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【ザクセン王国】 Königreich
Sachsen
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Staaswappen:
Ordens der Rautenkrone gestiftet am
20.6.1807.
843 Herzogtum Sachsen
1298 Kurfürstentum
1485 Herzogtum Sachsen-Albertiner
1547 Kurfürstentum
1806 Königreich
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王国の国章です。ザクセンの紋章と王家の家章ラウテンクローネ勲章、盾持ちとモットーというシンプルな構成です。
ザクセンはゲルマンの一部族ザクセン族の部族公領が起源で、カール大帝による征服戦争(ザクセン戦争)を経てフランク王国に組み込まれました。もともとは現在のニーダーザクセン州とホルシュタインにかけての一帯が領域でしたが、ザクセン公家の下で神聖ローマ帝国が成立すると、スラブ政策の拠点となり、東方植民と相まって領域を東方に拡大していきました。ハインリヒ獅子公の失脚(1180年)後、ザクセンはアスカニエル家に与えられ、この頃から領域が現在の地域へと移動していきます。アスカニエル家は13世紀に選帝侯位を得て帝国の有力者となりますが、15世紀に嫡流が絶え、ザクセンと選帝侯位はヴェッティン家の手に移り、ヴェッティン家は、20世紀までザクセンを統治しました。
ヴェッティン家は1485年にエルネスト系とアルベルト系に分かれ、シュマルカンデン戦争によって選帝侯位を得たアルベルト家は、1697年にはポーランド王位を得るも、台頭するプロイセンによって次第に圧迫されていきます。
ナポレオン戦争では対仏同盟に加わり、ナポレオンに敗北。フランスとポーゼン平和条約を結んで王位を得ると、フランスの同盟国として領土を拡大します。しかし、ナポレオン体制崩壊後のウィーン会議によって、領土の約4割を失いました。
ドイツ帝国が成立するとその構成国となり、1918年の革命に至ります。
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黒と金で10分割した盾にラウテンクランツ(上側に葉花冠をあしらった緑色の菱形飾りの付いた斜め帯)。
ザクセンを表す紋章で、単独では王国や、他のザクセン諸公国の小紋章として使われました。
緑色の帯がかたどっている王冠は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサの王冠に由来するそうです。
Von Schwarz und Gold quergeteilt, schräg überdeckt
mit einem grünen Rautenkranz.
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Majestäts Wappen
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【王家の紋章】
王室の紋章は所領土の紋章を組み合わせた構成になっています。組まれているのは、マイセン辺境伯、テューリンゲン方伯、テューリンゲン宮中伯、ザクセン宮中伯、レガーリエン(小盾の背後の赤地)、プライセン領主、フォークトラント、オルラミュンデ伯、ランツベルク辺境伯、オーバーラウジッツ辺境伯&アルテンブルク城伯&ヘンネベルク伯、アイゼンベルク領主。および、中央の小盾のザクセン。
王国に昇格すると、選帝侯時代とは大きく異なった構成の紋章が制定されました。
1.
Mgft. Meissen, 2. Lgft. Thüringen, 3. Pfgft. Thüringen,
4. Pfgft. Sachsen, 5. Herzoglich gekrönten
Mittelschilde : Hzm. Sachsen. Der Schild ist dem
Regalienschild aufgelegt. 6. H. Pleissen, 7. Gft.
Voigtland, 8. Gft. Orlamünde, 9. Mgft.
Landsberg, 10. Mgft. Oberlausitz, 11. H. Eisenberg,
12. Bgft. Altenburg, 13. gefürstete Gft.
Henneberg.
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【ザクセン選帝侯国】 Kurfürstentum
Sachsen (1298-1806)
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向かって左側は式部長官の紋章で、向かって右側がザクセンです。
ザクセンの君主であるヴェッティン家は、15世紀にエルネスト家とアルベルト家に分かれました。選帝侯位はエルネスト家が継承しますが、神聖ローマ皇帝カール5世に敵対してその地位を剥奪され、代わってアルベルト家が任ぜられました。
18世紀の選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世と同2世はポーランド王を兼ねたので、左の紋章はポーランド王の紋章にも組み込まれました。
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Ernestinische Linie
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【エルネスト系】
中央に帝国式部長官の紋章をおき、背後の盾にはザクセン公、テューリンゲン方伯、ザクセン宮中伯、マイセン辺境伯の紋章が組まれています。
エルネスト系ザクセン選帝侯の紋章で、15世紀から用いられました。
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- 歴代選帝侯 Kurfürsten
von Sachsen
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Johann Friedrich "der Grossmütige"
(1532-1547)
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【ザクセン選帝侯】ヨハン・フリードリヒ(在位1532−47)
諸領地の紋章を組んだ盾の中央に帝国式部長官の紋章を置いています。背後の盾は、ザクセン公、テューリンゲン方伯、マイセン辺境伯、ザクセン宮中伯、ランツベルク辺境伯、ブレナ伯、チューリンゲン宮中伯、オルラミュンデ伯、不明、プライセン領主。
エルネスト家最後の選帝侯で、「度量公」とあだ名されました。ヘッセン方伯フィリップと共にドイツ・プロテスタントの指導者として活動し、1547年に皇帝カール5世とミュールベルク近郊で戦い敗北、捕虜となりました。この結果、選帝侯位をアルベルト家のモーリッツに譲らねばならず、またプロテスタント諸侯によるシュマルカルデン同盟も瓦解しました。
Johann Friedrich "der Grossmütige"
(1503-1554)
Sohn des Kurfürsten Johann von
Sachsen.
1532-1547 Kurfürst
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Moritz (1547-1553)
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【ザクセン選帝侯】モーリッツ(在位1547−53)
背後の盾に組まれているのは、ザクセン、テューリンゲン、ザクセン宮中伯、ランツベルク辺境伯。アルベルト系初代選帝侯となったモーリッツの紋章で、構成にはバリエーションがあります。
宗教改革を支持しながらも皇帝カール5世に与してプロテスタント勢力と戦い、従兄のザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒを破って選帝侯位を獲得しました。1551年にカール5世から離反し、翌1552年のインスブルック夜襲で皇帝の権威を失墜させました。以後、プロテスタント側の代表として皇帝側と交渉を行いました。
1553年、「マルクグラーフ戦争」にてブランデンブルク=クルムバハ辺境伯アルブレヒト・アルツィビアデスと戦い、戦傷死しました。
Moritz (1521-1553)
Sohn des Herzogs Heinrich von Sachsen.
1541 Herzog von Sachsen
1547-1553 Kurfürst
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August (1553-1586)
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【ザクセン選帝侯】アウグスト(在位1553−86)
中央の小盾は帝国式部長官。背後の盾は、ザクセン、テューリンゲン方伯、マイセン辺境伯、ザクセン宮中伯。
アルベルト系第二代の選帝侯で、ルター派を擁護し、法典「Codex
Augusteus」を編纂しました。内政面では商業振興に力を入れ、文化面ではドレスデン美術館を設立しました。
また、帝国国政に関しては、ラントフリーデ違反者には死刑を主張するなど強硬論を展開しました。1563年、バンベルク司教を殺害した帝国騎士グルンバハに宣告された帝国追放令執行の総指揮を執り、彼をゴータで討ち取りました。
August (1526-1586)
Jüngerer Bruder des Kurfürsten Moritz von
Sachsen.
1553-1586 Kurfürst
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August (1553-1586)
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【ザクセン選帝侯】アウグスト(2)
中央の小盾は帝国式部長官。背後の盾は、ザクセン公、テューリンゲン方伯、マイセン辺境伯、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、オルラミュンデ伯、ランツベルク辺境伯、プライセン領主、アルテンブルク城伯、マクデブルク城伯、ブレナ伯、ヴァルテシルト(余白)?、レガーリエン?。
1. Hzm.
Sachsen, 2. Lgft. Thüringen, 3. Mgft. Meisen,
4. Pfgft. Sachsen, 5. Herzschild :
Reichserzmarschallamt, 6. Pfgft. Thüringen, 7.
Gft. Orlamünde, 8. Mgft. Landsberg, 9. H.
Pleissen, 10. Bgft. Altenburg, 11. Bgft. Magdeburg,
12. Gft. Brena, 13. ?, 14. ?
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Christian I. (1586-1591)
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【ザクセン選帝侯】クリスティアン1世(在位1586−1591)
中央列最下段にヘンネベルクの紋章が加わりました。ヘンネベルク伯は1583年に断絶し、ザクセン諸家が相続しました。
この紋章は彼の三人の息子達、クリスティアン2世(在位1591−1611)、ヨハン・ゲオルク1世(在位1591−1658)、アウグスト2世(在位1591−1615)の共同統治時代も引き続き使用されました。
Christian I. (1560-1591)
Der sechste Sohn des Kurfürsten August
von Sachsen.
1586-1591 Kurfürst
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Johann Georg I. (1611-1656)
1610- c.a. 1638
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【ザクセン選帝侯】ヨハン・ゲオルク1世(在位1611−1656)
1610年以降の紋章です。
組まれている紋章は、中央の小盾が帝国式部長官。背後の盾は、テューリンゲン方伯、ザクセン公、マイセン辺境伯、ユーリヒ公、クレーヴェ公、ベルク公、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、オルラミュンデ伯、ランツベルク辺境伯(小盾の下)、プライセン領主、アルテンブルク城伯、マクデブルク城伯、ブレナ伯、ベルク伯、アイゼンベルク領主(?)、ヘンネベルク伯、ラーヴェンスブルク伯。
ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公国の継承を主張して、同国の紋章が組み込まれました。この紋章はヨハン・ゲオルク1世の単独統治となった1615年以降も引き続き用いられました。
Johann Georg I.
(1585-1656)
Der zweite Sohn des Kurfürsten Christian
I. von Sachsen.
1591-1615 Co-Herzog von Sachsen (mit seinem älteren
Bruder Christian II. Kurfürst von Sachsen und jüngerer
Bruder August)
1611-1656 Kurfürst
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Johann Georg I. (1611-1656)
c.a. 1638-
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【ザクセン選帝侯】ヨハン・ゲオルク1世(在位1611−1656)
1635年にラウジッツ辺境伯領がザクセン領に組み込まれると、上下ラウジッツ辺境伯領の紋章が登場しました。
組まれている紋章は、中央の小盾が帝国式部長官。背後の盾は、テューリンゲン方伯、ザクセン公、マイセン辺境伯、ユーリヒ公、クレーヴェ公、ベルク公、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、ニーダーラウジッツ辺境伯、オーバーラウジッツ辺境伯(小盾の下)、ランツベルク辺境伯、プライセン領主、オルラミュンデ伯、マクデブルク城伯、ブレナ伯、アルテンブルク城伯、アイゼンベルク領主、ラーヴェンスブルク伯、ベルク伯、レガーリエン、ヴァルテシルト(余白)、ヘンネベルク伯、ヴァルテシルト。
Feld 10 : Mgft. Oberlausitz, Feld 11 : Mgft.
Niederlausitz (1635 erworben).
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Johann Georg II. (1656-1680)
1660-
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【ザクセン選帝侯】ヨハン・ゲオルク2世(在位1656−1680)
1660年以降の紋章です。中央列最下段にバルビー伯領の紋章が加わりました。
Johann Georg II.
(1613-1680)
Der zweite Sohn des Kurfürsten Johann
Georg I von Sachsen.
1656-1680 Kurfürst
Feld 23 : Gft. Barby (1660 erworben).
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Johann Georg IV.
(1691-1694)
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【ザクセン選帝侯】ヨハン・ゲオルク4世(在位1691−1694)
上から3段目に、ヴェストファーレン関係の紋章が加わりました。ヴェストファーレン公(青地に金色の鷲)、エンゲルン公(銀地に3つの赤色の睡蓮の葉)です。ヴェストファーレン、エンゲルンは、フランク王国に征服される以前のザクセン公領にあった州で、ケルン選帝侯の陪臣領になっていました。
Johann Georg IV.
(1668-1694)
Sohn des Kurfürsten Johann Georg III.
von Sachsen.
1691-1694 Kurfürst
Feld 7. Hzm. Westfallen : in Blau ein hier nach
links gekehrter, goldener Adler.
Feld 9. Hzm. Engern : in Silber drei rote Seeblätter,
2-1 gestellt.
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Friedrich August I.
(1694-1733)
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【ザクセン選帝侯】フリードリヒ・アウグスト1世(在位1694−1733)
盾を二つ並べて王冠を載せました。向かって左側はポーランド王(ポーランド&リトアニア大公)、向かって右側はザクセン選帝侯で、帝国式部長官の小盾に選帝侯帽が被せられています。
1697年にポーランド王に選出されると、即位の条件の改宗を受諾し、ザクセンはルター派からカトリックに復帰します。
1700年にデンマークやロシアと同盟してスウェーデンと戦うも、1704年に惨敗して王位を失いました。1709年にスウェーデンを破って復位を果たしたものの、絶対君主制をめぐって国内に混乱を生じ、他国の干渉を招きました。
ザクセン選帝侯としては、工芸を奨励してマイセン磁器を誕生させるなど、文化面で大きな功績を残しました。
マリア・アウロラ(後のクヴェトリンブルク女子修道院長補佐)との間に生まれた庶子のモーリッツは、フランスで軍人として活躍しました(サクス元帥)。
Friedrich August I. "der
Starke" (1670-1733)
Der zweite Sohn des Kurfürsten Johann
Georg III. von Sachsen.
1694-1733 Kurfürst
1697-1704,1709-1733 als August II. König von
Polen
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Friedrich August II.
(1733-1763)
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【ザクセン選帝侯】フリードリヒ・アウグスト2世(在位1733−63)
ザクセン選帝侯の紋章の最下段に3つの紋章が追加されました。
向かって左から右へ、ハーナウ、ミュンツェンベルク、リヒテンベルク。これらの紋章は、1736年のハーナウ伯家断絶以前に取り入れられています。経緯はよくわかりませんが、ザクセン選帝侯は1730年代の前半にハーナウ伯を自身の称号に加えました。
父の死後、かつてのポーランド王スタニスワフ1世(在位1704−09)との継承戦争に勝利して王位を確保しました。オーストリア継承戦争ではシュレージェン獲得を目論んでプロイセン側で参戦するも果たせず、七年戦争ではオーストリア側に立ったためプロイセンに撃破されました。
Friedrich August II.
(1696-1763)
Sohn des Kurfürsten Friedrich August I. von
Sachsen.
1733-1763 Kurfürst von Sachsen und als August
III. König von Polen
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Friedrich Christian
(1763)
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【ザクセン選帝侯】フリードリヒ・クリスティアン(在位1763)
盾を三重に重ね、中心の小盾に帝国式部長官、中間の盾にポーランド&リトアニア、背後の盾にザクセン、テューリンゲン、クレーヴェ、マイセン(ユーリヒ?)を組みました。
ポーランド王位は得られませんでしたが、「ポーランド王子」を称号に加えていたため、ポーランドの紋章が残ったのだと思われます。
父の死後選帝侯に即位しますが、在位二ヶ月で急逝しました。
Friedrich Christian Leopold
Johann Georg Franz Xaver (1722-1763)
Der dritte Sohn des Kurfürsten Friedrich
August II. von Sachsen.
5.10.1763-17.12.1763 Kurfürst
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Friedrich August III.
(1763-1806)
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【ザクセン選帝侯】フリードリヒ・アウグスト3世(在位1763−1806)。
祖父の紋章からポーランドを取り除いた構成です。最下段の紋章の組み方にはバリエーションがありました。
急死した父の跡を継いで即位しましたが、未成年だったため、1768年までは叔父フランツ・クサーヴァーが国政を執りました。
フランス革命が起こると、対フランス同盟戦争に参加するものの、イェナの敗戦後に同盟を脱退。親仏路線に転換しました。次いでナポレオン主導のライン同盟に参加し、王位を得ました(在位1806−27)。
Friedrich August III.
(1750-1827)
Sohn des Kurfürsten Friedrich Christian
von Sachsen.
1763-1806 Kurfürst (1763-1768 unter
Vormundschaft seines Onkels Xaver)
1806-1827 als Friedrich August I. König von
Sachsen
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【ザクセン=マイセン公国】 Herzogtum
Sachsen-Meissen (Albertiner)
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Georg (1500-1539)
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【ザクセン公】ゲオルク(在位1500−39)
中央の小盾はザクセン。背後の盾は、チューリンゲン方伯、マイセン辺境伯、ランツベルク辺境伯、ザクセン宮中伯、オルラミュンデ伯、プライセン領主、アルテンブルク城伯&ブレナ伯、チューリンゲン宮中伯。
1485年のエルンスト、アルブレヒト兄弟が結んだ家門協定によって誕生しました。領土はマイセン辺境伯領を中心とする領域で、ザクセン=マイセンとも呼ばれました。この家系は初代アルブレヒトの名前をとって「アルベルト系」と呼ばれます(アルブレヒトのラテン語名がアルベルトゥスのため)。
シュマルカルデン戦争の結果、兄脈のエルネスト家から選帝侯位を奪いました。
Georg Herzog von Sachsen
(1471-1539)
Der älteste Sohn des Herzogs Albrecht von
Sachsen.
1500-1539 Herzog von Sachsen
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【ザクセン公国】 Herzogtum
Sachsen- Thüringen (Ernestiner)
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中央の小盾はザクセン公。背後の盾は、テューリンゲン方伯、ザクセン宮中伯、ランツベルク辺境伯、マイセン辺境伯。
1485年の家門協定によって誕生した公国で、テューリンゲンを中心とする領域とザクセン選帝侯位を相続したエルンストに始まります。この家系は初代エルンストの名から「エルネスト系」と呼ばれます(エルンストのラテン語名がエルネストゥスのため)。
宗教改革運動ではルターを保護し、プロテスタント勢力の指導者として活動しました。しかし、シュマルカルデン戦争で皇帝カール5世と戦って敗れ、選帝侯位を失います。
1485 Kurfürstentum Sachsen (Ernestiner)
1547 Kurtitel verloren
1554 Erbteilungen > Sachsen-Weimar
und Sachsen-Coburg
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Johann Ernst (1542-1553)
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【ザクセン公】ヨハン・エルンスト(在位1542−53)。
中央の小盾はザクセン公。背後の盾は、テューリンゲン方伯、ザクセン宮中伯、アルテンブルク城伯、オルラミュンデ伯、プライセン領主、ブレナ伯&ランツベルク辺境伯、テューリンゲン宮中伯。
選帝侯ヨハン・フリードリヒの異母弟で、兄と共にザクセン共治公となりました。選帝侯が捕虜となった後も公位を保持し、シュマルカルデン戦争で失墜した自家の威信の回復に腐心しました。
しかし彼の死後、遺領はザクセン=コーブルクとザクセン=ヴァイマールに分裂し、その後も分割相続が繰り返された結果、エルネスト系ザクセンは政治的影響力の小さな小国群となってしまいます。
Johann Ernst I. von
Sachsen-Coburg (1521-1553)
Der dritte Sohn des Kurfürsten Johann von
Sachsen.
1542-1553 Herzog von Sachsen (1542-1547: Co-Herzog
mit seinem Bruder Kurfürsten Johann
Friedrich von Sachsen)
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【ザクセン大公国】 Grossherzogtum
Sachsen (Sachsen-Weimar-Eisenach)
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Geviert mit dem königlich gekrönten
sächsische Stammwappen.
Hauptschild : 1. Lgft. Thüringen,
2.Mgft. Meissen, 3. gespalten vorne gefürstete
Gft. Henneberg, hinten H.
Neustadt-Arnshaugk, 4. gespalten vorne H.
Blankenhain, hinten H. Tautenburg.
Löwen im Feld 1. u. 2. sind
Doppelschleife.
Ordens vom Weissen Falken gestiftet am
2.8.1732.
1554 Herzogtum Sachsen-Weimar
1741 Herzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach
1815 Grossherzogtum
Sachsen-Weimar-Eisenach
1877 Grossherzogtum Sachsen
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大公国昇格後の紋章です。それまでの複雑な紋章構成から一転してシンプルな構成に改められました。
1554年のエルネスト家分裂で誕生したザクセン=ヴァイマール公国が前身で、1741年以降はザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ公国と称しました。神聖ローマ帝国解体後も主権を保持し、1815年のウィーン会議の結果、大公国に昇格。その後1877年に国名をザクセン大公国へ変更しますが、ザクセン=ヴァイマールと通称されることも多いようです。大公国は1918年のドイツ革命によって消滅。翌年、旧首都ヴァイマールで国民議会が開催され、ワイマール(ヴァイマール)憲法が制定されます。
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四分割した盾の中央にザクセンの小盾を置いています。背後の盾地のうち、下の2区画は更に縦に二分割されています。
紋章構成はテューリンゲン方伯領、マイセン辺境伯領、ヘンネベルク伯領&アルンスハウク領主領、ブランケンハイン領主領&タウテンブルク領主領。テューリンゲン方伯とマイセン辺境伯の紋章は、ライオンの尾が本来の一本尾から二本尾に変更されています。
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1554-1609
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【1554年−1609年】
組まれているのは、ザクセン宮中伯、テューリンゲン方伯領、マイセン辺境伯領、オルラミュンデ伯領、プライセン領主領、ブレナ伯領、ランツベルク辺境伯領、テューリンゲン宮中伯、レガーリエン(国王大権を表します)、アルテンブルク城伯領&ヘンネベルク諸侯伯領、アイゼンベルク領主領。
ヴァイマールは11世紀に伯領として成立しました。その後ヴェッティン家の所有となり、1485年の分割によってエルネスト家の所領となります。
Zweimal
gespalten und dreimal geteilt mit Herzschild.
1. Pfgft. Sachsen, 2. Lgft. Thüringen, 3. Mgft.
Meissen, 4. Gft. Orlamünde, 5. Herzschild :
Hzm. Sachsen, 6. H. Pleisen, 7. Gft. Brena, 8.
Mgft. Landsberg, 9. Pfgft. Thüringen, 10.
Regalienschild, 11. geteilt: oben Bgft. Altenburg,
unten gefürstete Gft. Henneberg, 12. H.
Eisenberg.
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1610-1741
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【1610年以降】
1609年にユーリヒ=クレーヴェ=ベルクが断絶すると、他のザクセン諸国と同様に、翌年にユーリヒなどの紋章が登場します。
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1741-
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【ザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ公国】
紋章配置に若干の変更がなされました。
1741年、ザクセン=ヴァイマールは1641年の相続協定に基づいてザクセン=アイゼナハを相続し、国名をザクセン=ヴァイマール=アイゼナハと変更します。
カール・アウグスト(公1757−1814:大公1815−28)の時代、この国にはゲーテやシラーなどが集い、ドイツ古典文芸の華を咲かせました。
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【ザクセン=アルテンブルク公国】 Herzogtum
Sachsen-Altenburg
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1. Lgft. Thüringen, 2. Hzm. Kleve,
3. Mgft. Meissen (in Gold ein rot
bewehrter, schwarzer Löwe mit
Doppelschweif), 4. Hzm. Jülich (in
Gold ein silbern bewehrter, schwarzer Löwe),
5. Herzschild : Hzm. Sachsen, 6. Hzm.
Berg, 7. Pfgft. Sachsen, 8. Mgft.
Landsberg, 9. Pfgft. Thüringen, 10.
Gft. Orlamünde, 11. Bgft. Altenburg,
12. H. Pleissen, 13. H. Eisenberg, 14.
Hzm. Westfallen, 15.Gft. Brena, 16. Gft.
Mark, 17. H. Ravenstein, 18. Gft.
Ravensberg, 19. H. Römhild, 20. gefürstete
Gft. Henneberg, 21. Regalienschild.
1680 Herzogtum Sachsen-Hildburghausen
1826 Herzogtum Sachsen-Altenburg
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盾持ちが掲げている旗は公国の国旗です。
ザクセン=アルテンブルクは歴史上2つの系統があります。初代ザクセン=アルテンブルクは、16世紀の末にザクセン=ヴァイマールから分かれ、1672年にザクセン=ゴータに吸収されました。
2代目のザクセン=アルテンブルク公国は、そのザクセン=ゴータの分裂によってザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国として誕生しました(1680年)。その後、1826年のザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国断絶による領土再分配で、ヒルトブルクハウゼンを放出してアルテンブルクを貰い受けたため、国名をザクセン=アルテンブルクと改称しました。
公国はドイツ帝国の構成国として1918年まで存続しました。
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大紋章の構成です。
組まれている紋章は、テューリンゲン方伯、クレーヴェ公、マイセン辺境伯、ユーリヒ公、小盾のザクセンとその下のランツベルク辺境伯、ベルク公、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、オルラミュンデ伯、アルテンブルク城伯、プライセン領主、アイゼンベルク領主、ヴェストファーレン(ウェストファリア)公、ブレナ伯、マルク伯、ラーヴェンシュタイン領主、ラーヴェンスベルク伯、レムヒルト領主、ヘンネベルク伯、レガーリエン。
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Mitteleres Wappen
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【中紋章】
背後の盾はアルテンブルク伯領、アイゼンベルク領主領、オルラミュンデ伯領、プライセン領主領。
中紋章は、盾の上にヘルメットとクレストが置かれ、左右の盾持ちと板状の台座といった構成になります。
Geviert mit Herzschild:
Herzschild : Hzm. Sachsen,
Hauptschild : 1. Bgft. Altenburg, 2. H. Eisenberg,
3. Gft. Orlamünde, 4. H. Pleissen.
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【ザクセン=コーブルク=ゴータ公国】 Herzogtum
Sachsen-Coburg und Gotha
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Herzschild : Hzm. Sachsen
Hauptschild : 1. Hzm. Jülich (in Gold
ein silbern bewehrter, schwarzer Löwe),
2. Hzm. Kleve, 3. Hzm. Berg, 4. Hzm.
Engern, 5. Hzm. Westfallen, 6. Hzm.
Coburg, 7. Lgft. Thüringen, 8. Mgft.
Meissen (in Gold ein rot bewehrter,
schwarzer Löwe mit Doppelschweif), 9.
gespalten vorne H. Römhild, hinten gefürstete
Gft. Henneberg, 10. Fsm. Lichtenberg, 11.
Pfgft. Sachsen, 12. Pfgft. Thüringen,
13. Mgft. Landsberg, 14. Gft. Brena, 15.
Gft. Orlamünde, 16. H. Pleissen, 17.
Bgft. Altenburg, 18. H. Eisenberg, 19.
Gft. Mark, 20. Gft. Ravensberg, 21. H.
Ravenstein, 22. H. Tonna, 23.
Regalienschild.
Einteilung der Felder 9 variiert.
1680 Herzogtum Sachsen-Saalfeld
1735 Herzogtum Sachsen-Coburg-Saalfeld
1826 Herzogtum Sachsen-Coburg und
Gotha
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1680年にザクセン=ザールフェルト公国として成立しました。その後、1735年の領土分配でザクセン=コーブルク=ザールフェルトと国名を変え、更に、1826年の領土再分配でザールフェルトを放出してコーブルクを得たことで、みたび国名が変更されました。
ベルギー王室の本家筋にあたります。また、イギリスのヴィクトリア女王の夫君アルバート公の実家でもあるため、イギリスでは第一次大戦まで王朝名と家名をサックス=コ−バーグ=ゴーサ(ザクセン=コーブルク=ゴータの英語読み。英国では王朝名と王家名は別物です)としていました。
1893年、ヴィクトリア女王の次男アルフレッドがザクセン=コーブルク=ゴータ公国を相続すると、公家の個人紋にはイギリスの紋章が組み込まれ、レイブルとそこに付けられるマークによって各人を区別したり、盾に直接載せられた冠の上にヘルメットとクレストが描かれるなど、イギリスの紋章の影響を強く受けるようになりました。また、イギリス王族冠が用いられることもありました。
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大紋章の構成です。中央の小盾はザクセン。背後の盾は、ユーリヒ、クレーヴェ、ベルク、エンゲルン、ヴェストファーレン、コーブルク、テューリンゲン(ゴータ)、マイセン、レムヒルト&ヘンネベルク、リヒテンベルク侯、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、ランツベルク、ブレナ、オルラミュンデ、プライセン、アルテンブルク城伯、アイゼンベルク、マルク、ラーヴェンスベルク、ラーヴェンシュタイン、トンナ、レガーリエン。三段目向かって左のレムヒルトとヘンネベルク、それから最下段のラーヴェンシュタインとレガーリエンは逆に組まれることもありました。
組まれている紋章中のリヒテンベルクですが、コーブルク=ゴータは、1815年に旧ハーナウ=リヒテンベルクを得てリヒテンベルク侯を称号に加えました。その際の新しい紋章のようです。リヒテンベルク侯領は1834年にプロイセンに渡りました。また、ラーヴェンシュタインの紋章も、ザクセン=アルテンブルクに組まれているものとは違い、盾地が赤でなく金色になっています。
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Mitteleres Wappen
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【中紋章】
中紋章は5つの紋章で構成されています。背後の盾は、テューリンゲン方伯領、マイセン辺境伯領、ヘンネベルク伯領、コーブルク公国。テューリンゲンとマイセンのライオンは2本尾で描かれることもありました。
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Hzm. Sachsen.
Hauptschild : 1. Lgft. Thüringen u. Hzm. Gotha,
2. Mgft. Meissen, 3. gefürstete Gft. Henneberg,
4. Hzm. Coburg.
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【ザクセン=アイゼナハ侯国】 Fürstentum
Sachsen-Eisenach (1572-1741)
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1686-1741
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【1686年以降】
ザイン伯領の紋章が加わりました。中央列下部の金色のライオン(ザイン)、隣の黒色の縦帯(ヴィトゲンシュタイン)、最下段向かって左の城(ホンブルク)、向かって右の斜め帯にイノシシの頭(フロイスブルク)です。
ザクセン=アルト・ゴータの分裂(1572年)で誕生し、その後2度ほど、ヴァイマールやノイ・ゴータ等への吸収と再分立が行われました。
ヨハン・ゲオルク1世(在位1671−86)はザイン=アルテンキルヘン女伯ヨハネッテ(在位1648−86/1701)と結婚し、ザイン伯領との合同がなりました。1741年に断絶すると、アイゼナハは1641年にザクセン=ヴァイマールから再分立する際に結ばれた協定に従ってヴァイマールに渡り、一方ザイン=アルテンキルヘンはブランデンブルク=アンスバハが相続したので、両者は分離します。
Johan
Wilhelm (1666-1729), Sohn des Herzogs Johann Georg
I. (1634-1686) und seiner Gemahlin Johannette Gräfin
zu Sayn-Altenkirchen (1632-1701), erbte nach dem
Tode Mutter (1701) auch Grafschaft
Sayn-Altenkirchen.
Feld 15 - Gft. Sayn : in Rot ein goldener, blau
bewherter hersehender Löwe mit Doppelschweif,
Feld 16 - Gft. Wittgenstein: in Silber zwei
schwarze Pfähle, Feld 21 - H. Homburg : in Rot
eine silberne Burg mit zwei Türmen, offenem
schwarzes Tor, Feld 23 - H. Freusburg : in Schwarz
eine mit drei schwarzes ebers Köpfe belegter
silberne Schräglinksbalken.
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【ザクセン=アイゼンベルク公国】 Herzogtum
Sachsen-Eisenberg (1680-1707)
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1690年頃からの紋章です。他のエルネスト系諸国と違って、背後の盾の上から三段目に、ヴェストファーレン公とエンゲルン公の紋章が組まれました。
ザクセン=ゴータの分裂で誕生した七公国の一つで、ザクセン=ゴータ公エルンストの五男クリスティアンが興しました。しかし、クリスティアンは世継ぎを残さず没したため公国は一代で断絶。領土はザクセン=ヒルトブルクハウゼンが継承しました。
1680 Herzogtum Sachsen-Eisenberg
1707 erloschen, Territorium fällt an Sachsen-Hildburghausen
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【ザクセン=ゴータ公国】 Herzogtum
Sachsen-Gotha (Alt-Gotha : 1557-1638)
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16. Jh.
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【16世紀】
組まれている紋章は、中央の小盾がザクセン。背後の盾は、テューリンゲン方伯領、マイセン辺境伯領、ザクセン宮中伯、テューリンゲン宮中伯、アルテンブルク城伯、オルラミュンデ伯領、ブレナ伯領、プライセン領主領、ランツベルク辺境伯領。
分裂前のエルネスト系ザクセン公国の紋章とよく似た構成です。
ザクセン=ゴータ(アルトゴータ)は、1554年のエルネスト系ザクセン(旧選帝侯国)の分裂で成立しました。初代公となったヨハン・フリードリヒ2世が1566年に収監されると、彼の息子達(コーブルク公、アイゼナハ公)による共同統治が行われ、1572年に両者に分割相続されます。
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1610-
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【17世紀】
組まれている紋章は、テューリンゲン方伯領、クレーヴェ公国、マイセン辺境伯領、ユーリヒ公国、ザクセン(小盾)、ベルク公国、ザクセン宮中伯、ランツベルク辺境伯領、テューリンゲン宮中伯、オルラミュンデ伯領、アルテンブルク城伯、プライセン領主領、ブレナ伯領、マルク伯領、アイゼンベルク領主領、レムヒルト領主領&ヘンネベルク諸侯伯領、ラーヴェンスベルク伯領。
1572年の分割実施後もコーブルク公とアイゼナハ公による共同統治色が濃く、二人の肖像と左の紋章を描いた貨幣が旧領土に対して発行され続けました。
コーブルクは1633年にアイゼナハに吸収され、またアイゼナハも1638年にヴァイマールとアルテンブルク間で再分配され、ゴータ公国は一時的に消滅します。
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【ザクセン=ゴータ公国】 Herzogtum
Sachsen-Gotha (Neu-Gotha : 1640-1680)
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1640年にザクセン=ヴァイマールから分かれました。
ザクセン=ヴァイマールの共同君主だったエルンスト3世が1675年に没すると、彼の7人の息子達が共同で公位に就きますが、5年後の1680年に分割相続が行われ、公国は消滅しました。
このザクセン=ゴータは、ゴータ=アルテンブルク、アイゼンベルク、ヒルトブルクハウゼン、マイニンゲン、ザールフェルトなど7公国に分裂しました。その関係で、この紋章はザクセン=ゴータ系諸公国の基本紋章になっています。
ザクセン=ゴータ系諸公国は領土の再分配によって名称を変えながら、3公国が1918年まで存続します。
1640 Herzogtum endstand (Teil von
Sachsen-Weimar)
1680 Erbteilungen -> Sachsen-Gotha-Altenburg,
Sachsen-Coburg, Sachsen-Meiningen,
Sachsen-Römhild, Sachsen-Eisenberg,
Sachsen-Hildburghausen
und Sachsen-Saalfeld
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【ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公国】 Herzogtum
Sachsen-Gotha-Altenburg (1680-1825)
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17 Jh.
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【17世紀】
ザクセン=ゴータの紋章にトンナ領主領(青地に銀色のライオン)が加えられました。
1680年のザクセン=ゴータ公国の分裂で誕生した7公国の一つで、ザクセン=ゴータ諸家の長兄脈になります。
神聖ローマ帝国解体後も主権国家として存続し、ライン同盟およびドイツ連邦に参加。しかし、フリードリヒ4世(在位1822−1825)には子がなく、彼の死によって断絶。領土は一族の間で再分配され、ゴータはザクセン=コーブルクが、アルテンブルクはザクセン=ヒルトブルクハウゼンが譲り受けました。この領土再分配によって、ザクセン諸公国は国名を変更します。
Feld 19. H. Tonna: In Blau ein goldgekrönter
silberner Löwe.
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18 Jh.
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【18世紀】
上の紋章のバリエーションです。フリードリヒ2世(在位1691−1732)の代に登場します。18世紀になってから用いられたようです。
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【ザクセン=マイニンゲン公国】 Herzogtum
Sachsen-Meiningen-Hildburghausen
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Mitteleres Staatswappen :
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Hzm. Sachsen, herzogliche
Krone gekrönt.
Hauptschild : 1. Lgft. Thüringen, 2.
gefürstete Gft. Henneberg, 3. H. Römhild,
4. Mgft. Meissen.
1680 Herzogtum Sachsen-Meiningen
1735 Herzogtum
Sachsen-Coburg-Meiningen
1826 Herzogtum
Sachsen-Meiningen-Hildburghausen
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1680年にザクセン=ゴータ公国から分立しました。1735年の領土分配でコーブルクを得て、ザクセン=コーブルク=マイニンゲン公国と改称しました。その後、1826年の分割相続でヒルトブルクハウゼンやザールフェルトを獲得して再度国名が変わりました。
神聖ローマ帝国解体後も主権を保持しますが、1866年の普墺戦争でオーストリアを支持したため、戦後、プロイセンによってマイニンゲン公ベルンハルト2世は退位させられ、公国はプロイセンの属国的な地位に押し下げられました。
戦後に即位したゲオルク2世(在位1866−1914)は、優れた舞台演出家としても知られ、演劇に対する多くの新手法を考案しました。彼が行ったヨーロッパ巡業公演は、近代演劇に多大な影響を与えたそうです。
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Mitteleres Wappen
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【中紋章】
19世紀の中紋章の紋章構成です。背後の盾はテューリンゲン方伯領、ヘンネベルク伯領、レムヒルト領主領、マイセン辺境伯領。
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-19 Jh.
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【19世紀】
大紋章の構成です。構成はザクセン=ゴータと同じですが、小盾のザクセンに公爵冠が載せられています。
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1842-
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【1842年以降】
1842年前後に、ホンブルク領主領(赤地に銀色の城塞)とフロイスブルク領主領(黒地に銀の逆斜め帯に黒い三頭のイノシシの頭部)の紋章が加えられました。
しかし、追加された二つの紋章はさほど重視されなかったようで、以前の紋章が使用されることもあったそうです。
Feld 20. H. Homburg, 21. H. Freusburg.
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【ザクセン=メルゼブルク公国】 Herzogtum
Sachsen-Merseburg (1656-1738)
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向かって左側の列、上から2番目の黒十字の紋章がメルゼブルクです。向かって右列中断の赤牛はニーダーラウジッツの紋章ですが、緑色の大地は描かれないようです。
1656年にザクセン選帝侯国から分立した3公国の一つで、選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の四男クリスティアンに旧メルゼブルク司教領を中心とする領地が与えられ、成立しました。
公国は短命で1738年に断絶。領土はザクセン選帝侯国に戻されました。下って1815年のウィーン会議の結果、旧領土はプロイセン王国に編入されました。
1656 Herzogtum Sachsen-Merseburg entstand (Teil von
Kursachsen)
1738 erloschen, das Land zurück an
Kursachsen
Feld 4. Bistum Merseburg :
In gold ein schwarzes Kreuz.
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【ザクセン=ヴァイセンフェルス公国】 Herzogtum
Sachsen-Weissenfels (1656-1746)
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1656-1660
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【1660年以前】
1656年にザクセン選帝侯国から分立した3公国の一つで、選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の三男アウグストが興しました。
一緒に分かれた他の2公国同様に短命で、1746年に断絶し、領土は本家ザクセン選帝侯国に戻されました。旧領土は1815年にプロイセンに割譲されました。
1656 Herzogtum Sachsen-Weissenfels entstand (Teil
von Kursachsen)
1746 erloschen, das Land zurück an
Kursachsen
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1660-
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【1660年以降】
中央列最下段の紋章はヘンネベルク伯領&バルビー伯領。バルビー伯は1659年に断絶し、翌年にザクセン領となりました。初代ヴァイセンフェルス公の息子ハインリヒがのちにザクセン=バルビー家を称します。最下段の銀色の盾地はヴァルテシルト(いわゆる余白)で、しばしば省略されます。
1.
Lgft. Thüringen, 2. Hzm. Kleve, 3. Mgft.
Meissen, 4. Hzm. Jülich, 5.-8.-11. Herzschild :
Hzm. Sachsen, 6. Hzm. Berg, 7. Pfgft. Sachsen, 9.
Pfgft. Thüringen, 10. Mgft. Oberlausitz, 12.
Mgft. Niederlausitz, 13. H. Pleissen, 14. Gft.
Orlamünde, 15. Mgft. Landsberg, 16. Gft. Brena,
17. Bgft. Altenburg, 18. H. Eisenberg, 19. Gft.
Ravensberg, 20. Gft. Mark, 21. Regalienschild, 22.
gefürstete Gft. Henneberg, 23. Gft. Barby (seit
1660)
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【ザクセン=ツァイツ=ナウムブルク公国】 Herzogtum
Sachsen-Zeitz-Naumburg (1656-1718)
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向かって左側の列、上から2段目の交差した剣と鍵がナウムブルクの紋章です。
1656年にザクセン選帝侯国から分立した3公国の一つで、選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の五男モーリッツが、統治を任されていたツァイツ=ナウムブルク司教領およびヘンネベルク伯領の一部を相続して成立しました。
しかし、第2代公モーリッツ・ヴィルヘルムに後継者がいなかったため、1718年の彼の死と共に断絶。領土は本家ザクセン選帝侯国に戻され、1815年以降はプロイセン領となりました。
1656 Herzogtum Sachsen-Zeitz-Naumburg entstand
(Teil von Kursachsen)
1718 erloschen, das Land zurück an
Kursachsen
Feld 4. Bistum Naumburg : In Rot gekreuzte,
silberne Schlüssel und silbernes Schwert.
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