|

|
|
|
|

|
|
- (2)帝国北東部の諸邦(A−M)
|
|
|
|

|
|
|
16世紀前半の神聖ローマ帝国北東部
現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州、ブランデンブルク州、ザクセン=アンハルト州、ザクセン州、テューリンゲン州およびポーランド西部の地域です
|
|
|
掲載一覧です Liste (A -
M)
(N -
Z)
|
|
アンハルト公国・侯国
アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク侯国
アンハルト=ツェルプスト侯国
ブランデンブルク選帝侯国
ハルバーシュタット司教領
|
ヘンネベルク諸侯伯領
ホーエンシュタイン伯領
マクデブルク大司教領
マンスフェルト伯領
マンスフェルト=ベルンシュテット侯国
|
メクレンブルク=シュヴェリン大公国・公国
メクレンブルク=シュトレリッツ大公国
マイセン辺境伯領
メルゼブルク司教領
|
|
|
|
|
|
Anhalt (Fsm,
Hzm.)
Anhalt-Bernburg-Schaumburg (Fsm.)
Anhalt-Zerbst (Fsm.)
Brandenburg
(Kfsm.)
Halberstadt
(Bm.)
|
Henneberg
(Gft.)
Hohenstein /
Hohnstein (Gft.)
Magdeburg
(Erzbm.)
Mansfeld
(Gft.)
Mansfeld-Börnstedt (Fsm.)
|
Mecklenburg-Schwerin
(Ghzm, Hzm.)
Mecklenburg-Strelitz
(Ghzm.)
Meissen
(Mgft.)
Merseburg
(Bm.)
|
|
|
|
|
|
Abkürzungen :
Kgr.= Königreich, Ghzm.=
Grossherzogtum, Hzm.= Herzogtum, Kfsm.=
Kurfürstentum, Fsm.= Fürstentum
Mgft.= Markgrafschaft, Lgft.=
Landgrafschaft, Bgft.=Burggrafschaft,
Fgft.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft,
Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.=
Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
【アンハルト公国】 Herzogtum
Anhalt
c.a. 1212 Fürstentum, 1807 Herzogtümer
(Bernburg, Dessau, Köthen), 1863 Herzogtum
Anhalt
|
|
- Hzm. Sachsen
- Pfgft. Sachsen
- Hzm. Engern
- Geschlecht der Beringer
- Herzschild : Stammwappen u. kleines
Staatswappen ( Mgft. Brandenburg / Hzm.
Sachsen)
- H. Ballenstadt
- Gft. Askanien (Aschersleben)
- Gft. Waldsee
- Gft. Warnsdorf
- Gft. Mühlingen
- Regalienschild
- H. Bernburg
|
|
|
|
|
中央の小盾はアンハルト(ブランデンブルク&ザクセン)。背後の盾は、ザクセン公、ザクセン宮中伯、エンゲルン公、ベリンガー家、バレンシュタット領主、アスカニエル伯、ヴァルトゼー伯、ヴァルンスドルフ伯、ミューリンゲン伯、レガーリエン(国王大権を表します)、ベルンブルク領主。
ベリンガーの紋章は、アンハルト家の出自を表しています。ベリンガー(Beringer,
Bäringer)とは同家の祖、ブランデンブルク辺境伯アルブレヒト熊伯(Albrecht
der Bär)に由来する呼称のようです。
アンハルト家は中世ドイツの名門アスカニエル伯家の末裔で、アンハルトの紋章になっているブランデンブルク辺境伯領は1319年まで、ザクセン公国は1422年までアスカニエル伯家の領土でした。アルブレヒト熊伯は1144年にブランデンブルク辺境伯を名乗り、1180年にはハインリヒ獅子公失脚によってザクセンを獲得しました。
1212年にアスカニエル家はザクセン系とアンハルト系に分かれ、アンハルト侯国が誕生します。アンハルト系はその後も多くの家系に分かれました。
1806年の神聖ローマ帝国解体時まで存続していたベルンブルク、デッサウ、ケーテンの3家は、ライン同盟に参加して公国に昇格します。ベルンブルクは1863年に、ケーテンは1847年に断絶したため、デッサウ家によって領土の再統一が果たされました。その後、ドイツ帝国の構成国として1918年のドイツ革命まで存続しました。
|
|
|
|
|
|
|
Altes Wappen
|
|
|
|
【15世紀頃まで
】
ブランデンブルクとバレンシュタットの組み合わせ。ブランデンブルクの紋章は、鷲の翼骨が取り除かれています。
アスカニエル伯家分裂時の紋章です。
Gespalten : vorn in Silber ein roter halber Adler
(Mgft. Brandenburg, aber ohne Kleestengel), hinten
von Schwarz und Gold neunmal quergeteilt (H.
Ballenstadt).
|
|
|
Neues Wappen
|
|
|
|
【16世紀頃以降】
時代が下がると、バレンシュタットの紋章がザクセンに置き換えられました。
Gespalten: vorne Brandenburg, hinten Sachsen.
|
|
|
-1689
|
|
|
|
【1689年まで】
諸領地の紋章が組み合わせられました。アンハルト各家が共通して用いていた紋章です。
向かって左上のベリンガーの紋章は、熊の首輪と城壁下の入り口が金、向かって右下のベルンブルクの紋章は、熊の首輪と城壁下の入り口が銀色と塗り分けられています。
Zweimal gespalten und zweimal geteilt mit
Herzschild.
1. Geschlecht der Beringer, 2. H. Ballenstadt, 3.
Gft. Askanien (Aschersleben), 4. Gft. Waldsee, 5.
Herzschild : Stammwappen, 3. Gft. Warnsdorf, 7.
Gft. Mühlingen, 8. Regalienschild, 9. H.
Bernburg.
|
|
|
1689-
|
|
|
|
【1689年以降】
盾の最上段に、ザクセン公、ザクセン宮中伯、エンゲルン公の紋章が加わりました。
1689年、アスカニエル=ザクセン系の最後の家系、ザクセン=ラウエンブルク公家が断絶すると、遺領の相続を主張して同家の紋章を加えました。
Feld 1 Hzm. Sachsen, 2. Pfgft. Sachsen, 3. Hzm.
Engern.
|
|
|
|
|
【アンハルト=ベルンブルク=シャウムブルク侯国】 Fürstentum
Anhalt-Bernburg-Schaumburg (1707 - 1806)
|
|
|
Gespalten. vorn : zweimal gespalten und dreimal
geteilt mit Herzschild (Fsm. Anhalt) :
1. Hzm. Sachsen, 2. Pfgft. Sachsen, 3. Hzm. Engern,
4. Geschlecht der Beringer, 5. Herzschild:
Stammwappen, 6. H. Ballenstadt, 7. Gft. Askanien
(Aschersleben), 8. Gft. Waldsee, 9. Gft. Warnsdorf,
10. Gft. Mühlingen, 11. Regalienschild, 12. H.
Bernburg,
hinten : geviert mit Herzschild (Gft.
Holzappel?):
Herzschild : Familienwappen Melander?,
Hauptschild : 1.&4. ?, 2.&3. Gft.
Holzappel?
1707 Fürstentum entstand
1806 mediatisieren
1812 Fürstlisches Haus erloschen
|
|
盾を大きく縦2分割し、向かって左側にアンハルトの紋章、右側にホルツァペル伯(?)の紋章を組んでいます。詳細は不明ですが、向かって右側の小盾はホルツァペルを治めていたメランダー伯の紋章のようです。また、背後の盾の青い玉を持った赤いグリフォンは、ホルツァペル伯の「枝に実ったリンゴを持つ赤いグリフォン」を表していると思われます。
アンハルト=ベルンブルク侯ヴィクトール・アマデウス(在位1656−1718)の次男レーブレヒトが1707年にラーン川流域のホルツァペル伯領を獲得したのに始まり、ホルツァペルやシャウムブルクを領土としました。侯国は1806年の神聖ローマ帝国解体時に主権を失い、領土はナッサウに併合されました。
1812年に男系が途絶すると、ホルツァペル伯の称号は女子相続人ヘルミーネが継承しました。彼女は皇帝フランツ2世の弟と結婚していたので、以後、伯位はハプスブルク家に渡ります。
|
|
|
|
|
【アンハルト=ツェルプスト侯国】 Fürstentum
Anhalt-Zerbst (1603 - 1793)
|
|
- Hzm. Sachsen
- Pfgft. Sachsen
- Hzm. Engern
- H. Ballenstadt
- Geschlecht der Beringer
- Herzschild : Stammwappen ( Mgft.
Brandenburg / Hzm. Sachsen)
- H. Jever
- Gft. Askanien (Aschersleben)
- Gft. Waldsee
- Gft. Warnsdorf
- Fh. Knyphausen
- Gft. Mühlingen
- Regalienschild
- H. Bernburg
- H. Walter-Nienburg
|
|
|
|
|
ca. 1747
|
|
|
|
|
アンハルト=ツェルプストは1603年のアンハルト分裂によって誕生しました。1667年にオルデンブルク伯家が断絶すると、オルデンブルク領イェーファーを相続し、現在のニーダーザクセン地域に進出しました。1793年のフリードリヒ・アウグストの死によって男系が絶えると、遺領のうちアンハルトにあった領土は一族のベルンブルク、デッサウ、ケーテンによって分割相続されました。一方、イェーファーはフリードリヒ・アウグストの姉、ゾフィー・シャルロッテ・ドローテア(=ロシア女帝エカテリーナ2世)が相続しました。
盾持ちは向かい合う金色のライオンで、フリードリヒ・アウグスト(在位1747−93)の時に後ろを向く黒熊と金色のライオンが登場します。
|
|
|
|
|
|
|
1667-1689
|
|
|
|
【1667年−89年】
向かって右端の列にイェーファー関係の紋章が組まれました。上から、イェーファー領主、クニプハウゼン男爵、ニーンブルク領主です。
1667年にオルデンブルク伯が断絶すると、同家が統治していたイェーファー領主領を相続しました。
イェーファーは相続した領土。クニプハウゼン男爵領はオルデンブルク伯家の庶流のアルデンブルク伯家が相続した領土ですが、アンハルト=ツェルプストもクニプハウゼン男爵を称号に加え、紋章も組み込みました。
Feld 4 : Herrschaft Jever (1667 erworben).
|
|
|
1689-1793
|
|
|
|
【1689年以降】
同じアスカニエル一族のザクセン=ラウエンブルク公家が断絶すると、同公国の相続を主張して紋章が加えられました。
中央の小盾はアンハルト(ブランデンブルク&ザクセン)。背後の盾は、ザクセン公、ザクセン宮中伯、エンゲルン公、バレンシュタット領主、ベリンガー家、イェーファー領主、アスカニエル伯、ヴァルトゼー伯、ヴァルンスドルフ伯、クニプハウゼン男爵、ミューリンゲン伯、レガーリエン(国王大権を表します)、ベルンブルク領主、ニーンブルク領主。
|
|
|
|
|
【ブランデンブルク選帝侯国】 Kurfürstentum
Brandenburg
|
|
|
銀地に金色の翼骨のある赤鷲。
10世紀前半に成立したノルトマルク辺境伯領が前身で、1136年、アスカニエル家のアルブレヒト熊伯がブランデンブルク辺境伯を名乗り、1156年に辺境伯領が成立しました。
14世紀には皇帝家であるルクセンブルク家の所領となり、1417年に皇帝ジギスムントからニュルンベルク城伯フリードリヒ1世に譲渡され、以後、1918年までホーエンツォレルン家が統治しました。
16世紀に一族のプロイセン公から領国を遺贈され、その後の発展の足がかりを得ました。1701年にプロイセン王の称号が許されると、国名をプロイセンと定め、神聖ローマ帝国からの自立の傾向を強めていきます。
In Silber ein roter, goldbewehrter Adler, belegt
mit zwei goldenen Kleestängeln.
|
|
|
【15世紀】
中央の小盾は帝国侍従長官。背後の盾は、ブランデンブルク、ニュルンベルク城伯、ホーエンツォレルン、ポンメルン。選帝侯国の紋章の基本構成で、帝国侍従長官の紋章は15世紀の後半頃に登場します。
ブランデンブルクは、16世紀にプロイセンを相続したのを皮切りに、諸邦を次々と相続ないし併合していきます。そのため、紋章も毎年のように変更され、なおかつ、統治地域ごとに非常に多くのバリエーションを生み出しました。
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Reichserzkämmerer,
Hauptschild : 1. Mgft. Brandenburg, 2. Bgft. Nürnberg,
3. Gft. Hohenzollen,4. Hzm. Pommern.
|
|
|
Wappen des Preussischer
Provinz
|
|
|
|
【19世紀以降】
19〜20世紀のプロイセン・プロヴィンツの紋章です。
鷲には選帝侯帽が被せられ、剣と錫を持ち、胸には神聖ローマ帝国侍従長官の紋章が描かれています。
プロイセン・プロヴィンツの紋章のより完全な形は、小紋章はプロイセンの鷲の胸に左の紋章盾が掲げられ、中紋章は、左の紋章の左右に盾持ちが、盾の下には台座が加わります。そして大紋章は、中紋章の構成から選帝侯帽が取り除かれ、代わってヘルメットとクレストが描かれます。
|
|
|
|
|
【ハルバーシュタット司教領】 Hochstift
Halberstadt
|
|
Gespalten von Silber und Rot.
804 Bistum gegründet
1556 Reformation
1648 säkularisiert, weltliches Fürstentum
Halberstadt unter brandenburgischer
Herrschaft
|
|
|
|
|
銀と赤の縦分割。
804年にカール大帝によって設置された司教座が起源で、1556年に宗教改革を実施してプロテスタントに改宗しました。プロテスタントとなってからは主にブラウンシュヴァイク公の一族によって統治されました。
三十年戦争中はカトリック陣営に占領され、ハプスブルク家出身の司教がおかれましたが、1648年のウェストファリア条約によって世俗化。世俗侯国としてブランデンブルクに併合されました。
南隣にあるクヴェトリンブルク女子修道院とは、クヴェトリンブルク市の支配を巡って長期ににわたり係争が行われ、都市の女子修道院長に対する叛乱にも荷担したことがありました。
|
|
|
|
|
- 歴代司教 Fürstbischöfe
von Halberstadt
|
|
Albrecht IV. von Wernigerode
(1411-1419)
|
|
|
|
【ハルバーシュタット司教】アルブレヒト4世(在位1411−19)
司教の実家ヴェルニゲローデ伯の紋章との組み合わせ。通常の組み方と序列が逆ですが、15世紀末頃の書物に描かれた図に従って作画しました。
ヴェルニゲローデ伯コンラートの三男で、十代前半からハルバーシュタットの高位聖職録を得ていました。17歳だった1363年頃にハルバーシュタット司教座教会参事会員となり、1384年には参事会首席に就任します。
ハルバーシュタット司教となってからは、いくつかの城塞を購入するなど、司教領の拡大に功績を残しました。
Albrecht IV. Graf von
Wernigerode (1346-1419)
Der dritte Sohn des Grafen Konrad von
Wernigerode.
1358 Propst zu St. Bonifatii in Halberstadt
1411-1419 Fürstbischof von Halberstadt
Feld 1. u. 4. Familienwappen
Wernigerode.
|
|
|
Albrecht V. von Brandenburg
(Administrator : 1513-1545)
|
|
|
|
【ハルバーシュタット管理人】アルブレヒト5世(1513−45)
実家ブランデンブルクの紋章に、マインツ、ハルバーシュタット、マクデブルク各聖職諸侯領の紋章を組んでいます。被せられているのは枢機卿帽です。
ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィツェロ(在位1486−99)の次男で、父の死後、兄ヨアヒム1世(ブランデンブルク選帝侯)の共同統治者としてブランデンブルク辺境伯に即位します(在位1499−1513)。辺境伯の位はハルバーシュタット司教領の管理人およびマクデブルク大司教就任に際して放棄され、以後は聖職諸侯として活動しました。1514年にマインツ大司教兼選帝侯となり、1518年には枢機卿に任ぜられました。
Albrecht V. Markgraf von
Brandenburg (1490-1545)
Der zweite Sohn des Kurfürsten Johann
Cicero von Brandenburg.
1499-1513 als Albrecht II. Co-Markgraf von
Brandenburg (mit seinem älteren Bruder Joachim
I. Kurfürst von Brandenburg)
1513-1545 Administrator des Bistums Halberstadt und
Fürsterzbischof von Magdeburg
1514-1545 Kurfürst-Erzbischof von Mainz
1518 Kardinal
|
|
|
|
|
【ヘンネベルク伯領】 Gefürstete
Grafschaft Henneberg
|
|
|
金地に緑色の丘の上に立つ黒色の雌鳥。ヘンネベルクは直訳すると「めんどりの丘」という意味。それで、名前通りの図案が紋章に採用されました。
ヘンネベルク伯は1471年に帝国諸侯に列せられた名家で、一族からは、帝国改造運動に指導的な役割を果たしたマインツ選帝侯ベルトルトが出ています。
1583年に伯家が断絶すると、一部の領土を除いてザクセンが相続しました。ザクセンの相続分では、エルネストとアルベルト両系の諸家による共同統治が長期に渡って行われ、分割相続が実施されたのは1660年でした。
家系は絶えましたが、ヘンネベルク伯自身は帝国諸侯の身分を失わず、帝国解体まで帝国議会の諸侯部会に議席を保有し続けました。
c.a. 1037 Grafschaft Henneberg
1471 Reichsfürstenstand
1583 erloschen, Territorium fällt an
Sachsen
|
|
|
Henneberg zu Römhild
|
|
|
|
【ヘンネベルク=レムヒルト伯領】
赤地に金色の冠を戴いた銀色の柱はレムヒルト領主領の紋章です。レムヒルトはヘンネベルク伯領に属していました。
1680年にザクセン=ゴータ公エルンストの息子ハインリヒ3世(在位1680−1710)がザクセン=レムヒルト家を興しますが、彼の死と共に断絶しました。
1262 Grafschaft Henneberg-Aschach
1535 Grafschaft Henneberg-Römhild
1549 erloschen
|
|
|
Henneberg zu Schleusingen
|
|
|
|
【ヘンネベルク=シュロイジンゲン伯領】
金地に双頭の黒鷲と赤銀のチェック模様はシュロイジンゲンの紋章です。
ヘンネベルク伯領の分割相続後の1681年、ザクセン=ヘンネベルク=シュロイジンゲン家が興されましたが、1718年に断絶しました。
1245 Grafschaft Henneberg-Schleusingen
1583 erloschen
|
|
|
Ernst I. Herzog von
Sachsen-Gohta
|
|
|
|
【ヘンネベルク伯領】ザクセン=ゴータ公家。
盾の上部にザクセンの紋章が組まれました。
ヘンネベルクは1660年にザクセン各家によって分割されました。この紋章はザクセン=ゴータ公エルンスト1世(在位1660−75)が自身の相続地域に対して用いた紋章です。
|
|
|
|
|
【ホーエンシュタイン(ホーンシュタイン)伯領】 Grafschaft
Hohenstein / Hohnstein
|
|
|
赤と銀で12分割されたチェック。
ノルトハウゼンの北西にあった伯領で、12世紀の半ばに成立しました。ホーンシュタインとも呼ばれます。伯家は神聖ローマ帝国の帝国議会に議席を二つ保有していました。
1593年のエルンスト7世の死によって伯家は断絶し、遺領は聖俗の諸邦によって分割されました。伯領の大部分はブランデンブルクとブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルが相続したので、ホーエンシュタインの紋章は両者の紋章に取り入れられました。他にも、ザイン=ヴィトゲンシュタイン=ホーエンシュタイン伯、シュヴァルツブルク伯、シュトルベルク伯など多くの相続者がこの紋章を組み込みこみました。
1145 Gradschaft Hohnstein
1593 erloschen
|
|
|
中央の小盾はクレッテンベルク領主領、背後の盾はホーエンシュタイン伯領とラウターベルク伯領。
クレッテンベルク領主領は早い時期からの伯家の領土でした。ホーエンシュタインは13世紀末に、ゾンダースハウゼン系とクレッテンベルク系に分裂し、ゾンダースハウゼン系の領土はその後、シュヴァルツブルク伯が相続します。
クレッテンベルク系はホーエンシュタイン=ホーエンシュタインという名称で1593年まで存続しました。
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : H. Klettenberg,
Hauptschild : 1.&4. Gft. Hohnstein, 2.&3.
Gft. Lauterberg.
|
|
|
|
|
【マクデブルク大司教領】 Ertstift
Magdeburg
|
|
Geteilt von Rot und Silber.
968 Erzbistum gegründet
1556 Reformation
1680 säkularisiert, weltliches
Herzogtum Magdeburg unter
brandenburgischer Herrschaft
1994 Bistum Magdeburg erhoben
|
|
|
|
|
赤と銀の横分割。
968年にオットー大帝により大司教座が設置されて成立しました。1566年以降はプロテスタント勢力の統治下に置かれ、1648年のヴェストファーレン条約で世俗化が決まりました。1680年に最後の大司教領管理人が没すると、世俗公国としてブランデンブルクに併合されました。
世俗化と同時に宗教上の大司教区も消滅しましたが、1994年にパーダーボルン大司教区所属の司教区として復活しました。
|
|
|
|
|
- 歴代司教と管理人 Fürsterzbischöfe
und Administratoren von Magdeburg
|
|
|
Johann von Pfalz-Simmern
(1464-1475)
|
|
|
|
【マクデブルク大司教】ヨハン(在位1464−75)
ライン宮中伯の紋章との組み合わせ。
プファルツ=ジンメルン家の出身で、神聖ローマ王ルプレヒトの孫にあたります。1458年から1466年まではミュンスター司教でした。
Johann Herzog von
Pfalz-Simmern (1429-1475)
der fünfte Sohn des Pfalzgrafen Stefan von
Simmern u. Zweibrücken
1458-1466 Fürstbischof von Münster
1466-1475 Fürsterzbischof von Magdeburg
Feld 2. Pfgft. am Rhain, Feld 3. Hzm.
Bayern.
|
|
|
Albrecht IV. von Brandenburg
(1513-1545)
|
|
|
|
【マクデブルク大司教】アルブレヒト4世(在位1513−45)
実家ブランデンブルクの紋章に、マインツ、マクデブルク、ハルバーシュタット各聖職諸侯領の紋章を組んでいます。被せられているのは枢機卿帽です。
ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィツェロ(在位1486−99)の息子で、父の死後、兄ヨアヒム1世の共同統治者としてブランデンブルク辺境伯に即位しました(在位1499−1513)。1513年にマクデブルク大司教とハルバーシュタット司教領管理人に就任し、翌1514年にマインツ大司教兼選帝侯に即位。1518年には枢機卿に任ぜられました。
アルブレヒト4世の後、1631年まで、ブランデンブルク選帝侯家出身者が大司教領を統治しました。
|
|
|
Albrecht IV. von Brandenburg
(1513-1545)
|
|
|
|
【マクデブルク大司教】アルブレヒト4世(在位1513−45)
上の紋章のバリエーションです。
Albrecht IV. Markgraf von
Brandenburg (1490-1545)
Der zweite Sohn des Kurfürsten Johann
Cicero von Brandenburg.
1499-1513 als Albrecht II. Co-Markgraf von
Brandenburg (mit seinem älteren Bruder Joachim
I. Kurfürst von Brandenburg)
1513-1545 Fürsterzbischof von Magdeburg und
Administrator des Bistums Halberstadt
1514-1545 Kurfürst-Erzbischof von Mainz
1518 Kardinal
Zweimal
gespaltenen und viermal geteilten Schild mit drei
2-1 aufgelegten kleine Schilde.
Kleine Schilde : a. Erzbm. Magdeburg, b. Erzbm.
Mainz, c. Bm. Halberstadt,
Hauputschild : 1. Bgft. Nürnberg, 2. Mgft.
Brandenburg, 3. Hzm. Stettin. 4. Hzm. Pommern, 5.
Fsm. Rügen, 6. Hzm. Wenden, 7. Rostock, 9. Hzm.
Kassuben, 10. Usedom, 12. Hzm. Wolgast, 13. Gützkow,
14. Gft. Hohenzollern, 15. Gft. Ruppin?.
|
|
Joachim Friedrich von
Brandenburg
(Administrator : 1566-1598)
|
|
|
|
【マクデブルク管理人】ヨアヒム・フリードリヒ(在位1566−98)
ブランデンブルクの紋章にマクデブルクの紋章を組み込みました。
ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルクの息子で、1552年にハーフェルベルク司教に就任し、1566年にマクデブルク大司教の叔父ジギスムントが没すると、マクデブルクの管理人となりました。
1598年に父が没すると、全ての聖職位を退き、ブランデンブルク選帝侯に即位します。
Joachim Friedrich Kurfürst
von Brandenburg (1546-1608)
Sohn des Kurfürsten Johann Georg von
Brandenburg.
1552-1598 Fürstbischof von Havelberg
1566-1598 Administrator des Erzbistums
Magdeburg
1569-1571 Fürstbischof von Brandenburg
1598-1608 Kurfürst von Brandenburg
|
|
August von Sachsen-Weissenfels
(Administrator : 1638-1680)
1638-1659
|
|
|
|
【マクデブルク管理人】アウグスト(在位1638−80)
ザクセン選帝侯家の紋章の中央に大司教の紋章を組んでいます。1660年以降は盾の最下段にバルビー伯の紋章が加わります。
アウグストはザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の息子で、1638年にマクデブルク大司教領の管理人に指名されました。
1656年の選帝侯国の分割でザクセン=ヴァイセンフェルス公国を興しますが、マクデブルクは引き続き彼の管理下に置かれました。アウグストの死後、マクデブルクはブランデンブルクに併合されます。
August Herzog von
Sachsen-Weissenfels (1614-1680)
Der dritte Sohn des Kurfürsten Johann Georg I.
von Sachsen.
1638-1680 Administrator des Erzbistums
Magdeburg
1650-1680 Herzog von Sachsen-Weissenfels
|
|
August von Sachsen-Weissenfels
(Administrator : 1638-1680)
1660-1680
|
|
|
|
【マクデブルク管理人】アウグスト(在位1638−80)
1660以降の紋章で、最下段にバルビー伯の紋章が加わりました。ザクセン=ヴァイセンフェルス家の紋章が変更されたのに連動しての変更です。
1.
Lgft. Thüringen, 2. Hzm. Sachsen, 3. Mgft.
Meissen, 4. Hzm. Jülich, 5. Hzm. Kleve, 6. Hzm.
Berg, 7. Pfgft. Sachsen, 8. Herzschild : Erzbm.
Magdeburg, 9. Pfgft. Thüringen, 10. Mgft.
Oberlausitz, 11. Mgft. Niederlausitz, 12. H.
Pleissen, 13. Gft. Orlamünde, 14. Mgft.
Landsberg, 15. Gft. Brena, 16. Bgft. Altenburg, 17.
H. Eisenberg, 18. Gft. Ravensberg, 19. Gft. Mark,
20. Regalienschild, 21. Gft. Henneberg, 22. Gft.
Barby (seit 1660)
|
|
|
|
|
【マンスフェルト伯領・侯国】 Fürstentum
und Grafschaft Mansfeld
|
|
|
【マンスフェルト伯領】
赤と銀色の分割はクヴェルフルト領主領。銀地に赤色の菱形はマンスフェルト伯領。
マンスフェルト伯家は1486年にフォルダーオルト系とヒンターオルト系に分かれました。フォルダーオルト系は他の紋章を組みましたが、ヒンターオルト系はこの紋章をそのまま使用しました。
ヒンターオルト系は1666年に断絶し、領土はフォルダーオルト系に統合されました。
1486 teilten in Vorderortische Linie und
Hinterortische Linie
1666 Hinterortische Linie erloschen
|
|
|
Fürstentum
Mansfeld-Boernstedt
|
|
|
|
【マンスフェルト=ベルンシュテット侯国】
フォルダーオルト系は16世紀に4家系に分かれますが、紋章は各家とも共通のものを使いました。17世紀中にヒンターオルト系を含めてベルンシュテット家に統一され、同家は1709年に帝国諸侯に昇格しました。1780年に断絶すると、領土はザクセンに併合され、一方、称号は姻戚関係にあったオーストリアのコロレド侯(作曲家モーツアルトの主君だったコロレド大司教の兄です)が継承しました。
1531 Grafschaft Mansfeld-Boernstedt (Vorderortische
Linie)
1709 Fürstentum
1780 erloschen
Geviert : 1.&4. geviert H. Querfurt und Gft.
Mansfeld, 2. H. Arnstein, 3. H. Heldrungen.
|
|
|
|
|
【メクレンブルク=シュヴェーリン大公国】 Grossherzogtum
Mecklenburg-Schwerin
|
|
|
Wappen (19. Jh.) :
Einmal gespalten und zweimal geteilt mit
Herzschild.
Herzschild : Gft. Schwerin.
Hauptschild : 1. Hzm. Mecklenburg, 2. H. Rostock,
3. Fsm. Schwerin, 4. Fsm. Ratzeburg, 5. H.
Stargard, 6. Fsm. Werle (oder Wenden).
1139 Fuerstentum Mecklenburg
1225 Erbteilungen -> Mecklenburg-Mecklenburg,
Mecklenburg-Werle, Mecklenburg-Rostock und
Mecklenburg-Parchim
1348 Herzogtum Mecklenburg
1352 Erbteilungen -> Mecklenburg-Stargard und
Mecklenburg-Schwerin
1471 einheitliches Herzogtum
1610 Erbteilungen -> Mecklenburg-Schwerin und
Mecklenburg-Guestrow
1701 Hamburger Vergleich, Hauptlandesteilungen
-> Mecklenburg-Schwerin und Mecklenburg-Strelitz
1815 Grossherzogtum Mecklenburg-Schwerin
|
|
中央の小盾はシュヴェーリン伯、背後の盾はメクレンブルク、ロストク、シュヴェーリン司教、ラーツェブルク司教、シュタルガルト、ヴェルレまたはヴェンデン。
現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州の西部からブランデンブルク州北部にかけての地域にありました。元々はスラブ系国家で、10世紀に一時ザクセン公に征服され、1160年にザクセン公ハインリヒ獅子公によって完全にドイツ化されました。メクレンブルクの名称は12世紀前半に、スラブ語名のドイツ語訳として登場しました。その後、1348年にメクレンブルクは公国となり、帝国諸侯に名を連ねました。
メクレンブルク=シュヴェーリンは、1352年の分裂で誕生しました。アルブレヒト3世(在位1384−1412)は、叔父マグヌス2世を追放した貴族達によってスウェーデン王に迎えられました(スウェーデン王在位1364−1389)。しかし、デンマーク女王マルグレーテ1世との戦いに敗れて王を廃位され、スウェーデンとの連合は短期間で終わりました。
16世紀にプロテスタントに改宗。三十年戦争時には皇帝軍の傭兵隊長ヴァレンシュタインに公位を奪われました。戦後のヴェストファーレン条約によってシュヴェーリンとラーツェブルクの司教領を得たものの、政治的な地位は弱まりました。また、18世紀にグーツヘルシャフトに基づく貴族領主(ユンカー)の力が強まり、身分制国家体制が遅くまで維持されました。
1701年に分家のシュトレリッツとの間で結んだハンブルクの和約によって、シュヴェーリンとシュトレリッツの二国に完全に分裂(それまでは一族が公国を分割統治する形でした)。神聖ローマ帝国解体後は、一族のシュトレリッツと共にライン同盟に参加(1808年)。ナポレオン体制崩壊後の1815年に大公国に昇格しました。
|
|
|
Mecklenburg
|
|
|
|
【メクレンブルク】
金地に銀色の角を持ち、金色の冠をかぶり、歯をむいた黒い雄牛の頭部。13世紀に登場した紋章で、13世紀末あるいは14世紀初頭から首が描かれるようになりました。初期の紋章では牛の角は頭部と同じく黒色で、15世紀末から銀色に変更されました。
In Gold ein goldgekroenter, silbern (bis 15
Jahrhundert schwarz) gehoernter, schwarzer
Stierkopf mit abgerissenem Hallsfell und
aufgerissenem Maule.
|
|
|
15. Jh.-19. Jh.
|
|
|
|
【15世紀〜19世紀】
15世紀に入ると、鼻輪が描き加えられ、角も黒色から銀色に変更されました。18世紀には冠も赤色に固定しました。鼻輪の描かれた紋章は、メクレンブルクがドイツ帝国に参加するまで使用されました。
Der Stierkopf erhiert einen Nassenring, sirberne
Hoerner und (seit 18. Jh.) eine rote Krone.
|
|
|
14 Jh.
|
|
|
|
【14世紀後半】
組まれているのは、メクレンブルク、シュヴェリン、ロストク。
1357年にシュヴェーリン伯オットー1世が没すると、弟のテクレンブルク伯ニコラウス1世は、シュヴェーリン伯領をメクレンブルク公アルブレヒト2世に売却しました(1358年)。
1. Hzm. Mecklenburg, 2. Gft. Schwerin, 3. H.
Rostock.
|
|
|
Albrecht III. (1384-1412)
|
|
|
|
【アルブレヒト3世】
組まれているのは、スウェーデン、メクレンブルク、シュヴェリン、ロストク。それまでの紋章にスウェーデンが加わった形です。
1364年に叔父マグヌス2世を追放した貴族達によってスウェーデン王に迎えられました。翌年、復位をねらうマグヌス6世の攻撃を撃退。しかし、徐々に権威を失い、マグヌス2世の息子ホーコン6世(スウェーデン兼ノルウェー王)の妃だったデンマーク女王マルグレーテ1世を支持した貴族達によって王を廃位されました。メクレンブルク公には弟マグヌス1世の跡を継ぐ形で即位しました(在位1384−1412)。
Albrecht III.
(1340?-1412)
Der zweite Sohn des Herzogs Albrecht II.
1364-1389 Koenig von Schweden
1384-1412 Herzog zu Mecklenburg
|
|
|
1483-1648
|
|
|
|
【15世紀末〜17世紀
】
中央の小盾はシュヴェーリン伯領。背後の盾はメクレンブルク、ロストク、シュタルガルト、ヴェルレ。
マグヌス2世(在位1479−1503)の時にシュタルガルトとヴェルレの紋章が加わりました。
1352年にメクレンブルク=メクレンブルクはシュヴェーリンとシュタルガルトの2系統に分かれました。1471年にシュタルガルトが絶えて再統合がなされたため、両系統の紋章が組み合わせられました。ただし、シュタルガルトの紋章は1483年に初めて登場するそうです。また、袖が描き込まれるようになるのは時代が下がってからです。
ヴェルレは13世紀前半にメクレンブルから分かれた家系です。複数の家系がありましたが、いずれも15世紀までに断絶し、領土はシュタルガルトに吸収されました。
|
|
|
1648-
|
|
|
|
【1648年以降】
三十年戦争終結時のヴェストファーレン条約によって、シュヴェーリンとラーツェブルクの二つの司教領が世俗侯国となり、メクレンブルクに編入されました。その結果、両司教領の紋章が組み込まれました。
|
|
|
|
|
【メクレンブルク=リュトレリッツ大公国】 Grossherzogtum
Mecklenburg-Strelitz
|
|
|
Wappen (19. Jh.) :
Einmal gespalten und zweimal geteilt mit
Herzschild.
Herzschild : Gft. Schwerin.
Hauptschild : 1. Hzm. Mecklenburg, 2. H. Rostock,
3. Fsm. Schwerin, 4. Fsm. Ratzeburg, 5. H.
Stargard, 6. Fsm. Werle (oder Wenden).
1658 entstand (Teil von Mecklenburg-Schwerin)
1701 Hamburger Vergleich, Herzogtum
Mecklenburg-Strelitz
1815 Grossherzogtum
|
|
紋章の構成はメクレンブルク=シュヴェーリンと同じですが、ラーツェブルクの紋章の冠が十字架と接しないことや、シュタルガルトの紋章のバンドが手首に結ばれないなど、細部に違いがあります。また、国章では盾の下部の輪郭やメクレンブルクのクレストのデザインが異なるなど、いくつか違いがありました。
1658年にメクレンブルク=シュヴェーリンから分かれた公国で、1695年にメクレンブルク=ギュストローが絶えると、その継承をめぐってシュヴェーリンと紛争が勃発。1701年に結ばれたハンブルクの和約によって、ベルリン北方のノイシュトレリッツやノイブランデンブルク一帯、リューベックの南方の旧ラーツェブルク司教領を領土とする、シュヴェーリンとは完全に分離した国家となりました(総面積はシュヴェーリンの約五分の一)。神聖ローマ帝国解体後も主権を維持し、1808年にライン同盟に参加。ナポレオン体制崩壊後の1815年にシュヴェーリンと共に大公国に昇格し、1918年のドイツ革命まで続きました。
|
|
|
|
|
【マイセン辺境伯領】 Markgrafschaft
Meissen (928-1423)
|
|
|
金地に黒色のライオン。
高級磁器で有名なマイセンは、東フランク王ハインリヒ1世(オットー大帝の父)によって建設され、同時に辺境伯が置かれました。
辺境伯の地位は、その後、諸家の間を転々としますが、大辺境伯コンラート(在位1123−1156)以後はヴェッティン家がその地位を保持しました。
ヴェッティン家は1264年にテューリンゲン方伯領を相続し、
ニーダーラウジッツ辺境伯、ザクセン宮中伯などを兼ね、さらにアスカニエル系ザクセン選帝侯家の断絶によってザクセン選帝侯位を獲得(1423年)、勢力を拡大していきます。
マイセン辺境伯は神聖ローマ帝国成立時からの帝国諸侯に名を連ねていました。
|
|
|
ランツベルク辺境伯領(正確には領主領)の紋章が加わりました。
この紋章はライプツィヒの市章に採用されているほか、ドレスデンもランツベルクの縦帯の青を黒に変更して市章としています。
ハインリヒ3世(在位1221−1288)の息子ディートリヒはランツベルク辺境伯を称しました。
Später : gespalten vorn in Gold ein schwarzer Löwe
(Mgft. Meissen), hinten in Gold zwei blaue Pfähle
(Mgft. Landsberg).
|
|
|
|
|
【メルゼブルク司教領】 Hochstift
Merseburg
|
|
In Gold ein schwarzes Kreuz.
968 Bistum gegründet
1565 zu Kursachsen
|
|
|
|
|
金地に黒の十字。
メルゼブルクはライプツィヒの西方にある都市で、800年頃に対スラブ防衛の拠点として建設されました。司教領は968年に設置された司教座を中心に発展してきました。しかし、15世紀末からたびたび諸侯の管轄下におかれ、1561年以降はプロテスタントのザクセンによって管理されました。1565年に世俗化され、領土はザクセン選帝侯国に編入されました。
1656年にザクセン=メルゼブルク公国が成立しますが、1738年に断絶。再び選帝侯国の一部となりました。
メルゼブルク教会図書館には、キリスト教化以前の内容を綴った唯一のドイツ語文献「メルゼブルク呪文(Merseburger
Zaubersprueche)」が保管されています。
|
|
|
|
|
|

|
|
|
|
|