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16世紀前半のオーストリア=ハプスブルク家領
アルザス・シュヴァーベンを除く神聖ローマ帝国内の領土です。
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掲載一覧です
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世襲宮内官の紋章
オーストリア大公領
ケルンテン公国
クライン公国
シュタイアーマルク公国
ティロル伯領
ウィーン司教領・大司教領
ザルツブルク大司教領
ザルツブルク選帝侯国
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ボヘミア王国
上ラウジッツ辺境伯領
下ラウジッツ辺境伯領
プラハ大司教領
モラヴィア辺境伯領
ブリュン司教領
オルミュッツ司教・大司教領
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シュレージェン公国
シュレージェン=リークニッツ公領
シュレージェン=ミュンスターベルク公領
シュレージェン=ヴュルテンベルク=エールズ公国
ブレスラウ司教領
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Amtskennzeichen der Aemter
Oesterreich
(Ehzm.)
Kaernten
(Hzm.)
Krain (Hzm.)
Steiermark
(Hzm.)
Salzburg
(Erzbm.)
Salzburg
(Kfsm.)
Tirol
(Gft.)
Wien (Bm, Erzbm.)
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Boehmen /
Tschech (Kgr.)
Oberlausitz
(Mgt.)
Niederlausitz (Mgt.)
Prag / Praha
(Erzbm.)
Maehren/ Morava
(Mgt.)
Bruen / Brno (Bm.)
Olmuetz / Olomouc
(Bm, Erzbm.)
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Schlesien
(Hzm.)
Schlesien-Liegnitz
(Hzm.)
Schlesien-Muensterberg
(Hzm.)
Schlesien-Wuerttenberg-Oels
(Hzm.)
Breslau / Wroclaw
(Bm.)
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Abkuerzungen :
Kgr.= Koenigreich, Ghzm.= Grossherzogtum,
Ehzm.=Erzherzogtum, Hzm.= Herzogtum,
Kfsm.= Kurfuerstentum, Fsm.=
Fuerstentum
Mgft.= Markgrafschaft, Lgft.=
Landgrafschaft, Bgft.=Burggrafschaft,
Fgft.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft,
Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.=
Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum
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- オーストリア宮内官職の紋章 Amtskennzeichen
der Aemter
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神聖ローマ帝国の宮内官職と同様に、その職位を表す紋章がありました。
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Mundschenk
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【献酌侍従】
青地に蓋が被せられた金色のカップ。
バルト・フォン・バルテンハイム家が世襲しました。
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Erbtruchsess
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【大膳職】
クッションの上の帝国宝珠。
シェーンボルン=ブーフハイム家が世襲しました。
Ein Feld von Hermelin mit dem blauen Reichsapfel
mit goldenem Kreuz und goldener Spange auf rotem
Kissen.
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【オーストリア大公領領】 Erzherzogtum
Oesterreich
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Erzherzogtum Oesterreich
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【オーストリア】
赤地に銀色の横帯。1230年が初見の紋章です。由来については諸説ありよくわかっていません。伝説では、十字軍に参加したオーストリア公レオポルト5世(在位1177−94)がアッコンの戦いにて奮戦し、羽織っていた白の陣羽織が敵の返り血で真っ赤に染まりましたが、結んでいた帯の部分だけが白く残ったという故事に因んで制定されたと言われます。
元々はバイエルン公領の一部で、976年に辺境伯領として設置されました。入封したバーベンベルク家によって国造りが進められ、1156年にそれまで属していたバイエルン公領から完全に切り離されて独立の公国となりました。1246年にバーベンベルク家が絶えるとボヘミア領となりますが、1278年、ボヘミア王オトカル2世を破って神聖ローマ王位を得たハプスブルク家に渡りました。
オーストリアの国旗はこの紋章に由来します。
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Erzherzogtum Oesterreich ob der
Enns
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【上オーストリア】
黒地に舌の赤い金色の鷲。および銀赤の4つの縦分割図形。
13世紀にオーストリア領となりました。13世紀から14世紀にかけて一帯に勢力を持っていた領主の紋章に由来すると言われています。
Gespalten, vorne in Schwarz ein rot gezungter
goldener Adler, hinten dreimal gespalten von Silber
und Rot.
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Erzherzogtum Oesterreich unter der
Enns
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【下オーストリア】
青地に5羽の金鷲。
1156年に公国として成立し、1282年にオーストリア領となりました。かつてこの地を治めていたバーベンベルク家の紋章に由来すると言われます。下オーストリアの紋章として最初に使われたのは1335年だそうです。
In Blau fuenf 2:2:1 gestellte goldene Adler.
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1496-
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【オーストリア大公】1496年−1780年
オーストリアとブルゴーニュ(古)の組み合わせ。
オーストリア大公マクシミリアンとブルゴーニュ女公マリーの結婚以後、ハプスブルク家の紋章となりました。
Gespalten, vorne in Rot ein silberner Balken
(Oesterreich), hinten im roten schildbord fuenffach
von Gold und Blau schraeg geteilt (Burgund).
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1780-
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【オーストリア大公】1780年−1806年
オーストリアとロートリンゲンの組み合わせ。
1740年にハプスブルク家の男系は途絶し、女大公マリア・テレジアの夫君フランツ1世のロートリンゲン公家と合同しました。
この紋章はマリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世以降のハプスブルク家の紋章となりました。
Gespalten, vorne in Rot ein silberner Balken
(Oesterreich), hinten in Gold ein mit drei
silbernen gestuemmelten Adlern belegter roter
Schraegbalken (Lothringen).
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1806-
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【オーストリア大公】1806年−現在
ハプスブルク、オーストリア、ロートリンゲンの組み合わせ。
神聖ローマ帝国が解体すると、ハプスブルクの紋章が小紋章に復活しました。
ハプスブルク家揺籃の地ハプスブルク伯領は中世末以降スイス領で、オーストリア帝国に属したことはありませんでしたが、皇帝家はハプスブルク伯(オーストリア帝国時代はハプスブルク侯)を強調しました。
この構成は19世紀以降のハプスブルク家の小紋章となりました。
Zweimal gespalten, 1. in Gold ein blau bewehrter,
gezungter und gekroenter roter Loewe (Habsburg), 2.
in Rot ein silberner Balken (Oesterreich), 3. in
Gold ein mit drei silbernen gestuemmelten Adlern
belegter roter Schraegbalken (Lothringen).
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- 歴代大公
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Maximilian I. (1496-1519)
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【オーストリア大公】マクシミリアン1世(在位1496−1519)
中央の小盾はフランドルとティロル。背後の盾は縦に大きく二分され、向かって左側がオーストリア大公、右側がブルゴーニュ公となっています。構成は、左半分は下オーストリア、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン、クライン。右半分はブルゴーニュ(新)、ブルゴーニュ(古)&ブラバント、ブルゴーニュ(古)&リンブルク、ブルゴーニュ(新)。
金羊毛騎士団メンバーの肖像画に描かれていた紋章です。ブルゴーニュ女公マリーとの結婚紋章のように見えますが、ティロルの紋章が加わっているので、マリー没後の紋章かも知れません。詳細不明です。
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Maximilian I.
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【オーストリア大公】マクシミリアン1世(在位1496−1519)
ブルゴーニュ女公マリー(在位1477−84)との結婚によって両家は合同し、紋章も組み合わせられました。オーストリアとブルゴーニュの組み合わせは、マリア・テレジアの時代までハプスブルク家の紋章とされました。
皇帝としてのマクシミリアン1世は、双頭の鷲の胸にはオーストリアのみの紋章盾を掲げましたが、個人紋はオーストリアとブルゴーニュの組み合わせを用いました。
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Karl I. (1519-1521)
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【オーストリア大公】カール1世(在位1519−21)
スペインとブルゴーニュの組み合わせ。
皇帝としてはカール5世です。神聖ローマ皇帝やスペイン王の他にもナポリ王やシチリア王、ブルゴーニュ公など多くの君主を兼ねていました。そのため、紋章も巣は支配地域や時代によって多くのバリエーションがありました。
祖父マクシミリアン1世からハプスブルク家領を相続したカール5世は、祖父存命時の取り決めに従ってオーストリア大公位を弟フェルディナントに譲ったので、在位は短期間でした。
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Ferdinand I. (1521-1564)
bis 1526
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【オーストリア大公】フェルディナント1世(在位1521−64)
ブルゴーニュとスペインの組み合わせ。
スペイン生まれのフェルディナント1世は、自身の称号に「スペイン王子」を加えていました。けれども紋章では、兄やスペイン王家とは異なり、ブルゴーニュ(オーストリア)がスペインの優位に組まれました。
1521年に兄カール5世からオーストリアとティロルを譲られました。その後、義兄のハンガリー王ラヨシュ2世の戦死でハンガリーとボヘミア王位を相続。さらに、兄から神聖ローマ王に推挙され、ドイツ問題の処理を一任されました。
兄が退位すると神聖ローマ皇帝となりました。
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Ferdinand I. (1521-1564)
1526-
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【オーストリア大公】フェルディナント1世(在位1521−64)
1526年以降の紋章です。
背後の盾はハンガリーとボヘミア。中間の盾はブルゴーニュ公とスペイン王の組み合わせ。中央の小盾はブルゴーニュ公(フランドル伯とティロル伯)。
1526年に義兄ラヨシュ2世の戦死によってハンガリーとボヘミアを相続し、両王国の紋章が加わりました。
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Rudolph V. (1576-1612)
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【オーストリア大公】ルドルフ5世(在位1576−1612)
神聖ローマ皇帝としてはルドルフ2世です。
中心の小盾はオーストリア。中間の盾は、ブルゴーニュ、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、ティロル伯。背後の盾は、上半分の3段がハンガリー、ボヘミア、カスティーリャ、レオン、アラゴン、シチリア、ヴュルテンベルク公、シュヴァーベン公、ブルガウ辺境伯、ハプスブルク伯。下半分は盾地が3つに分割され、向かって左は、クライン公、プフィルト伯、エルザス(アルザス)方伯。向かって右は、キーブルク伯、ゴリツィア伯、上オーストリア。中央下はヴィンディッシェ・マルク、ツィリ伯(青地に三つの金星と銀地に赤い二本の横帯)、マルク・ポルテナウ(ポルデノーネ)。
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Erzherzog von Oesterreich, Graf
von Tirol, Herzog der Steirmark u.
Kaernten
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【オーストリア大公兼ティロル伯他】
ティロル伯その他としての紋章です。
中央の小盾はオーストリア、ブルゴーニュ(古)、ティロル、ハプスブルク。背後の盾は、最上段がハンガリー、ボヘミア、二段目がカスティーリャ、レオン、アラゴン、シチリア。三段目がシュタイアーマルク、ケルンテン、クライン、ゴリツィア。四段目以下は三つに分割された領域を更に三分割して紋章を組み込んでいます。向かって左はブルガウ、シュヴァーベン、プフィルト。向かって右は、アルザス、キーブルク、ツィリ。中央下段は上オーストリア、下オーストリア、ヴィンディッシェ・マルク。
背後のバトンの両端面に描かれた紋章は、向かって左上から右下へ順にブルゴーニュ(古)、ブルゴーニュ(新)、フランドル、ブラバント。
ジープマッハーの紋章図鑑から書写しました。皇帝フェルディナント1世の次男フェルディナント2世の紋章に構成がよく似ているので、フェルディナント2世の紋章のバリエーションと思われます。
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Joseph I. (1705-1711)
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【オーストリア大公】ヨーゼフ1世(在位1705−11)
構成はルドルフ2世の紋章と同じです。
1687年に538人目の金羊毛騎士団員に登録されました。
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Karl II. (1711-1740)
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【オーストリア大公】カール2世(在位1711−40)
皇帝としてはカール6世です。
背後の盾はスペイン、ハンガリー、ボヘミア、ブルゴーニュ。ハンガリーの紋章は古い紋章のみを使っていますが、ハンガリー王としてのカール6世(カーロイ3世)は、新旧の紋章を組み合わせています。
スペイン継承戦争で王位に手が届きかけたカール6世は、兄ヨーゼフ1世の急死でスペイン王位を諦めます。しかし、その後もスペイン王位を主張し、紋章にもスペインを優位に組みました。カール6世以後の歴代のハプスブルク家当主も、神聖ローマ帝国解体までスペイン王を公式称号に取り入れました。
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Maria Theresia
(1740-1780)
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【オーストリア女大公】マリア・テレジア(在位1740−80)
大紋章の構成です。
中央の小盾はオーストリア。背後の盾はダルマチア、ハンガリー、スペイン(カスティーリャ&レオン&アラゴン&シチリア)、ボヘミア、クロアチア、クライン、ブルゴーニュ、ミラノ、シュタイアーマルク、ティロル、シュヴァーベン、ロートリンゲン、トランシルヴァニア、ゴリツィア。
紋章年鑑ではハンガリー王の紋章と紹介されていますが、オーストリア女大公の紋章です(年鑑の紋章図が描かれた当時、彼女の保有する称号中、実効性のある最高称号がハンガリー女王でした)。
オーストリア以外の領土では、紋章の組み方に若干の変更がありました。
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Maria Theresia (variante)
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【オーストリア女大公】マリア・テレジア(2)
中央の小盾はオーストリア大公。背後の盾はハンガリー王、ボヘミア王、ブルゴーニュ公、ティロル伯です。ハプスブルク家が所有する代表的称号の組み合わせになっています。
治世前半期に使われた紋章です。広大な所領を持っていたハプスブルク家は、領土ごと、または時期によって紋章の組み合わせを変えて使用しました。マリア・テレジアも数種類の紋章を使い分けていました。
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Maria Theresia (variante)
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【オーストリア女大公】マリア・テレジア(3)
夫フランツ1世の没後に登場する紋章です。双頭の鷲の胸の部分に描かれた紋章盾です。ハンガリーの紋章が変更され、新旧ハンガリーの紋章の組み合わせになり、ティロル伯領の紋章が上オーストリア大公領の紋章に置き換えられました。盾にはオーストリア、ハンガリー、ボヘミアの冠が載せられています。
マリア・テレジアはこの年以降、上オーストリアの位置に異なる紋章を組んだ紋章を複数使い分けています。この紋章はオーストリア大公領に対して用いた紋章と思われます。
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Joseph II. (1746-1790)
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【オーストリア大公】ヨーゼフ2世(在位1760−90)
双頭の鷲の胸の部分に描かれた紋章盾です。
中央の小盾がオーストリアとロートリンゲンの組み合わせに変わりました。背後の盾の向かって右下はトスカーナ大公の紋章。トスカーナ大公国はメディチ家断絶後、ヨーゼフ2世の父フランツ1世が相続しました。ヨーゼフ2世の時代は、彼の弟ペーター・レオポルド(後の皇帝レオポルト2世)が統治していました。
この紋章はフランツ2世(在位1792−1806)も用いました。
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Franz Joseph I.
(1848-1916)
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【オーストリア大公】フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848−1916)。
中央の小盾はハプスブルク、オーストリア、ロートリンゲン。背後の盾は、ハンガリー、ボヘミア、ガリチア&ロドメリア、下オーストリア。
3月革命で退位したフェルディナント1世の跡を継いだフランツヨーゼフの紋章です。ロンバルド=ヴェネト王国を失ってからの紋章になります。
オーストリア皇帝やハンガリー王、ロンバルド=ヴェネト王としては左とは異なる紋章を用いました。
この紋章は19世紀後半以後のハプスブルク家の基本紋章となっていました。
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【ケルンテン公国】 Herzogtum
Kaernten
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金地に3頭の歩き姿の黒いライオンとオーストリアの組み合わせ。13世紀、シュポンハイム(シュパンハイム)家の時代に登場しました。
976年のバイエルン公領の分割によって誕生した諸邦の一つで、成立以来、統治者がめまぐるしく交替しました。1276年、ハプスブルク家の神聖ローマ王ルドルフ2世が公国を獲得しました。ルドルフ2世の没後はティロル伯の手に渡りますが、伯家の断絶によって再びハプスブルク家の領土となり、以後、第一次大戦までハプスブルク家が支配しました。
ハプスブルク領となってからも、ケルンテンはオーストリアとは別個の公国として扱われました。1619年、ケルンテン公フェルディナントが神聖ローマ皇帝となったため、以後はオーストリアと連合しました。
Gespalten, vorne in Gold drei schwarze rot gezungte
und silbern bewehrte schreitende Loewen
uebereinander, hinten in Rot ein silberner
Balken.
975 Herzogtum entstand (Teil von Herzogtum
Bayern)
1619 Union mit dem Erzherzogtum Oesterreich
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- 歴代公 Herzoege
von Kaernten
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Maximilian I. (1496-1519)
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【ケルンテン公】マクシミリアン(在位1496−1519)
皇帝マクシミリアン1世の紋章です。組まれているのは、ケルンテン、オーストリア、シュタイアーマルク、クライン。ケルンテンは反転されています。
Geviert, 1. Hzm. Kaernten, 2. Ehzm. Oesterreich, 3.
Hzm. Steiermark, 4. Gft. Krain.
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Karl I. (1519-1521)
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【ケルンテン公】カール(在位1519−21)
皇帝カール5世の紋章です。中央の小盾はカスティーリャ、シチリア、ブルゴーニュ、アラゴン。背後の盾はオーストリア、ケルンテン、シュタイアーマルク、クライン。小盾のカスティーリャとアラゴンはスペインを、シチリアはナポリとシチリアをおそらく代表させていて、スペイン王を表現しているようです。
祖父マクシミリアン1世の跡を継ぎました。しかし、祖父から相続した領土はすぐに弟フェルディナント1世に譲渡。在位は短期間でした。
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : geviert, 1. Kgr. Kastilien, 2. Kgr.
Sicilien, 3. Hzm. Burgund, 4. Kgr. Aragon.
Hauptschild : 1. Ehzm. Oesterreich, 2. Hzm.
Kaernten, 3. Hzm. Steiermark, 4. Gft. Krain.
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Karl (1564-1590)
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【ケルンテン公】カール(在位1564−90)
背後の盾の構成はハンガリー、ボヘミア、オーストリア、ブルゴーニュ、シュタイアーマルク、クライン、ゲルツ(ゴリツィア)。
神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の息子で、ケルンテン、シュタイアーマルク、クラインなどを相続しました。皇帝フェルディナント2世の父親にあたります。
1585年、254人目の金羊毛騎士に登録されました。
Einmal gespalten und zweimal geteilt mit Herzschild
und einer unten eingepfropfen Spitze.
Herzschild : Hzm. Kaernten.
Hauputschild : 1. Kgr. Ungarn, 2. Kgr. Boehmen, 3.
Ehzm. Oesterreich, 4. Hzm. Burgund, 5. Hzm.
Steiermark, 6. Gft. Krain, 7. Gft. Goerz.
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Karl (variante)
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【ケルンテン公】カール(在位1564−90)
小紋章ではハンガリー、ボヘミア、ブルゴーニュが削られた構成です。
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【クライン公国】 Herzogtum
Krain
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銀地にくちばしと足の赤い青鷲。胸に赤金で分割された三日月。
14世紀から使用されましたが、正式に定まったのは1463年だそうです。
In Silber ein gold gekroenter, rot bewehrter und
gezungter blauer Adler belegt mit einer gold-rot
geschachten Sichel.
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【シュタイアーマルク公国】 Herzogtum
Steiermark
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緑地に炎を吐く銀色のパンサー。紋章は13世紀の初めに登場しました。
1056年に辺境伯領として設置され、1180年に公国に昇格しました。1278年に神聖ローマ王ルドルフ2世によって征服され、以後ハプスブルク家の領土となりました。公国はオーストリアとは別個の領邦として扱われましたが、シュタイアーマルク公フェルディナントが神聖ローマ皇帝になったため、以後連合しました。第一次大戦後、領土の大部分が旧ユーゴスラビアに編入されました(現在はスロベニア領)。
In Gruen ein rot bewherter und gehoernter, Flammen
speiender silberner Panther.
1056 Markgrafschaft
1180 Herzogtum
1619 Union mit dem Erzherzogtum Oesterreich
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1926-
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【シュタイアーマルク州】
現在のオーストリア・シュタイアーマルク州の紋章で、1926年に制定されました。図案はシュタイアーマルク公の紋章がそのまま採用され、盾の上には古いオーストリア大公帽が載せられました。
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- 歴代公 Herzoege
von Steiermark
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Karl II. (1564-1590)
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【シュタイアーマルク公】カール2世(在位1564−90)
中央の小盾はシュタイアーマルク。背後の盾はハンガリー、ボヘミア、オーストリア、ブルゴーニュ(古)、ケルンテン、クライン、ゲルツ(ゴリツィア)。
神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の息子で、ケルンテン、シュタイアーマルク、クラインなどを相続しました。紋章構成はケルンテン公としての紋章とほぼ同じで、違いはシュタイアーマルクとケルンテンの紋章の位置が入れ替わっていることです。
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Ferdinand II. (1590-1637)
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【シュタイアーマルク公】フェルディナント2世(在位1590−1637)
後の皇帝フェルディナント2世で、紋章構成は父親のカール2世と同じです。なお、クラインはフェルディナント2世の即位と同時に公国に昇格しました。
1617年、皇帝マティアスの後継者としてボヘミア王に即位。しかしボヘミアの対プロテスタント政策で強硬姿勢を打ち出したため叛乱が起こり、神聖ローマ皇帝の選挙中にボヘミア王を廃位されました。この事件を嚆矢として三十年戦争が起こります。
1596年に後の皇帝マティウスと共に金羊毛騎士に登録されました。
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Karl III. (1711-1470)
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【シュタイアーマルク公国】カール3世(在位1711−40)
神聖ローマ皇帝としてはカール6世です。
背後の盾はスペイン(カスティーリャ)、ハンガリー、ボヘミア、オーストリア&ブルゴーニュ。
1697年に588人目の金羊毛騎士に登録されました。
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Maria Theresia
(1740-1780)
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【シュタイアーマルク女公】マリア・テレジア(在位1740−80)
中央の小盾はシュタイアーマルク。背後の盾はダルマチア、ハンガリー、カスティーリャ&レオン&アラゴン&シチリア、ボヘミア、クロアチア、クライン。オーストリア、ブルゴーニュ、ミラノ、ティロル、シュヴァーベン、ロートリンゲン、トランシルヴァニア、ゴリツィア。
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【ザルツブルク大司教領】 Erzstift
Salzburg
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Wappen :
Gespalten, vorne in Gold ein rot gezungter
schwarzer Loewe, hinten in Rot ein
silberner Balken.
798 Erzbistum
1802 saekularisiert
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金地に黒色のライオンとオーストリアの組み合わせ。
8世紀初頭に成立した使徒座司教領が起源で、798年に大司教座に昇格しました。
1802年に世俗化され、パッサウなど旧聖職諸侯領と併せてザルツブルク選帝侯国となり、神聖ローマ帝国解体後はオーストリア帝国に編入されました。
世俗化時の大司教ヒエロニムス(作曲家モーツアルトが仕えた人物)の没後は空位となりましたが、宗教上の教区としては存続し、1823年に大司教が再任され、現在に至ります。
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- 歴代大司教 Fuersterzbischoefe
von Salzburg
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Matthias Lang von Wellenburg
(1519-1540)
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【ザルツブルク大司教】マティアス(在位1519−40)
大司教の実家ヴェレンブルク家(ラング家)の紋章との組み合わせ。ヴェレンブルク家の紋章は、2種類の紋章を縦割りして組み合わせています。銀地に赤色の(十字形の)花は、ヒメハギの仲間をかたどったものだそうです。
マティアスはアウグスブルクの都市貴族の出身で、皇帝マクシミリアン1世から世襲貴族の地位とヴェレンブルクの家名を与えられました。家名は彼の父が相続した宮殿の名前に由来します。
グルク司教やスペインのカルタヘナ司教を兼ねました。また、枢機卿に任ぜられ、1535年からは枢機卿直轄司教区であるアルバーノ司教にも就任しました。
Matthias Lang von Wellenburg
(1468-1540)
1505-1522 Fuerstbischof von Gurk
1510-1540 Bischof von Cartagena
1511 Kardinal
1519-1540 Fuersterzbischof von Salzburg
1535-1540 Kardinalbischof von Albano
Feld 2 u. 3 : Familienwappen Lang von
Wellenburg.
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Georg von Kuenburg
(1586-1587)
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【ザルツブルク大司教】ゲオルク(在位1586−87)
大司教の実家キュンブルク家の紋章との組み合わせ。
向かって右上の赤銀地に描かれた球の紋章がキュンブルク家一族の紋章です。向かって左下の紋章はドア金具あるいは攻城用の錨をかたどったものです。
キュンブルク家出身の三人の大司教のうちの一人で、ミカエル(在位1554−60)の甥にあたります。
Georg von Kuenburg
(1530-1587)
Neffe des Erzbischofs Michael von Salzburg.
1580-1586 Koadjutor des Erzbischofs von
Salzburg
1586-1587 Fuersterzbischof von Salzburg
Feld 2 u. 3 : Familienwappen Kuenburg.
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Guidobald von Thun-Hohenstein
(1654-1668)
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【ザルツブルク大司教】グイドバルト(在位1654−68)
大司教の実家トゥン=ホーエンシュタイン伯家の紋章との組み合わせ。大司教の紋章との組み合わせ方にはバリエーションが認められます。
トゥン=ホーエンシュタインの紋章の中央に組まれている小盾は、オーストリアではなくカルデスの紋章で、トゥン一族の紋章です。トゥン家はティロル出身の貴族で、一族から多数の高位聖職者を出しました。
Guidobald Reichsgraf von
Thun-Hohenstein (1616-1668)
Der erste Sohn des Grafen Johann Sigismund von Thun
u. Hohenstein.
1645-1654 Generalvikar in Salzburg
1654-1668 Fuersterzbischof von Salzburg
1667-1668 Fuerstbischof von Regensburg
1667 Kardinal
Herzschild
: Caldes (Familienwappen Thun).
Hauptschild : Geviert, 1 u. 4. Stammwappen Thun, 2
u. 3. Monreale (Familienwappen Thun).
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Maximilian Gandolf von Kuenburg
(1668-1687)
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【ザルツブルク大司教】マクシミリアン・ガンドルフ(在位1668−87)
大司教の実家キュンブルク男爵家の紋章との組み合わせ。盾地を6個に分割し、上部にザルツブルクの紋章を置き、その下にキュンブルク家の紋章を組んでいます。
キュンブルク家(1665年に伯に昇爵)出身者としては三人目の大司教です。1683年にトルコ軍がウィーンを包囲すると、防衛のために大司教領の軍隊や物資・資金の提供を申し出、また包囲直前にウィーンを脱出した皇太后エレオノーレ(皇帝フェルディナント3世の妃)を保護しました。
Maximilian Gandolf Reichsgraf
von Kuenburg (1622-1687)
Sohn des Freiherrn Reinprecht von Kuenburg.
1654-1664 Fuerstbischof von Lavant, Generalvikar
fuer Ober- und Unterkaernten
1665-1668 Fuerstbischof von Seckau (1664-1665
Administrator)
1668-1687 Fuersterzbischof von Salzburg
1686 Kardinal
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Johann Ernst von Thun-Hohenstein
(1687-1709)
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【ザルツブルク大司教】ヨハン・エルンスト(在位1687−1709)
大司教の実家トゥン=ホーエンシュタイン伯家の紋章との組み合わせ。同じトゥン=ホーエンシュタイン家出身の大司教グイドバルトと同じ紋章です。
グイドバルトの異母弟です。はじめゼッカウ司教で(在位1679−87)、1687年にザルツブルク大司教に転出しました。後任のゼッカウ司教には実兄ルドルフが選ばれました。
教皇インノチェンチウス12世を後ろ盾とする聖堂参事会との主導権争いを長年に渡って繰り広げ、ついには自身の権力基盤の強化に成功します。その権力基盤の将来の保証として、大司教代理にウィーン司教のフランツ・アントンを、聖堂参事会の意向に反して指名しました。
Johann Ernst Reichsgraf von
Thun-Hohenstein (1643-1709)
Kleiner Bruder des Erzbischofs Guidobald von
Salzburg.
1679-1687 Fuerstbischof von Seckau, Generalvikar
fuer die Steuermark und den Neustaedter
Distrikt
1687-1709 Fuersterzbischof von Salzburg
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Franz Anton von Harrach
(1709-1727)
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【ザルツブルク大司教】フランツ・アントン(在位1709−27)
大司教の実家ハーラハ侯家の紋章との組み合わせ。
1685年にパッサウ司教座教会聖堂参事会員となったのを皮切りに、各地の聖職録を受け、1702年にウィーン司教に就任します。
しかし、1705年にザルツブルク大司教ヨハン・エルンストから大司教代理に指名されるとウィーン司教を辞し、その職務に傾注し、ヨハン・エルンストが没すると、大司教に選出されました。
Franz Anton Reichsgraf von
Harrach zu Rorau (1665-1727)
Der zweite Sohn des Grafen Ferdinand Bonaventura
von Harrach zu Rohrau u. Thannhausen.
1692-1696 Passauer Generalvikar fuer das Land ob
der Enns.
1702-1706 Fuerstbischof von
Wien (1701-1702 Koadjutor)
1706-1709 Koadjutor des Erzbischofs von
Salzburg
1709-1727 Fuersterzbischof von Salzburg
Hauptschild : Familienwappen Harrach
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Jakob Ernst von
Liechtenstein-Castelkorn
(1745-1747)
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【ザルツブルク大司教】ヤーコプ・エルンスト(在位1745−47)
司教の実家リヒテンシュタイン=カステルコルン家の紋章との組み合わせ。
1728年にゼッカウ司教(在位1728−38)と、ザルツブルク司教総代理(シュタイアーマルクおよびノイシュタット管区)となり、1738年にオルミュッツ司教に就任。1745年にオルミュッツ司教を退いてザルツブルク大司教に就任しました。
Jakob Ernst Graf von
Liechtenstein-Castelkorn (1690-1747)
Sohn des Grafen Franz von
Liechtenstein-Castelkorn.
1728-1738 Fuerstbischof von Seckau, Generalvikar
fuer die Steuermark und den Neustaedter
Distrikt
1738-1745 Fuerstbischof von
Olmuetz
1745-1747 Fuersterzbischof von Salzburg
Hauptschild : Familienwappen
Liechtenstein-Castelkorn.
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Andreas Jakob von Dietrichstein
(1747-1753)
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【ザルツブルク大司教】アンドレアス・ヤーコプ(在位1747−53)
大司教の実家ディートリヒシュタイン伯家の紋章との組み合わせ。ディートリヒシュタイン家はケルンテンに発祥し、その後シュレージェンに進出した貴族で、後に帝国諸侯に列せられました。
Andreas Jakob Reichsgraf von
Dietrichstein (1689-1753)
Sohn des Grafen Maximilian Andreas von
Dietrichstein.
1479-1753 Fuersterzbischof von Salzburg
Hauptschild : Familienwappen
Dietrichstein.
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Hieronymus von Colloredo-Mels und
Waldsee (1772-1803)
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【ザルツブルク大司教】ヒエロニムス(在位1772−1803)
ザルツブルクの紋章が分割されてX字状に組まれ、中央に大司教の実家コロレド(コロレード)伯家の紋章が置かれました。コロレド伯の紋章に載せられている冠は伯爵冠です。
コロレド家はオーストリアの顕職を授かっていた名家で、数家系に分かれていました。ヒエロニムスはベルンハルト家の分家の出身です。彼の父は1763年に諸侯の地位を与えられ、また兄は断絶したザクセンのマンスフェルト侯家を相続しました。ヒエロニムスははじめグルク司教(在位1761−1772)で、ハプスブルク家の後押しによってザルツブルク大司教に就任しました。
Hieronymus Reichsgraf von
Colloredo-Mels und Waldsee (1732-1812)
Der zweite Sohn des spaeteren Fuersten Rudolf
Wenzel Philipp Leonhard Joseph I. von
Colloredo.
1762-1772 Fuerstbischof von Gurk
1772-1812 Fuersterzbischof von Salzburg
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Hieronymus von Colloredo-Mels und
Waldsee (variante)
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【ザルツブルク大司教】ヒエロニムス(在位1772−1803)
バリエーションです。盾の上部にザルツブルクの紋章、その下に大司教の実家の紋章が組まれました。こちらの紋章はザルツブルクの貨幣にも描かれました。
ヒエロニムスは啓蒙時代の典型的な君主の一人で、数々の改革に取り組みます。しかし、他の啓蒙君主の場合と同様、その理念が領民達に理解されることは少なかったそうです。また、その厳格さゆえに、当時宮廷音楽家として仕えていた作曲家モーツァルトとの仲は険悪でした。ついには喧嘩別れという形でモーツァルトはザルツブルクを飛び出してしまいます。
Hauptschild : Familienwappen Colloredo.
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【ザルツブルク選帝侯国】 Kurfuerstentum
Salzburg (1803−1806)
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中心の小盾はオーストリア、中間の盾はハンガリー、ボヘミア、ティロル、トスカーナ、ロートリンゲン、ハプスブルク。背後の盾は上段がザルツブルク、下段がアイヒシュテット、パッサウ、ベルヒテスガーデン。
ザルツブルク大司教領が世俗化されると、ベルヒテスガーデン修道院領、パッサウ司教領、アイヒシュテット司教領を併せて選帝侯国が作られ、トスカーナ大公フェルディナントに与えられました。
1806年に神聖ローマ帝国が解体するとザルツブルク選帝侯国はオーストリア帝国に編入され、フェルディナントにはヴュルツブルク大公国が代替地として与えられました。
Geteilt
mit Koeniglich gekroenter Mittelschild und
erzhersoglich gekroenter Herzschild.
Herzschild : Oesterreich.
Mittelschild : geviert 1. Ungarn, 2. Boehmen, 3.
Tirol u. Toskanien, 4. Lotheingen u. Habsburg.
Hauptschild : oben Salzburg, unten zweimal
gespalten, 1. Eichstaett, 2. Passau, 3.
Berchtesgaden.
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【ティロル伯領】 Gefuerstete
Grafschaft Tirol
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【ティロルの鷲】
翼骨(クレー・シュテンゲル)がついた赤い鷲。通称「ティロルの鷲」です。
オーストリアとイタリアにまたがる領域で、1004年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世がブレンナー地方をトリエント司教に、1027年にコンラート2世がそれ以北をブリクセン司教に与えたのが起源です。
司教達はティロル城の伯に統治を委ねたので、ティロル伯はそれを足がかりに支配領域を広げていきました。しかし、1335年に男系が途絶。跡を継いだ女伯マルガレーテ・マウルタッシュ(在位1335−63:マウルタッシュは資産家のような意味)は、息子が死んだため領土をハプスブルク家に譲渡(1363年)。この譲渡によってハプスブルク家は発展の足がかりを得ました。
なお、ティロルは爵位はそのままで諸侯の身分を与えられていました。そのため、諸侯化された伯と呼ばれます。
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1619/25-1711
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【1711年まで】
小盾にティロルを収め、背後の盾にはハンガリー、ボヘミア、オーストリア&ブルゴーニュ、シュタイアーマルク&ゴリツィア、下オーストリアが組まれました。皇帝フェルディナント2世の弟ルドルフが伯領の総督に就任した時に登場する紋章で、以後、ヨーゼフ1世までおよそ90年間用いられました。
Geviert mit Herzschild und einer unten
eingepfropften Spitze.
Herzschild : Tirol.
Hauptschild : 1. Ungarn, 2. Boehmen, 3.Oesterreich
u. Burgund, 4. Steiermark u. Goerz, 5. Oesterreich
unter der Enns.
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- 歴代伯 Grafen
von Tirol
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Ferdinand II. (1564-1595)
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【ティロル伯】フェルディナント2世(在位1564−95)。
中央の小盾にティロルの紋章をおさめ、背後の盾にはハンガリー、ボヘミア、カスティリア&レオン、オーストリア&ブルゴーニュを組んでいます。
神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の次男で、父の死後、ティロルと上エルザス(アルザス)の諸領を相続しました。
1555年に215人目の金羊毛騎士に登録されました。
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Rudolf V. (1595-1612)
( als Kaiser Rudolf II. )
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【ティロル伯】ルドルフ5世(在位1595−1612)
小盾が盾上部中央に組まれました。背後の盾は、ハンガリー、ボヘミア、レオン、ブルゴーニュ、オーストリア、カスティーリャ、ケルンテン、クライン、シュタイアーマルク、ゲルツ(ゴリツィア)、ブルガウ、シュヴァーベン、ヴュルテンベルク、下エルザス。
背後の盾上半分はオーストリアと諸王の紋章、下段上半分はオーストリア諸邦、下半分はドイツとエルザス(アルザス)にあった諸邦の紋章という構成です。
神聖ローマ皇帝としてはルドルフ2世です。1595年にオーストリア=ハプスブルク家を再統合したため、諸領土の紋章が組み合わせられました。ヴュルテンベルクは一時期ハプスブルク家が支配したので組み込まれています。
1585年に253人目の金羊毛騎士団員に登録されました。
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Leopold V.
(Statthalter: 1619-1625)
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【ティロル総督】レオポルト5世(在位1619−25)
中央の小盾はティロル。背後の盾は、ハンガリー、ボヘミア、オーストリア&ブルゴーニュ、シュタイアーマルク&ゴリツィア、下オーストリア。盾の下に並べて組んだ小盾は、シュトラースブルク司教とパッサウ司教。ティロル総督時代(1619−25)の紋章です。
皇帝フェルディナント2世の弟で、パッサウ司教(在位1605−25)、シュトラースブルク司教(在位1607−26)ほか、二つの修道院長を兼ねていました。ティロル伯だった従兄マクシミリアン(ドイツ騎士団長兼ティロル伯およびエルザス方伯)が没すると、エルザスを相続し、またティロル伯領の総督となりました。
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Leopold V.
(Souveraen: 1625-1632)
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【ティロル伯】レオポルト5世(在位1625−32)
伯時代の紋章は金羊毛騎士団章が描き加えられました。
1625年に兄フェルディナント2世からティロルを譲られると、それを機に還俗しました。
兄フェルディナント2世が目論んだハプスブルク家領の長子単独相続制に反対し、ティロル伯領の世襲相続を兄に認めさせました。彼の家系は1665年に絶えますが、左の紋章は皇帝ヨーゼフ1世(1711年没)の時代まで使用されました。
還俗時に367人目の金羊毛騎士団員に登録されました。
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Maria Theresia
(1740-1780)
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【ティロル女伯】マリア・テレジア(在位1740−80)
中央にティロルの小盾を置き、背後に諸領の紋章を組んでいます。構成はダルマチア、ハンガリー、カスティーリャ&レオン&アラゴン&シチリア、ボヘミア、クロアチア、ミラノ、オーストリア、ブルゴーニュ、クライン、トランシルヴァニア、シュタイアーマルク、ロートリンゲン、シュヴァーベン、ゴリツィア。
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Maria Theresia (variante)
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【ティロル女伯】マリア・テレジア。1765年以降。
双頭の鷲の胸の部分に描かれた紋章盾です。盾にはオーストリア、ハンガリー、ボヘミアの冠が載せられています。
この紋章は、主にティロル伯領に対して用いられたと思われます。
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【ウィーン司教領・大司教領】 Erzbistum
(bis 1721 Bistum) Wien
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Wappen:
In Rot ein silberner mit einem Tatzenkreuz
besetzer Balken.
1471 Bistum
1722 Erzbistum
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もとはパッサウ司教区に属していました。1471年に修道院から司教座に昇格し、1722年には大司教座となりました。司教は神聖ローマ帝国の聖職諸侯ではありませんでしたが、世俗の君主権を与えられていました。
神聖ローマ帝国が解体するとオーストリア領となりますが、カトリックの教区としての大司教区は存続し、今日に至っています。また、オーストリア帝国時代も世俗君主権を示す領主司教(Fuerstbischof)の称号を保持し、オーストリア貴族院の議員となっていました。
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- 歴代司教 Fuerstbischoefe
und Fuersterzbischoefe von Wien
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Wilderich von Walderdorff
(1669-1680)
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【ウィーン司教領】ヴィルデリヒ(在位1669−80)
司教の実家ヴァルダードルフ男爵家の紋章との組み合わせ。ヴァルダードルフ家は1663年に帝国騎士から男爵に昇爵しました。
Wilderich Reichsfreiherr von
Walderdorff (1617-1680)
1647-1659 Generalvikar in Mainz
1669-1680 Fuerstbischof von Wien
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Franz Anton von Harrach
(1702-1706)
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【ウィーン司教】フランツ・アントン(在位1702−06)
司教の実家ハーラハ伯家(1706年に侯に昇爵)との組み合わせ。
1701年にウィーン司教代理となり、翌年司教に選出されました。しかし、1706年には司教を退いてザルツブルク大司教代理となり、三年後の1709年にザルツブルク大司教に就任しました。
Franz Anton Reichsgraf von
Harrach zu Rorau (1665-1727)
Der zweite Sohn des Grafen Ferdinand Bonaventura
von Harrach zu Rohrau u. Thannhausen.
1692-1696 Passauer Generalvikar fuer das Land ob
der Enns.
1702-1706 Fuerstbischof von Wien (1701-1702
Koadjutor)
1706-1709 Koadjutor des Erzbischofs von
Salzburg
1709-1727 Fuersterzbischof
von Salzburg
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Christoph Bartholomaeus Anton von
Migazzi zu Wall und Sonnenthurn
(1757-1803)
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【ウィーン大司教】クリストフ・バルトロモイス・アントン(在位1757−1803)
大司教の実家ミガッツィ伯家の紋章との組み合わせ。
メヘルン大司教代理(1751−56)、ヴァイツェン司教(在位1756−57)を経てウィーン大司教に就任しました。大司教就任後の1761年に枢機卿に任ぜられ、その翌年からはヴァイツェン司教区の管理人も兼ねました(1762−86)。
Christoph Bartholomaeus Anton
Reichsgraf von Migazzi zu Wall und Sonnenthurn
(?-1803)
Der dritte Sohn des Grafen Michael Caspar Franz von
Migazzi.
1751-1756 Koadjutor des Erzbischofs von Mecheln
1756-1757 Boschof von Waizen
1757-1803 Fuersterzbischof von Wien
1761 Kardinal
1762-1786 Administrator von Waizen
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【ボヘミア(チェコ)王国】 Koenigreich
Boehmen (Krolestwo Czeskie)
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【ボヘミアのライオン】
赤地に王冠を被った二股尾の銀のライオン。舌と爪、王冠は金色です。
通称「ボヘミアのライオン」で、ボヘミア初代の王オタカル1世(在位1155−1230)が制定しました。オタカル1世以前はライオンの尾は一本でした。
ボヘミア王の紋章は現在のチェコ国章に取り入れられています。
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18. Jh.
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【18世紀】
中央の盾はオーストリアとカスティーリャ(スペイン)。背後の盾はボヘミア、モラヴィア、シュレージェン、オーバーラウジッツ&ニーダーラウジッツ。
ハプスブルク家時代の紋章です。背後の盾にボヘミアとその宗主下に置かれていた諸領地の紋章が組まれています。なお、ラウジッツ辺境伯領は1635年にザクセンに売却されましたが、紋章には残りました。
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- 歴代王 Koenige
von Boehmen
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Johann (1310-1346)
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【ボヘミア王】ヤン(ヨハン)盲目王(在位1310−46)
銀と青で分割された盾地に赤い二股尾のライオンはルクセンブルク伯の紋章です。
ルクセンブルク伯ヨハンは婚姻を通じてボヘミア王位を獲得しました。王は積極的な対外政策を推し進め、1331年にシュレージェンを獲得します。彼はまた義に篤き君主としても知られ、半盲目状態ながら百年戦争を戦うフランス王のために出陣、クレシーの戦いで戦死しました。彼の息子が「金印勅書」で有名な皇帝カール4世です。
なお、ルクセンブルクの紋章の盾地は、この時代には分割数が定まっていませんでした。
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Ferdinand I. (1526-1564)
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【ボヘミア王】フェルディナント1世(在位1526−64)
中央の小盾はオーストリアとスペイン、背後の盾はボヘミアとハンガリーを組んでいます。
兄の神聖ローマ皇帝カール5世から帝国内にあるハプスブルク家領を譲られたフェルディナント1世は、オーストリア=ハプスブルク家を興します。彼はハンガリー兼ボヘミア王ラヨシュ2世の妹と結婚していたため、王の戦死後、ハンガリーとボヘミア王に即位しました。
フェルディナントは1531年にローマ王(=神聖ローマ帝国の皇太子兼君主)に選出され、1558年に兄の後継者として皇帝に即位します。
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Maximilian II.
(1564-1576)
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【ボヘミア王】マクシミリアン2世(在位1564−76)
中央の小盾がオーストリア=ブルゴーニュの紋章に置き換わりました。
父フェルディナント1世の後を継いだマクシミリアン2世の紋章です。ルドルフ2世も同じ紋章を用いました。
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Friedrich V. (1618-1619)
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【ボヘミア王】フリードリヒ5世(在位1618−19)
中央の小盾はライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、背後の盾は、ボヘミア、モラヴィア、シュレージェン、ルクセンブルク、オーバーラウジッツ、ニーダーラウジッツ。
「ボヘミア冬王」と呼ばれたプファルツ選帝侯フリードリヒ5世の紋章です。
狂信的カトリック信者だったシュタイアーマルク公フェルディナント(のちの皇帝フェルディナント2世)の統治を嫌ったボヘミア貴族達は、フェルディナントのローマ王選出当日に彼のボヘミア王廃位を宣言し、プロテスタントのフリードリヒ5世を王に迎えました。
しかし、廃位を認めないフェルディナント2世に攻められ、ヴァイセンベルクの戦いで完敗、王位を追われました。このため「一冬だけの王」と揶揄のあだ名が付けられました。ボヘミア王とプファルツ選帝侯への復位をめざして諸国に働きかけ、その運動が三十年戦争を導きました。
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Friedrich V. (variante)
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【ボヘミア王】フリードリヒ5世(2)
ボヘミア、プファルツ選帝侯、モラヴィア&シュレージェン、オーバーラウジッツ&ニーダーラウジッツという構成。
肖像画に描かれたバリエーションです。
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Karl VI. (1711-1740)
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【ボヘミア王】カール6世(在位1711−1740)
背後の盾はスペイン、ハンガリー、オーストリア、ブルゴーニュ。
ハンガリーの紋章は上のフェルディナント1世と異なり、古い紋章の方を使っています。
カール6世の紋章で共通しているのは、実効支配していないスペイン王国の紋章が、自身の統治する2王国(ボヘミア、ハンガリー)よりも上位に置かれる点です。オーストリア=ハプスブルク家成員の紋章では通常、ハンガリーとボヘミアがスペインの上位に組まれています。カール6世はスペイン継承戦争時対立スペイン王だったので、スペインが優位に組まれるようです。
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Maria Theresia
(1740-1780)
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【ボヘミア女王】マリア・テレジア(在位1740−1780)
中央の小盾にボヘミアを収め、背後の盾に諸領地の紋章を組んでいます。背後の盾の構成は、ダルマチア、ハンガリー、カスティーリャ&レオン&アラゴン&シチリア、オーストリア、クロアチア、クライン、ブルゴーニュ、ミラノ、シュタイアーマルク、ティロル。シュヴァーベン、ロートリンゲン、トランシルヴァニア、ゴリツィア。
オーストリアがハンガリーの次位、ダルマチアの上位に組まれています。大陸の紋章では、盾地を細かく分割した場合、重要な紋章を中央列に組み、それから向かって左隣、向かって右隣…という方法がよく取られます。
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【ラウジッツ辺境伯領】 Markgrafschaften
Ober- und Niederlausitz
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Oberlausitz
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【オーバーラウジッツ】
青地に金色の城壁。
現在のドイツ・ドレスデンの東方に位置した領土で、辺境伯は神聖ローマ帝国の諸侯に名を連ねていました。
1329年にボヘミア王の支配下に入り、その後、ニーダーラウジッツと合わせてゲルリッツとも称されました。
1635年にザクセンに売却されますが、ボヘミア王(ハプスブルク家)はその後もラウジッツ辺境伯の称号を保持し、紋章にも残りました。
In Blau ein gezinnte goldene Mauer.
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Niederlausitz
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【ニーダーラウジッツ】
銀地に角と蹄が金色の赤牛。緑色の大地は省略される例も見かけます。
ラウジッツ辺境伯はボヘミア王が兼ねることが多かったですが、ルクセンブルク朝時代、王家一門のブランデンブルク辺境伯ヨプストがこの地を治めまています(在位1397−1411)。彼は一門のハンガリー王ジギスムント(後の神聖ローマ皇帝)を破ってローマ王に選出されました。
In silber auf gruenem Boden ein gold bewherter und
gehoernter roter Ochse.
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【プラハ大司教領】 Erzbistum
Prag (Praha)
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wappen :
In Schwarz ein goldener Balken.
973 Bistum gegruendet
1344 Erzbistum
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黒地に金色の横帯。初代大司教となったエルンスト(司教1334−43、大司教1344−64)の実家パルドゥビッツ家の紋章に由来します。
973年、領内のキリスト教化を達成したボヘミア公ボレスラフ2世によって司教区が設置されました。設置当初はマインツ大司教区に属していました。1344年に大司教区に昇格し、ボヘミア王国の領内をその教区としました。15世紀、フス派によってカトリックは駆逐され、続くルター派の浸透によって、大司教位は100年以上にわたって空位となりましたが、1526年にボヘミア王位がハプスブルク家に渡ると、カトリックの再導入が精力的に行われました。
大司教は世俗の君主権と独自の宮廷を持っていましたが、神聖ローマ帝国の聖職諸侯の地位は与えられていませんでした。
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【モラヴィア辺境伯領】 Markgrafschaft
Maehren (Morava)
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青地に金色の冠を被った銀と赤のチェックの鷲。
1292年から用いられた紋章です。その後鷲の彩色が変更になりますが、第一次大戦後にこの彩色が復活しました。チェコの国章はこちらの彩色で描かれています。
現在のチェコ東部からオーストリア北部にあった領邦で、カール大帝(シャルルマーニュ)に征服された後、830年に独立、大モラヴィア王国を建国しました。しかしマジャール人によって滅ぼされてハンガリー領となり、1029年以降はボヘミア王国に属し、神聖ローマ帝国の一領邦となります。14世紀にはルクセンブルク家の支配の下、帝国に大きな影響力を持ちました。
In Blau ein gold gekroenter und beweherter, rot
gezungter rot-silbern geschachter Adler.
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-1918
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【ハプスブルク家時代】
鷲の彩色が金と赤に変更されました。
モラヴィアは1526年にハプスブルク家の支配下に入り、その後に彩色が変更されました。この紋章は第一次大戦終結まで使用されました。
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【ブリュン(ブルノ)司教領】 Bistum
Bruen (Brno)
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1777 Bistum gegruendet (Ausgliederung
dem Bistum Olmuuetz)
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双頭の鷲の紋章とオルミュッツ(オロモウツ)司教の紋章との組み合わせ。鷲の紋章の胸にはオーストリアの紋章が置かれ、銀色の帯の部分には、司教領創設を指導したオーストリア女大公マリア・テレジアを表す文字「MT」が刻まれています。オルミュッツの紋章は、ブルノ司教領がオルミュッツからの分離で成立したことを説明しています。
モラヴィア南部の都市ブルノを中心とする司教領で、1777年にオルミュッツから分離して成立しました。司教は世俗の領主権を持っていましたが、神聖ローマ帝国の聖職諸侯ではないオルミュッツからの分離なので、諸侯の地位は与えられませんでした。
対抗宗教改革運動の結果、全領民の再カトリック化に成功しました。
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【オルミュッツ(オロモウツ)司教領・大司教領】 Bistum,
ab 1777 Erzbistum Olumuetz (Olomouc)
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Wappen :
Geviert, 1 u. 4. geteilt oben in Rot vier
silberne Spitzen, unten in Rot zwei
silberne Spitzen, 2 u. 3. in Gold ein rot
gezungter schwarzer Adler mit einem
goldenen Stern auf der Brust.
854 Bistum gegruendet
1588 Fuerstbistum
1777 Erzbistum
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赤地に6個の銀の山形を二段に4−2に置いた紋章と、胸に金色の星を抱いた黒鷲。
赤色の紋章がオルミュッツ本来の紋章で、司教ブルーノ(在位1245−81)の時代にまで遡ると言われています。
鷲の紋章は1588年に司教スタニスラウス(在位1579−98)が神聖ローマ帝国の領主司教の称号を付与された際に加えられました。なお、鷲のくちばしと爪が金色のヴァリエーションもありました。
9世紀に設置された司教座が起源で、レーゲンスブルク司教領やプラハ大司教領とたびたび合同した後、11世紀に司教領が成立しました。15世紀には一時フス派の司教が立ったものの、直ちにカトリックに奪回されました。1777年には大司教座に昇格し、対抗宗教改革によって、全領民の再カトリック化に成功しました。
司教領は神聖ローマ帝国の聖職諸侯の地位を与えられなかったものの、世俗の君主権と独自の宮廷を持っていました。
歴代の司教および大司教の紋章は、多くの場合、盾の上に司教帽と諸侯帽が並べて描かれました。諸侯帽と領主権を表す剣は、20世紀になっても描かれました。
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- 歴代司教 Fuerstbischoefe
und Fuersterzbischoefe von Olmuetz
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Karl I. Joseph von Oesterreich
(1663-1664)
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【オルミュッツ(オロモウツ)司教】カール1世ヨーゼフ(在位1663−64)
オーストリアの紋章との組み合わせ。
皇帝レオポルト1世の異母弟で、13歳だった1662年、叔父レオポルト・ヴィルヘルムの後任としてドイツ騎士団長に就任し、翌年、同じく叔父の後任としてパッサウ、ブレスラウおよびオルミュッツ司教に選出されました。
しかし、翌年1月、在位1年に満たずして夭逝しました。
Karl I. Joseph Erzherzog von
Oesterreich (1649-1664)
Der fuenfte Sohn des Kaisers Ferdinand III.
1662-1664 Fuerstbischof von Passau (1662
Koadjutor)
1662-1664 Hoch- und Deutschmeister
1663-1664 Fuerstbischof von Olmuetz und Breslau
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Karl II. von
Liechtenstein-Castelkorn
(1664-1695)
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【オルミュッツ(オロモウツ)司教】カール2世(在位1664−95)
司教の紋章の中央に、実家リヒテンシュタイン=カステルコルン家の紋章が組まれました。
リヒテンシュタイン=カステルコルン家はハプスブルク家に使えた家系で、父は皇帝軍の将軍やグラーツ伯領の長官を務めた人物でした。
カールもボヘミア王国の役人を務めた後に聖界に入り、1662年にブレスラウ(ウロツワフ)司教に選出。しかし、1664年にオルミュッツ司教に就任するにあたりブレスラウ司教位を断念しました。
1682年にはふたたびブレスラウ司教に選出されますが、教皇インノチェンツ11世より、どちらか一方の司教職のみ認可すると言い渡されたため、オルミュッツ司教に留まりました。
Karl II. Graf von
Liechtenstein-Castelkorn (1623-1695)
1662-1663 Elekt von Breslau
1664-1695 Fuerstbischof von Olmuetz
1682-1683 Elekt von Breslau
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Karl III. Joseph Ignatz von
Lothringen (1695-1711)
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【オルミュッツ(オロモウツ)司教】カール3世ヨーゼフ・イグナーツ(在位1695−1711)
司教の実家ロートリンゲン(ロレーヌ)公家の紋章との組み合わせ。
ロートリンゲン公カール5世の息子で、ケルンやオスナブリュックの聖堂参事会会員を経て、1695年にオルミュッツ司教に選出されました。
1698年からはオスナブリュック司教を兼ね、1710年にトリーア大司教代理となり、翌年同大司教に選出されます。しかし、オルミュッツ司教位を放棄するならばトリーア大司教位を認可するという条件が教皇より出されたため、オルミュッツ司教を辞しました。
Karl III. Joseph Herzog von
Lothringen (1680-1715)
Sohn des Herzogs Karl V. von Lothringen.
1695-1711 Fuerstbischof von Olmuetz
1698-1715 Fuerstbischof von Osnabrueck
1711-1715 Kurfuerst-Erzbischof von Trier,
Fuerstabt von Pruem
Gevierter
Hauptschild mit dreimal gespaltenes und einmal
geteiltes Mittelschild und Herzschild.
Herzschild : Hzm. Lothringen.
Mittelschild : 1. Kgr. Ungarn, 2. Kgr. Neapel, 3.
Kgr. Jersalem, 4. Kgr. Aragon, 5. Hzm. Anjou, 6.
Hzm, Geldern, 7. Hzm. Juelich, 8. Hzm. Bar.
Hauptschild : Bm. Olmuetz.
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Jakob Ernst von
Liechtenstein-Castelkorn
(1738-1745)
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【オルミュッツ(オロモウツ)司教】ヤーコプ・エルンスト(在位1738−45)
司教の実家リヒテンシュタイン=カステルコルン家の紋章との組み合わせ。同家出身の司教カール2世と同じ構成です。リヒテンシュタイン家は南ティロルから出た貴族で、1500年に伯位を得ました。17世紀後半に一族がシュレージェンに進出し、1761年に絶えました。
1728年にゼッカウ司教(在位1728−38)と、ザルツブルク司教総代理(シュタイアーマルクおよびノイシュタット管区)となり、1738年にオルミュッツ司教に就任しました。
1745年にザルツブルク大司教に選出されたため、オルミュッツ司教を退きました。
Jakob Ernst Graf von
Liechtenstein-Castelkorn (1690-1747)
Sohn des Grafen Franz von
Liechtenstein-Castelkorn.
1728-1738 Fuerstbischof von Seckau, Generalvikar
fuer die Steuermark und Neustaedter Distrikt
1738-1745 Fuerstbischof von Olmuetz
1745-1747 Fuersterzbischof
von Salzburg
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Ferdinand Julius von Troyer
(1746-1758)
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【オルミュッツ(オロモウツ)司教】フェルディナント・ユリウス(在位1746−58)
中央に司教の実家トロイアー家の紋章が組まれました。中心の小盾の鷲の紋章がトロイアー家本来の紋章です。鷲の紋章は、最近の出版物では赤地に白鷲となっています。しかし、ここでは当時の紋章図鑑に従って描きました。
前任者ヤーコプ・エルンストがザルツブルク大司教に転出したのを受けて、1745年の暮れに後任司教に選出され、翌年、教皇より認可されました。
Ferdinand Julius Graf von
Troyer (1698-1758)
Sohn des Grafen Franz Anton von Troyer.
1746-1758 Fuerstbischof von Olmuetz
1747 Kardinal
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Anton Theodor
Colloredo-Waldsee-Mels
(1778-1811)
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【オルミュッツ(オロモウツ)大司教】アントン・テーオドール(在位1778−1811)
大司教の実家コロレド伯家の紋章との組み合わせ。
1777年にオルミュッツ司教に選出されました。
この選挙結果を受けて、教皇庁はオルミュッツを大司教区に昇格させ、初代大司教となりました。1803年に枢機卿になりました。
Anton Theodor Reichsgraf von
Colloredo-Waldsee-Mels (1729?-1811)
Der zweite Sohn des Grafen Karl Ludwig.
1778-1811 Fuersterzbischof von Olmuetz
1803 Kardinal
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【シュレージェン公国】 Herzogtum
Schlesien (Ksiestwa Slaskie)
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schlesischer Adler
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【シレジアの鷲】
金地に冠を被った黒鷲。冠とくちばし、足、爪は金色。舌は赤。鷲の胸には銀色の翼骨と十字架。12世紀にシュレージェンの紋章となりました。
シュレージェンは1163年にポーランドから分離して成立しました。その後、上下シュレージェンをはじめ非常に多くの国々に分裂しました。中世期を通じて、ボヘミア王の影響力が徐々に強まり、実質的にはボヘミアの傘下に入ります。このような経緯から、シュレージェン諸邦のほとんどはボヘミア王位を得たハプスブルク家が獲得しました。しかし、オーストリア継承戦争の結果、大部分がプロイセン領となりました。
In Gold ein gold bewehrter und rot gezungter
schwarzer Adler belegt mit einer Kleeblaetteren
endenen silbernen Sichel mit Mtttelkreuz.
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【シュレージェン=リークニッツ公領】 Herzogtum
Schlesien-Liegnitz (Slaska-Legnica)
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シュレージェンとリークニッツ(レグニツァ)の組み合わせ。
下シュレージェン公国内にあった公領で、1241年に成立しました。その後、シュレージェン=ブリーク公領と合同と分離を繰り返しました。1664年に最終的にブリークと結合しますが1675年に断絶。領土はオーストリアに編入されました。
1740年に他のシュレージェン諸領と共にプロイセンに占領され、以後プロイセン領となりました。
Geviert, 1 u. 4. Hzm. Schlesien, 2 u. 3. Liegnitz
(geschacht von Rot und Silber).
1241 Herzogtum entstand
1675 erloschen, Territorium faellt an
Oesterreich
1740 zu Preussen
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【シュレージェン=ミュンスターベルク=エールズ公国】
Herzogtum Schlesien-Muensterberg-Oels
(Slaska-Ziebice-Olesnica)
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1498-1647
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1498年にシュレージェン=ミュンスターベルク侯国から分かれました。ミュンスターベルクはブレスラウの南方にあった領邦で、1465年にシュレージェンと切り離されて独立侯国となり、1495年にエールズ(オレスニツァ)公国と合同していました。その後1639年に領土の再統合を達成するも、1647年に男系が断絶。領土は一人娘の嫁ぎ先ヴュルテンベルクが継承しました。
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Schlesien-Wuerttenberg-Oels
1647-1703
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【シュレージェン=ヴュルテンベルク=エールズ公国】
ヴュルテンベルクの紋章の中央にシュレージェンが組み込まれました。背後の盾は、ヴュルテンベルク、テック、神聖ローマ帝国旗手職、メンペルガルト(モンベリアール)。
1647年にミュンスターベルク=エールズ公カール・フリードリヒが没すると、遺領は一人娘エリーザベトの夫、ヴュルテンベルク=ヴァイトリンゲン家のシルヴィウス・ニムロートが継承しました。
Geviert mit Herzschild.
Herzschild : Schlesien.
Hauptschild : 1. Hzm. Wuerttenberg, 2. Hzm. Teck,
3. Reichsbanneramt, 4. Gft. Moempelgard.
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1704-1792
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【シュレージェン=ヴュルテンベルク=エールズ公国】
カール・フリードリヒ(在位1704−44)の代に紋章構成が変わりました。本家ヴュルテンベルクの紋章が変更されたのに連動した変化です。
ヴュルテンベルク=エールズは1792年に男系が途絶。最後の公の娘の嫁ぎ先であるブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルが領土を継承しました。以後、領土は一時の中断を除いて1918年まで、ブラウンシュヴァイク公国に属しました。
Herzschild : Wuerttenberg / Schlesien.
Hauptschild : 1. Teck, 2. Reichsbanneramt, 3.
Moempelgard, 4. Heidenheim.
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【ブレスラウ(ウロツワフ)司教領】 Hochstift
Breslau (Wroclaw)
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Wappen (ca. 1520) :
Geviert, 1 und 4. in Rot sechs 3:2:1
silberne Lilien (Bistum Breslau), 2 und 3.
schlesischer Adler.
1000 Bistum
1290 Hochstift
1810 saekularisiert
1929 Erzbistum
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赤地に6個の銀色の百合とシュレージェンの鷲の紋章の組み合わせ。百合の紋章は司教ハインリヒ(在位1302−19)の時代の印章に登場したのが初見とされます。シュレージェンの鷲との組み合わせはヴェンツェスラウス(在位1382−1417:シュレージェン=リークニッツ家出身)にまで遡れるそうですが、司教の紋章と定まったのは、ヤーコプ(在位1520−39)の時です。
なお、盾地が青で百合が金色という彩色違いのバリーションがあり、そちらはフランスの紋章に由来するそうです。
現在のポーランド、ウロツワフ市にあった司教領です。西暦1000年に設置された司教座は、シュレージェンにおける宗教の中心地として発展し、1290年には神聖ローマ帝国の聖職諸侯の地位を得ました。
16世紀には宗教改革の波が押し寄せますがカトリックを護持し、シュレージェンを領したハプスブルク家の下で、住民の多くがカトリックに回帰しました。
司教領は1810年から翌年にかけて世俗化され、旧領土の大半がプロイセン領となりました。しかし、カトリックの教区としては存続し、1929年に大司教区となり現在に至ります。
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14. Jh.-ca. 1520
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【旧紋章】
6個の百合花の紋章は、司教ハインリヒ(在位1302−19)の時代の印章に登場したのが初見とされます。彩色は赤地に銀色の百合花で、青地に金色の百合花というバリエーションもあります。青地に金色の彩色バリエーションは、フランスの紋章に由来するそうです。現在の大司教区の紋章は赤地に銀色の彩色です。
ヤーコプ(在位1520−39)の時に、シュレージェンの鷲と組み合わせ紋章に変更されました。
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- 歴代司教 Fuerstbischoefe
von Breslau
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Jakob von Salza
(1520-1539)
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【ブレスラウ司教】ヤーコプ(在位1520−39)
司教の実家ザルツァ家の紋章との組み合わせ。
ザルツァ家はテューリンゲンに興ってシュレージェンに進出した貴族で、ヤーコプも一時ボヘミア王の役人を務め、その後聖職界へ入りました。
司教在位中、教区内にはルター派の勢力が押し寄せてきます。ルター派の浸透を妨げる手段を講じたものの、教区民の新旧両派への分裂を押しとどめることはできませんでした。
Jakob von Salza
(1481-1539)
Der juengste Sohn des Nikolaus von Salza.
1520-1539 Fuerstbischof von Breslau
Herzschild : Familienwappen Salza.
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Friedrich von
Hessen-Darmstadt
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【ブレスラウ司教】フリードリヒ(在位1671−82)
司教の紋章の中央に、ヨハネ騎士団総会長の紋章と司教の実家ヘッセン=ダルムシュタットの紋章を組みました。ヘッセン=ダルムシュタット家出身ですが、当時のダルムシュタットの紋章はヘッセン=カッセルと同じでした。
第2代ヘッセン=ダルムシュタット方伯ルートヴィヒ5世の末子で、1652年に枢機卿に任ぜられました。
Friedrich Landgarf von
Hessen-Darmstadt (1616-1682)
Der letzte Sohn des Landgrafen Ludwig V. von
Hessen-Darmstadt.
1652 Kardinal
1671-1682 Fuerstbischof von Breslau
Herzschild : geviert, 1 u. 4.
Johanniter Grossprior, 2 u. 3. Landgrafschaft
Hessen.
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Franz Ludwig von Pfalzgraf-Neuburg
(1683-1732)
bis 1694
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【ブレスラウ司教】フランツ・ルートヴィヒ(在位1682−1732)
司教の紋章の中央に、実家プファルツ=ノイブルクの紋章が組まれました。
1694年にドイツ騎士団長とヴォルムス司教に就任すると、紋章は大きく変更されます。1716年にトリーア選帝侯となり、1729年にはマインツ選帝侯に転出しました。
Franz Ludwig Pfalzgraf am
Rhein zu Neuburg (1664-1732)
Der sechste Sohn des Kurfuersten Philipp
Wilhelm von der Pfalz.
1683-1732 Fuerstbischof von Breslau
1694-1732 Hoch-
und Deutschmeister, Fuerstbischof von Worms,
Fuerstpropst von Ellwangen
1716-1729 Kurfuerst-Erzbischof
von Trier, Fuerstabt von Pruem
1729-1732 Kurfuerst-Erzbischof
von Mainz (1712-1729 Koadjutor)
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Philipp Ludwig von Sinzendorf
(1732-1747)
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【ブレスラウ司教】フィリップ・ルートヴィヒ(在位1732−47)
司教の実家ジンツェンドルフ伯家の紋章との組み合わせ。ジンツェンドルフの紋章の上半分は、同家が世襲していた帝国内帑(ないど)官(=財務官)の紋章です。
はじめハンガリーのラープ司教で、ブレスラウ司教に選出されると、同司教を退きました。ラープ司教時代の1727年に、枢機卿に任ぜられました。
Philipp Ludwig Reichsgraf von
Sinzendorf (1699-1747)
Der zweite Sohn des Grafen Philipp Ludwig Wenzel
von Sinzendorf-Neuburg.
1726-1732 Bischof von Raab
1727 Kardinal
1732-1747 Fuerstbischof von Breslau
Herzschild : geteilt, oben
erbschatzmeisteramt, unten Sinzendorf
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Philipp Gotthard von Schaffgotsch
(1747-1795)
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【ブレスラウ司教】フィリップ・ゴットハルト(在位1747−1795)
司教の紋章の中央に司教の実家シャフゴッチュ家の紋章を割り込ませた形です。同家の紋章は中央の小盾のシャフゴッチュ&グライフェンシュタインと背後の盾中央列のシュレージェン=リークニッツ=ブリーク公国の紋章との組み合わせです。シュレージェン=リークニッツの紋章は、1708年に皇帝ヨーゼフ1世がシャフゴッチュ家に使用を許可したそうです。
1744年に司教代理に就任し、前任者が没すると司教に選出されました。
Philipp Gotthard Graf von
Schaffgotsch (1716-1795)
Der achte Sohn des Grafen Hans Anton Gotthard von
Schafgotsch-Kynast u. Greiffenstein.
1744-1747 Koadjutor des Fuerstbischofs von
Breslau
1747-1795 Fuerstbischof von Breslau
Zweimal
gespalten und einmal geteilt mit Fuerstenhut
bedecter Herzschild.
Herzschild : Familienwappen Schaffgotsch - 1 u. 4.
Schaffgotsch, 2 u. 3. Greiffenstein.
Hauptschild 1 u. 6. Bm. Breslau, 2 u. 5. Fsm.
Schlesien-Liegnitz-Brieg-Wohlau, 3 u. 4.
schlesischer Adler (Bm. Breslau).
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Joseph Christian Franz zu
Hohenlohe-Bartenstein (1795-1817)
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【ブレスラウ司教】ヨーゼフ・クリスティアン・フランツ(在位1795−1817)
盾地を三列に分割し、中央にブレスラウ司教の紋章、両脇に司教の実家ホーエンローエ侯の紋章を組み、小盾にフランケンの紋章を置きました。フランケンの紋章は、実家ホーエンローエ=バルテンシュタイン家がリンプルク伯領を相続しており、リンプルクの紋章に組まれているフランケンで代表させているようです。
1789年に司教代理に就任し、1795年に司教となりました。
Joseph Christian Franz Prinz
zu Hohenlohe-Wardenburg-Bartenstein
(1740-1817)
Der dritte Sohn des Fuersten Karl Philipp Franz zu
Hohenlohe-Bartenstein.
1789-1795 Koadjutor des Fuerstbischofs von
Breslau
1795-1817 Fuerstbischof von Breslau
Herzschild
: Hzm Franken (fuer Limpurg?).
Hauptschild : 1 u. 6. Hohenlohe, 2 u. 5. Bm.
Breslau, 3 u. 4. H. Langenburg.
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