普通、ロック・ミュージックを聴く時っていうのは、リズムに合わせて頭や手足を揺すっているものだ。けれどヘッドフォンをあてて、身じろぎもせずに聞く奴は初めて見た。しかも涙目で。『ハイ・フィデリティ』の主人公ロブはそういう男である。
30半ばの彼は、口うるさい2人のロック・オタクの友人を店員に、中古レコード店を経営している。女性にはフラれ続けで、今日も別れた彼女のことをぼやいている。ジョン・キューザックが共感たっぷりに演じるこの人物は、どこまでも煮えきらぬ奴で、思ったことを直ちに口にできない、実行できない、言い訳ばかり、の3拍子ぞろい。自分の彼女を寝取った男(ティム・ロビンスのカメオ出演!)が店を訪ねてきた時も、彼をボコボコにするものの、それはすべて頭の中だけ。結局は手出しできず、(何度もリピートされる流血マッチは抱腹絶倒!)それどころか、結局はストーカーになり下がる。また、彼女に捨てられた腹いせに、なぜかレコード整理を始めるが、並べ方はABC順でも何でもなく、「ぼくの年代順」という「手の込んだ」やり方で、とにかくとことんみみっちい。
『ハイ・フィデリティ』は、そんなロブが本当の生き方や愛を見つける(?)までの七転八倒で、キューザックが精一杯がんばって表現している。何をがんばっているかというと、セリフのかなりの量が、スクリーンに向かって話されるものであることだ。こうした観客に向けてのモノローグは、よっぽど面白い内容を、面白く、しかもわかりやすく語らないと飽きるし、観客への語りかけと、劇中人物に対するそれとの切り替えをしくじると映画が分裂してしまう。キューザック自身も「怖かったよ。大成功か大コケするか二つに一つだからね。…ああいうときはカメラに親友として接しないとならない」と語っている通りだ。(日本版『プレミア』3月号)
観客への語りかけの天才といえば、言うまでもなくウディ・アレンだろう。実際、頭でっかちでコンプレックスにまみれた(けれど口で言うほど女性に不自由していない)ロブという人物像は、アレンが自作自演してきた人物とそっくりだ。アレンの『ブロードウェイと銃弾』に出演経験のあるキューザックが、演技プランを練る際にウディ・アレンを意識しても不思議はない。映画が始まって早々に語られる、「ぼくはロックを聴くからみじめなのか、みじめだからロックを聴くのか…」というセリフは、忘れがたい印象を残す。この「〜だから」という部分を、「ユダヤ人だから」とか「詩を読むから」とかに変えてみると、即ウディ・アレン作品のセリフになってしまいそうだ。ただ哀しいかな(?)ジョン・キューザックはウディ・アレンの数百倍ハンサムだけど。
ただし、これらのセリフはイギリスのベストセラー作家ニック・ホーンビィの原作小説にすべて書かれている。(邦訳:新潮文庫)(映画は舞台をロンドンからシカゴに変えている。ちなみにキューザックの生まれはシカゴ)饒舌で皮肉に満ちた、面白すぎるこの本の言葉を、脚本も共同担当するキューザックは、可能な限りシナリオに残そうとしている。最大限にしゃべり続けるための最良の手段といえば、観客への語りかけに違いない。
映画はもちろん原作をいろいろと脚色しているわけだが、映画ならではと思わされるのは、「ブルース・スプリングスティーンだったらどんな歌にするだろうか」というモノローグに対して、本物のボスがカメオ出演して、本当に歌ってしまうところ。こういうのはうれしいサービスだ。ちなみに、本人もかなりのロック・マニアで、選曲にも携わったというキューザックも、劇中で語られる楽曲についてはほとんど原作をいじっていないようだ。まあ本格的なロック好きの趣味は、そうそうブレるものではないということか。
また、ウディ・アレンの映画がそうであるように、この映画は主演者ばかりが光っているわけではない。特に「自分より知識のない奴、つまり、自分以外の全員をバカにする」ごう慢なロック・オタクの店員、バリーを演じるジャック・ブラックは抱腹絶倒の助演ぶり。実は見ていて一番面白いのはこの男だ。
『危険な関係』『グリフターズ 詐欺師たち』などの傑作を残しつつも、どうも作風が安定せずに損をしている、監督のスティーブン・フリアーズは、今回は裏方に徹した演出だが、モノローグやら回想やら妄想やらと、意外とややこしいシナリオをシャープにまとめあげるのに、たくみな采配をふるっている。
ロックでも映画でも、そこに埋没しすぎると、どうにも大人になりきれないもので、そんな共感がキーになっている映画である。なので、テニスとかスキーとか、スポーツが大好きな人は、この映画がさっぱりわからないかもしれない。
(2001:4.21)