16世紀前半のアルザス・ロレーヌ
※ミュルーズ(帝国都市ミュールハウゼン)は16世紀はスイス同盟に参加していました


掲載一覧です Liste

エルザス方伯領
バール伯領・公国
ブルグント自由伯領(フランシュ・コンテ)
コルマール(帝国都市)
アグノー(帝国都市ハーゲナウ)

ロートリンゲン公国
モンベリアール(メンペルガルト)伯領
ムルバハ修道院領
ラッポルトシュタイン領主領・伯領

ザールヴェーデン伯領
ストラスブール(帝国都市シュトラースブルク)
シュトラースブルク司教領
ヴィッサンブール(帝国都市ヴァイセンブルク)
ヴァイセンブルク修道院領


Alsace / Elsass (Lgt.)
Bar (Gft, Hzm.)
Burgnd / Franche Conte (Fgt.)
Colmar (Rs.)
Hagenau / Haguenau (Rs.)

Lothringen / Lorraine (Hzm.)
Mönpergard / Montbeliard (Gft.)
Murbach u. Lueders (Abteien)
Rappoltstein (H, Gft.)

Saarwerden (Gft.)
Strassburg / Strasbourg (Rs.)
Strassburg / Strasbourg (Bm.)
Weissenburg / Wissambourg (Rs.)
Weissenburg (Propstei)


Abkürzungen :
Kgr.= Königreich, Ghzm.= Grossherzogtum, Hzm.= Herzogtum, Kfsm.= Kurfürstentum, Fsm.= Fürstentum
Mgt.= Markgrafschaft, Lgt.= Landgrafschaft, Bgt.=Burggrafschaft, Fgt.=Freigrafschaft, Gft.= Grafschaft, Fh.= Freiherrschaft, H.= Herrschaft, Rs.= Reichsstadt
Erzbm.= Erzbistum, Bm.= Bistum


【アルザス】 Alsace

Haute Alsace ( Landgrafschaft Ober-Elsass)

【上アルザス(ズントガウ/上エルザス方伯領)】

シュヴァーベン公領の分裂で誕生した領邦で、上エルザス(ズントガウ)と下エルザス(ノルトガウ)の二つに分かれていました。上エルザス(アルザス)はその中のズントガウ伯領を中核とする地域で、ほどなくエルザス方伯領となりました。12世紀前半にエルザス出身のハプスブルク家が獲得し、1365年のハプスブルク家分裂で上エルザスを領有したレオポルト3世の子孫はティロル伯領も相続したため、上エルザスとティロルは一体化しました。1496年のハプスブルク家統一後もティロル伯となった一門が統治しました。
レオポルト4世(在位1386−1411)は妃カタリーナ(フランドル女伯マルハレータ3世の娘)を共同統治者に据えたそうです。
1469年にブルゴーニュ公に質入れされますが、この譲渡問題のこじれがブルゴーニュ公国崩壊の遠因となりました。

上エルザスは1648年に、下エルザスは1679年に、それぞれフランスに併合されました。

Base Alsace (Landgrafschaft Unter-Elsass)

【下アルザス(ノルトガウ/下エルザス方伯領)】

下エルザス方伯領は成立直後の1359年(1362年とも)に、シュトラースブルク(ストラスブール)司教領に組み込まれました。17世紀に入るとフランスに占領され、1679年に正式にフランス領となりました。
司教領時代はシュトラースブルク司教の紋章と組み合わせられました。また、フランクフルト条約(1871年)によってドイツ帝国に編入されて、帝国領土エルザス=ロートリンゲンとなると、上アルザスとロレーヌの紋章組み合わせられました。

歴代方伯 Landgrafen von Elsass

Ferdinand II. (1564-1595)

【エルザス方伯】フェルディナント(在位1564−95)

中央の小盾に上エルザスの紋章をおさめ、背後の盾にはハンガリー、ボヘミア、カスティリア&レオン、オーストリア&ブルゴーニュを組んでいます。

神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の次男で、父の死後、上エルザスとティロル伯領を相続しました。

Ferdinand II. (1529-1595)
Der zweite Sohn des Kaisers Ferdinand I.
1564-1595 Landgraf von Elsass, Gtaf von Tirol

Rudolf II. (1595-1612)

【エルザス方伯】ルドルフ2世(在位1595−1612)

組まれている紋章は、ハンガリー、ティロル、上エルザス、ボヘミア、レオン、ブルゴーニュ、オーストリア、カスティーリャ、ケルンテン、クライン、シュタイアーマルク、ゴリツィア、ブルガウ、シュヴァーベン、ヴュルテンベルク、プフィルト。
1595年にエルザスとティロルを相続した皇帝ルドルフ2世の紋章です。

Rudolf II. (1552-1612)
Der zweite Sohn des Kaisers Maximilian II.
1536-1576 Koenig von Germanien
1576-1612 Kaiser
1595-1612 Landgraf von Elsass, Graf von Tirol

Maximillian (1612-1618)

【エルザス方伯】マクシミリアン(在位1612−18)

ドイツ騎士団長の紋章の両側にエルザス方伯とプフィルト伯の紋章が置かれました。

ドイツ騎士団長(在位1588−1618)で、ドイツ内のハプスブルク家領の管理を任されていました。1612年にエルザス方伯領管理人となり、次いで1614年にティロル伯領を相続、世俗君主としても活動しました。

Maximillian (1558-1618)
Das neunte Kind des Kaisers Maximilian II.
1585-1590 Koadjutor des Hoch- und Deutschmeisters
1590-1618 Hoch- und Deutschmeister
1593-1595 Regent in Inneroesterreich
1612-1618 Administrator der Landgrafschaft Elsass
1614-1618 als Maximilian III. Graf von Tirol (1602-1614 Administrator)


Leopold (1619-1632)

【エルザス方伯】レオポルト(在位1619−32)

中央の小盾は上エルザス。背後の盾はハンガリー、ボヘミア、オーストリア&ブルゴーニュ、ティロル&ハプスブルク、プフィルト。

はじめパッサウ司教兼シュトラースブルク司教(在位1607−26)で、エルザスは従兄マクシミリアン(ドイツ騎士団長兼ティロル伯)から相続しました。1626年に還俗してティロル伯となり、以後は世俗諸侯として活動しました。

Leopold V. (1586-1632)
Der fuenfte Sohn des Erzherzogs Karl II.
1601-1625 Fuerstabt von Murbach und Lueders
1605-1625 Fuerstbischof von Passau
1607-1626 Fuerstbischof von Strassburg
1618-1632 Landgraf von Elsass
1625-1632 Graf von Tirol (1619-1625 Statthalter)


Leopold
1626-1632

【エルザス方伯】レオポルト(在位1619−32)

還俗してからの紋章です。中央の小盾は上エルザス。背後の盾はハンガリー、ボヘミア、オーストリア&ブルゴーニュ、シュタイアーマルク&ゴリツィア、上オーストリア。背後の盾の構成は、ティロル伯としての紋章と同じです。


【バール公国】 Herzogtum Bar

Grafschaft Bar
bis ca.1214

【バール伯領】1214年頃まで

バールは951年に東フランク王オットー1世(後のオットー大帝)によって設置された伯領で、初代伯フリードリヒ1世は上ロートリンゲン公にも叙せられたことから、以後80年間はロートリンゲン公がバール伯を兼ねました。ロートリンゲンとは同君連合ではなく、バールがロートリンゲンに臣従する形がとられました(959−1033年)。

左の紋章はティボー1世(テーオバルト1世:在位1196−1214)まで用いられたそうです。ティボー1世は1197年にルクセンブルク伯女エルメシンドと結婚し、ルクセンブルク伯にも就位します(在位1197−1214)。

【バール公国】

バール伯ハインリヒ2世(在位1214−39)の時代に盾地に金色の十字が配されました。

1301年にフランスに占領され、1354年にフランス王によって公位を授けられ、1480年以降はロートリンゲンと合同し、帝国に復帰しました。

1738年にロートリンゲン公国と共に前ポーランド王に譲られ、1766年にフランスに併合されました。

※セーヌ川流域にもバール公領(Baar)がありましたが、両者は無関係です。


【ブルグント自由伯領(フランシュ・コンテ)】 Franche Comte

金色の木札模様を配した青地の盾に舌と爪が赤で冠を被った金色のライオン。

中央フランク(ロタリンギア)王国解体で成立し、17世紀までは神聖ローマ帝国に属していました。中心都市はブザンソン。自由伯とは封建制の臣従義務を免除された伯という意味だそうです。
12世紀の女伯ベアトリクス1世が神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサと結婚したことで、伯領は皇帝家(シュタウフェン家)の重要な領地となりました。シュタウフェン家の断絶後、伯位は女系を通じてフランス=カペー王家と結合し、カペー家断絶後はヴァロア=ブルゴーニュ家、次いでハプスブルク家にもたらされました。ハプスブルク家時代は、一時婚資としてフランスに譲渡された後、スペイン=ハプスブルク家に戻りました。1648年に正式にフランスに組み込まれました。
ブルグント自由伯はまた、13世紀頃から「ブルグント宮中伯」とも呼ばれました。



【帝国都市コルマール】 Ville de Colmar (1226-1679 Reichsstadt)

コルマールは上アルザス県の県都で、フランスからスイスに至るライン川左岸の幹線道路沿いに位置します。1226年に神聖ローマ帝国の直属都市(帝国都市)となり、14世紀にハプスブルク家支持の都市同盟が結成されると、その有力メンバーとして活動しました。
三十年戦争中の1635年にフランス領になりますが、都市の主権は認められました。1673年に帝国に復帰。しかしほどなくフランスに再征服され、フランス領となりました。
ニューヨークの「自由の女神」の制作者バルトルディの生地としても知られます。


Reichsstadt Colmar

【帝国都市時代】

銀地に黒いモーニングスター。

【現在】

現在の市章は、赤と緑に分割した盾地の上に金色のモーニングスターを、以前の紋章とは逆の傾きで重ねています。


【帝国都市ハーゲナウ(アグノー)】 Ville de Haguenau (1257-1679 Reichsstadt)

青地に銀色の薔薇。

ハーゲナウ(現フランス・アグノー)はストラスブールの北にある都市で、史料の上では12世紀に登場します。1257年に神聖ローマ帝国の直属都市(帝国都市)となり、1679年にフランスに併合されました。


【ロートリンゲン公国】 Herzogtum Lothringen

Dreimal gespalten und einmal geteilt mit Herzschild.
Herzschild : Hzm. Lothringen.
Hauptschild : 1. Kgr. Ungarn, 2. Kgr. Neapel, 3. Kgr. Jerusalem, 4. Kgr. Aragon, 5. Hzm. Anjou, 6. Hzm. Geldern, 7. Hzm. Juelich, 8. Hzm. Bar.

855年に中部フランク王ロタール2世(西ローマ皇帝ロタール1世の次男)が相続した領域が起源で、「ロタール王の国(ロタリンギア)」と呼ばれました。ロタール2世の死後、その帰属をめぐって争いが起こり、メルセン条約(870年)やリブモン条約(880年)により分割。その後も東西フランクによる領有争いが続きました。この争いは東フランク王ハインリヒ1世の征服によってひとまず決着し、以後は東フランク(神聖ローマ帝国)の領土となりました。
10世紀半ばにケルン大司教ブルーノ(ハインリヒ1世の息子でオットー大帝の弟)が公位に就き、その末期に上ロートリンゲンと下ロートリンゲンに分かれました。下ロートリンゲンは諸邦が分立して徐々に形を失い、12世紀に入ると下ロートリンゲンの名称は廃れてブラバントが使われるようになりました。
一方上ロートリンゲンは、その呼び名を保って現在のロレーヌ地方を形作っていきました。13世紀以後はフランスの影響が徐々に強まり、女公イザベラ(在位1431−53)はフランス王族のアンジュー公ルネ(名目上のナポリ王)と結婚し、夫を共同統治者に迎えました。
アンジュー家の支配は短期間でしたが、その後もフランス系の家系が公国を支配しました。17世紀にはたびたびフランスに占領され、1735年のウィーン予備会議によってイタリアのトスカーナ大公国と引き替えに公家は領土を放棄。1766年にフランスに併合されました。
なお、公家は婚姻を通じてハプスブルク家と合同し、現在に至ります。


Lothringen

【ロートリンゲン】

金地に赤の斜め帯。帯の上には三羽の足のない銀鷲。

クレストは銀色の鷲で、盾持ちも同じく銀色の鷲が使われました。盾持ちの翼はたたまれていたり半開きだったりとバリエーションがあるほか、鳥の盾持ちでよく描かれるように、盾の背後から半身を表すような姿勢で描かれたりします。
いずれのバリエーションでも、冠を被っていることと、ロレーヌ十字のロザリオをかけています。


In Gold ein roter Schraegbalken, der mit drei gestuemmelten silbernen Adelen belegt ist.

【小紋章】

向かって右側はバール公国の紋章で、バールの紋章はルネ1世の時に登場しました。1480年にルネ2世がロートリンゲンとバールを合同させてからは、両者を組み合わせた紋章が使われました。

15. Jh-

【15世紀末以降】

ヘルダーラント、ユーリヒの紋章が加わり、最終的に固定されました。

フランソワ3世(在位1729−37。後の神聖ローマ皇帝フランツ1世)は、イタリアのトスカーナ大公国を相続する代価として前ポーランド王スタニスワフ1世に国を譲渡しました。スタニスワフ1世(在位1738−66)はルソーの論戦相手として有名な文人君主で、彼が開いたナンシーアカデミーは啓蒙時代フランスの文化発展に大いに貢献しました。スタニスワフ1世の死後、ロートリンゲンとバールはフランスに併合されました。

歴代公 Herzoege von Lothringen

Marie de Chatillon
(Regentin : 1346-1348)

【ロートリンゲン(ロレーヌ)摂政】マリー(摂政1346−48)

ブロア伯シャティヨン家の紋章との組み合わせ。通常の結婚紋章の構成(向かって左が嫁ぎ先、右が実家)とは異なり、X字に両家の紋章を組んでいます。

マリーはオルレアンの近隣を治めていたブロア伯家の出身で、ロートリンゲン公ルドルフ1世(在位1328−46)に嫁ぎました。1346年、クレシーの戦いで夫が戦死すると、息子ヨハン1世(在位1346−90)の摂政を務めました。

Marie de Chatillon Comtesse de Blois (?-1363?)
Tochter des Grafen Guy I. von Blois und Dunois.
1346-1348 Regentin des Herzogtums Lothringen


Karl II. (1390-1431)

【ロートリンゲン(ロレーヌ)公】カール1世(在位1390−1431)

ニコポリス十字軍などの対トルコ戦に従軍しました。ブルゴーニュ家と親しかったため、フランス国内の対立抗争ではブルゴーニュ派と見なされました。フランス貴族として活動していた弟のヴォードモン伯フリードリヒがアジャンクールで戦死すると、ブルゴーニュ派と結んだ王妃イザボー・ド・バビエール(シャルル6世の妃)によってフランス王国の王軍長(臣下の最高位の役職)に任ぜられました(1415年。実質上は1418年とも)。彼には後継男子がいなかったため、娘イザベラの夫にアンジュー公ルネを迎え(1420年)、彼の死後は娘夫婦が跡を継ぎました。

Karl II. (1364-1431)
Der aelteste Sohn des Herzogs Johann I.
1390-1431 Herzog von Lothringen
1415/8 Conne'table von Frankreich (Conne'table de France)


Rene I. (1431-1452)

【ロートリンゲン(ロレーヌ)公】ルネ1世(在位1431−52)

背後の盾はアンジューとバール。ルネ1世は1430年にバール公に即位していたので、紋章が組み合わせられました。

カール2世の娘イザベラの夫で、共同君主となりました。その後、実兄からアンジュー公とナポリ王位を受け継ぎました。しかしルネ1世は継承争いに敗れてロートリンゲンの実効支配力を失い、ナポリ王位もアラゴン王に奪われました。
なお、娘のマルグリット(マーガレット)はイングランド王ヘンリー6世に嫁ぎ、イングランド国内の反対派との間に「バラ戦争」を引き起こしたことで知られます。

Rene d'Anjou (1408-1480)
Der zweite Sohn des Koenigs Ludwig III. von Neapel.
1430-1480 Herzog von Bar
1431-1452 Herzog von Lothringen
1434-1480 Herzog von Anjou, Graf von Provence
1435-1442 Koenig von Neapel


Johann II. (1452-1471)

【ロートリンゲン(ロレーヌ)公】ヨハン2世(在位1452−71)

ルネ1世の息子ヨハン(ジャン)2世が用いました。
中央の小盾はアラゴン。背後の縦は、ハンガリー王、ナポリ王、イェルサレム王、アンジュー公、バール公、ロートリンゲン。上段の3つの紋章は、アンジュー朝ナポリ王の紋章です。

ナポリ王としてのルネ1世の紋章の中央に、アラゴンの紋章が置かれました。アラゴンの紋章は、ヨハン2世の祖母の血縁から取り入れられました。これは、アラゴン王位を請求してのことでした。

Johann II. (1425-1471)
Sohn des Herzogs Rene d'Anjou.
1452-1471 Herzog von Lothringen


Rene II. (1473-1508)
ca. 1480

【ロートリンゲン(ロレーヌ)公】ルネ2世(在位1473−1508)

1480年頃からの紋章です。ロートリンゲンが中央に組まれました。向かって右下はバール。バールは成立当初からロートリンゲンの影響下にあった領邦で、1480年にルネ2世が相続したことで、ロートリンゲンと合同しました。

ロートリンゲン家の傍系ヴォードモン伯家(カール1世の弟に始まる家系)の出身で、世継ぎのいなかったニコラウス(在位1471−73)の跡を継ぎました。彼の子孫がその後1735年まで公国を統治しました。

Rene II. (1451-1508)
Sohn des Grafen Friedrich VI. von Lothringen-Vaudemont.
1473-1508 Herzog von Lothringen
1480-1508 Herzog von Bar


【メンペルガルト(モンベリアール)伯領】 Gefuerstete Grafschaft Moenpergard (Montbeliard)

12世紀に伯領となりました。
女伯ヘンリエッテ(在位1397−1444)とヴュルテンベルク伯エーバーハルト4世(在位1417−19)の結婚で両家は合同し、モンベリアールはヴュルテンベルク領となります。

モンベリアールは早くに帝国諸侯の地位を与えられた伯で、16世紀、約50人いた世俗諸侯の一人でした。
諸侯の地位は1559年にヴュルテンベルクと融合しました。

15. Jh-

【15世紀以降】

金地に三本の黒い鹿角はヴュルテンベルクの紋章。
ヴュルテンベルクと合同してからの紋章です。モンベリアールの市章は左の紋章配置をベースにしています。

1803年、ヴュルテンベルクはフランスと領土交換を行って、この地を手放しました。


【ムルバハ=リューダース修道院領】 Reichsabteien Murbach und Lueders

Geviert, 1 und 4 : in Silber ein steigender schwalzer Hund mit goldenem Halsband (Abtei Murbach), 2 und 3 : in Blau ein rot gekleideter Arm mit silberner Manschette und Schwurhand (Abtei Lueders).


727 Kloster Murbach gegruendet
1789 saekularisiert -> Frankreich

黒犬がムルバハ修道院、腕がリューダース修道院の紋章です。リューダース修道院の紋章は、18世紀に入ると雲間から腕を突き出した形に描かれました。

ムルバハはアルザス南部のミュルーズ市の北西、ゲブヴィレルの近くにある人口100人前後の小集落です。修道院は727年にアルザス公リウトフリート1世(在位?−739)の弟エーバーハルトに招聘されたライヒェナウ修道院(コンスタンツ)の修道士、聖ピルミンによって、ベネディクト会系修道院として開かれました。修道院はアルザス公家から多くの寄進を受けて発展し、公家が絶えた後も、オットー朝皇帝家の厚い保護を受けた結果、所領は現在のスイスにまで及びました。修道院長はまた、フランシュコンテにあったリューダース修道院長も兼ねため、二つの修道院は一つとして扱われました。14世紀に入ると勢力は衰えたものの、17世紀までは領国を維持しました。
17世紀にアルザスがフランスに併合されてからも、修道院はフランス王と神聖ローマ皇帝の両者が宗主となったので、神聖ローマ帝国の聖職諸侯の地位も保たれました。また17世紀以後は、しばしばシュトラースブルク司教が修道院長を兼ねました。1764年に修道院政庁はゲブヴィレルに移動。1789年のフランス革命によって世俗化されました。


歴代修道院長 Fuerstaebte von Murbach

Johann Ulrich von Raitenau (1570-1587)

【ムルバハ修道院長】ヨハン・ウルリヒ(在位1570−87)

中央の小盾にリューダース修道院の紋章を収め、背後の盾にはムルバハ修道院と修道院長の実家ライテナウ家の紋章を組んでいます。

ライテナウ家は南ドイツの貴族で、ハプスブルク家との結びつきから17世紀に伯位を得ました。一族からはザルツブルク大司教ヴォルフ・ディートリヒ(在位1587−1612)などが出ています。

Johann Ulrich von Raitenau (?-1587)
1570-1587 Fuerstabt von Murbach und Lueders

 

Andreas von Oesterreich (1587-1600)

【ムルバハ修道院長】アンドレアス(在位1587−1600)

小盾はオーストリアとハプスブルク。

アルザス方伯兼ティロル伯フェルディナント2世の長男で、18歳で枢機卿に任ぜられ、その後コンスタンツ、ブリクセン司教となりました。なお、実家ティロル伯家はブルガウ辺境伯を兼ねていたので、彼自身もブルガウ辺境伯を名乗り、家名もオーストリア=ブルガウとも呼ばれました。

Andreas Erzherzog von Oesterreich-Burgau (1558-1600)
Der Aelteste Sohn des Erzherzogs Ferdinand II. von Oesterreich-Tirol.
1576 Kardinal
1587-1600 Fuerstabt von Murbach und Lueders
1589-1600 Fuerstbischof von Konstanz
1591-1600 Fuerstbischof von Brixen
1598-1599 Statthalter der Niederlande


Leopold von Oesterreich (1601-1632)

【ムルバハ修道院長】レオポルト(在位1601−1625)

皇帝フェルディナント2世の弟で、従兄アンドレアスの後任として修道院長になりました。その後パッサウとシュトラースブルク司教となり、更に上アルザスを相続。1626年、ティロル伯を継ぐにあたって還俗しました。

Leopold Erzherzog von Oesterreich (1586-1632)
Juengerer Bruder des Kaisers Ferdinand II.
1601-1625 Fuerstabt von Murbach und Lueders
1605-1625 Fuerstbischof von Passau
1607-1626 Fuerstbischof von Strassburg
1618-1632 Landgraf von Elsass
1625-1632 Graf von Tirol (1619-1625 Statthalter)


【ムルバハ修道院長】レオポルト・ヴィルヘルム(在位1626−62)

盾を三分してオーストリアと修道院の紋章を組んでいます。先代のレオポルトも用いました。

皇帝フェルディナント3世の弟で、伯父のレオポルトが還俗すると、その聖職位を受け継ぎました。その後も聖職禄を増やし、また1639年には皇帝軍最高司令官としてスウェーデン軍をボヘミア(チェコ)から駆逐。司令官辞任後はスペイン領ネーデルラントの総督を務めました。

Leopold Wilhelm Erzherzog von Oesterreich (1614-1662)
Der vierte Sohn des Kaisers Ferdinand II.
1626-1662 Fuerstabt von Murbach und Lueders, Fuerstbischof von Passu und Strassburg
1627-1662 Fuerstbischof von Halberstadt
1635-1645 Bischofsadministrator von Bremen und Muenster
1638-1662 Fuerstbischof von Olmuetz
1641-1662 Hoch- und Deutschmeister
1647-1656 Statthalter der Spanischen Niederlande
1656-1662 Fuerstbischof von Breslau


【ムルバハ修道院長】フランツ・エーゴン(在位1665−82)

司教の実家フュルステンベルク家の紋章との組み合わせ。

前任者レオポルト・ヴィルヘルムの死後、シュトラースブルクの後任司教となりました。その2年後にムルバハ修道院長にも就任しました。

Franz Egon Fuerst von Fuerstenberg (1626-1682)
Der dritte Sohn des Grafen Ernst Egon VIII. zu Fuerstenberg-Heiligenberg.
1663-1682 Fuerstbischof von Strassburg
1665-1682 Fuerstabt von Murbach und Lueders
1668-1682 Fuerstabt von Stablo und Malmedy

Franz Anton von Andlau-Homburg (1785-1790)

【ムルバハ修道院長】フランツ・アントン(在位1785−90)

最後の修道院長です。中央に修道院長の実家アントラウ=ホンブルク家の紋章を組みました。実家はアルザスの帝国騎士アントラウ家の分家です。

在位中にフランス革命が勃発し、修道院は世俗化されました。

Franz Anton von Andlau-Homburg
1785-1790 Fuerstabt von Murbach und Lueders


【ラッポルトシュタイン領主領/伯領】 Grafschaft und Herrschaft Rappoltstein

In Silber drei (2:1) gestellte rote Schildchen.

ラッポルトシュタインはコルマール北西にあるラッポルツヴァイラー(フランス名リボーヴィル)を中心とする領邦で、ラッポルトシュタイン家が統治しました。
1293年、国王アドルフ2世はアンセルム2世を捕らえて城を差し押さえ、その後1298年までに領土はアンセルム2世の兄弟と従兄の間で分割されました。その後も合同と再分割を繰り返し、1436年に再合一しました。
1651年に伯領に昇格するも一代で断絶。領土はプファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト=ビッシュヴァイラー家が相続しました。なお、ラッポルトシュタイン家の所持称号は、最終的にはヴァルデック侯家(最後の伯の姉妹の嫁ぎ先)に渡りました。


銀地に3つの赤い小盾。

14世紀には既に用いられていました。クレストはチューリヒ紋章図鑑(1330年頃)では女性の半身像が、同じ時期の印章ではひげを生やし帽子をかぶった男性像が用いられていたことが知られ、最終的に男性像に固定しました。

1484-

【1484年以降】

組まれているのはラッポルトシュタイン、ホーエナック、ゲロルドゼック。

ホーエナックは1298年の分割で誕生したグロースラッポルトシュタイン=ホーエナック家が拠ったホーエナック城に由来します。同家はラッポルトシュタイン家の中心家系として存続しており、同家は「ラッポルトシュタインとホーエナックの領主 Herren zu Rappoltstein und Hohenack 」の称号を用いていました。
その後、1484年に「ゲロルドゼックの領主 Herr zu Geroldeseck am Wasichen 」を名乗ったため、ゲロルドゼックの紋章が加わりました。

Variante

【16世紀初頭】

上の紋章のバリエーションで、ホーエナックが削られた紋章も用いられました。

マクシミリアン1世(在位1398−1451)の没後、領土は3人の息子とその子孫が共同統治を行いました(単独統治になるのは1517年以降)。その時期の領主達は、クレストを変えたり、紋章配置を変更するなどして違いを出していました。

ca. 16. Jh

【16世紀半ば以降】

ホーエナックとゲロルドゼックの組み合わせの中央にラッポルトシュタインの紋章が組まれました。16世紀半ばからこの配置になったようです。

1651年、兄ゲオルク・フリードリヒの死で即位したヨハン・ヤーコプは、即位に際して伯位を与えられました。しかし、彼には世継ぎがいなかったため、1673年に伯家は一代で断絶。遺領は女子相続人と結婚していたプファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト=ビッシュヴァイラー家(後のバイエルン王家)が相続しました。
なお、ゲオルク・フリードリヒの娘と結婚したヴァルデック=ピルモント家も称号と紋章を継承し、現在はヴァルデック=ピルモント家がラッポルトシュタイン伯の称号を保持しています。



【ザールヴェーデン伯領】 Grafschaft Saarwerden

黒地に銀色の双頭の鷲。

ザール地方にあった伯領で、現在はフランスに属します。
16世紀初頭に男系が途絶し、女子相続人と結婚していたナッサウ=ザールブリュッケン伯の領土となりました。
ザールヴェーデンの紋章もナッサウ=ザールブリュッケン伯の紋章に組み込まれました。


【帝国都市シュトラースブルク(ストラスブール)】 Ville de Strasbourg (bis 1681 Reichsstadt)

ローマ時代に成立した町で、フランク王国時代にストラテブルグム(街道の町)と呼ばれたのが市名の起源です。13世紀に司教の支配を排して完全な自治を獲得し、14世紀には神聖ローマ帝国の帝国都市となりました。
1434年頃から約10年間グーテンベルクが滞在し、その滞在中に活版印刷機を製作しました。16世紀に市は宗教改革を行い、1538年には放浪中だったカルヴァン(カルヴァン派の創始者)が移り住み、新旧約聖書の注解を行いました。
1648年のヴェストファーレン条約の結果フランス領となりますが、宗教の自由は保障されました。1681年にフランスに占領され、完全にフランスに組み込まれました。


銀地に赤色の斜め帯。司教の紋章と逆の彩色です。
クレストは市の紋章を描いた鷲の翼で、盾持ちは2頭のライオンです。ライオンの顔の向きにはヴァリエーションがありました。
盾持ち、クレスト、モットーのいずれも帝国都市時代から使われていました。
また、1919年に市はレジオン・ド・ヌール勲章を授かり、市章にも勲章が描かれました。


【シュトラースブルク(ストラスブール)司教領】 Hochstift Strassburg

Geviert, 1 u. 4 : in Rot ein silberner Schraegbalken (Bistum Strassburg), 2 u. 3 : in Rot ein kleeblattfoermig besaeumrer silberner Schraegbalken (Landgrafschaft Unterelsass).

4世紀頃に設置された司教座を中心に発展しました。14世紀にシュヴァーベン公領が解体すると、その西部に生まれたエルザス方伯領(下アルザス)を司教領に組み込みました(1359年あるいは1362年)。その結果、司教の紋章には下アルザスの紋章が組み込まれ、18世紀には司教の紋章とX字状に組まれる構成に落ち着きました。
司教領は、アルザスがフランス領となってからも存続し、神聖ローマ帝国諸侯の地位も保持。司教の宮廷はライン川右岸のエッテンハイムに置かれました。1789年にライン川左岸の領土を失い、右岸の領土も1802年に世俗化、翌年バーデン選帝侯国に併合されました。
なお、宗教上の司教管区はその後も存続し、1988年に大司教区となりました。


Variante
(nach der Zuericher Wappenrolle)

【司教の紋章】

司教の紋章は赤地に銀色の斜め帯で、司教ヨハン(在位1353−65)が自身の印章に用いたのが初見といわれます。また、1340年頃のチューリヒ紋章図鑑では彩色が逆転し、上部にはギザギザの区分線を持った赤色の帯が置かれた紋章が描かれています。ただし、これは、レーゲンスブルク司教の紋章の彩色を逆転させた格好のため、同じ紋章を使っているレーゲンスブルク司教と区別するために改変したとも言われます。銀地に赤色の斜め帯の紋章はシュトラースブルク司教は用いず、都市の紋章となっています。

歴代司教 Fuerstbischoefe von Strassburg

Johann von Manderscheid-Blankenheim (1569-1592)

【シュトラースブルク司教】ヨハン(在位1569−92)

中央の小盾はシュライデン。背後の盾の赤い山形帯はマンダーシャイト、黒いライオンはブランケンハイム。いずれもマンダーシャイト伯の紋章です。

Johann Reichsgraf von Manderscheid-Blankenheim (1538-1592)
Der zweite Sohn des Grafen Arnold I. von Manderscheid-Blankenheim.
1569-1592 Fuerstboschof von Strassburg

Karl von Lothringen (1592-1607)

【シュトラースブルク司教】カール(在位1592/1604−1607)

シュトラースブルクと下アルザス、司教の実家ロートリンゲンの紋章を組み合わせ、中央の小盾にロートリンゲンの紋章を収めました。

ロートリンゲン公カール3世の次男で、メッツ(現フランス:メス)司教を兼ねました(メッツ司教:1578−1607)。1592年にシュトラースブルク司教位がプロテスタントの手に渡ると、軍事的手段によって司教位を回復。1589年には枢機卿に任ぜられました。

Karl Herzog von Lothringen (1567-1607)
Der zweite Sohn des Herzogs Karl II. von Lothringen.
1578-1607 Fuerstboschof von Metz
1589 Kardinal
1592-1607 Fuerstboschof von Strassburg


Leopld von Österreich (1607-1525)

【シュトラースブルク司教】レオポルト(在位1607−26)

1619年以降の紋章です。紋章は組み合わされず、自身の紋章(エルザス方伯)の左右に兼務したシュトラースブルク、パッサウ両司教の紋章、盾の下にムルバハとリューダース修道院の紋章を配しました。
真ん中の盾最下部の金色の魚の紋章はプフィルト伯の紋章ですが、上オーストリアの紋章に置き換えられたバリエーションもあります。

皇帝フェルディナント2世の弟で、パッサウ司教を兼ねました(在位1605−25)。
1619年に従兄マクシミリアン(ドイツ騎士団長)からエルザス方伯領を譲られ、世俗君主としても活動をはじめました。

Leopold Erzherzog von Oesterreich (1586-1632)
Juengerer Bruder des Kaisers Ferdinand II.
1601-1625 Fuerstabt von Murbach und Lueders
1605-1625 Fuerstbischof von Passau
1607-1626 Fuerstbischof von Strassburg
1618-1632 Landgraf von Elsass
1625-1632 Graf von Tirol (1619-1625 Statthalter)


Franz Egon von Fürstenberg (1663-1682)

【シュトラースブルク司教】フランツ・エーゴン(在位1663−82)

司教の実家フュルステンベルク家の紋章との組み合わせ。実家フュルステンベルク伯家は、彼の司教就任の翌年に帝国諸侯に昇格しました。

1668年からスタブロ、マルメディ両修道院長を兼ねました。

Franz Egon Fuerst von Fuerstenberg (1626-1682)
Der dritte Sohn des Grafen Ernst Egon VIII. zu Fuerstenberg-Heiligenberg.
1663-1682 Fuerstbischof von Strassburg
1665-1682 Fuerstabt von Murbach und Lueders
1668-1682 Fuerstabt von Stablo und Malmedy

Franz Egon (Variante:1665-1668)

【シュトラースブルク司教】フランツ・エーゴン(2)

1665年にムルバハとリューダース両修道院長に就任したので、修道院の紋章が組み込まれました。

Wilhelm Egon von Fürstenberg (1683-1704)

【シュトラースブルク司教】ヴィルヘルム・エーゴン(在位1683−1704)

中央に司教の実家フュルステンベルク侯家の紋章を置き、背後の盾には、司教の紋章と、彼が兼務したスタブロ、マルメディ両修道院の紋章が組まれています。向かって右上の羊がスタブロ修道院、左下のドラゴンがマルメディ修道院の紋章です。

先代フランツ・エーゴンの弟で、兄の死後、司教位と二つの修道院長の地位を引き継ぎました。また、1686年には枢機卿に任ぜられました。

Wilhelm Egon Fuerst von Fuerstenberg (1629-1704)
Juengerer Bruder des Bischofs Franz Egon von Strassburg.
1683-1704 Fuerstbischof von Strassburg und Fuerstabt von Stablo-Malmedy
1686 Kardinal


Armand Gaston Maximilien de Rohan-Soubise (1704-1749)

【シュトラースブルク司教】アルマンド・ガストン(在位1704−49)

中央に司教の実家、ロアン=シャボ家の紋章が組まれました。中心の小盾はロアン、ブルターニュ。中間の盾は、エヴルー、ナヴァール、アラゴン、スコットランド、ブルターニュ、ミラノ、サン・セヴァリノ、ロレーヌ。

ロアン家はブルターニュから出た貴族で、1648年に男系が絶えてロアン=シャボ家となります。アルマンド・ガストンはシャボ家とロアン=モンバゾン家の婚姻で成立したスビス家の出身で、1701年から司教代理に就任。前任者の死を受けて司教に選出されました。1712年には枢機卿に任ぜられました。
彼の就任以降、19世紀初頭の世俗化まで、シュトラースブルク司教位はこの家系の出身者によって占められました。

Armand Gaston Maximilien de Rohan Prince de Soubise (1674-1749)
Der fuenfte Sohn des Fuersten Francois de Rohan-Soubise.
1704-1749 Fuerstbischof von Strassburg (1701-1704 Koadjutor)
-1749 Fuerstabt von Murbach und Lueders
1712 Kardinal


Francois Armand Auguste de Rohan-Soubise (1749-1756)

【シュトラースブルク司教】フランソア・アルマンド(在位1749−56)

先代と同じスビス家の出身で、紋章も同じです。ロアン=シャボ(スビス)家はアルザス地方北東部、現在のヴィッサンブールの南西に男爵領を保有しており、アルザス貴族としても活動していました。

大叔父アルマンド・ガストンの後継として司教に任ぜられました。司教就任前の1747年に枢機卿になりました。

Francois Armand Auguste de Rohan Prince de Soubise (1717-1756)
Sohn des Fuersten Jules Francois Louis de Rohan-Soubise.
1742-1749 Koadjutor des Bischofs von Strassburg
1747 Kardinal
1749-1756 Fuerstbischof von Strassburg

Louis Cesar Constantin de Rohan-Guemene (1756-1779)

【シュトラースブルク司教】ルイ・セザール・コンスタンティン(在位1756−79)

中央に司教の実家、ロアン=グエムネ家の紋章が組まれました。中間の盾はナバラ(ナヴァール)とフランス、中央の小盾はロアンとブルターニュ。

グエムネ侯シャルル3世の末っ子で、先代のフランソアとは三いとこ(またいとこの子供同士)になります。1761年に、ロアン家出身の歴代司教と同様に枢機卿となりました。

Louis Cesar Constantin de Rohan Prince de Guemene (1697-1779)
Der letzte Sohn des Herzogs Charles III de Rohan Prince de Guemene duc de Montbazon.
1756-1779 Fuerstbischof von Strassburg
1761 Kardinal

Louis Rene Edouard de Rohan-Guemene (1779-1803)

【シュトラースブルク司教】ルイ(在位1779−1803)

先代と同じ紋章構成です。

先代ルイ・コンスタンティンの甥にあたります。1760年から司教代理を務め、先代の死によって司教に就任しました。司教就任の前年にあたる1778年に枢機卿となりました。

Louis Rene Edouard de Rohan Prince de Guemene (1734-1803)
Der dritte Sohn des Hercule Meriadec de Rohan Prince de Guemene duc de Montbazon.
1760-1779 Koadjutor des Bischofs von Strassburg
1778 Kardinal
1779-1803 Fuerstbischof von Strassburg


【帝国都市ヴァイセンブルク(ヴィッサンブール)】 Ville de Wissembourg (1305-1679 Reichsstadt)

赤地に銀の城。市のドイツ語名ヴァイセンブルクは白亜の城という意味で、名前通りの意匠が紋章に使われています。

ヴィッサンブールはアルザス北部、ドイツとの国境沿いにある都市で、7世紀に設立されたベネディクト系修道院を中心にして発展しました。やがて市は修道院の支配を排し、1305年に帝国都市の地位を獲得しました。
1679年にフランスに併合されましたが、紋章は変更されず現在に至ります。

なお、同名の帝国都市が他にもあったので、ヴァイセンブルク・アム・ラインとも呼ばれました。


【ヴァイセンブルク修道院領】 Reichspropstei Weissenburg

In Rot eine zweituermige silberne Burg, dahinter ein schraeg gestellter silbener Praelatenstab, darueber eine schwebende goldene Krone.

赤地に二塔を持つ銀色の城と司教杖、およびその上方に金色の冠。

アルザス北部にあったベネディクト会系修道院で、7世紀にシュパイアー司教ドラゴボード(在位659−700)によって設立されました。1546年にシュパイアー司教と同君連合となると、修道院の地位は上昇し、帝国議会での議席も高位聖職者部会から諸侯部会に移りました。
17世紀にアルザスがフランスに併合された後も、修道院は聖職諸侯の身分を保持し、フランス革命によって世俗化されるまで存続しました。


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