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dog biscuit
Mr.N'CineCritique
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#13「マルホランド・ドライブ」

生存のための時から時へのダイブ

 デビッド・リンチの映画を真面目に「見よう」とする者は、いろいろと深読みをして意味探しをするのかもしれない。けれども、彼の映画をそのように「見ること」が、どうも正しいこととは思えない。決して答えの出ない謎解きをすることに、はたして意義があるのだろうか。この映画の内容を納得しようと懸命に細部を探るより、むしろ頭をニュートラルにして、映画をまるごと「体験する」べきだと思うのだ。
 リンチの作る物語は、スタンダードな映画と違って、予定調和的に効率よく進行することはあり得ない。きわめてショッキングな描写を重ねながらも、それをショックとして提示するのでなく、緩慢な時間の中に畳み込みながら、ねっとりとドラマを進行させる。その独特のタッチは、観客の意識を自分自身から引きはがし、自らを相対化することを強いて、自分の中のもう一人の自分と向き合わせようとするのである。

 この映画のヒロイン、ナオミ・ワッツは、無意識の中で様々な人格が交錯し、それと共にいくつもの異なる次元と次元の間を行き来する。それを単に多重人格的と言えば言えるのかもしれないが、それをある種の症例として、個人へとフィードバックされる訳ではない。もしもそうであるなら、ヒロインのトラウマが描かれるはずだが、ワッツが演じる人物にそのような影はかけらもない。リンチのアプローチは、彼女という素材を使って、平安な人格の裏にひそむ、誰しもが持つ不可知な、あるいは暗黒的な意識の層を腑分けしていくかのようなのだ。(その意味で、キュートでイノセントなイメージの裏に、病を隠蔽した50年代アメリカのモチーフが頻出するのも故なきことではない。)
 おそらくデビッド・リンチにとって、人間の表層などおよそ信用できるものではなく、その裏に潜む不可視な無意識を、盛んに可視的なものに変えようとしているのだと思う。たとえば、そうした全てのものの象徴として最初に登場したのが、『ツイン・ピークス』(1989〜91)の悪の象徴、キラー・ボブに違いない。
 こうした不可知の意識の中で、複数の自分にとってのそれぞれの時間が流れており、どの時間軸が表面に浮上するかは、あくまで他者との関係によって変化する。実際、ワッツは相手次第で、清純な美女から奔放なセックスマニアにまで、様々に変貌を遂げるのだ。

 デビッド・リンチにあって、時間とは決してまっすぐに進む単一のものではなく、それらは意識下の別々の次元で平行にせめぎあっており、しかもそれぞれ異なるスピードで流れるものだ。1つの時間軸からもう1つの時間軸へのジャンプ、その不断の連続にこそ生が宿っており、その契機となるものがセックスであり、暴力なのである。
 時間の流れをせきとめて、観客の意識を不意に漂流させる映画技法といえば、真っ先に思い出すのがスローモーションである。そして、この手法に最もなじむ描写といえば、セックスとバイオレンスではないか。映画において(あるいは現実でもそうなのかもしれないが)この2つの行為ほど、意識を撹拌させ、時空をねじ曲げる行為は他にない。
 時間がねじれることなく、時計通りにまっすぐと物語が進行した唯一のデビッド・リンチの作品『ストレイト・ストーリー』(1999)では、セックスと暴力が描かれることはなかった。それはつまり、描かれた主体にとっての時間が、もしもまっすぐ単一に流れていくとすれば、それは間違いなく死に至る道だということだ。
 生きのびるためには、時間から時間へのいくつものジャンプを不断に繰り返さねばならない。リンチがカンヌで栄冠を獲得した『ワイルド・アット・ハート』(1989)のカップルは、生き残るためにどれだけの性と暴力の地獄に耐えなければならなかっただろうか!

 『マルホランド・ドライブ』のナオミ・ワッツ、またはその分身としての黒髪の美女ローラ・エレナ・ヘリングは、限りなく死に接近しながらも、時間から時間へ、または人格から人格へのダイビングを重ねて生を持続させていく。清楚なイメージを振りまくナオミ・ワッツが、不意に激しいベッドシーンを展開するなど、本当に驚かされる。けれども、彼女のように、時と時の間を自由に往還し、そのダイブのさなかで性と暴力に耐えることが、生存のカギであることを知る者こそ、リンチ的なヒロイン足りうるのである。(『ブルー・ベルベット』(1985)のイザベラ・ロッセリーニ、『ワイルド・アット・ハート』のローラ・ダーンをわざわざ持ち出すまでもないだろう。)
 女優志願のワッツが映画のオーディションに臨む場面で、うぶで少女じみた容姿の彼女が、与えられたシナリオを演じながら、やがてセックス紙一重の愛欲シーンにまで役柄を展開させてしまう。人格がどんどん変容していき、ある種の狂気に至る様を長大な長回しで撮ったこのシーンは、その前後とはまったく別種の時間が流れており、その濃密さに思わず息を飲む。考えてみると、時から時へ、または人格から人格へのジャンプのために、そして性と暴力に最もさらされうるという意味で、女優ほど的確な職業もないだろう。

 繰り返しになるが、この映画の醍醐味は「見る」ことになどあるのでなく、その映画時間を「体験する」ことにある。物欲しげに映画から何かを読み取ろうとせずに、だらだらと抑揚なく目の前に展開される映像にそのまま身を委ねてしまう。すると、自分の中の正常な時間感覚がゆっくりと狂わされていくのを感じるだろう。
 自己を支える地盤は極めてもろく、いま自分が在ると思っている場所など、真っ先に疑ってかからねばならない。『マルホランド・ドライブ』は根拠なき確信の土台にゆさぶりをかけてくる。この映画の核心はそこにある。
(2002:4.4)

eriko's Notes : 「マルホランド・ドライブをドライブするのが好きだよ」と、以前カイル・マクラクランが話してました。(もちろん、直接聞いたわけではありませんが)それから何年も経って、デビッド・リンチの作品でこの名前に再会するとは。私は残念ながら未見なのですが、リンチの作品なので必ず見たいと思います。


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