(2)帝国北東部の諸邦(N−Z)

16世紀前半の神聖ローマ帝国北東部
現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州、ブランデンブルク州、ザクセン=アンハルト州、ザクセン州、テューリンゲン州およびポーランド西部の地域です


掲載一覧です Liste (N - Z)  
(A - M)

ポンメルン公国
クヴェトリンブルク女子修道院領
兄脈ロイス侯国
弟脈ロイス侯国
ロイス=ローベンシュタイン=エバースドルフ侯国
ザクセン王国
ザクセン選帝侯国
ザクセン公国
ザクセン大公国
ザクセン=ヴァイマール公国
ザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ公国

ザクセン=アルテンブルク公国
ザクセン=コーブルク=ゴータ公国
ザクセン=アイゼナハ侯国
ザクセン=アイゼンブルク公国
ザクセン=ゴータ公国
ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国
ザクセン=マイニンゲン公国

ザクセン=メルゼブルク公国
ザクセン=ヴァイセンフェルス公国
ザクセン=ツァイツ=ナウムブルク公国

シュヴァルツブルク伯領
シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国
シュヴァルツブルク=ゾンダーズハウゼン侯国
シュトルベルク伯領
シュトルベルク=ケーニヒシュタイン伯領
シュトルベルク=シュトルベルク伯領
シュトルベルク=ヴェルニゲローデ伯領
ヴェルニゲローデ伯領
ヴィルデンフェルス領主領


Pommern (Hzm.)
Quedlinburg (Abtei)
Reuss a. l. (Fsm.)
Reuss j. l. (Fsm.)
Reuss j.l. Lobenstein-Ebersdorf (Fsm.)
Sachsen (Kgr.)
Sachsen (Kfsm.)
Sachsen (Hzm.)
Sachsen (Ghzm.)
Sachsen-Weimar (Hzm.)
Sachsen-Weimar-Eisenach (Hzm.)

Sachsen-Altenburg (Hzm.)
Sachsen-Coburg-Gotha (Hzm.)
Sachsen-Eisenach (Fsm.)
Sachsen-Eisenberg (Hzm.)
Sachsen-Gotha (Hzm.)
Sachsen-Gotha-Altenburg (Hzm.)
Sachsen-Meinningen (Hzm.)
Sachsen-Merseburg (Hzm.)
Sachsen-Weissenfels (Hzm.)
Sachsen-Zeitz-Naumburg (Hzm.)

Schwarzburg (Gft.)
Schwarzburg-Rudolstadt (Fsm.)
Schwarzburg-Sondershausen (Fsm.)
Stolberg (Gft.)
Stolberg-Koenigstein-Wertheim (Gft.)
Stolberg-Stolberg (Gft.)
Stolberg-Wernigerode (Gft.)
Wernigerode (Gft.)
Wildenfels (H.)


Abkürzungen :
Kgr.= Königreich, Ghzm.= Grossherzogtum, Hzm.= Herzogtum, Kfsm.= Kurfürstentum, Fsm.= Fürstentum
Mgft.= Markgrafschaft, Lgft.= Landgrafschaft, Bgft.=Burggrafschaft, Fgft.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft, Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.= Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum


【ポンメルン公国】 Herzogtum Pommern (1107-1637)

銀地に赤色のグリフォン。

1107年にスラブ系公国として成立しました。1128年までにキリスト教化が達成されると、ドイツ人の入植が進み、1181年に神聖ローマ帝国に組み込まれました。同時期にポンメルン=デミンとポンメルン=ヴォルガストに分裂。以来、多くの家系への分裂と合同を繰り返しました。
1637年に公家は断絶。ブランデンブルク=プロイセンが公国を併合しますが、ウェストファリアの講和によって西ポンメルンはスウェーデン領、東ポンメルンはプロイセン領に分割されました。
しかしプロイセンによる蚕食はその後も進み、1815年までに全ポンメルンがプロイセン領となります。
ポンメルンはゲルマン民族移動後に侵入したスラブ人が「ポモージェ(海沿いの地)」と呼んだことに由来します。

1107 Slawischer Herzogtum
1320 Reichsfürstenstand
1637 erloschen, Territorium wird unter Brandenburg und Schweden aufgeteilt


大紋章の配置です。組まれている紋章はシュテッティン、ポンメルン、カシュベン(=ヒンターポンメルン)、ヴェンデン、リューゲン、ウゼドム、ロストク、ギュッツコー、ヴォルガスト。

1637年の公家断絶後、公国を継承したスウェーデンもこの紋章を受け継ぎました。


Zweimal gespalten und zweimal geteilt.
1. Hzm. Stettin, 2. Hzm. Pommern, 3. Hzm. Kassuben, 4. Hzm. Wenden, 5. Fsm. Rügen, 6. Usedom, 7. Rostock, 8. Gft. Gützkow, 9. Hzm. Wolgast.


c.a. 16. Jh.-

盾の最下段にレガーリエン(国王大権を表します)が組み込まれたバリエーションです。
レガーリエンが加わったのは、16世紀前半と思われますが、省略されることもあったようです。

1557-1637

【1557年−1637年】

中央の赤地に銀色の錨形十字はカミン司教領の紋章です。

1544年にプロテスタントに改宗したカミン司教領は、1556年から1637年にかけてポンメルン公が統治しました。その関係で、司教の紋章が組み込まれました。

Feld 5 : Bistum Kammin - In Rot ein silbernes Ankerkreuz.


【クヴェトリンブルク女子修道院領】 Reichsabtei Quedlinburg

配膳用ナイフ(Kredenzmesser)をかたどった紋章で、現在はクヴェトリンブルク郡の郡章に取り入れられています。

東フランク王ハインリヒ1世妃、聖マティルデ(895頃−968)が建設した家族修道院から発展した女子修道院で、11世紀の初頭までは皇帝の娘達が女子修道院長に就任し、神聖ローマ帝国摂政や皇帝代官に任ぜられるなど、国政の中枢に関わりました。
1515年に宗教改革を実施し、以後、プロテスタント系女子修道院として存続します。プロテスタント時代の女子修道院長には、ザクセンやプロイセン、スウェーデン等、有力プロテスタント諸侯の子女が就任しました。
1802年に世俗化され、領土はプロイセンに併合されました。

936 Als ottonische Familienstift
gegründet
966 Stift Quedlinburg
1515 Reformation
1802 Säkularisiert


歴代女子修道院長 Reichsäbtissinnen von Quedlinburg

Anna III. zu Stolberg-Wernigerode (1584-1601)

【クヴェトリンブルク女子修道院長】アンナ3世(在位1584−1601)

女子修道院長の実家シュトルベルク=ヴェルニゲローデ伯家の紋章の中央に修道院の紋章を組みました。修道院の紋章を組み込んだ関係で、実家の紋章とは少々配置が異なっています。

初代シュトルベルク=ヴェルニゲローデ伯ハインリヒの長女で、宗教改革を実施した女子修道院長アンナ2世(在位1515−74年)の姪にあたります。

Anna III. Gräfin zu Stolberg-Wernigerode (1565-1601)
Das erate Tochter des Grafen Heinrich zu Stolberg-Wernigerode.
1584-1601 Reichsäbtissin von Quedlinburg

Zweimal gespalten und zweimal geteilt.
1. Gft. Königstein, 2. Gft. Stolberg, 3. Gft. Rochefort, 4. Gft. Eppstein, 5. Herzschild : Reichsabtei Quedlinburg, 6. Gft. Mark, 7. Gft. Falkenstein-Münzenberg, 8. Gft. Wernigerode, 9. Bgft. Rieneck?.



Drothea von Sachsen (1610-1617)

【クヴェトリンブルク女子修道院長】ドロテーア(在位1610−17)

女子修道院長の実家ザクセン選帝侯家の紋章との組み合わせ。実家の紋章から帝国式部長官の紋章が削られ、その場所に女子修道院の紋章が組まれました。

ザクセン選帝侯クリスティアン1世の末娘で、19歳で女子修道院長に就任しました。

Drothea Herzogin von Sachsen (1591-1617)
Die vierte Tochter des Kurfürsten Christian I. von Sachsen.
1610-1617 Reichsäbtissin von Quedlinburg

1. Lgft. Thüringen, 2. Hzm. Sachsen, 3. Mgft. Meissen, 4. Pfgt. Sachsen, 5. Herzschild : Reichsabtei Quedlinburg, 6. Pfgt. Thüringen, 7. Gft. Orlamünde, 8. Mgft. Landsberg, 9. H. Pleissen, 10. Bgft. Altenburg, 11. Bgft. Magdeburg, 12. Gft. Brena, 14. Gft. Henneberg, 13.&15. Warteschild


 

Drothea Sophie von Sachsen-Altenburg (1618-1645)

【クヴェトリンブルク女子修道院長】ドロテーア・ゾフィー(在位1618−45)

小紋章です。小紋章は女子修道院とザクセンの紋章の組み合わせで、女子修道院領の紋章が優位に組まれるのが本来の紋章と思われます。

ザクセン=アルテンブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の次女で、31際で女子修道院長に就任しました。

Dorothea Sophia Herzogin von Sachsen-Altenburg (1587-1645)
Die zweite Tochter des Herzogs Friedrich Wilhelm I. von Sachsen-Altenburg.
1618-1645 Reichsäbtissin von Quedlinburg


 

Drothea Sophie von Sachsen-Altenburg (1618-1645)

【クヴェトリンブルク女子修道院長】ドロテーア・ゾフィー(在位1618−45)

大紋章は先代の女子修道院長ドロテーア(ザクセン選帝侯家出身)の紋章と酷似しています。アイゼンベルク領主領の紋章(中央下部の銀と青の横縞)以外は当時のザクセン選帝侯の紋章構成とほぼ同じです。
彼女が即位した当時、実家ザクセン=アルテンブルクはじめヴェッティン各家の紋章にはユーリヒ等の紋章がすでに加えられていましたが、彼女の紋章には反映されなかったようです。

Zweimal gespalten unt dreimal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Reichsabtei Quedlinburg,
Hauptschild : 1. Lgft. Thüringen, 2. Hzm. Sachsen, 3. Mgft. Meissen, 4. Pfgft. Sachsen, 5. Mgft. Landsberg, 6. Pfgft. Thüringen, 7. Gft. Orlamünde, 8. H. Eisenberg, 9. H. Pleissen, 10. Bgft. Altenburg, 11. Gft. Henneberg, 12. Gft. Brena


Anna Sophie I. von d. Pfalz-Zweiburücken-Birkenfeld (1645-1680)

【クヴェトリンブルク女子修道院長】アンナ・ゾフィー1世(在位1645−80)

女子修道院長の実家、プファルツ=ビルケンフェルトの紋章との組み合わせ。実家のツヴァイブリュッケンは、1671年にラッポルトシュタイン領主領などを相続して紋章構成が変わりますが、アンナ・ゾフィーの紋章にはそれらの領地の紋章は登場しなかったようです。

Anna Sophie I. Herzogin von d. Pfalz-Zweiburücken-Birkenfeld (1619-1680)
Die zweite Tochter des Pfalzgrafen Georg Wilhelm von Zweiburücken-Birkenfeld.
1645-1680 Reichsäbtissin von Quedlinburg

Einmal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Reichsabtei Quedlinburg.
Hauptschild : 1.&4. Pfgft. am Rhain, 2.&3. Hzm. Bayern, 5. Gft. Veldenz, 6. Gft. Birkenfeld.



Maria Elisabeth von Schleswig-Holstein-Gottorp (1710-1755)

【クヴェトリンブルク女子修道院長】マリア・エリーザベト(在位1710−55)

実家ホルシュタイン=ゴットルプ公の紋章の中央に女子修道院の紋章が組まれました。

ホルシュタインゴットルプ公クリスティアン・アルブレヒト(在位1659−94、リューベック司教:1655−66)の次女で、1704年以来空位となっていた女子修道院長に就任しました。

Maria Elisabeth Herzogin von Schleswig-Holstein-Gottorp (1678-1755)
Das zweite Tochter des Herzogs Christian Albrecht von Schleswig-Holstein-Gottorp.
1710-1755 Reichsäbtissin von Quedlinburg

Herzschild : Reichsabtei Quedlinburg.
Mittelschild : geviert 1.&4. Gft. Oldenburg, 2.&3. H. Delmenhorst.
Hauptschild : Geviert und einer unten eingepfropften Spitze. - 1. Kgr. Norwegen, 2. Hzm. Schleswig, 3. Hzm. Holstein, 4. H. Stormarn, 5. Land Ditmarschen.




【ロイス侯国(兄脈:ロイス=グライツ)】 Fürstentum Reuss Älterer Linie (Reuss-Greiz)

Geviert: 1.&4. Reuss, 2.&3. H. Kranichfeld.


Löwen im Wappen und Shildhalter sind Doppelschweife.


1564 Herrschaft Reuss-Obergreiz
1673 Grafschaft
1768 Grafschaft Reuss-Greiz
1778 Fürstentum

10世紀の末に登場する帝国直属身分の領主家で、12世紀末以来非常に多くの家系に分かれていました。兄脈ロイスは1564年のロイス=グライツ分裂で誕生した3家のうちの長兄脈で、ロイス=オーバーグライツと称しました。1673年に一族と共に伯に昇格。1768年に次兄系のロイス=ウンターグライツが断絶すると、その領土を統合してロイス=グライツと改称、その10年後の1778年に帝国諸侯となりました。
神聖ローマ帝国解体後も主権を保持し、1918年のドイツ革命に至ります。

ライオンはロイス・ツー・プラウエン伯。鶴はクラーニヒフェルト領主。ライオンは隣接するフォークトラントの紋章に由来します。クラーニヒフェルトの紋章は彩色違反紋章です。
紋章は1561年以来固定で、兄脈系弟脈系とも同じ紋章を使用しました。兄脈と弟脈の紋章の相違は、兄脈はライオンの尾が二本で弟脈はライオンの尾が一本となっている点です(クレストは両脈とも同じ)。

盾持ちが後ろ向きのライオンとなったのは19世紀後半ですが、固定ではなかったようで、それ以前に使われていた前方向きのライオンの盾持ちも登場します。


Geviert: 1.&4. Reuss : In Schwarz ein goldener, rotbewehrter und rotgekrönter Löwe mit Doppelschweif, 2.&3. H. Kranichfeld : In Silber ein schreitender goldener Kranich.

【ロイス侯国(弟脈:ロイス=シュライツ)】 Fürstentum Reuss Jüngerer Linie

Geviert: 1.&4. Reuss, 2.&3. H. Kranichfeld.


1564 Herrschaft Reuss Jüngerer Linie
1616 Herrschaft Reuss-Schleiz
1647 Herrschaft Reuss Jüngerer Linie zu Schleiz
1673 Grafschat
1806 Fürstentum
1848 Fürstentum Reuss Jüngerer Linie

弟脈ロイスは、1564年のロイス=グライツ家の分裂で誕生した家系で、兄脈系2家がオーバーグライツ、ウンターグライツを称したのに対し、分裂時から単に弟脈(Jüngerer Linie)と名乗りました。
1616年頃よりロイス=シュライツを称したものの、1647年に4家に分裂したため、各家は「シュライツの弟脈ロイス(Reuss Jüngerer Linie zu Schleiz)」のようにそれぞれの居所を付した呼称を採用しました。
弟脈各家は1673年に帝国伯の地位を得、1790年にローベンシュタイン家が帝国諸侯に昇格しました。エバースドルフ、シュライツ=ゲーラ家も1806年の神聖ローマ帝国解体直前に帝国諸侯となり、帝国解体後もそれぞれ主権国家として存続します。弟脈各家は1848年にシュライツ=ゲーラ家の元に合同して国名を弟脈ロイスと定め、1918年のドイツ革命に至ります。
ところでロイス家には、男子はハインリヒと名付ける決まりがあります。生まれた順に1世、2世…と呼ばれるため、歴代当主の「〜世」は連続しません。ハインリヒ42世の後をハインリヒ62世が継ぐというように、飛び飛びになっています。

兄脈と同じ紋章構成ですが、ライオンの尾が一本です。
また、盾持ちの身体は、盾地と対応して黒と銀に塗り分けられています。
なお、弟脈各家の統合以前は、前方向きのライオンが使われていました。


Geviert, 1.&4. Reuss : In Schwarz ein goldener, rotbewehrter und rotgekrönter Löwe, 2.&3. H. Kranichfeld : In Silber ein schreitender goldener Kranich.

【ロイス=ローベンシュタイン=エバースドルフ侯国】 Fürstentum Reuss Jüngerer Linie zu Lobenstein-Ebersdorf (1790 -1848)

1678 Grafschaft Reuss Jüngerer Linie zu Ebersdorf entstand (Teil von Reuss-Lobenstein)
1806 Fürstentum
1824 Fürstentum Reuss Jüngerer Linie zu Lobenstein-Ebersdorf
1848 Dankte zugunsten des Fürsten zu Schleiz

1678年のロイス=ローベンシュタイン家の分裂で誕生しました。1806年、神聖ローマ帝国解体直前に帝国諸侯の地位を得、帝国解体後は主権国家としてライン同盟、次いでドイツ連邦に参加します。1824年にロイス=ローベンシュタイン侯国が断絶すると、遺領を相続してローベンシュタイン=エーバースドルフと改称しました。しかし、ハインリヒ72世(在位1822−48)には世継ぎがいなかったため、1848年にシュライツ=ゲーラ侯国と合同しました。

盾持ちは冠を被った前方向きのライオンです。前方向きのライオンの盾持ちは、1848年以前の兄脈・弟脈各家が共通して用いていました。


【ザクセン王国】 Königreich Sachsen

Staaswappen:

Ordens der Rautenkrone gestiftet am 20.6.1807.


843 Herzogtum Sachsen
1298 Kurfürstentum
1485 Herzogtum Sachsen-Albertiner
1547 Kurfürstentum
1806 Königreich

王国の国章です。ザクセンの紋章と王家の家章ラウテンクローネ勲章、盾持ちとモットーというシンプルな構成です。

ザクセンはゲルマンの一部族ザクセン族の部族公領が起源で、カール大帝による征服戦争(ザクセン戦争)を経てフランク王国に組み込まれました。もともとは現在のニーダーザクセン州とホルシュタインにかけての一帯が領域でしたが、ザクセン公家の下で神聖ローマ帝国が成立すると、スラブ政策の拠点となり、東方植民と相まって領域を東方に拡大していきました。ハインリヒ獅子公の失脚(1180年)後、ザクセンはアスカニエル家に与えられ、この頃から領域が現在の地域へと移動していきます。アスカニエル家は13世紀に選帝侯位を得て帝国の有力者となりますが、15世紀に嫡流が絶え、ザクセンと選帝侯位はヴェッティン家の手に移り、ヴェッティン家は、20世紀までザクセンを統治しました。
ヴェッティン家は1485年にエルネスト系とアルベルト系に分かれ、シュマルカンデン戦争によって選帝侯位を得たアルベルト家は、1697年にはポーランド王位を得るも、台頭するプロイセンによって次第に圧迫されていきます。
ナポレオン戦争では対仏同盟に加わり、ナポレオンに敗北。フランスとポーゼン平和条約を結んで王位を得ると、フランスの同盟国として領土を拡大します。しかし、ナポレオン体制崩壊後のウィーン会議によって、領土の約4割を失いました。
ドイツ帝国が成立するとその構成国となり、1918年の革命に至ります。

黒と金で10分割した盾にラウテンクランツ(上側に葉花冠をあしらった緑色の菱形飾りの付いた斜め帯)。

ザクセンを表す紋章で、単独では王国や、他のザクセン諸公国の小紋章として使われました。
緑色の帯がかたどっている王冠は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサの王冠に由来するそうです。


Von Schwarz und Gold quergeteilt, schräg überdeckt mit einem grünen Rautenkranz.

Majestäts Wappen

【王家の紋章】

王室の紋章は所領土の紋章を組み合わせた構成になっています。組まれているのは、マイセン辺境伯、テューリンゲン方伯、テューリンゲン宮中伯、ザクセン宮中伯、レガーリエン(小盾の背後の赤地)、プライセン領主、フォークトラント、オルラミュンデ伯、ランツベルク辺境伯、オーバーラウジッツ辺境伯&アルテンブルク城伯&ヘンネベルク伯、アイゼンベルク領主。および、中央の小盾のザクセン。
王国に昇格すると、選帝侯時代とは大きく異なった構成の紋章が制定されました。

1. Mgft. Meissen, 2. Lgft. Thüringen, 3. Pfgft. Thüringen, 4. Pfgft. Sachsen, 5. Herzoglich gekrönten Mittelschilde : Hzm. Sachsen. Der Schild ist dem Regalienschild aufgelegt. 6. H. Pleissen, 7. Gft. Voigtland, 8. Gft. Orlamünde, 9. Mgft. Landsberg, 10. Mgft. Oberlausitz, 11. H. Eisenberg, 12. Bgft. Altenburg, 13. gefürstete Gft. Henneberg.

【ザクセン選帝侯国】 Kurfürstentum Sachsen (1298-1806)

向かって左側は式部長官の紋章で、向かって右側がザクセンです。

ザクセンの君主であるヴェッティン家は、15世紀にエルネスト家とアルベルト家に分かれました。選帝侯位はエルネスト家が継承しますが、神聖ローマ皇帝カール5世に敵対してその地位を剥奪され、代わってアルベルト家が任ぜられました。

18世紀の選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世と同2世はポーランド王を兼ねたので、左の紋章はポーランド王の紋章にも組み込まれました。

Ernestinische Linie

【エルネスト系】

中央に帝国式部長官の紋章をおき、背後の盾にはザクセン公、テューリンゲン方伯、ザクセン宮中伯、マイセン辺境伯の紋章が組まれています。

エルネスト系ザクセン選帝侯の紋章で、15世紀から用いられました。

歴代選帝侯 Kurfürsten von Sachsen

Johann Friedrich "der Grossmütige" (1532-1547)

【ザクセン選帝侯】ヨハン・フリードリヒ(在位1532−47)

諸領地の紋章を組んだ盾の中央に帝国式部長官の紋章を置いています。背後の盾は、ザクセン公、テューリンゲン方伯、マイセン辺境伯、ザクセン宮中伯、ランツベルク辺境伯、ブレナ伯、チューリンゲン宮中伯、オルラミュンデ伯、不明、プライセン領主。

エルネスト家最後の選帝侯で、「度量公」とあだ名されました。ヘッセン方伯フィリップと共にドイツ・プロテスタントの指導者として活動し、1547年に皇帝カール5世とミュールベルク近郊で戦い敗北、捕虜となりました。この結果、選帝侯位をアルベルト家のモーリッツに譲らねばならず、またプロテスタント諸侯によるシュマルカルデン同盟も瓦解しました。

Johann Friedrich "der Grossmütige" (1503-1554)
Sohn des Kurfürsten Johann von Sachsen.
1532-1547 Kurfürst


Moritz (1547-1553)

【ザクセン選帝侯】モーリッツ(在位1547−53)

背後の盾に組まれているのは、ザクセン、テューリンゲン、ザクセン宮中伯、ランツベルク辺境伯。アルベルト系初代選帝侯となったモーリッツの紋章で、構成にはバリエーションがあります。

宗教改革を支持しながらも皇帝カール5世に与してプロテスタント勢力と戦い、従兄のザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒを破って選帝侯位を獲得しました。1551年にカール5世から離反し、翌1552年のインスブルック夜襲で皇帝の権威を失墜させました。以後、プロテスタント側の代表として皇帝側と交渉を行いました。
1553年、「マルクグラーフ戦争」にてブランデンブルク=クルムバハ辺境伯アルブレヒト・アルツィビアデスと戦い、戦傷死しました。

Moritz (1521-1553)
Sohn des Herzogs Heinrich von Sachsen.
1541 Herzog von Sachsen
1547-1553 Kurfürst


August (1553-1586)

【ザクセン選帝侯】アウグスト(在位1553−86)

中央の小盾は帝国式部長官。背後の盾は、ザクセン、テューリンゲン方伯、マイセン辺境伯、ザクセン宮中伯。

アルベルト系第二代の選帝侯で、ルター派を擁護し、法典「Codex Augusteus」を編纂しました。内政面では商業振興に力を入れ、文化面ではドレスデン美術館を設立しました。
また、帝国国政に関しては、ラントフリーデ違反者には死刑を主張するなど強硬論を展開しました。1563年、バンベルク司教を殺害した帝国騎士グルンバハに宣告された帝国追放令執行の総指揮を執り、彼をゴータで討ち取りました。

August (1526-1586)
Jüngerer Bruder des Kurfürsten Moritz von Sachsen.
1553-1586 Kurfürst


August (1553-1586)

【ザクセン選帝侯】アウグスト(2)

中央の小盾は帝国式部長官。背後の盾は、ザクセン公、テューリンゲン方伯、マイセン辺境伯、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、オルラミュンデ伯、ランツベルク辺境伯、プライセン領主、アルテンブルク城伯、マクデブルク城伯、ブレナ伯、ヴァルテシルト(余白)?、レガーリエン?。

1. Hzm. Sachsen, 2. Lgft. Thüringen, 3. Mgft. Meisen, 4. Pfgft. Sachsen, 5. Herzschild : Reichserzmarschallamt, 6. Pfgft. Thüringen, 7. Gft. Orlamünde, 8. Mgft. Landsberg, 9. H. Pleissen, 10. Bgft. Altenburg, 11. Bgft. Magdeburg, 12. Gft. Brena, 13. ?, 14. ?

Christian I. (1586-1591)

【ザクセン選帝侯】クリスティアン1世(在位1586−1591)

中央列最下段にヘンネベルクの紋章が加わりました。ヘンネベルク伯は1583年に断絶し、ザクセン諸家が相続しました。

この紋章は彼の三人の息子達、クリスティアン2世(在位1591−1611)、ヨハン・ゲオルク1世(在位1591−1658)、アウグスト2世(在位1591−1615)の共同統治時代も引き続き使用されました。

Christian I. (1560-1591)
Der sechste Sohn des Kurfürsten August von Sachsen.
1586-1591 Kurfürst

Johann Georg I. (1611-1656)
1610- c.a. 1638

【ザクセン選帝侯】ヨハン・ゲオルク1世(在位1611−1656)

1610年以降の紋章です。 組まれている紋章は、中央の小盾が帝国式部長官。背後の盾は、テューリンゲン方伯、ザクセン公、マイセン辺境伯、ユーリヒ公、クレーヴェ公、ベルク公、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、オルラミュンデ伯、ランツベルク辺境伯(小盾の下)、プライセン領主、アルテンブルク城伯、マクデブルク城伯、ブレナ伯、ベルク伯、アイゼンベルク領主(?)、ヘンネベルク伯、ラーヴェンスブルク伯。
ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公国の継承を主張して、同国の紋章が組み込まれました。この紋章はヨハン・ゲオルク1世の単独統治となった1615年以降も引き続き用いられました。

Johann Georg I. (1585-1656)
Der zweite Sohn des Kurfürsten Christian I. von Sachsen.
1591-1615 Co-Herzog von Sachsen (mit seinem älteren Bruder Christian II. Kurfürst von Sachsen und jüngerer Bruder August)
1611-1656 Kurfürst


Johann Georg I. (1611-1656)
c.a. 1638-

【ザクセン選帝侯】ヨハン・ゲオルク1世(在位1611−1656)

1635年にラウジッツ辺境伯領がザクセン領に組み込まれると、上下ラウジッツ辺境伯領の紋章が登場しました。
組まれている紋章は、中央の小盾が帝国式部長官。背後の盾は、テューリンゲン方伯、ザクセン公、マイセン辺境伯、ユーリヒ公、クレーヴェ公、ベルク公、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、ニーダーラウジッツ辺境伯、オーバーラウジッツ辺境伯(小盾の下)、ランツベルク辺境伯、プライセン領主、オルラミュンデ伯、マクデブルク城伯、ブレナ伯、アルテンブルク城伯、アイゼンベルク領主、ラーヴェンスブルク伯、ベルク伯、レガーリエン、ヴァルテシルト(余白)、ヘンネベルク伯、ヴァルテシルト。


Feld 10 : Mgft. Oberlausitz, Feld 11 : Mgft. Niederlausitz (1635 erworben).


Johann Georg II. (1656-1680)
1660-

【ザクセン選帝侯】ヨハン・ゲオルク2世(在位1656−1680)

1660年以降の紋章です。中央列最下段にバルビー伯領の紋章が加わりました。

Johann Georg II. (1613-1680)
Der zweite Sohn des Kurfürsten Johann Georg I von Sachsen.
1656-1680 Kurfürst


Feld 23 : Gft. Barby (1660 erworben).

Johann Georg IV. (1691-1694)

【ザクセン選帝侯】ヨハン・ゲオルク4世(在位1691−1694)

上から3段目に、ヴェストファーレン関係の紋章が加わりました。ヴェストファーレン公(青地に金色の鷲)、エンゲルン公(銀地に3つの赤色の睡蓮の葉)です。ヴェストファーレン、エンゲルンは、フランク王国に征服される以前のザクセン公領にあった州で、ケルン選帝侯の陪臣領になっていました。

Johann Georg IV. (1668-1694)
Sohn des Kurfürsten Johann Georg III. von Sachsen.
1691-1694 Kurfürst


Feld 7. Hzm. Westfallen : in Blau ein hier nach links gekehrter, goldener Adler.
Feld 9. Hzm. Engern : in Silber drei rote Seeblätter, 2-1 gestellt.


Friedrich August I. (1694-1733)

【ザクセン選帝侯】フリードリヒ・アウグスト1世(在位1694−1733)

盾を二つ並べて王冠を載せました。向かって左側はポーランド王(ポーランド&リトアニア大公)、向かって右側はザクセン選帝侯で、帝国式部長官の小盾に選帝侯帽が被せられています。

1697年にポーランド王に選出されると、即位の条件の改宗を受諾し、ザクセンはルター派からカトリックに復帰します。
1700年にデンマークやロシアと同盟してスウェーデンと戦うも、1704年に惨敗して王位を失いました。1709年にスウェーデンを破って復位を果たしたものの、絶対君主制をめぐって国内に混乱を生じ、他国の干渉を招きました。
ザクセン選帝侯としては、工芸を奨励してマイセン磁器を誕生させるなど、文化面で大きな功績を残しました。
マリア・アウロラ(後のクヴェトリンブルク女子修道院長補佐)との間に生まれた庶子のモーリッツは、フランスで軍人として活躍しました(サクス元帥)。

Friedrich August I. "der Starke" (1670-1733)
Der zweite Sohn des Kurfürsten Johann Georg III. von Sachsen.
1694-1733 Kurfürst
1697-1704,1709-1733 als August II. König von Polen


Friedrich August II. (1733-1763)

【ザクセン選帝侯】フリードリヒ・アウグスト2世(在位1733−63)

ザクセン選帝侯の紋章の最下段に3つの紋章が追加されました。
向かって左から右へ、ハーナウ、ミュンツェンベルク、リヒテンベルク。これらの紋章は、1736年のハーナウ伯家断絶以前に取り入れられています。経緯はよくわかりませんが、ザクセン選帝侯は1730年代の前半にハーナウ伯を自身の称号に加えました。

父の死後、かつてのポーランド王スタニスワフ1世(在位1704−09)との継承戦争に勝利して王位を確保しました。オーストリア継承戦争ではシュレージェン獲得を目論んでプロイセン側で参戦するも果たせず、七年戦争ではオーストリア側に立ったためプロイセンに撃破されました。

Friedrich August II. (1696-1763)
Sohn des Kurfürsten Friedrich August I. von Sachsen.
1733-1763 Kurfürst von Sachsen und als August III. König von Polen


Friedrich Christian (1763)

【ザクセン選帝侯】フリードリヒ・クリスティアン(在位1763)

盾を三重に重ね、中心の小盾に帝国式部長官、中間の盾にポーランド&リトアニア、背後の盾にザクセン、テューリンゲン、クレーヴェ、マイセン(ユーリヒ?)を組みました。
ポーランド王位は得られませんでしたが、「ポーランド王子」を称号に加えていたため、ポーランドの紋章が残ったのだと思われます。

父の死後選帝侯に即位しますが、在位二ヶ月で急逝しました。

Friedrich Christian Leopold Johann Georg Franz Xaver (1722-1763)
Der dritte Sohn des Kurfürsten Friedrich August II. von Sachsen.
5.10.1763-17.12.1763 Kurfürst


Friedrich August III. (1763-1806)

【ザクセン選帝侯】フリードリヒ・アウグスト3世(在位1763−1806)。

祖父の紋章からポーランドを取り除いた構成です。最下段の紋章の組み方にはバリエーションがありました。

急死した父の跡を継いで即位しましたが、未成年だったため、1768年までは叔父フランツ・クサーヴァーが国政を執りました。
フランス革命が起こると、対フランス同盟戦争に参加するものの、イェナの敗戦後に同盟を脱退。親仏路線に転換しました。次いでナポレオン主導のライン同盟に参加し、王位を得ました(在位1806−27)。

Friedrich August III. (1750-1827)
Sohn des Kurfürsten Friedrich Christian von Sachsen.
1763-1806 Kurfürst (1763-1768 unter Vormundschaft seines Onkels Xaver)
1806-1827 als Friedrich August I. König von Sachsen

【ザクセン=マイセン公国】 Herzogtum Sachsen-Meissen (Albertiner)

Georg (1500-1539)

【ザクセン公】ゲオルク(在位1500−39)

中央の小盾はザクセン。背後の盾は、チューリンゲン方伯、マイセン辺境伯、ランツベルク辺境伯、ザクセン宮中伯、オルラミュンデ伯、プライセン領主、アルテンブルク城伯&ブレナ伯、チューリンゲン宮中伯。

1485年のエルンスト、アルブレヒト兄弟が結んだ家門協定によって誕生しました。領土はマイセン辺境伯領を中心とする領域で、ザクセン=マイセンとも呼ばれました。この家系は初代アルブレヒトの名前をとって「アルベルト系」と呼ばれます(アルブレヒトのラテン語名がアルベルトゥスのため)。
シュマルカルデン戦争の結果、兄脈のエルネスト家から選帝侯位を奪いました。

Georg Herzog von Sachsen (1471-1539)
Der älteste Sohn des Herzogs Albrecht von Sachsen.
1500-1539 Herzog von Sachsen

【ザクセン公国】 Herzogtum Sachsen- Thüringen (Ernestiner)

中央の小盾はザクセン公。背後の盾は、テューリンゲン方伯、ザクセン宮中伯、ランツベルク辺境伯、マイセン辺境伯。

1485年の家門協定によって誕生した公国で、テューリンゲンを中心とする領域とザクセン選帝侯位を相続したエルンストに始まります。この家系は初代エルンストの名から「エルネスト系」と呼ばれます(エルンストのラテン語名がエルネストゥスのため)。
宗教改革運動ではルターを保護し、プロテスタント勢力の指導者として活動しました。しかし、シュマルカルデン戦争で皇帝カール5世と戦って敗れ、選帝侯位を失います。

1485 Kurfürstentum Sachsen (Ernestiner)
1547 Kurtitel verloren
1554 Erbteilungen > Sachsen-Weimar und Sachsen-Coburg

Johann Ernst (1542-1553)

【ザクセン公】ヨハン・エルンスト(在位1542−53)。

中央の小盾はザクセン公。背後の盾は、テューリンゲン方伯、ザクセン宮中伯、アルテンブルク城伯、オルラミュンデ伯、プライセン領主、ブレナ伯&ランツベルク辺境伯、テューリンゲン宮中伯。

選帝侯ヨハン・フリードリヒの異母弟で、兄と共にザクセン共治公となりました。選帝侯が捕虜となった後も公位を保持し、シュマルカルデン戦争で失墜した自家の威信の回復に腐心しました。
しかし彼の死後、遺領はザクセン=コーブルクとザクセン=ヴァイマールに分裂し、その後も分割相続が繰り返された結果、エルネスト系ザクセンは政治的影響力の小さな小国群となってしまいます。

Johann Ernst I. von Sachsen-Coburg (1521-1553)
Der dritte Sohn des Kurfürsten Johann von Sachsen.
1542-1553 Herzog von Sachsen (1542-1547: Co-Herzog mit seinem Bruder Kurfürsten Johann Friedrich von Sachsen)

【ザクセン大公国】 Grossherzogtum Sachsen (Sachsen-Weimar-Eisenach)

Geviert mit dem königlich gekrönten sächsische Stammwappen.
Hauptschild : 1. Lgft. Thüringen, 2.Mgft. Meissen, 3. gespalten vorne gefürstete Gft. Henneberg, hinten H. Neustadt-Arnshaugk, 4. gespalten vorne H. Blankenhain, hinten H. Tautenburg.

Löwen im Feld 1. u. 2. sind Doppelschleife.

Ordens vom Weissen Falken gestiftet am 2.8.1732.


1554 Herzogtum Sachsen-Weimar
1741 Herzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach
1815 Grossherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach
1877 Grossherzogtum Sachsen

大公国昇格後の紋章です。それまでの複雑な紋章構成から一転してシンプルな構成に改められました。

1554年のエルネスト家分裂で誕生したザクセン=ヴァイマール公国が前身で、1741年以降はザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ公国と称しました。神聖ローマ帝国解体後も主権を保持し、1815年のウィーン会議の結果、大公国に昇格。その後1877年に国名をザクセン大公国へ変更しますが、ザクセン=ヴァイマールと通称されることも多いようです。大公国は1918年のドイツ革命によって消滅。翌年、旧首都ヴァイマールで国民議会が開催され、ワイマール(ヴァイマール)憲法が制定されます。

四分割した盾の中央にザクセンの小盾を置いています。背後の盾地のうち、下の2区画は更に縦に二分割されています。
紋章構成はテューリンゲン方伯領、マイセン辺境伯領、ヘンネベルク伯領&アルンスハウク領主領、ブランケンハイン領主領&タウテンブルク領主領。テューリンゲン方伯とマイセン辺境伯の紋章は、ライオンの尾が本来の一本尾から二本尾に変更されています。

1554-1609

【1554年−1609年】

組まれているのは、ザクセン宮中伯、テューリンゲン方伯領、マイセン辺境伯領、オルラミュンデ伯領、プライセン領主領、ブレナ伯領、ランツベルク辺境伯領、テューリンゲン宮中伯、レガーリエン(国王大権を表します)、アルテンブルク城伯領&ヘンネベルク諸侯伯領、アイゼンベルク領主領。

ヴァイマールは11世紀に伯領として成立しました。その後ヴェッティン家の所有となり、1485年の分割によってエルネスト家の所領となります。


Zweimal gespalten und dreimal geteilt mit Herzschild.
1. Pfgft. Sachsen, 2. Lgft. Thüringen, 3. Mgft. Meissen, 4. Gft. Orlamünde, 5. Herzschild : Hzm. Sachsen, 6. H. Pleisen, 7. Gft. Brena, 8. Mgft. Landsberg, 9. Pfgft. Thüringen, 10. Regalienschild, 11. geteilt: oben Bgft. Altenburg, unten gefürstete Gft. Henneberg, 12. H. Eisenberg.


1610-1741

【1610年以降】

1609年にユーリヒ=クレーヴェ=ベルクが断絶すると、他のザクセン諸国と同様に、翌年にユーリヒなどの紋章が登場します。


1741-

【ザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ公国】

紋章配置に若干の変更がなされました。

1741年、ザクセン=ヴァイマールは1641年の相続協定に基づいてザクセン=アイゼナハを相続し、国名をザクセン=ヴァイマール=アイゼナハと変更します。
カール・アウグスト(公1757−1814:大公1815−28)の時代、この国にはゲーテやシラーなどが集い、ドイツ古典文芸の華を咲かせました。

【ザクセン=アルテンブルク公国】 Herzogtum Sachsen-Altenburg

1. Lgft. Thüringen, 2. Hzm. Kleve, 3. Mgft. Meissen (in Gold ein rot bewehrter, schwarzer Löwe mit Doppelschweif), 4. Hzm. Jülich (in Gold ein silbern bewehrter, schwarzer Löwe), 5. Herzschild : Hzm. Sachsen, 6. Hzm. Berg, 7. Pfgft. Sachsen, 8. Mgft. Landsberg, 9. Pfgft. Thüringen, 10. Gft. Orlamünde, 11. Bgft. Altenburg, 12. H. Pleissen, 13. H. Eisenberg, 14. Hzm. Westfallen, 15.Gft. Brena, 16. Gft. Mark, 17. H. Ravenstein, 18. Gft. Ravensberg, 19. H. Römhild, 20. gefürstete Gft. Henneberg, 21. Regalienschild.


1680 Herzogtum Sachsen-Hildburghausen
1826 Herzogtum Sachsen-Altenburg

盾持ちが掲げている旗は公国の国旗です。

ザクセン=アルテンブルクは歴史上2つの系統があります。初代ザクセン=アルテンブルクは、16世紀の末にザクセン=ヴァイマールから分かれ、1672年にザクセン=ゴータに吸収されました。
2代目のザクセン=アルテンブルク公国は、そのザクセン=ゴータの分裂によってザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国として誕生しました(1680年)。その後、1826年のザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国断絶による領土再分配で、ヒルトブルクハウゼンを放出してアルテンブルクを貰い受けたため、国名をザクセン=アルテンブルクと改称しました。
公国はドイツ帝国の構成国として1918年まで存続しました。

大紋章の構成です。
組まれている紋章は、テューリンゲン方伯、クレーヴェ公、マイセン辺境伯、ユーリヒ公、小盾のザクセンとその下のランツベルク辺境伯、ベルク公、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、オルラミュンデ伯、アルテンブルク城伯、プライセン領主、アイゼンベルク領主、ヴェストファーレン(ウェストファリア)公、ブレナ伯、マルク伯、ラーヴェンシュタイン領主、ラーヴェンスベルク伯、レムヒルト領主、ヘンネベルク伯、レガーリエン。

Mitteleres Wappen

【中紋章】

背後の盾はアルテンブルク伯領、アイゼンベルク領主領、オルラミュンデ伯領、プライセン領主領。

中紋章は、盾の上にヘルメットとクレストが置かれ、左右の盾持ちと板状の台座といった構成になります。


Geviert mit Herzschild:
Herzschild : Hzm. Sachsen,
Hauptschild : 1. Bgft. Altenburg, 2. H. Eisenberg, 3. Gft. Orlamünde, 4. H. Pleissen.

【ザクセン=コーブルク=ゴータ公国】 Herzogtum Sachsen-Coburg und Gotha

Herzschild : Hzm. Sachsen
Hauptschild : 1. Hzm. Jülich (in Gold ein silbern bewehrter, schwarzer Löwe), 2. Hzm. Kleve, 3. Hzm. Berg, 4. Hzm. Engern, 5. Hzm. Westfallen, 6. Hzm. Coburg, 7. Lgft. Thüringen, 8. Mgft. Meissen (in Gold ein rot bewehrter, schwarzer Löwe mit Doppelschweif), 9. gespalten vorne H. Römhild, hinten gefürstete Gft. Henneberg, 10. Fsm. Lichtenberg, 11. Pfgft. Sachsen, 12. Pfgft. Thüringen, 13. Mgft. Landsberg, 14. Gft. Brena, 15. Gft. Orlamünde, 16. H. Pleissen, 17. Bgft. Altenburg, 18. H. Eisenberg, 19. Gft. Mark, 20. Gft. Ravensberg, 21. H. Ravenstein, 22. H. Tonna, 23. Regalienschild.

Einteilung der Felder 9 variiert.


1680 Herzogtum Sachsen-Saalfeld
1735 Herzogtum Sachsen-Coburg-Saalfeld
1826 Herzogtum Sachsen-Coburg und Gotha

1680年にザクセン=ザールフェルト公国として成立しました。その後、1735年の領土分配でザクセン=コーブルク=ザールフェルトと国名を変え、更に、1826年の領土再分配でザールフェルトを放出してコーブルクを得たことで、みたび国名が変更されました。

ベルギー王室の本家筋にあたります。また、イギリスのヴィクトリア女王の夫君アルバート公の実家でもあるため、イギリスでは第一次大戦まで王朝名と家名をサックス=コ−バーグ=ゴーサ(ザクセン=コーブルク=ゴータの英語読み。英国では王朝名と王家名は別物です)としていました。
1893年、ヴィクトリア女王の次男アルフレッドがザクセン=コーブルク=ゴータ公国を相続すると、公家の個人紋にはイギリスの紋章が組み込まれ、レイブルとそこに付けられるマークによって各人を区別したり、盾に直接載せられた冠の上にヘルメットとクレストが描かれるなど、イギリスの紋章の影響を強く受けるようになりました。また、イギリス王族冠が用いられることもありました。

大紋章の構成です。中央の小盾はザクセン。背後の盾は、ユーリヒ、クレーヴェ、ベルク、エンゲルン、ヴェストファーレン、コーブルク、テューリンゲン(ゴータ)、マイセン、レムヒルト&ヘンネベルク、リヒテンベルク侯、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、ランツベルク、ブレナ、オルラミュンデ、プライセン、アルテンブルク城伯、アイゼンベルク、マルク、ラーヴェンスベルク、ラーヴェンシュタイン、トンナ、レガーリエン。三段目向かって左のレムヒルトとヘンネベルク、それから最下段のラーヴェンシュタインとレガーリエンは逆に組まれることもありました。
組まれている紋章中のリヒテンベルクですが、コーブルク=ゴータは、1815年に旧ハーナウ=リヒテンベルクを得てリヒテンベルク侯を称号に加えました。その際の新しい紋章のようです。リヒテンベルク侯領は1834年にプロイセンに渡りました。また、ラーヴェンシュタインの紋章も、ザクセン=アルテンブルクに組まれているものとは違い、盾地が赤でなく金色になっています。

Mitteleres Wappen

【中紋章】

中紋章は5つの紋章で構成されています。背後の盾は、テューリンゲン方伯領、マイセン辺境伯領、ヘンネベルク伯領、コーブルク公国。テューリンゲンとマイセンのライオンは2本尾で描かれることもありました。


Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Hzm. Sachsen.
Hauptschild : 1. Lgft. Thüringen u. Hzm. Gotha, 2. Mgft. Meissen, 3. gefürstete Gft. Henneberg, 4. Hzm. Coburg.

【ザクセン=アイゼナハ侯国】 Fürstentum Sachsen-Eisenach (1572-1741)

1686-1741

【1686年以降】

ザイン伯領の紋章が加わりました。中央列下部の金色のライオン(ザイン)、隣の黒色の縦帯(ヴィトゲンシュタイン)、最下段向かって左の城(ホンブルク)、向かって右の斜め帯にイノシシの頭(フロイスブルク)です。

ザクセン=アルト・ゴータの分裂(1572年)で誕生し、その後2度ほど、ヴァイマールやノイ・ゴータ等への吸収と再分立が行われました。
ヨハン・ゲオルク1世(在位1671−86)はザイン=アルテンキルヘン女伯ヨハネッテ(在位1648−86/1701)と結婚し、ザイン伯領との合同がなりました。1741年に断絶すると、アイゼナハは1641年にザクセン=ヴァイマールから再分立する際に結ばれた協定に従ってヴァイマールに渡り、一方ザイン=アルテンキルヘンはブランデンブルク=アンスバハが相続したので、両者は分離します。

Johan Wilhelm (1666-1729), Sohn des Herzogs Johann Georg I. (1634-1686) und seiner Gemahlin Johannette Gräfin zu Sayn-Altenkirchen (1632-1701), erbte nach dem Tode Mutter (1701) auch Grafschaft Sayn-Altenkirchen.

Feld 15 - Gft. Sayn : in Rot ein goldener, blau bewherter hersehender Löwe mit Doppelschweif, Feld 16 - Gft. Wittgenstein: in Silber zwei schwarze Pfähle, Feld 21 - H. Homburg : in Rot eine silberne Burg mit zwei Türmen, offenem schwarzes Tor, Feld 23 - H. Freusburg : in Schwarz eine mit drei schwarzes ebers Köpfe belegter silberne Schräglinksbalken.

【ザクセン=アイゼンベルク公国】 Herzogtum Sachsen-Eisenberg (1680-1707)

1690年頃からの紋章です。他のエルネスト系諸国と違って、背後の盾の上から三段目に、ヴェストファーレン公とエンゲルン公の紋章が組まれました。

ザクセン=ゴータの分裂で誕生した七公国の一つで、ザクセン=ゴータ公エルンストの五男クリスティアンが興しました。しかし、クリスティアンは世継ぎを残さず没したため公国は一代で断絶。領土はザクセン=ヒルトブルクハウゼンが継承しました。


1680 Herzogtum Sachsen-Eisenberg
1707 erloschen, Territorium fällt an Sachsen-Hildburghausen

【ザクセン=ゴータ公国】 Herzogtum Sachsen-Gotha (Alt-Gotha : 1557-1638)

16. Jh.

【16世紀】

組まれている紋章は、中央の小盾がザクセン。背後の盾は、テューリンゲン方伯領、マイセン辺境伯領、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、アルテンブルク城伯、オルラミュンデ伯領、ブレナ伯領、プライセン領主領、ランツベルク辺境伯領。
分裂前のエルネスト系ザクセン公国の紋章とよく似た構成です。

ザクセン=ゴータ(アルトゴータ)は、1554年のエルネスト系ザクセン(旧選帝侯国)の分裂で成立しました。初代公となったヨハン・フリードリヒ2世が1566年に収監されると、彼の息子達(コーブルク公、アイゼナハ公)による共同統治が行われ、1572年に両者に分割相続されます。

1610-

【17世紀】

組まれている紋章は、テューリンゲン方伯領、クレーヴェ公国、マイセン辺境伯領、ユーリヒ公国、ザクセン(小盾)、ベルク公国、ザクセン宮中伯、ランツベルク辺境伯領、テューリンゲン宮中伯、オルラミュンデ伯領、アルテンブルク城伯、プライセン領主領、ブレナ伯領、マルク伯領、アイゼンベルク領主領、レムヒルト領主領&ヘンネベルク諸侯伯領、ラーヴェンスベルク伯領。

1572年の分割実施後もコーブルク公とアイゼナハ公による共同統治色が濃く、二人の肖像と左の紋章を描いた貨幣が旧領土に対して発行され続けました。
コーブルクは1633年にアイゼナハに吸収され、またアイゼナハも1638年にヴァイマールとアルテンブルク間で再分配され、ゴータ公国は一時的に消滅します。

【ザクセン=ゴータ公国】 Herzogtum Sachsen-Gotha (Neu-Gotha : 1640-1680)

1640年にザクセン=ヴァイマールから分かれました。

ザクセン=ヴァイマールの共同君主だったエルンスト3世が1675年に没すると、彼の7人の息子達が共同で公位に就きますが、5年後の1680年に分割相続が行われ、公国は消滅しました。
このザクセン=ゴータは、ゴータ=アルテンブルク、アイゼンベルク、ヒルトブルクハウゼン、マイニンゲン、ザールフェルトなど7公国に分裂しました。その関係で、この紋章はザクセン=ゴータ系諸公国の基本紋章になっています。
ザクセン=ゴータ系諸公国は領土の再分配によって名称を変えながら、3公国が1918年まで存続します。

1640 Herzogtum endstand (Teil von Sachsen-Weimar)
1680 Erbteilungen -> Sachsen-Gotha-Altenburg, Sachsen-Coburg, Sachsen-Meiningen, Sachsen-Römhild, Sachsen-Eisenberg, Sachsen-Hildburghausen und Sachsen-Saalfeld

【ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国】 Herzogtum Sachsen-Gotha-Altenburg (1680-1825)

17 Jh.

【17世紀】

ザクセン=ゴータの紋章にトンナ領主領(青地に銀色のライオン)が加えられました。

1680年のザクセン=ゴータ公国の分裂で誕生した7公国の一つで、ザクセン=ゴータ諸家の長兄脈になります。
神聖ローマ帝国解体後も主権国家として存続し、ライン同盟およびドイツ連邦に参加。しかし、フリードリヒ4世(在位1822−1825)には子がなく、彼の死によって断絶。領土は一族の間で再分配され、ゴータはザクセン=コーブルクが、アルテンブルクはザクセン=ヒルトブルクハウゼンが譲り受けました。この領土再分配によって、ザクセン諸公国は国名を変更します。

Feld 19. H. Tonna: In Blau ein goldgekrönter silberner Löwe.


18 Jh.

【18世紀】

上の紋章のバリエーションです。フリードリヒ2世(在位1691−1732)の代に登場します。18世紀になってから用いられたようです。

【ザクセン=マイニンゲン公国】 Herzogtum Sachsen-Meiningen-Hildburghausen

Mitteleres Staatswappen :

Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Hzm. Sachsen, herzogliche Krone gekrönt.
Hauptschild : 1. Lgft. Thüringen, 2. gefürstete Gft. Henneberg, 3. H. Römhild, 4. Mgft. Meissen.



1680 Herzogtum Sachsen-Meiningen
1735 Herzogtum Sachsen-Coburg-Meiningen
1826 Herzogtum Sachsen-Meiningen-Hildburghausen

1680年にザクセン=ゴータ公国から分立しました。1735年の領土分配でコーブルクを得て、ザクセン=コーブルク=マイニンゲン公国と改称しました。その後、1826年の分割相続でヒルトブルクハウゼンやザールフェルトを獲得して再度国名が変わりました。
神聖ローマ帝国解体後も主権を保持しますが、1866年の普墺戦争でオーストリアを支持したため、戦後、プロイセンによってマイニンゲン公ベルンハルト2世は退位させられ、公国はプロイセンの属国的な地位に押し下げられました。
戦後に即位したゲオルク2世(在位1866−1914)は、優れた舞台演出家としても知られ、演劇に対する多くの新手法を考案しました。彼が行ったヨーロッパ巡業公演は、近代演劇に多大な影響を与えたそうです。

Mitteleres Wappen

【中紋章】

19世紀の中紋章の紋章構成です。背後の盾はテューリンゲン方伯領、ヘンネベルク伯領、レムヒルト領主領、マイセン辺境伯領。

-19 Jh.

【19世紀】

大紋章の構成です。構成はザクセン=ゴータと同じですが、小盾のザクセンに公爵冠が載せられています。

1842-

【1842年以降】

1842年前後に、ホンブルク領主領(赤地に銀色の城塞)とフロイスブルク領主領(黒地に銀の逆斜め帯に黒い三頭のイノシシの頭部)の紋章が加えられました。
しかし、追加された二つの紋章はさほど重視されなかったようで、以前の紋章が使用されることもあったそうです。


Feld 20. H. Homburg, 21. H. Freusburg.

【ザクセン=メルゼブルク公国】 Herzogtum Sachsen-Merseburg (1656-1738)

向かって左側の列、上から2番目の黒十字の紋章がメルゼブルクです。向かって右列中断の赤牛はニーダーラウジッツの紋章ですが、緑色の大地は描かれないようです。

1656年にザクセン選帝侯国から分立した3公国の一つで、選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の四男クリスティアンに旧メルゼブルク司教領を中心とする領地が与えられ、成立しました。
公国は短命で1738年に断絶。領土はザクセン選帝侯国に戻されました。下って1815年のウィーン会議の結果、旧領土はプロイセン王国に編入されました。

1656 Herzogtum Sachsen-Merseburg entstand (Teil von Kursachsen)
1738 erloschen, das Land zurück an Kursachsen


Feld 4. Bistum Merseburg : In gold ein schwarzes Kreuz.

【ザクセン=ヴァイセンフェルス公国】 Herzogtum Sachsen-Weissenfels (1656-1746)

1656-1660

【1660年以前】

1656年にザクセン選帝侯国から分立した3公国の一つで、選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の三男アウグストが興しました。
一緒に分かれた他の2公国同様に短命で、1746年に断絶し、領土は本家ザクセン選帝侯国に戻されました。旧領土は1815年にプロイセンに割譲されました。


1656 Herzogtum Sachsen-Weissenfels entstand (Teil von Kursachsen)
1746 erloschen, das Land zurück an Kursachsen

1660-

【1660年以降】

中央列最下段の紋章はヘンネベルク伯領&バルビー伯領。バルビー伯は1659年に断絶し、翌年にザクセン領となりました。初代ヴァイセンフェルス公の息子ハインリヒがのちにザクセン=バルビー家を称します。最下段の銀色の盾地はヴァルテシルト(いわゆる余白)で、しばしば省略されます。


1. Lgft. Thüringen, 2. Hzm. Kleve, 3. Mgft. Meissen, 4. Hzm. Jülich, 5.-8.-11. Herzschild : Hzm. Sachsen, 6. Hzm. Berg, 7. Pfgft. Sachsen, 9. Pfgft. Thüringen, 10. Mgft. Oberlausitz, 12. Mgft. Niederlausitz, 13. H. Pleissen, 14. Gft. Orlamünde, 15. Mgft. Landsberg, 16. Gft. Brena, 17. Bgft. Altenburg, 18. H. Eisenberg, 19. Gft. Ravensberg, 20. Gft. Mark, 21. Regalienschild, 22. gefürstete Gft. Henneberg, 23. Gft. Barby (seit 1660)

【ザクセン=ツァイツ=ナウムブルク公国】 Herzogtum Sachsen-Zeitz-Naumburg (1656-1718)

向かって左側の列、上から2段目の交差した剣と鍵がナウムブルクの紋章です。

1656年にザクセン選帝侯国から分立した3公国の一つで、選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の五男モーリッツが、統治を任されていたツァイツ=ナウムブルク司教領およびヘンネベルク伯領の一部を相続して成立しました。
しかし、第2代公モーリッツ・ヴィルヘルムに後継者がいなかったため、1718年の彼の死と共に断絶。領土は本家ザクセン選帝侯国に戻され、1815年以降はプロイセン領となりました。

1656 Herzogtum Sachsen-Zeitz-Naumburg entstand (Teil von Kursachsen)
1718 erloschen, das Land zurück an Kursachsen


Feld 4. Bistum Naumburg : In Rot gekreuzte, silberne Schlüssel und silbernes Schwert.



【シュヴァルツブルク伯領】 Grafschaft Swarzburg

Altes Wappen

【古紋章】

青地にこちらを向いた金色のライオン。

シュヴァルツブルク伯家は11世紀の末頃に記録に登場します。13世紀前半に2系統に分かれ、その後も多くの分家を出しました。
シュヴァルツブルク=ブランケンブルク伯ギュンター21世(在位1324−49)は皇帝カール4世の対立ローマ王に擁立されましたが、シュヴァルツブルク家は、しかし、中世期を通じてその立場は弱く、長らくザクセン選帝侯(エルネスト系)の統制を受けました。ザクセン=ゴータ公国の宮内官にはシュヴァルツブルク伯が名を連ねていました。そのため、帝国諸侯の位を認められてからも、ザクセン公が障害として立ちふさがります。

In Blau ein gekrönter goldener hersehender Löwe.


Neues Wappen

【新紋章】

前方向きのライオンは16世紀頃に登場するようです。
現在、シュヴァルツブルクのライオンとして、ドイツ関係自治体の市章などに取り入れられています。

シュヴァルツブルク伯は1697年に帝国諸侯に昇格します。その際、帝国諸侯位を表す双頭の鷲の紋章が加わり、以後、その紋章がシュヴァルツブルクの国章とされました。


später : In Blau ein gekrönter goldener Löwe.

【16世紀頃】

盾の下部に帝国主馬の頭の紋章。

シュヴァルツブルク伯は神聖ローマ帝国の宮内官職を保持していたので、その地位を表す紋章が組まれました。

- 16. Jh.

【16世紀末まで】

背後の盾はアルンシュタット領主領とゾンダースハウゼン領主領。
16世紀末にホーエンシュタイン伯領を相続するまでの構成です。

アルンシュタットは1306年から1716年までの期間、シュヴァルツブルク伯の居所となっていました。


Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Gft. Schwarzburg,
Hauptschild : 1. & 4. H. Arnstadt, 2. & 3. H. Sondershausen.


17. Jh.

【17世紀】

三種類の紋章の組み合わせで成り立っています。
向かって左半分はアルンシュタット領主領(黒鷲)とゾンダーズハウゼン領主領(赤い鹿角)。その中央にシュヴァルツブルク伯領(金色のライオン)。向かって右半分はホーエンシュタイン伯領(チェック)とラウターベルク伯領(ライオンと横縞)。その中央にクレッテンベルク領主領(黒色の鹿)。そして、盾の一番下に帝国主馬の頭の紋章。
盾地を四つに分割する十字の斜め縞は、シュヴァルツブルク家の領土を構成する三つの伯領(シュヴァルツブルク、ホーエンシュタイン、ラウターベルク)を象徴して、金・青・黒の三色に塗り分けられています。

【シュヴァルツブルク=ゾンダーズハウゼン侯国】 Fürstentum Schwarzburg-Sondershausen (1697-1909)

Kleines Staatswappen

【小紋章】

金地に神聖ローマ帝国の双頭の鷲の胸に諸侯帽を描いた紋章盾。盾の下部に帝国主馬の頭の紋章。1697年に侯に昇格した時に得た紋章です。伯時代のライオンの紋章に代わって、侯国の小紋章として使われるようになりました。

1552年の伯領分割で誕生し、1697年に侯に昇爵しました。しかし、帝国議会では引き続き伯の議席に留まり、諸侯身分の議席が与えられたのは1754年になってからでした。神聖ローマ帝国解体後も主権国家として存続しますが、1909年に断絶。領土は一門のルードルシュタット侯国に統合されました。


1552 Grafschaft Schwarzburg-Sondershausen
1697 Fürstentum
1754 Reichsfürstenstand
1909 erloschen


1709-1909

【1709年以降】

大紋章では左の構成になります。

帝国諸侯身分を表す紋章が中央に組まれました。

ゾンダーズハウゼンは1697年に帝国諸侯に昇格しましたが、帝国議会の諸侯部会(諸侯身分の領邦/個人で構成される部会)への出席が認められたのは1754年でした。

【シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国】 Fürstentum Schwarzburg-Rudolstadt (1710-1918)

Kleines Staatswappen

【小紋章】

1710年に侯に昇格した時に得た紋章です。ゾンダーズハウゼンと区別するために、主馬の頭の紋章の盾地の色が銀色になっています。神聖ローマ帝国解体後は侯国の小紋章として使われました。

1552年に成立したルードルシュタットは、ゾンダーズハウゼンかはやや遅れて侯に昇爵しますが、ゾンダースハウゼン同様、諸侯部会への出席が認められたのは1754年になってからでした。神聖ローマ帝国解体後も主権を保持し、ドイツ帝国に参加します。1909年にゾンダーズハウゼンが断絶すると領土を相続し、シュヴァルツブルクは再統一されました。


1552 Grafschaft Schwarzburg-Rudolstadt
1710 Fürstentum
1754 Reichsfürstenstand


1710-

【1710年以降】

大紋章では左の構成になります。

ゾンダーズハウゼンと構成は同じですが、主馬の頭の紋章の盾地の色が異なります。


【シュトルベルク伯領】 Grafschaft Stolberg

金地に歩き姿の黒鹿。

シュトルベルク伯領は13世紀初頭に成立しました。伯家は多くの分家を出しますが、基幹となるシュトルベルク=シュトルベルク家、および、そこから分かれたシュトルベルク=ヴェルニゲローデ家が重要な家系でした。
諸家のうち、シュトルベルク=ゲーデルン家が1742年に帝国諸侯に昇格するも1804年に断絶。その時点まで存続していた他の3家は、1806年から1815年の間に主権を失いました。
シュトルベルクはまた、16世紀の急進的宗教改革者ミュンツァーの生誕地として知られます。


In Gold ein schreitender, schwarzer Hirsch.

【シュトルベルク=ケーニヒシュタイン=ヴェルトハイム伯領】 Grafschaft Stolberg-Koenigstein-Wertheim

seit 1556

1556年以降の紋章です。中央の小盾はシュトルベルク。背後の盾は、ケーニヒシュタイン、ロシュフォール、ヴェルトハイム、エッペンシュタイン、ブロイベルク、ミュンツェンベルク、ヴェルニゲローデ、マルク。

1538年の分裂で誕生した伯領で、ルートヴィヒ1世(在位1538−74)は婚姻を通じてヴェルトハイム伯領を相続。1556年以降はヴェルトハイム伯をも併せ称しました。しかし、後継男子に恵まれなかったため、娘婿のレーヴェンシュタイン伯がヴェルトハイム伯領を継承しました。


Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild.
1. Gft. Koenigstein, 2. Gft. Rochefort, 3. Gft. Wertheim, 4. Gft. Eppenstein (Epstein), 5. Herzschild : Gft. Stolberg, 6. H. Breuderg, 7. H. Muenzenberg, 8. Gft. Wernigerode, 9. Gft. Mark.



1538 entstand(Teil von Stolberg-Stolberg)
1598 erloschen

【シュトルベルク=シュトルベルク伯領】 Grafschaft Stolberg-Stolberg

erste halbte des 16. Jh.

【16世紀前半】

組まれている紋章は、シュトルベルク、ニュリングス伯、ロシュフォール(ベルギー)、ヴェルニゲローデ、エッペンシュタイン、マルク、ミュンツェンベルク=ファルケンシュタイン、リーネック?(未確認)。

ボード幸運伯(在位1511−38)時代の紋章です。ボード幸運伯はエッペンシュタイン(エプシュタイン)=ケーニヒシュタイン家のアンナと結婚しますが、1535年にエッペンシュタイン家が断絶し、その領地を相続します。さらに、妃の母方のロシュフォール家にも相続者がいないため、その領地を継承することが決まりました(相続は1544年)。
ミュンツェンベルクの紋章はエッペンシュタイン家がファルケンシュタイン伯の遺領を継承していたため組み込まれ、また、ロシュフォール家はマルク伯家の分家だったことから、マルクの紋章も取り入れられました。


1597-

【1597年以降 】

神聖ローマ皇帝ルドルフ2世による1597年4月18日付の紋章授与証書が残っているそうです。
ホーエンシュタイン伯家断絶後、その遺領の一部を相続したシュトルベルク伯家は、それまでの紋章とホーエンシュタイン伯家の紋章を縦分割で組み合わせました。なお、ホーエンシュタインの相続分は、同じく相続者だったブラウンシュヴァイク(ハノーファー)の陪臣領として扱われました。また、本拠地のシュトルベルク伯領も、1738年にザクセン選帝侯国の宗主下に置かれました。

Gespalten : vorne Stolberg, hinten Hohnstein.
vorn : 1. Gft. Stolberg, 2. Gft. Nürings (Königstein), 3. Gft. Rochefort, 4. Gft. Wernigerode, 5. Gft. Mark, 6. Gft. Eppstein, 7. Gft. Falkenstein-Münzenberg, 8. Bgft. Rieneck?,
hinten : Herzschild: H. Klettenberg, Hauptschild: 1. & 4. Gft. Hohnstein, 2. & 3. Gft. Lauterberg.


【シュトルベルク=ヴェルニゲローデ伯領】 Grafschaft Stolberg-Wernigerode

シュトルベルクとヴェルニゲローデの組み合わせ。

15世紀にヴェルニゲローデ伯領を相続したシュトルベルク伯家は、1538年にシュトルベルク家とヴェルニゲローデ家に分かれました。
ヴェルニゲローデ家の領土のうち、ヴェルニゲローデ伯領は1714年にプロイセン王国の宗主下に置かれました。他の領土は1809年まで、また、1804年に相続したシュトルベルク=ゲーデルン家の領土も1806年まで主権を保持しました。1815年のウィーン会議の結果、伯家はプロイセンの宗主権に服したものの、それ以外の諸権利は回復し、1870年代まで一定の統治権を行使できました。


【ヴェルニゲローデ伯領】 Grafschaft Wernigerode

銀地に向かい合う二尾の赤い魚。魚はニジマスをかたどっているそうです。

ヴェルニゲローデ伯は神聖ローマ帝国の「フィッシャーマイスター(漁労長官)」を務めていました。

15世紀に婚姻を通じてシュトルベルク伯家と結合しました。


【ヴィルデンフェルス領主領】 Herrschaft Wildenfels

黒地に銀色のライオンと金地に黒薔薇。

ヴィルデンフェルスはザクセン州ツヴィッカウの南東にある町で、この一帯を治めたヴィルデンフェルス家は、帝国等族(神聖ローマ帝国の国政に参与できる身分)の地位にあった名家でした。
1593年にヴィルデンフェルス家が断絶すると、遺領はゾルムス伯家が継承し、1602年以降はゾルムス=ヴィルデンフェルス家が所有しました。

Geviert, Feld 1 und 4 : in Schwarz ein gold bewehrter und gezungter silbener Löwe, feld 2 und 3 : in Gold eine schwarze Rose mit goldenem Samen und Schwarzem Bart.

1593 erloschen
1593-1601 zu Solms
1602 zu Solms-Wildenfels


帝国北東部(A-M)

帝国北西部

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