(3)帝国北西部の諸邦

16世紀前半の神聖ローマ帝国北西部
現在のニーダーザクセン州、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州、ハンブルク特別市、ブレーメン特別市の地域です


掲載一覧です Liste

ベントハイム=シュタインフルト伯領・侯
ベントハイム=テクレンブルク=レーダ伯領
ブラウンシュヴァイク公国

ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯国
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク侯国
ブレーメン(自由ハンザ都市)
ブレーメン大司教領
ブレーメン=フェルデン公国
ブルフハウゼン伯領
ディープホルツ伯領
ガンダースハイム女子修道院領
ハノーファー王国・選帝侯国
ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲン侯国

ヘルフォート女子修道院領
ヒルデスハイム司教領
ヒルデスハイム(帝国都市)
ホヤ伯領
イェーファー領主領
クニプハウゼン=ファーレル男爵領
ザクセン=ラウエンブルク公国
ラウエンブルク公国
リンゲン伯領
リッペ=デトモルト侯国・伯領
リューベック司教領
リューベック侯領
リューベック(自由ハンザ都市)

ミンデン司教領
ミュンスター司教領
オルデンブルク伯領・公国・大公国
オスナブリュック司教領
オスナブリュック(都市)
オストフリースラント侯国・伯領
ラーヴェンスベルク伯領
レーダ領主領
リートベルク侯国・伯領
シャウムブルク=リッペ侯国・伯領
シャウムブルク=ピンネベルク伯領

シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国
テクレンブルク伯領


Bentheim (Gft.)
Bentheim-Steinfurt (Gft, Fürsten)
Bentheim-Tecklenburug-Rheda (Gft.)
Braunsweig (Hzm.)
Braunsweig-Wolfenbüttel (Fsm.)
Braunsweig-Lüneburg (-Celle, Hzm.)
Bremen (Rs.)
Bremen (Erzbm.)
Bremen-Verden (Hzm.)
Bruchhausen (Gft.)
Diepholz (Gft.)
Gandersheim (Abtei)
Hannover (Kgr, Kfsm.)
Braunsweig-Lüneburg-Calenberg-Hannover (Fsm.)

Herford (Abtei)
Hildesheim (Bm.)
Hildesheim (Rs.)
Hoya (Gft.)
Jever (H.)
Knyphausen-Varel (Fh.)
Sachsen-Lauenburg (Hzm.)
Lauenburg (Hzm.)
Lingen (Gft.)
Lippe-Detmold (Gft, Fsm.)
Lübeck (Bm.)
Lübeck (Fsm.)
Lübeck (Rs.)

Minden (Bm.)
Münster (Bm.)
Oldenburg (Gft, Hzm, Ghzm.)
Osnabrück (Bm.)
Osnabrück (Stadt)
Ostfriesland (Gft, Fsm.)
Ravensberg (Gft.)
Rheda (H.)
Rietberg (Gft, Fsm.)
Schaumburg-Lippe (Gft, Fsm.)
Schaumburg-Pinneberg (Gft.)
Schleswig-Holstein (Hzm.)
Tecklenburg (Gft.)


Abkürzungen :
Kgr.= Königreich, Ghzm.= Grossherzogtum, Hzm.= Herzogtum, Kfsm.= Kurfürstentum, Fsm.= Fürstentum
Mgft.= Markgrafschaft, Lgft.= Landgrafschaft, Bgft.=Burggrafschaft, Fgft.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft, Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.= Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum


【ベントハイム伯領】 Grafschaft Bentheim (-Steinfurt)

Wappen :

Herzschild : dreimal gespalten und einmal getailt - 1. H. Wevelinghoven, 2. H. Rheda. 3. Gft. Hoya, 4. H. Alpen, 5. H. Helpenstein?, 6. ?,
Hauptschild : geteilt oben zweilal gespalten - 1. Gft. Bentheim, 2. Gft. Tecklenburg, 3. Gft. Lingen, unten gespalten - 4. Gft. Steinfurt, 5. Gft. Limburg.


1182 Grafschaft Bentheim
1277 Teil in Bentheim-Bentheim und Bentheim-Tecklenburg (1557 erloschen)
1454 Grafschaft Bentheim-Steinfurt entstand
1495 Reichsgrafenstand
1806 mediatisiert
1817 Fürstentitel erworben

ベントハイム伯はエムス川流域の有力者で、13世紀には婚姻を通じてテクレンブルク伯領を獲得します。1277年にベントハイム=ベントハイム家にとベントハイム=テクレンブルク家に分かれ、前者は1454年にベントハイム=ベントハイムとベントハイム=シュタインフルトに分かれました。
ベントハイム伯各家のうち、ベントハイム=シュタインフルト家は1495年に帝国伯の地位を得、1530年にベントハイム=ベントハイム家が、また1557年にベントハイム=テクレンブルク家が絶えたので家領を再統一しました。1592年にリンブルク伯領やアルペン領主領を獲得した後、1606年にベントハイム=テクレンブルク=レーダ、1643年にベントハイム=ベントハイムが分かれました。ベントハイム=ベントハイム家は自家の領有部分に付属する神聖ローマ帝国議会への出席権をハノーファーに質入れして陪臣化しましたが、伯家全体としては1806まで主権身分を維持しました。帝国が解体すると、領土はベルクやハノーファーなどに渡り、最終的にプロイセン領となりました。
主権を失った後、ベントハイム=シュタインフルト家とテクレンブルク=レーダ家が1817年にプロイセン王国の侯の爵位を得ました。


赤地に18個の金色の球。
ベントハイム伯の紋章です。球の並べ方にはバリエーションがありましたが、上3段には4個ずつ並べ、それより下の段は1個ずつ数を減らすようです。

In Rot achtzehn 4:4:4:3:2:1 goldene Kugeln.

16 Jh.

【16世紀】

中央の小盾はヴェーヴェリングホーフェン領主。背後の盾は、ベントハイム伯とシュタインフルト伯。

Geviert mit Herzschild:
Herzschild: H. Wevelinghoven,
Hauptschild: 1. und 4. Gft. Bentheim, 2. und 3. Gft. Steinfurt (In Gold ein blau bewehrter roter Schwan).

17 Jh.-

【17世紀以降】

情報がなく詳細不明です。中央の小盾はヴェーヴェリングホーフェン領主、レーダ領主、ホヤ伯、アルペン領主、ヘルフェンシュタイン領主、(不明)。背後の盾はベントハイム、テクレンブルク、リンゲン、シュタインフルト、リンブルク。17世紀頃から使われていた紋章です。

リンブルクはラーン川流域にあった伯領で、領主だったノイエナール=アルペン家が1592年に断絶すると、遺領を相続しました。ベントハイム=リンブルク、ベントハイム=アルペン家の統治を経て、1629年以後はベントハイム=テクレンブルク=レーダ家の領土となりました。
ベントハイム伯各家は1806年に主権を失い、領土はベルクやプロイセンなどに併合されました。その後、1817年にベントハイム=シュタインフルト家とテクレンブルク=レーダ家がプロイセン王国の侯の爵位を得ました。

【ベントハイム=テクレンブルク=レーダ伯領】 Grafschaft Bentheim-Tecklenburg-Rheda

Kleines Wappen

中央の小盾はレーダ領主領。これは小紋章です。

1269年に成立したベントハイム=テクレンブルク伯家は、14世紀の半ばに婚姻を通じてレーダ領主領を獲得します。16世紀にベントハイム家はいったん統一されますが、1606年の家領分割で新たなベントハイム=テクレンブルク=レーダ家が誕生しました。
伯家の領土のうち、テクレンブルク伯領は1696年にゾルムス伯に渡り、1707年にはプロイセンに売却されました。伯領の残りの領土は1806年に主権を失いました。その後、1817年にプロイセン王国の侯位を得ました。

1606 Grafschaft Bentheim-Tecklenburg-Rheda
1806 mediatisiert
1817 Fürstentitel erworben



【ブラウンシュヴァイク公国】 Herzogtum Braunschweig (bis 1814 Fürstentum Braunschweig-Wolfenbüttel)

Kleines Staatswappen:

Gespalten : 1. Hzm. Braunschweig, 2. Hzm. Lüneburg.


1291 Fürstentum Braunschweig-Wolfenbüttel
1345-1428 (Altes Haus)
1428-1634 (Mittelers Haus)
1635-1735 (Neues Haus)
1735-1884 (Bevern)
1814 Herzogtum Braunschweig


Hausorden Heinrich des Löwen gestiftet am 25.4.1834

公国の小紋章です。ブラウンシュヴァイク(赤地に2頭の歩き姿のライオン)とリューネブルク(赤いハートがちりばめられた金地に青色のライオン)の組み合わせで、ブラウンシュヴァイク一族の公式称号、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を表現した構成になっています。2頭のライオンの盾持ちは、1834年に制定された公家の家章「ハインリヒ獅子公勲章」のチェーン部分のデザインから採用されたようです。大紋章では、ブラウンシュヴァイク一族の本来の盾持ちである、棍棒を持った二人の野人が使われています。なお盾の周囲を囲むベルトは、ハインリヒ獅子公勲章のチェーン部分の円形プレートを表していて、「IMMOTA FIDES」は勲章のモットーです。台座を兼ねている青色の巻物に刻まれている「NEC ASPERA TERRENT」が公家のモットーになります。

ザクセン兼バイエルン公ハインリヒ獅子公の下で領土が形成されました。1180年の獅子公失脚後も、彼の子供達によって領土は保持され、1235年にブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国となりました(リューネブルク市は獅子公によって建設されました)。その後分割相続が繰り返されて多くの領邦に分かれましたが、ヴォルフェンビュッテルとカレンベルクが諸領を統合して発展します。
ヴォルフェンビュッテルは1814年にブラウンシュヴァイク公国を名乗り、ドイツ帝国に参加して1918年まで存続しました。

赤地にこちらを向いた二頭の歩き姿のライオン。

1267年の公国分裂後、ブラウンシュヴァイク家(古家系:1596年に断絶)が用いた紋章で、ブラウンシュヴァイクの紋章となりました。


In Rot zwei goldene, blau gezungte Leoparden übereinander.

Kleines Wappen

【小紋章】

ブラウンシュヴァイクとリューネブルクの組み合わせ。リューネブルクの紋章は、古リューネブルク家(1369年絶)が用いていた紋章です。

1814年にブラウンシュヴァイク公国が成立すると、君主の称号を「ブラウンシュヴァイク公およびヴォルフェンビュッテル侯」から「ブラウンシュヴァイクおよびリューネブルク公」と改めたため、小紋章は両者の紋章を組み合わせたものが使われました。「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公 Herzog zu Braunschweig und Lüneburg」は、13世紀まで遡る同公家の正式称号です。


Gespalten vorn in Rot zwei goldene, blau gezungte Leoparden übereinander (Hzm. Braunschweig), hinten Im goldenen, mit toten Herzen bestreuten Felde ein rot bewherter blauer Löwe (Hzm. Lüneburg).


1835-

【1835年以降】

ブラウンシュヴァイクの馬が削られ、ホーエンシュタインの紋章が正規の構成に戻りました。

ヴィルヘルム(在位1831−84)が没すると、公国はプロイセン政府による統治が行われます。1913年に新公が即位して公国が再興しますが、その5年後、ドイツ革命によって消滅しました。


Zweimal gespalten und dreimal geteilt.
1. Hzm. Lüneburg, 2. Hzm. Braunschweig, 3. Gft. Everstein, 4. H. Homburg, 5. Gft. Diepholz (obere Wappenhälfte. Im Vereine mit Feld 8.), 6. Gft. Lauterberg, 7. Quergeteilt; oben Gft. Hoya, unten geteilt: oben von Rot und Silber viermal quergestreift (Gft. Neu-Bruchhausen), unten von Silber und Blau geständert (Gft. Alt-Bruchhausen), 8. Gft. Diepholz (untere Wappenhälfte), 9. Gft. Hohnstein, 10. Gft. Regenstein, 11. Gft. Klettenberg, 12. Gft. Blankenburg.


【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯国】 Fürstentum Braunschweig-Wolfenbüttel

16 Jh.


組まれている紋章は、ブラウンシュヴァイク、リューネブルク、エバーシュタイン、ホンブルク。

1345年にブラウンシュヴァイク=ゲッティンゲンから分かれ家系で、途中、家系の断絶や占領を経験しましたが、1918年まで存続しました。19世紀にブラウンシュヴァイク公国と改称しました。


Geviert, 1. Hzm. Braunschweig, 2. Hzm. Lüneburg, 3. Gft. Everstein, 4. H. Homburg.

歴代公 Füsten von Braunschweig-Wolfenbüttel

Heinrich Julius (1589-1613)

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】ハインリヒ・ユリウス(在位1589−1613)

中央の小盾はハルバーシュタット司教。背後の盾は、ブラウンシュヴァイク、リューネブルク、エバーシュタイン、ホンブルク、ホヤ、アルトブルフハウゼン(赤銀の横帯)&ノイブルフハウゼン(銀青の放射8分割)。ホヤ=ブルフハウゼン伯領は1582年にブラウンシュヴァイク=カレンベルクが継承し、1584年の同家断絶後は、本家のヴォルフェンビュッテルに渡りました。

ハインリヒ・ユリウスはハルバーシュタット司教を兼ねていました(在位1566−1613)。ハルバーシュタットでは彼を初代として1627年までプロテスタント司教が在位しました。

Heinrich Julius (1564-1613)
Sohn des Herzogs Julius von Braunschweig-Wolfenbüttel.
1566-1613 Administrator des Bistums Halberstadt
1589-1613 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg und Füst von Wolfenbüttel

Herzschild: Bm. Halberstadt: gespalten von Silber und Rot.


Heinrich Julius (1589-1613)
c.a. 1600-1613

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】ハインリヒ・ユリウス(2)

1600年頃からの紋章です。
組まれているのは、中央の小盾がハルバーシュタット司教。背後の盾は、リューネブルク、ブラウンシュヴァイク、エバーシュタイン、ラウターベルク(の上半分)、アルト&ノイブルフハウゼン、ホヤ、ホーエンシュタイン&ラウターベルク(の下半分:金と赤の横帯)、ブランケンブルク、クレッテンベルク、レーゲンシュタイン。

ヴォルフェンビュッテルは1593年にホーエンシュタイン伯の遺領を相続しました。その結果、同伯の紋章(ホーエンシュタイン、ラウターベルク、クレッテンベルク)が組み込まれましたが、組み方が定まらなかったようで、バリエーションが認められます。1600年頃にブランケンブルクとレーゲンシュタインの紋章が組み込まれ、紋章配置が安定しました。


Friedrich Urlich (1613-1634)

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】フリードリヒ・ウルリヒ(在位1613−34)

ハインリヒ・ユリウスの息子で、父の死後、公位を継ぎました。ハルバーシュタット司教位は弟のクリスチャンが継いだため(司教在位1613−24)、ハルバーシュタット司教の紋章が消え、盾地中央列の紋章が上に詰められました。
彼には世継ぎがいなかったため、公位は一族のブラウンシュヴァイク=リューネブルク=ダンネンベルク公子アウグストが継承します。

Friedrich Urlich (1591-1634)
Sohn des Herzogs Heinrich Julius von Braunschweig-Wolfenbüttel.
1613-1634 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg und Füst von Wolfenbüttel

August II. (1634-1666)

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公国】アウグスト2世(在位1634−66)

1635年頃の変更です。ディープホルツ伯の紋章が組み込まれました。ディープホルツ伯は1585年に断絶し、領土はブラウンシュヴァイクが継承していました。ディープホルツの紋章は、中央列の金地に赤色のライオンと青地に銀色の鷲で、ラウターベルク伯の紋章と同じく、一つの紋章が上下に分離されて組み込まれました。また、ブランケンブルクとレーゲンシュタインの紋章が一つにまとめられたのが大きな変更点です。正式には二つの紋章の間に分割線が入るのですが、しばしば省略されるようです。
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク=ダンネンベルク公ハインリヒの末子で、ヴォルフェンビュッテル公を継ぎました。

August II. (1579-1666)
Der letzte Kind des Herzogs Heinrich von Braunschweig-Lüneburg-Dannenberg.
1634-1666 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg und Füst von Wolfenbüttel


Ludwig Rudolph (1731-1735)

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】ルートヴィヒ・ルドルフ(在位1731−35)

盾の最下段の構成が変更されました。
なお、ホヤ&新旧ブルフハウゼンやラウターベルクとホーエンシュタインの紋章の組み方にもバリエーションがありました。

兄アウグスト・ヴィルヘルム(在位1714−31)の死後、公位を継承しました。世継ぎがいなかったため、従弟のフェルディナント・アルブレヒト(ベーヴェルン家)が領土を相続しました。

Ludwig Rudolph (1671-1735)
Der letzte Sohn des Herzogs Anton Ulrich von Braunschweig-Wolfenbüttel.
1731-1735 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg und Füst von Wolfenbüttel


Karl II. Wilhelm Ferdinand (1780-1806)

【ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公】カール2世ヴィルヘルム・フェルディナント(在位1780−1806)

中央にブラウンシュヴァイクの馬(ザクセンの馬)が組み込まれました。
1834年まで使用されました。

君主であると同時にプロイセン王国軍の司令官を務めました。1806年、プロイセン軍の主力を率いてアウエルシュテットでフランス軍と対戦し、敗死しました。彼の戦死後、公国はヴェストファーレン王国に併合されました。
公国は1813年にブラウンシュヴァイク公国として再興します。

Karl II. Wilhelm Ferdinand (1735-1806)
Sohn des Herzogs Karl I. von Braunschweig-Wolfenbüttel.
1780-1806 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg und Füst von Wolfenbüttel


【ブラウンシュヴァイク=リューネブルク侯国】 Fürstentum Braunschweig-Lüneburg (1267-1705)

-1624

【1624年まで】

1267年のブラウンシュヴァイク公国の分裂で誕生しました。1369年に家系が絶えると継承戦争が勃発し、1373年まで一族のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルが、その後1388年までザクセン公アスカニエル家が統治しました。
エルンスト2世(在位1520−1546)が1527年に宗教改革を実施すると、領土はハールブルク、ツェレ、ギフホルンの3公国に分裂して一時中断、ツェレ公国の分裂で1559年に再興しました。
公国は1641年にツェレとカレンベルク=ゲッティンゲン(のちのハノーファー)に分裂しました。

1267 entstand (Teil von Herzogtum Braunschweig)
1641 Teil in Braunsweig-Celle und Braunsweig-Lüneburg-Calenberg
1705 Linie Braunsweig-Celle erloschen, Territorium ging Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg (Braunsweig-Lüneburg-Calenberg)


1626-1636

【1626年−1636年】

最下段にラウターベルクの紋章が加わりました。


1. Hzm. Lüneburg, 2. Hzm. Braunschweig, 3. Gft. Everstein, 4. H. Homburg, 5. Gft. Hoya, 6. Gft. Diepholz (obere Wappenhälfte. Im Vereine mit Feld 8.), 7. Gft. Alt- und Neu-Bruchhausen, 8. Gft. Diepholz (untere Wappenhälfte), 9. Gft. Lauterberg.

1637-

【1637年以降】

紋章が大幅に変更されました。1641年にカレンベルクとツェレに分裂してからも、引き続き両国で用いられた他、ブラウンシュヴァイク各家の基本的紋章となりました。

歴代公 Füsten von Braunschweig-Lüneburg

Christian der Ältere (1611-1633)
1624-1625

【ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公】クリスティアン(在位1611−33)

1624年以降の紋章です。最下段にラウターベルクの紋章が加えられました。

クリスティアンは初めミンデン司教で(在位1599−1625)、1611年の兄の死で公国を相続しました。三十年戦争では、デンマーク王クリスティアン4世と共にニーダーザクセンクライス軍を創設し、クライス内の平和維持を図りました(1625年)。

Christian der Ältere (1556-1633)
Der zweite Sohn des Herzogs Wilhelm von Braunschweig-Lüneburg.
1599-1625 Fürstbischof von Minden
1611-1633 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg und Füst von Lüneburg


Christian der Ältere (1611-1633)
1626-1633

【ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公】クリスティアン(2)

1626年頃に、下段の配置が手直しされました。ミンデン司教位を失ってからも、彼の紋章にはミンデンの紋章が残りました。


Georg Wilhelm (1665-1705)

【ブラウンシュヴァイク=ツェレ公】ゲオルク・ヴィルヘルム(在位1665−1705)

ブラウンシュヴァイクの紋章の中央にニーダーザクセンの馬が組まれ、それによって盾の下半分の紋章の配置が若干変更されました。

カレンベルク=ゲッティンゲン公ゲオルク(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク共治公)の次男で、兄や弟のエルンスト・アウグスト(初代ハノーファー選帝侯)と領土を分割相続しました。はじめハノーファーに宮廷を構え、兄の死後にツェレに宮廷を移しました。後継男子がいなかったため、娘ゾフィー・ドローテアと結婚した甥、ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のイギリス王ジョージ1世)が領土を相続しました。
1694年にガーター騎士に叙されました。

Georg Wilhelm (1624-1705)
Der zweite Sohn des Herzogs Georg von Braunschweig-Lüneburg-Calenberg.
1648-1665 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg und Fürst von Calenberg
1665-1705 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg und Fürst von Lüneburg
1694 Knight of the Garter (Nr.500)



【自由ハンザ都市ブレーメン】 Freie Hansestadt Bremen

Grosses Staatswappen :


787 Stadt gegründet
1358 Hansestadt
1646 Freien Reichsstadt

787年にカール大帝(シャルルマーニュ)によって建設された都市で、1646年まではブレーメン大司教の支配下にありましたが、13世紀には事実上の独立を果たします。1358年にハンザ同盟に加入し、以後は商業都市として発達しました。1646年に帝国都市となり、1815年に自由ハンザ都市としてドイツ連邦に加入、1918年まで独立の都市国家として存続しました。現在も市域は独立の州となっています。

Mittleres Staatswappen

【中紋章】

中紋章は盾と冠という構成です。


【ブレーメン大司教領】 Erzstift Bremen

In Rot zwei gekreuzte, die Bärte abwärts kehrende silberne Schlüssel.


805 Bistum Bremen gegründet
1072 Erzbistum Bremen
848-1224 Personalunion mit dem Erzbistum Hamburg
1220 Erzstift
1648 weltliches Herzogtum Bremen unter schwedischer Herrschaft

赤地に銀色のペテロの鍵。

805年に設置された司教座が起源で、845年にノルマン人の来寇でハンブルク大司教区が破壊されると、ブレーメン司教位はハンブルク大司教位と結合しました。その後、1072年に大司教座に昇格し、1220年には神聖ローマ帝国の聖職諸侯の地位を得ました。
1558年以降はプロテスタントの支配を受け、三十年戦争では、スウェーデンやデンマークに占領されました。
1648年のヴェストファーレンの和約の結果、大司教領は世俗化され、スウェーデンの統治する「ブレーメン=フェルデン公国」となりました。

歴代大司教 Fürsterzbischöfe von Bremen

Nikolaus von Oldenburg-Delmenhorst (1422-1435)

【ブレーメン大司教】ニコラウス(在位1422−35)

オルデンブルク伯の紋章との組み合わせ。

オルデンブルク=デルメンホルスト伯オットー4世の長男で、1423年に父親が没すると、デルメンホルスト伯を継承しました(デルメンホルスト伯1423−38)。1435年に大司教位を退いて世俗君主となりますが、1438年に伯位と領土をオルデンブルク伯本家に譲りました(1444年没)。
なお、デルメンホルスト伯を継承したオルデンブルク伯ディートリヒの死後、デルメンホルスト伯領は次男モーリッツが継承し、新オルデンブルク=デルメンホルスト家を興しました。(長男クリスティアンはデンマーク、ノルウェー、スウェーデン王に選出され、オルデンブルク朝を開きます)。

Nikolaus Graf von Oldenburg-Delmenhorst (?-1447)
Sohn des Grafen Otto IV. von Delmenhorst.
1421-1434 Fürsterzbischof von Bremen
1423-1438 Graf von Oldenburg-Delmenhorst

Feld 1. u. 4. : Gft. Oldenburg.


Heinrich II. von Schwarzburg (1463-1496)

【ブレーメン大司教】ハインリヒ2世(在位1463−96)

大司教の実家シュヴァルツ伯の紋章との組み合わせ。

シュヴァルツブルク=ブランケンブルク伯ハインリヒ26世(在位1444−88)の次男で、1466年からはミュンスター司教を兼ねました(ミュンスター司教ハインリヒ3世:在位1466−96)。

Heinrich (XXVII) von Schwarzburg (?-1496)
Der Zweite Sohn des Grafen Heinrich XXVI. Graf v.Schwarzburg-Blankenburg.
1463-1496 Fürsterzbischof von Bremen
1466-1496 als Heinrich III. Fürstbischof von Münster

Feld 2. u. 3. : Gft. Schwarzburg.


Georg von Braunschweig-Lüneburg (1558-1566)

【ブレーメン大司教】ゲオルク(在位1558−66)

司教の実家ブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ヴォルフェンビュッテル)の紋章の中央にブレーメン大司教およびミンデン、フェルデン両司教の紋章が組まれました。

ミンデン司教フランツ1世(在位1508−1529)の実弟で、ミンデン司教ユリウス(実の甥:在位1553−1554)が実家ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公を継承したのを受けて、ミンデンの管理人となりました。ブレーメン大司教とフェルデン司教には1558年に就任します。
甥ユリウスがプロテスタントに改宗してシュマルカルデン同盟に参加したため、初代プロテスタント大司教となりました。ブレーメンでは以後1648年の世俗化まで、プロテスタントによる統治が続きます。

Georg von Braunschweig-Lüneburg (1494-1566)
Der fünfte Sohn des Herzogs Heinrich I. von Braunschweig-Wolfenbüttel. Er war der letzte katholische Erzbischof von Bremen.
1554-1566 Administrator des Bistums Minden
1558-1566 Fürsterzbischof von Bremen und Fürstbischof von Verden.

Hauptschild : Geteilt oben gespalten vorne Erzbm. Bremen, hinten Bm. Minden, unten Bm. Verden.


Johann Friedrich von Holstein-Gottorp (1596-1634)

【ブレーメン大司教】ヨハン・フリードリヒ(在位1596−1634)

ホルシュタイン=ゴッットルプ公の紋章に、ブレーメン大司教、リューベック司教の紋章を組み込みました。1607年以降の紋章です。

初代シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴッットルプ公アドルフの末っ子で、デンマーク王フレデリク1世の孫に当たります。兄ヨハン・アドルフ(ブレーメン大司教:1585−96、リューベック司教:1586−1607、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴッットルプ公:1587−1616)から1596年に大司教位を、1607年にリューベック司教位を譲られました。また1631年には、それまでのカトリック司教に代わってフェルデン司教にも就任しました。

Johann Friedrich Herzog von Schleswig-Holstein-Gottorp (1579-1634)
Der letzte Kind des Herzogs Adolph von Schleswig-Holstein-Gottorp
1590-1634 Herzog von Schleswig-Holstein-Gottorp
1596-1634 Fürsterzbischof von Bremen
1607-1634 Fürstbischof von Lübeck
1631-1634 Bischof von Verden

1. Norwegen, 2. Bm. Bremen, 3. Hzm. Schleswig, 4. Holstein, 5. Bm. Lübeck, 6. Stormarn, 7. Ditmarschen, 8. Oldenburg (geviert 1.&4. Oldenburg, 2.&3. Delmenhorst).

【ブレーメン=フェルデン公国】 Herzogtum Bremen-Verden (1648-1715)

ブレーメン大司教とフェルデン司教の紋章の組み合わせ。

1648年のヴェストファーレン条約の結果、ブレーメンとフェルデンの聖職諸侯領は世俗化され、それぞれ公国と侯国となりました。これらを獲得したスウェーデンは、両者を合同し、神聖ローマ帝国内の一公国として統治しました。
1675年から翌年にかけてのスウェーデン=ブランデンブルク戦争では、神聖ローマ帝国=デンマーク連合軍によって占領されたものの、1679年の和約によって、引き続きスウェーデンが統治することが確認されました。しかし、北方戦争勃発によって再びデンマーク軍によって占領され、戦争終結後の1715年に領土はハノーファー選帝侯国に売却され、公国は解体しました。

Gespalten, 1. Hzm. Bremen, 2. Fsm. Verden.

1648 Herzogtum Bremen und Fürstentum Verden
1715 zu Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg


1654-1712

【1654年以降】

中央の小盾はプファルツ。中間の盾は、バイエルン、ユーリヒ、クレーヴェ、マルク。背後の盾は、スウェーデン(新&古)、ブレーメン、フェルデン。
女王クリスティーナ(在位1632−54)のいとこのカール10世以後の紋章です。プファルツの紋章は、カール10世の父ヨハン・カージミールが興したプファルツ=クレーブルク家(プファルツ=ツヴァイブリュッケン家の分家)に由来します。

カール12世(在位1697−1718)が北方戦争を起こすと、公国はデンマーク軍の侵攻を受け、1712年に占領されました。デンマークは1715年に公国をハノーファーに売却し、北方戦争終結後の1719年、正式にハノーファーに組み込まれました。


【ブルフハウゼン伯領】 Grafschaft Bruchhausen

赤と銀の横分割図形(アルトブルフハウゼン)と銀と青の放射八分割図形(ノイブルフハウゼン)の組み合わせ。

記録上の初見は1189年で、1338年にアルトブルフハウゼンがホヤ伯によって購入されました。その後ノイブルフハウゼンもホヤ伯の所有となりました。
1582年のホヤ伯家断絶後は、ブラウンシュヴァイク領に組み込まれました。


Geteilt oben von Rot und Silber viermal quergestreift (Gft. Neu-Bruchhausen), unten von Silber und Blau geständert (Gft. Alt-Bruchhausen).


【ディープホルツ伯領】 Grafschaft Diepholz

金地に赤いライオンと青地に銀色の鷲の組み合わせ。

ブレーメンとオスナブリュックの中間にあった小邦で、領主のディープホルツ家は12世紀頃に記録に現れます。同家は1531年に伯の称号を得ますが1585年に男系が途絶。以後はブラウンシュヴァイク=リューネブルク領となりました。

なお、ブラウンシュヴァイク公の紋章では、銀色の鷲のくちばしと脚が赤色に塗られています。


Geteilt oben In Gold ein blau gekrönter, bewehrter und gezungter roter Löwe, unten in Blau ein silberner Adler.


【ガンダースハイム女子修道院領】 Reichsabtei Gandersheim

黒と金の縦分割。

856年に創建された女子修道院で、ザクセン朝(リウドルフィング家)の祖リウドルフによって建設されました。ザクセン朝時代は皇帝オットー2世の皇女ゾフィー1世(在位1002−39)、アーデルハイト1世(在位1039−45)姉妹が女子修道院長を務め、帝国に影響力を持ちました。
女子修道院は1417年に神聖ローマ帝国の聖職諸侯に列し、16世紀半ばに宗教改革を実施してルター派女子修道院となりました。1802年に世俗化され、領土はブラウンシュヴァイク公国に併合されました。
世俗化までの一世紀以上の期間、女子修道院長の地位はブラウンシュヴァイク公家の子女によって占められました。


Gespalten von Schwarz und Gold.

856 Stift gegründet
919 Reichsabtei
1802 säkularisiert



【ハノーファー王国】 Königreich Hannover (1814-1866)

Wappen :

Gevierter Hauptschild mit göpelschnitt geteiltes Mittelschild und Herzschild.

Herzschild : Reichserzschatzmeisterschild.
Mittelschild : 1. Hzm. Braunsweig, 2. Hzm. Lüneburg, 3. Niedersachsenross.
Hauptschild : 1.&4. England, 2. Schottland, 3. Irland.


1641 Fürstentum Braunsweig-Lüneburg-Calenberg
1692 Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg
1814 Königreich Hannover

1801年から1837年までのイギリスの紋章と同じ構成です。イギリスと同君連合だったため、盾持ちその他のアクセサリにも英国色が強く現れています。モットー「SUSCIPERE ET FINIRE」の書かれた巻物に添えられている植物は、チューダーローズとアザミです。より完全な形では、盾の下にゲオルク勲章(Georgs Orden)とグェルフェン勲章(Guelphen Orden)が描かれます。グェルフェンはブラウンシュヴァイク一族の家名、ヴェルフェン家の転訛のようです。

1641年にブラウンシュヴァイク=リューネブルク侯国の分裂で誕生したブラウンシュヴァイク=リューネブルク=カレンベルクが前身で、1692年に選帝侯位を獲得し、1705年に兄脈のツェレ家断絶でリューネブルク侯国を再統合しました。
1714年、第二代の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス王に迎えられてハノーヴァー朝を開いたため、以後、イギリスと同君連合となりました。神聖ローマ帝国解体後、一時ヴェストファーレン王国に吸収されますが、1814年に王国として復活し、その際に国名をハノーファーと定めました。1837年にイギリスでヴィクトリア女王が即位すると、女子の相続を認めないハノーファーはイギリスとの連合を解消。ジョージ3世の5男エルンスト・アウグスト(アーネスト・オーガスタス)を国王に迎えました。1866年の普墺戦争でプロイセンに敗北し、プロイセン王国に併合されました。


1801年に定まった配置です。中央にハノーファーの紋章を置き、背後にイングランド、スコットランド、アイルランドの紋章を組んでいます。
中央の小盾は神聖ローマ帝国内帑長官、中間の盾は、ブラウンシュヴァイク、リューネブルク、ザクセンの馬(ハノーファー)。
同君連合だったイギリスの紋章に連動しての変更です。イギリスでは、ハノーファーの小盾に王冠(1814年以前は選帝侯帽)が載せられています。
1837年にイギリスとの同君連合が解消すると、イギリスではハノーファーの紋章が取り除かれて現在の紋章構成になりますが、ハノーファーではこの紋章が引き続き使用されました。

【ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲン侯国】 Fürstentum Braunschweig-Calenberg-Göttingen

組まれている紋章はリューネブルク、ブラウンシュヴァイク、エバーシュタイン、ホンブルク、ディープホルツ(の上半分)、ラウターベルク(の上半分)、ホヤ&アルトブルフハウゼン(赤銀の横帯)&ノイブルフハウゼン(銀青の放射8分割)、ディープホルツ(の下半分)、ホーエンシュタイン(チェック)&ラウターベルク(の下半分:金赤の横帯)ブランケンブルク、クレッテンベルク、レーゲンシュタイン。

ブラウンシュヴァイクから分立したカレンベルクとゲッティンゲンは15世紀に合同します。その後家系が絶えますが、1641年のブラウンシュヴァイク=リューネブルクの分裂で新家系が生まれました。

歴代公と選帝侯 Herzöge und Kurfürsten von Hannover

Ernst August (1679-1692)
bis 1692

【ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲン公】エルンスト・アウグスト(在位1679−92)

中央にオスナブリュック司教の紋章が組まれました。

はじめオスナブリュック司教(在位1661−98)で、兄ヨハン・フリードリヒの死後、カレンベルク侯国を継承しました。1692年には第9番目の選帝侯位を獲得し、ハノーファー選帝侯を称します。
妃ゾフィーの母親がイギリス王女だったため、息子ゲオルク・ルートヴィヒにイギリス王位がもたらされます。

Ernst August (1629-1698)
Der vierte Sohn des Herzogs Georg von Calenberg.
1661-1679 Fürstbischof von Osnabrück
1679-1692 Herzog zu Braunschweig-Lüneburg, Fürst von Calenberg
1692-1698 Kurfürst von Braunschweig-Lüneburg (Hannover)


Ernst August (1692-1698)
1692-1698

【ハノーファー選帝侯】エルンスト・アウグスト(在位1692−98)

オスナブリュック司教の紋章が背後の盾に組み込まれ、中央に選帝侯位を示す赤無地の盾が置かれました。これは「騎手長官」の職位を表すようです。
また背後の盾中央列上部に、ニーダーザクセンの馬(ブラウンシュヴァイクの馬とも呼ばれます)が組み込まれました。「ザクセンの馬」はブラウンシュヴァイク公のクレストに用いられており、同家を象徴するものとして国章に使われたり、後にはハノーヴァー朝イギリス王の紋章にも取り入れられました。

選帝侯の正式称号は「ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公にして選帝侯」ですが、首都の名を採ってハノーファーと通称され、王国昇格時にはハノーファーが国名に採用されます。

Georg I. Ludwig (1698-1727)
1698-1711

【ハノーファー選帝侯】ゲオルク・ルートヴィヒ(1698−1711年)

オスナブリュックの紋章が削られました。
父の跡を継いで選帝侯となったゲオルク・ルートヴィヒ(在位1698−1727)は、1706年にプファルツ選帝侯に代わって内帑長官となります。しかし、同長官の職位を表す紋章も赤無地の盾だったため、紋章の変更はなされませんでした。

Georg I. Ludwig (1660-1727)
Sohn des Kurfürsten Ernst August von Braunschweig-Lüneburg
1698-1727 Kurfürst von Braunschweig-Lüneburg (Hannover)
1707 Reichserzschatzmeister
1714 als George I. König von Grossbritannien und Irland


Georg I. Ludwig (1698-1727)
1711-1714

【ハノーファー選帝侯】ゲオルク・ルートヴィヒ(1711−14年)

1711年からの紋章です。内帑長官の紋章にカール大帝(シャルルマーニュ)の冠が描き加えられました。

ゲオルク・ルートヴィヒは1714年にイギリス王に即位したので(ジョージ1世)、この紋章はごく短期間使用されただけでした。
なお、選帝侯位を表す紋章は、帝国解体後もイギリスとハノーファーの紋章に残り、イギリスでは1837年まで、ハノーファー(1814年に王国昇格)ではプロイセンに征服される1866年まで組まれていました。

Georg I. Ludwig (1698-1727)
1714-

【ハノーファー選帝侯】ゲオルク・ルートヴィヒ(1714年以降)

イギリス王に即位してからの紋章です。イギリス王の紋章に選帝侯の紋章が加えられました。組み込む際に、選帝侯の紋章は大幅に簡略化され、代表的な4つの紋章、内帑長官、ブラウンシュヴァイク、リューネブルク、ザクセンの馬(国章としても使われました)のみとなりました。
この紋章は1801年まで使用されました。


Geviert, 1. gespalten vorne England, hiten Schottland, 2. Frankreich, 3. Irland, 4. göpelschnitt geteiltes mit Herzschild: 1. Hzm. Braunsweig, 2. Hzm. Lüneburg, 3. Niedersachsenross, Herzschild: Reichserzschatzmeisterschild.


【ヘルフォート女子修道院領】 Reichsabtei Herford

銀地に赤色の横帯。

800年頃に創建された修道院で、中世ザクセン大公領に建設された最古の女子修道院です。女子修道院はルートヴィヒ敬虔王(アクィタニア王:781−814、西ローマ皇帝:814−840)によって、帝国修道院の地位を与えられました(823年)。女子修道院はヘルフォート市域を支配していましたが、市は1631年に帝国都市の地位を得て修道院の支配を脱しました(1647年に帝国都市の地位は取り消されます)。
1533年に宗教改革を実施して福音派女子修道院となり、1802年に世俗化、翌年プロイセン領となりました。

In Silber ein roter Balken.

c.a. 800 Stift gegründet
823 Reichsabtei
1553 Evangelische Abtei
1802 säkularisiert


【ヒルデスハイム司教領】 Hochstift Hildesheim

Gespalten von Gold und Rot.


822 Bistum gegründet
1802 Säkularisiert

金と赤の縦分割。

822年頃に設置された司教座を中心に形成されました。主にバイエルン公家の一族が司教に就任しました。
1802年に世俗化され、プロイセン王国に併合されました。
プロイセン領となると、彩色が逆転されました。


歴代司教 Fürstbischöfe von Hildesheim

Magnus von Sachsen-Lauenburg (1424-1452)

【ヒルデスハイム司教】マグヌス(在位1424−1452)

ザクセンの紋章との組み合わせ。

ザクセン=ラウエンブルク家出身の司教です。ザクセン=ラウエンブルク家からは彼の他に2名の司教が在位しました。

Magnus von Sachsen-Lauenburg (?-1452)
Der vierte Sohn des Herzogs Erich IV. von Sachsen-Lauenburg.
1424-1452 Fürstbischof von Hildesheim

Feld 2. u. 3. Hzm. Sachsen-Lauenburg.

Ernst II. von Bayern (1573-1612)

【ヒルデスハイム司教】エルンスト2世(在位1573−1612)

実家バイエルンの紋章の中央に司教の紋章を組みました。同じヴィテルズバハ家出身の後任司教フェルディナント(在位1612−50)もこの紋章を用いました。

エルンスト2世はケルン選帝侯(在位1583−1612)をはじめ、フライジング司教(在位1566−1612)、リェージュ司教(在位1581−1612)、ミュンスター司教(在位1585−1612)など多くの聖職位を兼ねました。

Ernst II. von Bayern (1554-1612)
Sohn des Herzogs Albrecht V. von Bayern.
1566-1612 Fürstbischof von Freising
1573-1612 Fürstbischof von Hildesheim
1581-1612 Fürstbischof von L&ううmlttich
1583-1612 Erzbischof-Kurfürst von Köln
1584-1612 Fürstbischof von Münster

Hauptschild: geviert 1.&4. Hzm. Bayern, 2.&3. Pfgft. am Rhain


Jost Edmund von Brabeck (1688-1702)

【ヒルデスハイム司教】ヨプスト・エトムント(在位1688−1702)

司教の実家ブラベック家の紋章との組み合わせ。ブラベック家の紋章は、立たせた狼猟の罠をかたどっています。

カモ猟に熱を上げた人物として知られ、「entenfang」とあだ名されました。

Jost Edmund Freiherr von Brabeck (1619-1702)
1688-1702 Fürstbischof von Hildesheim
1697-1702 Apostolischer Vikar des Nordes

Feld 2. u. 3. Familienwappen Brabeck.

Friedrich Wilhelm von Westfalen (1763-1789)

【ヒルデスハイム司教領】フリードリヒ・ヴィルヘルム(在位1763−89)

司教の実家ヴェストファーレン家の紋章との組み合わせ。

1761年から63年にかけて空位が続いた後に、ヒルデスハイム司教に選出されました。1782年からはパーダーボルン司教を兼務しました。

Friedrich Wilhelm von Westfalen (1727-1789)
1736-1789 Fürstbischof von Hildesheim
1773-1782 Koadjutor des Fürstbischofs von Paderborn
1775-1780 Apostolischer Vikar des Nordes
1780-1789 Apostolischer Vikar der wiedervereningten Vikariate des Nordes
1782-1789 Fürstbischof von Paderborn

Feld 2. u. 3. Familienwappen Westfalen.



【帝国都市ヒルデスハイム】 Reichsstadt Hildesheim

盾上半分は銀地に金色の冠を被った赤い舌の黒鷲。盾の下半分は、金と赤のクォータリー(四分割図形)。
1528年に皇帝カール5世によって定められた紋章です。

ヒルデスハイムは13世紀に司教の支配を脱し、帝国都市になります。1803年に司教領と共にプロイセンに併合されました。


【ホヤ伯領】 Grafschaft Hoya

金地に黒熊の手。

1202年に伯領が成立しました。初代伯ハインリヒ1世はニーンブルク自由伯領を購入するなどして勢力を拡大しました。1345年にホヤ家とニーンブルク家に別れ、ホヤ家はホヤ=ブルフハウゼン伯を、ニーンブルク家はホヤ伯を称しました。ホヤ家は1497年に、ニーンブルク家は1583年に断絶。ニーンブルク家の断絶後、伯領はブラウンシュヴァイク各家によって分割相続され、中核であるホヤ伯領は、後のハノーファー選帝侯家の領土となりました。


In Gold zwei schwarze, auswärtsgekehrte Bärentatzen.


1202 Grafschaft endstand
1583 erloschen, Territorium fällt an Braunschweig



【イェーファー領主領】 Herrschaft Jever

青地に舌と爪が赤い金色のライオン。

現在の東フリースラント郡、ヴィルヘルムスハーフェン市の西にあった領邦です。神聖ローマ帝国の直属身分を持ちながらも、帝国の身分制度である帝国等族やクライス等族には加わっていなかった特殊な領邦でした。
領主のパピンガ家は14世紀に登場し、漸次領土を広げていきますが、1517年に男系が絶え、2代半世紀にわたって女領主の統治が続いた後、オルデンブルク伯が領土を相続しました。
イェーファーの紋章は、現在は同市の市章やフリースラント郡そしてオルデンブルク郡の郡章などに見ることができます。また、イェーファーの市章には、パピンガ家最後の当主「フロイライン・マリア」(在位1536−75)への献辞が刻まれています。


In Blau ein goldener Löwe.


1576-1667

【オルデンブルク時代】

オルデンブルク伯の紋章の中央にイェーファーの紋章が組まれました。

フロイライン・マリアが没すると、領土はオルデンブルク伯が相続しし、1667年の同家断絶まで支配しました。


Hauptschild: 1.&4. Gft. Oldenburg, 2.&3. H. Delmenhorst.

18 Jh. -

【18世紀以降】

ライオンに冠が加えられたバリエーションです。冠は17世紀のオルデンブルク伯の紋章にすでに見られますが、当のイェーファーでは18世紀になってから登場するようです。

1667年にオルデンブルク伯家が断絶すると、イェーファーはアンハルト=ツェルプスト侯家の領土となりました。
アンハルト=ツェルプスト侯家は1793年のフリードリヒ・アウグストの死で途絶え、領土はフリードリヒ・アウグストの実の姉、ロシア女帝エカテリーナ2世が相続しました。このロシア領時代、実際に統治していたのはフリードリヒ・アウグストの未亡人フリーデリケ・アウグステ・ゾフィーで、彼女が実質的な最後の領主でした(領地管理人1793−1807)。


【クニプハウゼン男爵領】 Freie Herrschaft Kniphausen

Gräflich Bentincksches Wappen :

Geviert: 1.&4. Fammiliewappen Bentinck, 2.&3. Grafen zu Aldenburg.


1588/1624 Freiherrschaft
1854 zu Oldenburg

男爵領最後の領主、ベンティンク伯家の紋章です。

クニプハウゼンは現在のヴィルヘルムスハーフェン市内にあります。男爵領はクニプハウゼンの他に東フリースラント郡内に所領が散在していて、領主のインハウゼン=クニプハウゼン家はそのため複数の家系に分かれていました。
男爵領のうち、クニプハウゼンは1624年にオルデンブルク伯に売却され、その際に帝国男爵領となりました。クニプハウゼン家から男爵領を購入したオルデンブルク家が1667年に絶えると、男爵領はオルデンブルク伯の庶子のアルデンブルク伯が相続し、同じヤーデ湾沿岸の最奥部にあったファーレル男爵領と結合します。その後、婚姻を通じてオランダ系英国貴族のベンティンク家が領主となります。
男爵領は帝国直属の地位を持ちながらも、帝国議会に議席を持たず、また帝国の地域組織のクライスにも属していませんでした。そのため、1802年に行われた帝国再編の対象とならず、帝国解体後も主権を保って独立の男爵国となります。
しかしナポレオン体制崩壊後の1818年にオルデンブルク公国(1829年以降大公国)の支配が及び、1825年には男爵領がオルデンブルクに併合されたという国際的な認識が生まれます。そのため、ベンティンク家とオルデンブルクの間に主権をめぐっての長期の係争が起こりました。この係争は1854年にオルデンブルク側が領土と統治権を購入することで決着し、ベンティンク家は主権を放棄しました。なお、1843年当時の男爵領の面積は45平方キロで人口は3100人。独立国と呼ぶにはあまりにも小さな領土でした。


クニプハウゼン本来の紋章です。金地に舌と爪が赤い黒のライオン。オルデンブルク時代以降の紋章には冠が描かれます。

領主のインハウゼン=クニプハウゼン家は1588年に男爵位を得ました。クニプハウゼン家は複数の家系に分かれており、ブランデンブルク大選帝侯に仕えたイェネルト家のドード2世(在位1654−98)は、ドイツで最初の国家予算を組んだ人物として著名です。また、早い時期にオストフリースラント系から分かれたヘッセン系クニプハウゼン家の一族のヴィルヘルムは、アメリカ独立戦争でヘッセン傭兵部隊司令官となり、ニューヨークを守備した人物として知られます。


In Gold ein rot bewehrter, schwarzer Löwe.


歴代領主 Herren von Kniphausen

Reichsgrafen zu Aldenburg
1667-1747