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Comte' de Artois
et Pair de France
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【アルトア伯領】
フランス王の紋章に、金色の城塞を描いた赤のレイブル。
初代伯ロベール1世の紋章に由来します。レイブルに描かれた城塞は、彼の母、ブランシュ・ド・カスティーユの実家であるカスティーリャ王国の紋章から採られました。
アルトアは元はフランドルの一部。フランドル伯兼エノー伯ボードワン8世(エノー伯として5世)の娘、イザベル・ド・エノーがフランス王フィリップ2世と結婚するに際し、彼女の化粧料としてフランス王家に譲渡されました(1180年)。1237年に伯領に昇格。後にフランドル伯に返還されますが、1659年に正式にフランスに併合されました。
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duche de Bouillon
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【ブイヨン公国】
赤字に銀色の横帯。
セダン北方のベルギー国内にあった公国で、現在のリヒテンシュタイン侯国より一回り小さい面積の小国でした。
10世紀頃に成立したロートリンゲン公またはアルデンヌ伯の自由保有地が起源といわれ、その後、バール伯や下ロートリンゲン公の所有となりますが、1095年にリェージュ司教に征服されました。リェージュ司教の陪臣領としてブイヨン公領が成立しました。司教は諸家に統治を請け負わせ、15世紀以後はラ・マルク家(ユーリヒ=クレーヴェ=ベルク公の一族)が支配します。同家はセダンなどを獲得してフランス内にも地歩を築き、フランスの元帥にも任命されるほどの有力家系に成長します。リェージュ司教は宗主権を保持していたものの、16世紀に入ると、フランスによって司教の宗主権は事実上無効化されました。
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Duche de Bouillon
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【ブイヨン公国】
中央の小盾はオーヴェルニュ、ブイヨン。背後の盾は、ラ・トゥール家、ブーローニュ、テュレンヌ。ラ・トール家の紋章は家名トゥール(塔)を図案に採用しています。
1588年にラ・マルク家の男系が途絶すると、セダン女領主だったシャルロッテが遺領を相続します。彼女は1591年にテュレンヌ子爵アンリ・ラ・トゥール=ドーヴェルニュと結婚したため、ラ・トゥール家の支配が始まります。
アンリの息子には、リシュリューやマザランと戦ったフレデリック、三十年戦争などで活躍した名将テュレンヌ元帥兄弟がいます。
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Duche de Bouillon
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【ブイヨン公国】
ブイヨンを相続した当初、ラ・トゥール=ドーヴェルニュ家が用いた紋章で、1613年発行の貨幣に見られます。
翌年発行の貨幣からは上の紋章に変更されています。
ブイヨンは独立の公国の地位を認められていたものの、実際はフランスの強い軍事統制下に置かれていました。ブイヨン公国の扱いは、現在のモナコとフランスの関係によく似ていました。
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Duc de Bouillon
Godefroy Maurice
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【ブイヨン公】ジョフロア・マウリス
背後の金色の鍵は、フランス王国の侍従長官職を表します。
1658年に侍従長官に任命されました(在職1658−1715)。以後、1747年までの90年間、侍従長官の職位は歴代ブイヨン公によって占められました。
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Hertogdom Brabant
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【ブラバント公国】
黒地に舌と爪が赤い金のライオン。
元は下ロートリンゲン公国の一部で、公国内で勢力を築いていったルーヴァン伯が下ロートリンゲン公を廃してブラバント公を名乗ったのが起源です。13世紀末にリンブルク公国を併合し、また領内のルーヴァン、アントウェルペン、ブリュッセルなど諸都市の毛織物産業によって栄えました。
女公ヨアンナ(在位1355−1406:リンブルク女公1355−96)がルクセンブルク公と結婚したことでフランドル伯との戦争が勃発。ブルゴーニュ公に支援を求めたことから、姪のフランドル女伯(ブルゴーニュ公の妃)を後継者に定めました。1406年にヨアンナが没すると、フランドル女伯の息子アントワーヌ・ド・ブルゴーニュが継承します(在位1406−27)。この相続によって、ブラバントはブルゴーニュ公国に組み入れられました(1430年)。
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Hertogdom Brabant
Jan II.
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【ブラバント公国(2)】ヤン2世
リンブルク公国の紋章との組み合わせ。紋章が組まれた当初は、リンブルクのライオンには冠が描かれましたが、すぐに取り除かれたようです。
1283年にリンブルク女公イルムガルトが没すると、公国の相続を巡ってリンブルク継承戦争が勃発します。長い戦いの末にブラバント公が勝利し、以後、ブラバント公がリンブルク公を兼ねるようになりました(1288年)。
初期には二つの公国の紋章を横に並べて組まれたようで、その後X字状の配置に変更されます。
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Hertogdom Brabant
Jan III.
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【ブラバント公国】ヤン3世(在位1316−55)
ブラバントとリンブルクの組み合わせ。
リンブルク公を兼ねたヤン3世の紋章です。リンブルクでは紋章配置が逆転します。
ジャン3世の時代、リンブルクのライオンには冠が被せられなかったようです。
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Hertogdom Brabant
Joanna & Wenzel I.
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【ブラバント公国】ヨアンナ1世(在位1355−1406)とヴェンツェル1世(在位1355−80)
向かって左側はボヘミアとルクセンブルクで、ヴェンツェル1世の紋章です。右側はブラバントとリンブルク。
1355年にヤン3世が没すると、彼の娘ヨアンナ1世は夫でルクセンブルク公だったヴェンツェル1世を共同君主としました。
ヴェンツェル1世は、異母兄の神聖ローマ皇帝カール4世が抵当に出したルクセンブルク領内の土地を全て買い戻すことに成功しましたが、その買い戻し金の出所は、ヨアンナ1世でした。
夫妻には子供がおらず、ヴェンツェル1世の死によってルクセンブルクとの連合は解消。ヨアンナ1世は姪のフランドル女伯マルハレータを後継者と定めました(マルハレータが先に没したため、彼女の息子アントワーヌ・ド・ブルゴーニュが公国を相続します)。
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Hertogdom Brabant
Antoine de Bourgogne
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【ブラバント公国】アントワーヌ(在位1406−15)
組まれているのは、ブルゴーニュ(新)、ブラバント、リンブルク。
ブラバントの推定継承人だった母の死により、ブラバントを相続しました。
1412年には、ルクセンブルク抵当女公エリーザベトと結婚して共治公となり、ブラバントとルクセンブルクの合同を再現しました。
この紋章は彼の孫フィリップ1世(在位1427−30)まで用いられました。
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Graafschap Buren
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【ビューレン伯領】アラルド(在位1345−1402)からアンナ(在位1548−58)まで。
赤地に銀色のエンバトルド・カウンター・エンバトルド・フェス(上下に互い違いのはざま状の凹凸のある横帯)。
アンナはオランダ独立運動の指導者ウィレム沈黙公と結婚しました。
この紋章は市章にもなっています。
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Graafschap Vlaanderen
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【フランドル伯領】
金地に舌と爪が赤い黒のライオン。12世紀前半から用いられている紋章です。
862年、西フランク王シャルル2世の娘婿ボードアン鉄腕伯がフランドル行政区の地方伯に任ぜられたのが伯領の起源で、鉄腕伯の息子ボードアン2世によって独立がほぼ達成されました。その後神聖ローマ帝国内への領土拡張やエノー伯領との連合などで勢力を拡大する一方、フランスによる脅威を受け続けました。
フランドルはまた、11世紀以来毛織物産業と、それに伴う遠隔地貿易が発達し、ブリュージュは世界貿易港として繁栄しました。
女伯マルハレータ3世(在位1383−1405)がブルゴーニュ公フィリップと結婚してブルゴーニュと合同し、次いでスペイン、オーストリア両ハプスブルク家の所領となりました。
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Hertogdom Gelderland
(Herzogtum Geldern)
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【ゲルデルン(ヘルデルラント)公国】1382年以降。
向かって左側がゲルデルン、右側がユーリヒの紋章です。
1082年に伯領が形成され、ラインハルト2世(在位1318−43)の1339年に公国に昇格しました。
1371年のラインハルト3世の死で男系が絶えると、公の妃マリア(在位1371)、異母姉メヒティルト(在位1371−79)が相次いで即位します。
メヒティルトは夫ヨハンを共治君主に据えますが、これに異を唱えたユーリヒ公ヴィルヘルム3世に征服され(1379年)、公位と公国はユーリヒ公のものとなりました(1382年)。
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Comte' de Hainaut
(Grafschaft Hennegau)
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【エノー伯領(1)】女伯ジャンヌ(在位1205−44:フランドル女伯としてヨアンナ、在位1205−44)まで。
金地に舌と爪が青い赤のライオン。
1051年から1280年まで、フランドル伯がエノー伯を兼ねました。
ヨアンナの父、ボードワン6世(フランドル伯として9世)は十字軍に参加してラテン帝国(コンスタンチノープル帝国)を建設。その初代皇帝に即位しますが、ブルガリア兵との戦闘中に消息を絶ちました。
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Comte' de Hainaut
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【エノー伯領(2)】マルグリット1世(在位1244−80:フランドル女伯としてマルハレータ2世、在位1244−78)以降。
ジャンヌの妹、マルグリット1世の紋章です。同君連合だったフランドル伯の紋章が加わりました。左上(と右下)に優位の紋章が描かれる決まりになっていますので、フランドル>エノーという序列なことが知られます。
マルグリット1世は2度結婚し、それぞれの結婚で生まれた息子達がフランドルとエノーを別々に相続したので、フランドルとエノーの合同は解消しました。
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Comte' de Hainaut
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【エノー伯領(3)】マルグリット2世(在位1345−56:ホラント女伯としてマルハレータ1世、在位1345−54)以降。
マルグリット2世は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世(在位1314−47)と結婚しました。ルートヴィヒ4世はヴィテルズバハ家の出身。それで、バイエルンの紋章が加わりました。
以後、エノー、ホラント、ゼーラントの3伯領はヴィテルズバハ家によって治められました。しかし、女伯ジャクリーヌ(ヤコバ:在位1417−33)がブルゴーニュ公との戦争(ネーデルラント継承戦争)に敗れたため、同家の支配は終わりました。
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Graafschap Holland
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【ホラント伯領】ヤン2世(在位1299−1304)以降。
1299年、エノー伯ジャン2世(マルグリット1世の息子:在位1257−1304)は、ホラント伯とゼーラント伯に即位すると、エノー伯の昔の紋章をホラントの紋章としました。
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Hertogdom Limburg
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【リンブルク(リンブルフ)公国(1)】1214−21年。
リンブルク公の世継ぎヴァルラム(3世)は、1214年にルクセンブルク女伯エルメシンドと結婚、ルクセンブルク伯に即位しました。この結婚を契機に、リンブルク公はルクセンブルク伯と同じ「銀地に赤いライオン」を紋章にしました。
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Hertogdom Limburg
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【リンブルク(リンブルフ)公国(2)】1221年以降。
この年リンブルク公を継承したヴァルラム3世は、リンブルクとルクセンブルクの君主となったので、紋章をルクセンブルク伯のライオンと同じ二股尾のライオンに変え、両国を一人の君主が治めていることを印象づけました。またこの際にライオンから冠を取り除きました。
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Hertogdom Limburg
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【リンブルク(リンブルフ)公国(3)】14世紀以降。
ライオンに再び冠が加えられました。以後、紋章に変更はありませんでした。
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Grafschaft Luxemburg
Ermesinde
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【ルクセンブルク伯領(1)】女伯エルメシンド(在位1226−47)まで。
銀地に王冠を被った二股尾の赤いライオン。
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Grafschaft Luxemburg
Heinrich V.
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【ルクセンブルク伯領(2)】ハインリヒ5世金髪伯(在位1247−81)以降。
ハインリヒ5世はエルメシンドとヴァルラム3世の息子。
リンブルクを継承しなかった彼は、紋章の地の盾を分割し、青地の盾と組み合わせました。最初は分割する数が不定で、4分割〜10分割とさまざまに描かれました。現在の10分割に定まったのは、15世紀の初頭、ヴェンツェル2世・ジギスムント兄弟(共に神聖ローマ皇帝に即位)の時代だそうです。
ジギスムントは神聖ローマ帝国の紋章を「双頭の鷲」に変えた皇帝です。
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Grafschaft Luxemburg
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【ルクセンブルク伯領(3)】
盾の分割数と同じく、ライオンの冠が省かれた紋章も使われました。しかし、いずれの紋章も、ライオンの尾は二本で、舌も爪も身体と同じく赤色で描かれました。
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Grafschaft Luxemburg
Heinrich VI.
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【ルクセンブルク伯領(4)】ハインリヒ6世(在位1281−88)。
盾地の分割数が定まらなかった時代の紋章です。
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Herzogtum Luxemburg
Wenzel I.
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【ルクセンブルク公国】1354年頃。
ボヘミア王国、ブラバント公国、ルクセンブルクの組み合わせ。
ルクセンブルク初代公ヴェンツェル1世(在位1354−80:ブラバント公1355−80)の紋章です。
ボヘミアの紋章は、ヴェンツェル1世の父ヨハン盲目王がボヘミア王に即位し王国がルクセンブルク伯家の領土となったため。ブラバントの紋章は、彼がブラバント公の世継ぎヨアンナと結婚していたことによります。ルクセンブルク公即位の翌年には、ヴェンツェル1世も妻の共同君主としてブラバント公に即位しました。
この当時、ルクセンブルクの盾地の分割は6でした。
→ボヘミア王国
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Herzogtum Luxemburg
Wenzel II.
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【ルクセンブルク公国】ヴェンツェル2世(在位1382−88、1411−12年)。
中央の小盾は、神聖ローマ帝国の鷲の紋章です。
神聖ローマ王(在位1378−1400)とボヘミア王(在位1378−1419)を兼ねました。活動の拠点はボヘミアにあったため、ルクセンブルクの統治にはほとんど関心を示さず、ルクセンブルクに赴いたのは二回だけだったそうです。
ルクセンブルクを軽視したヴェンツェル2世は、資金調達のため公国を一族のヨプストに質入れしてしまいました。
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Herzogtum Luxemburg
Jobst
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【ルクセンブルク公国】ヨプスト(抵当公1388−1402、1407−11年)。
モラヴィアの紋章との組み合わせ。
1388年、ヴェンツェル2世は一族のモラヴィア辺境伯ヨプストに、ルクセンブルク公国を質入れしました。
公国の抵当権を獲得したヨプストは、それを根拠とした事実上のルクセンブルク公になり、以後、1457年まで、ルクセンブルクはいわゆる「抵当物件」時代に入ります。
ヨプストは1402年にルクセンブルクをオルレアン公ルイに質入れして公国を手放しますが、オルレアン公が暗殺されたため公国の質権を買い戻します。
ヨプストは1410年にローマ王(神聖ローマ皇帝)に選出されるものの、在位3ヶ月で死去(1411年)。公国は主権保持者ヴェンツェル2世の姪エリーザベト(抵当女公1412−51)に質入れされました。
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Herzogtum Luxemburg
Antoine de Bourgogne
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【ルクセンブルク公国】アントワーヌ(抵当公1412−15年)。
中央の小盾は、ブラバント=リンブルク公の紋章です。
ブラバント公アントワーヌは、1409年に神聖ローマ王ヴェンツェルの姪エリーザベトと再婚したため、1412年にルクセンブルクの抵当権がエリーザベトに与えられると、妻の共同君主としてルクセンブルク抵当公に即位し、自身の領国とあわせて広範な領域を支配しました。
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Herzogtum Luxemburg
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【ルクセンブルク公国】15世紀以降。
舌と爪、冠が金色に置き換えられました。
この紋章は1898年まで使われました。
ルクセンブルク伯領は1354年に公国に昇格しました。
ルクセンブルク家は15世紀に断絶し、公国はブルゴーニュ家、次いでハプスブルク家の領土となりました。
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Grossherzogtum Luxemburg
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【ルクセンブルク大公国】1898年まで。
1815年のウィーン会議によって大公国に昇格したルクセンブルクは、オランダ王の個人所有地扱いでした。
1890年にオランダでウィルヘルミナ女王が即位すると、女子継承を認めないルクセンブルクはオランダ王家の親戚、ナッサウ=ヴァイルブルク家の当主アドルフ1世(旧ナッサウ公国君主)を大公に迎えました。
ルクセンブルクが女性君主を認めなくなったのは、大公国が成立した時から。しかし、ギヨーム1世(在位1905−1911)の時に女子継承が認められ、マリー・アデライード、シャルロッテ姉妹が相次いで女大公に即位しました。
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Grossherzogtum Luxemburg
Grand-Duche' de Luxembourg
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【ルクセンブルク大公国】1898年以降。
金色の木札模様(ピリッツ)を配した青地の盾に舌と爪が赤、冠と胴体が金色のライオンは、ナッサウ公の紋章。
アアドルフ1世(在位1890−1905)が制定しました。現在の大公国の紋章です。
アドルフ1世はナッサウ公国の君主でしたので、大公国の大紋章は、出身家ナッサウ=ヴァイルブルク家の紋章の中央に左の紋章盾が組まれます。
なお、現大公ジャン1世(在位1964−)の個人紋は、父の実家である、ブルボン=パルマ家の紋章を中央に加えるそうです。
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Marquisat de Namur
Markgrafschaft Namur
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【ナミュール辺境伯領】1195年。
フランドルの紋章に赤い斜め帯。
908年頃伯領として成立したナミュールは、1184年に辺境伯の地位を獲得しました。
エノー伯ボードアン5世(兼フランドル伯)の息子で1195年にナミュールを相続したフィリップ1世(在位1195−1212)は、実家フランドル伯家の紋章に斜め帯を加えたものを使っていたので、この紋章がナミュールの紋章と定まりました。
なお、フィリップ1世の跡を継いだ娘ヨランド(在位1212−17)は、1217年にラテン(コンスタンティノープル)女帝に即位します。
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Marquisat de Namur
Markgrafschaft Namur
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【ナミュール辺境伯領】14世紀以降。
ライオンに冠が加えられました。
13世紀半ば以降ナミュールを統治していたダンピエール家(新たにフランドル伯となった家系)は、ジャン3世(在位1418−1429)の代で途絶。ジャン3世は1420年にブルゴーニュ公フィリップに死後譲渡の契約で領土を売却し、ブルゴーニュ公国に組み込まれました。
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Herzogtum Burgund
Maximilian I.
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【ブルゴーニュ公国】1482年−92年。
ヴァロア=ブルゴーニュ家の紋章とオーストリアが組み合わせられ、両家の合同が表現されています。
1477年のシャルル豪胆公の戦死後、アパナージュ以外のブルゴーニュ家の領土は、豪胆公の娘マリーと、その夫オーストリア大公マクシミリアンが継承しました。
この紋章は息子フィリップ美公の摂政を務めたマクシミリアン(のちの皇帝)が使用しました。
→ブルゴーニュ
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Herzogtum Burgund
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【ブルゴーニュ公国】フィリップ美公以降。
オーストリアの紋章が加わり、オーストリア大公冠が載せられました。
女公マリーの死後、息子のフィリップ美公(在位1482−1506:スペイン王としてフェリペ1世:在位1504−06)が即位し、ハプスブルク家による統治が開始されました。
この紋章はスペイン王フェリペ2世(在位1556−98)の1580年代まで使用されたようです。
なお、スペイン王の紋章はカール5世(カルロス1世)の時代から併用され、フェリペ2世の治世後半で完全に切り替わります。紋章の上でもブルゴーニュ公国からスペイン領ネーデルラントへの移行が完了します。
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Herzogtum Burgund
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【ブルゴーニュ公国】フィリップ美公以降(2)。
中央の小盾にティロル伯領の紋章が加わりました。
1496年のハプスブルク=ティロル伯家断絶によって、全ハプスブルク家領がマクシミリアン1世によって統一されました。ティロルの紋章はそれを受けて加えられたようです。
ブルゴーニュ(ネーデルラント)では、ティロルが省略された紋章も併行して用いられましたが、こちらが正式な紋章です。この紋章はスペイン王の紋章にも取り入れられました。
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Spanische Niederlanden
Philipp I. und Karl I.
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【スペイン領ネーデルラント】1530年頃まで。
スペイン王とブルゴーニュ公の組み合わせ。フィリップ美公のカスティーリャ共治王即位からカール5世の治世前半に用いられました。
ブルゴーニュ公フィリップ美公は妃ファナと共にカスティーリャの共治王に即位し、スペインにハプスブルク王朝を開きました(1504年)。彼はその2年後に急死したため、カスティーリャ王位とブルゴーニュ公位は、長男カール(のちの神聖ローマ皇帝兼スペイン王)が継承しました。
なお、実際にブルゴーニュを統治していたのはカールの叔母マルガレーテ(在任1506−16、1519−30)で、彼女の死後にブルゴーニュは統治機構の根本的改造が行われ、スペイン領ネーデルラントへと移行します。
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Spanische Niederlanden
Maria
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【スペイン領ネーデルラント】総督マリア(在位1530−58)。
菱形の盾地を二分し、ハンガリー、スペイン両王国の紋章を組んでいます。菱形の紋章盾は女性が使います(例外もあります)。
ハンガリーの紋章はマリアの夫ラヨシュ2世のもの。スペインはマリアの実家で、上半分がカスティーリャ&レオンとアラゴン&シチリア、下半分がブルゴーニュの組み合わせです。
マリアはカール5世の妹でブリュッセルの生まれ。ハンガリー王ラヨシュ2世に嫁ぎますが、夫が対トルコ戦で戦死すると実家に戻りました。
1530年にネーデルラント総督だった叔母マルガレーテが没すると、兄カール5世によって新総督に任命されました。
→ハンガリー
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Spanische Niederlanden
Arbrecht und Isabel
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【スペイン領ネーデルラント】総督アルブレヒト&イザベル(在位1595−1633)。
スペインの紋章にハンガリーが加わった構成です。ハンガリーはアルブレヒトの実家、オーストリア=ハプスブルク家を表します。
1598年、スペイン王フェリペ2世は王女イザベルにネーデルラントの統治権を与え、ネーデルラントを形式上独立国家にしました。イザベルはいとこでネーデルラント総督のアルブレヒト(在職1595−1621)と結婚し、夫妻は賢明な統治を行います。アルブレヒトは交戦状態だった北部ネーデルラント(オランダ)やフランスとの和平を実現し、アルブレヒトが没した1321年以降はイザベルがその政策を継続しました。
しかし、オランダとの休戦期間終了と三十年戦争の勃発により、再び戦乱がネーデルラントを襲います。そのさなかのイザベルの死は、事態をさらなる混迷の淵へと投げ込みました。
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Oesterreichsche
Niederlanden
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【オーストリア領ネーデルラント】マリア・テレジアまで。
スペイン継承戦争の結果、スペイン領ネーデルラント諸領はオーストリア=ハプスブルク家が相続しました。
この紋章は同家のネーデルラント(ベネルクス地域)の統治の際に使われました。
ヨーゼフ2世からは左半分がオーストリアとロートリンゲンの組み合わせに変わります。(下参照)
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オーストリア領ネーデルラントの金貨に描かれた紋章。1786年発行のソヴレイン・ドール金貨。
オーストリア大公&ロートリンゲン公/ブルゴーニュ公という組み合わせです。
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Hochstift Utrecht
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【ユトレヒト司教領】
赤地に白の十字。
13世紀から司教の紋章として使われたそうです。
791年に設置された司教座を中心として発展した司教領で、現在のユトレヒト州とヘルデルラント州がその領土でした。
1024年に神聖ローマ帝国の聖職諸侯となりますが、1528年にホラント伯(=皇帝カール5世)の宗主化に置かれてその地位を喪失、その後ほどなく世俗化されました。
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Hochstift Utrecht
David
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【ユトレヒト司教領】ダーヴィット(在位1457−96)
司教の実家ブルゴーニュ家の紋章との組み合わせ。
司教はブルゴーニュ公フィリップ善良公の息子で、ネーデルラント地方の掌握をめざす父の思惑で送り込まれたと思われます。
ブルゴーニュ公家出身者では、ダーヴィットの異母弟フィリップもユトレヒト司教に就任しました(在位1516−1524)。
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Provincie Utrecht
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【ユトレヒト州】
中央の小盾はユトレヒト市。背後の盾はユトレヒト司教領とホラント伯の組み合わせ。
ホラントの紋章は司教領がホラント伯の宗主下に置かれた時に組まれ、ユトレヒト市の紋章は18世紀になってから加えられました。
スペイン王フェリペ2世の統治に反発したネーデルラント諸州は独立運動を開始し、ユトレヒトもこれに参加しました。
1579年にカトリック色の強い南部諸州がアラス同盟を結成して脱落すると、これに危機感を覚えた北部七州はユトレヒトに代表者を参集させ、ユトレヒト同盟を結成します。同盟はウィレム沈黙公の指導の下、1581年にハーグでスペインに臣従しないことを宣言します。
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Graafschap Zeeland
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【ゼーラント伯領】
ホラント伯のライオンが紋章に採用されました。
ゼーラントはホラント伯とフランドル伯の影響下にあり、ホラント伯がゼーラント伯を兼ねていました。
紋章の下半分は海を表します。ゼーラントはライン川三角州の先にある島々で構成される領土ということを説明しています。
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