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dog biscuit
Mr.N'CineCritique
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#11「ムーラン・ルージュ!」

脱がさぬことの倫理

 スタンリー・キューブリックは、遺作『アイズ・ワイド・シャット』(1999)において、ニコール・キッドマンの肉体の美しさを表現するのに、彼女に非常に大胆なヌード・シーンを求め、男女のエロスを示すために成人指定となるほどの描写を行った。
 一方、本作『ムーラン・ルージュ』で、同じくニコール・キッドマンを主演に得たバズ・ラーマン監督は、このむせかえるようなエロチシズムを表現するために、ついに彼女の服を脱がさなかった。世紀末パリの最高級娼婦として、キッドマンはまさにこの世のものとは思えぬ、天上の色香をふりまかねばならないし、この映画の成否は、それをどれだけ強く出せるかにかかっていたはずだ。演出プランをたてる上で、ラーマンがどれだけキューブリックを意識したか、それはわからない。(なぜそのことを誰もインタビューしないのだろう?)しかし、監督にとってこれは大変なチャレンジだったろうし、セクシーな女優を使えばそれが表現できるほど映画は甘くない。(スクリーンでのシャーリーズ・セロンの冴えのなさを見よ!)けれどもラーマンはそれに見事に成功する。

 猥雑なダンスホールの音楽が静まり、一斉に上を見る男達。どっと降り注ぐガラスの破片。そしてブランコに乗って天井から降りてくるキッドマン。噂の娼婦たる彼女が、最初に登場するシーンだが、監督にとってはここが生死の分かれ目、命のかけ所。ここで私たち観客は、一発でキッドマンに恋をしなければならないのだ。それができなければ、こんなにも騒々しく、極端にエネルギッシュなこの映画に、とても最後まで付き合う気にはなれない。まったくこんな決定的な瞬間に立ち会うためにこそ、映画館に繰り返し足を運ぶのではないだろうか。まさに固唾を飲んで見るべきシーンである。
 大変なスリルの中で、キッドマンが登場し、いよいよ彼女の顔がアップでとらえられる。濃い白塗りのメイクの奥にくっきりと瞳が輝き、真っ赤な唇の奥に真っ白な歯がこぼれ、そのまわりをピンクの舌先がうごめいている。あまりにも完璧。演技、アングル、ライティングのすべてが洗練の極み。凍りつくような戦慄すべき、しかもワイセツきわまりないショットである。この瞬間、バズ・ラーマンは少なくともニコール・キッドマンという素材の扱いにおいて、キューブリックを超えた。そして映画が終了するまで、一瞬たりとも途切れることなく、彼女のエロスが全編を覆い尽くすのだ。

 この映画におけるバズ・ラーマンの、確固としてびくとも動かぬ信念は、「顔」のもつ力である。余白を残そうという意思などかけらもなく、画面の隅から隅までを色彩と物で埋め尽くそうとする、この監督のほとんど倒錯的ともいえる感覚において、最上位概念はまちがいなく、俳優の顔ではないか。ここぞというシーンにおいて、画面が占めるのは、ただ顔だけなのである。キッドマンもさることながら、ユアン・マクレガーの顔をこれほどじっくりと眺めたのは、(眺める気になったのは)初めてのような気がする。けれど、それはTVドラマのように、いたずらにアップを多用するのとは近くて遠い。『ムーラン・ルージュ』の、あわただしくもダイナミックなカメラは、全体から高速で接近し、また接近したカメラはさらに彼方へと飛翔する、近と遠の距離幅、そしてスピードが圧倒的なのだ。パリの俯瞰から、見つめ合う2人へと一気に移動するカメラのダイナミズムは圧巻である。全体を見渡すカメラが不意に1つ(または2つ)の顔を選び出し、くらいつく。この映画の肉食獣のようなカメラは、もっとも美味い対象を探し求め、それを探り当てると、それをなめつくすのだ。この映画が映し出す顔のエロスの理由はそこにある。
 それは『ピアノ・レッスン』(1993)のジェーン・カンピオンが、やはりキッドマンを主演に撮った『ある貴婦人の肖像』(1996)が、傑作ながらも今一歩届かなかった次元であるし、アラン・パーカーの、ほとんどケチのつけられない演出ぶりにもかかわらず、官能性のかけらも漂わなかった『エビータ』(1996)のマドンナなら嫉妬に狂うだろう。演出家のセンスと女優の才能の幸せな出会いである。何より、撮る側も撮られる側も、この上なくノッているという印象がすばらしい。

 こうして撮った顔をいかに見せるかにつき、最後に必要なこと。それはたった1つ、顔が見つめ合うことに他ならない。キッドマンとマクレガーはどれだけの時間、目と目を見交わしていたのだろうか。一組の目の彼方には、その視線を受け止めるもう一組の目が必ず必要とされる。公爵にレイプされようとするキッドマンが、それを回避できたのは、窓越しにマクレガーの視線を得たから以外の他に何だろうか。
 この映画はなるほど、たしかにオモチャ箱をひっくり返したように、にぎやかで落ち着きがなく、猥雑きわまりない映画である。けれども、美しいものを正しく美しくとらえるという点で、そこに確かな品位がある。『ムーラン・ルージュ』を評する声の多くは、この圧倒的なテンションや、奇想天外な音楽を語ることに終始するだろうが、バズ・ラーマンが一本貫いた倫理を忘れることがあってはならないように思う。この演出においては、キッドマンの裸身を見せる必要などいささかもない。なまじそれを見せてしまったら、この映画がまとったファンタジーは消滅し、途端に中途半端なリアリズムを形成して、すべてをぶち壊してしまうだろう。それがバズ・ラーマンの聡明な計算であり、倫理である。
 それにしてもニコール・キッドマン。映画スターとして、女優として、とにかく壮絶なまでにすごくなってきた。
(2001:12.30)

eriko's Notes : 私は残念ながら未見なのですが、N氏の文章を読んでいるうちに無性に観に行きたくなってきました。個人的にはロートレックがどのように描かれているかというのも気になります。

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 作品がアカデミー賞候補(8部門)になったことと、受賞(2部門)したことで、劇場を変えながら、今も上映が続いているようです。おかげで、私もようやく観ることができました。
 物語の語りべは、ジョン・レグイザモ演じるトゥールーズ・ロートレック。そのロートレックが描いた絵から抜け出てきたようなけばけばしい登場人物の中で、悲恋のカップル、キッドマンとマクレガーはひときわピュアに映ります。サティーンとクリスチャンのキャラクターをよく表す二人の声質、それと歌唱力に拍手です。恋を歌う二人の超クローズアップ
で見えてくるもの、それは二人の真実の愛です。いわゆる胸キュン状態に何度もさせられてしまうのです。単純明快なストーリー、ドラマチックな演出、そしてお色直しをして流れてくる耳なじみのある数々のポップミュージックも手伝って、観ている方も高揚感を持ったまま物語の終わりまでいられたのだと思います。
 これまでとは違う面を演じてみせた、女優ニコール・キッドマンのこれからが楽しみになりました。でもユアン・マクレガーには、軽々しくおバカなCM(某英会話教室)に出て欲しくないなあ。なんだって、あこがれのオビ=ワン・ケノービなんですもの。
(2002:4.7)


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