〜バルト海の遠隔地商業の中核を担いました。
神聖ローマ帝国解体後も自由都市の地位を保持し、ドイツ帝国にも独立の都市国家として参加しました。現在も市の正式名称には「自由ハンザ都市」を冠します。


赤地に銀色の鍵。

紋章は都市の印章に使われたのが由来で、色はハンザ同盟の色と同じです。


Von Silber und Rot geteilt.

Kleines Staatswappen

【小紋章】

リューベックが帝国都市になると、帝国の鷲の紋章が都市の紋章と併用されました。双頭の鷲の紋章は、管見では14世紀後半まで遡ることを確認しました。
15世紀になると両者が組み合わせられ、胸に都市の紋章が置かれた双頭の鷲が金地の盾に描かれた現在の市章が生まれました。金色の盾地を省略したものが小紋章に定められ、以後、ナポレオン時代を除き、左の紋章が現在まで使われています。
小紋章は双頭の鷲を描くのが正式ですが、しばしば鷲が省略され、銀赤の盾だけで描かれます。


帝国北東部(N-Z)

帝国北西部(M-Z)

Copyright(C) 2005-2009 Die Linische Katze