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dog biscuit
Mr.N'CineCritique
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#09「ゴーストワールド」

旅立ちはバスに乗って…

 見る前は、たとえば『バッファロー66』(1998)のような、いわゆる渋谷系のハートのないキザな映画かなと、少し腰が重かったのだけど、これはうれしく予想を裏切られる作品だった。大人になりきれないティーンの青春物という、それ自体は決して珍しくないテーマではあるものの、ここには監督であるテリー・ツワイゴフの趣味がぎっしりと詰め込まれている。キャラのファッションや音楽、そして室内装飾に至るまで、監督の生理が息づいており、こうした映画は必ずいいものになる。商業性とは遠く離れた、作り手自身の傷もすべてさらけ出したような誠実さを、ぷんぷんと感じるのだ。

 イーニド(ソーラ・バーチ)とレベッカ(スカーレット・ヨハンスン)は親友同士。今日はいよいよハイスクールの卒業式だが、2人はせいせいしているし、何より良識ぶったアホな同級生たちにはうんざりだ。これでようやく、うざったい親からも独立して、ハッピーに暮らせると思っている。
 この辺を描写する最初の30分は快調そのもの。つくづく思うが、映画の中でイライラしている人物をはたから眺めるというのは、ビル・マーレイから、果てはドナルド・ダックまで、どうしてこんなに面白いのだろう! そんな2人が最悪にしょぼいオタクな中年レコードコレクター、シーモア(スティーブ・ブシェミ)と、知り合うようになる。そんな彼にはささやかな自慢があって、自宅の部屋の奥に、誰にも入れない自分だけの部屋を持ち、そこに古いブルースのレコードをはじめ、いろんなガラクタ、けれど彼にとっては貴重な、要するにオタクな品の数々をそろえているのだ。このブシェミが、相変わらず絶妙の演技で、ドラマ(と笑い)を大いに盛り上げてくれる。
 このあたりから、物語は複雑になっていって、イーニドとシーモアとのやりとりを縦糸、どうしても世の中になじめず人生に不器用なイーニドの憂鬱を横糸に、話は進行する。
 何をやらせてもうまくいかないイーニド。なるほど、彼女がシネコンの映画館でポップコーン売りのバイトを始めたものの、憎まれ口ばかりたたいて接客する場面などは、なかなかの笑いどころである。けれども「どうしてまともに売れないんだ!」とインストラクターにどなられる彼女の目は「どうしてまともに売ったりなんてできるのよ」と言わんばかりで、ここにかすかなペーソスも混じり始める。

 この映画から伝わってくるのは、マイナーな存在であり続けることの困難さだ。たとえばマライア・キャリーの歌を聞き、マクドナルドで食事をし、スターバックスでコーヒーを飲むような、資本主義的(アメリカ的?)メジャーなるものは、まるでウィルスのように生活に進入してくる。そのウィルスから身を守るためには、シーモアのように、自分の部屋のそのまた奥に、1人だけの部屋を作って、何人たりとも入れないようにしなければならない。他人を入れてしまえば、たとえそれがイーニドであっても、メジャーなるもの(たとえば彼にとっての平凡な恋人)はたちまち入り込んできて、聖域は崩れてしまう。そのウィルスは人を殺すことがないために、というか、かえって生かしてくれるために、ますます蔓延し世界に広まってゆく。
 イーニドはマイナーたる自分をかたくなに守ろうとする。これは他人と同じでいないための、真摯な戦いなのだ。その過程で、親友だったレベッカとも、反りがあわなくなってくる。レベッカは、マイナーであり続けるためには、ある程度の主流との妥協はやむなしと考える分別があり、その分どこかメジャー指向だ。イーニドが好感を持つオタク男、シーモアに対する興味など、彼女には皆無である。それに、壁にあつらえた収納式のアイロン台(?)を自慢してしまうようなスキすらある。この子はそのうち普通のおばさんになってしまうかもしれないという予感が見え隠れする。2人の決定的なすれ違いを示す、ツワイゴフ監督のこうした描写の冴えは抜群だが、それ以上に、やはりこの子とは一緒に住めないという表情を、ありありと浮かべることのできる、バーチの演技も絶妙だ。イーニドの鬱屈が増すにつれて、レベッカの出番が少なくなるのはやや残念だけど、我々もイーニドの心の旅を共にするためには、やむを得ない展開だったかもしれない。

 この映画を観ていてふと思い出すのは、あの懐かしい『セントエルモス・ファイアー』(1985)だ。あの作品も、カレッジを出たばかりで、大人になりきれない同級生達7人の中途半端な気持ちを、繊細極まりないタッチで描いた大傑作で、ここではどうしても社会に折り合えない人物をロブ・ロウが演じていた。
 彼は、仲間たちの温かい眼差しに見送られて、バスで旅立つことができたが、イーニドは誰にも見送られることなく、たった一人でバスに乗る。ブルーの照明に彩られたこの幻想的な場面は、ひときわ胸に残る。『セントエルモス・ファイアー』の80年代半ばは、モラトリアムの時代で、自分の殻にこもることを許してもらえた。シーモアはもしかしたら、希望を胸に旅立って行ったロブ・ロウのなれの果てではないか、と想像を広げることも楽しいかもしれない。けれどもあれから15年あまり。ボーダーレスかつグローバルな21世紀においては、イーニドのような少女が生きる場所はどこにもない。だから、イーニドはイーニドでいられる場所を探すためバスに乗る。乗ったバスが幻想である以上、その行き先も幻想である。今を生きることの困難を鮮烈に切り取った、完璧な一瞬という他ない。
(2001:9.17)

eriko's Notes : 今回はくやしいけれど、私、未見です。劇場公開終了までに観ることができれば、ここに書きますね。


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